熱海殺人事件
47ENGINE
タイニイアリス(東京都)
2013/10/03 (木) ~ 2013/10/08 (火)公演終了
満足度★★★★
つか演劇とは何か?
ご存じ熱海殺人事件であるが、本当に諸君は、熱海殺人事件をご存じだろうか? こんなことを言うのも、無論、つか こうへいの作品には、基本的に台本が無いからである。前にも書いたが、彼は演劇の一回性を非常に意識した人であった。同じ物は、二度と演じられない。厳密に言えば、そうなのだ。その時の役者の体調、観客のレスポンス、トラブルなどの有無、事故の可能性、演出家の気分、ハプニング、科白や音だしのきっかけのトチリ等々、違ってしまう要素は無限にある。だから彼は、毎回、本番中であっても練習時間を長くとり、口立てなどという手間の掛かることをして、日々作品がより役者に合うように作り変えていったのである。だから、厳密には、まるっきり同じ舞台は存在していないのだ。
今作も、かなり初期のバージョンを基に、それだけでは現在分かり難いと判断して、後期のバージョンをミックスして構成してある。従って、他のどこもやっていない形になっている。つかの作品は、だが、このような可能性を一定の条件つきで可能にする。
では、その条件とは何か? 既に作家が鬼籍に入ってしまった以上、その答えは作品の中に求める他にあるまい。ズバリ、それは、役者の存在である。そう言い切ってしまって間違いないだろう。つか作品の特徴は、あの叩きつけるような、科白のシャワーである。そのパワーである。チャイコフスキーの大音響の只中、科白が聞こえようが、聞こえまいが口角泡を飛ばしてまくしたてる速射砲のような科白のシャワーで役者は己の存在そのものを舞台に観客に叩きつけてくる。その存在の熱さ、厚み、体重の総てを掛けて、観客に訴えてくるのだ。人間という生き物の持つ温かさ、ぬくもりを。これが、つか演劇の本質、魅力である。つか本人が、居た間は、つかが口立てという方法でそうなるように実践していたわけである。然し、彼が鬼籍に入ってしまった以上、このような、メッセージを伝える為に作家がやっていたことを引き継がなければならないのは、演出家だろう。その意味で演出家の役割は極めて大きいと言わねばならぬ。
で、今回、結果としてそれが、為せていたか、ということであるが、かなり良い線迄行っていると判断した。本質を掴み、つか自身が持っていた温かくデリケートなメンタリティーまで表現できていたように思う。更なる高みを目指す為には、役者は、プロの技術を一旦、捨てる覚悟で舞台に臨む必要があるように思う。ミロやある時期のピカソが、子供のような絵を目指したように。彼らの絵は、プロとしての絵は、頗る早い段階で完成の域に達していた。その上で、子供のような絵を目指し、本当にそのような絵を描く為に生涯を費やした。そのような意味に於いて。
イッヒ リーベ ディッヒ【全公演完売の為、当日券の発売を中止いたします】
劇団東京イボンヌ
ワーサルシアター(東京都)
2013/10/01 (火) ~ 2013/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
観客を選べる作品
籠島 丈一郎は音大で音楽史を学んだベートーベンの研究家、妻は作曲家を目指していたが、卒業後、直ぐに結婚、音楽の道は諦めた。二人とも、実家が決して裕福ではなかったので、無理をして音大に通ったクチである。
因みに、音大など芸術関係に進む人達の実家は、裕福な家庭が多い。ピアノが自宅にあるのは、当然として、レッスンに個人教授を雇う。ピアノもスタンドではなくグランドピアノ、音が漏れる関係で練習室には、特別の防音装備が施してある。グランドピアノを置くスペースだけでも、都心部であれば、下手をすると1平方メートル当たり億単位の地価である。
少し、付け加えておくならば、このような環境でレッスンを受けながら育ち、実際に現在作曲家をしている友人が語ってくれたことである。仮にAさんとしておこう。彼女が、或る時、音大の友人と一緒に旅行にでたのだが、ホテルの近くにあった山間の展望台のような所で寛いでいた時、彼女の友人が言った「あら、救急車かしら?」その時、自分の友人Aには、その音が聞こえなかった。プロの音楽家を目指していた彼女にとってこのことは、聞こえる友人を殺したい、とまで思いつめさせる事件であった、という。無論、その時、どんな位置に居て、耳はどの方向を向いていたか等、条件を考えることはできたであろう。友人は、頗るつきで頭の良い女性なので落ち着けば無論、その程度のことを考えることができる。然し、そんな事実より早く、彼女の心に浮かんだのは、殺したいほど憎い、という嫉妬の感情であったのだ。音楽家にとっての耳とはそれほどのものである。(寝不足で書いているので後ほど手直しの可能性あり)
ネタバレBOX
ベートーベンの耳についても、自分は、前提知識としてこのような事実を基に考えている。
物語は、現代に生きる籠島一家とベートーベンの生きた約200年前を交互に対比するように進む。籠島 丈一郎は優秀な研究者であるが、誰も解き得なかった謎に挑戦している。為に、行き詰まることがあった。その度に、妻にDVをふるっていた。それを見ていたのは、長女らであった。当然、娘は母の側に付き、丈一郎は、孤立する。だが、既に心の離れかけている妻にも、妻の側に付いた娘にも夫・父の孤独と寂謬、不安は理解できない。必然的に家族は崩壊し、妻は夫を追い出す形になった。偶々、不遇をかこっていた丈一郎を見出す裕福な女性があり、丈一郎は、彼女の庇護の下、研究に没頭、数々の研究書を著わし、その筋では他の追随を許さない研究者になる。而も、彼は誰もその時まで発見できなかった、ベートーベンの謎を解き明かすことにも成功した。
一方、丈一郎を追い出したとは言え、音楽以外には、何もできない妻は、子供達を守るためにも生活を救ってくれた男と暮らすようになる。然し、彼には、特殊な趣味があった。ロリータコンプレックスである。偶々、末娘のみちるは、当時11歳、義父のターゲットとして適当な年頃であった。彼は、みちるに悪戯を仕掛ける。無論、みちるは抵抗した。ナイフ迄持ち出して必死の抵抗を試みた。が、大の男に11歳の少女が抗うことは不可能である。彼女は、義父の餌食になった。以降、10年間、童顔の彼女は義父の慰み者にされる。然し、母は、素知らぬ振りをすることしかできず、姉たちも積極的に義父を止めることができなかった。みちるはトラウマから精神のバランスを崩し、精神科に通うような状態である。
