満足度★★★★
純愛と
人呼んでフランケン博士の住みついた洋館は、そのオゾマシイ噂の為か、人は殆ど寄りつかない館だった。
ネタバレBOX
そのオゾマシイ噂とは、博士は櫛けずらず、髭も剃らず、風呂にも入らない為、異様に臭い等々。どちらかというと恐怖よりコミカルな要素が強いのだが。このフランケン博士、独学で解剖学を学び、生業は、ペットの死を受け入れられない飼い主の依頼を受けた業者が回してくる犬の遺体を生前そっくりの剥製に作りかえることで立てていた。然し、ある嵐の夜持ち込まれたのは、若い女の、死後時間の経っていない遺体だった。博士は遺体の蘇生を試み成功した。だが、“夜”と名付けられ蘇生した死体は彼の期待に反して、博士の言葉をオオムのように繰り返すだけだと彼は認識、絶望した。然し、事実は異なった。殆どをミメーシスに頼ったのは事実であるが、彼女の反復にはオリジナリティーが含まれていたし、そもそも、体は大人の女性でも、蘇生したばかりの身体は新生児に近い。新生児はミメーシスを基本とするのは常識というか、生きて行く為に本能が要求する必然である。従って夜に間違いは無い。
一方、マス塵に属するハズの三流ゴシップ誌、「電気グラフ」には、博士から取材依頼が届いていた。如何に世間に疎いとはいえ、博士も知能は高い。実験に掛かる費用や電気代を払わなければ肝心の実験が出来なくなること位分かる。(安倍晋三などより遥かに賢い訳だ)で、取材依頼することで何がしかの対価を得られると踏んだ訳である。出掛けて来た編集者は、駆け出し。仕事となれば一所懸命にこなすし、まあ、掲載できるレベルの仕事はできるのだが、この件では、経験の浅いこともあって難がある。だが、編集者兼表現者として最も大切な人間としての価値観はしっかりしているし、究極の、選択を迫られた場合にも、自分の頭で考え、結論を出すことができるだけの人間である。だが、時代の阿保な流れにコミットしていない訳でもないので、表面上は、恋愛問題で激しい浮き沈みを経験するタイプということになっている。が、実際には、そんな泥沼に嵌っている訳ではなく、心理的なゲームの領域に留まっている。要は感受性の鋭い未通女である。
博士の所に出入りするのは、犬の死体を持ち込む死体屋。サラリーマン的なので、本質に余り関係無い。ストーリーを現代的に構築する為とそれらしさを付加する為の役回りであるが、役者はいい役者を使っていて、必要以上にでしゃばっていない。因みに狂言回しなら他にも居る。
おどろおどろしい設えなのだが、純愛ものである。恥ずかしくなるほど、純で無垢。夜が実は脳が劣化して死に至る難病患者だったこと、祖母の面倒を良く見、遺体の使える部分は、必要な人に移植するよう生前言い残していたこと、彼女の独自の記憶の中に祖母に食べさせる為の料理のレシピが残っており、そのことによって、博士と担当編集者の間に生まれ掛かっていた恋に、二人の子供への明るい未来が示唆されていること、自己犠牲の尊さを表す為に、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」の逸話の幾つかが巧みに援用されていることなどで、頗る自然に、嫌みのない大団円で観客を道徳の高みへ連れていった。観劇後爽やかに感じたのはそのせいだろう。
満足度★★★
次は大人の恋を
“女の子はマシュマロで出来ている”と思い込めると信じるほど、初心な男と、恋に恋する乙女を演じていられる女の子たち向けの心理劇。
ネタバレBOX
シェアハウス、サヨナラワークにやってきたのは、バイト先の妻子ある店長によるストーカー被害に悩んだなるみ。大学時代の親友、まゆみが暮らすサヨナラワークをシェアすることになった。同居人は、コメディアン志望のともみ、ジェニファー・ロペスに憧れるさわこ、二次元のイケ面に萌えるもえこ、女の子専用のシェアハウスである。
ところが、近所のコンビニに入っている学生バイトが理想的イケ面とあって、彼女達全員が、彼に恋をしてしまう。而も、この店員、ニュースで報じられた殺人犯そっくり。1人の男を恋する複数の乙女たちには、不思議なことが起こり始める。彼を見て以来、一人、また一人と忽然と姿を消してしまうのだ。この謎解きは観てのお楽しみ。
満足度★★★★
時代の狂気は
誰が産むか?
ネタバレBOX
世界はめまぐるしく動いているが、アメリカの残光と中国の曙光が第二次冷戦を作り出すか否かが当面の世界情勢の柱となろう。無論、単に軍事力の問題のみならず、経済力、外交能力、情報収集力及び分析力、そして世界知の集積力、更に自国領土以外での影響力等、その土台となるべき領野は広く深い。このような情勢の中で、坂口 安吾の“桜の花の満開の下で”を下敷きにする本作の構成は、多用な状況を見据えた上で、様々な解釈が可能なディスクールを用いている。結果必然的に、解釈は多用である。以下に自分の書く解釈も、自分の幾通りかの解釈の内の一つに過ぎない。
この話、主人公は多襄丸と女だが、物語の進展に最も深く関わるのは、管屋である。彼は“言の葉”を操り、都で狐憑きを流行らす。狐憑きとは、無論、見たから信じたのではなく、信じたからこそ見える幻影であるが、人々は管屋の操る言の葉の魔術(端的に言えば詭弁)に惑わされ幻を真と観るようになって、狂わされてゆく。丁度、自民党の詭弁家達が、「国民」を誑かすのと同じように。
そして、誑かされた者達は大挙して山に入り、強く吹く風からも、日常の喧騒からも自由に、どっしり大地に根を下ろしていた桜の老木を焼きに来る。その狂気の原因が、此処に在るとして。後に残るは風ばかり。
満足度★★★★
びーとるずジャニャイガ
黄色いビルに入っているバーNAのにや!! (Kigamuitatatuiki)
ネタバレBOX
そういえば、ホントかウソかは、知らないが小学校の頃、オカシなことをする奴は黄色いバスに乗せて連れて行かれるって話があった。あれも一種の都市伝説かも知れにゃいが、連れられて行く先は、無論?である。(?は差し障りが在る為こうしてあるにゃ)
で本論にゃ! (1つだけにゃザマーミロにゃ)ここ、バーとしては五流以下。氷が製氷機ってなんだ!! 値段も五流の癖に高過ぎる。気が利かない。これは一番目と合わせて決定的。バーって名乗る以上、ちゃんとぶっかき氷位使うのが当たり前。本物の氷を買って具えるのが基本だが、それができないならせめてそれくらいのことをしなければ、イキフンさえにゃいではないか。演劇の観客の荷物についても、入店した時に1人1人訊ねて対応するのが当たり前。それを開演時間も過ぎる頃になって漸く身動きもままならないような狭い空間に座った客全体に対して告げる。これ、おちょくり以外の何だ!? 更にメールで早目に来るように予め連絡が入ったから早目に行っているのに、開場の18時になっても開いていない。これもおちょくりである。客商売嘗めてんじゃねえか? バーとしては、ハッキリ五流以下。キチンとした氷が使えないということは、水も出鱈目、ということに繋がる。ということは供する酒そのものが出鱈目ということになるのだ。こんなことも分からねえんだったらバーという看板すぐ下ろせ。こちとらが恥ずかしくならあ!!
