「シュガー2~いくつものツバサ~」
ジョーズカンパニー
相鉄本多劇場(神奈川県)
2013/08/16 (金) ~ 2013/08/26 (月)公演終了
満足度★★★★
ミュージカル『シュガー2 いくつものつばさ』を観た。
ミュージカル『シュガー2 いくつものつばさ』を観た。本田劇場のほとんどは,下北沢にある。ジョーズカンパニーに,誰かが連れていって欲しいと思っていたので,その意味では懐かしい思い出といえる。その後,下北沢にあるものは,だいたい体験できたが,横浜にも相鉄本多劇場というのがあったのだ。ここは,中規模なので,厳密には,小劇場ともいえない。ダンスで動きまわるミュージカル『シュガー』にはちょうど良いくらいの広さだったと思う。
内容は,回を進めて,非常にわかり易いものになっている。前半では,グループ・ダンスが感じ良かったが,後半では,シリアスな演劇部分がずっしり心に響いた。さわやか青春ものかと思うが,深いものがあって,印象に残る演劇だった思う。金光の好演技によって,Rの方は,非常にリアルなものに仕上がっていた。彼女は,前には,ダンスのキレが一人抜群だったが,今回初挑戦の小野田もぴったりあっていてきれいだったので,不思議だった。
辻は,この企画ではベテランらしい。私は,三回見て,以前とはちがって,好印象を得た。いくつか見たミュージカルとは,少しちがって,素朴な世界が多い。そこで,演出家が,自身カメラマンという設定で,効果的に舞台を引き締めていた。ダンスは,たくさん見ると,基本的な動きがいくつかあるのがわかって来る。だから,何度も見ると良い。同じ動きを集団であわせるのはきっと大変なことだろう。その美しさは,ことばでは表現できないものだろう。
七人の部長
シノザキシステムキッズ
セシオン杉並(東京都)
2013/08/10 (土) ~ 2013/08/11 (日)公演終了
満足度★★★★
シノザキ・スタジオの企画で,ゆうなっちを見た。
シノザキ・スタジオの企画で,ゆうなっちを見た。
上野ストア・ハウスから始まって,千葉こどもミュージカル『暖かいこころ』。そして,年がかわって,『天使の休日』が感動的だった。埼玉での企画では,ゆうなっちのダンスがすごい!ことに気がついた。つばさ基地などまで出向いて,アクション・スターもめざしているのだろうか。最近は,進研ゼミのCMなどにも出ているようだ。
今回は,ゆうなっちが出ていない一部『七人の部長』も見るつもりだったが,何を勘違いしたのか,三鷹にいってしまって,はいったら採決の場面になっていた。次回からは,気をつけよう。二部は,ミュージカル・ショーのオンパレードだった。二部は,ゆうなっちの勇姿が見られて救いだった。ますます,上手になるね,ゆうなっち!
あかい壁の家
オフィス3〇〇
本多劇場(東京都)
2013/08/01 (木) ~ 2013/08/11 (日)公演終了
満足度★★★★
『人間はいずれ死ぬのに,どうして生きているのだろう』
渡辺えり子『あかい壁の家』を観た。
『人間はいずれ死ぬのに,どうして生きているのだろう』と,子どもの頃から渡辺えり子はずっと思って生きて来た。おまえ,太っているな!と言う友達からの厳しい指摘で,小学校もろくに行っていない。演劇で世の中は変わるか,沢田研二に会いたい,漠然とした理由で,山形を捨て,東京に出て来た。そのような娘に,父親は,ゲーテのウィルヘルム・マイスターの修行時代を与えた。生きるとは,何だろう。生きるために,演劇をしたい。本で読めばいいものを演劇でやる必要はないのでは,なかろうか。感動した演劇の一つは,唐十郎『盲導犬』で,蜷川幸雄が演出していた。心中した男と女の意識が,たまたま町を歩いていた二人の心に入ってしまう。渡辺えり子も不条理演劇を,結構早くから実践していた。『青い鳥』,お金よりも大事なものがある,そういう世界が好きだった。演劇は,額縁を見るのではなく,役者と客が一体になるべきものなのだ。
寺山修二は,突然消えてなくなった人を探す,唐十郎は,解体されたところから,自分が新しく何かを作っていく。演劇は,親とか,知人が良く見にいく。標準的な演劇を観る場合,さほど抵抗もない。しかし,渡辺えり子のは,わからない演劇が多かった。そのために,役者の親の中では,わかるとかわからないとかでなく,感じて見るべきと主張する人もいた。細かいところは,流そうぜ。言葉に一つ一つに意味があるけど,わかんない!といっちゃうと,バカにされそうだから,無理してわかった振りしたい。あとは,慣れの問題だろう。ぼろを隠そうと早口になるだけだ。小劇場は,なんで弁当食えないんだよ。ちゃんとした椅子くらい用意して欲しいよね。
日本人は,話をするとき,暗黙の了解ってのが必ずある。そのため,多くを語らない。感覚で気持ちを伝える。あとで,どうしてはっきり言わないんだよ!というのは,どっちかと言うと,西洋人の発想なのだ。言葉を直接に,相手にはっきり伝える。欧米では,愛していると,妻にも伝える。日本人は,シャイなので,結婚前でも,後でもそんな言葉は口にしない。渡辺えり子は,女優仲間から,あなたはやっぱり演出家だと言われることがある。芝居が,世の中でどういう意味を持つか,そういうことをいつも気にする。如月小春は,子供を残して死んでしまった。渡辺えり子は,子供はいない。すったもんだの恋愛遍歴の末,年下の旦那と一緒になった。如月小春とは,シンポジウムの打ち合わせを始めた頃,永遠の別れとなった。44歳で,くも膜下出血でライバルは消えていった。
『おしん』に出た。本当の山形の人間を連れて来た。そうみんなから言われた。確かに,山形出身であった。唐十郎の『少女仮面』1982では,春日野八千代という,宝塚歌劇団の男役の半生をやった。これは,初演では,白石加代子だった。状況劇場では,李麗仙だった。渡辺えり子は,娘役の森下愛子が印象的だったと言っている。『少女仮面』に出て,渡辺えり子は,岸田國士賞をゲットし,『おしん』で一躍時の人になっていく。まだ,28歳だった。小劇場が下積みで,お金になるTV・映画の俳優が成功者ってのはあんまりひどい区分じゃないだろうか。勿論,今でも小劇場だけでは食べていけない。TV・映画関係者に見出いだされて初めて,ひとかどの俳優になったにちがいないとも言えるけれど。
劇団という厄介なものを解散して,手放すと,精神的にも経済的にも確かに楽になる。プロデュース公演が,次第に多くなっていく。39歳まで,独身でいた。「誰かいい人いないかな」。すごくごちそうしてくれて,レシートを見ると,15万円もしたことがあった。何度もデートをした。結婚も決まりそうで,あとは,劇団をほかって,自分のしあわせに突入する。そう思って,心構えしていたら,スカとなった。30歳で好きだと言ってくれた男と結婚するはめになってしまった。
『あかい壁の家』を観た。渡辺えり子の演劇を観たいと思って,本田劇場に足を運んだ。特急かいじが,大月で止まった。急遽,タクシーで高尾まで飛ばす。とんでもない金額を請求された。
演劇は,生バンドも出て来る楽しいものだった。上記の特色も出て,少し過去と未来が交錯する作品だった。なぜか,みそも○○も一緒とか言っている場面があって,なんとかみそ,というのが良く出て来た。偶然そのような,つかってみそをお土産でいただいだいた。なんという幸福。なんという偶然。
参考文献:えり子の冒険(小学館)
ジゼル
萌木の村
萌木の村特設野外劇場(山梨県)
2013/07/30 (火) ~ 2013/08/10 (土)公演終了
満足度★★★★★
『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