10年が経っていた。そんな折も折、実父から、弁護士を通じて、会いたいとの連絡が入った。父は、重篤で余命いくばくもない。みちるは、愛憎半ばする父を訊ねる。父からは研究ノートを託された。彼女は、当代隋一のベートーベン研究家となった父の著作を読み、研究ノートを紐解いて、当時のベートーベンの苦悩、惨めさ、悲嘆、そして彼の伴侶となったマリアの慈しみの意味する所を、深い所から理解する。というより実存的に出会う。それは、彼女が、義父の慰み者となってからの10年体験した地獄を、ベートーベンも抱えており、才能とは不幸の代償でしか無い、という事実を確認したからでもあった。更に、彼女は、父もまた、少なくともこの地獄を生きた人間の一人であることを理解する。こうして漸く、丈一郎とみちるの関係は、未だ多少ぎくしゃくしながらではあるが、正常な父子の関係になろうとしている。
一方、ベートーベンの生活との入れ子細工になっている舞台では、ふられ続け、背は小さく、耳は聞こえず、親友だと思っていたゲーテからは馬鹿にされ、乞食と間違われて逮捕されたベートーベンの不評や不名誉・恥じを総て受け入れ慈しんだマリアの愛を通じて、深いコンプレックスから解放され、純化された魂に溢れ出るように湧き上がり曲想を作って行く過程が、否、その奇跡が、その本質を虚飾を削いだ素の形で表現され、ケレンミなく表現されている。ベートーベンは難聴になってから6つもの交響曲を書き上げたのだ。
観客は無論、作品を選ぶ。然し、同時に作品も観客を選ぶのである。演劇はこの相互作用であるが、今作は、作品が観客を選べる域に達した稀有な作品と言えよう。
虚飾を剥いで行く過程を示すと同時に、その結果、地獄下りという辛い体験をした魂を救済する所迄を描いたシナリオの素晴らしさ、シナリオを正確に読み込み舞台化することに成功した演出の巧み、役者陣の素を通して本質を提示した演技、ピアノ演奏、歌唱の素晴らしさ、照明、音響、効果の細かい点迄配慮した腕、スタッフの丁寧且つ合理的な対応、どれも素晴らしいのは言わずもがな、であろう。
Color Trap
川崎インキュベーター
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2013/10/02 (水) ~ 2013/10/06 (日)公演終了
満足度★★★
とにかく走る
チームホワイトを拝見。貧富層の二極化したこの国では、スラムに住む貧困層のガス抜きの為、それが入手できれば、富裕層の属す国家公務員党に入り、党員になれると噂のカラーチケットを発行している。スラムを抜け出す、殆ど唯一の夢のチケットというわけだ。
スラムには御多聞に漏れず、ヤクが蔓延しヤク中が屯している。無論、お定まりのマフィアも健在。環境破壊の影響で土壌汚染が酷く、広葉樹は全滅。人々の心を潤す緑の無い殺伐とした風景を前提にした物語だ。
ネタバレBOX
心優しい青年ジャックと彼の優しさ故に、スラムから抜けられないと判断して、1週間ほど前に彼をふったアンディーは、カラーチケットを当てたトミーと共に、その指令を果たそうと隣国へ向かう。そこへマフィアからヤクを盗んだモレイラとマシェルの逃走劇やそれを追うマフィアの追跡者コムラ12とレデレディー、ジャック達の抜け駆けを許せない、スラムの若手リーダー、ドン・ウォルターとマガリャン、カラーチケット当選者の監視役ダヴァーレスとトリィーニョ、更にはジャーナリストの田花、ヤクの生なり、ウイロウを入手したいディレッタント、バロッシとメイドのアマエラ等々が追いかけっこ。兎に角、走る。
其処に、国家の罠や政治が絡み、おちゃらけ要素として、借金取りと化したファミレスの集金人達が絡んでスラップスティックな雰囲気を盛り上げる。が、無論、シリアスな部分は、国家の罠である。科白回しで必要以上の声を張り上げていると感じる役者もいるが、演出ともども、おいおい、更に技量を磨いてほしい。
サスライセブン
東京アンテナコンテナ
ザ・ポケット(東京都)
2013/10/01 (火) ~ 2013/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★
軽み
だるま座と東京アンテナコンテナのコラボ。「星屑の町」のメンバーに結構重なって、流石に上手い。ヒーローに関する哲学的考究も、さりげなく披歴されていたりする。だるま座の剣持 直明の存在感、塚本 一郎の渋さは無論健在。そこに、イジリー岡田のダジャレセンスが加味され、全体として味わいのある軽みを感じさせて心地よい。(以下のようなことがあって、尚、その怒りを我慢させるだけの効果があったということだ)
撮影が入っていたが、モニター画面を黒布で覆って撮影してもらえると有り難い。例によって、アホな観客が居て、携帯の画面を光らせたり、マナーモードのぶー、ぶーの響きをさせたり、自分の左側に座っていた女の観客だが、イマジネーションの欠如を残酷なまでに感じた。
ネタバレBOX
無論、物語としての緊迫感を感じさせるシーンも隋所に配置されバランス感覚も良い。
コメディーで緊迫感を感じさせる舞台など滅多に無いものだが、爆弾処理に当たる仲代 幸太のシーンなど、シナリオの上手さ、演出の良さ、無論、演技の良さもあって中々のものだ。極めつけは、観客に解除失敗を思わせる演出で、頭では解除されていることを理解しているのに、ドキリとさせられたりの仕掛けも仕組んである。手練れの証だ。
年配の役者陣は無論、若手役者にも力があるので、安心して観ていられる。
ブレヒトとロルカ
風鈴堂
pit北/区域(東京都)
2013/09/30 (月) ~ 2013/09/30 (月)公演終了
満足度★★★★
革新者たち
ブレヒトとロルカは共に1898年の生まれ。ブレヒトはその表現活動をカフェやキャバレーでし始めた。詩を作り、ギターに載せて歌うことで、謂わばトゥルーベールとして出発したわけだ。後、戯曲を書くようになってからも、宗教歌、童謡、民謡をパロディ化するなどの方法で異化、彼の演劇理論を実践していた。
一方のロルカは、ピアノを弾じ、アンダルシアの古謡をアレンジ。其処に自作の詩を載せることもあった。古謡に用いられる言葉遊びやナンセンスは、ロルカのモダンな感性と時に反発、時にもつれ合い、絡み合って微妙なイマージュを構築した。
両名共に、故きを温ね、新しきを知った先覚者であったが、時代を切り開いた作品群には、現代音楽に通じる要素も確かに感じられる。