が、芝居自体は、良かった。これにはびっくり。(内容は観れば分かるのでこれも詳細は割愛。自分は主演女優のちょっと癖のある演技が気に入った)だったら、バーの名を外して、大衆酒場のコンセプトでやったらよろしい。ガーデンプレイスの出来る前、元々、恵比寿はごく一部の大使館連中相手の店(無論、日本語は一切通じない、客の97~8%は外国人)が僅かにある他、隠れ名店があっただけで他は総て大衆向けの酒場だったのだから。
満足度★★★
not bar
イタリア風のバールが舞台なので、自分のバーのイメージを形作ってきた、湯島の“琥珀”だの亡くなった古川さんの“クール”だのこれもマスターが亡くなって閉めてしまった“ランボー”だのとは全然違う。
ネタバレBOX
寧ろ、カフェやスペインのバールに近いバーでの話だ。2日続けてバー関連である。本作は、バーを舞台にした作品だし、この作品を観る前日には、バーで上演される芝居を観ていた。とは言っても、こっちのバーも自分のイメージとは程遠かった。
何はともあれ、芝居の話をしよう。昨日初日だし、解説など必要の無い内容なので、具体的な内容には触れない。形式としてはコメディーに分類されよう。コメディーの手法として、誇張は基本的なテクニックであるから、それをするのは無論間違いではない。然し、ケレン味やアイロニー等の捻りが無いとワザトラシサばかりが目につき、芸に新味もなければ味も無い凡庸なものになってしまう。様々な映画の科白から引用した言葉を吐く客が出てくるのだが、作品全体としての奥行きに乏しい為、その格好良さが本当には出て来ない。唯のぺダンティスムに終わっているのである。そのことが目指した格好良さと正反対に格好悪いことを喜劇として描いているなら面白いのだが、そうではなかろう。洋の東西の深い断絶も考えず、表層だけで何かを交換したつもりになっても内容は無限に希薄化するだけである。
満足度★★★★★
二度目の観劇である。
初日と楽を拝見したことになる。改めて思うのは、シナリオの素晴らしさ、喜劇劇団としての品格とセンスの良さ、役者達の多様な個性が一堂に会することの楽しさ、何より着眼点の鋭さと適確な距離である。初日のレビューで、おんぼろパソコンは、何行か書いた文章を消失していた。読者の方々には、歯切れの悪い文章をお届けすることになり、申し訳なく思う。
ネタバレBOX
初稿でも指摘しておいたことではあるが、今作、冒頭のシーンと科白で見事に、この時代と今作の要点を示唆していた。喜島艦長、谷村の兵学校時代の同期、親友である大和艦長、有賀からの便りには、大和艦長に就任した旨綴られていた。折しも1945年3月26日には、米軍は座間味に上陸。その後島の形が変わる程の艦砲射撃の後、4月1日米軍は沖縄本島に上陸。島民の四分の一が亡くなる壮絶な沖縄地上戦に突入していた。先にも書いた通り、最早、軍部に有効な対抗手段も武器も無く、「国体」護持に固執する指導部には、非合理・不合理な戦法しか残されていなかった。つまり特攻である。大和は、第二艦隊旗艦として、沖縄の窮地を救うべく成功率ほぼ0%の海上特攻の任を担ったのである。時に4月5日、徳山沖に停泊していた大和に出撃命令が下る。谷村、有賀両俊英の見立て通り、僅かに残った日本の救援・援護機の援護が届かなくなる海域に入った途端、大和は敵機動部隊の総攻撃を浴び、海の藻屑と化したことも既に書いた通りである。
が、元々、喜島が大和救援に向かうことは、谷村の一存で決められた作戦であり、腹心の者以外、この事実は知らなかったのだが、先にも書いた通り、大和の正確な位置と出帆時刻を喜島に伝える任に当たっていた者が、軍部に怪しまれ拘束された為、連絡が遅れ、大和出撃15時間後に佐世保を出発することになる。喜島出撃に際し、谷村が檄を飛ばすが、乗り組み員は僅か4ヶ月の訓練しか受けていない。ここにも、戦局の悪化が如実に現れている。言う迄も無いことだが、艦長谷村がその檄を飛ばす際、甲板左方、右方双方を見ながら言を発しているのは、舞台では、役者が7~8人しか出ていなくとも、水兵は全員甲板上に集まっていることを表しているからである。観客は、このような想像力を要求されるのだ。即ち、乗員は148名+αであるという科白情報と谷村の所作、顔や目の動かし方から、甲板上に整列しつつ、艦長の訓示を聞いている兵士達の姿をヴィジョンとして観ることをだ。一般兵士は、気をつけの姿勢でしゃちこばっている。その中で、特異な兵士達をこそ、今作は、役者を用いて描いているのである。では、第一分隊、第三班の兵達は、何処が特異なのか? 無論、翼賛体制に関わる総ての言動をどこか否定的に見たり、距離を置いて自らの思想を確立していたり、要は自分自身の頭で考え判断する自由を持っているという意味で特異であり、それ故、翼賛体制に悖る落ちこぼれとされた人々であった。今作の凄さは、このような自分の考えを自分の思考によって構築できる“落ちこぼれ達”を主人公にしている点にある。
これも、何度もあちこちで書いたことだが、有史以来日本に日本人自らが根本のレベルから発明した行動原理としてのprincipleなど一度たりともない。総て借り物である。“葉隠”でさえ、根底にあるのは朱子学であるから、思想の根底からの独自性には、疑問符がつく。他は推して知るべしである。従って日本人の行動原理を定めるのは情緒原理主義を於いて他は無い。情緒は、自分の頭、即ち理性を用いて制御しない限り暴走したら止めようが無い。これが「一億総火の玉」の正体である。阿保を絵に描いて壁に貼り付けたような滑稽で幼稚でチンケな日本の指導層は、この日本人の性向には敏感である。そして、狭い了見でミスリードを繰り返す。劇中、山中博士が、軍部がもっと科学技術に理解と関心があれば、こんな負け方はせずとも済んだ、という意味のことを吐く科白があるが、然り。ドローンが首相官邸屋上に降りて、「盲点」だったと散々、警備関係者は言っているが、馬鹿としか言いようが無い。秘密保護法が通り、唯でさえ、情報開示が出来ない糞官僚と政治屋、経団連、連合、メディア、研究者とは名ばかりの下司、日本人CIAエージェントと日本という植民地で自由に活動できるCIA要員等々が、愛する土地や人々を蹂躙したいだけ蹂躙しているのに、パトリオットたる国民が、利用できるものを利用するのは、当然のこと。その程度のことも予測できないのは、プロという以前、単なる無能というより、脳みそあんの? なのである。
