満足度★★★★
3月から始まった今年の月一座布団劇場、半年で六回の公演も今回で今年度最後の公演となる。総勢10名出演の舞台となるが、本日1日のマチソワ公演のみである。演目は、上演順に「くやみ」「子は鎹」「掛取り」の三話。来年のことを言えば鬼が笑うというが、それはさておき来年三月以降にも月一座布団劇場上演の予定があるという。楽しみに待とう。
ネタバレBOX
第一話は、冠婚葬祭のうちその人物の人生最後の儀式であるが、無論、通夜、葬儀の席には、多くの関係者が列席して悔やみを連ねる。然るに本当に故人の死を嘆く者はごくわずかであろう。厳粛な儀式であることを要請されるので弔問に訪れた人々は口々に神妙な口ぶり態度で悔やみを述べる訳だが、内心では全然別のことを考えていてもおかしくない。今作は、堅苦しい儀式に纏わるこんな人間の赤裸々な事象を嗤いに託して批評した作品とも取れる。そうとれば、かなり辛辣な作品である。在る者はのろけ、或いは自分の商売の宣伝をし、また別の者は縷々己の主義主張を述べる。厳粛であるべき今生の別れをする儀式で。而も仏は皆の面倒を看、皆から慕われてきた人格者だというのにこの様。まったく処置なしと嘆くより先に、このように鋭い批評意識で落語化し、茶化して見せる魂の健全さを持つ者の存在あるということが救いである。笑いとは何より鋭い批評であるという、笑いの原点が示された作品と言えよう。
第二話は、腕の良い職人だが、無類の酒好きで而も酒乱の職人、熊五郎が出来た女房と可愛い子を追い出し、吉原の女を連れ込んだものの、己の罪に漸く気付き酒を断って3年、偶々、頼まれた仕事で木場へ向かう途中、息子の金坊に出会い、この子が鎹となって復縁を遂げるまでの話だが、訳あって2歳の時から親を信ずることができなくなり以来家族という概念に縁遠い自分でもホロリとさせられるような良い話である。何より、熊五郎役が良い。如何にも腕の良い、下町の気の利いた職人の風情が良く出ている。金坊役もそのヘアスタイルと童顔が似合って良いキャスティングである。女房のしっかり者としての気性と当時の日本女性の一歩引いて男を立てる価値観もかなりキチンと再現されている。フェミニズムの機械的支持者にはお叱りを蒙るかも知れないが、身体の物理的強弱の問題が完全に平準化されない限り、弱い側が、身体的強弱以外の方法で、伍してゆく為に様々な方法で対峙する以外、対抗することは本質的に無理を伴う。
第三話は、掛取り即ち借金取りの話だ。江戸時代は大晦日に借金の取り立てが出来なければ、その借金は確かチャラになって翌年から再度、借金0状態から始められたと思う。その流れがあって、借金を取り立てる者、支払いを拒みたい者の攻防には凄まじいものがあった。そんな訳で、このネタは多くの落語、笑話のネタとなっている。今作では、矢張り、金に詰まって、今年の支払い拒否の言い訳をどうしたものかと女房に言い募られている男が、この難局を如何に切り抜けるかを記した笑話になっている。
借金取り撃退に去年は夫が死んだことにした。棺桶を持ち込んで、その前で女房に嘘泣きをさせたのである。素人に涙が簡単に出せる訳ではないから、女房は、茶の雫を目の下に付けて演じていたのであるが、ある借金取りには「泣き真似はもっと上手にやった方が良い」と言われてしまう。確かめてみると頬に茶葉が付いていた、とか。大家が気の毒に思って香典をくれたのを女房は正月を迎えれば、死んだハズの亭主が直ぐぴんぴんと起き上がってくるのが分かり切っている手前、受け取ることが出来ずにお返ししますと押し問答をしている時、棺桶の蓋がガラリと開いて夫が飛び出してきたものだから大家はびっくり仰天、下駄も履かずに逃げ出してしまった。今年も同じ手は使えない、と今年は相手の好きなもの・ことを肴に話を盛り上げて誤魔化そうということになった。大家は狂歌が大好き、魚屋は喧嘩が好き、三橋は三橋美智也が大好きということで、大家には狂歌談義を魚屋には喧嘩腰の談判を、そして三橋には美智也の歌を替え歌にしたりしながら、総て追い返す。このピカレスクロマンを洒落で構成したような痛快が何ともいえない。
満足度★★★★
異端x異端と銘打った本公演。佐々木 敦の「paper song」と川村 美紀子の「或る女」との2作品上演であるが、作品上演に舞台転換だの休憩は入らない。無論、それぞれ独立した作品である。(追記2017.10.12:02:54)
ネタバレBOX
佐々木のパフォーマンスでも、川村のパフォーマンスでも照明はかなり絞られ、佐々木の場合では、工事現場で良く見掛るような電球の周りに防護のネットと半球型の反射板兼防護用カヴァーの付いた道具がいくつか用いられる他、エコーを掛ける為の機器が効果的に使われる。他は、机を叩いたり、蹴る。紙を破く、引っ張る、巻きつける際の、そして巻きつけた紙を通して呼吸をする際の様々な音を効果として巧みに用いている。
如何にも男の表現らしく、その方法は構造的・構成的で論理で追える内容と観た。開演当初、板上には、上手に机と椅子、机上にはエコーを掛ける機械と印刷物が少々載っており、机の脇には、数十冊の本か、該当する量の紙束が積み上げられている他、開始前に大きな紙袋から出された矢張り本らしきものが足し増されている。その下手横には、照明用機器がたぐねてある開演直後、男は、机に向かい新聞やら雑誌から、オンナの顔の映ったページを選んで破り取り、それを机上に大事に置いて、残りはゾンザイに投げ捨てている、この行為は、恰も文字や文字情報を拒否しているかのようである。その証拠と言ってはなんだが、男は女の画像と交感する。試しに♂が画像を顔に貼り付けると、彼の呼吸は荒くなり二重、三重に張られた文字情報の下で彼は吐血している。これは無論、文字情婦を紡ぐ為に費やされた刻苦勉励の為ではない。反対に本来刻苦勉励の果てに記されねばならぬ文字表現の果てしない堕落の齎した結果としての痛ましい「知」の血である。掛かるが故に、画像と化した女たちの顔を文字情報に傷付けられた血だらけの顔に貼り付け、気を取り直すのである。ここまで観れば彼が文字情報廃棄に至ることは必然であろう。彼が猛り狂ったように文字情報を廃棄する当に直中、板下手奥に設えられた袖に、オンナが立つ。この演出は背筋がぞくっとするほど素晴らしい。
