タッキーの観てきた!クチコミ一覧

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凪のように穏やかに

凪のように穏やかに

雀組ホエールズ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2022/02/17 (木) ~ 2022/02/21 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

観応え十分。
東日本大震災から11年を迎えようとしている。癒えない傷を負った人々に寄り添うように紡いだ物語。表層的には明るく元気に思えるが、けっして上っ面だけを描いているわけではなく、人の心の奥底に溜まった澱を落とすような清々しさを覚える。

物語としての展開はあるが、描かれているのは「人間」である。直接被災した人、直接被災はしないがその関係者、そして現地(東北地方)から遠く離れ、TV等の情報で惨状を知った人々。受け止め方の濃淡は違うが、それぞれの思いの中に辛さが残った。人が持つ感情は複雑、それを綺麗事ではなく、自分に向き合うことによって前進させる。そんな前向きで優しさに溢れた公演。最大の魅力は、被災した人、その人を見守る人、その建前と本音、もしくはどう接し対応すべきか分からないといった内面(心の襞)を撫でるように表現する。しかし、更に心の奥を見詰める自分自身。二律という難しい理屈ではなく、自問自答という苦悩する心を隠すような(日常の)健気な姿。感情の落差に心が揺さぶられる。その様子は全ての登場人物に負わせるのではなく、特定の人物にすることで深刻に追い詰めない上手さ。そして小学生の子供の目を通して敏感に察せられるという切っ掛け作りも巧みだ。
舞台美術がシンプルなだけに演技による感情表現ーー役者の演技力は素晴らしい。
そしてラストに明かされる衝撃の事実とは…ぜひ劇場で観ることをお薦めする。
(上演時間1時間45分 途中休憩なし)追記予定

TEA FOR TWO 二人でお茶を

TEA FOR TWO 二人でお茶を

はこてく

APOCシアター(東京都)

2022/02/18 (金) ~ 2022/02/21 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

少し笑って軽くするような生と性の物語。
啓発・啓蒙劇or商業演劇なのか、または両方を狙ったか? 脚本、演技は素晴らしいが、演出は細工(解説)のしすぎではないか。
「LGBTQ」という性少数者、そのうちゲイ(男性同性愛者」の1980年から2005年までの25年間を5年毎に6場で描いた会話劇。何となく、バーナード・スレイド「セイム・タイム、ネクスト・イヤー」を連想する。こちらは男女の不倫、アメリカ・カリフォルニアのコテージの一室、時期は1950年代初頭からの四半世紀。

公演は、セクシャルマイノリティをテーマにしているが、単にその関係性だけを描いておらず、場面(時代)に応じて、2人のうちのどちらかに焦点を当て、心境の変化等を表現している。それぞれの心境変化を交錯または衝突させゲイの性癖を浮き彫りにする。時に嫉妬や誤解等、同性愛に限らず「人間」の心理、観察といった物語にもなっている。公演は、何らかの啓発的な意図を持っている。舞台美術の後ろにスクリーンがあり、そこに2人の心境なり心情変化を説明する字幕が映されるが、それを読み終えるであろう(少し長い)時間映し続ける。演劇を通して観客に想像させる、そんな観せ方ではなく極めて直截的だ。冒頭、物語の背景も説明しており、観客の楽しみを殺ぐような演出。もっと演劇的に昇華させる演出でも良かったのではないか。

物語としては興味深い。1980年11月の出会いから2005年11月、今までの、そして これからの新たな歩みへの25年間を北海道札幌市にある古びたビジネスホテルの一室で展開する。同じ部屋(302号室)だから基本的には間取りは変わらず、当初から置かれていたプッシュホン電話の使用頻度が減り、ポケベル、携帯電話へ代わるという時代の変遷。年に一度のデートを続けるゲイカップルの亮平と健人。

上演前に公演「テーマ」が映し出され「LGBTQ・不倫に関する問題意識も台本の中に含まれるが、主テーマは違う。扱う主テーマは、「健人と亮平の『好き』の変化を探しながら、あれこれ一緒に考えてみようという試み」という。先にも記したが、演劇的な想像する面白さ、それが恣意的に誘導されるような演出に違和感を覚える。演出は余計な説明なしに、もしくは最小限な情報に止め観客の想像力に委ねてもよかった、と思うだけに勿体ない。
(上演時間2時間 途中休憩15分)

ネタバレBOX

舞台美術は、正面にベット、脇に机。その上にはプッシュホン電話と茶セット。上部にスクリーンがあり、場面(年月・場所)の説明が映される。冒頭には「1980年11月から2005年11月の25年間、年1度のデートを続けるゲイカップルの変化を5年ごとに追った会話劇」を描くことの説明が映され、6場ごとの2人の名前・年齢も映す。

梗概…25年間のデトックス。
第1場。1980年11月、酔いつぶれた亮平(25歳)を介抱してそのまま関係を持ってしまった健人(20歳)。記憶の断片を辿りながら昨夜のことを語る2人。見ず知らずの2人の馴れ初めと、バックボーンを紹介していく。亮平は東京に住んでいるが、予備校(数学)講師をしており受験対策のためこの時期 出張してきている。大学時代に知り合った妻と1歳になる息子がいる。一方、健人は大学を退学したばかり。在学時代は男らしさを強調するため応援団に入部していたが、それは本意ではない。
第2場。1985年11月、息子が小学生になり勉強を教えるために、会ったばかりの健人を残し東京へ帰ろうとする。
第3場。1991年11月、健人がゲイであることを母にカミングアウトするため、亮平に同席してほしいと頼む。すったもんだの末、電話で告白してしまう。
第4場。1995年11月、亮平が気分が悪く寝ているところへ、女装(赤いドレス、赤いハイヒール、そして金髪鬘)した健人が入室。パーティーへ出席するための格好だが、実はゲイ恋人がエイズになり、亮平にその種の検査を勧める。
第5場。2000年11月、健人はゲイ派遣事業が順調、一方 亮平は離婚し職も失った。亮平は健人に結婚指輪を渡そうとするが…。
第6場。2005年11月、2人の軌跡を今後のことを話す。

主催の一般社団法人 箱の中の箱は、演劇を知的に楽しむことを目指しながら、その中で生じる小さな声を拾い集め、考え、学び、次世代の新しい「人との関わり方」を手探りしたいとしている。その知的に楽しむが、主催者側の考えというか発信へ誘導するかのような演出に思えた。なにしろ心理描写や変化まで字幕で説明してしまう。
脚本に書かれた内容は興味深く、25年間という長い時間軸の中で時代感覚や移ろい、人の心の変化等、観るべき そして感じるところが多かった。演技も亮平役の高野アツシオさんの紳士然とした容姿とは違うだらしなさのような性格。一方、健人役の田口巧輝さんは、ゲイであることへの恥ずかしさ、その初心(ウブ)さが愛らしく、亮平への献身さがよく表れていた。
照明はそれほど印象にないが、音楽はピアノのポップな旋律がマッチしていた(幕間の繋ぎ音も良い)。
次回公演も楽しみにしております。
パダラマ・ジュグラマ

パダラマ・ジュグラマ

おぼんろ

Mixalive TOKYO・Theater Mixa(東京都)

2022/02/13 (日) ~ 2022/02/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初日(いいねチケット)観劇。
強雨で肌寒い日。にもかかわらず会場内は熱気に包まれ興奮状態ーおぼんろの人気の高さが知れよう。

公演であるが、(コロナ禍)以前のような”おぼんろスタイル”ではない。今までの魅力は、舞台と客席の境目を曖昧にし、語り部(役者)が参加者(観客)の間を舞い駆けるといった躍動感を身近で観せ感じさせていた。そこに場内一体となった高揚感のようなものが生まれ、物語の世界に誘われていた。コロナ禍では、その演劇スタイルを貫くことは出来ず、舞台を一定方向(客席からの定点)から観劇することになる。しかし、今までのスタイルは参加者も物語の世界観にどっぷり入り込み、高揚(幸福)感に酔いしれながらであったが、この公演では舞台と一定の距離を置き内容をじっくり観ることが出来た。雰囲気に飲み込まれることなく、物語で伝えたい「生きる」「生きたい」と「命をいただく」ことの意味をしっかり描いていることが解る。また、おぼんろ らしい照明や音響といった舞台技術は素晴らしい。観た目は派手で美しいが、物語に潜む「必ずしもきれいな世の中だけではない」といった清濁併せ持つ世界観が浮き彫りになる。が、最後は清濁併せ呑むへ。コロナ禍を通じて おぼんろは、改めて その真の実力と新の魅力を引き出したと言えるのではないか。

カーテンコール…さひがしジュンペイさんによれば、この演目は末原拓馬さんがなかなか再演したがらなかったと呟いていた。内容的に、どちらかと言えば分かり易いもので、意味深(度)といった面で物足りないと心配したのだろうか。
今を生きることの大変さ。ある舞台関係者は演劇がなくても生きていけるが…そんな思いを抱く不安な日々を過ごしていると言っていた。演劇は映画や音楽等と同様、文化なのだ。それを廃らせるわけにはいかない。現実社会の苦しみを一時の舞台という虚構(世界)で癒され明日の活力となる大切さ。今、自分たちの演劇スタイルを貫けない中で、できる限りの創意工夫を凝らし、公演を行う行為(勇気)に無音の拍手と声援を送りたい。
(上演時間2時間 途中休憩なし)