今作が訴えているものは、以上のように、現在にもそのまま通じる内容である。為政者共に媚び諂って“勝ち組”などと称する馬鹿共が如何に自分の頭で考えず、見た物をキチンと認識していないか。聞いたことを正確に捉えていないかを自問してみる良い機会であろう。
敵機に襲われた喜島を神雷が救った夜、谷村は無礼講の宴を許し、三班の若い兵士、看護婦らと歓談する。そこで彼が得た教訓は闘いによる死ではなく、生きて作り出す未来であった。俊英谷村は、自分の頭を使って判断することのできる若者達に、未来を見たのである。それ故、神雷を用いて戦争を長引かせ、更なる犠牲を双方に齎す道を避け、自身の誇り、職業倫理、親友とのあの世での邂逅を思って総員退艦命令を出した後、自沈する。その最後の命令が、“総員生キ方用意”であった。
因みに、今作に出てくる大和艦長の名前は、実際のものであり、科白の中にも、実際に交わされた表現が多く出てくる。それらは、子を思う母の偽らざる心情であり、母を思う子の思い遣りであった。実際、兵士が死の間際に天皇陛下万歳などと言わず、母ちゃん! と叫んで死んでいった者の圧倒的に多かったことは、戦争しない為の努力を続けて来たこの国の人々の常識であり、自らの見た物・ことを見たと言い、聞いたことを聞いたと言える、自分の頭で考えることのできる理性を具えた者からのメッセージである。
また、最大・最高の防衛力とは、軍備を増強することでもなければ、強くなることでもない。正確に世界を分析することのできる正確な情報を持ち、その情報を判断する理性を持って、例え意見の会わない者たちとも話し合うことであり、いつでも話し合えるだけの関係を構築しておくことである。
満足度★★★★
ネグレクト
話題に欠くことの無い児童虐待・遺棄の話である。
ネタバレBOX
行動原理の特色として、この「国」はprincipleを持っていないということを最近随分書いているから、またか、と思われるむきもあろう。然し、記紀以来、日本に独自のprincipleが生まれたことなど一度も無い。海外で高く評価される武士道の根底は江戸幕府が、支配の為に編み出した手段の一つに過ぎず、その根底に流れるのは、儒教の中でも最も君臣の恩、上下関係の絶対性を強調する朱子学であり、唯一、儒教の中で革命を説いた哲学である陽明学を報じた者は、出世街道から外された。因みに江戸時代以降、幕府・中央政権に反旗を翻した革命家で西洋思想によ
らない者は、陽明学の流れを受けている。大塩平八郎然り、佐久間 象山然り、吉田松陰然り、西郷隆盛然り、高杉 晋作然りである。その行動原理は知行合一。
何でこのようなことを書くか? 無論、今作と関係があると考えるからである。今作で問題になっているのが、母親のネグレクトによる小学校入学相当女児の死である。この母、根本 幸は3年前に離婚。幸の母は教師であった。短大を卒業した後、根本 公平と結婚、離婚後も旧姓に戻していない。この苗字と名前にも、作家が深い意味を持たせていることは明白である。公平は公平な判断に通じ、幸は、幸せに通じる。それが、日本の民衆が、根本的に思っていることだと、少なくとも念じていることだと考え、作家は祈るような気持ちで根本という苗字を選んだのだろう。ということは、この夫婦の抱えている問題は、我々皆が抱える根本問題であり、公平を期してする夫の会話は、日本の平均的夫の価値観を代弁し、幸の願う幸せは、この「国」の平均的主婦の願う幸せなのである。だが、ここに問題の根があると筆者は考える。問題点は2つ。1つは、第1段で述べた、principleの欠如、即ち行動原理を明確な言語化し難いという文化・文明的背景。もう一つが、事件の核心を描くに当たって“お約束通り”外堀から埋めに掛かっている点である。男女の関係は、最も遠く同時に最も近い、という微妙な関係のバランスである。夫婦ともなれば、それに世間、世間体が大きく関わってくる。principleの欠如する社会に於いて、行動原理を規定するのが情緒、それも原理主義でしかあり得ない以上、それを現実に規制するのは、村の掟、村社会の掟以外ではない。此処までは、誰でも見えるのだ。そして、その地平からしか描かれていない点に今作の難がある。同時に大衆受けもするのだが。問題は、ディスコミュニケーションの本体は、人間の根本的孤独を人間全体の問題として捉えることのできないこの国のディスクールにあると考える。そして、そのことを本質として、作品作りをするなら、別のアプローチが生まれたハズである
更なる作家哲学の深化を期待する。
以上のことは、作品を観て貰えば、理解して貰えよう。因みに取り調べを受け持つ刑事、梶原の部下、田村が、署長の富山が飼っているペットのオウムに言葉を教えることに関して、オウム語ってどんな言語なのか? という意味の問い掛けをし、根本的に通じない言葉(言語・状況)を問題にしている点に、このことは凝縮されているとみて良かろう。
満足度★★★★★
Béranger
