ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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地の塩、海の根

地の塩、海の根

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2024/06/21 (金) ~ 2024/07/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 今作、基本的にリーディング公演の形式を採る。

ネタバレBOX

 さもありなん、兎に角複雑で輻輳的なウクライナの歴史をオーストリア・ハンガリー帝国に支配された時代から紐解いてゆくのだから、その歴史的経緯を既に学んでいなければ理解するだけでも大変なのである。当然通常の公演のように演じていたのでは舞台美術だけでも予算的にも空間的にも完全に破綻してしまうであろうから、今公演がリーディング形式を採ったのは極めてまっとうな判断だ。それにしてもこれだけの内容を150分強の時間を掛けて演じ、途中休憩無しというのは体力的にも可成りキツイ。
 板上は奥にスロープを設え、手前はフラット。客席側に台を設けてあるがこれが遠近を示す際とても上手に用いられて印象的である。
今作のタイトル中に在る『地の塩』は、ポーランドのノーベル文学賞候補作家でもあったユゼフ・ヴィトリンが1935年に発表した未完小説のタイトルであるが、ウクライナで出版された翻訳書はロシア語版のみであった。因みに『海の根』は『地の塩』をポーランド語原書からウクライナ語に翻訳しようとし実際翻訳中の男が黒海に面するクリミヤの地からロシアによって拉致され養子縁組などの候補とされ、ロシア人になるよう洗脳教育を受けていると懸念される息子を思い、ウクライナ独自のアイデンティティーと主体性を確立し独立独歩で歩んで行く根拠となるような内容の小説を書く決意をし、実際に準備を整え書き始めている小説のタイトルである。因みに『地の塩』の翻訳には途中から妻も関わってくる。そして、ほぼ2年ぶりに息子と会う機会が訪れた際会えたのは父のみであった。母は息子を気遣う余り精神を病んでしまったからである。
 ところでウクライナは世界の穀倉地帯として知られその収穫量、品質の高さから現在まで世界各国に輸出されてきた。プーチンが新たな侵略を大々的に始める迄は。ざっと歴史を振り返るだけでもオーストリア・ハンガリー帝国の時代、クリミヤを帝政ロシアがオスマン帝国から分捕り自国領と主張した時代、ソ連の支配下に置かれた時代、フルシチョフの特命によりウクライナ領となった時代等の歴史を踏まえ、例え大本(政治支配の)がウクライナ以外に在ろうともウクライナ在のものはウクライナ独自の生に根付き、生きるとの発想でアイデンティファイしようとする。こういった思考をベースに拉致された子の父が書こうとしている小説のタイトルとして選ばれた名称が『海の根』であり、それは本体が離れた場所に根を張り育っていても離れた場所にもその根を伸ばしそこでも息づいている植物の根を、また民族としてのルーツをも意味していると捉えることができる発想から掴み取られた。
 さて、今作では直接触れられていないものの、農業に携わる農民の特性とは何だろうという問いを立ててみた。天候に左右されるのが農業の基本的条件であるから、観測技術が発達し天気予報の的中率が高くなり信じられるようになるまでは基本的に農業従事者による観天望気が基本になっていたハズである。また農地は農業生産物総ての母体ともいうべきものであるからその土壌は農業生産物にとって地味豊かな物でなければならない。また、受粉や病害虫関連の知識と栽培植物との多様な関係についても深く正しい知識が必要不可欠である。更に種まきや収穫に際しては機械化されるまでは多くの人手を必要としたから農民同士の人的関係は共同作業が能う限りスムースに実行できるようでなければならない。こういった様々な手間暇が懸かる生き方をする以上、軍事等に専門的に関わる時間は乏しいというのが現実であろう。そしてこのような生活実態が農民のアイデンティティーを基礎づけているとするならば、海の根の発想は立派にこのアイデンティティーの上に成立すると考えて良い。実際、ウクライナの穀倉地帯の土の色は黒色であるという。日本でも山陰地方の一部にクロボクと言われる土が堆積している一帯があり、高級農作物の一大産地である。
 実際に演じられる物語の舞台は、『地の塩』では、片腕に障害のある主人公ピョートル・ニェヴァドムスキが鉄道駅舎での雑務要員から応召されて兵士となり従軍してからの話、歳の離れた孤児の娘との内縁関係等が演じられる。因みに『地の塩』初演となった2022年大阪城野音公演では、稽古場がK大S講堂であったこと。この講堂は1937年皇太子誕生(現上皇)を記念して帝大構内に建てられたが1960年代若者造反の時代から反体制イベントのメッカともなり、現在迄K大学生による自主運営が為されている。何はともあれ今作日本上演に関わっていた役者たちがウクライナを旅した際に『地の塩』をウクライナ語に翻訳しようとしていた男と妻に出会い同じ表現する者同士として様々な話をするようになった訳だ。
 クリミヤが中心になるのは、『海の根』を書こうとしている男がクリミヤ在住で、日本から訪れている人物たちと交友し現在のロシアとの関係の中で話が進むという今作の二つの柱のうちの一つを為しているからである。凄い作品であるのだが、観るのに体力、気力のみならず健康を要する。出来れば事前にウクライナの歴史書を読んでおいた方が良かろう。
キネカメモリア

キネカメモリア

SPIRAL MOON

「劇」小劇場(東京都)

2024/06/19 (水) ~ 2024/06/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ベシミル! 演劇と映画の方法上の差異を見事にクリアしている! (追記20:59アップ)
 いつも通りきめ細かな創りだが、モギリを終えて劇場入口へ至る階段脇の壁にも映画のポスター等が貼られ映画館の雰囲気を醸し出している。劇場へ入ると映画に纏わる様々な音響が英語で流れている。今回の舞台美術で最も驚かされたのが下手に奈落から上がってくる階段が設えられていたことだ。この劇小劇場にも数十回以上通っているがこのような使い方は初めて見た! 因みに奈落からの階段を上がるとホリゾントの手前に映画館モギリの机と椅子。ホリゾントには往年の話題作のポスターが貼られ上手ホリゾント前では売店の女子販売員が、何やらもぐもぐ食べている。この売店正面にもサイズの小さなポスターが貼られる念の入りようだ。上手側壁に緋のクロスが床まで垂れているが、これが映画観賞室への入り口、その観客席側に階段が設けられているが壁にstaff onlyの張り紙。映写室への通路である。奈落から映画館へ入る入口の階段脇には手摺が設けられその前に椅子が二脚並んでいる。尺は約80分。濃密に時間を過ごせる。

ネタバレBOX

 さて今作、芝居で映画に魅入られ映画を友として生きる人々個々の拘りや各々の人生経験を背景にした世界との向き合い方、近くに高速道路が通ることでショッピングモール計画が持ち上がりディヴェロッパーと称する地上げ屋が、ショッピングモール計画の臍とも言える一等地に在るこの映画館の土地所有権を巡って暗躍する物語でもあり提起されるオイシイそうな話にどう対応するか? との緊張感を交えつつ仏ヌーベルバーグの影響を受けアメリカで始まったニューシネマ運動、その1960年代世界中で巻き起こっていた造反有理に集約される若者反乱等を経験してきた常連客、その後継者と見込まれた女子高生、映画館に隣接するストリップ小屋の踊り子等々と登場する男性陣との恋や思い掛けない社会的関係を巧みに織り込みつつ、演劇という表現方法で映画という表現の持つ魅力を描いた作品と言える。非常に上手いと思うのは、映画のシーンは一切用いられていないことだ。これには訳があろう。演劇の特性は観客の目の前で役者が生身でそのパッション、主張、高揚・哀感から絶望迄人生に起こる総てを直に観客に伝えることが基本だ。それに対して映画は俳優たちの演技をカメラアイを通じて観つつ撮影し出来上がったフィルムを編集して、今度は映写機に掛けてスクリーンに映し出すという幾重もの工程を経て漸く観客に届くから各工程に於いて失われるものが在る。これが生の役者の持っていた演劇表現の迫力、インパクトの多くである。演劇上演の央に、各工程を経る毎に生の迫力を失ってしまう実際の映画のワンシーンでも用いられていたら、演劇で映画の持つ魅力やそれに魅入られた観客を描き関係者の意気地の意味する処迄を描くことで映画独自の魅了をそこはかとなく描こうとする今作の魅力を喪ってしまう。今作はワヤになってしまっていただろう。それを避ける恐らく唯一効果的な方法、それが観客の想像力に訴えることだとしたら・・・。筆者の謂いたいことは自ずと読者にも伝わるであろう。ラストシーンがじ~んと来るのは売店の女子従業員が相変わらずもぐもぐ食べ続け、館長は今迄同様何の変哲もないかの如く余りにも普通にしている。当にこれらのことが、チェーホフがその傑作群で拘ってみせたテーマの一つである、生きること、生き続けることのリアルだ。そしてこの拘りへの結果が、チェーホフ作品群の残照の如く、映画に魅入られ映画を友とする総ての人々、そして同じく役者の演技で成り立っている演劇の魅力に魅入られ、演劇を友とする人々総てに対するオマージュをも示唆しているということが言えよう。
有頂天