これらのことを踏まえて、コントラバスの河崎 純、其々異なる3台のギターを用いて小沢 あき、2名が演奏。更に背景のスクリーンに都市と自然(ガイア)、人工と泥、海、空などを対比させる映像を構築した三行 英登3人のコラボレーション。音で時間を、映像で空間を埋めた表現行為であった。
空気ノ機械ノ尾ッポvol.20
空気ノ機械ノ尾ッポ
シアター1010稽古場1(ミニシアター)(東京都)
2013/09/26 (木) ~ 2013/09/29 (日)公演終了
満足度★★
訴えてくるものを感じなかった
どうやら倒れない為に突っ走っていることが、この劇団の存在理由のようだ。従って、通常考えるようなドラマツルギーも無ければ、ドラマティックな演劇性も、鋭い批評性も無い。
ネタバレBOX
一応、ストーリーのようなものはあるのだが、それも、都市伝説に近いようなふやけて白々しい代物である。
町の雑踏の只中に段ボール箱に身を潜めた若い男が一人。この段ボール箱を荷物用の台車に載せその中に隠れる形だ。丁度、顔の辺りに開閉可能な窓が設えられているが、開けなければそれとは気付かない。通りがかりの女がこの台車を道の真ん中に蹴飛ばした。
偶々、そこで靴紐を直す為にしゃがんでいた男と窓を開けた段ボールの男は、目を合わせてしまう。靴紐の男が、魂消て、段ボールの男を河童と勘違い。河童が出た、と友人に話したことから、河童を捕獲して賞金を稼ごうという友人と河童の追いつ追われつが始まる。騒ぎを起こした男と女友達は、彼が吹聴するか否かの賭けを始めた。段ボ―ル箱の男と親しくなり、色々な人が居るよ、という市井の男のとり持ちで、段ボール男は追手の手を逃れ、吹聴しないように話すことを止めて喋れなくなっていて男も音声を取り戻し、街にはカラフルな日常が戻る。殆ど、意味の無い舞台であった。
『銀ちゃんが逝く』『熱海殺人事件』-売春捜査官-
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2013/09/29 (日) ~ 2013/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
必見
つか こうへい作品を演ずる人は勿論のこと、演劇とは何かに迷い、考えあぐねることがある人は、必見である。もとより、つか演劇には、台本が無い、というのが基本。では、どんな風に劇を作り上げていったかと言うと、所謂、口立てである。つかは生前、演劇は、最も贅沢な表現形式だと語っていた。何故なら、それは一回きりのものだからだと。どういうことかと言うと、昨日の自分と今日の自分は違う。今日の自分と明日の自分も異なる。だから、例え台本を書いても演じる本人が変わっている以上同じものは表現できない。そんなものを台本にしても仕様がない。これが彼の意見であった。だから、稽古は闘争であった。つかが役者の本質をつかみ取り、演じている本人にも気付かないようなもの、部分を発見して口立てで科白を言う。つかの見立てに狂いは無かった。だから、役者は己の本質を見出しすんなり科白が入ったのだと思われる。
今回、自分は、他の演劇を他の場所で観てからシアターXへ出向いたので「銀ちゃんが逝く」は見ることが出来なかった。17時からのスピーチと19時からの「熱海殺人事件」-売春捜査官‐を見ただけであるが、フィルムで見てさえ、改めてつか演劇の凄さ、面白さを知った。不定期であるが、今後もシアターXでは、この催しを継続してゆく。時間を無理にでも都合して行くべし!!
アポリア
劇団新和座
要町アトリエ第七秘密基地(東京都)
2013/09/28 (土) ~ 2013/09/29 (日)公演終了
満足度★★★
シナリオをしっかり
毎回決めたテーマに沿った作品作りをしている劇団のようだが、今作は内容的に推理物に入るだろう。だとすると、場面と状況の設定が甘い。
ネタバレBOX
常識的に考えて人が死ぬような事故、事件が起きた場合、直ぐ警察に連絡するだろう。それが、叶わない状況である場合は別だが。警察に連絡しないなら、密室的状況を設定すべきである。プロデューサーのメンタルな問題やその場の雰囲気だけですべきことをしないのは、劇作の原点、論理的に組み立てる、に反する。推理物であれば尚更だ。また、劇中何件もの殺人事件が起こるが、照明の落下にせよ、鋏で刺すシーンにせよ、カッターで刺すシーンにせよ、あの程度では、人は死なない。その辺りのリアリティーを考えない演出は安易と言われても仕方あるまい。百歩譲って照明器具の場合、当たり所が悪かった、ということは可能かも知れないが、小劇場の小さな照明が落ちた位なら怪我はしても大抵助かる。
また、事件・殺人現場の証拠などをキチンと保存しない演出になっているのは犯人が証拠を消す為であるのは分かるが、推理劇としては、これだけで安っぽくなってしまう。何故なら、劇中、犯人以外の誰かが、その挙動に不信感を持つのが、自然だろうから。兎に角、シナリオが荒い。
キャスティングにもミスを感じた。役作りである程度のレベルに達していたのが、薮崎 あずみ、ラストシーンでの梨沢 千晴。キャスティングミスもあって、他の役者は、存在感が薄い。シナリオの書き方についても、理想を言えば、劇作家は登場人物の各々がキチンと役柄によって立ち上がってくるように書くべきである。テーマのコンセプトに強引に合わせるのではなく。科白が生きていれば自ずとテーマは浮き上がってくるものだ。
悪夢六号室【東京大阪2都市開催】
ニコルソンズ
駅前劇場(東京都)
2013/09/27 (金) ~ 2013/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
上手い
銀座の老舗和菓子屋の御曹司、敬助は、誘拐され海辺の寂れたモーテルに監禁された。犯人は、殺し屋。依頼人は何と彼の妻、鮎子であった。(追記2013.10.1 )
ネタバレBOX
舅にいびられ、夫に浮気をされ、男運も無いと感じた彼女の復讐というわけだ。而も、殺し屋は二人。一平は、男性器を切ることを依頼され、三郎は、尻を銃で撃つことを依頼されている。おまけに殺し屋たちは、ホモセクシュアルのタチとネコ。銃弾は、特殊な細工のされた強力なもの。撃たれれば命は、無い。殺してしまっては、敬介の人生を台無しにする依頼が果たせないと一平、殺し屋たちも敬助の話を聞き、何故、鮎子は、二人も雇ったのか? 何故、別々の依頼をしたのか? を探ろうとする。敬助の話から浮かび上がるのは。