かくして登場した女は、自由に舞う。この身体の柔らかさ、自由な表現のレベルの高さが見事である。一方、彼女は何か絶対的なこと或いは力及ばぬ何かに対する本能的な恐れをも同時に抱えているように映る。例えばそれは、己の身体と本能の総てが単にDNAの命令によって動かされている不如意。換言すれば、己の存在は単にDNAの乗り物に過ぎないという認識に似たものであろうか。そのような認識が真であるならば、精神と言い習わされてきたもの或いはその現れとしての事象は、総てマヤカシということになる。このような不安に対するに彼女の持っている武器は、精神に象徴される幻影と己の身体そのものだけである。だが、身体はその新陳代謝からも分かるように永遠不変のものである訳はなく、絶えず更新され、廃棄されて、その時点である一定の形を有する有機的構造体に過ぎない。レトリカルに永遠を措定するのでない限り、身体に永遠性を求めることは欺瞞以外の「なにもの」でも在り得ない。その時、瞬間、瞬間の反逆に身を委ねる以外にどのように真摯な態度を表現できようか? 彼女の踊りにはこのような問い掛けがあるように感じる。
満足度★★★★
宇宙を構成している物質の殆どがダークマターだと言われるようになり、暗黒が宇宙で占める割合も圧倒的であることが認識され始めてやっと、暗黒に対する想像力の用い方が変わってきたのであろう。
ネタバレBOX
この劇団は、暗闇演劇を標榜して公演を打ってきた。
数年前に1度拝見したことがあるが、今回の公演は、数年の間に大きく進歩している。暗闇で演じるのが基本である為、伝達手段はほぼ音ということになるのだが、換言すれば、脚本が良くなければどうにもならないということである。
今作、序盤から中盤にかけては、時事ネタをベースに擽りを掛け、中盤の破から終盤、急に至る展開で、クライマックスを迎える。この場面の科白のレベルはつか こうへいの被差別意識の中核を突いたような名科白であり、傷ついたすみれへの口説き文句も、すみれの反応に対する対処も素晴らしい。
中盤までの擽りにもっとエッジを効かせれば、更に完成度は高くなろう。今後とも精進を重ね、更なる高見に到達せんことを!
満足度★★★★★
47歳で亡くなった寺山 修司と同期の早稲田大学学生であった山田 太一の往復書簡を劇化した作品の朗読上演である。花5つ星
ネタバレBOX
何より当日パンフレットの表紙が訃報を告げる黒枠でタイトルを囲んでいることに注意が向く。山田 太一さんは現役作家として未だ新作を発表なさっているが、この装丁は無論、亡くなった寺山 修司に対する深い哀悼の念を表している。その寺山は、生前口にしていたように5月に亡くなった。西行の「願わくば 花の下にて 春死なむ その望月の如月の頃」 に対抗するつもりであったろうことは想像に難くない。5月と言えば五月晴れの清々しさを誰しもが即座に思う。西行の名歌と共に素晴らしい季節ではないか?
何れにせよ、ネフローゼで3年間も若い時期に入院し、生死の境を彷徨った寺山の自身に対する自負と才能の横溢を証立てるような言葉とその死ではないか。この寺山が、自ら声を掛けたのが、山田 太一であった。寺山が倒れる以前から、若くして優れた才能を発揮していた二人が互いに共鳴し合い、交感し合って心の底から笑い、談論風発に興じ、別れては続きを手紙に認めて交信し合う。そんな時を過ごしていたのだった。この往復書簡の期間が異様な長期に及ぶのは、寺山の長期入院により、彼の体調を慮ってのことである。
だがそれ以前に、互いの優れた才能を互いに認め合い、最も身近に最大の理解者を持ち得た行幸を、互いに精神の高みを共有する者同士として認識し合っていたからに他ならない。この行幸を齎した原因が、同時代、同世代、而も同級生であったという因縁にあることが、この二つの優れた才能に更なる雄飛を齎し、盤石のものにしたであろうこともまた確かなことであろう。
それほどの友を喪った山田 太一が、寺山を失って味わった、自らの体の一部を抉り取られたような寂寞が、観客にも茫然自失を迫る。それほど真に迫った朗読劇であった。友情の何たるかを描いた秀作である。
満足度★★★★
舞台美術に結構金も掛かっているだろうに。勿体ないのは全体の印象が和風であるにも拘わらず、上手奥の割に目立つ所に掛かっている絵が洋画だったり奥正面脇に置かれた壺が、これまたマッチングを欠いた色彩のものであったり、と折角の舞台意匠がチグハグなものになっていることである。上手壁際に置かれた緋縅の鎧も、その緋に時の齎した古色蒼然たる気配が無い為浮いてしまい、正面に上手に置かれた兜と共に気配を台無しにしている。
(追記後送)
満足度★★★★★
2010年の第1作から2014年のファイナルに至る迄4作がシリーズ化され、何れも池袋演劇大賞をはじめ数々の賞の受賞作である。今回の公演で5作目ということになるが、今回は高齢化社会にあって認知症は最早他人事ではないという時代状況もあるだろうし、実際に家族の誰かが認知症になったなどで、この症状に対する理解が進んだこと。即ち想像力が具体的に働く人々が増えたことにもよるであろうが、何れにせよ最早避けて通れない問題として人々に受け入れられてきたアルツハイマーを、介護する側から描いた作品と言えよう。これには劇団主宰の井保氏が実際に介護に関わってきた経験が大きくものを言っている。語られる各挿話は無論フィクションという形であるが、問題の取り上げ方が一々具体的で気配りも人間的配慮も利いた内容になっている所に今作、今シリーズの凄さが潜んでいよう。(追記2017,10.5 0:33)
ネタバレBOX
とりわけ、認知症に対するに大切なことは、被介護者の人としてのプライドを、如何に守り抜きながらケアするか? という点であろう。認知症の最大の特徴は、兎に角忘れるということである。忘れたことを忘れているから、自分が何処かに仕舞った財布が見つからないと、自分自身で仕舞ったことを忘れて泥棒を疑うのである。泥棒は確かに気を付けなければならない問題であるが、泥棒が罪とされる根本の原因はそれを公式に認めてしまえば私有財産を根拠づける論理を否定するからではないか? 言い換えれば、私有財産制を根本原理とする資本主義を否定することになる。原始共産制に於いて泥棒という概念は存在し得ないだろう。まあ、この辺りの論議は置いておくとしても考え始めれば様々な問題提起が行えるハズだ。
何れにせよ大抵の人は、こんなことまで考えないから、取り敢えず自分が生きて来た社会で当たり前とされていることを自らの原理として採用している。だから、諺で言われているように”人を見たら泥棒と思え”とか、泥棒は犯罪だとかを「根拠」としており、忘れたことを忘れた際に原理を参照しているのだと思われる。