有頂天

中央大学第二演劇研究会

シアターブラッツ(東京都)

2024/06/13 (木) ~ 2024/06/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 面白い。脚本・演出を担ったのは主宰の一角 龍太郎氏、若いのに良くこれだけのシナリオを書いた。スタッフの対応、キャスト表の載っているパンフの表面の写真センスもグー。

ネタバレBOX


 登場する人物(折尾マサミチ)のモデルは案外中平 卓馬かも知れない。中平 卓馬はラディカリズムを追求した写真家として著名であるが精神を病み長い間病院で過ごした。退院はしたものの2015年に惜しくも亡くなっている。
 今作に登場する写真家・折尾 マサミチは、“終わる瞬間にこそ輝く”と考えその瞬間を写し撮ることに執念を燃やす天才的写真家、一方、写真をベースにプロダクションを営み気鋭の若手と注目される館山 タツヤはコマーシャルベースに重点を置き、アイドル系女優や注目度の高くなりそうな人物を積極的に撮り業界団体や関連企業にも積極的に働き掛けるカメラマン。
 真反対の態度を写真表現の意味する処と捉える両者は、大学の同級生。而も同じサークルに所属していた。また今作に登場する怪しげなバーのマスターは矢張り同じ大学で同じサークルに所属しで部長を務めていたが中退したバニー。メインテーマは芸術至上主義と写真も他者との関りをより良くする為のツールに過ぎないとして人々が求めているとされるタイプの写真を撮り続けヒットさせることを目指すコマーシャリズム。館山の経営するプロダクションが、最も力を入れて押しているのがモデルや女優をこなす桂木ユキであった。彼女は両親を早くに失くし弟のハルトを大学に進学させる為女優として大成する為の夢を一時期犠牲にして働き再度復活したという経歴を持ち現在は弟と同居している。そんな彼女は自分という存在が何処まで人々に注目され支持されているのかを知りたいという欲求を抱えていた。原因は彼女の年齢にもあった。アイドルとしては最終段階、女優として国を代表するような名女優と言われるには知名度が未だイマイチとの不安を抱えていたことがある。そこで彼女が実行に移すことに決めたのは半年後に自死することであった。計画を実施する為、彼女は半年間の自分の写真を撮って貰う為折尾に撮影を頼む。コーディネイトしたのは、折尾の大ファン・但野エイジ。これまでも折尾の事務所を散々サポートしてきた人物である。ユキは自分のメイクを担当していた塩田ミナミが弟のハルトと結婚したのを機に同居していた部屋を出たので、そこに折尾を住まわせ撮影してもらうということで話がまとまった。折尾は写真を撮ることにしか興味が無い為、男女の仲を心配する必要もない。
 ほぼ同じ頃バニーの経営するバーにリストラで新聞記者を首になり、女房子供にも逃げられた森川リョウヘイがやって来て、馴染みとなっていたのだが、彼は偶然ネタになりそうな話題を拾った。そして現在はネットで時々記事をアップしているのも利用してユキのスキャンダルを疑い脅迫めいたことを企てる。こうして月日は過ぎてゆくが、実際に森川が脅迫に及んだ時、関係者一同も集まる中で姉の自死に対して一見それを看過するかのように見える態度を難じてきた館山に対して、弟は、表面だけ観ての批判がどれだけ浅薄なものかを悟らせて論破すると共に脅迫してきた森川に対し、“発表するなら発表するが良い、但し姉が自死した責任をあなたが負うことになる”との趣旨を告げる。これには森川が折れた。結果、ユキの自死計画は着々と進み、遂に当日を迎えた。然しどんでん返しが起こる。どんなどんでん返しかは観てのお楽しみだ!
ゴツプロ!第九回公演『無頼の女房』

ゴツプロ!第九回公演『無頼の女房』

ゴツプロ!

本多劇場(東京都)

2024/06/06 (木) ~ 2024/06/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 舞台美術も、脚本、演出、演技、照明、音響何れをとっても高い質を持った舞台だが、余りにもカッチリ組み立て過ぎず、適度な“あそび”を持たせた舞台である点がグー。

ネタバレBOX

 言って見れば「Le Pèse-nerfs」邦題「神経の秤」を書いて最後は精神病棟で息絶えたA.ARTAUDのような、腺病質な迄に繊細な感性を持った無頼派作家を代表する太宰(役名・豊臣)と安吾(役名・塚口)、二人をモデルとした作家を中心に同じく作家業を営む二人の友人文士(役名・谷)、編集者等が出入りする塚口の家を舞台に物語は展開する。時代設定は1948年。敗戦後の1946年には戦中の配給制度が崩れた為、食糧を始めとする必要不可欠な物資が都市部では殊に入手困難という事情があった。とはいえ、かつての臣民は国民と名が変わり、アメリカを中心とした占領軍の価値観に合わせて戦争中に奉じた自らの価値観、行動には蓋をして懸命に生きることを口実にシレっとしていた大多数の大人たちが自らの倫理感を自問することは実に稀であった。それらに反抗し闇市等で幅を利かせた特高帰り、組織力と若い衆の力を動員することのできたヤクザが基本的には仕切る闇市で、それこそ生き残る為に使い走りをする戦災孤児の群れ。カストリが酒の代名詞で在り得、メチルアルコールを用いた粗悪品で目の潰れる者も多かった時代に文字に飢えた人々にカストリ雑誌が飛ぶように売れた時代でもあった。戦争中、特攻による死の恐怖を誤魔化す為に用いられた覚醒剤・通称ヒロポンが流行したのも日本政府が1956年に至る迄法に拠って禁止できなかった背景にも軍が用いていた歴史的事実があった。実際1956年迄覚醒剤はヒロポンという名称で売られ薬局で買うことができたのである。
 こんな時代に若く才能溢れる2人の作家が、戦中・戦後で全く反転してしまった世相と倫理に悩み抜いた果てに自らの精神の平衡を保とうと酒やヤクに頼らざるを得なかった心情と命を賭けたその執筆のパッションには実に深く我らに訴えるもの・ことがあり、その内実が二人のライバル(塚口VS豊臣)の文学談義や各々の念う女性達の反応によって対比されると同時に三人の作家陣、編集者陣というインテリ集団に対するお手伝いさん・多喜子の庶民的価値観、その夫で長崎できのこ雲を見て以来恐らくはぶらぶら病に罹ってそれ迄の働きぶりが嘘のように変わってだらだら過ごすようになり乍ら尚且つ経験の無い文章を書くことにだけは強い欲求を示し而も文字は下手で読みずらいが内容は実に二人の一流作家に互し、而も当時原因が分からずぶらぶら病と呼ばれた被爆者特有の体調悪化で社会的弱者になっていた対照的な視点から実直で不器用極まる庶民の一途な念を凝縮するような力を持つ詩的な文章を提示することで、ここでも演劇的対比のダイナムイムズを見事に溶け合わせている。
 今作の脚本ではこのように深刻な時代状況は表に出されず、観客の持つ知性や感性に評価は委ねられているので、何処まで作品を味わい尽くせるかは観客次第だが、兎に角余り時代背景が分からずに観る観客をも惹きつけ笑いを振りまくキャラとして登場する人物が書生・石原の存在だ。無論彼の役回りは深刻極まる内実を脱臼させる点にある。このアクションが今作をがんじがらめにする可能性のある物語の余りにもカッチリした作り、即ち予測のし易さをも拍子抜けさせてくれるのである。文頭部分でも述べた通り、役者さんの演技も皆さん極めて質の高いものだが、塚口等の治療で活躍する医師・芝山先生役に味のある演技の剣持 直明さんが居るのが嬉しい。
 今作は、上述した時代背景には一切触れていない。また観る者の解釈が尊重されるのは当然のことである。然し乍ら、この作品のように実在したそれも未だに読み継がれる普遍性を持つ作家の作品の背景を為した生き様をベースにした演劇作品を少しでも深く知る為には以上簡単に整理した事情程度の知識を具えていた方が遥かに作品の本質に迫ることができよう。
短編作品集『3℃の飯より君が好き』