タリオーニとエルスラーの時代は去った。カルロッタ・グリジの時代が来た。彼女は,7歳からバレエをやっている。15歳になったとき,24際だったジュール・ペローと出会う。ペローは,バレエの指導者として優秀で,その様子は,名画ドガ『踊り子』に残されている。当時,メートル・ド・バレエは,ジャン・コラーリであった。『ジゼル』を誰が振付するか。プリ・マドンナであったグリジは,振付もやっていた恋人ペローのいいなりであった。そのために,『ジゼル』の振付は,記録としては,ジャン・コラーリとなっているが,実際には,ジュール・ペローの振付である。
グリジは,ドニゼッティのオペラでのバレエ・シーンが,初舞台であった。五幕でなく二幕の『ジゼル』は,グリジには取り組み易く,彼女を有名にした。原題は,『Giselle, ou Les Wills』で,1842年,ボードレールも崇拝する文学者テオフィル・ゴーチエが,書き下ろしたものである。ゴーチエの作品としては,もう一つ『バラの精霊』がある。ハイネの民話からヒントを得て,ユーゴー作品中の舞踏会も参考にしている。ゴーチエ同様に,バレエ好きなアダンは音楽を担当した。アダンは,視覚的に,踊り子の足を見ることが快感であったことを告白している。
『ジゼル』は,ロマンチック・バレエなので,異国趣味の,妖精物語。淡いはかない貴族と,村娘の恋という以上の意図はなかった。しかし,これが,すぐに,ロシアに渡り改訂され,フランスで上演されなくなっても,人気を得ていく。1884年頃,マリウス・プティパが大規模に作品を手直ししている。貴族のきまぐれな恋の物語は,『フィガロの結婚』『二都物語』も同様である。しかし,『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
以下,ストーリーを追うと,
村娘ジゼルの笑顔は,人を引きつける。彼女は,ダンスがとても上手である。あるとき,とおりすがりの男は,この娘に出会い恋に落ちた。しかし,彼には,許婚がすでにいた。そのことを隠しても,娘に近付きたくなって,アルブレヒトは転落していく。
村娘ジゼルのことを村で一番想っていたヒラリオンは,アルブレヒトの許婚であるバディルドと,彼女の父親を,無理やり密会の現場に引きずり出す。愛するアルブレヒトに許婚がいたことに衝撃を受けたジゼルは,もはや生きている希望を失ってしまうのである。
村には言い伝えがあった。恋に盲目となり,身を滅ばした者は,妖精となって,暗い森を彷徨う。娘たちをだました男がその森を訪れたら,妖精は復讐をすれば良い。皆でからかってやるといい。祝宴を催し,酒をのませ,毒牙にかけて,ダンスの相手をさせるのだ。妖精には,疲れという言葉は存在しない。だから,妖精たちが気の済むまで,ダンスの相手したまぬけな男たちは,気が狂うか,絶命してしまうしかないのだ。
ある日,ジゼルたちの祝宴には,二人の懐かしい顔があった。ひとりは,一方的に自分にのぼせあがって,挙句に,アルブレヒトと自分の恋を見事に引き裂いた,ヒラリオンである。もう一人は,村にたまたま寄ったために,自分のダンスを見て,自分の美に釘付けになり,はからずも恋に落ちたアルブレヒトだった。妖精たちの判断は,まず,ヒラリオンを死ぬまで踊らせて,目的を果たす。しかし,次なる標的のアルブレヒトには,ジゼルはなんの恨みも抱いていなかった。しいていえば,許婚の存在を明かさなかったことだ。ただ,最初にそのような男を誘惑したのも自分であり,恨む筋合いでもなかったのだ。この男に,本当に罰を与えて良いものなのだろうか。
というようなことになると,『ジゼル』は,きまぐれな貴族の遊びにされた恋という意味を失う。現代人の恋,不倫的な気持ちが起こるのは,自然なものか,許されざるものか,そいうシリアスな劇になる。
ところで,『ジゼル』の時代は,靴も十分に完成されていない。技術を,足の筋肉で補うのが精一杯であった。『ジゼル』の少し前の,『ラ・シルフィールド』で,初めて爪先の利用,ポワントが出現する。鳥のように軽やかで地に足がついていないこと,これを示すために,どうしたら良いだろう。一回跳ぶあいだに二回交差して,元に戻ってみよう,これが,アントルシャ・カトルと呼ばれた。
バレエの語幹bal-は,ラテン語の「踊り」を意味する。詩と音楽の融合,さらに,演劇・美術を加え,四つの要素から「バレエ」は生まれる。「バレリーナ」は,伊ballere「踊る」から来た。「マリー・タリオーニ」は史上最大のバレリーナだ。彼女は,北欧生まれのイタリア人であり,パリ・オペラ座の学校に入る。1830年,パリ民衆は,王政復古を嫌って,七月革命を起こす。ここで,パリ・オペラ座は,ときの権力者の直轄機関から,民営企業にかわる。ルイ・ヴェロン総裁は,複雑な風俗コメディを捨てた。音楽・美術に優れ,ストーリーはシンプルだが,踊りが自然に流れ出て来るようなバレエを構築した。そこで,ヴェロンは,タリオーニに白羽の矢をたてた。歴史上,ロマンチック・バレエといわれるものは,このとき出現する。
タリオーニは,風の精という当たり役を得る。 このドラマは,スコットランド大農園の子息が,許嫁との式直前に,風の精=シルフィードに心を奪われるという設定だ。風の精を一目みて,心奪われ,ジェームスは,許嫁エフィをすっぽかしてしまう。彼には,森の中で出会った妖精たちのことがどうしても忘れられなくなる。格別心を奪われたのは,シルフィードという名の妖精だ。妖精たちと,一晩中踊り,唄い,語らい,微笑みあっていた時間はあっと言う間に過ぎた。シルフィードは,妖精なので,その手に抱きしめることはできない。それは,わかっていた。悩んでいると,悪魔のささやきがあった。魔法使いマッジが,特別なスカーフをあげた。それでお好みの妖精を捕獲してしまえ。恋の炎に身も心も燃えつきてしまったジェームスは,そのようなことをすれば恐ろしいことが起こることは察知していたが,とうとう我慢できなくなる。ある日,宴が終わろうとするとき,突然,ジェームスは蛮行に及ぶ。たしかに,魔法使いマッジのいうとおり,妖精シルフィードを一度スカーフに絡みとることには成功する。だが,妖精シルフィードの羽根は,脆くも崩壊し,同時に,シルフィードの息も絶える。
この上演は,その後のバレエ史上にはかり知れない影響を与える存在となっていく。最大の功罪は,バレエの名を一方で破格の地位に押し上げたという点。それと,女子ども向きのセンチメンタルで甘ったるいスペクタルとの評価を強めてしまったという点。情景設定が,異国であり,幻想的な要素を多分に含むものが,バレエであるという認識も確立された。白い薄もののスカートのコール・ド・バレエが定番となった。シルフィードの息の根を止めた「スカーフ」は,バレエ芸術に生命力を与えた。
「ラ・シルフィード」が,1832年に初演された。マリー・タリオーニは,1837年にパリ・オペラ座を去る。彼女をスターにしたヴェロンは,彼女にライバルを与えた。パリ・オペラ座では,スターに独断場を決して与えない伝統があった。ここで,ファニー・エルスラーが抜擢された。彼女は,オーストリア人でロンドンにいたところを引き抜かれる。ヴァイオリンの名手に特訓を受ける。タリオーニは,宙を漂うように舞う。エルスラーは,しっかりと地についた踊り方をした。エルスラーは,タリオーニにとって手ごわいライバルとなった。エルスラーが,タリオーニの当たり役「ラ・シルフィード」を踊ると騒ぎになった。やがて,エルスラー自身は,アメリカに渡り大歓迎を受ける。パリ・オペラ座から,しばらくスターはいなくなった。
参考文献:バレエの歴史(佐々木涼子)
不思議の国のアリスより
劇団パラノワール(旧Voyantroupe)
サンモールスタジオ(東京都)
2013/06/20 (木) ~ 2013/07/01 (月)公演終了
満足度★★★★★
『不思議の国のアリス』
『不思議の国のアリス』
