ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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熱狂パンク

熱狂パンク

ソラカメ

王子小劇場(東京都)

2017/05/05 (金) ~ 2017/05/09 (火)公演終了

満足度★★★★★

 死んだフリをしているつもりか、多くの者が死の彷徨しかしていないこの植民地で、久しぶりに高校生ものらしい健全な精神の作品に出合った。花5つ星 断固観るべし!

ネタバレBOX

大人たちは矛盾だらけだということは、三歳の子供の目からもハッキリ見て取れる。寧ろ三歳は遅い位だ。それでも大人が自分の犯している矛盾に気付き、精神的な葛藤をしているのなら未だ救いもあろうが、大抵の大人は、そんなことに関わって思い悩むことは「大人げない」ことだとして一切向き合おうともしない。その結果が、現在、この植民地の体たらくである。無能で冒険主義的而も無責任この上もない安倍某とかいう嘘吐きキ印を頂点に置き、恬として恥じることすらない。こんな芸当ができるのも、彼らが本当はその精神に於いて死んでいるからにほかなるまい。そして、多くの思春期の少年・少女たちが、この悪しき影響を受け、謂わばゾンビの檻の中で生かされているのだが、今作は、この生きながらの死を打開すべく立ち上がった高校生を描いて秀逸である。実に良く高校生の雰囲気が出ており、教師たちの対応もそれらしい。何より所謂秀才と謂われる者達の本質が、社会の歯車として行儀よく・合理的に生活し、協調力に富み且つ上意下達に都合の良い人間でしかないこと、そしてそれが唯一の正解であるかのように押し付けてくる社会に対する異議申し立てこそ、若者が最初に為すべきことであり、若者のそのように健全な反発が失われると社会は急激に老い停滞する。掛かるが故に造反有理なのである。このような若者精神を見事に造形化した。
グリーンミュージカル「LADYBIRD,LADYBIRD」

グリーンミュージカル「LADYBIRD,LADYBIRD」

アリー・エンターテイメント

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2017/05/03 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★

タイトルのLadybird Ladybirdは魔法の言葉。

ネタバレBOX

森の中では”ネエ”と呼ばれていた名無しのアンがお母さんから教わった魔法の言葉。親を目の前で惨殺されたアンが、前のめりに生きてゆく為の魔法の言葉。
 大人から子供迄幅広い人々に観てもらうことを前提としたつくりだから、シチュエイションは単純である。森、虫篭の中、そして屋根裏。脱出口としては窓。開演時舞台中央奥には、虫たちの飼い主渡辺さんの家の窓が設えられているが、森に大きな捕虫網を持ってやってきた渡辺さんに囚われたアンとエリーの話に移るや、この窓は取り払われ、代わりに手前に設置してあったL字型が、適宜90°回転して窓枠になる。この仕掛けで虫篭の中の世界が舞台全面に広がる訳だ。と同時に閉じ込められているという現実が提示され続けるのである。
 ところで、どこの世界にも皆の世界観に入ってゆけない者が居るものだが、此処にも一匹デペイズマンというよりは、自意識の罠に捉えられたアゲハチョウの若虫が居る。彼女は、屋根裏から降りてきた蜘蛛の誘いに乗ってその住処へ出掛けてゆく。他にも都会育ちの♀カブトムシが同行。虫が居なくなったことを知った渡辺さんは半狂乱を呈する。この騒動を解決しようとアンは屋根裏へ出掛けてゆくが、蜘蛛の提供する好みの食べ物と自由に浸った脱走者達は容易に虫篭に戻ろうとはしない。無論、蜘蛛がおいしい餌を与えるのは太らせて食べる為であるが、その道理もすっかり肝を抜かれた脱走者達には通じない。そんな中、アンは初めて、Ladybirdの歌の意味、目の前で惨殺された母のことを語ることになる。こうして森の中からの友情を漸く取り戻した虫たちは元の虫篭に帰ってきた。
 この物語を主筋に、二夏を過ごし、既にボロボロのツクツクボウシのゲンゴロウや、娘を失くした離婚カマキリ夫婦、♀カブトムシに似ているか居ないか素っ頓狂な話で箍を外す、ゴキブリ&♀カブトムシ、5万数千匹の働き蜂の中の上位4匹、森の仲間であったが女王蜂になったハナの盛衰、強烈な臭気で皆を従えるカメムシ等々の逸話が絡んでストーリー的にも楽しませてくれる。多くの少女たちがダンサーとして登場するが、一所懸命に踊る姿が健やかで可愛らしい。
Rは決して爪を噛まない

Rは決して爪を噛まない

かーんず企画

千本桜ホール(東京都)