短編作品集『3℃の飯より君が好き』

劇団印象-indian elephant-

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2024/06/05 (水) ~ 2024/06/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 Aチームを拝見。2作を上演するが、第1部はリーディング公演、第2部が通常の演劇公演である。板上には、2部で用いられる舞台道具も大きな物は予め置かれているが、リーディングで用いられるのは木製の椅子3脚のみなので他の道具は目立たぬように照明で加減している。興味深いのはリーディングでは実験的に効果音迄台詞化されて上演される点だ。第2部6.10 0時20分アップ

ネタバレBOX

登場人物は3名、全員中学3年生、15歳。理沙と陽子は小学校時代スイミングスクールで隣り合ったレーンで泳いでいる際、タイムトライアルでのライバルとして意気投合、親友になった。陽子は中学に入ってもスィミングスクール通いを続けているが、理沙は演劇部に入りスィミングスクールは止めてしまった。もう1人の登場人物は矢張り演劇部の保。
 ところで中三になってクラスメイトの中には眉毛を抜いたり、マニュキュアをしたりと化粧を始める者も何人か出てきた。これらの女子は男子に人気があり、どことなく大人っぽい。これに反感を覚えた陽子は男に媚びる価値観が化粧させるのだと反発し理沙と化粧をしない約束をしていたが、演劇部では「オセロー」を演じることとなり保がオセロー役、理沙がデズデモーナ役と決まった。演劇上でのメイクが一般の化粧とは異なるのではないか? と例外規定として約束違反を認めて貰いたかった理沙は陽子の頑なな態度に遭い絶交してしまう。陽子は陽子で演劇の世界に入って自分の分からない言葉や概念を用い話す理沙との齟齬に対するに、二人とも未だ自らの社会的責任を負うことの意味すら知らぬまま化粧しないという約束をしたことを根拠にストイシズムで対抗する。そして演劇部部室に忍び込んだ際偶然耳にした、保がドーランを顔に塗って演じたいという話を盗み聞き、SNSでブラックフェイスが差別語であるとして炎上させた。この件は、職員室でも問題化されたから卒業記念公演「オセロー」も潰されかねない事態に発展する可能性さえ出てきたのである。ここは演劇サイトであるから「オセロー」観劇経験は無くともシナリオは読んでいて当たり前。裏切りと嘘、偽情報散布が、「オセロー」と交錯している点は誰でも気付く。従って今作は「オセロー」の最も重要なテーマの一つである裏切り、嘘(本当に見えがちな嘘、或いは本当と誤解されがちな虚々実々情報)、或いは様々な見解があるにも関わらず見解は唯一つであるかのようにSNSという検証不完全な媒体に載せて拡散することで歪みを作り出す過程を炙り出す。無論、ブラックフェイスは19世紀英米で隆盛を誇った数多くの役者らによって世界中に広まり、差別問題として取り上げられるようになってからも暫くは用いられたメイクであったが、異論もあり、保の見解もまた差別では無く、人種差別社会で実力だけでトップにのし上がったオセローに対するリスペクトからブラックファイス採用を検討していた。陽子が自分の為したことを保に告白し彼女の行為は露見することとなったが、その解決策があっけらかんとしていて15歳を現すのに相応しい。
 効果音を総て台詞で表現している実験が効果的だとは思わないが、少し深読みすればこれも15歳のストイシズムを、演劇としても演出でサポートしていると観れば極めて面白い実験であり、更に作品を深いものにしているということができる。問われているのは、我々観客の受け取り方の深さと広がりではあるまいか?

第2部はフライヤーでも採用されているタイトルの作品だ。
 今作で最も問題となるのが、このカップルが互いの生殖に関わる器官に抱えることになった氷が何のメタファーなのか? ということであろう。作中、男の目指すもの・ことは頑是ない子供の悪戯書きのような詩を書くこと。一方女は日常的には実生活を重んじるものの、男の夢に賭けることで接点を作り出しファンタジーのような結実を見せる点がグーだ。
 因みに後片付けができない男と夫婦になって2年の二人は新婚旅行にも行っていない。男はソファーに寝そべり洗濯物は取り込んであるものの畳んではいない状態だ。夜勤仕事に出掛ける前に1時間ほどある。そこへ妻が仕事から帰宅。夫が相変わらず部屋を散らかしているのを見て呆れつつも洗濯物を畳むのを手伝う。夫は出掛ける前に食事をする積りである。メニュは夫の誕生日に妻が作ったカレーを解凍して食べようとするが、妻は経年劣化で味が落ちていると反対、中々意見が纏まらない。そんな中の雑談に新婚旅行に行っていない話も出てくるのだがそれらの雑談中、夫が冷凍庫から出したカレーで食事の準備をしに電子レンジのあるキッチンに行っている間に妻の体に異変が起きた。何と臨月を迎えた妊婦の如くお腹が膨らんでしまったのである。而もそのお腹は氷のように冷たい。重さを尋ねると3㎏くらいとの答え。あれこれ対応を考えるがどれも上手く行かない。そうこうしている内に、夫の性器もコチンコチンに冷え固まってしまった。二人は途方に暮れあれこれ考えるも解は無い。仕方なくレンジで温め直したカレーを食べると、二人共同時に氷が溶け始めるのを感じ、実際に氷は溶け去って元の体に戻った。二人は共に手を取り合い舞う。その様は丁度始原の海に初めて出現した命のように、幻想の海に漂い、波と戯れ翻って風と遊び再び海に溶けるかと思われる。このように比喩的で詩的な作品である。解釈は様々だ。自分の解釈は以下の通り。
演劇は、小説よりずっと詩に近い。小説は煉瓦を一つ一つ積み上げて完成に近づける作品群であるが、詩はいきなり本質を手掴みにし言葉の髄で固定する。作中、男の目指す詩は頑是ない子供が落書きしたような詩を理想としていることが語られるが、その意味する処は総てのバイアスを排除し虚心坦懐にもの・ことを観察しそれを真っ直ぐに表現するということだろう。言うは易く行うは難い芸術論である。然し乍ら、妻も夫の理念に共感はしている。掛かるが故に二人は支え合い偕老同穴の契りを結んでいるのであり、掛かるが故に始原の生命体のようなファンタスティックダンスを共に踊ることが出来るのである。タイトルに3℃が入って水の極めて珍しい性質の一つ、約4℃でその密度が最大になることと大いに関係している。何故なら彼らの恋の密度は3℃の水がその比率の多くを占める飯より妻を愛していることになるからであり、二人の体の異常が食物を摂ることによって解消され問題だらけの未来(氷)から問題の氷解した新たな未来へと転化したからである。換言すれば自分の解釈では、氷が表して居たのは未来(問題だらけの)であり夫婦は新たな未来へ旅立った訳だ。これを寿がずして何を寿ごう。
Dear・異邦人

Dear・異邦人

劇団「楽」

スタジオR(東京都)

2024/06/05 (水) ~ 2024/06/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 30分程遅れて到着してしまったが、制作の方の適切な対応に感謝。華4つ☆ 追記6.9 20時40分