自分は、よんどころない事情があって開演から30分ほど遅れたので不備な点があるかも知れない。悪しからず。
そもそも、寂れたモーテルの6号室は、誰が取ったのか? 鮎子か? それとも誘拐犯が偶々ということか? 何れにせよ6という数字はキリスト教神学の神秘主義では、特殊な意味を持つ。神が世界を作った日数は6日、その約数は総て素数であり、それを総て足せば6、乗じても6、逆もまた成立する。以上のような理由から完璧を表す。そして、時にサタンを意味するのだ。映画オーメンでダミアンの生まれが6月6日6時であることを思い出して欲しい。これはキリスト教の古い形で三倍のサタンを表す。宗教原理に則った中世キリスト教世界では、星は、人の性格決定の要因とされ、占星術が大きな意味を持っていたことも同時に考えるべきなのである。
まあ、こんな深読みも可能な部屋に監禁されていたのだが、ここには、様々な人物が訪ねてくる。先ず、被害者の母、ピン子である。ピン子がどう監禁場所を知ったかと言えば、生まれたての敬助の背中にGPS発信装置を埋め込んだからである。セレブの当然の用意、と澄ましている。おまけに彼女は監禁された息子に「お腹がすいたら食べなさい」と新製品の和菓子を渡した。これは後ほど分かるのだが、肝心な所で母親の科白が重大な意味を持つ為の伏線になる。というのも、この中に盗聴器を仕込んであって、母親が部屋から返された後も彼らの一挙手一投足は、総て知られていたのである。
敬助の浮気相手は、鮎子の幼馴染で親友のミカ、彼女は玉の輿に乗ろうと敬助を狙い、つわりの素振りを見せ妊娠していると脅迫。そこへ敬助の母ピン子が「それはあり得ない」と戻って来る。鮎子との結婚に反対であった彼女は、息子の知らない間に全身麻酔を掛けパイプカット手術を施したことを告げる。では、ミカのお腹に居るのは? 何と高校時代の恩師、山下先生の子であった。
一方、鮎子もまた「浮気」をしている。相手は、ヤクザの幹部、城島という男で他の組の組員からは鬼と恐れられる大物である。偶々、組長の息子が襲撃された時に彼を庇って尻に銃弾を受け、それがもとでインポテンツになっていたが、鮎子に遭ってそれが、治る。城島と鮎子が知り合うきっかけを作ったのは、城島の愛人、琴音。テニスをやった後、鮎子を気に入った琴音は城島ともども、レストランやカラオケに連れて行くが、ちょっと席を外した隙に、ハグする二人を発見。城島と鮎子に問い詰めた際、城島は、その局部を無言で触らせた。琴音は、女のプライドをズタズタにされる。
而も、城島と鮎子との間に性的な関係は無い。もっと深い精神の繋がりがあるばかりである。鮎子は、城島に存在意義を認められてアイデンティファイすることができ、城島は、普段の強面を解いて素の自分を晒せる相手として鮎子を評したのである。
母と子に関しても、未だ語るべきことがある。息子の知らない内に子供を作る術を奪われ、敬助は激怒、母親の首を締めて殺そうとする。回りに居た総ての人間が止めに入るが、さしもの城島でさえ、止めることができない。そこへ入って来た鮎子。敬助を抱きしめると、敬助の腕に込められていた力は緩み、母は、すんでの所で死を免れた。彼女は決めたのだ。どんあことがあっても世界を抱きしめる、と。それに、彼女には今日良いことがあった。妹に娘が生まれたのである。妹夫婦もやって来た。出生届けは出したものの、鮎子に名付け親になって貰おうと、未だ、名前をつけていなかったからだ。鮎子は、一応、マドンナという候補名を挙げるが、その正式な権利をピン子に譲る。ピン子は相変わらず、表面上は醒めた態度をとっているが、マドンナの英語名、マリアを提案。これが、娘の名になった。
一時、其々の誤解や思い込みの為に、各々が自らの地獄を覘き見ることになるが、最後には、総てが丸く収まった。更に登場人物其々の後日譚を加えて大団円を迎える。
棒になった男
笛井事務所
明石スタジオ(東京都)
2013/09/26 (木) ~ 2013/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
味わい
それぞれの作品毎にテーマが異なり、表現の手法も異なる所が、いかにも公房らしい。これらの作品をソフィスティケイトされた演出と、俳優術で観せてくれる。若手とはいえ、役者陣のレベルも納得のゆくものである。自分は、鞄に出演した埜本 幸良の演技が特に気に入った。(追記後送)
「伽羅倶璃」-カラクリ-
護送撃団方式
王子小劇場(東京都)
2013/09/26 (木) ~ 2013/09/30 (月)公演終了
満足度★★★★
あやかし
舞台美術のセンスもよく大道具の仕掛けもしっかりしている。メインストリームは「曽根崎心中」の悲恋を、詐欺師のくぐつ、旅芸人の系列だが特異な力を持つ捨て子のうつつに負わせる物語。うつつの力とは、その家系の者に備わった“あやかし”の力だ。(追記2013.9.27)
ネタバレBOX
さて、江戸で一旗揚げようと乗り込んできた二人は、その目を見ると夢幻の世界を体験できると、くぐつ得意の啖呵でひと儲けしたが、ひょんなことから“いんつけ座”のチンピラと揉め事になっていた所へ、兄貴分達がやって来て、オトシマエを要求され、とどのつまりは、いんつけ座の下働きをさせられることになる。が、この時のいざこざが命のやり取りにならなかったのは、誰かが妖術を使ったからであった。
その後美形のうつつは、筋も良く、段々、いんつけ座の面々に溶け込んで行くが、くぐつは、飽くまでうつつを操っているのは、自分だと嘯いている。何故それほどの自信があるかと言えば、彼には、実際に起こった心中事件を題材にした傑作、「曽根崎心中」があるからである。然し、自信満々、くぐつのオリジナルであるはずの「曽根崎心中」は既に何年も前に細川座で「伽羅倶璃」の演目として上演され、大当たりをとった作品であった。以来、江戸では伽羅倶璃がもてはやされ、細川座が江戸一番の賑わいを見せていると言う。作者は、戯作。その後新作が待たれるが、現在執筆中らしい。
ところで、江戸時代に、幕府がお墨付きを与えた江戸の歌舞伎小屋は三か所。それ以外は、公式の芝居小屋では無い為、風俗紊乱などを理由に何時取り締まられるか分からない状態であった。無論、幕府が認めたということは一流の証とされ、格式も高く、其処で演ずることのできる役者は一流とされたわけである。その為、人気は江戸一番とはいえ、お墨付きが欲しい、細川座座長の半蔵、戯作らは、一計を案じる。