2017/05/03 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★

 AIの定義は、未だ定まっていないのでかなり想像にも幅がある。

ネタバレBOX

自分はシンギュラリティーを超えたレベルでのAIが人間なんぞに媚びを売る必要は一切ないと考えているが、今作のような展開も可能性は低いと考えるものの、描かれている内実に関しては極めて興味深いものがある。ロシア革命以前のロシア貴族を描いた「オブローモフ」を挙げるまでもなく、人間というものは際限なく堕落し得る存在である。その退屈の果てにとんでもないことをやらかし得る存在であることも、サド作品などを読めば明らかであろう。尤も日本のサド裁判では、澁澤龍彦が指摘した通り、最も肝要な部分を裁判官たちは判断せず、下らない風俗紊乱などで断罪したのは、彼らの文化的レベルの低さを見事に表していて悲惨そのものであるが。
 閑話休題。今作の興味深い点は、シンギュラリティーを超えたレベルのAIが搭載されたヒューマノイドが、人間らしさに憧れ、それを身に付けようと努力し且つ進化して、人間をサポートした結果、人間はその本能以外に何ら自らの意思で社会に発現する道を閉ざされることによって壊れてゆく過程を描いていると同時に、そのような欠陥をしも真似ようとする優秀なヒューマノイドが今後を担ってゆくことが最後に示唆される点である。その人間存在の闇を能力の高い者が実践したら、ガイアは確実に終わる。そのような不気味をキチンと提示している点が非常に興味深いのである。この人間というガイアのウィルスが滅びる必然性を、不気味の谷に通じるようなテイストで表している点に共鳴する者としない者で評価は正反対になるであろう。
僕は僕する

僕は僕する

劇団天動虫

要町アトリエ第七秘密基地(東京都)

2017/05/03 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

 説明を読んである程度は感じていたことなのだが、寺山解釈云々よりも、演者たちと我々学生運動世代の背負ってきたもの、背負っているものの質的な違いが大きい。(以下の理由から今回評価点は遠慮させて頂いた)

ネタバレBOX

寺山は、三沢など米軍基地で米兵と日本人とがどのような関係であったのかを体験し、深く傷ついた世代である。自分も多くの者が米国を支持し始めていた時代にあって米国大嫌いであるのは、物心つく前に米軍将校たちと日本の女たちとの関係をうば車から見ていたせいだろう。それだけ屈辱的なものであった。
 こんな訳で自分であれば、パフォーマンスとしては寺山も良く用いたフリークスを用いるか、さもなければ土方 巽の創始した暗黒舞踏の動きを取り入れたに違いない。それが、敗戦後に生まれた日本人としての抵抗であり、自嘲であり、屈辱を屈辱として再認識した上で、アメリカに対峙する方法だったのだと考える。またそれが「僕は僕する」というタイトル。即ち自らを盾にした非占領者宣言でもあったハズなのである。
 だが、今回拝見した作品には、我々のような屈折は見受けなかった。一所懸命に体を動かしているのだが、日本人としての身体性を意識した土方の舞踏などは微塵も感じさせない、素直で西洋的なパフォーマンスであった。良いとか悪いとかではなく、そこに我らと現代日本を生きる若い人々との決定的なギャップを感じたのである。
以上のような訳で今回評価点をつけることは遠慮させて頂くが、科白は原作に忠実なだけに演じ方・演出でこうも作品から受ける印象が異なるということを如実に示してくれたことには大きな意味があるだろう。
大神家の一億

大神家の一億

劇団ハッピータイム

ブックカフェ二十世紀(東京都)

2017/04/22 (土) ~ 2017/04/23 (日)公演終了

満足度★★★

 タイトルからしてパロディーなのだが、他にも映画をパロッた内容が随所に盛り込まれ、シナリオを重層化させている。

ネタバレBOX

だが、最も基本的な主張であるハズの格差社会自体を今一つパロッてみると非常に強いメッセージ性を持つように思う。その意味で、非正規雇用者の昏い情熱や社会の底辺で蠢く悔しさなどは出すより、痛烈に作品内でその位置を自嘲して見せることによって、アイロニーとしての毒で作品内のキャラクターをメタ化し痛烈なメスで観客を突き刺すような意識は弱まってしまった。観客へのサービス精神で悩むことも大切ではあるにせよ、作家の内的な葛藤を鋭い刃に磨きあげて欲しいとも思う。
 
あきこのアナの中 〜Again〜

あきこのアナの中 〜Again〜

劇団☆錦魚鉢

テアトルBONBON(東京都)

2017/04/26 (水) ~ 2017/04/30 (日)公演終了

満足度★★★

 この危なっかしいタイトルに惹かれて観に来たのだが、

ネタバレBOX

体内細菌や諸々の機構、防御網などの代表的なものに一つ一つキャラクターを与え、擬人化した上で、外部からやってくるウィルスや体内細菌同士の干渉作用、エネルギー源としての食物摂取や細胞膜内に取り込まねばならない水分摂取など生命維持に必要な諸手続き、それを阻害するダイエットやメンタルな影響を各キャラの争闘とギャグによって構成した作品。
 体内がミクロコスモスとして表現されている訳だが、TV番組の超人モノ的なキャラ設定が、物語を宙ぶらりんにしてしまった。もっと科学的なセンスで勝負する方が良かったような気がする。描かれている内容は、ミクロコスモスとしての人体なのだし、それはそれ自体、科学として面白い話なのだから。
SENSE OF LOSS

SENSE OF LOSS

劇団Turbo

駅前劇場(東京都)