一方この“泥棒”の例のような概念レベルから被保護者のアイデンティティーが構成されているのであれば、その人のプライドもまたこのレベルの知をベースに構築されているのであり、それを徒に傷つけることは人格否定につながる。この事態は避けねばならない。人が人として生きる権利を否定することは、人倫にもとるからであり、人倫を否定した暁には、福祉その物の根本原理をも否定することになるからである。他人を傷つけずに而も社会にアダプトさせ、ケアする側にも過重な負担を掛けずにことを運ぶ為には、様々なテクニックと類稀な生きて働く想像力、そして弁証法的思考が必要であろう。これらが十全に行える人材は決して多くはあるまい。その解の一つが、今作で具体的に描かれている。その点が観客を惹きつけてやまないのである。
満足度★★★★
オスロからやって来たグリソムヘテン劇団の作品。
ネタバレBOX
A.Rimbaudが1871年5月13日にGeorges Izambardに宛てた手紙の中に書いた有名な1行、Je est un autre.の英語訳がタイトルになった作品で、彼が19歳で詩を去った後、オランダの外人部隊を経、キプロスの採石場で助監督を経た後、遂にはイエメンのアデンで珈琲豆業者になって以降、マルセイユに戻って死ぬまでを、A.Artaudの解剖学的演劇の観点からの基本的インスピレーション復興を目指したパフォーマンスで表現しようとした。
当然のこと乍ら、それはヨーロッパの個人主義的な伝統に則る形になったように思われる。例えば、冒頭、アデンのバザールの場面では、現地の人々を装った役者たちが、頭の上に壺などの荷物を載せて登場する者もあったのだが、自分も頭に荷物を載せて運ぶのが普通の場所で生活していて、今回役者が演じたような姿勢では絶対、ホントに重いには運べない、というのが余りにアカラサマで、このパフォーマンス自体をちょっと疑ってしまったのも事実である。呼吸法や、独自の発声法等も日本の役者とは異なる点も見られはしたが、矢張りヨーロッパで暮らした経験を持つ自分には、それはヨーロッパ流と映った。
そういうことを意識した上で観劇するという態度で自分は拝見したということができる。その上で、Je est un autre.は、苦い認識には違いないが、天才じみた子供が大人になる時の気の狂わんばかりの重圧を通してみた、実存の相であるとの思いを再確認したに過ぎない。およそ150年近くも前の天才的ガキの書いた一行に振り回されるほど、自分達は軟だとすれば、これこそ問題であると言わねばなるまい。その意味で面白い試みであった。
満足度★★★★★
Aチームを拝見。男女の2人芝居だ.。
ネタバレBOX
2人芝居は無論ダイアローグの基本。多くは同性による2人芝居が多いのではないかと思うが、今回のそれは男女1人Ⅰ人の2人芝居である。LGBTの方には怒られるかも知れないが、基本型、ヘテロカップルということである。
愛の話であるが、その愛は不変・不屈の愛であり、何とローマ時代のカルタゴ(北アフリカに在った古代都市国家)とローマの戦争(第1次~第3次までのポエニ戦争が有名であるが、カルタゴの猛将、ハンニバルの名前くらいは多くの人が知っていよう。)から連合国軍対共和軍、中東軍対欧米軍等々数々の戦争で、或いは敵味方に、或いは主従に、在る時は人と動物として、ある時は女性とLGBTとして等々、各主体も変化し続けながら愛の念・記憶の塊として形象された枯れない花を徴に出会い・確かめ合いながら、その都度、戦によって引き裂かれた愛が、シンギュラリティーを経た未来の植民星に在って、それも廃棄されたアンドロイドの捨て場となっている植民星で経年劣化が進みエネルギーも切れようとする最後の2時間弱を通して確認される、3千年近い純愛の物語。極めて硬質なクリスタルの結晶のような、かつて湖のほとりで暮らし、慎ましく小さな幸せを育んだが、戦争によって奪われた2人の愛を、時代も空間も超え、更には存在の様態さえ超えて、貫き通した愛の物語。
このぶれない愛が素晴らしい。流石、ナツメクニオの作である。同時にシンプルな美術だが、微妙にバランスが崩された美的センスと各部材の配置、そして照明と音響で齎される劇的効果の妙、更に息の合った役者2人による演技、随所でフィードバックされるアンドロイドとしての現況が、哀しさを加速する演出の巧み。自分の好みとしてはおちゃらけを抜いた方がより好感度が増すと思えたにせよ、素晴らしい作品である。
演者によってもかなり印象が異なるであろう感触を持った作品であるが、それだけ、脚本の持つ深みも感じられる作品である。
満足度★★★★
T1プロジェクトは若手育成プログラムでもあるので、今回も初舞台という新人が何人もいる。それに初日の緊張感もあってのことだろう。オープニング早々は、若干こなれない表現も目に付いた若手だったが、そこは作・演出が極めて質の高い演出でかなりの程度フォローしている。作家の人間に対する深く強い信頼渇望が現れた作品である。(追記後送)
ネタバレBOX
オープニングのシーンは、主人公・悠人の登場シーンで下手奥に設えられた階段を下りてくるのだが、階段の客席側は途中まで壁になっているので、彼の姿は最初見えない。最初に見えるのは、彼の背後からのライトによって階段踊り場や階段正面の壁に映る彼の影である。この演出に先ず観客は度胆を抜かれる。舞台は、既に廃工場となった缶詰工場。じき20歳になろうとする悠人が、自分を捨てた父の働いていた缶詰工場を訪れるシーンが冒頭のそれである。正面奥が旧工場、上手も建物の一部を為し中庭のようになったスペースの上手奥と対角線上に当たる下手手前には、背凭れつきだが、時に洗われてすっかり古びた椅子がそれぞれ背凭れがキチンと対向する具合に斜めに置かれている。下手の椅子の手前には矢張り古く細長いテーブルが側壁に沿って置かれ、上手の電線などを巻く大きな糸巻型をしたテーブル代わりのオブジェとその横に椅子代わりに置かれたキュービックなオブジェとが対を為している。その他下手・上手共に客席側には植栽が配され、舞台と客席の間にも草の植えられたプランターが置かれている他、所々につたの類が這っている。全体としては、廃工場の雰囲気が充満して古色蒼然たる気配である。登場人物たちは2つの時間に属している。1つの時間は、2017年、もう一つの時間は20年前の1997年だ。1997年はこの缶詰工場が稼働していた時代であり、20年後の2017年に、工場は廃墟である。
満足度★★★★
身も蓋もないAVのお話。と言っても社会性はある。