児童文学の世界では,挿絵は,作品の重要な一部である。作家ルイス・キャロルと,画家ジョン・テニエルは,歴史的な出会いであった。さらに,1832年生まれのキャロルは,1852年生まれのアリス・リデルと運命的な出会いをしている。オックスフォード大学の寮に,リデル一家がやって来た。当時,次女のアリスは,三歳であった。キャロルの趣味は,写真だった。レンズを通して,キャロルとアリスは見つめあった。そして,キャロルは,アリスの心をつかんだ。キャロルとアリスの出会いから,約160年が過ぎた。
テニエルが描いた美少女,実際には栗色のショート・カットであったが,金髪の美少女になっている。テニエルは,パンチ誌に勤務しながら,生涯38冊の本の挿絵を描いた。29歳のとき結婚したが,二年後に愛妻に先立たれた。師であり友であるジョン・リーチは,『クリスマス・キャロル』(ディケンズ)の挿絵画家である。テニエル(1820-1914)は,『船長の降船』で,プロイセン宰相のビスマルクを描いている。普仏戦争に勝利し,1871年ドイツは統一された。1890年皇帝ヴィルヘルム二世によって,ビスマルクは辞職に追い込まれる。そのときの風景である。テニエルは,20歳のとき,事故で左目を失明している。キャロルとの共同作業は,二作。アリスの中に出て来る白ウサギ,それは,どこかで一度は見ているようなイメージがある。ヴィクトリア朝時代,テニエルの挿絵で,アリスに親しみを覚えた。懐かしい気持ちになれたのだ。
『アリス』に人気が出て,キャロルは,劇化したいと思うようになった。挿絵も,当初自分で手がけようとしていたので,自分で脚本は書きたい。舞台装置も決め,俳優を選び,音楽などの演出もしたかった。キャロル自身,芝居好きであった。未完成ながら,四幕ものを手がけたこともあった。舞台上でアリスを見たいというキャロルの夢は,容易に実現できなかった。ここで,劇作家・演出家,サヴィル・クラークは,『アリス』を劇化しようとキャロルに提案する。キャロルは,これを受入れ,共同で舞台版『アリス』を作る。これは,1886年に上演された。キャロル自身は,二度上演を目にした後,亡くなっている。この演劇は,18回上演された後,衰退する。演劇としての『アリス』には,どのような問題があったのだろうか。
クラークは,子どもだけで上演したかったが,キャロルは,演技力のある大人をその中に入れるべきであると考えた。9歳下の,マイナーな劇作家に,キャロルは多くの意見を言ったが,演劇において自分はしろうとであるとの自覚はあった。初年度は好評であったが,その後は下火になっていく。キャロルは,演劇においても,もう少し言うべきは言わないといけなかった。
プリンス・オブ・ウェールズ劇場の幕があがる。妖精たちは,アリスを不思議の国に呼び起こす。わきでイモムシがパイプを吸う。白ウサギが,舞台を横切る。声をかけた白ウサギに,アリスは無視される。アリスは,チェシャ猫と踊り,歌う。そこに,帽子屋と,三月ウサギと,ネムリネズミがテーブルを用意する。帽子屋は悪いやつ。帽子屋は気違いだ。そのとおりさ。そのとおり。トランプたちが,入場する。女王は,チェシャ猫を処刑せよと言う。ハートのジャックには,罪はない。当時,『アリス』は子どものファンタジーに思われていた。その後,あらゆる大人の心をときめかすナンセンスの傑作となっていく。
挿絵画家テニエルは,『アリス』の持つ魅力を倍増した。これに対し,劇作家サヴィル・クラークはあまり評価されていない。キャロルのアドバイスでは,二作を融合させるのは至難であった。サヴィル・クラークは,凡人だったので,これに失敗した。後に続く者たちは,二作を上手に融合させている。一貫したストーリーはない『アリス』では,むしろ大胆な発想ができる。むしろ奇抜な場面を楽しむべきなのだ。常に新しいものを求めることこそ,『アリス』なのだ。芝居は,常に刷新されるべきものだ。芝居そのものを残すのでなく,人々の記憶に残る作品を作りたい。『アリス』の舞台化に失敗したサヴィル・クラークは,52歳で亡くなっている。1898年,サヴィル・クラークの『アリス』は,ミュージカルではなく,オペラとなった。
チャールズ・ラトウィッジ・ドットソン(1832-1898)は,牧師の息子だった。兄弟は全部で11人いて,彼が長男であった。11歳のとき,ダーズベリから,クロフトに移住している。母親は,47歳で亡くなっている。1868年には,牧師である父親が急逝している。児童文学としては,『不思議の国のアリス』は,まさに不思議な物語である。兄弟もいないし,友達を見つけようともしない。感銘する大人も出て来ない。冒険により,成長する主人の姿も見えない。ただ,ただ,アリスは誇り高い。キャロルの作品は,どういう出発点から生まれたのだろうか。
アリスは,未知の国に一人で迷いこむ。私はだれなの?お前はだれ?大きさが変わることは,別人になることなのか,否か。アイデンティティとは何か。イモムシの変態,身体が少しくらい変わっても,別人にはならない。自分がだれかは,自分ではなく,相手が決めるもの。ここにいるものは,みんな狂っている。おまえもだ。自己のアイデンティティの決定権をほぼ完全に他人にゆだねる。我慢ならない不条理の世界に,アリスは投げ込まれる。ひとびとが疑いを持たない地位・身分なんて,脆いものなのだ。背景がちがえば,価値などないのだ。
キャロルは,成長するにつれて,リデル家と,アリスと切り離されていく。キャロルとリデル家は,もともと住む世界がちがったのだ。横柄で冷酷な女王,人がいいだけの愚鈍な王,彼らのキャラクターは,実在したのだ。アリスを愛するキャロルから,遠ざけた無粋な大人たち。『アリス』作品中に出て来るのは,おかしげな大人の影,理解されないキャロル自身が批判的に感じた価値観だ。しかし,気位の高さ,と使命感に燃えるアリスは美しい。アリスのアリスらしいところは,自分を信じる勇気ある子どもであることだ。
参考文献:出会いの国のアリス(楠本君恵)
カタルシツ『地下室の手記』
イキウメ
赤坂RED/THEATER(東京都)
2013/07/25 (木) ~ 2013/08/05 (月)公演終了
満足度★★★★
ドストエフスキー『地下室の手記』を読んで
ドストエフスキー『地下室の手記』を読んで
俺は病んでいる。ねじけた根性の男だ。人好きがしない男だ。・・・自分のどこが悪いのかもおそらくわかっちゃいない。・・・今は,四十だ。昔は役所勤めをしていたが,もうそれもやめた。・・・「賢い人間ならおよそ,まともな何者かになれるはずがない。何者かになりうるのは愚か者だけだ。」・・・退職して,この穴蔵のごとき部屋に引き籠ったのだ。・・・俺も,自分自身について話すことにする。
そもそも俺は周りの誰よりも賢い。・・・どうせ,俺は誰にも復讐できやしまい。・・・自分を人間でなくネズミだと,真面目に考えたりする。・・・・激しく動揺したかと思うと永遠に揺ぎない決心をし,その一分後には再び後悔の念に苛まれる。・・・闘うべき敵の姿は見えないのに,痛みはある,という意識。・・・自分は,ただいたずらに己も他人も苦しめていらいらさせているだけだ。・・・
ドストエフスキー『地下室の手記』を学生時代以来,再読した。これには,地下室の部分と,ぼた雪に寄せて,の二編が収録されていた。ナボコフによれば,『地下室の手記』は,ドストエフスキーの主題,方法,語り口を,もっともよく描き出した一枚の絵だという。自意識過剰で,猜疑心が強い,誰かを愛することはしないで,それでいて,嫉妬心は強烈。哲学的考察ばかりする割りに,日常にあって,不器用で,寂しがり屋である。ネガティブきわまりない作品。
1996年の12月14日から,私は,ブログ活動を開始した。当時,大学などでのみWWWは発信できる状態だった。そこで,半年遅れて,Niftyのブログに挑戦した。あれから,随分たち,今でも私は,その時ファンになってくれた女子大生が作ってくれた二つのロゴを大切に使用している。