ネタバレBOX

 異邦人と聞くと自分達世代の文学好きは皆カミユの「L'Étranger」を想起するだろう。因みにétrangerは名刺として外国人等も意味すると同時によそ者、部外者を意味し形容詞として用いられる場合は、類語の形容詞、奇妙なを現すétrangeに近い①未知の、馴染みのない②無縁の③異質な等の意味を持ち今作のコンセプトとしては日本の翻訳文化の影響を受け最も人口に膾炙している外人、外国人では表現できない特殊な雰囲気を表現する為用いられた“異邦人”の意味する処、形容詞的な意味を持つ用い方と解釈した方がしっくりくる。
 板上はホリゾントに半壊した壁のようなオブジェ、半壊部には植物が這いその手前にずんぐりむっくりの徳利開口部を安定の為に巨きく広げたような形の椅子が2つ。他は素舞台。設定は寂れた公園であるが、春には桜が秋には紅葉が楽しめるものの手入れは行き届かない半野生化した場所。登場するのは公園で暮らす男、酔っ払い公園に入り込んで偶々出遭った支援学級の元教員で現在はOLだが仕事上のストレスで疲れ果てた身の上の2人。
 物語の内容が夢・幻想の世界と現実世界の間を行き交うような精神の話でもあるので男の心象風景内では、薄く血を刷いたような桜の花びらが無数に舞う雨の中。男の総てであったダンサー・亡き妻がダンスを踊り狂う。その幻像に合わせ、男の足が拙いタップを踏む。一度目の邂逅は偶然であったが、2人は約束をしていた。「又、合おう」と。然し2度目に合ったのは半年後。男は独学で手話をマスターし会話が弾む。その中で女は2つの質問をする。その問いに男は答えた。その答えの一部が上記の妻との関係である。男の首には妻を亡くした時に交通事故で負った傷跡が生々しく残り、女が男に就職の誘いを掛けるも反対車線の車が車線を越えて正面衝突してきた刹那に男がハンドルを切らなかった。その原因が妻の浮気を疑っていたことにあったにせよ、自分が妻を死なせたという悔悟の念を断ち切ることができず、同時に総てであった妻との思い出の中に生きるしかない男にはこのような公園で過ごすことのみが自らの記憶を喪失しない唯一の方法であることを告げる。結局、公園がリニューアルされ男は消えた。女も男と最後に合った時点では仕事が軌道に乗り元カレとも復縁して新たな生活に旅立ってゆく。この2人の邂逅は、世間で普通の価値観を生きる人間が己の価値観の枠の中から異質な価値観と生き方をしている世捨て人のような人間に対して持ち得た印象記の体裁をとる。
熱海殺人事件 売春捜査官

熱海殺人事件 売春捜査官

クリームソーダのさくらんぼ企画

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2024/06/01 (土) ~ 2024/06/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 つかの作品はバリエーションが多い。それはつかの演劇に対する関り方の根本にあった態度から来ていることは周知の事実だが、今回選ばれた台本はその中でも極めて優れたものの1つであろう。先ずは、これだけの台本をよくぞ見つけ、演じたということにある。舞台美術は必要最小限。理想的である。演出、演技何れも若者にしか出来ぬスピーディーで切れがある、またその熱量が観客を撃つ力を持つ称賛すべきものであった。鏤められた膨大な科白が速射砲のように歯切れよく而も舞台という形式でしか実現されない卑語の多用と共に一種の清々しさと共に表現されるのは関わる者総て演者総てが若者であればこそだ。追記後送 華5つ☆

第壱部「綺譚 逢浄土桜心中」第弐部「DREAM-NeoJapanesque」

第壱部「綺譚 逢浄土桜心中」第弐部「DREAM-NeoJapanesque」

想組〜こころぐみ〜

小劇場メルシアーク神楽坂(東京都)

2024/06/01 (土) ~ 2024/06/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 元々、福岡で舞踏の人々と共に活動していたという劇団。それだけのエネルギーと自由な実践力を持つ。華4つ☆

ネタバレBOX

 二部構成の作品。間に20分の休憩を挟み150分超のエネルギッシュな公演だ。福岡から来ているという。初めて拝見する劇団だが、第一部は歌舞伎の演目から、第二部は歌謡、ダンス、パフォーマンスのショータイムと趣向を変えた構成だ。群舞では全体のモーションの不統一が若干見られるし、足指、手指の尖迄キチンと伸びて決めているダンスが実現できている者は少ないが出来ているメンバーのダンスは見事だし、其処迄細部を決めていない他のメンバーも基本的なポテンシャルは高いのでちょっとこの辺り迄詰めれば更に良くなるのは確実だ。
 第一部、二部ともに板上は素舞台。第一部では出捌けはホリゾントセンターに設けられた1か所及び客席上手側の通路の都合2か所。六道輪廻の世界で因果応報に絡め捕られた貴族の娘、嫡男、次男の森羅万象中心に描くが、各々の人生の余りに凄まじく苛酷な変転に世の無常が描かれこの世界観に嵌ることができる人々には痛烈な作品であることは想像に難くない。然し乍ら現代を生きる自分には、因果律や六道輪廻の構造を示し敷衍することによって人々を操作する主体が何或いは誰なのか? と主体を問うことが興味の対象とはなった。その答えは容易に指し示すことは出来ないものの、ヒトが何処から来て何処へ行くのか? ヒトとは一体何か? という問いと同時に明快なことが殆ど分からないヒトという生き物の抱える巨きく不気味な不如意によって穿たれた底なしの深淵が覗き込める作品でもあるとは感じる。
黒い太陽

黒い太陽

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2024/05/30 (木) ~ 2024/06/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 板上は作品内容が岡本太郎の作品“太陽の塔”制作依頼過程そのものの経緯に在る為、彼の作品にふさわしく極めて斬新、而も岡本が追求した美しさとしての機能美を具えたものである。今作、脚本の良さは無論のこと、演技、演出、舞台美術から照明、音響、制作に至る迄、総てが作品の趣旨に沿って見事に収斂している。必見の舞台。華5つ☆。尺は約110分。追記6月3日0時58分

ネタバレBOX


 劇空間に入ると演劇空間は、高さ30㎝ほどの大きな円筒を中心に同心円上に広がる板面更に外側に白い同心円を為す。円筒の周囲に椅子や文机等の小道具が置かれ必要に応じて円筒上に持ち出される。この円筒の真上、天井部には白い円形のオブジェ。円形オブジェの接合部に見えるのは照明によって極太の円柱に見える紗の膜。観客席はこの実質素舞台をL字型に囲む形を採っている。開演前には祭囃子や万博開催時の喧噪と同時に実況中継の模様が音声で流されている。
 上演台本は緑 慎一郎さん。尚、登場人物は名前は使われているがあくまでフィクションであるということは付言されている。その点に付いては今更言うまでもあるまいが誤解なきよう。
 身の回りを見ても優れたアーティストという者は極めて親密で同時にフランクな人間関係を構築するものである。殆どの人が世間体だの常識だのに縛られ聊かも疑いすら持たぬのが世の常であるなら、真のアーティストは、それらから意図的に自らを疎外する。己自身で観たもの・ことを中心に持てる総ての感覚、知恵、知識、経験などを用い対象を真っ直ぐに観察し享受し自らの内部で熟成させる為である。このような生き方の実践のみが独自なアートを生み出し世に問うのである。従って存命中にそれらの作品が評価されることは無いかも知れぬ。だが時代の常識が変わり、人々の習慣が変わる時、彼ら、彼女らの作品群は、俄然真のアーティスト作品群と評価されるのである。
ピテカントロプス・エレクトス

ピテカントロプス・エレクトス

劇団あはひ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2024/05/24 (金) ~ 2024/06/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 開演前、猿人と思しき者がモギリをしている場に現れたり、開演直前に劇空間に設えられた立ち入り禁止区域のコーンや侵入防止用の棒等を撤去する為に作業に入ったスタッフを邪魔してする悪戯が極めて面白い。追記6月3日0時38分