2017/04/27 (木) ~ 2017/05/01 (月)公演終了

満足度★★★★

ぽっかり心に穴が開いてしまったような状態を体験しなかった者は幸せである。

ネタバレBOX

実際にそのように恵まれた者が存在するか否かは問うのも愚かなことかも知れない。何れにせよ傷つかなかった心などありはすまい。然し、心にいつも虚ろを抱え込んだ生というものは決して楽なものではない。様々な理由で親を亡くし、この施設で育った子供たちに里子制度による親が出来たのだが、貰われていった3姉妹は実の姉妹。だが里子に出された家庭は別々であった為、姉妹の誰一人として心底からの幸せに到達できない。親・子双方が各々悩むが子供同士が離れたくないのであれば、親が子供から離れ彼女らの思いを尊重しようと各親同士が約束を交わし子供たちは元の鞘に収まったが。この後、更なる協議の末に、誰もが納得のゆく結論を出し物語は新たな局面に入る。
 上演中故、ネタバレはここまで、あとは確認してちょ。

SENSE OF LOSS

SENSE OF LOSS

劇団Turbo

駅前劇場(東京都)

2017/04/27 (木) ~ 2017/05/01 (月)公演終了

満足度★★★★

ぽっかり心に穴が開いてしまったような状態を体験しなかった者は幸せである。

ネタバレBOX

実際にそのように恵まれた者が存在するか否かは問うのも愚かなことかも知れない。何れにせよ傷つかなかった心などありはすまい。然し、心にいつも虚ろを抱え込んだ生というものは決して楽なものではない。様々な理由で親を亡くし、この施設で育った子供たちに里子制度による親が出来たのだが、貰われていった3姉妹は実の姉妹。だが里子に出された家庭は別々であった為、姉妹の誰一人として心底からの幸せに到達できない。親・子双方が各々悩むが子供同士が離れたくないのであれば、親が子供から離れ彼女らの思いを尊重しようと各親同士が約束を交わし子供たちは元の鞘に収まったが。この後、更なる協議の末に、誰もが納得のゆく結論を出し物語は新たな局面に入る。
 上演中故、ネタバレはここまで、あとは確認してちょ。

光と影からの恵み

光と影からの恵み

BuzzFestTheater

萬劇場(東京都)

2017/04/26 (水) ~ 2017/04/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

小屋の作りの関係で座る場所によって見切れができてしまうので、可動椅子の場合は、
半身ずらしで並べるなどの配慮が欲しい所だ。キチンと見えさえすれば多くの人が更に高得点をくれるだけの内容である。

ネタバレBOX

都内にある沖縄料理店。店主は娘ばかり4人を持つ。妻は癌で既に亡くなっているが、孫娘にも恵まれ、常連客も互いに仲の良い極めて家族的な店である。無論、従業員も沖縄大好きおヤマトンチュー。そして医者を目指す中々優秀な留学生。
 笑いには、各キャラクターの言語表現の癖を用いたり、発音上の難点を用いたりを多用しとって付けたようなギャグが少ないので、沖縄の苦悩の歴史を背景にした物語を自然に成立させている。物語の縦軸は、三女・恵美の夫・光央の闘病生活だが、それを支える場として沖縄料理店の日常が活写されている点は見逃せない。というのも、日常を劇化するということは、難易度が高いのである。無論、ドラマティックな部分は、光央の闘病に纏わる部分だが、日常がしっかり描き込まれていないと芝居は観客に迫ってこない。この辺りの呼吸をしっかり舞台美術を含めて表現してくれている。もともと、この小屋は天井タッパがかなり高い。店の営業中は、下手の高い部分に地味な色地の布を用いた目隠しがそれとなく配されているのだが、物語の進展で必要になると、そこは病室であったりと実に効果的に用いられているのみならず、上手天井近くにはエル字型に提灯が下げられて、観客の目が自然に演者に向かうように作られている。
 また、人々の哀しみや喜びを表すのに沖縄の歌は最高の表現の一つだと思われるが、三線の生演奏や歌が実によく按配されている点も見所、聴き所である。

「新宿コネクティブ アナザー1975」

「新宿コネクティブ アナザー1975」

演劇企画ハッピー圏外

TACCS1179(東京都)

2017/04/20 (木) ~ 2017/04/26 (水)公演終了

満足度★★★★★

 1975年当時の本質的な新宿(歌舞伎町・ゴールデン街・二丁目)のちょっと斜めに構えながら、ホントに優しい街の雰囲気を見事に表出した作品。

ネタバレBOX


更に付け加えておくならメタ化された作品は、それなりに存在しているのだが、ハッピー圏外特有のトリックスター、後藤田さんの名乗りをメタ化しているのには驚いた。原作は小説にもなっているとのことで月末辺りから都内本屋には並びそうだ。
新宿のこの頃は実に面白い街であった。無論、表面的にはぼったくりとか、カツアゲやチンピラに喧嘩を吹っかけられて、袋叩きにされる連中も居たし物騒だという側面があったのも事実だが、ディープな関わりをしている人間には極めて優しい街であったのも事実であり、ホントにピンからキリまで総てのタイプの人間が集まる坩堝であった。マッポの手が届かない人脈・ルートがあったのも事実である。掃除屋というキャラクターが、当時の新宿の象徴として描かれ、悲劇のヒロインや街の優しさ表現にも極めて効果的で斬新な表現が採られている点、そしてそれらが、本質を見事に抉り出している点で、この劇団の質の高さと優しい感性、真摯な態度に共鳴する。
わりとキリギリス