インターネットは,双方向性がある。そのために,地下室で多くの本を読み,過去にあった同窓会での苦い経験とか,風俗店での失敗などをドストエフスキーの原作は,少し異質の世界である。インターネットでつながる世界は,不完全だが,もはや,そこで一人で呟く中年男の苦悩は,容易に笑いのタネになる。自分で,ブログや,動画サイトで,不特定多数とおしゃべりをしているからだ。
演劇『地下室の手記』は,原作のイメージとちがって,おしゃれな出来上がりとなっていた。それは,売春婦として登場した女の子が,結構光っていたからだ。『地下室の手記』は,イカレタおじさんのたわごとではある。しかし,結構多くの人間がこういった傾向を少しは持っているものだ。とりわけ,妻がいて,子どもがいるような人は,ここまで落ちることはないと思う。独身で,高い年齢までいくと,そこには,仏教の悟りのような世界で,つまり菩薩にでもなった精神に向かうしかない。地下室に出口はないと思う。
参考文献:『地下室の手記』ドストエフスキー,光文社
飛龍伝
COTA-rs
シアターサンモール(東京都)
2013/08/01 (木) ~ 2013/08/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
ぼくには,別役さんに見えないものが見える。
演劇人で,小説家であった,つかこうへいが,2010.7.に,62歳で亡くなっている。知名度が高いものは,『熱海殺人事件』(戯曲)である。つかは,演出家としての活動が有名である。映画『鎌田行進曲』は,つかによる脚本である。1982.深作欣二監督で一世を風靡した。彼は日本生まれの韓国人であるが,その事実はあまり知られていなかった。つかの作品では,『戦争で死ねなかったお父さんのために』は,熱海とはかなり性格のちがうものだ。
『統一日報』の記事で,母親と初めて祖国の地を踏んだことが掲載された。朝日新聞にも,同様の内容が出ている。小説『鎌田行進曲』で,直木賞を受賞した頃の話である。熱海は,日本的なギャグの集積といえる。これを,韓国で上演することになる。原作をそのまま出すべきか,否か。『広島に原爆を落とす日』は,旧日本軍が,朝鮮の国王を殺害,妻と子どもを日本に強制移住させる話だ。つかは,非常に強い民族的気概を持った作家だ。
『戦争で死ねなかったお父さんのために』は,戦後30年経って,召集令状が岡山の許に届く。すべてはっきりしない幻想性。日本人の精神構造をからかったものか。人気のある作品が,作品的に文芸的価値から遠いことが,つかの場合ある。逆に,目だったものでなく文芸的に質の高い作品群が別にあるということになる。熱海などは,人を笑わせようとするギャグがくどい。事実究明もそっちのけ。つかの観客の笑いは,ナンセンスといえるのか,いや,そうではないのか。
『ロマンス』は,『いつも心に太陽を』として上演された。二人の競泳選手は,幼馴染で,国体で再会するが,片一方はそのことに気づいていない。平易だが,強い印象で書き出し,深い陰影を醸し出す作品である。小説作品が,高度に開花したのは,演劇『鎌田行進曲』の台本を小説化し,直木賞を受賞した時期である。演劇人は,舞台用の明瞭な台詞を第一に考える。そのために,小説,純文学に求められる,言語的な幅の広さが乏しくなる。また,他人と共有できるやさしい言葉で,新しい感覚を出すことを狙った。
つかは,作品そのものが面白くなければ話にならないと考えた。演出重視の姿勢である。その場合,主題は,いつも明瞭に意識されるとは限らない。つまり,作品のテーマより,まず,演出が第一なのである。これは,小説創作の引きこもり状態より,濃厚な人間関係がある演劇活動を愛した。初期の未熟な作品は,演劇活動をとおして,改作される。見事に昇華された。『初級革命講座 飛龍伝』が典型的な例である。ちなみに,評論という行為一般をとらえると,それは,純文学の世界のしろものであり,大衆文学にあっては,評論はさほど重視されないといえる。
熱海は,70年代演劇界に衝撃を与えた。笑いの要素を前面に押し出し,新風を吹き込んだ。富山県警から,捜査一課への転任する刑事。取調べは,ひどくでたらめ,でっちあげが起こる。容疑者は,長崎出身だ。つかの作品では,笑いの中に,いつも悲哀があった。つか全体では,熱海以外の作品では,くどいまでのギャグは姿を消していく。熱海と,飛龍が,改変につぐ改変であったのに比べ,『鎌田行進曲』には続編が出たものの,本編における改変はほとんどなく,基本構造は一貫している。『鎌田行進曲』の出来に,つか自身満足していたことによる。
一般的には,時代に合った新しいものに変えるのが,つか流である。原型を留めないほどの改変もある。飛龍はとくにその傾向が強い。左翼的運動で負傷した人々の悲哀。登場人物のあだ名の複雑性。場面転換の多さ。状況の進捗が見えにくい難解小説的である。神林美智子が,敵方に近付くストーリーが,途中で獲得される。熱海に比べ,飛龍の改変は,時代に合ったものという点では動機不十分である。現代史を作品に盛り込むことは,学生運動に対する共感があったものだろう。機動隊と全共闘委員長の禁断の恋。それしか,つかには,作品をうまく表現できなかったのだ。中卒の機動隊が,実は,社会的弱者でありながら,権力の,体制側の手先として消耗されていくのが,納得いかなかったのだろう。
在日コリアンとしての,作風を研究すべきか,否か。ある時期あった,つかの毒は何だったのか。つかの演劇では,あったはずの毒がなくなっていく。どぎつさ,猥雑さも薄くなっていく。ただ,つか現象が時代のものであったので,笑いの感覚の変化とともに,消えていったものもある。笑いから少し距離を置いて,弱い立場の人のことを多く考える。つか作品の人物は,なべて饒舌だ。自分の意見をとことん表明する。遠慮して立ち去るようなやわな存在はいない。ののしり,罵倒し,ヒステリックになりながら,言うべきときは,最後まではっきり言うのだ。
相手の本性を見るには,敬語を使え。突然,相手が敬語を使わなくなる。その時,何かが見える。つかの作品は,人間関係が安定している。運動家の木下は,神林美智子との出会いでは,ため口をきく。同棲し,やがて,神林美智子は,委員長になる。そこで,木下は口調を変える。
「ぼくには,別役さんに見えないものが見える」とつかは言う。この日本で,在日コリアンはどう生きるべきなのか。外国籍のまま公務員になれる国だって,世界にはある。「私には他の劇作家が見えないことも見えるのだ」。『広島に原爆を落とす日』の主人公は,日本軍に殺害された朝鮮国王の息子である。犬子恨一郎は,天皇を崇拝する。御前会議には召集されなかった。かわりに,真珠湾攻撃を命令される。うまく利用されたのだ。韓国に住みたい。しかし,自分は,うまく住めない。韓国の生活に関心はある。自身のことは,在任とはいわず,韓国人と言っている。
参考文献:つかこうへい 笑いと毒の彼方へ(元徳喜)
カタルシツ『地下室の手記』
イキウメ
赤坂RED/THEATER(東京都)
2013/07/25 (木) ~ 2013/08/05 (月)公演終了
満足度★★★★
『地下室の手記』という演劇を観た。
時間は,100分ほどであった。まず,一人芝居なのだろうか,二人出て来るのか気になった。とにかく始まるとほとんど中年男性ひとりだったが,しばらくすると,美しい女性がさりげなく舞台のそでにいてくつろいでいた。主人公が,友人とケンカ沙汰になりワインを浴び,逆に洗濯代とかいって紙幣を数枚もらうあたりで消えた。と思ったら,主人公は,風俗店に引っ張りこまれ,そこにさっきの女が待っていた。いよいよ,すごい濡れ場になると思ったら,奇人である主人公は説教を開始。