ネタバレBOX
マジックミラーの内と外、内側ではAV撮影や契約、籠絡などが行われているが、その詐術的話法の見事さには目を見張るものがある。とは言え、騙されたと気付いた時には、既に契約書に判をつき、誘導されて自らの意思によって選択したと解し得るあけの根拠を相手に与えてしまっているかも知れない。而も、会社側が必ず言い出すのが、費用の発生と違約金である。今作で違約金は100万とされているが妥当な線ではあるまいか。実際、AV女優だったことをカミングアウトして現在は、このような被害に遭った女性達の力になれればと活動している女性の話とも一致する。何れにせよ、街中で声を掛けられてスカウトマンについてきた若い女性がおいそれと払える金額ではないことが重要な点である。それでも出ない、と言い張る女性に対しては大声を張り上げて何人もの男が恫喝としかいいようのない「脅し」を掛ける訳だ。ゲットする側はおだてすかした上、ちょっと体の線を見たい、などと言って別室でヌード写真を撮影しているから、出ないと強情を張れば、それを彼女の通う会社や学校、知り合いにばらまくなどと迫るのである。
このようにジェンダーの問題を絡めながらスカウトや彼らを雇い給料を払っているプロダクション、芸能事務所などを絡ませて、街中でスカウトした女性を強引にAV女優に仕立て上げる模様や、スカウトをやらせても効率よく女の子をゲットできない連中は結局仲間や社内で追い詰められて、自分の身の周りの女の子を売り込む様。契約書をろくに読みも読ませもしないで判子を押させ、これを根拠に無修正AVに出演させネット上にアップする手口等々が描かれてゆく。或る意味、啓発作品と言えよう。ネット社会での責任の曖昧化、海外のサーバーを経由することによる国内法からの抜け道、当然のこと乍ら、違法すれすれのことをやらせているプロダクションには、顧問弁護士がついているという法的問題点も類推させる。即ち法など解釈次第であると同時に時代の趨勢や力関係だというあからさまな実情が浮き彫りにされて、欺瞞社会そのものが今作のターゲットとされていることが理解できる訳だ。
何れにせよ、現在では、我が国の哲学の本流もポストモダンの修辞学的傾向助長によって、下司共の主張を正当化するに至っている。無論我らの存在の基盤は曖昧である。何処から来て何処へ行くのか? 定かでは無いし、一体我々が何者なのか? も定かではない。その曖昧を精神に置き換え、人間として当たり前だと思われる思惟の普遍性によって根拠づけてきたのだろうが、今やそのベースが崩れ去って、時代の潮流は詭弁である。その詭弁を駆使して弱者である女性を性の道具乃至性奴隷として娯楽に供している姿が描かれている訳だが、ラストシーンがその対極に位置する。即ち客席と舞台を遮るように設置されたマジックミラー越しに、鏡の中身であるAVを巡る実体が、それを享受する我々を見返しているのだ。
我々自身を律する倫理として、最低でもこの程度の自己批評意識は持っていたいものである。
満足度★★★★★
日時が異なると演目に若干違いがある場合があるので要注意。拝見したのは9月24日13時開演の回である。この回は4作品、各回の合間にステージ回を示すパフォーマンスがある。面を付けた人物が、サティーのジムノペディーの流れに乗って登場。大きな骰子を振って演目を示した目出たら、これを観客に示すという趣向だ。
ネタバレBOX
1:トビハ(舞踏)「九相図 わが身世にふるながめせしまに」:色恋に狂った君主の目を覚まさせる為に、絶世の美女が死に腐乱して行く様を描いたとされる有名な話を舞踏化した作品。タイトルを見る迄、何を表現しているのか分かり難かった点が難点だが、良く鍛錬された身体による踊り自体はかなりのもの。数字の後最初に書かれているのが、演者、或いは演じるグループである。
2:大野まゆみ、坂入美優、千神麻衣、本多渚紗、渡邊千尋(コンテンポラリー)「月へ」:終演後当パンを拝見する迄、タイトルは「初源」乃至は「始源」或いは「子宮」だと思っていたのだが、これでは中盤からの動きを説明するのに無理があり、タイトルを想像しながら拝見していたのだが、音響とのコラボレーションが実に素晴らしいダンスパフォーマンスであった。オープニングのフォーメーションも、1人が扇の要の位置に陣取り、他の4人はそれぞれ開いた扇の頂点を示す位置に居る。殆ど動かず、動くとそれが成長する胎児の動きのようである。この部分だけ独立させて上記のようなタイトルで演じたら、高い評価を受けるであろう。ダンサーが全員女性なので、大きな動きに対して同時に静止を表現できるよう衣装の上着を振り袖にすると良いかも知れない。というのは、中盤以降激しい動きが入ると振り袖の方が動きと静止を同時に表す瞬間があって増々綺麗な舞台に仕上がるだろうと思えるからである。
3:KBA西村真珠、佐藤瑠華、畠山日花里(ネオクラシック)「暁」「Never」
2作品を踊ってくれた。良く鍛錬された身体の紡ぎ出す美しい動作と静止時のかなりの完成度がグー。
4:荻原あきの+須貝哲也(朗読+ダンス)「ベロチョン」
“べろだしちょんま”という名の人形があるそうだ。十字に広げた腕、後ろについた紐を引くと眉毛が八の字に下がり、ベロを出す。それを見ると誰もが笑わずには居られない人形だと言う。この人形のできた因縁が語られる中、ダンスが舞われるのだが、小道具は真っ赤なパラソル。ちょんま(千代松)の父で名主のトウゴロウは、直訴に及んだのだ。結果、妻子共々引き回しの上磔刑に遇った。その際、如何にも日本の役人らしい順序で殺してゆく。初めに突き殺されたのは、僅か三歳のウメ。(現在の満年齢なら2歳であろう)。彼女の胸の前でブッチガイに交差しギラリと光る槍を見て、ウメが火のついたように泣き始めた。その時、ちょんまが叫ぶ。「あんちゃんの顔を見ろ」そして眉毛を八の字に下げ、ベロを出した。ウメは笑った。次に十二歳のちょんまが突かれた。然し舌はアッカンベーをしたままであった。名主一家が全員惨殺された後、其の地には小さな社が建った。役人がいくら壊してもいつの間にか、また建っていた。今でも彼らの命日の1日には、縁日が開かれ、ベロ出しチョンマの人形が売られているそうである。(以上がべろだしちょんまの粗筋だ)余計な説明は要るまい。興味のある方は自分で調べて欲しい。(最近では知的所有権で訴えられかねないから)
満足度★★★★