ネタバレBOX

舞台美術は、上手に高さある部屋空間、下手には板に近い所に部屋空間、この2つの空間を中央上部(上手の空間から下手の空間に繋がる)に設えている。上手の部屋空間から斜めに階段(可動式)があり、1階と2階を行き来して躍動感を出す。部屋空間としたが、完全に仕切るのではなく、四辺を柱のようなもので囲っており、敢えて場所などの特定はしていない。少しキレイ過ぎるが、廃屋・荒廃イメージといったところ。上手客席側に高さの違う平台が並び、別空間での語り。先の空間には赤い敷物があり照明効果と相まって美しく映える。

物語は説明やチラシに詳しく書かれているが、閉じた世界と開かれた世界、弱肉強食、食物連鎖やヒエラルキーといったことを連想する。登場するのはニワトリ、キツネ、そして人間(工場長・ジュンバ=さひがしジュンペイサン)である。さて、閉じた世界は直接的にはニワトリ工場(通称:カイダム)であるが、大きくは環境汚染で自然界では食事情に窮していることも表す。ニワトリ工場では、産まれて すぐ雄鶏は潰され、雌鶏だけが生かされている。そこに腹が減った2匹のキツネ(トシモリ=富田翔サン、メグメ=わかばやしめぐみサン)が忍び込んで…。メグメには別に切羽詰まった事情を抱えているという同情の余地を残し、哀切を誘う。多くの雌鶏に隠れるように雄鶏(通称:タック=末原拓馬サン)と雌鶏に成りすました雄鶏(リンリン=高橋倫平サン)が絡み合った物語。二羽、二匹、一人という登場に弱肉強食ピラミッドを思う。

カイダムは、決して美しい場所ではないが、外の世界も汚染に塗れている。しかしこの世は決して闇ばかりではない。夢や希望を持ち続ければ、素晴らしい世なのである、そんなことを訴えている。おぼんろ公演は、どれだけ参加者が想像して創造の世界観を楽しめるかにある。以前のように身近な臨場感を得ることは難しいが、逆に意識は眼前の舞台に集中し、物語を俯瞰して観ることができる。だからこそ色々な場面(時に四方に作られた舞台美術)を眺め回す必要はなく、物語に潜む魅力を想像することが出来る。

おぼんろ公演の最大の魅力は、演出と舞台技術。照明は色鮮やかな照射、それも正面や側面壁に車輪のような回転、そして形はギヤ等の工場イメージ。音響・音楽は汽(列)車音、不穏や不安といった胸騒感、そして物悲しいピアノ旋律。場面ごとの変幻自在な観せ聴かせ方に酔いしれる。そして吊るされた裸電球が何となく幻想に光り輝く。外の星空=希望であろうか。
もちろん躍動感と参加者を(おぼんろ)世界に誘う熱量は凄い。またバランスも良く、カーテンコールで、富田翔さんが稽古等を通じ準劇団員になったようだと話していたが、本当にその通りで違和感はない。
次回公演も楽しみにしております。
The leg line

The leg line

仮想定規

中野スタジオあくとれ(東京都)

2022/02/10 (木) ~ 2022/02/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

初日観劇。
大雪警報という、まさしく”嵐吹き荒れる”という舞台設定と同じ悪天候。厳寒にも関わらず女性スタッフは劇場前に立ち観客を案内していた。面白い公演を観てもらいたいとの思い、その心意気が感じられる。

公演は昨年12月「闇鍋音楽会vol.2『The leg line』」でも観ているが、その時に比べるとエッジが効いていなく、こじんまりとした印象。全体調和というか統一感を失った気もする。基本的な構成は変わっておらず、場面ごとの面白さは十分ある。しかし、前作は冒頭および前半と後半を繋ぐ場面はタップダンスという躍動感あるもの。本作は冒頭の舞踏、前半と後半の繋ぎにはPuppetの自操・自演といった、どちらかと言えば力技・技巧といった落ち着いて魅せる内容。それ自体は見事なもの。しかし公演全体のテンポ感は、焦り、戸惑い、そして驚きといった右往左往する動的な印象である。前半と後半の繋ぎのタップダンスは躍動感に溢れ公演の連続性を示していた。一方、本作は舞踏等の静的な場面によって断続的になったように思えた。

前作はショーの中に物語が展開しており、そこに個性豊かな人々が活きていた。本作は前半の物語と後半のショーが切り離された、その意味でメリハリを付けたのだろうか。観客の選好の問題か?(←本来の使用ではないが)
なお、初日は「英語字幕つき上演」ではなく、日本人向けの通常版。
(上演時間1時間40分 換気のため途中休憩、観客参加型のゲーム有り)

ネタバレBOX

冒頭、奈落人・持丸伸孝さんの舞踏から始まる。暗がり静寂の中で力強い身体表現。劇場は板を隔てて、その上ーー舞台上は華やかな世界、下の奈落は華やかさの陰で嫉妬や怨嗟が渦巻き、だから時として事故が起きるとも…。表現し難い奈落ーこれから始まるショーとの対比で表現しており、見事だ。

舞台美術は、前作同様 ぶら下がり健康器具の枠(キャスター付)のようなものが5台。鏡でありハンガーにもなる。"前作が好評を得た"とあることから、敢えて比較してみた。今回はあまり可動させず、ショーでは幕機能に特化させている。前作では前後・左右さらに回転させていた。そこに色彩美や躍動といった視覚的な楽しみもあった。

梗概…突然の悪天候、そんな中で公演を行うために準備する楽屋が舞台。果たしてこんな荒天候の中、観客が来るのか。そもそも出演者も色々な事情で全員が集まっていない。もう直ぐ幕が上がるが…。
物語は、予想もしていない事態に戸惑いながらも、何とか公演を行おうとする個性豊かな人々で成り立っている。例えばウーバーイーツの橋本大介(星郁也サン)は、前作では上演前から街中を配達している姿を見せ、悪天候で劇場に辿り着いたという細かい設定。また妹の代役になる米田茜(末廣円サン)は、もっと出演を拒んでいたと思う。
音響を担った茶沢(栗木健サン)は、健康器具でダンボールに打突する箇所が一か所だったが、前作ではもう少し角度を変えるなど(音)変化があった…等 省略したのか分からないが、場面ごとの面白さをコンパクトにし過ぎた印象だ。

冒頭の舞踏や前半・後半の繋ぎで魅せるパフォーマンス・女優(オクトウミユ サン)の表現力を活かすのであれば、前半の物語、後半のショーへ上手く橋渡し出来る意味付けを考える必要があろう。それによって表舞台の華やかなドラマ+ショー、一方、その陰で蠢く「劇場の魔物」という別の世界観を表出できるのではないか。そこにコメディーミュージカルという楽しく面白さだけではなく、別の味わいがある公演に仕上がるのではないか。
辛口で言えば、前作のタップダンスの代替的な観せ方ではなく、新たに劇場に潜むー光の当たらないモノ、そう怪人を想像できるものを期待したい。
次回公演も楽しみにしております。
ロング・タイム・ノー・シー

ロング・タイム・ノー・シー

ナイーブスカンパニー

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2022/02/02 (水) ~ 2022/02/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

日中に雪がチラつき、物語の中で雪が溶けたら何になる、という問いが重なる偶然の光景。
物語は前・後半に分かれるが、演出は展開に合わせて巧みに変化させ抒情的に観(魅)せる。もちろん役者の朗読…手紙の往復書簡という聴かせ方に合わせた“間”のとり方は見事!月海舞由サンと鹿野裕介サンの感情表現(仕方)が、単に役柄だけではなく何となく対象的に思え、興味深かった。
舞台美術は、活けた花の陰影が美しくスタイリッシュに映える。演劇の総合的(動的演技等は除く)な魅力が味わえる公演。
(上演時間1時間45分)【月海舞由サン&鹿野裕介サン】

ネタバレBOX

舞台美術はシンプルで、上手に岩下音(月海舞由サン)、下手に吉束理(鹿野裕介サン)が座り、中央に白幕(スクリーン代わり)が客席側に向かっても敷かれている。そこに大きな活け花。場面補足や詩情のような言葉が字幕で映し出される。これが実に印象的で、映された珠玉の言葉を胸の内で反芻している。

一組の男女が出会って別れるまでを回想風に綴った往復書簡の朗読劇。
前半は出会った頃、夫々が相手の趣向を探るような少しぎこちない展開。日々の何気ない思い出話、淡々と語られる言葉が初々しく微笑ましい。その情景は、青や赤といった鮮やかな色彩で照らし、また活け花を多方面から、時に真上から照射しモノトーンの陰影で落ち着かせる変化は喜怒哀楽のような感情表現を思わせる。理(こと)くんは、2つの嘘をついていた。1つは付き合い出した頃には、まだ妻がいたこと。総合商社勤務で上昇志向の強い妻と図書館勤務の公務員で安定志向の自分との意識の違いは決定的であったよう。学生時代から妻の後を追うような劣等存在だった自分が、音(おと)ちゃんと付き合い、自分らしく振舞えるようになった安堵感、嬉しさを実感。音響は静かで優しいピアノ旋律だけ。そしてもう1つの嘘が、自分には妹がいる(進行形)。しかし本当はいた(過去形)である。