このような場所で,一体何をやっているのですか。もっと他のバイトもあるでしょうに。これに対し,ギャルは,これだって仕事で,考えてやっているのですから,そんなに悪く言わないでくださいね。いや,やめておくがいい。どうせ,抜けられなくなって,普通の奥さんになれないんだ。だから,私を頼って,来なさい。
ところが,この彼女は,いいチャンスだから,店をやめたい。あなたが,引き留める店長を直談判してくれないか。そしたら,わたしたちだって,つきあえるじゃないの。
といった,内容の演劇だった。『地下室の手記』というのは,ドストエフスキーの名作で,フランスの心理小説などばかり読んでいた学生時代とても新鮮な作品だった思い出がある。内容は,いくらか重なるイメージもあったが,翻案ともいうべきものだろう。でも,部屋に閉じこもり,過去の自分体験にあれこれ思索している様は,やはり『地下室の手記』にほかならない。
おもしろいといえば,おもしろい。しかし,笑っていられないのは,そのような主人公は自分のことかもしれない。結局,ひとりで,何か悩んでいる。そこでは,誰も,自分の苦しみはわからない。今いる境遇から,きっと脱出できる。しかし,地下室にこもっていては,何も改善されない。なにかしないと。なんらかの解決法はあるはずだ。
飛龍伝
COTA-rs
シアターサンモール(東京都)
2013/08/01 (木) ~ 2013/08/04 (日)公演終了
満足度★★★★
『飛龍伝』は,60年代安保反対闘争で死んでいった樺山美智子の話である。
『飛龍伝』は,60年代安保反対闘争で死んでいった樺山美智子の話である。
元徳喜という人が,つかこうへいのことを書いた本を出した。つかこうへい 笑いと毒の彼方へ(彩流社)。いくつかのことで,非常に参考になった。たとえば,つかは,映画化されるとき,新たにつか自身が映画用台本,いわゆるシナリオを書いて提供した。ずばぬけて出来が良いのは,『蒲田行進曲』だ。演劇の台本を小説化し,直木賞をもらっている。1982年。で,すぐに,映画化されている。どうも,倉岡銀四郎には,モデルがいたようだ。李銀四という韓国人である。
『飛龍伝』では,当時機動隊に中卒の人間が多かったことに注目し,作品に社会的弱者が苦悩する姿を描いた。作者の複雑な心理を反映している作品には,弱い立場のひとたちに共感を持っていたという事実がある。そして,彼は,韓国人としての強い意識があった。彼の作品では,悪人らしい悪人は登場しない。改作を繰り返すことが多かった。『熱海殺人事件』という作品で,大衆受けしたものの,実は,彼自身その後シリアスなものに見るべきものがあった。
『飛龍伝』は,60年代安保反対闘争で死んでいった樺山美智子の話である。彼女は,境遇が複雑で,インテリになってはいるが,思想的には反体制的である。一平と,桂木は,幼馴染である。この二人は,気が付くと,全共闘と機動隊の首脳部に配置される。桂木は,一計を案じて,自らの恋人美智子を一平に潜入させてスパイ活動を強いる。やがて,美智子は,子どもをはらみ女性としての喜びを得るが,最終決戦で,夫である一平になぐり殺されることになる。
一平に近づき,一平は,美しいインテリ女にのぼせあがる。いつ離れていくのか不安で仕方ない。しかし,一平が,美智子に思う気持ちは非常に純粋なものがあって,ウソがない。そのために,美智子がスパイで潜入して来た事実との間で苦悩し,出来てしまった子どもに対しても責任がとれない。結局,自らの手で,愛妻を殺し遺児を育てるはめになる。人は,人を好きになるとき多少屈折した状態に陥るものなのかもしれない。実際,時間がたってみれば,破局するとしても,ひたむきになっている姿は美しいと感じる。自分もまた,人を好きになるときは,かけひきはしないで,真正面でぶつかりたいものだと思った。
ジゼル
萌木の村
萌木の村特設野外劇場(山梨県)
2013/07/30 (火) ~ 2013/08/10 (土)公演終了
満足度★★★★★
ロマンチック・バレエ『ジゼル』を見た。
まだ,演劇・ミュージカルを観ることになって,二年とか三年とかしかならない。いまでも,何が好きなのかよくわからない。特に好きなものを決めて,そればかり見るのが良いとも思わないので,最近は,バレエなども見る。
一か月ほど前,『不思議の国のアリス』を見た。これは,上野でフルオーケストラだったので,演出ほか素晴らしい体験ができた。清里で,自然の中で行うバレエが,どんなもんであるか,それが気になって『ジゼル』見ることになった。
いつの日か,クラシック・バレエもいいとは思うけど,『ジゼル』のようなロマンチック・バレエが今の私には結構魅力的だ。むしろ最初,こういうストーリーがバレエの中に織り込まれているものが好きだ。それでは,演劇の部分と,ダンスの部分が,明確に区別されたクラシック・バレエ,たとえば『白鳥の湖』のようなものは,どう優れているのか。そのことは,またいつの日か,楽しみにしたい。
清里『ジゼル』は,野外ステージで,広大な自然をバックに美しい演劇が見られた。昼間,練習風景も見ている。ほとんどがラフな格好をして,何度も指示されながら,懸命に練習しているのを見ると,自分の関係者のような気分になれる。その親近感のわいた集団が,夜間に幻想的なステージを次々に展開するのは,驚いた。ショー・アップされた『ジゼル』は,心にしみこんだ。
ロマンチック・バレエなので,ストーリーがしっかり理解できた。ジゼルは,心ならずも結婚の約束をした彼女がいる貴族と恋に落ちる。そのことでは,両方とも問題がある。でも,二人が深く愛しあっていた様子は,美しいバレエのテクニックで見事に表現されていく。二幕しかない『ジゼル』は,後半がさらに凄い。森の墓場で,アルブレヒトは,ジゼルを懐かしく思い出す。すると,その声に森の妖精となったジゼルの幻想が,よみがえる。
マシュー・ボーンの『ドリアン・グレイ』
TBS
Bunkamuraオーチャードホール(東京都)
2013/07/11 (木) ~ 2013/07/15 (月)公演終了
満足度★★★★
ロマンスは金持ちの特権かもしれない。
ロマンスは金持ちの特権かもしれない。カネがなければ,魅力的な男であっても仕方ない。ジェイン・オースティン『高慢と偏見』のことばには,真実がある。
『ドリアン・グレイの肖像』におけるドリアンは,肖像と入れかわることで,自らの「美」の破壊を免れる。『サロメ』においては,ヨカナーンの首は,盾に載せられ牢から出て来る。サロメ自身は,兵士に盾で圧殺されている。
『ドリアン・グレイの肖像』は,西欧において,抜群の知名度があるが,実在はしない絵画なのだろうか。ドリアンは,単に,女々しい美青年なのだろうか。永遠の若さと引き換えに,魂を売った男。ドリアンは,画像と入れかわりたいと願った。その願いは叶った。だが,醜くなった画像を見るに耐えられなくなる。永遠の美しさを持つことの意味とは何であろう。画像を自ら破壊すると,ドリアン自身も死んでしまう。作品の題は,どうして,『ドリアン・グレイ』でなく,『ドリアン・グレイの肖像』であらねばならなかったのだろうか。ドリアン自身は,心のどこかで,美しい芸術作品に自らがなってみたい衝動があったのかもしれない。
『幸福な王子』『わがままな大男』という,童話にあって,オスカー・ワイルドは,センチメンタルな童話作家に過ぎない。しかし,実は,彼の本質は,そのようなメルヘンな世界を越えたところにあった。
参考文献:オスカー・ワイルドにおける倒錯と逆説(角田信恵)
琉歌・アンティゴネー
ピープルシアター
シアターX(東京都)
2012/10/10 (水) ~ 2012/10/16 (火)公演終了
満足度★★★★
ギリシア悲劇とは,どういうものだろう?