物語は、和服を着た飛鳥が”ヘダ日記“を見付け、それを耕斎に見付かって「読んでみろ」と勧められることで展開してゆく。演じられるのは即ち、この書物の内容という訳である。 (追記2017.9.26花四つ☆)
ネタバレBOX
その内容は、和魯通言比考(世界で初の日露辞典)を執筆するに至った橘 耕斎が、ロシアヘ密航しこの辞典を執筆するに至った顛末だ。(追記2017.9.26)
1854年11月に下田へやってきたロシア船ディアナ号は津波被災の後も自力航行は可能だった為、西伊豆の戸田村へ修理に向かったが、駿河湾内で荒天の為沈没。近隣の村人らが漂流するロシア人を助けた。帰る船を失ったロシア人乗組員たちは帰国する為に新たな船を建造することを望んだ。アヘン戦争で欧米の軍事力を初めて知った幕府は、西欧の造船技術を知りたいという目論見もあって建造を許可する。戸田村には優れた船大工が多かった為、ロシアの技術者、日本の船大工らが協力して翌55年4月、遂に西洋式帆船が完成、艦の責任者、プチャーチン提督は戸田村への感謝の標に船名を“ヘダ号”と名付けた。ディアナ号の乗員の約半分が、ヘダ号で故国へ帰ったが、残った者が未だ半数居たとしてこの物語は展開している。幕府役人は、頭の固い男で、ロシア人との付き合い方としては“やらず、貰わず、付き合わず”という路線を敷き極力最小限の接触によって造船技術だけを入手しようと画策していた。
だが、ここにこのような発想には囚われぬ男が居た。適々斎塾出身の橘 耕斎である。適々斎塾とは緒方 洪庵の主宰した所謂適塾であり、コロリが大流行した幕末にも大活躍をしたし、明治維新にあっては近代日本を創る上で大きな役割を果たした大村益次郎、高杉晋作、福沢諭吉をはじめ多くの俊秀を輩出したことでも知られる。無論、洪庵自身当時の蘭学者として日本最高の蘭学者であり教育者であったことは言を俟たない。
因みに自分は、幕閣が西洋の実力に気付いた時点を黒船来航より早い時期であるアヘン戦争に置いているが、多少とも頭の回る老中や、琉球を通じて海外事情に通じて居た島津、そして回向院の近くで育ち、父、小吉が浅草 弾左衛門と交流のあった勝 海舟らが、海外の真の姿を知らなかったなどということは信じない。世界史的にも僅か2万の延べ人数で85万の兵を抱えた清国を打ち破ることができるなどとは、通常考えない。地政学的にも圧倒的に不利なのはイギリスである。このような条件であるにも拘わらず、何故、イギリスは清国に勝てたのか? この点を少なくとも優秀な幕閣だけは考えていたハズである。こういうことを持ち出したのも、今作で龍馬の手になるとされる「船中八策」が極めて重大な役割を果たしているからである。この書、一言でいえば、近代国家設立趣意書である。当時としては画期的思想と言え、勝 海舟、横井 小楠らの影響を指摘する声も大きく海援隊を組織し、少しでも海外の実情を知らせ、且つその植民地主義に対抗する為に近代国家の礎を築こうとした龍馬のパースペクティブについては、その発想と実践への布石を評価すべきであろうと考える。龍馬暗殺の真相が分からないというのは本当のことか否かも考え直さなければいけないかも知れぬ。諸説あるのは承知しているが、この件に関しても考えさせる幅を持った作品である。
また、舞台奥の仕掛け(引く方向によって板戸が出てきたり、障子になったり)で場所の転換がはかられているのが素晴らしい。
満足度★★★★
高円寺南探偵兵吾&十蔵のヘイジュー探偵シリーズ第一弾。
ネタバレBOX
出てくる主要キャラクターの総てが、真実の愛を探し、真理を追究するが故に、妙にこじれて意図していたもの・こととは異なった状況に翻弄され、必死に抗いながら而も流されてゆく。そこに明滅する生命の花火を、どす黒い計略と欲が塗りつぶそうとしている。そんな状況に誰もが傷を負い、不完全なまま、生身を晒して生きてゆく。
その悪夢のようなテイストを、虚々実々の駆け引きと、社会の裏表、ヤクザVS半グレ、男と女の悲喜交々、マッポVSグレーゾーン住人、世間体VS操り人らの錯綜した力関係及び策謀と暴力に仮託して描いた苦いピカレスクロマンと言ったらよいだろうか。
バイオレンスアクションをかなり取り入れ、歪んでいながらヒリヒリするほど純で、かなりダーティー。鵺のようなこの社会の、一見ロクデナシが紡ぐ苦いブルース。兵吾役の太田 雄路のアクションが見もの。因みにヘイジュー探偵事務所のモットーは“簡単な仕事は断れ”である。
満足度★★★
脚本は粗い。ちゃんと伏線を敷いて物語を必然的な展開という具合に納得させるような方法を採っていないからである。構成に対する注意を働かせるよりは、メンバー紹介をダンスを交えてやってみたり、言葉の冒険を単に、総統とされる大百足への一種のダジャレとして用いているだけで、そこに独裁やその危険に対するアイロニーや批判がある訳ではない。そのことが、物語を平板なものにしている。話の展開に因縁が絡んでこないので、集約力が弱いなど脚本の弱点が目立った。演出も際立った才能は見せていない。肝心の役者陣の中には可也力を感じさせる者が何人も居たので、その点が救いであった。終盤で、特に作家の言いたかったことは集約され、アーティストの理想の一つ、本当に美しいもの、インセンティブを刺激するものだけを表現すれば良い、とか愛した人を生涯愛し続ける等が、そのモチーフだ。この理想は美しい。驚かされたのは、BGMや開演前に流されている音楽である。エノケンの歌の数々、ツーレロ節迄流れたのはホントに驚かされた。これらの曲想から想像できるかも知れないが、テイストはドサ回りの演劇という感じだ。だが、シナリオはもう少ししっかり練り込んで欲しい。舞台美術は丸窓をいくつも設えたりと江戸時代の粋を背負い込んだ風情を見せているのだが、このセンスに見合った内容ではないのが残念。役者陣の中に良い演技をした人が居たので少しおまけ。
満足度★★★★★
今作はA,Bそれぞれのキャストで上演される。所謂Wキャスト公演であるがBキャストを拝見。元々の脚本はキャラメルボックスの成井 豊・真柴 あずき。今回脚色・演出を小嶌 涼輔が担当している。当パンを読むと、イサム堂の集大成とある。なるほど、そう言えるだけの作品に仕上がっている。(時間さえ合えばAキャストも拝見したいところだが)
ネタバレBOX