謎を残して後半へ(途中休憩なし、暫し暗転)。実は15年前に妹は殺され、殺した相手は音ちゃんの弟であるという衝撃の事実。音ちゃんは苦しみ、そして…。この事件によって2人の関係は大きく変わり、ドラマチックな展開へ。薄暗くし照明効果を出さず、逆に音響が高揚というか(胸)騒ぎを思わせるものへ変わる。音楽に掻き消されないほど力強い台詞。激情している様子がうかがえる。

演技は、前半は2人とも淡々と語っているが、後半になると変化がみられる。音ちゃん=月海さんは椅子に深く座り淡々と話す(静的)。一方、理くん=鹿野さんは前かがみになり、時々ハンカチや手で涙を拭う仕草が観られる(動的)。別れを切り出し、別の人と結婚する音ちゃん、何とかやり直しが出来ないか未練を残す 理くんの心情の違いであろうか。暗転後、理くんのエピローグによって少し安心するのだが…。
1日2回公演だけの組み合わせ、至極幸せな心待ちにさせてもらった。まさしく「コトバとココロの話」である。平日は1回(初日であり千穐楽)だけという贅沢な公演。
次回公演(来月「売春捜査官」)も楽しみにしております。
おつかれ山さん

おつかれ山さん

ことのはbox

シアター風姿花伝(東京都)

2022/01/26 (水) ~ 2022/02/01 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

悪人は登場せず、全員が「普通の人」であるが、それぞれの立場や気持で発言し行動する。しかも相手の事は気づかっているつもり。
独善の思惑が1人の人間ー山口先生を追い詰めていく。表層的には滑稽であるが、真は皮肉を込めた驚怖が潜む秀作。
(上演時間1時間30分) 【Team葉】

ネタバレBOX

舞台美術は、上手は高校の職員室(時間割や年間行事、「革新政党」ポスターの掲示)。下手は学校の応接室であり山口先生宅である。しっかり作り込んだセットはラストシーンで、その意図を知ることになる。この普通の光景、一瞬にして破綻・狂気の光景へ追い込む演出は見事! 場面に応じた着替えは、おつかれ山さん、でもあった。

高校教師の山口先生はクラス担任、柔道部と演劇部のかけもち顧問、毎日が忙しい。そして山口先生の生き甲斐でもある劇団も率いている。しかし、なかなかその活動に集中出来ず、メンバーの心も離れていきがち。家庭では妻との会話も不足ぎみ。家に帰っても学校のことが気にかかる。そんな山口先生を軸とした平凡な現代人の苦悩ぶりが立ち上がってくる。

現代日本の教育現場は年々様々な問題に追(負)われ、労働条件と環境は厳しく苦しいものになっている。少子化による生徒数の減少、それに伴って教員数も減らされる。部活動顧問の仕事が2つ3つ掛け持ちは珍しくない。校務分掌も多重化。教師は生徒たちとの会話や、悩み事にのってやる時間が取れない。保護者は子供の非行等を教員の責任にするモンスターペアレント。苦情を申し立てる保護者への対応は重いストレスとなって教員の心に打撃を与える。そういう現場に生きる教員が書いた作品、それだけにリアルだ。

公演では、それらの事を笑いの裏に描いている。
教員現場の労働条件と労働組合活動(岡島)。一方、教育活動という単純に時間管理で終わらせられない特殊性。生徒たちの問題に寄り添おうとする真面目で良心的な山口先生は孤立化していく。山積する問題、深刻化するばかりの問題を、役者達は実にコミカルに演じていた(佐々木・坂本・大山)。山口先生に怪我を伝えにくる柔道部員、相談事があるが、なかなか相手にしてもらえない演劇部員(部長)。若くして教務副主任になり激務に苦しみ強迫神経症ぎみになった若い女性教員(福田)。教頭先生は板挟みで右往左往か?モンスターペアレントー(城之内)が職員室に乗り込んできた対応場面などは、あるある脅し文句(言葉)の緊張。

教師も家庭人だが、妻や子供と話したり遊んだりする時間がない。学校での諸々の問題や悩み事が付きまとう。家が教員集合住宅という設定が妙。そして妻(知子)の衝撃的な告白、その身近さに納得してしまう。しかし相手が病弱で授業を代替してもらっていた人物だけに、理不尽であり滑稽でもある。教師も所詮は、人間なのだ。ラストシーンは、山口先生の心の崩壊を表現しており、コミカルから一転驚怖へ。実に落差ある人物表現であるが、周りの(集合)人物達によって造形されたといっても過言ではないだろう。

さて、人はどう考え、どう動くのか、教育現場だけではなく問われている。コロナ禍ー疲弊・閉塞した状況であっても、また世の中がどんなに不条理な矛盾に覆いつくされても、人は生きていく。この公演…愛しく滑稽な人間模様を描く作品ではあるが、今の状況に投げかけるものは決して軽くない、と思う。
次回公演も楽しみにしております。
令和に生きるマダムたちへ

令和に生きるマダムたちへ

マグナム☆マダム

あうるすぽっと(東京都)

2022/01/29 (土) ~ 2022/01/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ダンス=若者という常識にとらわれず、ただただ観客を楽しませる。エンターテイメントに徹しアラフォーパワーを炸裂させた公演。
迫力あるダンスで描く少女ならぬ40代(熟)女性の生き様は、可笑しみと寂しさが同居しているようだ。

この公演、本番ギリギリまで何度も困難な状況に追い込まれたが、そうなった時「人は笑うしかなくなる」と実感したという。ここに公演の意気込みを感じる。
(上演時間1時間10分)

ネタバレBOX

招待公演。
基本は素舞台…ダンス パフォーマンスを行うスペースの確保。

群舞、ソロダンス、寸劇、アラフォー独身女性の悲哀トーク、そして唯一の男性ダンサーとアラフォー女性全員によるコラボ。男性の褌姿で太鼓を敲くパフォーマンスは音楽・照明そして迫力に満ち満ちており観応え十分。
バリエーションある表現は、アラフォー女性の代弁者として、遅咲きながらも咲き乱れ、超高齢化社会に向かう日本において、ダンサーの高齢化も目指すと…鼻息も荒い。

女性ダンサーは白いタンクトップに1本ラインの黒ジャージ。ソロでも群舞でも同じだが、寸劇の時には、その上に女子高生のミニスカート等を(穿き)つけ、笑いを誘う。全3回公演だが、結構激しいダンスで体力勝負といった印象である。

アラフォーらしいトーク。「おひとりさま」は不安なのか、 40代女性が抱える悩みトークを挿む。今は未婚でも 「一生独身でいる」のかな。パートナーとめぐりあう可能性を考えつつ、一方で「このまま一人かもしれない」という揺れる思い。そして、独身で生き抜くことへの不安。病気や怪我をしたときに支えてくれる人がいないことへの不安を吐露する。印象的な言葉として、夜寝てこのまま寝覚めなければ、誰が私の死を確認するのだろう。プチ同居するかなど、笑いの底に寂寥を感じる。しみじみトークは女性だけではないだろうけど…。

圧巻は、褌姿の(唯一)男性が太鼓音楽に合わせてのパフォーマンス。それを囲むアラフォー女性ダンサー(15人)とのコラボが実に見事。表現し難いが、太鼓音楽+照明、そしてダンス、そこで魅せる光と影のコントラストが何とも美しい。
ほぼ満席から割れんばかりの拍手!
次回公演も楽しみにしております。
チョコレート哀歌<東京公演>

チョコレート哀歌<東京公演>

ノラ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2022/01/27 (木) ~ 2022/01/29 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

西﨑わか那さん/村井萌さんによる女2人芝居。「チョコレート哀歌 」は、甘酸っぱい味わいある物語。

楽しめるが、2人だけの世界に入り込み、第三者である観客をその世界へ誘い込むことが出来ない、そんな もどかしさを感じる。全体的に浮遊感があり、不思議な空気感を漂わせている。大切な思い出が、手指の間からポロポロと零れ落ちてしまい、薄れゆく記憶に愛おしさを重ねるような作劇作。それだけに、もっと観客に寄り添った観せ方だったら…勿体ない。
(上演時間50分)

ネタバレBOX

グリーンフェスタ2022特別参加作品。
回想劇、同時に瑞々しい感覚劇でもある。それを紡ぐための舞台美術は、形や大きさが異なる箱が重なり、全体に白い布が被せられている。舞台と客席の間にはジグソーパズルのピースが庭砂利のように敷き詰められている。また天井にはいくつかの裸電球(星の輝きイメージ)が吊るされている。
上演前は街中の騒音や靴音が聞こえ、現実感を漂わすが、物語の雰囲気は、2人の衣装が白っぽくゆったりとしており、何となく現実から遊離している感じ。上演前・後で世界観の変化をつける巧さ。照明は特に印象的なことはないが、色彩ある諧調で美しく観(魅)せていた。

幼女2人が親しくなり、折り紙、クレヨンでのお絵描きといった遊び。他の子供からの悪口に泣き叫ぶ少女と慰める少女。夜空の(流れ)星を眺め感傷に浸る、など脈略のない出来事を点描していく。これは時々の思い出を描いているため。2人の軌跡を辿るには、一諸に過ごした時間描写が大切になってくる。そこで幼馴染という設定にし、親しい友人が或る日突然消えてしまい、喪失感に打ち拉がれる。