ネタバレBOX

 劇空間は四方を観客席に囲まれている。板中央に深い奈落が設けられており、奈落の底へ下りる階段、登る階段として都合2つの階段が設けられている。この奈落は化石の堆積層と考えられる。物語はヒトである我々は何処から来て、何処へ行くのか? が今作で表示された問いだが、ヒトである我々とは何か? という問いを当然続く問いとして提起された壮大な物語だ。猿人(アルディ・ピテクス)、原人(ホモ・エレクトス)、旧人(ネアンデルタール)、新人(ホモ・サピエンス)各々の集団が化石層に埋まった別の年代の類縁と交錯し対話する方式を摂る。が、その質疑応答が基本的に同じフレーズで為される為退屈感は否めない。またオープニングで登場した人物がいきなり鴨 長明の「方丈記」冒頭をそらんじ乍ら奈落の周囲を幾度も巡るのだが、無常を現したとされるこの随筆より、寧ろ老子の方が相応しいように思うのである。理由は、その哲学にあるのは無論だが、様々な異論が出され得ることも無論承知している。というのも老子が実在したか否かさえ疑うことが可能だからである。周知の如く“子”は男子に対する尊称であるから、老という苗字の男性に先生という意味で付けた表現、老・子が老子という具合に個人に対する尊称を含めた表現として伝承されてきた可能性を否定できないからである。一方、無論司馬遷の『史記』に老子に関する記述が見られるが司馬遷自身が老子の存在を確定できなかった表現も同時に見て取れる。また孔子による記述も老子の実在の根拠としては弱かろう。だが、老子の述べた言葉としての記述『老子』が残存しているというから一応そこに書かれているとされる言から引くとその哲学の中心の1つを為す“道”に関する後代の解釈は多様である。自分はこれを前秦時代の春秋戦国時代をきめ細かく注意深く生きた人(々)の知恵の集大成であるかも知れないと思うのである。無論、老子個人であると解釈しても構わない。その辺りを研究する研究者の仕事に口出しすることも出来ないし、そのつもりも全くない。が、その知恵の骨子は戦乱の時代を生きた観察をベースに実に科学的な目と見識で編み出された知恵と解釈するのである。今作「ピテカントロプス・エレクトス」も考古学によって明らかにされたホモサピエンスに通じる人類史がどちらかと言えば科学的な実証に基づいている以上、文化的観想である無常観を代表する随筆『方丈記』より親和性も高かろう。演劇の醍醐味は当初バラバラに見えた各要素が一点に収斂してゆくダイナミズムにあろう。この点に留意するなら、今作の思考部分を為す哲学表現的立場もより親和性の高いものにした方が良かったのではないかと感じる。
最初の二十面相

最初の二十面相

劇団身体ゲンゴロウ

北千住BUoY(東京都)

2024/05/23 (木) ~ 2024/05/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 Aチームを拝見。谷崎の「小さな王国」は読んでいないが。実にスリリングで面白い。
華5つ☆ ベシミル。追記した。5.25 17:44

ネタバレBOX

 板上は劇空間入口が、設定上の地下室と外界との接点となるドアになっておりホリゾントにはSNS上の交信内容が映写される。ホリゾント下手、センター、上手に出捌けが設けられている他、センターと上手の出捌け中ほどに丁度監獄で配膳に用いられるような仕掛けが設えられており、人が何とか這いずり出ることができる空洞を可動式板で使用時以外は塞いでいる。物語の多くの部分が小学校の教室での話と絡むので椅子が板上に在る他ラジオのような形の小道具が在る程度、ほぼ素舞台である。二十面相がタイトルに入っている通り犯罪という形、即ち違法になる行為が為されるのだが、今作の描く内容は寧ろ思想そのものである為、極めてスリリングな展開で緊張感が続く場面が多くその緊張度が極めて良質で高い為、またその緊張を破る食品デリバリーの配達員がドアを激しく叩くタイミングが絶妙で強い為唐突に途切れる演出が見事。また途切れた緊張感を上手く逸らし擽りや脱臼的手法で着陸させて別方向にずらして行く手腕もグーである。演劇であるから無論、次のカタストロフへ繋がってゆくのだが、其処は脚本でこの地下空間がどのような場所であるのかが書かれて、自殺志願者が30日の間に課されるミッションと内職をクリアした暁には目的を成就するN国へ行くパスポートを得る(或いはそれが自死成就かも知れないのだが)究極が与えられて居る為、観客が基本的な緊張感を途切れさす懸念は除外されている。この構成も見事である。
 言ってみれば今作は命懸けの思想闘争がメインテーマ。但しこの思想実践は法に抵触するという問題を同時に孕む。即ち体制VS反体制の命懸けの闘争が主題である。無論、命を賭ける以上、同胞たる者には絶対的な信が置けなければなるまい。それが思考を真に自らに真摯な思考と為すと考える根拠足り得ることになろう。また倫理的にも自らの全責任に於いての選択が実存レベルで要求されるのは当然のことだ。若干飛躍するが哲学的に考えれば総ての犯罪は反体制的であるから、極めて現実的な本質に関わる問題提起を江戸川乱歩の小説の主人公の一人である二十面相と絡め、知的でスリリング且つ本質的な問題提起として上演された作品であると言うことができる。
 ところで、書き落としていた。今作ラストシーンの状況を経ても今作の中盤でずっと描かれていた仲間内に於ける支配と隷属の関係である。換言すれば支配VS従属という関係だが、命賭けで同胞としての盟約を結び得た後に何らかの目標に対して(今作の場合は犯罪行為となる反体制的行為ということになるが)完全対等を保ちつつ盟友関係を保ち同時に目的を遂行し続けることが可能か? という問題である。そこに能力差によるヒエラルキーが生じ固定化することはないのか? という問題は必ず出来する。その際、分け前が同等であればそれで済む、ということで完全には解決されない問題はこれもまた必ず出てくるだろう。
去りゆくあなたへ

去りゆくあなたへ

劇団BLUESTAXI

ザ・ポケット(東京都)

2024/05/21 (火) ~ 2024/05/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 板上は下手に葬儀場の控え室。ホリゾントの手前にお茶のセットが置かれ、六畳の畳敷の休憩室にはテーブル、座布団が見える。正面奥の障子を通して落ち着いた雰囲気が醸し出されている。出捌けはこの休憩室の手前の側壁2か所に設けられた袖から。尺は約120分。

ネタバレBOX

 物語は2つの葬儀(通夜の模様)をほぼ交互に演じ分けることで進行してゆくが、互いの挿話に因縁が無い為因果の生ずる必然性が生ずることは無い。その為、全体としてはドラマの迫真性を欠く。折角、舞台で演ずるのだから、話をどちらか1本に絞って更に掘り下げた作品にした方が良いように思う。映画なら、例えば葬儀場そのものをテーマとして脚本は無論変わるものの同じセットでもカメラを通した目で撮影し、フィルムを編集して様々にタイプの異なる葬式や通夜の内輪を描くことで別のテーゼ(例えば人間の儚さをテーマとした作品)を提示しテーマを統一することが可能であっただろうが、今回の表現法では演劇の醍醐味である登場人物相互の葛藤が作品全体に及ばす、生の人間が観客の目の前で苦しみ、哀しみ、悲嘆に暮れ或いは歓喜に我を忘れる様をダイレクトに共有する演劇独自の熱狂を共有することが出来ない為、全体としての遡及力が弱くなってしまった。この点が残念である。
親の顔が見たい

親の顔が見たい

diamond-Z

日本橋公会堂ホール「日本橋劇場」(東京都)

2024/05/16 (木) ~ 2024/05/18 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 戯曲は畑澤聖悟さん作、演出が西川信廣さんである。今作は初めて拝見したが、1月から今作を含めて42本を拝見したうちのベスト作品と評した。文句なしの華5つ☆