偶々、奉行の堀田は、中々の趣味人で、現在は、生身の人間の芸を売りにする市谷座の看板“太舞楽”を贔屓にしている。この太舞楽に挑む細川座は、お膳立てを整え競技会が開催されることになった。結果は、細川座の伽羅倶璃、張璃子、いんけつ座で踊りを披露するようになっていたうつつが、共に引き分けて幕府からのお墨付きを享受することになった。
この2人のお陰で、細川座、いんけつ座は賑わうが、伽羅倶璃の見せる夢幻には、阿片が使われていたのではないか、との疑いで動いていた捕り物には、罠に嵌められた市谷座の若座長、秀彦が掛かってしまう。この辺り、無論、曽根崎心中のストーリーが絡んでくるのは、芝居好きなら誰でも分かることだろう。
これらの筋書きを書いたのは、戯作。自らが心血を注いで作り上げた伽羅倶璃を更に完全な物にする為、うつつの能力を張璃子に移植しようと目論んでうつつを誘拐するが、張璃子は、実は、奉行所の同心、律香の死んだ妹である。戯作は、美しい妹を今で言うサイボーグに作り替え、蘇らせたのであった。だが、律香は、これを許せない。うつつの囚われていた所へ乗り込んだ際、戯作は、張璃子を操って邪魔者を消そうとするが、サイボーグと化した張璃子の中に未だ残っていた人間としての意思が、これを遮り、阿片を用いて大儲けをしていた半蔵、戯作を殺す。そのドサクサに紛れてうつつも救われるのだが、うつつがかどわかされる前、あやかしの力を持つ者は、なぶり殺しに遭わされて死ぬ、という旅芸人達に伝わる話から、うつつの将来を案じたいんつけ座の面々は、当座の生活費をくぐつに渡し、別れるように迫っていたのだった。一時、こんな経緯で江戸を離れたくぐつであったが。宿命は再び、彼らを逢わせる。
而も、彼らの恋の宿命は、互いに心ひかれ乍ら、詐欺師であるくぐつは、その生業から人の真を信じることができず、あやかしの血を受け継ぐうつつは、愛すれば、愛する程、惚れた相手を惑わしてしまう。うつつは、この宿命から脱出する為、愛するくぐつに自らを殺して貰おうとする。
当に彼女を殺害しようとした刹那、うつつの血の中から伝説のあやかし、半身は人、半身はカラクリ、そして血はあやかしの伽羅倶璃が現れ、くぐつを殺そうと迫る。操りの束縛を何とか振り切ったうつつは、くぐつを庇って凶刃に倒れるが。
それも詐欺師、くぐつの書いたシナリオ。総てが仕組まれた仕掛けであった、というオチがつく。
観客としては、楽しめる作品だが、知的策略が張り巡らされている為、作品に酔うことはできない。だが、作者は何故、このような作品を作ったのか? 自分はそれを以下のように解した。即ち、この作品自体が、演劇に対するメタ演劇なのだと。丁度、ドン・キホーテが、中世の物語に対するメタ物語であったように。つまり、この物語を演劇そのものの、方法論として読み替えてみるのである。劇作家が物語を紡ぎ、役者、演出家など舞台を創る側が、歌舞くという行為によって、観客を幻術にかけ、幻影を見せることで、現実の見方に何らかの変容を齎したり、カタルシスを体験させる。
幕が下りれば、死んだハズの人間達は、談笑し、酒を酌むという次第だ。
一点、残念だったのが、三味線の腕である。もう少し、練習して欲しい。
歌いタイツ!
劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)
あうるすぽっと(東京都)
2013/09/25 (水) ~ 2013/09/29 (日)公演終了
満足度★★
TV級
芸質、ギャグの質、踊りどれをとっても舞台俳優のそれではなく、お茶の間のTVタレントレベルで、志も無ければ、ソフィスティケイションも無い。ギャグの元ネタがTV的で風が吹けば一発で消えうせる代物。偶々、決まったように見える桁外しは、偶然の産物。舞台に立つだけの芸を磨いてほしいものだ。
30才になった少年A
アフリカン寺越企画
新宿ゴールデン街劇場(東京都)
2013/09/24 (火) ~ 2013/09/26 (木)公演終了
満足度★★★★★
考えさせられた
普段、殺人を犯した人間に対するバッシングなどは考えないが、どんな目に遭わされるかが具体的に描かれ考えさせられる。また、年少時に収監されて、陸な教育も受けていないことが貧弱なボキャブラリーで表現されており、悲痛である。その他、幼くして収監された者が、獄内でどのように矯正されて行くかが、整頓癖と他人が散らかすことに対する潔癖な迄の嫌悪感で示すなど、細部のリアリティーを示すことで伝えるべきことをキチンと伝える手法はとても良い。シナリオがしっかりしており、演出も物語の訴えるものに集中させてくれるような演出だ。役者陣の演技、照明・音響なども考えられた、内容にフィットしたものだった。
ネタバレBOX
一点だけ、最後に、荷物を片付けるシーンに全部の荷物が入るだけの段ボール箱が用意できれば、更にリアリティが増すだろう。
精神の矯正については、S.キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」での矯正やM.フォアマンの「カッコーの巣の上で」のロボトミー手術の罪を彷彿とさせた。
また、教育程度の低いこともあって、漫画を書く為に漫画しか持っていない、という過ちや、情報の重要性に気付かない知的退廃、表現することは、思い込みではなくて関係であることに気付かない幼稚さなどと相俟って情報処理能力の低さが、漫画家としての「才能」欠如に繋がっている、と因果関係を明らかにし、突き放して自分を観ることのできない孤立などが、収監時の教育の如何に前近代的なものであるかを類推させ、哀れを誘う。本人が、懸命であるだけに尚更である。日本の監獄教育にルドルフ・シュタイナーのような発想がありさえすれば救われたかも知れないのに。
保護司についても、キャラを立たせる為に、オーバーに演出していると考えられる点もあるが、肝心な所では、キチンと勘所を押さえ、本質を理解するしっかりして温かい人間性が描かれ、保護司としての人間性、苦労も伝わってくる内容である。
Aが、隣の部屋の住人と彼女が、喧嘩をした時に、たしなめる科白や、保護司が“遣る瀬無い”ということばの原義を説明する時の科白も素晴らしい。
実に多くの問題を考えさせる作品だったが、その蛇足的内実は、以下で。