ラストに観せる何とも淋しい姿ー当日パンフに脚本・演出のしおと、ひかりさんが「私がいつまでも焦がれてしまう一人の人間に向けて描いた作品」と書いている。実話で等身大の物語。ひとの出会いと別れは偶然と必然であるが、突然の出来事に整理できない感情、その乙女心が浮き彫りになる。が、この種の話を劇的にするには、相手が亡くなる等、強烈なインパクトがないと印象に残らないだろう。しかし、そんなことは承知の上で、公演はあくまで本当の思い出話を大切にしているようだ。

現実の場面は確かにそうであったかも知れないが、舞台となると間合いや台詞(泣き叫ぶシーンでは被ってしまい聞き取れない)も含めた演技で観客をどれだけ自分たちの心象世界へ導けるかが重要。刺激・強烈的なラストが用意出来ないのであれば、それに代わる工夫をし、観客の関心や興味を惹く必要があろう。2人だけが体験したかのような特別な世界観に入り込みすぎて、観客の意識を置き去りにしたのが残念なところ。
次回公演も楽しみにしております。
チェーホフも鳥の名前

チェーホフも鳥の名前

ニットキャップシアター

座・高円寺1(東京都)

2022/01/26 (水) ~ 2022/01/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

観応え十分、お薦め。
演劇としてのモキュメンタリーといった公演。登場する人物・家族等はフィクションであるが、サハリン(樺太)という 地の出来事、その歴史はドキュメンタリードラマとして構成されている。単にサハリンにある街と人々の暮らしを描いたクロニクルではなく、演劇的要素をしっかり取り込んでおり、上演時間3時間はそれほど苦にならなかった。

約100(1890-1980+α)年のクロニクル、当日パンフに第1幕~第4幕と幕間における時期・場所そして登場人物を表した人物相関図が書かれており、物語の展開における系譜はそれほど混乱せず観ることが出来る。サハリンは「北海道の宗谷岬から約43㎞北にある島」だというが、行ったことはない。ほとんど知らない 地、その場所における激動の歴史ーー視点は、そこで暮らす人々の日常的で平板な営みの中で捉えている。またパンフには年表もあり、切り取った場面だけではなく、その前後の事件や背景を知ることで、物語で描こうとした意図が分かってくる。第1幕目には、以降の幕に繋げる系譜を表すため、すべての人物(全キャスト)を登場させ、なるほどと思わせる大胆な幕開け。(物語の展開:樺太→サハリン)土地の繋がり、人の血の繋がりといった、いわゆる地縁血縁を知ることで、自ずと「土地」や「人間」が主人公であることが分かってくる。物語は特定の主人公を定めることなく、市井の人々の営みと時の流れによって重層的に立ち上がってくる。そして記録写真やスナップ写真を適宜映し出し、その時々の光景を見せることで事実を突き付けるという巧さ。もちろんシーンに合わせた生演奏や生歌が叙情豊かにしている。
(上演時間3時間 途中休憩10分)

ネタバレBOX

舞台美術…第1幕(ポチョムキン邸)は、中央に大きな簀子状の平台があり、その上にテーブルと椅子が数脚。平台の所々に草が生えている。後ろには大きなスクリーン。下手に演奏ブースがあり多くの楽器とスタンドマイクがある。第2幕以降はテーブル等の配置を変え、描いている時々の場所の光景になる。セットを作り込まないのは、約100年という時の流れの中で情景・状況は常に変化し、舞台としての視覚で印象を固定化させない狙いがあろう。

物語は1890年ロシア領時代、ポチョムキン邸で この家の娘・ナターシャと刑務所長デルビンの結婚式の場面から始まる。しかし第2幕(1923年)で、ナターシャは毛嫌いしていた塩川正十郎と結婚し、娘マーシャを産んでいる。ナターシャとマーシャは、母・娘とも山岡美穂さんが演じ、第3幕以降も血の繋がりが分かるような配役になっている。さて第1幕目に作家チェーホフが登場し、結婚式に招かれ祝福している。ちなみに第2幕では宮沢賢治として、両作家を千田訓子さんが同じ役割ー第三者目線で観察している。その存在は、強烈な作家性を描くというよりは、その地で暮らしている人々との交流が主。あくまで市井の人々が主役である。舞台(板)上がフィクションの物語だとすれば、スクリーンに映される映像はドキュメンタリー(時代背景・状況)で、特に戦時中のものは生々しい。演劇と映像、フィクションとドキュメンタリーといった異なる要素を上手く融合させた見事な公演。また舞台中央に大きな白幕を広げ、その裏で役者が激しく動き回り人影(絵)で臨場感ある戦闘表現。さらに系譜の流れに沿った(具体的)ドラマだけではなく、幕間(1945年 日本領時代)や第3幕(1945年12月)では、戦時・終戦を経て大きく変わった環境(状況)を、夫々の家族の変化に重ね合わせて切々と語る。薄暗い中へのスポット照明、その光の中で心境を吐露する。モノローグ、ダイアローグと形態は違うが、確かな心象風景が浮かび上がる。独白・対話者以外の全員が簀子状の縦・横の辺に並び眺めている。確かに眺めている様子であるが、本当は心中は同じとの意味合いか。この時にサハリンの風景や家族写真が映され事実ー歴史が刻まれる。

この地には、ロシア人、日本人、朝鮮人、ニヴフやアイヌなどの北方民族、様々な人々が住んでいたという。しかも囚人まで説明するといった「人間描写」に驚く。しかし国家間の思惑や戦争によって人々は翻弄された。国ー領土という概念によって地名はもちろん統治方針等が変わる。しかし人々の意識や暮らしはどうなのか。統治者やそれに近い人間は立場等によって態度が急変するかも知れない。が、多くの人々はその地に愛着を持ち、願わくば多民族のまま暮らしを継続したいような・・・。台詞に長い年月の中で、結婚によって「日本人になった」「ロシア人になった」とあるが、民族・人種そして人間とは?を考えさせる。劇中、チェーホフの「三人姉妹」「桜の園」を読んで、「(夫)教訓がない」、「(息子)主人公は誰か?」といった字幕が映されるが、それこそが、この物語を暗示している。

この物語を抒情性あるものにしているのが、多様な楽器の演奏と生歌であろう。黒木夏海さんの憂い、または潤いのある歌声、そして登場人物に関わりのある選曲(例えば「星めぐりの歌」(宮沢賢治 作詞/作曲)など気が利いている。
演劇(物語)には終わりがあるが、サハリンーその地で暮らしている人々は今現在も続いている。スクリーンには、1980年代以降のことも字幕で伝えている。
次回公演も楽しみにしております。
奇譚録。バーベキューダンス

奇譚録。バーベキューダンス

劇団「楽」

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2022/01/19 (水) ~ 2022/01/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

確かに表層的には「奇譚録」といった雰囲気であるが、物語にそれほど”圧”を感じることはなかった。伝説の竜殺しと愛しき仲間たち~という内容であるが、竜殺しの意味するところが分かり難い。

妖しげな幻想世界を漂わせているが、時々 物語の間隙をねらって説明を入れるため雰囲気が定まらない。主宰の倉田楽 氏が、赤(い)竜役で登場し、物語の構成を説明する。本でいう章立のようで、物語の場面紹介をしている。全体的にダークさが漂うため、合間に箸休め的というか緩衝場面を挿入したのか?どちらにしてもあまり意味がなかったと思う。

公演の魅力は、奇異なメイク貌、独特な衣装といった外見、その姿でアクションを行い観(魅)せるところ。またキャストは演じていない、つまり登場シーンでない時は、上手か下手側の壁際で立ったり座ったりしながら、その場に居る。同一空間(舞台上)にいることによって、劇中での場所が違っても同じ時間が流れていることを意識させる。

物語は、人間と獣や竜との戦い…生存をかけた戦いを描いているが、舞台上で繰り広げられている事が料理であり、周りで観ているキャストは舞台(料理)を囃し立てるダンサーといったところか。物語の展開はそれほど複雑ではないことから、ほかの色々なことを想像してしまう。
(上演時間2時間 途中休憩なし) 

ネタバレBOX

舞台美術は、中央に可動する大きな階段があり、所々苔生し雑草や蔦が生えている。そして上手側に武器置き場があるだけのシンプルなもの。大きくスペースを確保しているのは、アクションをダイナミックに見せるため。貌や衣装は凝らしているが、武器(剣など)はダンボールに銀紙を貼りつけた張りぼてで、脅威を感じられず残念。

梗概…竜や獣が存在する架空の世界。狩りを生業とする人達ー狩り人であるハクサとシュンギが主人公。2人は都を目指していたが、その道中、獣に襲われていた男・トマを助ける。トマは伝説の竜殺し、黒の竜殺しと呼ばれる男を探すため、ある村を目指していた。ハクサとシュンギは護衛も兼ねてその村まで同行したが…。

当日パンフから、描きたかった「ファンタジー」を解釈すれば、倉田さんが演じた竜こそが、台詞にも出てくる大剣を表している。つまりファンタジー=竜=大剣と思われるから、物語の中心人物(本人)が何故 案内役を務めるのか?物語に入り込み 中心にいるべき存在だと思う。
また別に黒い竜が存在し、その竜を殺した男を探し求める。竜は複数体おり、物語の云わんとする獣や竜は別のことを意味しているのでは?単に人間と他の生き物の生存をかけた戦いでは浅すぎてしまう。そして竜殺しを探している理由が、あまりに人間的すぎるのが残念。
妖しく壮大なイメージの舞台であるが、雰囲気が先行し物語の面白さが追い付いていないのが残念。
次回公演も楽しみにしております。
ガラテアの審判