ネタバレBOX

 脚本が素晴らしい。演出も無駄が無く舞台美術も必要最小限で小道具1つに至る迄総てを用い緊迫の舞台内容を盛り上げている。自分は初見の作品であったが、有名な戯曲だとのことで読んだり、観たりで既知であった方々も多いのかも知れない。何れにせよ。楽公演じっくり拝見させて頂いた。
 板上はホリゾントセンター上部に「愛友理真」と大書された額、その真下の壁に「聖母子像」が描かれた額が懸かっている。ホリゾントやや下手に出入口、その下手の壁手前には電話台と受話器がある。丁度板全体の中央辺りを占めるのは大きなテーブル。長辺の各々にはパイプ椅子が各4脚、上手短辺に1脚並べられている他、上手観客席側にはパイプ椅子が観客の視線と直交するよう横向きに2脚並べられ、その下手に塵入れとして用いられるのか、防火用水が入っているのかバケツがある。パイプ椅子は下手にもあるがこちらは上手のパイプ椅子とは逆向きに置かれ而も2脚づつ、やや間隔を置いて置かれている。舞台美術は以上。出捌けは出入口1か所と極めてシンプルだ。因みに尺は約110分弱。
 美術的に優れているのは、大書された文字が右側から左へ向けて書かれていることで、この学校が敗戦前からあったこと。聖母子像が懸かっていることでミッション系であることが即座に分かること。深読みすれば何故そのようなことが許されていたのか迄観客は想像できるということだ。(名門校であり女子校であることまでは極めて合理的判断で辿り着ける)
 さて、物語本題に入ろう。発端は、この学校の中学2年の生徒、井上道子が、朝教室内で首を括って縊死していたことであった。それを初めに発見したのが新任で担任の女性教諭、戸田菜月。年齢が生徒たちと近いこと、優しく親身に生徒たちに向き合ってきたことから生徒たちからは菜月、菜月とファーストネームで呼ばれていた。それだけに戸田自身精神的ダメージは極めて大きく、学年主任で教頭の原田茂一が16時から緊急開催される懇談を一切取り仕切って戸田には「休んでいるよう」指示していたのだが、戸田は、懸命にお茶出し等に関わっている。自死という行為が学校内で起きたことで校長も当然懇談には出席する。実際舞台上に登場するのは親たちと教師陣だが、道子の自殺原因はクラスメイトたちによる苛めであった。この場に居るのは苛めを実行したと考えられる子らの親たち保護者たちと教職者である。では何故、朝早く起きた事件当日に懇談会が持てるようなことになったのか? それは道子が出した菜月宛ての手紙が届いており、そこにクラスメイト5名の名が記されていたからである。遺体発見が午前7時を少し回った頃、菜月の反応は極めて迅速而も理に適ったもので直ぐに他の教師たちに連絡を取って道子を降ろし皆で人工呼吸、AED等必要な処置を為しつつ救急連絡を取って救急車を呼んだ。死亡判定を下したのは救急車で駆け付けた医療関係者で7時台に判定は下された。既に登校していた生徒が100名ほど居たが全員各家庭に帰した。その後道子からの書面で名指された5名の生徒及びその親たちに16時に学校へ来るよう連絡を取って集まって貰っていたのである。 
 親たちは会議室に集められ、子供たちは1人づつ、別々の場所に付き添い教師と共に居た。実際、苛めた本人たちであれば口裏合わせを防ぐ為ということも当然考えられる。
 協議が開始されると、教頭が菜月宛てに送られてきた文書を皆の前で読み上げた。親たちは自分の娘が同級生のそれもクラスメイトを苛めて死に追いやったということを認めたくない。その為、様々な異論、反論を述べ立て始める。最初の異論、反論はそれなりに自然な発想と論理に基づき、その異論、反論に濡れ衣であるかもしれない論拠が在る程度認められるものであった。然し徐々に親たちの論理に合理性が欠けてくると、同窓会会長やPTAトップ等も務めてきた森崎(妻)が、その書面を見せて下さいと言い出し2度目にそれを要求した際、その書面に火を付けて燃やし証拠隠滅をしてしまう。そんなことをする森崎雅子に抗議する学校側に教師で夫妻の長谷部(夫)が証拠が無くなって仕舞ったのだからとやかく言っても始まらない、防げなかった学校側も問題だとして恫喝を掛け、事実隠蔽工作に走る。だが更に道子からの手紙は別の人物宛てにも送られており、それも親たちの面前で読まれることとなったが、今度は切羽詰まった挙句教師から奪った手紙を破いて食べ、あっという間に呑み込んで仕舞うということをしでかしたのは、今度もまた森崎雅子であった。そして今回も詭弁を弄してあくまでも娘たちを庇い続けたのは長谷部亮平であった。然し乍ら幾ら何でも酷すぎると保護者サイドからも内部告発がおずおずと出始めた。而も乱入者がありその乱入者は会議室迄入ってきた。彼は道子がアルバイトをしていた新聞配達店の店長であり、彼に親切にして貰った道子は3通目の便りを彼に送っていたのである。メディアでも速報が伝えられていたから店長は直ぐに気付き真実を明かす為に会議室に押しかけ苛めの全容を明かす。流石に今回ばかりは、森崎雅子も手紙を奪うことは叶わず、事件の全容は親たちの中からも明かされてゆく。そして終盤、チェーホフ作品の幾つかで言及される深い台詞が引かれる。無論単に引用している訳では無い。チェーホフ作品の中で用いられて表現されている内容との対比の為にここに持って来られたのだ。この苛めという陰湿で卑怯でグロテスクで無責任な社会の在り様の鏡とする為に! (因みに証拠隠滅を国家レベルでやった歴史、個人レベルでやった歴史は敗戦後も脈々と実際に続いているのが実情である)焼却で対応する有名な件は敗戦直後進駐軍がやってくるまでの2週間程で問題になりそうな書類が昼夜を徹して焼却された事実として、食べた件は金丸が国会で疑惑を追求された際、証拠書面を実際に食べて隠滅した事件がある。
 以上が私の観た今作の内容であり、今年観た全作品中、最高作品と評価する所以である。
世界ギュルルン滞在記

世界ギュルルン滞在記

FREE(S)

ウッディシアター中目黒(東京都)

2024/05/15 (水) ~ 2024/06/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

 う~~む、TVを全く見ない自分には感性が合わなかった。華3つ☆

ネタバレBOX

 完全にTV風。或る意味メタなのだが、その表層性に棘を感じることは無かったし、表層性そのものをメタ化しようとする気概やキートンの狂気も無い。TVを全く見なくなって既に10年程にはなるが、理由は総てが嘘臭いと感じられるからだ。やらせのオンパレードに笑いの毒も必然性も感じないということである。舞台美術も小道具として使えるように配置された物が用いられず、唯点描として機能しているだけ。最終部分だけは視座をずらし全体を総括したように見せつつ、観客に判断を委ねる形を採っているものの、インパクトはさほど大きくなかった。
達磨さんは転ばない

達磨さんは転ばない

劇団龍門

シアターシャイン(東京都)

2024/05/15 (水) ~ 2024/05/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 初日を拝見。作・演は村手 龍太さん。如何にも村手さんらしい味のある深く而も観る者に勇気を与えてくれる作品。華5つ☆。ロンモチ、ベシミル!

ネタバレBOX

 金本 達磨は映画監督。名前からは想像するのが難しいが女性である。年1本のペースで作品を発表。数々の賞を受賞後、この5年間作品発表は無い。そんな彼女がキャスト募集オーディションをSNSで発信。応募者三千名を超える中から選ばれたのは僅か8名。共通項は1つの例外もなく闇を抱えた人々であった。応募の履歴書には、これ迄過ごしてきた人生を詳細に赤裸々に書くことが義務付けられていた。
 監督の5年もの沈黙は、表現ではなく利潤で差配される映画の製作過程で内容がスポイルされていることに対する挑戦があった。然しプロデューサーやスタッフからも著名俳優等を中心にキャスティングしなければ製作費が出ない、との反対意見が相次ぐ。当然、スポンサーやメディア報道等の動向も緻密にチェックしつつ、要所、要所に攻勢をも掛ける。こんな状況下、愈々オーディション当日に集められた志願者に対応した監督の為したことは? 通常のオーディションでは全く考えられない破天荒な内容であった。言ってみれば、それは各々の生き方そのものを問う、否根底から問い直す修羅場であった。集められた者全員と監督の面前で各々がありきたりの仮面、偽装、表の顔を剥がされ剥き出しの自分自身と対峙してゆく。そしてそのことを通してハッキリ己自身の位置と裸の己を正確に把握してゆく。即ち世間体等という表層を脱し己自身を確立してゆくのである。
 この過程が、監督の新たな作品だと分かる迄に二転、三転・・・と物事の本質と表現行為、皮相でしかない「現実」との対比、葛藤、止揚が行われる。この間の丁々発止が見ものだ。而も警察の者だと登場する人物による社会戯評が的を射ている。脚本、演出、演技も良く、先にも書いたように兎に角観る者に元気を与えてくれる作品である。
マクベス