ギリシア悲劇とは,どういうものだろう?
ギリシア悲劇は,神話に題材をとる。これは,現代演劇の作劇とか,世界小説の方法とちがっている。ギリシア悲劇は,伝説に近いものだ。伝説では,筋そのものを変えることはほとんどない。古代ギリシアでは,悲劇と喜劇が対立概念とは必ずしもならない。ギリシア悲劇は,楽しみでみんなが観た時代なのか,祭りの儀式として存在しただけのものなのだろうか。女性観客は存在したのか,出入り禁止だったのだろうか。
ギリシア悲劇は,劇であって,叙事詩でも抒情詩でもない。すべてが,台詞と歌詞でできている。ギリシア悲劇の特徴で,殺人場面は直接表現されることはなかった。ギリシア悲劇は,ほとんど1500行ほどのものだ。さらに,場所,筋,時間が,原則ひとつである。
ギリシア悲劇『オイディプス』は,神託を受けて,それを回避しようとする物語である。しかし,主人公は,神託その、ものを回避しようともがく。しかし,結果として,主人公の意図に反して,神託そのものになって,絶望に向かう。おまえは,所詮人間なので,神の意思に逆らっても無駄なのだ。オイディプスは,自分の父が誰で,とにかく真相を追究したかった。真実は,いずれ明らかになる。眼が見えるものには,真実が見えない。見えているときに,見るべきものを何も見ていなかった眼は,闇の中で今後見るべきものを見ることになるのだろうか。
参考文献:ソフォクレース『オイディプス王』とエウリピデース『バッカイ』(逸見喜一郎)
ヴェローナの二紳士
ハイリンド
吉祥寺シアター(東京都)
2013/07/08 (月) ~ 2013/07/15 (月)公演終了
満足度★★★★★
『ジゼル』と,不倫問題で共通している。
『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
タリオーニとエルスラーの時代は去った。カルロッタ・グリジの時代が来た。彼女は,7歳からバレエをやっている。15歳になったとき,24際だったジュール・ペローと出会う。ペローは,バレエの指導者として優秀で,その様子は,名画ドガ『踊り子』に残されている。当時,メートル・ド・バレエは,ジャン・コラーリであった。『ジゼル』を誰が振付するか。プリ・マドンナであったグリジは,振付もやっていた恋人ペローのいいなりであった。そのために,『ジゼル』の振付は,記録としては,ジャン・コラーリとなっているが,実際には,ジュール・ペローの振付である。
グリジは,ドニゼッティのオペラでのバレエ・シーンが,初舞台であった。五幕でなく二幕の『ジゼル』は,グリジには取り組み易く,彼女を有名にした。原題は,『Giselle, ou Les Wills』で,1842年,ボードレールも崇拝する文学者テオフィル・ゴーチエが,書き下ろしたものである。ゴーチエの作品としては,もう一つ『バラの精霊』がある。ハイネの民話からヒントを得て,ユーゴー作品中の舞踏会も参考にしている。ゴーチエ同様に,バレエ好きなアダンは音楽を担当した。アダンは,視覚的に,踊り子の足を見ることが快感であったことを告白している。
『ジゼル』は,ロマンチック・バレエなので,異国趣味の,妖精物語。淡いはかない貴族と,村娘の恋という以上の意図はなかった。しかし,これが,すぐに,ロシアに渡り改訂され,フランスで上演されなくなっても,人気を得ていく。1884年頃,マリウス・プティパが大規模に作品を手直ししている。貴族のきまぐれな恋の物語は,『フィガロの結婚』『二都物語』も同様である。しかし,『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
以下,ストーリーを追うと,
村娘ジゼルの笑顔は,人を引きつける。彼女は,ダンスがとても上手である。あるとき,とおりすがりの男は,この娘に出会い恋に落ちた。しかし,彼には,許婚がすでにいた。そのことを隠しても,娘に近付きたくなって,アルブレヒトは転落していく。
村娘ジゼルのことを村で一番想っていたヒラリオンは,アルブレヒトの許婚であるバディルドと,彼女の父親を,無理やり密会の現場に引きずり出す。愛するアルブレヒトに許婚がいたことに衝撃を受けたジゼルは,もはや生きている希望を失ってしまうのである。
村には言い伝えがあった。恋に盲目となり,身を滅ばした者は,妖精となって,暗い森を彷徨う。娘たちをだました男がその森を訪れたら,妖精は復讐をすれば良い。皆でからかってやるといい。祝宴を催し,酒をのませ,毒牙にかけて,ダンスの相手をさせるのだ。妖精には,疲れという言葉は存在しない。だから,妖精たちが気の済むまで,ダンスの相手したまぬけな男たちは,気が狂うか,絶命してしまうしかないのだ。
ある日,ジゼルたちの祝宴には,二人の懐かしい顔があった。ひとりは,一方的に自分にのぼせあがって,挙句に,アルブレヒトと自分の恋を見事に引き裂いた,ヒラリオンである。もう一人は,村にたまたま寄ったために,自分のダンスを見て,自分の美に釘付けになり,はからずも恋に落ちたアルブレヒトだった。妖精たちの判断は,まず,ヒラリオンを死ぬまで踊らせて,目的を果たす。しかし,次なる標的のアルブレヒトには,ジゼルはなんの恨みも抱いていなかった。しいていえば,許婚の存在を明かさなかったことだ。ただ,最初にそのような男を誘惑したのも自分であり,恨む筋合いでもなかったのだ。この男に,本当に罰を与えて良いものなのだろうか。
というようなことになると,『ジゼル』は,きまぐれな貴族の遊びにされた恋という意味を失う。現代人の恋,不倫的な気持ちが起こるのは,自然なものか,許されざるものか,そいうシリアスな劇になる。
ところで,『ジゼル』の時代は,靴も十分に完成されていない。技術を,足の筋肉で補うのが精一杯であった。『ジゼル』の少し前の,『ラ・シルフィールド』で,初めて爪先の利用,ポワントが出現する。鳥のように軽やかで地に足がついていないこと,これを示すために,どうしたら良いだろう。一回跳ぶあいだに二回交差して,元に戻ってみよう,これが,アントルシャ・カトルと呼ばれた。
参考文献:バレエの歴史(佐々木涼子)
青春ガチャン
ソラリネ。
上野ストアハウス(東京都)
2013/07/24 (水) ~ 2013/07/28 (日)公演終了
満足度★★★★
これは,とても感じの良いものだった。
上野ストアハウスで,『青春ガチャン』という演劇を観た。これは,とても感じの良いものだった。話の内容は,少しずつわかって来る。ある男が,猫の飛び出しで運悪く天国にいってしまった。その猫も責任を感じて,下界にいって来いとすすめる。ただし,その姿は,申し訳ないが,猫のままで,心が届くかどうかはわからない。でも,そこは懐かしい友人なので,次第に皆彼が戻って来たことを感じるのだ。