人を殺すということはどんなことか。我らヒトの罪の中では最も重いとされる罪であるが、戦争でいくら人殺しをして称賛されることはあっても、非難されることは無い。一般的には、無論、殺す対象は敵である。然し、味方であっても、殺害後に敵の間者だったと言えば、矢張り称賛されるだろう(最も単純な形では)。更に言い募るならば、個人の殺人は罪で、国家権力の発動による死刑という殺人は、罪ではない。何れもヒトを殺すと言う意味では同じである。であるのに、何故、評価は正反対になるのか? 後者の場合、国家が、即ち現勢力者が、死刑執行を命じたならば、ヒトの命を奪い取ることは罪にならないとすれば、その根拠とは何か? 疑うべくもなく力の独占と責任の無化である。であるならば、民衆が、国家に対して、或いは、国家の実質を為す時代の要人に対して革命的死を与えることもまた同時に正当化されるべきであろう。革命とは、即ち、命を革めることであり、権力を奪取した暁には、この殺人は当然正当化されるからである。然し、この期に及んで恐れなければならぬ罪があるとすれば、それは、純粋に殺人そのものの罪であろう。
F1事故では多くの罹災者が自殺を遂げた。“原発さえなかったら”との殴り書きも見付かっている。だが、彼らを自殺に追いやった国、東電の責任ある立場の誰一人として、罪を問われない。一切の罪から免れているのである。彼らは、直接手を下したわけではないが、死に追いやった責任はあるだろう。何故なら、自殺の原因がF1事故とその後の対応のまずさに在るのだから。
一方、最初から殺人を罪として捉える立場では、上記の矛盾は生じない。論理的帰結から言って、この立場では死刑もあり得ない。
大分前にTVで「どうして、殺しちゃいけねえんだ?」というような意味の発言が為されたとして、作家、知識人の多くが即答できず話題になったことがあった。自分は、番組を見ておらず、追っ掛けてもいなかったので、詳細は異なる点があろうが、大体、以上のような内容を伝え聞いた記憶がある。即答できなかったのは、無論、誰も自分自身できちんと問題化していなかったからに過ぎない。かく言う自分も、普段、他人を殺すという行為を実践しようとは考えていない。だが、その一線を超えてしまったら。その危険が皆無だなどと、誰に言えよう? この物語は其処から先の話なのである。
江戸時代、鉄門海上人という偉い坊さんがいた。元々、彼は荒くれ者で有名だったのだが、或る娘と恋仲になってからというもの、一所懸命に仕事をし模範的な生活を送るようになっていた。然し、恋する女が、管轄の武士に目をつけられ危うくなったのを救って、武士を殺してしまった。元々百姓の出であるから、いくら相手に非があるとはいえ打首は、当然という時代であったが、逃げ込んだ寺で得度し、数々の偉業を成し遂げた後、最後は五穀断ち、十穀断ち、木食後、即身成仏した。現在でも、彼のミイラ化した遺体はそのまま残っている。彼が、其処までしたのは、無論、心底、殺人を悔いたからである。親鸞の悪人正機説もこの辺りの事を説いているから深いのだと思われる。
だが、現在の日本の刑法では悪しき矯正だけが、目的であるように思われる。所謂、刑務所五訓一はいという素直な心二すみませんという反省の心三おかげさまという謙虚な心四させていただきますという奉仕の心五ありがとうという感謝の心。などと言う押しつけがましい「道徳」には、反吐が出る。こんなことは、押しつけるものではなく、己の精神を鍛えることによって辿りつく倫理であろう。押しつけられれば、力の無い人は、装う。つまり、振りをするだけだ。何でこんなに簡単なことが分からないのか? ホントに役人というものは、アリバイを作るだけの卑劣な連中である。
少年Aは、“精神的ケア”もする特殊な収監をされていたから、また、事件を起こした当時14歳の少年であったから、まるっきり同じではないだろうが、似た発想の下で管理下に置かれていたと思われる。犠牲者に対する反省の方向性は、収監中に植えつけられたものだろう。それ故にこそ、未だ、感情の暴発が起こるのである。つまり、間違った方向づけが為され、訓致された結果、内面的深化・進化は未発達だということである。鉄門海上人が、殺人者から聖人に成り得たような精神の進歩を遂げさせる指導になっていないのが、現在の刑法下での矯正であろう。まあ、ハッキリ言って茶番だ。他の総てのこの「国」の施策と同じように。まあ、この「国」を動かそうと思うなら、まだ、アメリカを動かすことから始めた方が効率的であろう。何せ、植民地なのだし。
SHUJI TERAYAMA#13
舞台芸術創造機関SAI
pit北/区域(東京都)
2013/09/21 (土) ~ 2013/09/23 (月)公演終了
満足度★★★
疾走感、焦燥感の欠如
今作のタイトル“似非地球空洞化説”が示すように地球空洞説からもそのコンセプトが援用され、其処に「不思議の国のアリス」が綯い混ぜにされて大枠を形作っている。更に、同時に異なる主題を追求することで認識の総体化を解体する寺山がよく用いた手法も採られる。その上、狭いpit北/区域を総て使って、迷宮化するなど、寺山的世界を創出する為の様々な工夫が為されている。だが、天井桟敷の面々が持っていた特異性、時代を切り裂く者のみが持つ迫真性は出せていなかった。(追記2013.9.28)
ネタバレBOX
没後30年を迎えて、寺山 修司の評価は定まったのだろうか? 寺山に対しては、巨人と言う者、虚人と言う者、天才と言う者、奇人と言う者、様々であるが、自分が敢えて呼ぶならば、“魔術師”という称号を付与したい。この単語が十全だとは思わないが、人々はまだ寺山の創った実人生の虚構化からは抜け切っていないように思うのだ。
無論、寺山は、ここで表象されたような解体の方向を持っていた。然し、同時に恐山の“いたこ”のようなおどろおどろしい風習や、フリークスなどの見世物的復権といかがわしさを、恐らくはその乾いた怒りや言語化されたアイデンティティーの根拠として、またロートレアモンの有名な一節「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」の寺山流変奏術として、既に喪われたアイデンティティーへの滑稽な鎮魂歌として歌うと同時に、決して辿りつくことのないもの・ことへの限りない渇きによって、時々刻々、寺山修司は、寺山修司になりなりてなっていたのである。
自分が、敢えて、日本の古典に用いられている表現を援用しているのも、無論、この意味に於いてである。最先端と最も伝統的なもの・ことの想像力の中での邂逅以外に、何が、我々のアイデンティーを育み、保障するのか、との問いでもある。
田中幸子の秘密
劇団いい加減にしろ
ワーサルシアター(東京都)
2013/09/21 (土) ~ 2013/09/23 (月)公演終了