元々の脚本にこの作品を選んだ選択眼も大したものだと思うし、拝見した限り、優れた脚色が為されている。無駄も物語の展開を不自然にするような割愛も無いということだ。而も出演している3年生にとっては、学生時代最後の出演作品ということになる。そのようなこともあってか、出演者全員(1年生も含めて)一丸となって一所懸命に創っている姿勢が伝わってきて清々しい。新選組を中心に据えた行動のエチカを問う内容に友誼に於ける実存的選択が絡み、当然のこと乍ら命が絡む。(鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組を若者が属する組織として設定していることで、新選組とは敵対する組織の若者を含めて、激動の時代を真摯に生きようとする若者達と政治状況、海外からの植民地主義に対処するに当たって、見解の相違が生み出す判断の差、イデオロギーの対立や公家と武士の凌ぎ合いの中で起こる権謀術数の直中で己の信と義を賭け、友情と社会的道徳に挟まれながら必死に生き、己のエチカを守ろうと只管走る若者二人を中心に歴史を巧みに織り込み、話にリアリティーと歴史的広がりや深み、個人対歴史の流れを対置して現実存在の切迫感を持たせている。)これに労咳を患った沖田を絡めることで、世話役の乙女が沖田に抱く淡い恋心や乙女心の可憐で花を添え、沖田を案ずる土方を通じて新選組の動向を無理なく挿入している。更に新選組の勘定方三鷹が狂言回しも引き受けつつ勘定方らしい客観性を持った記述で背景を述べる。また、話をより立体的にしているのは、龍馬配下の海援隊隊士であった土佐の室戸以下3名の若者。近藤勇捕縛から馘首、土方らの転戦を背景に明治を迎えた当初の体制転換の有様も端的に描いて秀逸。
満足度★★★★★
太平洋戦争末期、東京が大規模な空爆を受けるのではないか、と巷ではひとしきりの噂と言いたい所だが、危ない危ない、何時なんどき特高に引っ張られるかも知れない。当然、拷問も覚悟しなければならないから人々は口を噤んでいる。物語が演じられるうちにも何度も空襲警報が鳴らされ、敵機の飛翔する不気味な爆音が音響の重い圧し拉ぐような轟きで表現される。偵察機が年中この街の上空を飛び回るので人々は近いうちに大規模な空襲があるのではないか、とそっと話し合い、心配している。(少し追記9.23最終追記9.25:04:15)
ネタバレBOX
そんな折も折、戦争で動物たちの檻が破壊され、象や猛獣が逃げ出し、人々を襲ったら、という懸念が現実のものとなりつつあった。而も、人間でさえ、食う物に困り糊口を凌ぐのにアップアップしているというのに、観賞用の動物たちに餌を与えるのは余計な負担だとの声も上がる。特高がうろつき監視の目を光らせている中で、お上は動物達の殺害命令を下す。然し、動物園に勤める者は園長から飼育係に至る迄、動物が好きで好きで堪らない人々が就労しているのだから、そんな命令を素直に聞き入れることができる訳もない。然し、官憲の要求は執拗且つ残酷に進められた。
納得できない園側の皆は何とか打開策を見付けようと相談、他の動物園で預かって貰うと衆議一決し、飼育係の小林がその任に当たるが、大きな動物園のあるような都市は、空爆される危険も高く、而も自分の園で抱えている動物達の面倒を見るだけで手いっぱいであるとして、相談する先々で断られていた。官憲の追及も日を追って厳しくなる。お上もこれ以上は待てないと通告してくる。その中で必至に動物達の延命を画策する園側スタッフたちだった。園長は、先ずどの動物が有事の際最も危険かを専門家の立場から具申、象は体も大きく、暴れ出したら手が付けられないという理由をつけて殺処分の最初の動物とし、他の動物が殺されないよう手を打ったうえ、象の皮膚が厚過ぎて、注射針が入らないと嘘をつき誤魔化そうとしたが、特高に踏み込まれ止む無く飼育係、ノコニコさんの下へ案内した。結果、運の悪いことに彼が、針を曲げている現場を、執念深い特高に押さえられてしまった。ニコニコさんは即座に収監された。また、近くの美大生の手引きで動物達を助けようとしていた花子の妹も、美大生共々、左翼運動をしたとして逮捕され、拷問の憂き目に遭う。
園長、小林には赤紙即ち召集令状が届く。通常、園長の年齢になれば召集令状など来ないハズだが、中国戦線で馬の世話をする者が足りないという理由で赤紙が届いたのだ。つまり大本営発表とは反対に大日本帝国が劣勢に立たされていることは、この事実からも明らかである。無論、制空権を失っていることも敵機が年中飛来していることから明らかであり、動物園で飼われている動物達を殺すことが、国の利益だというトンデモナイ状況に至りついている訳だから、勝つ見込みなどどこにもない事も冷静に見れば明らかであるにも関わらず、天皇、裕仁も軍部も率先して戦争を止めようとはしなかった。無論、何度か停戦しようと画策したことはあった。が、時既に遅し。沖縄を捨石にして、口先だけは「一億総火の玉」だの「欲しがりません勝つまでは」等々と流し・流されていたのである。
ところで日本側の優柔不断とアメリカ側の利害が皮肉な邂逅を遂げる。アメリカサイドでは莫大な開発費をつぎ込んだ原爆を用いずに戦争を終結させれば、ソ連の伸長により戦後の世界支配に不利になるという計算と、秘密に開発した原爆に掛かった莫大な費用に対して自国民に対して言い訳が出来ないという政治的理由から、アメリカは何が何でも原爆を最後に残っている敵国である日本に落とす必要があった。だからわざと戦争遂行に必要な最低限の重要施設は空爆せずに残した。その間、ウラン型のみならず、プルトニウム使用の原爆を開発する時間も余力も充分にあったからウラン型とプルトニウム型、2種類の原爆を落とすことで、その効果の差を実験する意図が在ったことは容易に推察できる。戦争状態にある敵国というのは恰好の言い逃れであった訳だ。周知の如くマンハッタン計画は、極秘事項であり、その全容を知る者は大統領とごく一部の政治家、科学者だけであった。
何れにせよ客観的に観れば、チャーチルが述懐しているようにアメリカを参戦させた時点で「勝った」と連合国サイドは確信し得たのである。
ところで、今作の本当の凄さは、日本側が全く展望の無い・無謀そのものの太平洋戦争に突入したにも拘わらず、日本軍部及び裕仁の戦争犯罪は一切描かず、社会で普通に暮らす人々が受ける理不尽と、園の人々だけがテレパシーによって動物と心を通わせることができる世界に対して、そのようなことを総て建前と下らない政治的判断に還元して恬として恥じない愚かで残虐な、お上を対置することで、戦争のバカバカしさ、(不条理なという難しい漢語を用いても良いのだが、これはabsurdeを漢語訳したものであり、元々馬鹿げたという意味である)その非生産的で愚かな行為が庶民に齎す苦悩・苦痛、深刻な悩みと理不尽極まる死を描いている点である。これが実に雄弁なのである。