日本人には馴染みの薄い、ルーマニアの片田舎。1940年。アンチセミティズムを標榜する極右組織、鉄衛団のポーランド人カリスマ、コルネリウ・コドレアヌが1938年に投獄、処刑された為、下火になっていた運動は、38年のカロル2世国王による親政政治を敷いた後にも、鉄衛団残党に大きな影響力を持っていたイオン・アントネスク将軍を中心としたクーデタで政権を奪取。以降鉄衛団の恐怖政治が開始された。
ネタバレBOX
その政情不安の中、若い頃のウージェーヌ・イヨネスコが如何なる風土で如何なる体験をし、それがその後の彼の作品に如何様に結実していったのかを探るに頗る示唆的な作品である。行動原理として、本質的に情緒原理主義しか持たない日本人にも分かり易く、ルーマニアに於ける魔女の社会性に、複雑な政治情勢をオーバーラップさせて描いているシナリオも評価されるべきであろう。因みに此処に登場する魔女達はロマ族であり、15世紀ワラキア公、ヴラド3世(串刺し公として、また吸血鬼ドラキュラのモデルとされたということで有名)施政下、宮廷公認の魔女の末裔である。因みに
更に、政情不安で価値観の大幅に下落したルーマニア通貨に変わって、金が重用されていることも興味深い。このことは、攫われたユダヤ人富豪の娘、アンドレアの生死が、父の隠し財産が、金・金貨であるかルーマニア紙幣であるかによって変わる、というリアリティーによって表現されている。ソ連崩壊後の周辺国、ロシアルーブルの下落ぶりは記憶に新しかろう。それとも、殆どの日本人は、1989年が、世界変動のメルクマールであるとの常識すら持ち合わせていないか。安倍のような姑息で頭の悪い支配者が支配者面していられるのは、多数決原理が幅をきかせる現在、とどのつまり、愚衆がマジョリティーを占めているからである。戦争に巻き込まれる責任は、これら愚衆と彼らを先導・扇動した為政者サイド(政治屋、御用企業、御用学者、御用メディア、御用「思想家」、経済マフィアたる銀行・金融業、官僚・殊に2+2日本側メンバーの責任は極めて大きい)の選択にある。
前段のような状況を考えるのであれば、政治のどす黒さをもっと出しても良かったかとは思う。出し方は、更に難しくなるが、意欲的でラディカルなエゴフィルターなら、将来、このような難しい要求にも応じてくれるかも知れぬ。(願わくば応じられるような政治状況であって欲しいものである。最早、政治的には不可能の声が圧倒的に響くのが気掛かりである)
満足度★★★★
AvsCチームの回を拝見。じゃんけんで勝者が、先攻・後攻を選べる。
両作品に共通する点で良い所は、それぞれ、主張がハッキリしてブレが無い点だ。流石にガチバトルに参加するだけのことはある。
ネタバレBOX
今回じゃんけんの勝利者はCチーム。お題は「駅」、先攻を選んだ。作品タイトルは“同じ海を見てた”
主人公、ゆきは、DVで離婚した母が去った後は、父のDVに耐えている。而も、父を庇うのだ。そして、今でも父に電話を掛け続けている。
秀人が12年ぶりに戻ってきた。リゾート開発の尖兵としてである。ゆきは、彼を認めない。皆は、ゆきがリゾート開発に反対している為だと考える。だが、彼女は12年前のことを根に持っていたのだ。12年前、彼女の父は、秀人を救う為に命を落とした、彼女はそう信じていた。それで仇として彼を嫌っていたのだ。然し、事実は異なった、あの日、彼女は、彼女を父のDVから解放しようと画策した二人の幼馴染と其処に居た。そして、予測通り、父は彼らの居た場所を探り当て、幼馴染とゆきに暴力を揮う。台風が近づいていた。
ゆきの思い込みでは、父にアタックをかけた秀人と父は海に落ち、波に攫われたが、父は辛うじて秀人を助け、時部は犠牲になった。だが、事実は異なった。父と揉み合う秀人の頭を鈍器で背後から殴り、頭蓋骨が陥没する程の重傷を負わせた彼女も父も秀人も高波に攫われ、父は2人を助けて波に攫われたのだ。
これが、物語の核心だが、描き方がスピーディーに過ぎ、観客が、物語の描きたいメンタルをじっくり味わう間に乏しい。また、作家の離島に対する愛憎半ばするアンヴィヴァレンツが昇華され切っておらす、作品と作家の距離が狭い点に難が在る。
Aチーム。こちらのタイトルは「"stay”tion~駅~」となっていて、一見、オーソドックスなのだが、タイトルに細工が在る通り、捻りが利いている。始まり方は実にオーソドックスで駅員がアナウンスをしたり、駅のコンセプトを述べたり、通常留まることのない駅に留まり続けている「客」が居る事を告知したりで幕が開く。何れも後の伏線となっている点、作家の資質の高さを感じさせてグー。さて、この「客」、若い女である。記憶を失くしているらしく、自分が誰で何故ここに居るのかも分からない様子。これらのことは、セーラー服の少女との会話などで明らかになってゆく。
そこへ、30歳になる現在、未だ売れない漫才の芸人カップルが登場する。彼らは、コンビを組んで3年、ブレイクすべく東京で開催される漫才コンテストに出場する為にやってきた。皆の前でその芸を披露するが。イマイチ!! そこへ飛び込んでくる若い男は、何やら暴力の臭いを発散させている。堅気ではないと一見して分かる。かれは、男女のカップルを探す組員。組長の女を奪った兄弟分にオトシマエをつけさせる為に追っているのだった。組長の予想通り、姉さんと兄弟分がやってくる。然し、姉さんと兄弟分とは、本気で愛し合っていた。情にほだされ、親分には、彼らは駅に現れなかったと嘘をついて逃がすことを決意するが、親分もこの駅に来ていた。ヤクザ者同士であるから、オトシマエは命のやりとり。ドスを抜いた親分は、彼らの本気度を測る。結果、親分が折れ、二人を堅気にし、見なかったことにして逃がしてやることになった。