満足度★★★★
孤独のグラデーション
男運の悪い女の子というものは、居るものだ。かなり愛らしく性格も良く、頭も悪くないのに付き合う男が屑ばかりという女の子が知り合いに居た。不良っぽい感じがしないと駄目だということだったが。
ネタバレBOX
今作の主人公も、付き合う男が総て、駄目男君なのである。それでも、こんな世知辛い世の中を女一人で渡ってゆくのは、余りに寂しい。それで、誘いを掛けられると、今度こそ、と期待が頭を擡げてくるのだ。唯、その時の孤独の深さは、その時々の状況、相手でそれぞれ異なるし、不幸の度合いも異なるのに、幸せを求める心だけが、変わらないのだ。だが、結果は、何時も同じ。失望である。
ところで、三つ児の魂百まで、とか。自分も小さい頃からの習慣や性格の変更が如何に大変なことであるかを実感することがある。それが、こんなに大変なのは、個々の生きる状況への判断は、単に優生学的な優劣のみならず、今西 錦司の棲み分け理論が指摘するように、その個体が生息する環境そのものの影響をも受けるからだと考えられよう。つまり、個体の身体的諸条件と環境とのベストマッチングを果たそうとすることによって、環境負荷と個々の個体の能力・適応性などの度合いは、似た個体同士が種を形成し、以て己をアイデンティファイする。従って、これを変えるとなれば、己をアイデンティファイしている諸関係と己自身のダーザイン迄下降し、底なしの更に先の地点で己及び諸関係そのものを対象化し再構成した上で、再選択せねばならぬ。この時の主体は、無論、これら総てを認識する知的主体たらざるを得ない。但し、これは必要条件に過ぎまい。
この程度の自己探求と意識化なしには、何も変わらないというのが、現実であろう。そして、これを為せる者はごく少数だ。こんなわけで、多くの人々は、自分の人生にウンザリしていても、又、同じパターンを生きざるを得ないのである。
丁度、屋上から飛び降り自殺を図った田中 幸子を止めた連中が、「もう、これくらいで」と三々五々散りつつ「カラオケでも行きましょう」と談笑しながら去って行ったように、世間には、からっ風しか吹いていない。
幸子の総てから見放された孤独は、彼女を笑いの発作で襲う。その後、泣き崩れた田中 幸子は、幸子と言う名の不幸であり、田中と言う名のあなたに似た誰かである。泣き崩れた幸子に、ハンカチを差し出す男がある。どうせロクデナシなのだが、再び、彼女は、彼に夢を託すのであろう。
人間とは、何とペーソスに富んだ生き物であることか。
ケロイド THE FINAL
舞台芸術創造機関SAI
pit北/区域(東京都)
2013/09/21 (土) ~ 2013/09/23 (月)公演終了
満足度★★★★
迫力あり
学園物なのだが、ちょっと特異である。それが、一種のサスペンスに迄発展しているからだ。格闘シーンや取り調べシーン、犯罪現場再現などが絡んでくると言えば、その特殊性がイメージできようか?(追記2013.9.30)
ネタバレBOX
ケン、コーシー、ユキは幼馴染。小、中、高と同じ学校で大の仲良しだが、ケン、コーシーはロックバンド、“ジェット・ストリーム”で活躍。プロからオファーが掛かる人気バンドでライブハウスのスターであった。そんな折の文化祭、兄弟のように思っていたはずのユキに恋している自分を発見したコーシーは、ラブレターを書くが、ケンに盗られるハメに。コーシーの落ち込みは酷く、この時から蝿が飛び回る幻聴を聴くようになる。
而も、プロからオファーのあった直後、ジェット・ストリームのリーダーだったケンが脱けた。バンドは瓦解。以降、コーシーは引き籠り、軽音楽部で一緒で現在はバーを経営するミッキーのヒモ同様の生活をしている。
卒業後、何年か経ち、ミッキーのバーで同窓会を催すことになったが,、集まった者の中にユキは居なかった。
一方、三人組の後輩の中に、漫画家デビューを果たしたキョーが居たが、彼は、先輩たちのバンドの話をドキュメンタリータッチの作品にしたいと考えており、実名で作品化する許可を求めて来た。皆、快く応じたが。
只でさえ抑えの効かなくなっていたコーシーが、過去の事をきっかけに精神的決壊を起こし、ユキの自殺を告げたケンの足を刺す。その後も隙を見て逃れたキョーを除いて総ての面々が刺されてゆくが。未だ、生きていたケンが揉み合ううちにコーシーを刺し、結局、殺してしまった。それ故の、取り調べであった。
「リセット」
Ar-Style
シアターシャイン(東京都)
2013/09/20 (金) ~ 2013/09/23 (月)公演終了
満足度★★★★
ガイア
チームペガサスを拝見。朗読劇とされているが、シナリオの構造をしっかり掴んだ演出で演劇的に楽しめた。
ネタバレBOX
創世記に登場するソドムとゴモラの話がナレーターによって説明され、神或いは超自然的な存在が暗示される所から始まる。語り手は2060年を生きている男、この物語で語られる2013年に生まれた。
2013年のある日、ある時を境に、人々は記憶を失った。といっても総ての記憶を失くした訳ではない。自分自身の名前だとか、住所、関わりのある人々など、アイデンティファイに必要な記憶を失ったのである。或る者は、買い物の途中で、或る者は、道路の横断中に、又或る者は、会社の所用で出掛けた先で、また勤務中の交番で等々、その状態は様々であったが、総ての人が、その時以来、ある分野の記憶を失くした。携帯端末を持っていた人々は、取り敢えず登録してある人の電話番号に掛けて見る。ところが、自分の名を名乗ることもできなければ、電話を受けた側も自分が誰であるか分からない人もいる。何とか名刺や写真付きのIDカードなどから、自己確認をした人もいるが、混乱は、甚だしく公共交通機関は総てストップ。タクシーなどを除いて足が無い。仮にタクシーを拾えて、運転手が道を覚えていても、肝心の行く先を言えない乗客が、自分の家では無く、名刺に書いてあった会社に車を走らせるなどという状態である。
そんな状況の中、町交番の警察官が、警察手帳と自分の服装から自らが警察官であると考え、地域の人々に援助の手を差し伸べようと、掛かってくる電話で相手の不安や、困惑を聞き、相談にのったり、苗字と名前が分かる人には住所を突き止めたり、とできるだけのことをしている。
