コペンハーゲン 公演情報 コペンハーゲン」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-5件 / 5件中
  • 満足度★★★★

    鑑賞日2016/06/04 (土)

    なかなかの台詞量の三人芝居。
    思考のループが面白い演出だった。

  • 満足度★★★★★

    緊張感みなぎる三人のセリフ劇、充実の時間。
    今のってる3人、よく共演される3人による濃密な小劇場でのセリフ劇を堪能しました。
    きっと1時間半くらいだろうと思い込んでいましたが、正味2時間15分に休憩をはさんで都合2時間半とは!
    学者同士の師弟関係、友情、嫉妬、複雑に絡み合う関係性が、会話の中で延々と続く。
    三人とも生き生きとノっているのがよくわかって、観ていて身を乗り出しそうになる。
    特に、広島、長崎が語られ、話が核心に迫るときは一気に緊張が走る。
    共に旅行するシーンではユーモラスに子供のように仲がよさそうなシーンが唯一ほほえましく、
    その正反対に命がけのようにシリアスになる場面もありながら、
    心地よくセリフの洪水に酔いしれました。

  • 満足度★★★★

    なぜコペンハーゲンを訪れたのか?
    2時間10分程度の上演時間なのだが、15分の休憩を挟む。
    一気に上演したらいいのに、と思っていたが、濃厚すぎる台詞のやり取りなので、頭がオーバーヒートする前に一休み入れるのが正解だった。

    「コペンハーゲン解釈」などをチェックしておくと、ストーリーを読み解くヒントになるかもしれない……かも。

    (ネタバレボックスにまた長文書いてしまいました)

    ネタバレBOX

    演劇の公演は、できるだけ前情報なしで臨みたいと思っているので、フライヤーも関係するHPも極力見ないようにしているし、上演が始まったらtwitterを含め感想等も避けるようにしている。
    もちろん、チケット購入を決定するにあたっては、フライヤーも読むし、関連した公式HPにも訪れる。ただし、数多い公演の中のひとつとして、あまり頭の中に残っていないことがほとんどである。と言うよりも覚えられないということも、あるか。

    この公演は、「コペンハーゲン」というタイトルと、物理学に関係するらしいということを観劇前にフライヤーでまた見てしまった。
    物理学で、コペンハーゲンと言えば、「コペンハーゲン理論」というのがあったような気がすると思い出し、普段はまずそんなことをしないのだが、ついパソコンで検索をしてしまった。
    「コペンハーゲン理論」ではなく「コペンハーゲン解釈」ということがわかった上に、関連する情報として「不確定性原理」や「シュレーディンガーの猫」なんてことも目に入ってきた。

    細かい内容は理解できないが、ぼんやりとだけ内容をつかんで、シアタートラムへ向かった。

    公演が始まると早速「ハイゼンベルクの不確定性原理」が出てきた。ハイゼンベルク自体も登場人物の1人であった。
    そういうことかと理解し、「シュレーディンガー」の話も出て、「猫」のことも出てきた。
    後半になると「コペンハーゲン解釈」も登場する。
    さらに、「ハイゼンベルクの不確定性原理」を、室内の電気を消し懐中電灯を使って電子を補足することの困難さまで、ハイゼンベルクが自ら説明するのだ。

    「コペンハーゲン解釈」は、登場人物の1人であるボーアの研究所で提唱されたものであり、シュレーディンガーもそこでボーアに学んでいたらしい。
    「シュレディンガーの猫」は、「コペンハーゲン解釈」の矛盾点から考え出されたものらしいのだ。ボーアともう1人の登場人物ハイゼンベルクは、シュレディンガーについてチクリとした言葉を投げかけたりした。

    公演が進むにつれてこうしたことが、実は物語そのものとリンクしているのではないかと思い始めた。

    「コペンハーゲン解釈」とは、「量子力学での、粒子の存在に関する世界観の一つ。粒子の位置や状態は観測されるまで特定できず、空間の各点ごとの存在確率の大小としてしか把握できないとするもの」(goo辞書より)であるとされている。

    つまり、これがこの物語の肝である「ハイゼンベルクが戦争中にわざわざ、ボーア博士に会うために、なぜコペンハーゲンを訪れたのか」そして、「そのときに2人は何を語ったのか」ということにつながっていく。

    2人の邂逅は、デンマーク当局(と言うよりは、ドイツに対抗するデンマーク国内の勢力か?)も盗聴している中、誰にも聞かれないように2人だけで、わずかな時間の中で行われ、その内容は戦後になっても明かされることはなかった。

    「観測者」がいないからである。

    当人たちが何も語らなければ、何もなかったと同じなのだが、戦時中であることで、敵対する国の2人の科学者の間には何があったのか、いろいろ噂されるのだ。

    「コペンハーゲン解釈」的に言えば、観察者がいるまで特定されることはないということ。

    これはまた、「シュレーディンガーの猫」的な思考によれば、ひとつのパラドックスも生む。

    ここで、さらに「ハイゼンベルクの不確定性原理」との関係も見えてくる。「ハイゼンベルクの不確定性原理」とは、「素粒子のような極小物質は、その位置を定めると、運動量が定まらず、運動量を定めると位置が定まらない」つまり「位置と運動量がトレードオフの関係になってしまうもの」というものであり、先に書いたように「懐中電灯を使って舞台上でやってみせた」それである。