さて,下界に戻ってみると,みんなドタバタ劇を演じていた。上手にやっているなんて一人もいない。心配で仕方ない。一番心配なのは,もちろん,残して来た恋人がどうしているのか,である。ほかにも,恋愛がどうしてもうまくいかないなど,生きることに苦しんでいた。でもさ,なんとかブスでも,無職でもやっていくさ。そうして残ったぼくらは,なんとか自分を大切にしたい。天国から,それを手伝ってください。見守ってください。そういうメッセージが聴こえて来るようなものだった。しんみりした。
フラッパーズ~私たちにできること~
ジョーズカンパニー
小劇場 楽園(東京都)
2011/08/09 (火) ~ 2011/08/21 (日)公演終了
満足度★★★
がんばれ!ゆー
いつも楽しい演劇をありがとうございます。
プロを交えないで,若いメンバーで演劇を作る
のは,苦労も多いでしょうが,自分たちが主役
なので,やりがいも大きいと考えます。
一回一回良い作品を作ってください。
応援しています。
マクベス
東京二期会
東京文化会館 大ホール(東京都)
2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了
満足度★★★★★
ヴェルディ『マクベス』
オペラという場合,ミュージカルとか,オペレッタというものは入らない。オペラは,宮廷文化から,近代市民社会への移行期に発展した。絶対王政の威光を表現したものだったから,オペラは,浪費芸術でもあった。もしかして,バッハは,プロテスタントで倹約思想家だったから,オペラを書いていないのかもしれない。
最初,古代ギリシアの悲劇復興をめざして,気がついたら,単なるショーであり,物語性より,スペクタル性の強いものになる。パターン化され,体制芸術といえる。グルックは,オペラの脱ショー化をめざす改革をおこなった。いずれにせよ,フランス革命までは,イタリア・オペラこそが,正当なものだった。ヨーロッパ全土で,イタリア語によるイタリア・スタイルが上演された。フランス流は,バレエを使い,合唱を重視した。また,音楽よりも,文学性に重点があった。
バロック・オペラにおいては,作品よりも,場に比重があったかもしれない。貴賓席にいることは,大衆を見下ろすことであり,また,彼らの視線を浴びることでもあった。一番前で観るのは,むしろはしたないことだった。
オペラが時代を超越して,普遍的な芸術になるには,モーツァルトの存在が大きい。彼は,喜劇をオペラとして,人間性のある作品で人気を得た。人間業とは思えないカストラートは目立たなくなる。テーマも,男と女の哀しいすれちがいを描く。
オペラの本質は,御用芸術であって,時の支配者の好みでスタイルは変わっていく。オペラの観客層は,やがて,教養ある貴族でなく,一般大衆も取り込んでいく。ナポレオンが失脚すると,また次の時代に突入する。ロッシーニ『ウィリアム・テル』が有名。グランンド・オペラの魅力は,音楽と台本と舞台が一体となる総合演劇といえる。ビジュアル性を尊び,事前に台本など読まなくても楽しめるようになっていく。視覚効果を重視したといえる。この頃,オペラの大衆化を見越し,ヴェロンは上階のボックス席を廃止し,天井桟敷に改造した。
18世紀まで,オペラにおいて,イタリア様式が唯一の国際様式だった。やがて,政治体制の不安定な国々で,国民オペラが生まれる。誰もが,いつかどこかで聴いたことのある,遠い民族の歌声の記憶,といったものだ。異国オペラと呼ぶべきものもある。異国を舞台として,白人と現地の娘との悲恋なども多かった。スッコットランドを舞台としたヴェルディ『マクベス』1847も,異国オペラに含まれるかと思う。
浅薄なイタリア,フランスのオペラを追放し,総合芸術としてのオペラを確立したのは,ワグナーということになる。オペラは,貴族の遊びで,シャンパンのように消えてゆく性格をもっていた。しかし,これを,文化財と考えるようになっていく。定番の名作,すなわち,レパートリー・オペラという言葉も1845年頃から,イタリアで使われる。ワグナーによる,総合芸術としてのオペラという理念が浸透するにつれて,オペラ上演における演出家の地位ははね上がる。映画という強力なライバルの出現により,自らの存在理由に,オペラは苦悩する。
参考文献:オペラの運命(岡田暁生)中公新書
ドングリコッコとコッココッコの冒険
市川市文化会館
市川市文化会館(千葉県)
2013/07/21 (日) ~ 2013/07/21 (日)公演終了
満足度★★★★
ミュージカル『ドングリコッコとコッココッコの冒険』を市川市民文化会館で観た。
ミュージカル『ドングリコッコとコッココッコの冒険』を市川市民文化会館で観た。このお話は,ハイキングに出かけて,そこで遭難してしまう親子の集団が主役である。夢のような世界にまぎれこむと,森の妖精やら,動物たちが,意外にも楽しい時間を与えてくれる。本当に山の中で道に迷うと,これは,腹もすくし,寒いし,体調を崩し始めるようなことも多く,悲惨だ。しかし,この物語では,親子で森の中で楽しく遊ぶ。
演劇の構成は,比較的良く知られている童謡がいくつか紹介されている。子どもの遊びは,気が付くとテレビ・ゲームのようなものが主になってしまった時代かもしれない。そこでは,塾などに通うスタイルが多いと,集団で縄跳びとか,かくれんぼなどする暇もない。また,街の中では,神社のような遊び場所も減少し,子どもが動きまわることもできない。さらに,子どもだけでどこかで遊んでいる状態が,危険だという考えもある。
演劇・ミュージカルは,まず,固い身体をほぐすことから出発するという人も多い。その点で,早くから,身体全体を十分に使って,ダンスをし,大きな声で合唱するのは,基本的な幼児教育にもなるのだろう。こういったことをしっかりやると,言語による障害ももしかして出にくいかもしれないし,改善されるだろう。また,なんらかの運動をすることは,明るい性格もできるにちがいない。
市民が,参加型で始める演劇・ミュージカルは,こてこてのプロ集団ほど充実はないし,演出効果も比較的単純なものだろう。結局,学生演劇などが,のりで,なんかおもしろいものをやっているのと同じで,自己満足ぽいかもしれない。演劇・ミュージカルに何を求めるかというちがいがそこにはあるが,ずっと観ている人は,いつかは,自分もステージに立ってみたくなるものかもしれない。観るのに比べ演技するのはたいへんだ。
それにしても,子どもを持つ親には,そこそこの責任はあり,緊張感もあるとは思うが,いつも楽しげである。とりわけ,親子で,楽しいミュージカルを作り,近所の仲間に観てもらうのは魅力的な空間だ。子どもは見ているだけで楽しいものだ。人の子どもを見ていると,自分も欲しくなるとも良く言われる。でもすぐ,大きくなってしまう。
ジュリアス・シーザー
華のん企画
あうるすぽっと(東京都)