こんなドサクサに若いカップルが紛れ込んでくる。喧嘩をしている。3年前から同棲しているのだが、彼女は、天井裏から女子のお泊りセットを発見。浮気を疑って喧嘩になっていたのである。決定的な証拠として彼女は説明を求めるが、彼の方は、どうしても説明しない。ただ、自分は潔白だと言い張るのだ。
彼が説明を拒んだのは、言えば彼女が傷つくと考えたからであった。このお泊りセットは前カノの物だった。3年前ふとしたことがきっかけで喧嘩をした彼女は、怒りにまかせて飛び出し、交通事故に遭って亡くなっていた。彼は、思い出の品を捨てるに捨てられず、屋根裏に隠して仕舞っていたのである。
ところで、ここで今作最大の見せ場が訪れる。駅に居続ける若い女である。彼女は、皆に語りかけるのに、誰も彼女に気付かない。彼女を認識でfきるのは、セーラー服の少女と駅員だけである。彼女は悟る。自分は死んでいるのだと。そして、思い出す。喧嘩をして飛び出し交通事故で死んだのは自分なのだと。
最終的にめでたしめでたしで終わるのだが、人の行き交いを出会いと別れの交差点、駅で重層的に描けている点にこの作家の力量を見る。生と死、生きている者同士、ヤクザ、芸人、普通の人々で具体化し、死相即ち虚と生の相即ち実相を、ディメンションを違えて展開するストーリーは秀逸。間の取り方も良い。Cチームの若書きと対照的な大人の作品である。
満足度★★★★★
花五つ星
このタイトルの余りの的確さに惹かれた者も多かろう。特に多少とも軍や軍事、戦争について注意を向けてきた者達にとって、今、この「国」が置かれている状況を、これほど適確且つ大胆に表現することは極めて難しいからである。(ネタバレは更に後ほど追記2015.5.15追記)
ネタバレBOX
国会では本日午後、安保関連法案が閣議決定され、明日15日には、法案が衆議院に提出される。無論、安倍は丁寧に国民のコンセンサスを得るようなことはしない。それは、先ず、海外で肝心なことを外交的に詰め、コンセンサスを得て、事実上憲法判断のできない“最高裁判所”のある植民地「国」内に持ち帰って、実質憲法の上位にある地位協定を根拠に2+2で詰めてきたことを実現するだけだからである。様々な擬態や嘘、秘密協定と情報公開の不備、官僚達の勘違い(彼らの主人は日本国民であるはずが、実際は、大日本帝国憲法が定めた唯一の主権者であった天皇の代わりにアメリカが居座っただけである。)等々、この植民地の実情は、基本的に隠されている。それは、戦前も戦後も変わらない。その辺りのことは、開演前、舞台上の練習特務艦「喜島」の砲塔二門の間に吊り下げられた垂れ幕に書かれた岡倉 天心の以下の文句“我々は我々の歴史の中に我々の未来の秘密が横たわっていることを本能的に知る”で示唆されている。
今作で谷村艦長以下の人々が乗り込む船喜島は、第一次世界大戦時に就航した船で、排水量9700t、全長134.72m、最大速21.5kt(時速約39.8km)、乗員726名で現在は練習特務艦として用いられている。尚、谷村と沖縄への海上特攻の任に当たる第二艦隊の旗艦大和の艦長有賀 幸作は、同期のライバルで親友、互いに日本一の軍艦の艦長にどちらが先になるか競争した仲の俊英二傑。片や大和の艦長有賀、片や大怪我の為、下船の憂き目を見た後も海と艦への愛着が経ち切れず特に願って練習艦艦長として帰任した谷村の因縁は、ミッドウェー海戦以来負けっぱなし。暗号は解読され、空母、艦載機、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等々の殆どを失った日本は、起死回生の望みを絶望的な特攻作戦に賭けていた、態々、死にに行く親友を助けるべく、山中博士の発明した新兵器、神雷を装備した喜島で大和救援の為、秘密裏に船出した喜島だったが、軍上層部へは秘密の作戦だった為、大和の正確な位置、出発時刻などの暗号解読で、怪しまれた担当者が軍部から拘束を受け、救援の任に就いたのは大和出撃後15時間の後であった。未だ初日が終わったばかりで、本日2日目だから、ここ迄にしておく。見どころは満載。殊に戦争が始まるということで何が失われてゆくのか、という本質をぐっと掴んで取り出し、登場人物達のキャラクター設定に巧みにそれらを配し、観客に自然と本質が伝わるように書かれたシナリオ、悲痛極まりない現実をキチンと喜劇仕立てにしつつ、見事に本質を表出せしめた演出、各々の役者の演技が相俟って必見の舞台である。
ところで、今作で喜島に乗り込んだのは実際には百五十数名に過ぎない。艦長、副艦長、神雷の発明者、山中博士そして志願看護婦5名を含めての数である。駆動・操船にさえ不安が募る通常の5分の1の人数だ。海上特攻する大和を救うべく出撃した喜島からは、出港前、鼠が大挙して繋船ロープを伝い逃げて行った。船乗りの常識として、この船は沈む、と言うことである。即ち全員、命は無い。而も、下級兵士たちの噂では、艦長に勝算ありとの判断があったのだと言う。(この矛盾をどう処理するかも注目)論より証拠、大和を追い出撃した喜島に敵機が襲いかかった。博士は、すぐ神雷を作動させ、襲来する敵機を見事木端微塵にした。博士は大空襲で妻子を失っている。彼にとってアメリカは、必滅の敵国である。だが、神雷が、活躍すればするほど、戦争は長引き、双方の損失は、益々増える。救援に向かった大和は、残念乍ら、谷村・有馬両俊英の予測通り、大日本帝国軍の援助の及ばなくなった海域に入った大和への敵機からの総攻撃で3332名の乗組員ともども海の藻屑と消えた。谷村は自問する。神雷を使い続けて、戦争を長引かせ、双方の犠牲を更に増やすのか? それとも喜島と共に引くべきかを。
この難しい決断の結果は、作品を観るべし!! 何度でも観たい舞台である。観れば、引き込まれて損をした気になどなるまい。
満足度★★★