何時も心に響く作品を作ってくれるハッピー圏外だが、分かり易く、深いという意味で劇団代表作と言われる名作である。シナリオの良さは無論のこと役者陣のキャラの立った演技、演出、音響、照明の効果的な用い方、合理的な舞台美術、そしてこれら総てのバランスの良さから名作と呼ばれるに相応しい作品と言えよう。
満足度★★★★★
脚本、演出、演技何れもバランスの取れた良い舞台である。(少し追記9.23.。最終追記9.25:03:06)
ネタバレBOX
シェアーハウスと名付けられた古い安アパートが舞台である。このハウスの住人は皆、大家の目に適った人々である。唯、大家の目というのが、少し変わっている。兎に角、本当に困っている人にしか部屋を貸さないのである。築後かなり経過しているが、共同で使える風呂や台所、手洗いなども総て建物内にあり、無論、皆で寛げる娯楽スペースのような共用スペースもあるので独身で生活費を切り詰めたい者にとっては理想的である。大家の目論見としては、困っている者は苦労しているから、互いに共同生活の約束位は守れるであろう、というのがあるのだが、そんなに大げさなルールがある訳ではない。住人に役者や新興宗教の信者がいるのであるが、チケットの押し付け販売や教団の資金稼ぎ用の物品を売りつけてはいけない。或いは順番にやっている掃除をキチンとする等である。極めて常識的なルールであるが、現在迄の住人は4人、一人は先ほども少し書いておいた小劇場で役者をやっている男(通称キング)、彼はコンビニで長年仕事をしているので廃棄弁当を許可を得て持ち帰り、豊かではない住人に分け与えている。一人は苛めに遭ったことが原因で引き籠るのみならず他人恐怖症になり、救われようと新興宗教に入信した男(笠原)、一人は借金苦でトラウマを抱え自殺しようとビルの屋上を目指した時、偶々そのビルの地下でライブをやる為に呼び込みをやっていた地下アイドル“くりみん”の営業用ポーズや物言いを見て救われ、以来彼女の追っかけをやっているプログラマー(長谷部)。もう一人が、サラリーマン時代には忙しさにかまけて女房・子供を放りっぱなしにし、遂にはリストラに遭い転職した果てに失踪していた男(岩本)。以上の4人である。
ところで、今作オープニングで演じられるのは5人目の入居者候補(松川)と現在、大家の息子の嫁としてこのハウスの面倒をみている(美雪)の下見の場面からである。松川は、大地震と津波で妻子を失っていたが、妻、娘の遺体は見つかったものの、息子の遺体が見つからぬばかりか遺品さえ何一つ見つからないことに心を痛め、働く意欲も失せてぼんやりしていた。然し、行方不明の息子が夢枕に立ち「働け!」と励ましてくれたことから東京へ出てきて働くことになった福島県人である。この後、6人目が入居するのだが、この若者(白倉正弘)は刑務所に2年間服役していた経験があり、その際、大家の息子(稲葉)に大変世話になったという。その縁でハウスへ来たのだが、彼はくるみんの義理の弟に当たり、くるみんは現在はラーメン屋で働き、将来はのれん分けしてもらえるかも知れないという希望を持つに至った岩本の実の娘であった。因みに大家の息子、稲葉は、妻をレイプした男を殴り殺してしまい8年の刑で服役していたのである。但し刑務所では模範囚で新人をいびるような者を見付ければやめさせ、新人にも、刑務所での身の処し方などを諭す、中々現実的な実力者であった。殺人犯ということで、その怒った時の怒りの凄まじさを含め他の囚人たちを恐れさせる貫目を持っていたということもあろう。然し当人は基本的に冷静で、中々度量のある男であった。掛かるが故に、収監中早くから妻に「別れてくれ」と懇願していたのである。つまり、殺人犯の妻というレッテルを貼られ、世間から冷たい仕打ちを妻が受けないようにと考えたのであった。然し、妻、美雪の彼への愛は深く、妻は離婚を肯んじなかった。そうこうしているうちに夫も出所はしたのだが、以上のような理由から未だ妻の居る実家には戻っていなかった。そんな折も折、美雪は体調を崩し、異様な腰の痛みから倒れて動けなくなるという状態が起き、周りは早く受診するよう再三注意したのだが本人が中々重い腰を上げなかった。終に病院に担ぎ込まれると即入院。実は肝臓癌を患っていたのである。大家は、自分が土地を持ち、余った部屋のある建物を持っていたばかりに息子夫婦を不幸のどん底に落としてしまったと悔やみ、嫁の体を案じた末に新興宗教の財源である水を買い、癌にも効くと嫁に飲ませていたのだが、周りは詐欺に掛かったと思い、やめさせようとするのだが、兎に角、娘を救ってやりたい、という思いばかりが募る大家ではあった。入院が遅れたので、周りは美雪の余命はいくばくも無いと判断していた。そんな皆の気持ちを慮って、正弘は、息子を説得、実家へ連れ帰る。既に手術を終え、帰宅した妻と対面するが、夫は矢張り「別れてくれ」とつれない。そんな夫に妻は切々たる情を訴える。「手術は成功した、自分はこれからもずっとあなたと生きていたい」と。このシーン、キングが主演級のメンバー一人の代役を頼まれた後、急遽本人の帰還で(ハウスの皆に宣伝後)役を下ろされ而も最初に決まっていた役も代役が既に入っていて戻れないという情況で、寄る辺なく彷徨う様を、その寂しい、侘しい目で表現したのと好一対をなす名場面である。
満足度★★
殆ど若い役者ばかりなので老け役に無理があるのだが、それをカバーするような演出が為されていない。にも拘わらず思わせぶりな仕草をさせるシーンが何か所もあってわざとらしさに白けてしまう。キャストを実年齢に近い役者が演じたら随分変わるだろうが。それが出来ないのであれば、アングラ演劇の発想を借りて誰にも分からないような演技をやらせる位のケレンが欲しい。
シナリオも練り方が足りない。地の科白で展開を説明するのではなく、観客が見て必然的にそうなる、哀しさや辛さ楽しさが分かるように書いて初めて良い脚本と言えるのではあるまいか? 合格点の演技を役者としてやっていたのは、唯一、旧執事マーガリ役だけである。
開演します、とのアナウンスがあってから5分近く始めないのはどうしたことか? これも興を削がれる原因になった。もぎりの向かい側の喫煙コーナーで「いらっしゃいませ」と声を掛けて来た人が2人居たが、それ以前はダべリングをしていて観客を迎える態度ではなかった。こういうおざなりが芝居にも出ていたという印象を持った。舞台を観る前から-点を付けられるようでは残念ではないのか?