ガラテアの審判

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2022/01/20 (木) ~ 2022/01/26 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い! お薦め。
法廷劇らしく緊密で緊迫感ある会話劇。物語は単に法廷内だけではなく、法曹界の体質、公判前整理手続、社会との関わりが巧みに取り込まれた社会派ドラマの様相を呈する。特に公判前整理手続の場面では公判での争点を明確にし、公判場面は専門的な台詞も出てくるが、それを別の言葉で言い換え解り易くすることで観客の集中力を途切らせない。実に上手い観せ方である。
(上演時間2時間)

ネタバレBOX

舞台美術は、一般的な刑事裁判(書記官席はないが、庶務官が別場所に着席)の法廷光景。客席はL字型でその対角線上に裁判官席。おのずと観客席は傍聴席といったことになる。

公判前整理手続(6回)の主な登場人物は、裁判官、検察官、(国選)弁護士、そして庶務官。そして公判(7回)は、その3人と事件の被告、4人の証人が加わり緊迫した質問や尋問口調が展開していく。社会との繋がりはレポーターとして公判の様子を中継し、いかにこの裁判が難しく そして世間の注目を集めているか。アンドロイドによる犯罪(隣家の7歳の少女殺害)の初裁判を日和見主義の事なかれ判事・ケンザキ アスミ(坪和あさ美サン)、うだつの上がらない国選弁護士・フルカワ バンリ(坂本七秋サン)、そして検察は及び腰の様子見で経験の浅い女性検事に担当させる。法曹界の権威主義への皮肉が、冒頭、女性検事・キリシマ ヨーコ(陽向さとこサン)の憤りに如実に表れる。

公判前整理手続について、弁護士から犯行事実については争わないが、被告/通称ジャック(新井裕士サン)の責任能力を争点にしたいと…。アンドロイドの責任能力とは何か、公判中に明らかになるウィルスによる(悪意の)誤作動といった、人間とは違う要素を持ち込み観客の興味を惹く。証人の証言から明らかになる事実は法廷劇の醍醐味だが、さらにAIという特殊性が物語を重厚にしている。公判では人とアンドロイドを比較し問題(責任能力)の所在を際立たせながら展開する。例えば精神鑑定と精密検査や、倫理感(刷り込み)やウィルスといった見せ場。それらが犯行教唆に当たるのか否か。検察・弁護士の双方の主張を行う 陽向さんと坂本さんの緊迫した演技が法廷劇の面白さを支える。

スポットライトを浴び、レポーター・ワタナベ レオナ(久保田伶奈サン)が、何故この裁判が社会の注目を浴びるのか。そこには人間とアンドロイドの共存・思惑といった社会問題が潜んでいることを説明する。アンドロイドに労働(力)を奪われ、働き場所を失った労働者階級、一方 安価で従順なアンドロイドを利用したい人々(資本家階級か)が、それぞれ「反ロボット」と「親アンドロイド」として敵対しデモ、弾圧、暴動を裁判所近くで繰り広げる。法廷と目に見え(表れ)ない社会・世間とを巧みに結び付ける。

検察当局はアンドロイドの製造者(メーカー)ではなく、本体を逮捕し送検した。今後発生するかも知れない事件への見せしめのよう。それだけ人間とアンドロイドの相違が見られない近未来SF。いくつもの問題点を指摘しながら、観客に考えさせる。
ただ、アンドロイドの諸々を規制する法整備が出来ているのか 否かが判然としない。公判前整理手続を進める中の台詞にあったが、内容は明らかにされない。そんな中で人間に適用する刑罰は馴染むのか。ラストの検察の求刑と判決内容、その量刑の捉え方をみても疑問符が付く。しかし、世界で初めてアンドロイドによる殺人事件、それの判決→判例として見れば、議論が漂流するのは当たり前。演劇としては、裁判過程を通して社会的影響の大きさ面白さを十分堪能させることに成功している。
次回公演も楽しみにしております。
FRIEND

FRIEND

CHAiroiPLIN

あうるすぽっと(東京都)

2022/01/19 (水) ~ 2022/01/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

安部公房「友達」が原作。照明、音響や小道具といった舞台技術を駆使し、台詞の代わりにダンス表現によって情景を観(魅)せていく面白さ。普通に物語として観たら、人(精神)や社会(構造)の断面を直截的に観るといった印象を持ったと思う。確かにテーマもそこにあると思うが、ダンスという身体表現は精神的な面と同時に肉体的な面を強く感じさせる。その表現によって得体の知れない恐ろしさ滑稽さといった抽象面が上手く表出できている。そこに この公演の最大の魅力があると思う。
(上演時間1時間10分) 【Aチーム】

ネタバレBOX

招待公演。
舞台美術、上手側は机、パソコンやライトといった別空間が剝き出しになっている。ラスト、家族たちはその空間に闖入することから、一人住まいの女性の部屋か。下手側は明かりが灯ったBOXが重なり、高層住宅を思わせる。後景は左右非対称に高層住宅を連想させる街模型が並ぶ。中央はスクリーンのような幕で仕切られ、後々 人影や心象もしくは抽象図が映される。上演前は逆さになった男が映し出されているが、板の上に同じように俯せに倒れている。照明で板の上が映される場合は、天井からの光景で観点を変えた観方を意識させる。冒頭の光景は、最後の光景に繋がり、どうしてそうなったのかといった過程を順々に展開していく。

男と婚約者は不動産屋で新居探し、まず男が一人暮らしを始める。そこに突如 奇妙な9人家族が笑顔で歌いながら、愛と友情を唱えながら一人ぼっちの孤独な人間を探し、拒む相手の意向を無視して部屋に闖入する。物語で男は不法侵入だと表現するが、管理人や警官には信じてもらえず、男はそのまま一家と同居を続けることになる。いつの間にか一緒に食事をし新聞を読む日常ーー家族がいることが当たり前のようになる。ある日、長女と次女はそれぞれの思惑(異なるダンス表現)で誘惑しているよう。そして家族の怒りにふれ罰として部屋内の檻の中へ。次女は憔悴している男に牛乳をすすめ、男がそれを飲むと倒れた。これらの展開は、台詞がなくダンスと小道具、そして照明等の演出で表現している。台詞があるのは、ラスト 次女が男の死の間際に「逆らえさえしなければ、私たちなんか、ただの世間にすぎなかったのに……」と呟くだけ。そして男にそっと布をかける。天井から見た光景は、飛び降り自殺したように見える。

男が、いつの間にか育みだした忠実さ盲信的な連帯意識、それが蜘蛛の糸が絡むように男を窒息させてしまう。家族という「友達」たちは、犠牲者の立場を装い、男は一見加害者(住人)の立場に立ちながら、結果はまったく逆になってしまう。この皮肉と苛立たしさによって、現代の道化者を作り出している。「友達」とは、共同体としての原理や意識が無くなってきている今、その存在や意識を問う。人は被害者であると同時に加害者にもなり得る。男も被害者でもあるが、見知らぬ家族にとっては加害者でもあり得る。連帯とか隣人愛を言いながら実は相手のことをよく知らない。だから時と場合によって、無責任に興味を剝き出し、平気で知らん顔をする。

長女は「肉体的な愛」、次女は「精神的な愛」を「主人公に求め、また与えたいと望む」を表現しているらしい。ダンスの振付がそう思わせるのである。男の部屋を侵略する一家の偽善が、怪物化してゆくブラックユーモア。無言のパフォーマンスを通して現代社会の人間の生ー暮らしーの構造や他者との関係性が見事に立ち上がってくる。実は怖い話だと思いつつも、全体的に賑やかで滑稽に見えてしまう自分は、この公演に毒されたかも…。
次回公演も楽しみにしております。
斑点恋慕

斑点恋慕

中央大学第二演劇研究会

シアターシャイン(東京都)

2022/01/14 (金) ~ 2022/01/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

タイトルが「斑点恋慕」であることから、過去・現在の3組の恋愛話が並行して展開するが、ある時に”思い”が交差し人間臭さがリアルに立ち上がる。物語は多少ご都合的なところもあるが、言葉を尽くしても分かり合えない心情シーンは、実に巧みに描いており上手い。

思いを素直に伝えることの難しさ、同時に一定期間を一緒に過ごした相手(男女)との心地好い距離感をどう保つのか、日常にみられる光景を淡々と紡いだ物語。深まる溝、持て余す気持、それでも時間は流れ続けるから相手との関係がますます隔たってしまう。それをシンプルな舞台美術で上手く表現している。

欲を言えば、ありふれた光景(単調ゆえ)にもう少しドラマ性を盛り込み、観客の感情を揺さぶってほしいところ。また演技に関して、台詞(読み)のままであったり、感情のこもった言葉(会話)になったりと安定しないところが気になった。

中央大学第二演劇研究会の公演を観るのは2回目。前回は「ふぐの皮」(2017年9月)で、池袋演劇祭参加作品であった。その時のイメージは、正攻法的で真面目といった印象であったが、本公演も同様(そういう作劇 伝統なのかな)。
(上演時間1時間30分)