更に、地元のFMラジオ局のメンバーたちは、兎に角、自分達でできることを、できる所迄やろうというパーソナリティーの提案に従い、刻々の状況を集められるだけ集め、発信してゆくと共に、リスナーの心を平静に保つ為に、音楽を流しながら番組を進行してゆく。電話などによるリスナーからの問い合わせにもリアルタイムで答え、オルタナティブに番組を編成している。個々の情報は、町中の混乱状況や、この混乱の起こっている地域が世界中であること、海外の状況、例えば殆どのエリアで暴動が起き、略奪などが横行していること、アメリカでは、銃の乱射が多発、死傷者が多く大事になっているが、それに比べると日本は、まだマシと思われることなどである。無論、日本でも多くの店舗がシャッターを下ろしているが、食料品店は開いている所が多い。但し、値段は異常な高値で蜜柑1個千円などというレベルだ、云々。また、一人暮らしの女性宅を襲うオレオレレイプなども多発しているので注意が必要というニュースが流されたり、リスナーからの夫を探して欲しいとの要求に応えて、オンエアしたり。また、これもリスナーからの情報で桜が満開になって大変な人出で、ヌーディストグループ迄現れ、大変な賑わいを見せているとの情報に現場からの実況放送をしたりと大活躍。この其々の挿話に対して、様々な曲が選ばれ流されるのだが、話の内容と選曲のマッチングが素晴らしい。
こんな具合に人々は、自分のできることを精一杯やっているが、記憶を失ったのは、意識の固まった年代の人々だけで、新生児に関しては、記憶は元のままだ、ということも発見される。また、記憶を失いながらも何とか人間らしく生きたいと望む人々は、記憶を回復させる為に図書館へ行って、今ではロールシャッハテストの文様のように、何だか意味の分からなくなった図面や文章を、頭痛や吐き気を堪えながら見ていた。
記憶を失った原因については、赤い光が自分達を覆ったことが原因と考えられた。然し、誰が、何の為に、人々の記憶を奪ったのかいついては、謎のままである。
暫くの間、こんな状態が続いたが、或る時点を境に、人々の中に記憶を取り戻す人が出て来た。彼らが思い出したこと。それは、小惑星群が地球に衝突し、地球が消滅するという危機であった。その恐怖から逃れる為に、人々は、記憶を喪くすことを選んだのだと。そして、それは、恐らくガイアなど超自然の意思なのだと示唆される。
この事に気付く人が出始めた頃、小惑星の衝突が始まる。人々は、再確認できた自分の周りの人々と共に最後を覚悟する。その心の奥底にあるものと共に。そして、地球は、小惑星群の衝突の最中、消滅ギリギリの所でリセットされ、人々と生きとし生ける総てのものが、リセットされて明日への道に立った。
Clash
東京パノラマシアター
座・高円寺2(東京都)
2013/09/19 (木) ~ 2013/09/21 (土)公演終了
満足度★★★★
コンテンポラリーダンスが素晴らしい
ダンスと映像に演劇的コントを嵌め込むというような形式で表現されるエンターテイメント。キャストは、ダンサー、元宝塚男役、キャラメルボックスの女優など様々なジャンルから構成される。自分は今公演が初見だが、ダンスをメインにした作品との印象を持った。それだけにダンサー達の切れの良い動き、身体表現のレベルの高さのみならず、前後左右及び後ろへ倒れ込むような危険な表現を含む緊張感のある振付にも感心した。ダンサーの鍛錬も無論のことだが、振付・演出は舞台監督が担っているのだろうか? コンテンポラリーダンスの要領を良く心得、バランス感覚に富んだ作品に仕上げている。
ネタバレBOX
ダンス、映像、演劇コントは絡み合って全体を構成しているが、主軸はダンスと観た。演劇的コントに関しては、約90分にE=mc2(e=x)と相対性理論(mc二乗と読む場合)の物理に対して化学とされる今作リーフレットに書かれた概念を導入して、恰も数式化したとでもいうブラフを用いているのではないか? つまり、ここで相対性理論を持ちだしていると解釈するならば、エネルギー=xとなるので、何の意味も無い。或いは、mc二乗ではなくmc2ということか? いくら何でもあざとい。だからクラッシュなのだ、という論理を準備しているのだろうか? だとすれば、詭弁である。
エンターテイメントとして、現代日本で最も受けるというデータから導き出したのでもあろう。そのような論理で藤沢 周平を持ってくるあざとさにも閉口する。
演劇的な部分に関してこのようなことを言うのは、物理学と化学を持ちだし無理に等号で結んだ上で、物語性のあるエンターテインメントの代表として藤沢 周平作品の「山桜」を嵌め込む点である。このあざとさは、コマーシャリズムの論理として分からなくはないが、アートではない。少なくとも、この部分の責任者は、知的に全力を出していない。観客のレベルを己の詭弁を見抜けないと措定して、それに合わせるような姿勢を採っているのだ。こんな詭弁抜きに、資金が在る時には、全力で冒険にチャレンジして欲しい。これだけのものが作れるのだ。その力は充分にあるだろう。
ジャンキー・ジャンク・ヌードット
good morning N°5
駅前劇場(東京都)
2013/09/20 (金) ~ 2013/09/25 (水)公演終了
満足度★★★★
この覚悟、見事
一緒に飲んで騒いだなら、様々な技を盗めそうな面々によるオムニバス形式のコント集とでも言ったらよいのだろうか? ジャンキーだとかジャンクなどという言葉が入っていることからも類推できるように、決して行儀等良くない。寧ろ、そんなものは糞喰らえ! とのメッセージが伝わって来るほど、自分達演者を貶めて河原者と位置付け、一段、引き下がることによって諸法度を御免蒙ると共に、本能的な部分で勝負を掛けてくる。かなりアナーキーな公演である。
その彼らが、日本の古典芸能の素養をチラッと観せる辺り、他の部分で、かなりハチャメチャ方式を採っている分効果的だ。
ブサイクな彼女
1月11日
新宿ゴールデン街劇場(東京都)
2013/09/19 (木) ~ 2013/09/20 (金)公演終了
満足度★★★★
深読みできれば傑作
彼女、エミ役の強烈な個性を演じたデス電所の山村 涼子の熱演が光り、煮え切らない、グズグズのフリーター、タイゾウを演じた同じくデス電所の豊田 真吾のきめの細かい演技が光る。
ネタバレBOX
サブストーリーに、死んだ彼から伝染性の病をうつされ、自らも死を迎えようとするマユが、その不条理を晴らす為体を売るという絶望譚が、並行的に演じられることで、物語を深い物にしている。
片や、絶望の中に光を見、他方、絶望に闇を見るという対比の奥に、支え合う人間の深い愛を描いていると読みこめば、これは実に深い作品である。