芝居の総合評価は少しおまけをして☆3つだが、以上を勘案してここから-1の☆2つが総合評価である。未だ、芝居の巧拙以前に、キチンと論じて貰える段階に達していないということだ。
満足度★★★★
会場が1Fと2Fに別れているので、当初、見切れどころではない空間でどう詩的演劇的作品を上演するのか? と不安を持ったが、杞憂に終わった。冒頭、1・2Fで同時に読まれた詩の、時に重なり、時に微妙にずれながら朗読されたリズムの美しさ、詩想の妙に引き込まれたからである。(追記2017.9.19))花四つ☆
ネタバレBOX
シナリオは1F2Fそれぞれに各々話が繋がるよう構成されているように思われる。それがし切れない部分はキチンと1F2Fで同様の場面を役者が演じることで齟齬は起きない。この辺り作家は相当頭を捻っただろう。但し、話が込み入っているように感じる観客はLGBTの問題が極めて中心的な、というよりそれこそ今作の眼目であるというほど大切な部分に対して観劇中無自覚で居られた人々であろう。かく言う自分はヘテロであるが、そして別に精神分析をキチンと專門に学んだ訳ではないが、生きて在るうち様々な人との出会いがあり、性に関して様々な在り様が在ること位は当然知るチャンスがあった。だから気付くのである。そしてこの点に気付けばあとは大して難しい問題が扱われている訳ではないから、かなり容易く作品を読み解けるのである。この際、参考にすべきは、今作の作家が詩人だという情報だろう。当然詩的テクニックが多用されている。象徴だとか比喩だとか、発語された音によって類似の別物を想起すべく設えられた道筋を。言ってみれば想像力の総てが、観客自身の魂の窓で開かれて居なければならない。そして、これは、どのようなジャンルの作品であっても味わう者に課される当然の責務である。この責務が果たせない者を想像力が欠如した者と言うのである。
満足度★★★★★
GPSとAIの発達、更に自動運転制御システムによって、誰しもが目的地さえ告げれば安全に車で移動できるようになった近未来、手動運転車は僅か5%と激減していた。而も、交通事故が起こる場合は必ず人の運転によるものになっていた。だが、こんな時代にあって尚車は人が運転すべきだ、という人々が残っていたのである。(追記2017.9.18)
ネタバレBOX
そんな人々が運転免許を取得する為の教習所も、近隣に一つだけ残っていた。その教習所で3週間の免許取得合宿が行われていたが、その顛末。
さて、ここで一言しておくなら、何やら軍隊式に始まり、而も軍服のような教官たちのイデタチは、フェイクであるということだ。その証拠に所作が不合理である。右、左に分けて{休め}をしたり、僅かな人数しかおらず、スペースも充分あるにもかかわらず「小さく前へならへ」をしたり、そもそも一番偉い教官が坊主頭ではなかったり等々(タッタタを観続けている観客は驚いたハズである、今まで彼は殆ど坊主頭のヘアスタイルを通してきたのだから)。通常の軍隊では考えられない「不合理・逸脱」が何気に仕込まれていると見るべきだろう。因みに軍の規律といえば恰好よく聞こえるかも知れないが、軍律の唯一の要請は、総ての兵に同一方向を向かせることである。その為には、無駄や余計なもの・ことと見えることを排除する必要がある。機転の利かぬ無能な参謀たちはこのように思い込み、このオーダーに従って総てを采配するのである。結果、特定のパターンに嵌れば強いがそうでなければ負けるという愚を繰り返すのだ。
ところで、今作の服装や髪形など、あからさまに見える部分が、実は周到に仕込まれた見せかけだったとしたら? 臨機応変という戦略・戦術は、そのアクションに在るだろう。かかるが故に、外国籍の者も、暴走族メンバーも、免許を返納しても良いような世代も、日本には珍しい宗教の信者にも一律入学許可がおりているのである。
極め付けは無論、無人暴走トラックの走行阻止である。この行為が当に民間の(服装だけは歌舞く為にもミリタリー調)ヒーローによって為される。この行為に示された人間性を含めて、今作が、この自由闊達と他人を思いやる想像力にあることを示している点で、今作は単なる喜劇であるより、ヒューマンドラマとして成立している。言い方を変えれば右傾化する社会へのアッカンベーになっているのだということも見落としてはなるまい。無論、完璧であるハズの自動運転車とも解せる無人トラックが暴走し、それを阻止したのが人力である点にも注意を促したい。而も、この功績にも拘わらず、時代の趨勢は自動運転車が導入されて以降、最初に述べたシステムとの共用により事故が激減したことをうけて人が運転免許を取るチャンスは無くなってゆく。このほろ苦さも大人の味なのである。