まじめに取り組んでいるが
シナリオは良いのに、戦争の何たるかが全然分かっていない殆どの女優達と演出で銃後は描けまい。
ネタバレBOX
戦争とは何かを先ずは内在化することから始めたい。演じた女優の中で、唯一それなりに努力が形になっていたのは、ドイツ系カナダ人を演じたマルタ役、長谷川 奈美。
戦争とは何かについてのヒントを一つだけ挙げるならば、混乱即ちカオスである。自らの内の、状況の、情報の、そして信じて来た”もの・こと”の崩壊・破戒の、自由意思の、命の。要は、総ての。銃後に居た女達が背負わされたものは、そのような破戒を日常的に想像力の総てに於いて強制されることであった。時に、現実に愛する者の死の知らせと共に。
満足度★★★
力はあるのだから、物語の理屈を良く考えて
三つ巴というコンセプトのタイトルだったので、この劇団特有の曖昧模糊とした世界を二層、三層と積み重ねることによって、この鵺的社会のおぞましさを暴く作品になるのかと考えていたのだが、今作では寧ろ殺害そのものの凄惨をエスカレートさせることに重点が置かれ過ぎたように思う。
ネタバレBOX
助役が村の掟に拘る姿は、村の掟通り慣習を貫こうとしてこれまで何度も手を汚して来た事を示す科白にくどいほど出てくるのだが、単にそれが、慣習を守るというにしては余りに徹底していることに、描かれていることだけでは納得がいかなかった。他に背景を描くなどして観客を納得させる内容にして欲しかったのも事実である。(例えば村長に惚れているとか、或いは、登場しないが、自分の子供をかつて村の掟の犠牲に供しているなど)
演劇は、基本的に論理である。従って、これでもか、という強い主張が、登場人物其々の背景に感じられなければ、観客は納得できないのではないか? まして、今作は、基本的に人殺しの話である。インパクトの強い内容なのだから、その内容をキチンと立体化してみせる因果律がなければなるまい。村の掟は、口べらしが基本であるが、そうである為の条件は、貧しさであろう。(新月の晩に新生児を持つ親が集まって、子を籠に入れたままかき回し、誰の子か分からぬようにしてから、調理して食べた話等を入れてもよし。そうすれば、村の貧しさが具体的に観客に伝わる)
残酷さの描き方についても、例えば鴎外の山椒大夫では、幼い子供に焼き印が押される。このような酷さを敢えて作中にキチンと入れることも必要であったろう。然し何件もの殺人を犯さざるを得ないようなエピソードは無く、漫然と村の口減らしが行われて来た状況を理解させるだけでは、作品そのものの深さが損なわれよう。
一方、貧しさ故にそのような事が常態化されている中で、権力の中枢に在る者だけは、掟から一定の自由を甘受しているが、この事実に対する権力者対民衆の構造を明確化して対立を際立たせるという作り方をしていないので、中間管理職としての助役が、自分の家族だけは、重労働や掟の為の犠牲となることも避けられるという支配・被支配の関係も心に突き刺さる強さに欠ける。村長の態度も不徹底だ。
更に、村の総ての矛盾が覆い被さるべき人物である、足の悪い姉に集中的にそれが被さる事態を克明に描いていない点にも弱さがある。
満足度★★★★★
屋根裏
と聞いて最初にイメージするのは、パリに出て来た貧乏な
アーティストの卵達が、希望と夢と幾許かの生意気な論理を武器に社会に殴り込みを掛ける姿だろうか。天に最も近い所が。最も貧しく寒い。おまけに極小の空間である。だからこそ、冒険のベースに最も似つかわしい。
ネタバレBOX
今作は、23の小話を、このベースで連結えうることによって、究極の目標である世界の実相・真の周辺で走馬灯のように真を乱反射しながら揺れ動く憂き世の有り様を描く。
初演は13年前に遡るが、燐光群のスタジオ、梅ヶ丘Boxで初の本公演作品として書かれた作品で、今回の上演でも固有名詞を多少変えただけで、他にシナリオの変更はしていない。然し、古さを感じさせないどころか新鮮さを感じさせる所に、今作が、現在も世界各地で上演されるだけの普遍性と鮮度の良さを保つ作品固有の魅力があるのだろう。加えて無論、役者の演技レベルの高さ、自分達の小屋だから、好きな演出が大胆にできるという強みもある。
坂手氏のシナリオの特徴の一つに人工的な作りを感じる向きもあろう。それは、大抵、引用に対する感性から来ているのだろう。今作でも「日本は滅びるね」など「三四郎」からの引用には照れてしまった。
満足度★★★
隠された意味の表出の仕方
踊り、パーカション、典型的な悲劇の作り方等は、グー。然し、登場人物達の名前の意味する所を、日本人に類推させようとするのは、無理があろう。タイトルのpalmにしても掌という意味とヤシを掛けたWミーニングになっており、殊にヨーロッパ人にとって、それが西欧・米人がオリエンタルを意識する時の根幹を為すイマージュの一つであり、ムスリムに対するインフェリオリティーコンプレックス克服の意味すら持つことだとは、普通の日本人は考えない。無論、シエルにしたって、フランス語の空を表すle cielから来ていることは明らかなのだ。
掘り下げが足りないと感じるのは、このような点で、日本にもある宇宙人の話としては、「竹取物語」のかぐや姫がある訳だから、この辺りと絡めるなど、この地域の土着的なもの・こととリンクさせ、融合させることが望ましい。
音楽、光、ダンスなどで、象徴的に表現するのであれば、もっと抽象度を高くして下らないズッコケ等は排除し、本質的なストーリー展開に絞って良い。その辺りの収束力が、弱いのが、今作の弱みではあろう。また、シエル役に殺陣がまともにできないのだから、キャストを代えるか、本質は変わってしまうが、歌舞伎のような型を用いてケレンミを出すか(これは技術的に到底無理だろうが)何れにせよ、本質的な改変を試みねばなるまい。