ネタバレBOX

正面が一段高く、真ん中に半円柱が立ち、上手下手にそれぞれ持ち運び可能な黒枠がある。奥は暗幕、その前をビニールシートで遮っているから、照明で微妙な彩色を帯びる。

 冒頭は丸座折りたたみ椅子を持ちながら人々が交差するように歩く。まだ誰とも知り合いではない、日常の街中の歩行もしくは生活風景が観える。
 ストーリーテラー役でもある会社員・麻田直(塩谷みづきサン)が、半円柱の後ろに回り込み、自分が履いていた赤いハイヒールを脱ぎ上(展望台)から落とす。その光景は後々へ引き継がれる。彼女と同棲しているのが古本屋バイトの倉橋悠貴(伊織サン)。知り合ったのは、悠貴が直をモデルに写真撮影をし、それが縁で直が悠貴に付き合ってほしいと告白。が、いつの間にか悠貴はカメラマンになる夢を諦め、といった態度に苛立つ直…と解釈したが、実は判然としない。
 直は、偶然 喫茶店で高校時代の友人だった女優の三好朝陽(小林悠花サン)に出会う。2人はダンス部で仲良しだったが、朝陽が突然海外(ドイツ)留学してしまう。その留学先で、悠貴と朝陽は(元)恋人同士だったという、出来過ぎたというか よくある設定か。
 さらに3組目は、イラストレーターの我妻萌香(早田菜々恵サン)と会社員・金子慎太郎(中村恭介サン)。彼女はお菓子作りが趣味で、彼のために尽くしている。一方、慎太郎は会社の仕事がうまくいかず落ち込んでいる。彼が本当に食べてくれているのか確かめるため、不味いクッキーを渡すが、そこに自ずと不信感が表れてしまう。尽く(試)す彼女、気づけない(自分本位な)彼氏、思いのすれ違いが2人の関係をギスギスさせ、ますます気まずい関係になっていく。

直と萌香は、別々だが偶然に海を観に…。帰りのタクシーの中、迎えに来た慎太郎を交え、それぞれの思いを吐露するうちに、誤解や気づきが出来ない状況であったことを思う。タクシー運転手 曽根周(ハンコ屋サン)の朴訥な言葉が印象的だ。すべての誤解や勘違いなどが氷解したかどうかは分からないが、そこそこ元の鞘に収まったような。底流には人と人との関りが、生きる上での”張り”であり”希望”に繋がるといった思いが伝わる。いつまでもラブラブといった幸せが続くか、それを持続可能な恋愛に出来るかは、それぞれの思い遣り次第。我儘や意地・虚勢を通せば、二度と戻れない過去の恋愛になってしまう。そんなことを正攻法で”ちょっと思い出させる”物語。先の赤いハイヒールは海に捨てたはずだが、これは夢だったのか気になる。仮にそうだとすれば技巧的過ぎると思う。

舞台美術はシンプルであるが、椅子や黒枠を適宜動かし、情景や状況を上手く表現させる。例えば、タクシーのドアを思わせ、その開閉によって車内と外気という空気感が違う。もちろん椅子の置き方によって喫茶店内、ブランコやタクシーの座席にもなる。舞台を作り込まないことで光(風)景に捉われることなく、逆に心象劇としての内面が浮き上ってくる。そこに「大学生公演」らしい瑞々しさを感じた。
次回公演も楽しみにしております。
東京卍メロス

東京卍メロス

E-Stage Topia

ザ・ポケット(東京都)

2022/01/13 (木) ~ 2022/01/18 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「走れメロス」(太宰治)と「東京卍リベンジャーズ」(漫画、映画化)を融合したパロディのように思えたが、やはり独自の作劇だ。公演の魅力は、個性的な人物、アップテンポな展開、凄い躍動感(走る 以外に喧嘩、舞踊等、とにかく身体を動かす)という三拍子揃ったところ。

家族や友人をも恐れ、幼い頃から道化を演じ、他人の評価にビクビクし、人から見捨てられることが不安でたまらないのが太宰治のイメージだとすれば、この物語では少し違う人物像ー関東白虎組組長 虎島鉄州を登場させる。粗筋は「走れメロス」を思わせるが、そこに敢えてのタイムリープ感、そしてヤンキー要素にSFやアクション要素が合わさった作劇。観客を飽きさせず、物語に集中させる手腕は見事!
(上演時間2時間 途中休憩なし)

ネタバレBOX

舞台セットは二段で、上手 下手に昇降する階段がある。同じように正面 左右の側面に剥き出しのパイプのようなオブジェがあり、何となく廃墟であり道路(行程)のような気もする。下段板には赤い直線が描かれ、運命の赤い糸であり 同時にこれも道路を表しているよう。シンプルな作りであるが、走る・ダンス・格闘等多くのパフォーマンスがあるため大きくスペースを確保し、舞台の昇降によって躍動感を生む。

舞台は東京・八王子市で、今では関東白虎組が友情・恋愛といった仲良くしている友人・恋人同士を見つけると暴虐を加える。これに激怒した米良進(長濱慎サン)が、組に殴り込みをかけるが、返り討ちにあう。米良には妹の結婚が間近に控え何とかして出席したい。そこで3日間の猶予をもらい、乗り物を利用せず新小岩に向かう。その間 友人・芹澤に自分の身代わりを依頼…といった内容だが、これは走れメロスそのもの。「走る」は、米良自身も以前は暴走族総長であり、密かに思いを寄せている女性もレディース総長。色々な場面で”走る”に関わりを持たせており、それを物語の見せ場にしている。

一方、妹の結婚相手の男性の素性が…。こちらも謎に包まれて といった興味を惹く設定。張り巡らせた”意図”が、運命の赤い”糸”のように手繰り寄せられ大団円へ。この走る仕打ちは、何となく仕組まれた 云わば狂言のようなもの。人は誤解と錯覚で人間不信に陥ることがある。そこを出発点とした走る行為の帰結は、自ずと原作通りの誤解を解き友情・愛情を気づかせるというベタなテーマが透けてくる。物語は人間の心理、分析または観察を深く掘り下げるといったものではなく、あくまで面白可笑しいコメディとして観(魅)せる。だからトランスジェンダーという設定やビジュアル的にアイドルやメイド(喫茶)を登場させ、さらに劇中アイドル曲「LOVEバトン」で楽しませる。

信じることの大切さと同時に、自分自身の気持に正直になること。衒いや恥ずかしがり、あるいは友人のためといった虚勢は、本当に大切な人を失う。ラスト 渋木美沙さんの「そこは譲れない!」という思いがもう一つのテーマであろう。因みに虎島組長も誤解で25年?も相思相愛の人と一緒になれないため、人間不信へ。
冒頭、友人・恋人が親しく出来ず、一定の距離感(間)を保つのは白虎組が押し付けたルールであるが、その光景が何故かコロナ禍で、演劇も、社会も大きく変わってしまった。しかし、人の思いはいつの時代でも変わらず”親密”であると…を思わずにはいられない。
次回公演も楽しみにしております。
ネモフィーラ

ネモフィーラ

演劇ユニット小雨観覧車

サブテレニアン(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/10 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

描きたいことは分かる。主人公と演劇ユニット小雨観覧車の主宰で作・演出の山野莉緒さんの思いが重なる物語である。その意味では等身大で、今の心境を如実に表していると言える。悲しみと温かさが隣り合わせにあるような…滋味溢れる公演。

自分と相手が思い描いている世界観が違うことはよくあること、思いが上手く伝えられないもどかしさ、焦りがヒシヒシと伝わる。その心情は、手紙のようにしたためた当日パンフ、そして上演後(涙の)挨拶から明らかだ。しかし公演(物語)としては もう少し掘り下げた説明が必要だろう。
(上演時間1時間20分)

ネタバレBOX

舞台美術は、中央暗幕の前に横長ベンチ、上手・下手に複数の鉢形(水)桶、下手に玩具の滑り台。これは池袋の街中風景であり、花屋や公園もしくは街路をイメージしている。シンプルであるが、物語は心象風景であり、タイトル「ネモフィーラ」を表すための花(屋)を強調している。

物語は、自他ともに認める天才音楽家である清瀬涼香(山野莉緒サン)が、公園で何かに悩んでいるところへ お兄ちゃんと呼ぶ津田孝浩(山岸大起サン)が現れ取り留めのない会話から始まる。涼香は売れっ子作詞・作曲家であるが、何故か楽曲の提供のみ。「演劇」を「音楽」に置き替え、主宰(リーダー)という立場がメンバーとの軋轢・葛藤等を生じさせる、を描く。が「立場(もしくは地位)が人を作る」と言われるように、どの世界も同じかも知れない。
一方、毎日花を買い求める孝浩、その行為に興味を抱く花屋のバイト・大野千春(トギナナミ サン)、その花屋の店長・田村麻優(やまだ まやサン)はしっかり者だが、少し翳があるようだ。

物語は、涼香周辺と花屋という2つの場所で紡がれる。或る日 涼香が失踪し、偶然 花屋で麻優と再会したところで、気持が大きく揺れ動く。心情を描く物語の中で、静かに客観的に見つめる人物が必要。その役割を涼香のマネージャー・佐久間史織(二川あおいサン)が担っている。淡々と仕事を請け、スケジュール管理を行う姿は、どこの組織にもいるような普通(普遍)の人物。その存在によって、心情という掴み難い話に追い込まず、人(誰も)が抱える悩みや苦しみといった普遍性あるドラマに仕上げている。

当日パンフに、山野莉緒さんはこの作品のことを”遺作”と書いている。「10年続けたお芝居ともお別れです」と。昨年11月に同名公演が事情(コロナ禍の影響?)によって中止になり、改めて挑んだ本公演だが…残念である。ちなみにネモフィーラの花言葉は「成功」だが、別に「許す」といった怖さも表す。タイトルに「後日譚」とあるから中止した公演内容とは違って、(改稿後は)より心情表現に近くなった、と推察する。

分かり難いのは、涼香、麻優、孝浩の関係。女性2人は天才・凡人といった台詞から音楽活動を一緒にした仲間と分かるが、孝浩と涼香、孝浩と麻優の夫々の関係が判然としない。さらに毎日花を買う理由は何か、麻優に会うためか?3人で音楽活動をしていたが、才能・音楽性の違い・人間関係等で解散したのか、もう少し説明を加えてほしいところ。

「遺作」ではなく、次の公演までの一時的「休作」と思いたいので、敢えて次回公演も楽しみにしております。
昭和歌謡コメディVol.15〜お正月だヨ!ヤーレンソーラン!大騒乱!!