わりとキリギリス

いのさち

OFF OFFシアター(東京都)

2017/04/19 (水) ~ 2017/04/23 (日)公演終了

満足度★★

 かなり病んでいるような内容だが、シナリオが未だ3人称の立ち位置から書かれていない。その為だろう。切れが悪いのである。

ネタバレBOX

タイトルは「蟻とキリギリス」をもじったものだし、劇中何度も原話の解釈や、クイズの解答として蟻を選ぶかキリギリスを選ぶかなどの設問も出てくるのだが、それが話の全体と有機的に関わっているとは言い難い。而も、描かれているのは拉致・監禁の上での虐待(気絶するほど強力なスタンガンを用いた)なのだからパンフに謳われているような喜劇というには程遠い。而も、劇中襲撃者は悪を働く自分が喜びを感じることに酔う反面、少しは呪ってもいるのである。こんな中途半端を描くなら、いっそのこと徹底した悪を描いた方が作品としては数段面白くなる。例えばキューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」に登場するアレックスのような暴力である。
独立愚連飯店

独立愚連飯店

トツゲキ倶楽部

「劇」小劇場(東京都)

2017/04/19 (水) ~ 2017/04/30 (日)公演終了

満足度★★★★

 東西南北、どの国からみても最も国境に近い真空地帯に位置する、食堂。その名を独立愚連飯店。(Bチームを拝見)

ネタバレBOX

マスターには伝説があって滅法強いことは確からしく、この店唯一の掟は例え戦闘中の敵同士であっても、店に入った以上「仲良く飯を食え」である。マスターの威厳を恐れてこの掟を破った者は居ない。
 このことが戦争の非人間性や、殺戮を旨とした生活から精神にダメージを受けた者、ホントに嫌気がさした者達にとって、心平らかに安らぎ居心地の良い唯一の場所になっていた。然し、各国の戦争はまだ続いている。そんな時、この食堂に東の国の兵士が2人紛れ込んできた。敵対国の兵士たちなので、常連たちも身構える。が、皆、人を殺したい訳でも殺されたい訳でもないので、女将が拾ってきた2人の兵士を皆で匿うことになったのだが、この国の兵士が、敵兵が潜入しているのではないか? と捜索に来たり、高級参謀用の兵法書が盗まれたらしいとの情報も入り、疑心暗鬼渦巻く中で、人として生きること、人間らしさが問われてゆく。同時に軍の根本的発想、人間を人間として扱わず“単に駒として考えよ”という兵法書の極意なども明かされ、戦争遂行の為に国家が「国民」に要求するものが何であるかを提示している。更にこの体制を維持する為の立法として共謀罪が登場するのだが、アメリカの植民地であるこの「国」の人々への注意喚起にもなっていることに注意したい。スノーデンの指摘を待つまでもなく電磁データの総てをアメリカは日本から原理的に盗むことができる。スノーデンの指摘した手法プリズムはエシュロンの発展形であろう。而もエシュロンの基地が、日本にあることは周知の事実である。トモダチ作戦の目的はいくつもあったが、そのうち最も比重が重かったのが、エシュロンの基地を守ることだったのではないか? との疑いを自分は持っている。何故ならエシュロンの基地は三沢の米軍基地内にあるからである。
 ところで、共謀罪である。何故、安倍の如きパシリが、共謀罪に此処までこだわるのか? という点についてである。エシュロンやプリズムで電磁データの総てを原理的に盗めるということであれば、情報収集サイドの穴は何処にあるか? これを考えてみればよかろう。答えは各自で出したまえ。
 何れにせよ、共謀罪を無理矢理成立させる必要などない、ということは日弁連の主張などを見ても納得がゆく。https://www.nichibenren.or.jp/activity/criminal/complicity.html
まっする東京すぽーつじむ

まっする東京すぽーつじむ

ものづくり計画

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2017/04/19 (水) ~ 2017/04/23 (日)公演終了

満足度★★★★

 板上は、素舞台。箱馬が腰かけやテーブルとして用いられている他、必要に応じて劇中、話の内容に応じたパーティー会場作りなどもされ、自然な流れが作られているので、伏線が、それと感づかれないままに巧みに埋め込まれている。この演出の手際は鮮やかと言って良い。花四つ星