満足度★★★★
Bagueチームを拝見
表層で観るなら、日本の多くの人々の思い描く幸せのイマージュ。その形が 分かる作品だ。
ネタバレBOX
役者にとっては、かなり難易度の高い作品だろう。科白量の多いことばかりではない。一見、何気なく書かれたように見える言葉が、様々な色調を持ち得るので、演ずる者は、自らの内に対応する何物かを見出し、共演者との辻褄を合せながら物語を紡ぎ出して行かなければならないからである。チェーホフ作品が、内面のドラマツルギーを前面に押し出して成功したシナリオの代表的なものだとするならば、今作は、日本の鵺的な要素を、2組の男女関係の危機を通して表した作品ということができよう。
無論、通常のドラマが今作の中で成立していない、というのではない。但し、それは、絶妙な間を時に外して齟齬を表出したり、論理で追うべき所を、取り違えた解釈で意味を脱臼させてしまうことを含めてである。
更に詳しい説明は、上演中でもあり、今のところは、書かない。然し、終演後にその点は指摘することを約束しておこう。
満足度★★★★
ALLISS
電脳空間に移住することが、可能になった50年後。サイバー空間では、この世界でトップ企業になった会社の経営するゲームエリアが、凄まじい迄の人気を得ていた。然し、このエリアには、ゴーストと呼ばれるバグが、都市伝説の如く広がっていた。(追記後送)
満足度★★★
設定が不自然
烏森高校夜間部4年は、現在、4-b一クラスのみ。4-aは、人数が減り4-bに吸収合併され、現在、4-bの教室を使っている関係で4-bだけが、生き残った。
現在の生徒数は、9名。夜間高校だから、年齢も職業、経歴もまちまち。おまけに、教頭は、生徒からかつて苛めを受けた後遺症というかPTSDから、精神的に立ち直ることが出来ない為、教壇に立つことができない。そんな訳で、教壇に立つ必要のない教頭に収まっている。普段は、用務員の山田くんと将棋を指す日常である。(追記後送)
満足度★★★★★
メガバックスの作品
にはぐいぐい引き込まれてしまう。無論、シナリオの上手さ、作品の面白さを引き出す演出の巧みもある。更に、舞台美術も自分達が自力で作ることでチームとしての結束力や息が合って、どんな状況にも、しなやかにそれで強靭な対応が可能なのである。こういう特徴は劇団桟敷童子と共通するような気がする。何れも、好きな劇団、力のある劇団であるのは、評価の高さからも分かろう。(追記後送)
満足度★★★★
人と人との綾
タイトルの“おだまき”は“いとくり”即ち中空で周りに糸を巻く器具を意味すると同時に植物のオダマキをもイメージさせるが、諏訪の製糸工場の話である。但し、物語で製糸工場のシステムなんぞ話したって何にも面白くはない。製糸工場で紡がれる人と人との関わりが、恰も繭から紡がれた生糸が様々な織物に仕立てあげれられて行くように、紡がれてゆく点が、劇化されているのである。
ネタバレBOX
描かれるのは、レーヨンが出始めた頃だが、まだまだ絹が日本の輸出を引っ張っていた時代でもある。働いていたのは、所謂“女工”である。「女工哀史」などという本も絶版になっていなければ読めるはずだから、詳細はこちらで当たって欲しいが、大体、貧農の娘が口減らしで出されることが多かった。今作でも、白米が食えるということが、彼女達の驚きや喜びとして語られているのを見ても分かろう。実際、貧農の暮らしでは、主食は稗や粟などの雑穀が多かった。米は自分達が作っても自分達の口には入らなかったのである。当然、多くの娘は字も読めない。書くことが出来ないのは無論である。だから、親元へ手紙を送るにも世話役などに頼んで書いて貰う訳だ。然し、世話役達も代筆だけやっている訳ではなく、一人で多くの女工の面倒を見ている訳だから、代筆している暇は殆ど無いに等しい。それで、先輩で字の書ける面倒見の良い人を頼る訳である。
初は、入社4年にして、指導係を務める優秀な女工で性格も良い。面倒見も良いので、自然、年端も行かぬ後輩達から頼られる。それで、忙しい世話役達に代わって代筆をしてやっていた。そんな初を新米女工達は姉のように慕い、なにくれとなく、本音を漏らす。代筆は基本口述筆記だから、女工達の言うことをそのまま書けば良いようなものだが、そうは行かない。年端もいかない娘達である。親が心配しないはずがない。ちゃんと食べているか? 健康に過ごしているか? 苛められたり困ったりして居ないか等々、心配の種など尽きるハズも無かろう。そんな親元へ親の心配するような内容を送られれば、マズイことになりかねないのは、誰しも分かる。で会社では、手紙の内容をチェックする体制が取られていた。だから、先ず、最初の手紙は、ありきたりの内容を書き、別の手紙には、本音を書いて貰って、郵便がどういう憂き目を見るかをじっくり観察した後、いざとなったら、本音の手紙を出すということにしたのが、春だった。ところで、この所、諏訪でも女工達による労働争議が頻繁に持ちあがっており、この工場でも社長以下番頭や検番は、神経を尖らせていた。そんな時、女工達の親が何人か会社に待遇が悪いと乗り込んで来た。その原因が代筆による手紙の内容だった所から、初が、単に代筆をしてやったのではなく、労働争議の首謀者ではないか、との疑いを掛けられてしまった。番頭は筆跡を比べて初は無実だと判断したが、初が僅か4年で指導係になるという異例の出世をしたことや、美人で、性格も良く、後輩達に好かれていることに嫉妬する手合もいたので、話はこんがらがってゆく。更に、彼女は、社長、和彦の実子で二男の旧制高校、最上級生の秀から、結婚を申し込まれる。然し、彼女には既に心に決めた人が居た。社長の愛人だった女の子である。社長は、愛人から息子を引き取り、連れ子として、現在の妻の所に養子に入ったのだ。それで、正妻の息子は、二男なのである。ところで、初の心に決めた人とは、この社長の連れ子、雅彦であった。二人は既に一緒になることに決めており、この工場を後にして二人だけの再出発を図ろうとしていたのである。