マクベス

演劇ユニット King's Men (キングスメン)

座・高円寺2(東京都)

2024/05/14 (火) ~ 2024/05/16 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 今作にはシェイクスピアの「マクベス」に対する新解釈が盛り込まれていると言うことができようが、これが素晴らしい。ベシミル! 華5つ☆本日楽日。3公演がある。尺は120分。

ネタバレBOX

 板上フラット。上手・下手側面に黒幕を各三枚天井から板面迄下ろして袖を構成。このようにして作られた袖を用いて出捌けに用いる他客席側通路が魔女たちの登場・退出や王子らの国外脱出、城攻めに参加する軍勢等の登退場にも用いられる。衣装、髪型などはカジュアル。拝見して直ぐに感じたのはシェイクスピアシアターに似ているということであったがそれもそのはず、今回マクベス、マクベス夫人を演じ、共同で演出にあたり制作まで担当した主宰のユニットキングスメンの平澤智之氏、篁エリさんはお二人ともシェイクスピアシアター出身であった。
 肝はラストシーンにある。今迄他の劇団が演ずる「マクベス」を何作も拝見してきたが総てシャイクスピアの翻訳作品に忠実で今回のような独自の解釈を付け加えている作品を拝見したのは初のことである。無論、このことに様々な意見は在ろうが、演劇たるもの、このように原作を忠実に反映しつつも、時代に生きる人々へのリアルな訴え、問題提起をすることは最も大切なアートの務めでもあると信ずる。
換言すれば我々が今現在生きている世界は、今作に登場する魔女たちの言説で端的に表されているように矛盾だらけの前提の上にその矛盾をどうにか糊塗し己の利害を優先する為に謀略が実行され、謀略によってあからさまに実行されてしまった取り返しのつかない惨虐によって後戻りできなくなった人間の喘いでいる時代ということができよう。その末路を描いたのがシェイクスピアの「マクベス」であると捉えられようが、この喘ぎの央(さなか)で最も苦しんだ人々が見出した最終判断こそ、今作のラストで描かれているシーンだと断じた。懸命な判断であろう。
貧乏神シャバダバ

貧乏神シャバダバ

近藤一彦プロデュース

オメガ東京(東京都)

2024/05/08 (水) ~ 2024/05/11 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 以下の説明で分からない具体的な答えは、この作品を観て確かめて頂きたい。お勧めの完成度の高い作品である。公演は11日が楽。

ネタバレBOX

 板上はホリゾントセンターに出捌けにも用いられる開口部が設けられこの開口部を中心に上手・下手はシンメトリックな構造。上手客席側に側壁から出っ張るような塩梅になっているのはクローゼット。このクローゼットの中で現当主の祖母の上の孫娘が十年ほど引き籠っている。このクローゼットの奥側壁にも出捌けがある。無論、クローゼットにも出入口が付いているが鍵が掛けられるようになっており、もう一カ所の出捌けは下手側壁に設けられている。オープニングでは上手に箱馬三つ、下手に二つが見える。全体に極めて緻密な作りだ。脚本、舞台美術、演出、演技、場面の状況にしっくりしっかりフィットした照明と音響のマッチングも素晴らしい。役者陣の演技も上手いし、キャスティングも適切だ。ちょっと大きめな小道具を板上に据える時も必要最低限の小道具が様々な用途に使われるのは無論のこと、段取りがキチンとして居る為搬入の際にも一切無駄が無い。尺は80分。役者の演技はスタニスラフスキー流ではなく手練れの役者の演技と観た。内容は金持ちの家に伝わる家訓とそのような習わしから自由になりたい孫娘二女に狙いを付けた男、若奥様の婿の過去の女性関係をネタに結婚詐欺だと主張し、いか程か巻き上げようとする女、3か月間消息を絶って外遊していた若奥様の拵えた借金返済を迫る三十余名の金融業者、当代の当主の目の前に現れた死神の予言と人の心を良く知る死神故の慈悲は、退屈凌ぎの最後の遊戯。これらの素材をフィクション内のフィクションで引き回すのが、貧乏神。してその心は。死神が大奥様の真の悩み、即ち貴族同様に仕事らしい仕事等持ち合わせたことが無い大金持ちが罹る不治の病、『退屈』退治の妙薬。そしてこれこそ、今作の主題とみた。そしてこのフィクション全体を引き回すのが、代々の主人に仕えてきた家政婦、服部夫人である。  
花影

花影

臼井智希プロデュース

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2024/04/23 (火) ~ 2024/04/24 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

華5つ☆ ベシミル!
 花影(かえい)とは、月光などにより花が落とす影のことを指すが、何とも含みのある言葉ではないか。こんな素敵なタイトルを未だ若い人たちが付けた作品が今作だ。壬生狼と呼ばれた時期もあった新撰組の謂わば顛末記の一節が今回描かれた訳だが、今迄新撰組に纏わる舞台を10作程は拝見してきた。その中でのベスト作品である。僅か2日間の上演であったが配信もあるとのこと、是非観て頂きたい。お勧めである。

ネタバレBOX

 何がお勧めか? 登場する個々の人物のキャラクター描写が素晴らしいのだ。史的には、激動の歴史の最中で先の見極め方を誤った者達が殺戮集団として機能したことが悲劇として或いはアイロニカルな喜劇として描かれることの多い新撰組だろうが、それを観た者は更に捻れた悲劇と取る向きも喜劇と取る向きもあろう。然し乍ら今作のように己の生き死にの問題と捉え、自らの念(おもい)と生き方の切実な鬩ぎ合いと捉えて作家自らがキチンと自らの頭で考え創作された作品は極めて少ないのが我が国の現状のように思われる。その壁を今作の作・演出を担い役者としても登場している臼井氏はやってのけた。役者陣の意識も高く、脚本・演出・演技・手作りの日本刀、衣装、照明や音響も良い。殺陣も半年掛けてしっかりしたものに仕上げている。また武士の作法についても良く此処迄キチンと調べた、と感心させられるような数々の場面があって驚かされた。
 さて、今作を論じる核心に入ろう。上記の如く新撰組評価に関しては毀誉褒貶様々であるが、そのような評価に関する意見でもない。表現そのものが、それを受け取る人々に何を齎すかについてである。所謂エンターテインメントが楽しみや安らぎ気晴らしを提供すると主張し娯楽作品を提供している。これを悪いことだというのではない。然し世の中には真に自分の伝えたいことを持ち伝える手段と方法を持つ者が居る。だがそういう者達の中に在ってそれを最も有効且つ効果的に伝える方法を持つ者は少ない。その方法の有効性に気付いて居ない場合も多かろう。その稀有な才能を顕わす前に他界してしまった者もあろう。然しそれを表現し得た者が日本にも居た。既に鬼門に入ってはいるが昭和の時代に彗星の如く顕れ世界でも高い評価を受け未だにファンの多い多才な詩人・劇作家・映画製作者等々の肩書を持つ寺山修司である。彼は“問い”を表現の極めて大切な動機、方法、実現手段として社会に大きな文化的インパクトを実際に与えた。
 つらつら考えてみるに表現する者にこれ以上に大きな社会貢献は可能だろうか? との問いが生まれた。今作の眼目は、作家が自分の頭で本当に自分の描きたいことを考え、それを問いとして提示する為に演劇を選び、新撰組という素材に念と何時死ぬとも分からぬ我らの“死”を前提とし各々の実存を賭した生き様を、普通に生きる人々に提示した点にある。以下、作中に顕れた具体例を幾つか上げておく。
 当時、労咳と言われた結核が沖田の持病であった。不治の病と恐れられ罹患すれば死は避けられない。池田屋襲撃時に傷を負った沖田は、近藤、土方をはじめ新撰組の寝食を共にした家族のような仲間から可愛がられた。然し「無理をするな」との温かい思いやりは、全身全霊を懸けて信じた近藤についてゆく。明日をも知れぬ自らの命をその念の為に費やそうとする総司には隊の任務に携わらせない皆の思いやりが、アンヴィヴァレンツでしかない。そのことを土方のいたわりに対する答えのシーンで訴える。その直截な表現が胸を撃つ。
 その優しさの余り隊規を破り切腹を余儀なくされた山南 敬助が介錯に沖田を指名し「声を掛ける迄待ってくれ」と言ってから切腹したことの意味。即ち既にサラリーマン化した江戸時代の武士の切腹が初手で脇差を刺した瞬間に介錯を行っていたことに逆らい古式の切腹をして“武士”として天晴な死に様を晒したことと沖田に任務を与えたことの意味は明白である。
 また山南の古くからの親友、新撰組参謀として活躍した伊東 甲子太郎は、手の込んだやり方で新撰組に敵対することとなったが、流石に切れ者の甲子太郎、時代の読み方に間違いは無かった。この流れに共感する者二人。藤堂 平助と永倉 新八各々の剣の腕と人間性。それに賭けるだけの力や矜に懸けた念によって敵対しつつ共鳴する生き様は、新撰組の法度を鬼になっても護ろうという念で実行した土方撃退には共闘して当たり功を得た。然もそれぞれの歴史的立ち位置と選択の差によって決着はつけるという男の意地を通す美学は現代的では無かろうがグー。
 細かい点で他に2点、指摘しておきたい点がある。新撰組法度に盾突き追われる身となった山南が追手となった隊士たちと争う場面で隊士を殺さぬ為北辰一刀流の妙技・親指斬りを用いたと思われるシーンがあった点。
 山南の遺志を継いだ伊東が近藤 勇と会談した折、近藤は着座の際、刀を右側に置いて敵意の無いことを示し、伊東は左に置いて反対の意思を示している点である。双方の懇談に対する態度が如実に示されると同時に近藤のリーダーとしての人間の大きさも示すシーンだと解釈した。
 物語の創りとして本質的に非常に上手いのが、今作がかつて新撰組隊士であった人物の語る一次情報を基本とした事実譚として創られていることである。物語であるから、フィクション部分はあるのが前提だが、このように本質を弁えて作られると物語としてのリアリティーが確保されるのだ。作家は若い。この若さで此処迄普遍性を具えた作品に仕上げた才能に今後とも期待したい。制作を今回担当した駒井さんは照明、広報、ヘアメイク、小道具製作なども手掛け大活躍、役者陣もキチンと役の個性を演じてグー。こんな質の作品をあと2作発表できたら、今作に参加した総てのメンバー全員が、今後も期待できる本物と見做せよう。
絶望という名のカナリア