ネタバレBOX


 物語は、街中のスポーツジム。一般に喧伝されている日本最初のスポーツジムより、ホントは歴史のあるジムが、存亡の危機に瀕していた。建物、設備、インストラクター等、どれをとってもガタがきたジムだったが、存亡の危機が伝えられると多くの人々から基金が寄せられリニューアルすることができた。心機一転、新たにチャレンジしようと考えた二代目は地元TV局にプロモーションヴィデオの制作を依頼した。PV試写などで再会したTVディレクターと二代目の会話から、TV取材が入ることになったが、リニューアルはしたものの、話の内容の殆どが嘘。然しTV局の取材が入るとなれば何としても体面を繕わなければならないと“まっする東京すぽーつじむ”関係者はてんやわんやの準備、打ち合わせなどに追われる。実際に現役で活動しているインストラクターは高齢者ばかりの為、偶々、二代目がTV局スタッフにジムを案内した際、会員になりすましピンチヒッターを務めた小劇団メンバーは即席インストラクターを演じることになり、本物のインストラクターたちは、かつて行われていた交流会の観客として参加することになった。TV局はこの交流会をメインに取材することになっていたのだが、地方局と雖もそこはプロ、すぽーつじむ側の嘘を見破ってしまう。然し、伏線で触れられていた謎が、起死回生の妙薬となった。その謎とは、ジム開設者である必敗のプロレスラーが何故人気レスラーだったのか? という謎であった。ミル・マスカラス、タイガーマスク(殊に初代)、猪木、ブッチャー、デストロイヤー、馬場などが何故人気レスラーだったかをみれば明らかであろう。カッコいいし、強いからと両面揃っているか、強いからであった。因みにこのスポーツジムの名称は“まっする東京すぽーつじむ”プロレスラー“まっする東京”のリングネームから取られた名である。そして名のあるプロレスラーなら皆持っている必殺技としてまっする東京が持っていた技の名をジャッジビンタという。
学校で苛められたり、孤立して辛い思いをしている子供達の意を自ら受けて、彼ら彼女らの悔しさ、苦しさを解消し優しく包み込んでやっていたのである。この優しさに救われた子供達、或いは社会的弱者たちがどれだけ多く居たことか。廃業止む無しという所迄追い詰められたジムの再建資金を提供してくれた人々こそ、まっする東京に救われた成長後の子供達であった。
 この事実に気付いた優秀なTVディレクターは、番組内容を変更してドキュメンタリーに切り替える。そしてこの国で最も早くできたスポーツジムの縁起として番組を制作する。
 シナリオで嘘を批判的に描くのではなく、その嘘が何故吐かれなければならなかったかに注目し、拠って来た所をハッキリさせて事実を再構成することによって作品を完成させてゆくというメタ構造を持たせた点に今作成功の理由があろう。この文章の最初で述べたように伏線の上手さも特筆に値する。うらぶれた雰囲気を出す為に役者陣もかなり工夫を凝らしたに違いない。劇団員の生活がそれとなく描かれていることも、この論点を保障するのではないだろうか。同時に生きてゆく者の求める答えも提示されているように思う。心を撃つ作品である。
『ラクゴ萌エ』

『ラクゴ萌エ』

ラチェットレンチF

d-倉庫(東京都)

2017/04/13 (木) ~ 2017/04/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

 落語は、無論滑稽をその情趣とするが、人情ものの作品数も極めて多く、作品数からいうと滑稽譚に次ぐ位置を占める。

ネタバレBOX

所謂古典落語の世界を成立させた社会というのは、近代以前から国民国家を形成しようとした時期に当たる。この間、為政者同士の争闘も紛争の様相を呈したことは誰でも知っていよう。幕藩体制から大政奉還を経て廃藩置県と言う名の行政単位に移行する中で、我々は初めて国家意識を強要されるに至った。これは、我々より早く国民国家を作り上げ、世界中を植民地化していった欧米列強が一足先に歩んできた道である。遅れた我々は、その劣勢の総てを甘んじて受容すべく、教育によって洗脳され、天皇を頂点とする忠君愛国の滅私奉公に駆り出されることとなった。当然、私権は制御され、理不尽は民衆に押し付けられた。そんな状況の中で警察権力が肥大し、軍部が跋扈する時代が長く続いたのは周知の事実である。そんなガンジガラメの只中で庶民がホッと息継ぎすることができたのが、シャレノメスことと人間らしさを保つ人情の機微に訴える手法であったに違いない。落語の発達と隆盛は以上のような条件下での文化的必然であったと看做すことができる。
 今作は現在の日本で起こっている落語の再燃現象を意識しつつ、落語の二大本質の一つ人情噺に重点を置いて作られている。古典落語も新作落語も登場するし、所謂腐女子御用達の二次元キャラの影響力なども加味されつつ、多様な次元、多様な局面を上下二つの高座を利用し、下段に於いては科白の入った演技が、上段に於いてはやや昏い照明の中で身体のみの演技が同時に為され、その様たるや恰も子を案じる親やその霊が、頻りに背後や草葉の陰から応援しているような風情を醸し出し見事なメタ構造で深い人情を表している。
 脚本の良さは、作家の落語に対する本質的で深い理解を前提とし、その上で現在の我々の心の襞に過不足なくフィットする作りになっており、舞台構造は、この微妙なバランスを表現するに適した合理的な作りである。演出の細かな摺り合せと大胆で細心の指示、これら総てを背負い演じる役者達の演技。殊に主要な配役を務める役者達の演技が良い。華子の初々しさ、だん次の師匠らしさと人情表現の素晴らしさ、素めんの婿入りでもしたような弱い立場の表現、そして、開演前に噺をしてくれる作家の落語の上手さ等々。惜しむらくはせん華役、落語を演じる時だけは、もう少し天才の持つ狂気を出しても良いように思ったが。
いつまでの森