だが、運命は皮肉だ。死んだと思っていた愛人、雅子は、天竜川で漁師をしていた、この製糸工場の門番の妻になっていたのである。而も、彼女は普段京都の製糸工場で女工達の面倒を見ていた為、諏訪に来ることが無かった。そんな関係で、互いに嘗ての恋の相手が、工場の社長に収まっていることも、愛した女が存命であることも知らなかった。雅子が、工場に来たのは、京都で労働運動をしているリーダーから、娘の働いている諏訪の製糸工場で労働争議を起こす、と聞いて居も立ても居られずその旨知らせに来たのである。ところが、娘は、知らなかったとはいえ種違いの兄を愛し、子まで宿していた。だが、事実を端的に言うことは出来ない。この結婚は認められない、と強行に反対するのみである。そこへ、今では鉄砲玉の竜と呼ばれる労働運動家、竜彦が現れる。無論、争議を起こす為だ。然し、この時、火の手が上がる。これは、初を罪に陥れる為に世話役が、春を吊るしあげた際、春は、例の本音の手紙があることを話し、取り上げられてしまったのを後悔して、世話役の目を盗んで手紙に火をつけた所、火の粉が飛んで火事になったのだ。身重の初は、後輩達を助けに走る。雅彦は初を追って走る。火勢の強まる中、初は後輩達に声を掛けて励まし助けたが、自らは命を落とした。雅彦も初を追って火の中に飛び込んだ為、落命した。和彦は、自らの過去を暴かれ、息子と種違いとはいえ、妹が結ばれてしまった真実を知って自殺する。結局、全部で4人が亡くなった。その顛末をかつての活動家、竜彦が、女工、春の孫娘が訪ねて来たことで話す、という作りになっている。
労使の追突のみで終わらせず、オイディプスを想起させるような血の因縁話として持っていっている点で、流石に迫力はあるが、炎の広がる原因を、和彦が社長就任の条件として引き受けた15人のコレラ罹患女工殺害致死事件の際の放火に結び付けている点に、矢張り牽強付会を感じる。寧ろ、この点は科白化せずに観客の想像力に委ねても良かったのではあるまいか。その為には、もう少し、近親相姦が観客にショックを与えるように作る必要はあるが。
基本的には良く出来たシナリオであり、演技力も高いし、舞台美術の質も高ければ場転のスピードも見事だ。観に行って損は無い。
満足度★★★★
命と放射能
1957年11月3日、ソ連は、宇宙飛行犬、ライカを載せた地球周回衛星を打ち上げた。今作に登場する犬士達は、ライカの子供達ということになっている。
ネタバレBOX
此処まで書けば、誰もが「南総里美八犬伝」を思い出すだろう。その通り。今作は、様々な借り物によって成り立っている。ゝ大法師が登場するが、その役割も八犬伝と共通である。但し、犬士達の能力は、其々が持っているロボットの能力である。彼らは各々ミッションを持っているのだが、気付いていない者もおり、兄弟で敵対している者もある。ところで、肝心のミッションとは、城を目指し天主を取ることだ。
兄弟同士争っていた者も、員外とされて居た3名も加わりミッション遂行に邁進するが、難易度はいやが上にも高い。当然、全身全霊でぶつかった結果力尽きることもある。だが、やらねばならぬ。体制に仇為すとされるが故、その切れ味とは裏腹に名刀ではなく妖刀と世間では呼ばれてきた村正をもじった村雨が神剣として扱われているのは、敵対する者が、圧倒的反動と理不尽という怪物である為、権力によって、仇為すものとされた勢力の象徴として村雨と名付けられた宝剣が大きな意味を持つのは当然である。
察しの良い読者は既に、敵の正体を正確に見抜いたと思うが、まあ、もう少しお付き合い願いたい。
城はF1人災事故中枢に在る。ここから排出された放射性核種は200種以上。半減期も様々である。ウラン系のものでは、α崩壊を起こす核種の半減期が長い。興味のある人は調べてみるが良い。(たまには自分で調べろよな。ヒントはあげているのだから)さて、本題に戻ろう。誰しも知っているように、そして分かったつもりになっているだけであるように、放射性核種は、一切、五感では捉えられない。五感で捉えることが出来ないから、知的に考えることが出来ない人、生き物には、危険が具体的なイマジネーションを産まない。だから、村雨なのである。村雨は、この危険極まりない放射性核種(物質)を可視化する染料なのである。これをメルトダウンを起こして現在デブリとして堆積しているであろう炉心へ注入するのである。
作劇方法が言葉遊びを基本としている為、凄まじい破戒や人間のみならず地球上の全生命への危険は、その分減殺されているので、核物理に詳しい人は、己で実態を予測するが良い。一般の観客には、このように柔らかい感覚から入ってゆける方が良かろうし、素直に言わんとすることが通じよう。
同時にF1事故から4年が経ち、人々の気持ちも事故当初の打ちのめされたようなメンタリティーよりは、対象化できるようになっている方が多かろう。だが、矢張り、忘れてならないことは、放射性核種が与える圧倒的エネルギーが、生命維持に対して如何に甚大な被害を及ぼすかについてである。放射性核種によっては半減期が44億7千万年などというものもある。生命に安全なレベルまでこの値が下がる為には更に10倍の年月を必要とするから、そんな先には、地球は無論、肥大する太陽に呑みこまれて跡かたも無い。だが、そんな遠い未来ではなく、我らの子が、孫が、我ら自身が、重大な危機に晒されていることをキチンと押さえている点を高く評価したい。