昭和歌謡コメディVol.15〜お正月だヨ!ヤーレンソーラン!大騒乱!!

昭和歌謡コメディ事務局

ブディストホール(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/10 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

あぁ懐かしき青春時代...。
東京・築地の寿司屋「ひろ寿司」が舞台...昭和の雰囲気が漂う劇場内。
第一部は夫婦(江藤博利サンと田中由美子サン)、妹の白石まるみサン(本業はCA)で営む寿司屋がコロナ禍で苦境に立たされている。まさしく現在の状況を反映させた物語。今こそ創意工夫が求められる時代を思わせる。
第二部は昭和の歌謡ショーとして、当時の流行歌を歌う。最前列に”ひよこ隊”と呼ばれるファンの一団。黄色い法被を羽織、ケミカルライトを振り、テープを投げ、今事情で声援こそ禁止だが、その遙か遠景には確かに青春時代が観えた。

今回のゲストは伊藤多喜雄さん。第二部「昭和歌謡バラエティショー」の1番手としてロック調の民謡「TAKiOのソーラン節」を披露。歌い終わったところで故郷・北海道での子供時代の話。哀愁とユーモアを交えての話は滋味溢れるもので、場内は一瞬静まりかえる。御年72歳だが元気で含蓄ある言葉、逆の毒舌も印象的で喋りも上手い。

さて、日本を始め世界は新型コロナウィルス感染症の影響で疲弊している。そんな状況を一字で表したら”危”である。世の中を少しでも明るく楽しいものにしたい、この公演はそんな思いが込められているようだ。自分は堪能した。このようなドタバタコメディが上演できるのは平和であればこそ。この公演から元気をもらい、今年1年を無事に過ごして行きた~い。
(上演時間2時間 一部と二部の間に休憩)

TAP DO!劇場版20~スペシャルセレブレーション~

TAP DO!劇場版20~スペシャルセレブレーション~

TAP DO!

博品館劇場(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

2022年初観劇は「TAP DO!劇場版20~スペシャル セレブレーション(ゲスト:尾藤イサオ)」。お薦め。
㊗️20周年記念公演…「なにが飛び出すかわからない怒涛のショータイム」の謳い文句通り、タップ(ダンス)り楽しんだ約2時間のエンターテイメントショー。予定上演時間は1時間40分であったが、そこはライブとしてのワクワクそしてドキドキハラハラという観(魅)せ方によるもの。多分、日によって上演時間は前後するかもしれない。
内容は観てのお楽しみだが、休憩時間なしで次から次にジャンルの異なる演目を披露する。もちろんタップダンスは色々なシーンに組み込まれており十分堪能出来る。そこには観客(子供も何人かいた)を飽きさせない創意工夫、楽しませるといった誠意と熱意を感じる。
観た回のスペシャルゲストは尾藤イサオさん、歌はもちろんパフォーマンスにも挑戦し、このユニット公演にしっかり馴染んでいる様子で、さすがベテランといった風格。
(上演時間2時間±) 

ネタバレBOX

舞台セットは中央に階段があるだけのシンプルなもの。上手にドラム、下手にベースとキーボードの楽器。
オープニングアウトは、講談調に「TAP DO!」の軌跡をその時々の世相を重ね合わせて説明していく。このユニットは、英国エジンバラ・フェスティバル・フリンジで5つ星を獲得し、国内のみならず世界でも活躍しているらしい。

本日は、全員でのタップダンスから始まり、寸劇としてパロディ「宝DO家歌劇団の『ベルサイユのばら』」、同様に映画「タイタニック」を笑劇風にし、観客を巻き込みダジャレの連発。また、ゲストの尾藤イサオさんが丹下段平に扮した「あしたのジョー」は、ボクシングの代わりにジャグリング勝負といった観せ方が斬新だ。メンバーの年齢構成から、平均年齢が高いメンバーと20歳そこそこのメンバーを比較した自虐ネタ、ジャグリングメドレー等、多彩な演目(計17の出し物)で楽しませる。新春公演としては笑い始めにもって来い(濃い)の内容であった。

またタップダンスにしても、大縄跳びで4人が横並びで跳びながらタップダンスを行うといった高度な技を披露し、観客の度肝を抜くようなパフォーマンス。レベルの高い技量に軽妙な仕草で笑い楽しませるサービス精神が嬉しい。もちろん、演目に合わせて衣装も変え、目先の華やかさも舞台全体を盛り上げる。最後に音楽(選曲)も軽快でノリノリな感じ。当たり前であるが、ダップ(ダンス等)を聞かせる場面ではそっと控えるバランスの良さ。
チラシにある「タップダンス・ジャグリング・パーカッション・バトントワリング・チア・生演奏等々を融合したハイクオリティパフォーマンスコメディ」は誇張ではない事実。次回公演も楽しみにしております。

追記
タイタニック場面で参加(挙手)した観客に何か記念品でも進呈したのかな。20周年記念公演ということもあり太っ腹なところをみせてほしいが…。
ミュージカルうなぎ

ミュージカルうなぎ

宇宙論☆講座

雑遊(東京都)

2021/12/28 (火) ~ 2021/12/30 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

🉐二日落ち割引【100円】公演。100引きではない。公演料金はありがたかったが、夕食時にあれはないよなぁ。グーッと腹が鳴って困った。
あと、換気のせいか少し肌寒かったが、これは人(座席位置などで)それぞれ感覚が違うからな~。

さて、上演中も繰り返し強調していたが、この公演は「文化庁令和2年度第3次補正予算事業 ARTS for the future! 補助対象公演」で補助上限600万円だそうだ。紐付きが関係している訳ではないだろうが、過去公演に比べるとハチャメチャ感のスケールが小さくなったような気がする。もちろん飲酒上演ではない。過去公演では上演時間と言う概念というか意識があったのか疑わしいが、本公演は驚いたことに、ピッタリ2時間だ(当初1時間35分予定だから、宇宙論⭐講座らしいグダグダとも言えるか)。

とは言え、他劇団・団体に比べれば、常軌を逸したユーモアに啞然とさせられ、あまりにもナンセンスな表現故に観客を選び、時に置き去りにする。上演中の写真撮影はOKであるが、そんなことをやっているよりは、その場(瞬間)の禁断?の雰囲気を楽しみたいかも。

この公演の出演者・稲見和人さん(うなぎ役)の公演チラシが配付してあったが、タイトルは「宇宙論⭐講座の公演ではない企画『稲見和人に彼女ができる公演』」。その公演は無料どころか、観劇したら1人500円ずつ渡すと…。アッ、因みに法律的にこういう興行をしていいのかどうかはこれから調べます、という注記のような文あり。これの企画監修が五十部裕明氏だから、やっぱり宇宙論⭐講座風になるのかな。500円あれば、鰻弁当は無理だが、某チェーン店の牛飯(丼)ぐらいは食べられるかな👏。
(上演時間2時間) 2021.12.31追記

ネタバレBOX

劇場は新宿三丁目にある「雑遊」であるが、立地柄 飲食店が立ち並んでいる。そこに”うなぎ”と書かれた幟を立てているから実に紛らわしい。中に入ると、舞台正面にウナギ顔のオブジェ、上手から音響・照明と書かれた張紙のあるブース、下手にベース等の楽器、そしてウナギが入った水槽と めくり が置かれている。

初め物語に脈絡があるのか疑問であったが、後追いすると「命をいただく」といった結構深い内容を描いているようだ。チラシにも書かれていたが、ミュージカル「キャッツ」をパロディにしたオープニング。(ダンボールの被り物で)獣種の異なる動物が出てくるが、弱肉強食といった自然界を思わせる。食に絡んでコンビニや劇中劇での仕出し弁当へ展開していく。いくつかの小話(めくり で説明)を紡いで物語らしいものにし、何となく「命をいただく」といった内容へ。先の弱肉強食…いずれは人間の食料になっていくことを思わせる。人間は様々な命の犠牲の上に立って生かされている。これはゆきちゃん(小)役、五十部諭吉ちゃんが出演していることから、何となく絵本的な観せ方として「食育」を連想したことによる。

年末にも係らず、ウナギ役(天然・養殖)、ゆきちゃん(小・大)他7名で 計11名が出演。五十部さんの これだけのキャストを集める人望、そして満席にする集客(100円)力は凄い!
また劇団の音楽的センスが見事。役名以外に担当楽器が書かれ、ギター・ドラム・サックス・ベース・シンセサイザー・パーカッションといった楽器が奏でられる。
 
