満足度★★★★★
グリーンフェスタ2017参加作品。主宰者は、当日パンフに本公演は多くの問題が重層的に含まれていると書いている。それは「慰安婦」「組織」「家族」「表現の自由」「自主原則」「同調圧力」「メディア」「政治介入」「公平中立」…。人はそれぞれ違う。考え方、価値観が違うのが普通である。
物語は、2001年に起きたNHK番組改編事件、旧日本軍による「慰安婦」制度を裁く女性国際戦犯法廷を紹介しようとしたドキュメンタリー番組をモチーフ、主軸に捉え、それに絡むいろいろな脇筋から成っている。
複雑に絡み合う個人の思惑と報道の行方を巡って物語は漂流し始める。芝居としての要素、ドキュメンタリー要素、その虚構と現実が絡み合い、真実を飲み込みながら表層にある事実のみが肥大していくようで、現代日本の観えざる力を映し出そうとする力作。
満足度★★★★
石原燃は女性劇作家だった。昨秋坂手氏の芝居のトークに呼ばれて登壇、永井愛が新作(『ザ・空気』)で扱おうとしているNHK番組改編問題に、折りしも彼女は取り組んでいるとの話に色めき、予定をやりくりして、少し迷ったが観劇。見て正解だった。呆気にとられた。勝手な思い込みでもう少し拙い戯曲を想像していた(無意識に永井氏の作と比べようとしていたのだろう)。
永井のフィクションと異なり事実に相当に踏み込んだ本で、問題の照射角度は硬軟自在、基本「人間」の素朴な感性から「現象」を問い、自分が何にとらわれているかを問う視点も加味し、「私たちに何ができるのか」を示唆する結語まで書き切った驚きの完成度、と感じさせる舞台だった。
幾つか前のPカンパニー公演でも石原氏の書下ろしを上演、反応の良い口コミが多々あったのを思い出した。もう一つ、嶽本あゆみ作の上演も思い出す。2時間を超える長編だったが、微妙な難しい部分もありそうな戯曲をPカンパニーは「自分たちのレパ」として舞台に上げていた、という言い方も変だが、役者力を感じた。今回も同様かも知れない。
テレビ番組制作を職人として作るディレクターのキャラや、「戦犯法廷」を見た思いを熱く語る新人ディレクターのキャラが、物事を普通な健全な見方で見る者である事を、信じさせるのに成功し、掘れるだけの深さが掘られた役作りが為されていたのだな、と後々思われてきた。
永井氏のに通じる特徴として、圧力に屈したり忖度したり自粛したり、空気に抗えなかったりする事って、そもそも「何なんだろうね」・・という素朴な疑問への一つの答えを答えようとした事、が言える。ミクロな家族の物語が、番組制作の現場の問題と並び、十分に問うに値するエピソードとして、立ち上がってくる。現実には、こうした問題は矮小なものとして葬られがちな所、本質的には対立構図にある姉妹の、姉の存在感が要だっただろうか。一方の妹が、夫に最終的に「通告」を突きつけられたのだとしたら(解釈の幅を与える部分だが)、あまりに哀れで夫も(正義をまとったように見えるが)身勝手ではないか・・。このあたりの処理は微妙で、妻にも希望の種を残して終わって欲しかったが、既にその種はある、とも解釈できなくない。(続く・・・か?)
満足度★★★★★
鑑賞日2017/03/05 (日) 14:00
座席1階
従軍慰安婦の国際市民法廷をめぐるNHK番組の改変事件を、家族の人間模様をうまく絡めて描いた力作だ。台本の完成度の高さに感動する。石原燃という劇作家はこれまで見たことはなかったけど、注目すべき社会派作家だ。
ドキュメンタリーは、現場の人たちの声をきちんと伝えることが最低限の基盤だ。それを政治的圧力によって時の政権が変えてしまうのは、表現の自由の侵害で立派な憲法違反だ。しかし、メディアの端くれといえども制作会社の社員たちにも生活がある。特に巨大なNHKから干されてしまえば、会社が行き詰まって「路頭に迷う」ことになる。プロデューサー一人では戦えない。組織が存亡を賭けて戦うのは、ましてや現実的ではないのである。こうやって表現の自由はねじ曲げられ、抑圧された物言えぬ社会が作られていくのだ。
石原氏はこの事件を題材に戯曲化するのに3年をかけたという。十分に温め、考え、完成度を高めた作品だ。これを演じたカンパニーの役者たちにも拍手を送りたい。
米国でトランプ政権がメディアと対決し、自由な言論が厳しい局面に立たされている今、この戯曲を世に問う意味は大きい。
満足度★★★
鑑賞日2017/02/28 (火)
価格3,000円
すでに伊丹市で公演した演目なので、東京公演初日も淀みない。
2001年のNHKのドキュメンタリー番組改編を元ネタに作られた作品とのこと。あの事件から、すでに15年以上経ったのかと思うと、まさに光陰矢の如し。
さて、この舞台を語ろうとすると、この番組改編事件の解釈に触れなくてはならないのは、どうも気が重い。でも、そうしないと話の筋道を辿れないから。だから、そのあたり触れません。もちろん、ここでの事件解釈が、Pカンパニーの主張、あるいは参加した役者さんたちに共通した主張だとは思ってはいない。ただ、比重こそ異なれども、プロデューサー、演出家、脚本家が、ここで描かれている主張へ軸足を置いているのは事実なのだろう。
「胸の中の法廷」とは、何なのか。ただの自己満足なのかな。本来、法で裁くというのは、公明正大、ひたすら努めて私事や思い入れに左右されず判断されるべきものだとすれば、この舞台に出てくる何人かのジャーナリストは、思い入れや立場に固執する偏狭者にも思える。序盤の軽いタッチが中盤以降、怒鳴り合い、哀願、叫びばかりになるのは、そうした偏狭者の特徴が前面に出てしまったからだろう。正直、うるさい。
Pカンパニーはもっと抑制が効いた芝居が魅力のような気がするのだけれど。