    それを物語と重ね合わせると「ある一定の視点(光を当てる)」からボーアとハイゼンベルク2人の考えたことを見る(観測する)と、それぞれに「内容を変化させてしまう」のだ。ある1つのものは見えても、その結果、別のもう1つのものが変質してしまう。

    視点が変われば解釈も変わるのは当然だが、彼ら2人科学者が行っているのは、仮定と仮説と矛盾の堂々巡りな議論なのだ。実際に彼らが「何について語ったのか」については、驚くべき内容だったのだが見方を変えれば(光を当ててしまえば)1つに定まることはない。

    ボーアが「(原爆を作ることができると証明するために)なぜ計算をしないのか」とハイゼンベルクに問うたことは、政治的な視点から見れば、それをすればドイツが原爆を作ることができるヒントになるのだが、科学者の視点からであれば、先輩科学者からの純粋な疑問でもあるのだ。

    しかし、ボーアとハイゼンベルクは敵対している国同士の科学者であり、ボーアはユダヤ人でもある。

    ハイゼンベルクが「拡散の計算をしなかった」のは、「(原爆を)作らないため」とマルグレーテの口を借りて語る。

    ハイゼンベルクにとっては、「計算しないこと=作らないこと」は、すなわち「国への裏切り」であり、そうすることで「原爆が自分たちドイツ人の頭の上に落ちる可能性」を生んでしまうことにもつながってしまうのだ。

    ボーアとハイゼンベルクは、いくつもの矛盾を抱えていて、さらにハイゼンベルクは彼の「ハイゼンベルクの不確定性原理」のように、あちらを立てればこちらが立たずの、トレードオフの関係について考え悩み苦しんでいたのだ。

    ハイゼンベルクは政治的な視点から科学(原子力開発)を眺め、ボーアは科学は科学の見方しかしていなかったのだ。
    つまり、1941年のそのときには。

    その後1947年に会ったときにはそれが変化し、3人とも死んでしまった現在においては、その政治的・歴史的な意味が負荷されていく。
    だから、死んだ「今」、41年に起こった「コペンハーゲンでの2人の科学者の話し合い」を振り返ることができるのだ。

    41年にハイゼンベルクのコペンハーゲンでボーア博士に会うことは、「原爆を造らないこと」をボーア博士と共有したかったことがハイゼンベルクの言葉によりわかる。
    イギリスやアメリカの科学者とも密かに交流のあったであろう、ボーア博士ほ通じてそのことを共通認識とし、どこの国も作らないことを約束したかったに違いない。

    しかし、ボーア博士は、ユダヤ人であることと祖国デンマークがドイツに占領されているという「光の当て方」により、もうひとつのほう(原爆を作らないこと)が変化してしまったに違いない。

    しかし、ボーア博士を含む大勢のユダヤ人が、デンマークを出てアメリカに亡命できたのは、ハイゼンベルクの手助けがあったことが、3人ともが死んでしまった今、初めてわかる。そこでボーアは自分の中で変化してしまったものに気づかされる。

    ボーア博士は、戦中にアメリカに亡命し、原爆開発のマンハッタン計画にも加わる。
    そのことをハイゼンベルクから指摘されたボーア博士の言葉の歯切れは極めて悪い。

    ハイゼンベルクが原爆の開発をしたならば、原爆は誰の頭の上に落ちていたのか。
    ボーア博士は大虐殺に荷担したのか。
    ハイゼンベルクは誰も殺していないと言うが、マルグレーテは第1次大戦の戦後、死刑になる兵士をハイゼンベルクが監視していたことを挙げ、その1人を殺している、と告げる。

    ハイゼンベルクは原爆開発においては、何もしなかったことで罪をかぶることはなかったのだが、その一方で「何もしなかった」ことで人が1人死んでいる。
    これもまた矛盾であり、答えは出ない。

    原爆はどこの国でも作られることはなかったのか? という命題に対しては、その開発にはボーアとハイゼンベルクだけがかかわっているわけではなく、戦争中であり、アメリカに亡命した多くのユダヤ人科学者は、ドイツを憎んでいるのだから、まったくそれはわからない。

    仮定の話であり、やはり2人の考察は結論が出ない。
    2人とも死んでしまった現在においてもだ。

    「観察者」であるボーア博士の妻、マルグレーテがそこにいることで、われわれはブラックボックスの中を、少しだけ垣間見ることができるのみ。
    したがって、「原爆を作り、使ったことは悪い」とわかっていても、あらゆる要素の中でどうなったのか、は誰にもわからない。