いつまでの森

劇団演奏舞台

九段下GEKIBA(東京都)

2017/04/14 (金) ~ 2017/04/16 (日)公演終了

満足度★★★★

 板上正面には、スナックカウンターが設えられ、ドイツ自動車のナンバープレート等がカウンターの壁面などに貼られている。カウンター手前には、ボックス席。劇が進行する場としてはオーソドックスな作りである。

ネタバレBOX

下手奥には、ちょっと大きなラジカセがあり、ドリーム何とかという大企業のプロパガンダが開演前から流れている。因みにこのスナックは、いつまでの森に在ったのだが、立ち退きを迫られて現在の場所に引っ越してきた。立ち退きの理由は自然そのものである森を守り同時にエネルギーを自然を守ることによってこそ得るということを壮大なプロジェクトとして打ち上げているドリーム何チャラの計画推進の為であった。巨大企業の反対しにくい論理の前に、森の住民のうち多くの者が他の場所に移っていった。このスナックに集まるのは移住を拒否した人々である。
 養蜂家、森の花の活性的利用によって人気の高かったフラワーデザイナー、このスナックを陰ながら応援しているママの同級生、そしてこの地に”いつまで”を探しに来た研究者等々の生活の変化を通し、また研究者の齎したデータによって、ドリーム何チャラの欺瞞に満ち満ちた研究と制御できない技術を人間世界に取り込んだことの弊害が徐々に明らかになってくる。具体的に、自分が解釈したのは、F1人災で誰の目にも明らかになった核問題であるが、別に核に限定する必要は無論ない。ただ、作り出したヒトが、制御できない技術という化け物に対して、我々は何をどのように考え、対処すべきであるのか? このF1人災以来最も喫緊の課題を蔑にし続けるのみならず、被害の実態を矮小化して報じる政治屋や、その論理を裏付けるのに力を貸す下司インテリ、政治屋に対する批判精神を失った意味の無いマス塵、利害に敏いだけの官僚と言う名の糞野郎ども、これらの下司を利害によって操る巨大企業の傲然たる嘘に対し、真実が偶に命懸けで提起されようともこれらの下司の一部でさえ討ち取ることのできない鵺のような社会に対して、我らは有効なアンチを提起できているのか? を真っ向から問うた意欲作。
 願わくば、更に文学的表現迄昇華して欲しかった。
焼骨

焼骨

タッタタ探検組合

駅前劇場(東京都)

2017/04/12 (水) ~ 2017/04/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

火葬場、人生の最後にお世話になる場所である。今回は、その火葬場でのオハナシ!! 花5つ星

ネタバレBOX

厳粛を旨とするこのような場所を喜劇として如何に描くか? 最初から高いハードルを設定している作品だけに、どう料理するか? 観劇前の期待値の大きさは、誰にもあったであろう。結果、期待は裏切られなかった。思いもよらぬ形で進行する物語とオープニングでスクリーンに映し出された映像が、スクリーンを落とすと同時に生きた役者群が現れる演出の素晴らしさでいきなり引き込まれてしまう。空海の密教からの文章等が映写されたりという前提があり、焼き場の炎の描写があったりで、現れた役者達の炎を表すダンスが生々しく迫ってくるのだ。焼き場では、火夫が焼骨の歌等を歌いながら仕事をしている。火葬をお願いした一家、鳴沢家の人々の故人に纏わる雑談などが演じられる。火葬場スタッフ同士の場面、成沢家の人々と火葬場スタッフとの打ち合わせ場面などが、小気味よいテンポの場面転換で過不足なく紡がれ、仕込まれた様々なギャグと伏線、脱線、脱臼等々喜劇を作る際の様々なテクニックが縦横に配され、観客は笑いながら、箍を外され、思いがけない展開に翻弄される楽しみにしたたかに酔う。無論、更なる驚きと緊張が仕組まれている。詳細は上演中故敢えて書かないが、このもう一つの大きな柱によって、物語は単なる喜劇の枠を超えて深く哲学的であると同時に、厳粛であるべき葬儀という題材に対して決して礼を失することの無い優れた作品に仕上がっている。それは、死と再生の物語という普遍性に達し、仏教の極めて特徴的な思想である輪廻転生にも通じる。焼骨の歌の歌詞が、冒頭で歌われていた物とはまるで変って宮澤 賢治の「星めぐりの歌」になるのは、正しく象徴的である。無論、このようになることは、巧みな伏線によって示唆されている。今作も何度も観たい舞台だ。
近代能楽集

近代能楽集

J-Theater

小劇場B1(東京都)