2013/07/11 (木) ~ 2013/07/16 (火)公演終了
満足度★★★★
子供のためのシェークスピアカンパニー『ジュリアス・シーザー』を観る。
子供のためのシェークスピアカンパニー『ジュリアス・シーザー』を観る。
『ジュリアス・シーザー』は,前半を終わる頃,あっけなく殺害されてしまう。主人公であって,『オリバー・ツイスト』も後半ほとんどで出来ない展開もあるが,シーザーはこれとは少しちがう。まず,彼の,「遺言」に民衆が振り回される。その意味で,死んでもしばらくシーザーは生きている。
さらに,驚くのは,マクベスで良心の呵責があったように,謀反人たちは,シーザーの呪いに負けて,相次いで自害していくのだ。だから,このように,亡霊としてのシーザーは最終決戦の場面でも十分生きていた,よみがえっていたのである。そういう風に考えても良いことになる。
『ジュリアス・シーザー』は,1599年に書かれた。その後,『ハムレット』を書いている。作品そのものは,プルターク『英雄伝』を参考にしている。プルタークのものを劇化したが,その手腕がすごかったことになる。おまえもか,は,プルタークにはなく,ほかから取っている。
この演劇では,印象的だった場面がひとつあった。それは,権力の座にすわると,あわれみというものを人は忘れる,ということばだった。そこで,シーザーは,最初謙虚な人でもあったが,野心家は,謙虚さを最初装っているにすぎないのだと言い切る。一皮むけば,野心家は,暴虐非道に走る人なのだと。
『ジュリアス・シーザー』これも,また,サラリーマンの話かもしれない。シーザーは,ずっとがんばっていた。ローマが大好きで,ローマのことを考えていた。しかし,そこで生き残るのはなかなかたいへんだ。
職場には,ポンペウスもいて,グラッススもいて,シーザーを加えて,元老院がこれをあやつる。いいか俺たちのことを良くきけよ。悪いようにはしないから。シーザーは,これに騙されて,執政官になり,ガリアで名をあげる。すると,元老院たちは,これを快く思わないのだ。彼の,名声,人望が気にいらないのだ。やっちまえ!
というわけで,元老院たちは,シーザーに立ち向かうがこの時彼は,これを破りローマに凱旋してしまうのだ。ここから,物語はくすぶる。こりゃいかん,普通にやっては,負ける。汚い手を使うしかない。キャシアスを呼べ,ブルータスも引きずりこめ。あることないこと,言い立てて,シーザーをつぶすのだ。それが,ローマのためとか,共和制のためとかどっちでもいいのだが。
話は,まとまった。彼は,元老院が自分ほどローマに尽くした人間に毒を飲ますとは思っていない。共和制から,ローマ繁栄のためには,独裁・王政に復帰する必要がある。帝国主義になって,周囲を食うか,周囲に食われるか,そういう問題なのだ。自分が策謀に陥ってもなんの意味もない。次の,オクタヴィアヌスが待っている。ようし,暗殺でもなんでもやってみろ!悪霊となって,おまえたちを呪ってやろう。
私には,シェークスピアの声が聞こえる。確かに,集団で,人を陥れることはできるかもしれない。しかし,それに,卑怯な手を使うのであれば,それはまちがっているのだ。そのことは,自ら十分に学ばないといけない。もはや,職場の先輩・同僚は,上手にほおむりさったかもしれない。しかし,残ったのは,空しさである。次は,自分自身が,歴史から消えるのだ。
ヴェローナの二紳士
ハイリンド
吉祥寺シアター(東京都)
2013/07/08 (月) ~ 2013/07/15 (月)公演終了
満足度★★★★★
『ヴェローナの二紳士』は,非常におもしろい演劇だった。
『ヴェローナの二紳士』は,非常におもしろい演劇だった。最初大好きだった女性がいるのだが,遠方に出かける機会があると,その恋が色あせていく。そのために,今度は,本当に美しい姫に出会ってしまうのだ。ただ,彼は,凡人なので,その後やりたい放題をやって,一番恥をかいてしまうのだ。
彼が子どもであったとか,一度決めた相手があるのだから,誰かに心惹かれるのはおかしい,とかそういう視点も勿論あるだろう。初期のシェークスピア作品ゆえに,作品の完成度が低いとか言うのだが,今回の演劇を観ると結構おもしろかった。むしろ,期待大だった『お気に召すまま』より良かった。
ディケンズ作品もそうだが,内容があっちに飛び,こっちに広がり,さっぱりまとまらないようなことは良くある。書きながら考えているうちに,上演されてしまうこともあるだろう。でも,作品の好き嫌いは,全体の完成度にあるのでなく,その一部に非常に興味深い展開が含まれていることも多い。
恋愛に関する意識,友情というものの意味,そういったものが,180度変化していく現代にあって,『ヴェローナの二紳士』をやることは,意外と好評なのではないだろか。シェークスピア作品にあって,一番上演されなかった作品は,ひょっとすると,もっとも現代人に愛されるかもしれない。
結晶物語
㈱GFA
上野ストアハウス(東京都)
2013/07/10 (水) ~ 2013/07/14 (日)公演終了
満足度★★★
上野ストアハウスで,舞台『結晶物語』を見た。
上野ストアハウスで,舞台『結晶物語』を見た。この作品は,少女マンガによったものらしい。結晶作用ときくと,スタンダールのものが有名だ。恋をするときには,そういったことが起こる。ただ,この舞台では,結晶作用そのものが問題でなく,感情が結晶になっていき,妖怪が自由にその感情を人間から取り去ってしまうことができるといったものだった。というわけで,感情そのものも,恋などに限定されない。自分の妹に何か怪しげな誘惑をしたのでないかと,兄が怒り狂う。妖怪に跳びかかろうとすると,彼は,怒りの結晶を見事に除去され,ただのおとなしい男になっていた。
恋は,いつも美から始まるという。スタンダールによれば,その後,相手の欠点が気にならなくなるが,ときめきは,まず相手に美を求めるものだという。私の読んだ『赤と黒』『パルムの僧院』などもそういう傾向にある。演劇では,シェークスピアが貢献した。その事実はあるが,フランス心理小説などを,何ケ月もかけて読む。その中で,作者と対話し,自分なりに何かを得ていく,感じとっていく。そういう長編の世界文学の世界には,別の価値があると思う。シェークスピア演劇の二時間は,所詮その中での感動であり,ロマン・ロランとか,チボー家とか,あるいは,プルーストの世界とは異次元になろう。
そのようなことを考えると,ときには,難しい文学的世界を演劇にいつも期待しても,限界があると思わざるを得ない。ならば,コントでも,マンガ系でもいいので,楽しい夢のある演劇も良いと思う。そういう意味では,ときどき迷い込んで,あえて,小劇場で時間をつぶすのも悪くはない。ダンスも楽しいし,キャストも若く美しいメンバーばかりだ。あとは,その世界を楽しむことだ。