    つまり、「シュレーディンガーの猫」は、死んでいたのか、生きているのか、誰にもわからないのだ。

    舞台は、ボーア、マルグレーテ、ハイゼンベルクがほぼ出ずっぱりで、濃厚な台詞
    が交わされる。

    マルグレーテは、ボーアとハイゼンベルクの「観察者」的な役割であり、2人の思考や会話の手助けをしたり、状況を語る。

    やはり、小川絵梨子さんの演出は硬質で好きだ。
  • 満足度★★★★

    終わってみたら小川絵梨子
    実在した物理学者、原子力の研究開発に貢献した事で名の知られるハイゼンベルクと、ボーアという両学者の、コペンハーゲンでの会話を劇にしている。物理学の専門用語も若干出てくるが難しいのはその哲学的で隠喩的な言葉遣いのほうだ。ボーアの妻もこの会話や、二人の関係そのものに懐疑的に絡む。
     場面はほぼ三つの相、一つはテキストの書かれている時代(現代)に作者を代弁して語っている風に見える相と、戦前のコペンハーゲンでの(「決別」に至る)やり取り、そして戦後その日を回想し対話する、これもコペンハーゲンのボーア宅の場面だ。
     1945年原子力爆弾使用までの、それぞれの立場での研究(二人だけではない)のプロセスがある。戦前の場面は、それ以前の師弟・同僚関係から戦争の影もあって一定の離別の期間を挟んで、久々の対面がなされたコペンハーゲンでの場面だが、ある短い言葉のやり取りから「決別」を帰結する。その背後に何があったのか・・これがやがて謎解かれる問いの一つでもある。
     この答えを観客が知りたいか知りたくないか・・はとりあえずどうでも良い。思わせぶりで難解な会話、訪問を受ける側のボーアがユダヤ人(つまり亡命している)である事から、やり取りも複雑になる。その探りあいの様を、妻が作家よろしく描写して観客に聞かせ、観客が立ち入る領域は人物の心理に及ぶことにもなる。交わされるやり取りの意味や行方を凝視して追尾する時間は、悪くはない。戯曲が観客の関心を途絶えさせぬよう、しかし簡単に捕まらぬよう、うまく書かれているのだろう。
     問題は最後だ。結語は抽象的で、この芝居が描いた二人の対面の「事実」に対する、作者の「解釈」のようなものが語られて終わる。これは無いんじゃないかと思ったりする。
     二人の会話じたいが遠まわしで抽象的であるなら、その謎解きの回答は何らかの「行為」でなければならんのではないか、と素朴に思う。比喩的・抽象的・思わせぶりな言葉(行為)は、より直接的・具体的・感情に基づく行為を相対させることで謎解かれ、両方(抽象と具体)を順繰りに行き来する流れで芝居を観ていたら、最後に抽象が来て、それに対する具体性の提示を省略して幕を閉じた、という感じ。異化効果などという大仰な感じでもない。
     小川絵梨子演出はそれほど観てはいないが、余韻を引きそうなラストを「断つ」という印象が何となくあり、今回も意図して淡白にしたのかも知れない。小編をうまく処理した、という感じだ。感動させるつもりはない、一定時間、注目させられれば良い、という。 ・・別に恨みは無いが、「クリプトグラム」「OPUS作品」への好評価が、その後私の観た三作で遠のいた感を言葉にすればそんな感じである。

     ロングランの序盤、芝居はまだ硬いように見受け、こなれてくれば台詞も身体化し、私の不満も解消されて行くかも知れない・・・とは思った。(二度は観れないが・・)

  • 満足度★★★★

    学術ミステリー
    ナチスドイツ占領下の時代、かつて師弟関係だった2人の男、住む国や立場が変化するも、生きながられてきたのは豊富な知識量と咄嗟の機転で難を逃れていたんだろうか。2人の会話を立会人のように聞いている妻。
    専門的な用語で膨大なセリフに圧倒されるが「シュレーディンガーの猫」が用いられたように幾つかの仮定が示される。物理、原理、数学、宇宙、と科学者たちの多様な思考解釈から祖国、民族、倫理の葛藤など、この3人もどこかの仮定に救いを求めたかったのかも。
    被爆国の人間だから、なぜそうなったのか、などと答えを知りたいわけではない。科学者としての真摯な探究心が国の思惑に左右された虚無のようなものを感じた。
    コペンハーゲン繋がりからか、チラシ絵のヴェルヘルム・ハンマースホイの絵が示すように寂寥感ある舞台セット。そういえば、ハンマースホイの描く世界も妻や親しい個人を描いているくらいで、人物や風景は排除ものが多くあるし、タイトルで色々と想起させる部分があり、その辺りはこの舞台と似ているのかも。

    それにしても、「NOISES OFF/ノイゼス オフ」の戯曲を書いた人と同一人物とはとても思えない。クールだな。

    ネタバレBOX

    登場人物の3人とも死者としての立場で語り出すが、1941年を基盤に時代を遡ったりと場面の変化はあるが、髪型や衣装、口調やセットが変わるとかなく、特にメリハリない見せ方だったので、これ若い頃の話?いつの時代?と少し戸惑った。
    また、科学者2人の風貌などの立ち位置から見える関係性はわかるが、そこに妻マルグレーテが加わると、ボーアの後妻のように見え、そこだけ違和感があった。

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