2017/04/10 (月) ~ 2017/04/13 (木)公演終了

満足度★★★★

演出家2人の三島解釈

ネタバレBOX

拓生版
「班女」
二人の演出家の作品に対する位置の違いが舞台美術にも良く表れている。拓生版では、実子の部屋の様子はずっとシンプルで生活者の臭いが排除されている。その分、三島の死んだ文体即ち生きながらの死に近いと言えるかも知れないが、この手法・解釈は既に手垢に塗れているとも言えよう。何れにせよ、役者の演技への注文の付け方も明らかに異なるのがよく分かる。七緒版では、実子が主役であるが、拓生版では花子の役割が強調されている点にもこの差が現れているし、何より三島の死生観を如何に解釈しているかという点で大きく異なっている。花子の衣装についても、拓生版では和服、七緒版では洋服とまるで違うのも面白い。実際、二人の演出の差によって同じシナリオから受ける作品の貌がこうも違うのか、との驚きを禁じ得ないほど作品から受ける印象が異なるので、ご覧になる方は是非両方の演出を楽しんで頂きたい。なお、拓生版では一部Wキャストになっているので、贔屓の役者を観に行く方は注意されたい。(班女・邯鄲何れも一部Wキャストである)
「邯鄲」
三島の近代能楽集のうち最も早い時期に書かれた作品であり、可也素直な作品である。主人公の次郎は三島の分身であるし、登場人物の数も近代戯曲集の中で最も多いのだが、楽曲に対する指定などもあるシナリオでミュージカル的な要素も入って居る為、作品に対するイメージをもとに演出してゆく拓生流が活きてくる作品でもある。拓生版では「班女」でも用いられていた能管の生演奏が入る他、チベットのシンギングボウルやフィンガーシンバルなども効果的に用いられているが、今回能管の奏法は、多くの場合、伝統的な型ではなく近代能楽集の各作品、演者のテンポに合わせて奏されている点にも注意を向けたい。
同時に、邯鄲の演出で拓生版が一定の成功を収めている点で見逃せない事実がある。これは三島が、己の状態、生きながらの死を可也素直に描いている点から来ている。即ちi二乗
=−1という解になるという点が、空を空として初めから認識している次郎の齎す勝利の果実として、枯れ果てていた庭の花々の甦りや、鳥たちの再訪という奇跡を齎すのであり、これは生きながらの死を何とか脱出したいと願った三島の夢想の死の言語による実現だったと捉えることができよう。
近代能楽集

近代能楽集

J-Theater

小劇場B1(東京都)

2017/04/10 (月) ~ 2017/04/13 (木)公演終了

満足度★★★★★

 二人の演出家、小林 七緒と小林 拓生の演出による三島の近代能楽集から、共通作品「班女」と七緒の「熊野」拓生の「邯鄲」。各々2作品づつの競演である。(敬称略)

ネタバレBOX

「班女」

小林 七緒は流山児事務所の実力演出家、小林 拓夫はJ‐Theater主催者である。先ずは七緒の「班女」から。
 七緒の演出では、作家三島の本質を死の側で生きようとしたナルシシストとして正確に捉え、その余りにも美し過ぎる文体に、腐敗過程を除くと死の特性である不変化に縛られた三島という華麗な嘘つきの実態を暴き出している。三島の全文章の中で最も完成度の高いのは戯曲であるとの指摘は高橋 和郎ならずとも指摘し得る所であろうが、その具体例が今作、「班女」にも端的に表れていると見ることができる。
 序盤、画家の実子が、花子を匿い続ける実子についての朝刊記事を鋏で切り裂くシーンがあるが、この切り方に対する演出が見事である。先ず、実子は件の記事の両側を裁断する。その後、記事部分を紙吹雪よろしく粉々に切り裂くのである。この演出で実子の花子に対する様々な想いが凝縮された形で表現されるのだ。
 序盤で、このように劇全体を説明すると同時に、登場人物の相互関係のアウトラインを示してみせるのは、戯曲の正攻法である。死の文体を用いて、生を再現しなければならなかった三島 由紀夫にとって、これら正攻法は必然的形式であった。その点を深く理解した上での演出と言えよう。更に言い募るなら戯曲の根本は論理であるから、三島作品の中で最も完成度が高いのが戯曲ということになるのである。
 何れにせよ、七緒演出では、ヴィヴィッドに生きている者の視座から三島を捉え返そうという姿勢が見える。だから実子の下にあって、班女の狂気即ち曖昧模糊と鋭さの混在を、再度狂気が生まれ出るよう形で再現してみせるのである。
 吉雄の登場によって、危機に晒される実子の目論見も、花子の狂気が持つ純粋性つまり真っ直ぐ物事を見る力によって回避される。花子の反応を解き明かせば、純化された理念が現実を凌駕してより美しく結実するのに対して、現実は変化し多くの場合劣化するので、理想とのギャップはより大きく感じられる訳である、ということにもなろうが、此処まで言うのは野暮か。
 では、班女の愛は何を対象としていたのか? という恐ろしい問いが、内包されている終結部は、答えが余りにも明らかなので記さない。
「熊野」
 西武の堤 康二郎辺りをモデルにしたような実業家(モデルに関しては「宴の後」で日本初のプライバシー裁判となった有田などの件もある)とその内妻の話だが、三島の文体の特色である死の側に身を置こうとすることから来る真の躍動感の欠如を覆いがたく感じる。恐らくは三島自身、このことは大江 健三郎に指摘されて本気で怒っていたように内心忸怩たる思いもあったのかも知れぬ。何れにせよ、己自身の死を自ら認識することは誰にも出来ないし、己の死が意味することの全体を、或いは意味せぬことの全体を自ら認識することもできない事実に鑑みれば、死を生きようとする三島は根本的な矛盾を犯していることになろう。だが、若い頃に人生の総てを計った気になってしまい、その呪縛から抜け出ることができなかったことは、三島の文体をその核心部分に於いて規定した。結果、自衛隊への体験入隊や映画出演、筋肉の鍛錬や一所懸命に剣道に打ち込んだことなどは、総て仮面であったと見ることができるような、生を生きる他なかったのである。これこそ、生ける屍、生きながらの死であった。聡明な彼にこのことが分からなかったハズはない。
 七緒演出では、この三島の実相をヴィヴィッドに生きる者の視座から照射し、評価して作品である今舞台を造形している。必見の演出である。