絶望という名のカナリア

甲斐ファクトリー

小劇場 楽園(東京都)

2024/04/23 (火) ~ 2024/04/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 べし観る! 多くの擽りを入れほろ苦い笑いを誘うが、現実に出来している末世を深く考えさせる作品。

ネタバレBOX

 物語のタイトルと話の展開から明らかなように終演部分で主人公・鈴木は帰ってきた名前の無かったカナリアにdesperatioという名を付ける。無論、絶望という意味だが、ラテン語である。この辺りも如何にも研究者出身の鈴木らしい。ラテン語は学名を付ける際に用いられるから、この辺りにも今作がエンターテインメントとして創作・発表されている仕掛けがみえて面白いのだ。
 ところで、鈴木が15年の歳月を費やして挑んでいた数学の難問、ポアンカレ予想は1904年にフランスの数学者、アンリ・ポアンカレが提唱したトポロジーに纏わる理論で難問として有名であったが、約100年後、ロシアの数学者、グリゴリ・ペレルマンが証明した。だが、何故ホモ・サピエンスは絶対知を求めるのか? 私見であるが、それは現生人類が知を持っていることから必然的に出来した宿痾である。ヒトが現在地球上の食物連鎖の最上位に在るのは、当に知に負っているからであり、知無しにはヒトの繁栄は在り得なかったからであるのは自明と言わねばなるまい。同時に知恵は悪知恵という副産物、嘘という鬼っ子等たくさんの弊害をも齎しているが、これを何とかする為、即ち正しく処理する為にも基準となる絶対値を要するのもまた必然であるからヒトは絶対知を追求し続ける他に道を持たず、それなしには不安という泥沼に沈み込む他無いのである。故に絶対を合理的に求める手段として最も有効な方法が数学であることに異論を唱える者はあるまい。
 今作の作品構造に関して言えば、現代社会に蔓延るスターシステムをベースにしSNSを駆使したマッチポンプ型収奪方式をはじめ非普遍的宗教(即ち端的に言って詐欺、人口に膾炙した言い方では新興宗教と呼ばれる場合も多いが実態が詐欺の場合もあるから誤解を招き易い)という社会的仕掛けが実態をカモフラージュして脱法行為を成就させる事件を生み成功させる訳だが、その成功を成就させたもの・ことが数学的誤謬を原因としていること、逆説的ではあるが今作を根本で支えている論理的根幹は、この数学の絶対的合理性なのであるという事実。この絶対合理性に辿り着く為の死に物狂いの天才たちによる追求姿勢と覚悟は、人倫を全うすることの困難そのものでもある。対比されているのは現代日本の徹底した壊れよう。人倫も何もありはしない。そんな実感を多くの人々が持っており、然も同時に手を拱くだけで実際に有効な手段を取ることもできない情けない有様を浮かび上がらせているのだ。
 無論、この状況に抗する術もキチンと提起されていることは、作品をキチンと受け取った観客には明らかなことだが。
「あぁ、自殺生活。」

「あぁ、自殺生活。」

劇団夢現舎

新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)

2024/04/17 (水) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 自死というテーマで様々なことを思考させてくれる作品、その行為が成功してしまえば二度と再びこの世には戻ってこれない事象だけに、いくらでも深堀りすることができ、様々に微妙なユーモアを紛れ込ませることもできる処が今作の強みだろう。役者陣の演技もグー。

ネタバレBOX

 頂いたパンフの中には令和4年の我が国の自殺者数他、令和5年の自殺手段、理由、曜日、月、県などが上位3位迄記されていたりする。
 実際に演じられるシーンは圧倒的に鉄道への飛び込み関連が多いのは、それだけ他者への影響力も大きく、賠償請求額も高額になるということがあろう。
 ところで自分の好みでは自殺という言葉より自死を選びたいので、以下の表記では自死を用いさせて頂く。病死、事故死、自死、衰弱死等々死に方は様々だが現在までの処人間も生まれた以上必ず死を免れることは無い。掛かるが故に総ての哲学的思考は死すべき定めを自覚することに原点があると考えられる。その可成り純粋な形が自死の形を採って現れる場合があろう。このようなケースが最も論理的に自死の軌跡を追いやすいケースではないだろうか? 今作では、呆けてしまい醜態を晒すことを恐れて。そのような醜態を晒す前に自ら命を絶つケースである。実際、このようにして亡くなった方がいらした。極めて優秀な研究者であり、ユニークな研究者でもあった方である。業績も大きかった。継承者も育てた上で自死を選んだ背景は、矢張りお歳を召してそれ迄確かであると信じてきた生活の中での認識が、視聴覚の衰えやレスポンスの遅れ等でそれ迄通りにはゆかなくなったという自覚が、自ら築いてきた実績を汚すと考え、矜りを傷つけられたということだと愚生は考えている。無論、今作の別の部分でたくさん描かれているように会社の同僚や上司等から散々いびられ、貶された結果追い詰められて死を選ぶケースも多かろうが、このケースでは様々な要素が入り込む為社会的要因や力関係、時代や生きている場所のその時点での価値観等要素が多い為中々自死という不可逆的で自分自身では自ら認識し他者に伝えることが出来ない自分の死について客観的な視座を持つことは不可能であること、また先に述べたように要素が多すぎて分析せねばならぬことが多岐に及ぶ為焦点が呆けてしまい易いことなどからアプローチしない。このような思考もあって自分は自死という言葉を選び如何なる場合にも自死は個々人の権利であるとも考える次第である。今作を拝見して以上のようなことを考えた。

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