最後に、劇団が注文した叙●苑の豪華弁当、夕食時に眼前で実食されると腹の虫がうるさい。
因みに水槽から取り出されたウナギは、その後どうなったのだろう。いつも気になることが起きる。
次回公演も楽しみにしております。
ばいびー、23区の恋人

ばいびー、23区の恋人

マチルダアパルトマン

駅前劇場(東京都)

2021/12/28 (火) ~ 2021/12/30 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い! お薦め。
一見、コメディ映画のサブジャンルであるスクリューボール・コメディのようだ。住む世界(公演は本来の意味ではなく場所)が異なる男女の恋話、変わった登場人物、テンポのよい洒落た会話。だが次々に事件が起きる波乱にとんだ物語はない(いや、ラスト近くはドキッとするか)。「スクリューボール」は「スピンがかかりどこでオチるか予測がつかないボール」を指しているらしく、転じて突飛な行動をとる登場人物が出てくる映画の代名詞になっている。物語は複雑ではないが、不思議と緩い会話と忙しい観せ方に魅了されてしまう。

登場人物は25人だが、役者はわずか3人。しかも役名があるのは、主人公・町子(織田奈那サン)、その友人・明里(見里瑞穂サン)だけで、残り23人(区)は、恋人たちとして(金子学サン)が演じる。タイトルや説明から分かるように、町子が恋人たちに「ばいびー」するため23区を巡るのだが、ナレーションや説明の字幕はない。しかし、明里が叫ぶ一言で場所(区名)が一瞬にして特定できる巧さ。完全に物語だけで観せていく。物語を支えているのが舞台美術。基本的には変わらないが、街のあちこちを歩き回るロード・ドラマ感を引き出すための乱雑さが風景に見えてしまう。

役者は3人だが、舞台には多様な顔と声が次々に登場するようで、退屈する暇がない。「ばいびー」旅を通して立ち上がるのが、町子と恋人たちの関係ではなく、漫才のボケとツッコミのような町子と明里の凸凹コンビーー不思議な友情関係である。町子の歯切れの悪さ、明里の後押容赦なし、恋人たちの戸惑い往生際の悪さ、という構図が徐々に対話の形に発展していく。旅という動き、部屋での会話が忙しく交錯するうちに、奇妙な興奮状態が生まれてくる。

多くの(実際は3)人の顔と声が描かれており、本来ならば生活や暮らしといった社会が見えてくるはずだが、さすがにそこまでは想像出来ない。恋人との別れ話…悲しみで寂しい姿があれば、戸惑い微妙な感情で握手する姿もある。いずれにしても人との関わりが密(蜜)であり、こんな光景がいつかまた見られる日が来るのだろうか(コロナ禍だから再演?)。
(上演時間1時間10分)

ネタバレBOX

舞台セットは大きく2つに分かれ、町子や23区の恋人の部屋、本来の舞台と客席の間にも木枝やカラーコーン、ベンチ、ブランコが置かれ、色々な風景を観せる。メインの舞台は上手にベットがあり中央にソファや本箱、いたる所に服が散乱している。全体的には雑然としているが、そこに町子の整理できていない心持が表れている気がする。同時に1人23役を担う金子学さんが、上着を着替えるだけで23人を演じ分けるという効率的セット。

23区の恋人は、明里がこの部屋から「東京タワーが見える」、「スカイツリーが見えるんだ!」といった名所を叫ぶことで一瞬にして場所(区)が特定出来る。また23区を巡るのは、メイン舞台(上段)を降りて、サブ舞台(下段)と客席との間を行き来することで移動していることを表す。もちろん、騒音や駅アナウンスといった効果音もある。70分という比較的短い上演時間で、地理(物理)的という距離と人と人の心情(精神)的距離を実に巧く描く。

ところで、声なき声として観客の思いは、町子が23人の恋人のどこが好きなのか、だれが一番好きなのかを聞きたい。そして彼女曰くオリンピックに準えて、異種競技の金メダリストを比較しても意味がないといった回答。何となく最もな気がしたが、良い面だけを見た人の集合(23区)体とも思える。人は少なからず長・短所があって人間味があるような。逆に23区の彼氏たちからすれば、本当に付き合っていたの?という詰問がありそう。しかし物語は、あくまで町子目線で、明里の助言もあって彼氏の断捨離を軽妙に進める。23人を寄せ集めることで、逆に人の不完全さを浮き上がらせる巧さがある。
映画「婚前特急」を連想。5人の彼氏と同時に付き合っていた女性が、ある切っ掛けで運命の相手を見つけるまでをユーモラスに描いた恋愛コメディ。彼氏5人の査定を始めるが、相手からは「俺たち付き合ってないじゃん」というキツイ言葉。公演も 自分と相手の気持の相違に気づくことに...。

物語が面白いのは、登場人物のキャラクター。といっても町子のあっけらかんとした優柔不断さ、明里の常識人らしい融通(面白味)の無さ、という対照的な2人の微妙な距離感で表す。それを織田奈那さんと見里瑞穂さんが自然体に演じ、本当に中学校以来の親友のように思えてくる。そこに金子学さんの特徴を出さない23区の恋人たちが面白可笑しく絡む。劇団員でない3人が絶妙な関係性を表しており、実に新鮮だ。隣の劇場OFFOFFシアターで劇団員による公演が同時公演中ということもあるが、新たな試みとして支持したい。
次回公演も楽しみにしております。
怪勿 - monster -

怪勿 - monster -

The Vanity's

Route Theater/ルートシアター(東京都)

2021/12/28 (火) ~ 2021/12/30 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

御用(仕事)納め。今年は、新型コロナに関わる応援業務で多忙を極め、休暇を取得し難い状況であったが、今日は午後半休をとり観劇。
今年もそれなりの本数を観劇したが、音楽劇と銘打った公演はわずかである。そして出演者3名で3役全てを演じ3バージョン上演する試みというか挑戦に興味を持った。当日パンフにThe Vanity's 主宰・瑞生桜子女史が、「全く違う個性を持った3役を同じ役者が演じ分けていく面白さと、組み合わせが変わるとこんなにも違った作品に見えてくるのか・・」と書いている。自分は「Bチーム」を観たが、その印象が違って観えるのだろうか。
チラシや説明では、「私お母さん殺してきた」という衝撃的な告白 とあるが、その心境に至るまでの心情表現と状況描写が弱いのが勿体ない。3人の2001年から2021年までの20年間を1時間の中で紡ぐには無理があった、と思う。「母娘、友人、夫婦の"共依存"がテーマ」であるが、出来れば先の衝撃的な告白をした女性(母娘関係)に焦点を絞った物語にしたほうが分かり易い。
(上演時間1時間) 【Bチーム】

ネタバレBOX

舞台美術は、3人が居た児童養護施設「希望園」跡地の公園という設定。因みに上演前(施設)は小鳥の囀り、上演後(跡地の公園周辺)は車の走音が聞こえ、時の違いを表しているようだ。上手奥にピアノ、手前(客席側)にブランコ、中央奥に木(張り子、切抜き?)、下手奥に3段の台座(ジャングルジムであり地下室イメージ)、手前にベンチ。冒頭、ミホ(岡本華奈サン)が「私お母さん殺してきた」という衝撃の告白。ピアノの乾いた音が不気味に響く。

2011年12月30日深夜の公園。10年振りに再会したミホ、マリア(音羽美可子サン)、ミサト(瑞生桜子)が近況を話し出す。この日はミホの20歳の誕生日でもある。まだ何者にもなっていない彼女たち、希望を語り施設で遊んでいた時の遊戯(缶蹴り)で無邪気に遊ぶ。
2001年12月30日(10年前)、ミホが実母に引き取られ施設を出ていく時に、3人がタイムカプセルに将来の自分に向けた手紙を入れる。それから10年、今(2011年)のミホの実情は不明だが、後々明らかにされる。マリアは大学生で、それなりの男性と結婚し24歳くらいで子供を産みたいという現実(保守)的な考え。ミサトはデザイナーとして活躍したい。2021年12月30日、2人はそれなりに幸せを掴んでいるようだが、実は…(広げ過ぎて欲張った描きのよう)。

ミホは、二重人格(昼と夜の顔)の母の元…虐待を受けながら育つ。母はミホを地下室に軟禁し、売春相手を探す顔見せのため、週一回礼拝に連れ出す。ミホの唯一の望みは、マリアとミサト(10年振り)に会うこと。それが叶えられなかったから…というには時間軸の長さに対して心情と状況の説明が不十分で感情移入がし難い。軟禁し虐待されているミホの一人表現、その狂おしい姿は解る。しかし、後景の木を回りながら代わる代わる 3人が台詞だけで1年刻みの情況を説明しても心に響かない。登場しない「怪勿」をもう少し具体的に立ち上げるか、もしくは虐待の凄惨さがイメージできる出来事が必要。

音楽劇としては、冒頭こそ怪しく不気味な効果(ピアノ)音であるが、本編で役者が歌う場面は心情表現で、もちろん皆さん上手である。声質が違うためハーモニーは実に心地良い。
ミホの衣装が、12月にしては白の薄着。この衣装に薄幸(軟禁)もしくは特別な思いのイメージを重ねているのか、違和感を覚える。The Vanity'sに込められた、”虚栄心、うぬぼれ、儚さ”は十分に伝わる。
次回公演も楽しみにしております。

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