鬼啖

鬼啖

芸術集団れんこんきすた

studio applause (スタジオアプローズ)(東京都)

2017/04/07 (金) ~ 2017/04/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/04/08 (土)

 女性二人の真剣勝負。片や鬼と謂われた人喰い、片や尼僧。単に話に終わらず、かといって単なる言語合戦でもない。女性(にょしょう)の命を賭けた生き方そのものへの問い!!
花五つ星。見事である。

ネタバレBOX


 舞台は、板を側面から挟み込む形で客席が設えられ、板上には鰻の上半身を上から眺めたような形の赤茶けた敷き物。この敷き物の側面には白っぽい礫が散らばっており、胴の中ほどには、鬼と化した女が縛めの縄を打たれて蹲っている。その背面は洞窟の奥を示唆するかのような黒い緞帳で覆われ天井からは縄のような物が二十数本垂れている。鰻の頭長辺りから1mほど幅のアプローチが架け橋となっていて、麓の村から通ってくる旅の尼の通り道である。
 さて、尼は誰からも好かれ、頭も良く若い青年が、鬼に食い殺されたので折伏して欲しいと通り掛かった村で頼まれたことから、この洞へやってきたのだが、鬼とは女子。而も村人を憎み呪う情念の強さは尋常でなく、理屈も立ち一筋縄ではゆかぬことを初の訪問で知る。翌日、更に翌々日と尼僧と鬼の対決は続くが、賢い尼僧がソクラテスの弁証法の如き論理で追い詰めたかと思えば、鬼は尼僧の知識の不備を突き、鬼のパトスの拠ってくる場所を弁えぬことの非を衝く。尼僧も負けてはいない。己を虚の状態に置き、とことん鬼の呪いの拠る所に添おうとする。この過程で鬼は尼僧の過去を見破り主客転倒するかと思われた反転世界が表現された後、二人は互いに正確に相手の位置を知り、恋に身を焦がす女子の性(さが)の執着の凄まじさと凄惨なまでのパトス、煩悩の坩堝の只中で生きて死ぬことの哀しさを共有する。このシーンの実に美しいこと。鬼女を演ずる中川 朝子さんの情念の炎に煽られながら同時に生きる者の真の哀しみを表現するような素晴らしい演技は必見。尼僧を演じるマリコさんも熱演である。脚本・演出の奥村 千里さんのシナリオ・演出も一瞬も目を離せない緊迫した舞台に仕上げている。シンプルだが、本質的な舞台美術もグーだし、照明、音響も適切である。スタッフワークも温かく丁寧である。何度観ても良い舞台と言えよう。少しだけ、どれだけキチンと作られているか参考までに記しておくと。縛めの縄もキチンと捕縛術に則ったものという本格的な縛り方だ。因みに明治時代以降、日本の警察が用いた捕縛術の縛り方も忍びの捕縛術を踏襲したものであった。こういう点にまで注意した丁寧で真摯なつくりの舞台なのである。
KILL&DAD

KILL&DAD

劇団ベイビーベイビーベイベー

d-倉庫(東京都)

2017/04/06 (木) ~ 2017/04/10 (月)公演終了

満足度★★★★

 開演が18時半ということだったので尺は長いと踏んでいたのだが、途中10分の休憩を挟んで2時間45分程。

ネタバレBOX

一幕では何等かの事情があって殺し屋稼業内に分裂が起き、結果裏切りが幾重にも重ねられた罠に変容でもしたように、悪魔と恐れられた殺し屋の娘、Killの親子・恋人・師弟関係など彼女に纏わる総てに絡んでスリリングに展開する。
この作品にリアルを求めても仕様がない。今作で用いられているような大型拳銃をあんなに連射するハズも無いのだし、銃身が焼けてしまうなど様々な弊害をあげつらったらきりが無い。そんなことより、ハードボイルド風に味付けされた人間関係の機微を掬い上げて楽しんだ方が良かろう。
二幕では、分裂の謎が解き明かされ、Killを巡る人間関係の真の姿が繙かれる。こちらは、一幕よりずっとメロドラマに近いテイストなので、ハードボイルド好みの人にはちょっと苦笑いかもしれないが、適度に擽りを入れ謎解きにつき合わせるのは中々面白い。
舞台の作りも決してデコラティブではないが、アクションの多いことを勘案した合理的な作りだ。役者達も動きは取り易いのではあるまいか。ジャンキーというとぼけた名前の殺し屋達のボスが、自分では殺し等やれないコーディネイターであるという設定も面白い。まあ、悪い奴ほど自分の手は汚さないのは世の中の基本ではあるが。

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