満足度★★★★
終わってみたら小川絵梨子
実在した物理学者、原子力の研究開発に貢献した事で名の知られるハイゼンベルクと、ボーアという両学者の、コペンハーゲンでの会話を劇にしている。物理学の専門用語も若干出てくるが難しいのはその哲学的で隠喩的な言葉遣いのほうだ。ボーアの妻もこの会話や、二人の関係そのものに懐疑的に絡む。
場面はほぼ三つの相、一つはテキストの書かれている時代(現代)に作者を代弁して語っている風に見える相と、戦前のコペンハーゲンでの(「決別」に至る)やり取り、そして戦後その日を回想し対話する、これもコペンハーゲンのボーア宅の場面だ。
1945年原子力爆弾使用までの、それぞれの立場での研究(二人だけではない)のプロセスがある。戦前の場面は、それ以前の師弟・同僚関係から戦争の影もあって一定の離別の期間を挟んで、久々の対面がなされたコペンハーゲンでの場面だが、ある短い言葉のやり取りから「決別」を帰結する。その背後に何があったのか・・これがやがて謎解かれる問いの一つでもある。
この答えを観客が知りたいか知りたくないか・・はとりあえずどうでも良い。思わせぶりで難解な会話、訪問を受ける側のボーアがユダヤ人(つまり亡命している)である事から、やり取りも複雑になる。その探りあいの様を、妻が作家よろしく描写して観客に聞かせ、観客が立ち入る領域は人物の心理に及ぶことにもなる。交わされるやり取りの意味や行方を凝視して追尾する時間は、悪くはない。戯曲が観客の関心を途絶えさせぬよう、しかし簡単に捕まらぬよう、うまく書かれているのだろう。
問題は最後だ。結語は抽象的で、この芝居が描いた二人の対面の「事実」に対する、作者の「解釈」のようなものが語られて終わる。これは無いんじゃないかと思ったりする。
二人の会話じたいが遠まわしで抽象的であるなら、その謎解きの回答は何らかの「行為」でなければならんのではないか、と素朴に思う。比喩的・抽象的・思わせぶりな言葉(行為)は、より直接的・具体的・感情に基づく行為を相対させることで謎解かれ、両方(抽象と具体)を順繰りに行き来する流れで芝居を観ていたら、最後に抽象が来て、それに対する具体性の提示を省略して幕を閉じた、という感じ。異化効果などという大仰な感じでもない。
小川絵梨子演出はそれほど観てはいないが、余韻を引きそうなラストを「断つ」という印象が何となくあり、今回も意図して淡白にしたのかも知れない。小編をうまく処理した、という感じだ。感動させるつもりはない、一定時間、注目させられれば良い、という。 ・・別に恨みは無いが、「クリプトグラム」「OPUS作品」への好評価が、その後私の観た三作で遠のいた感を言葉にすればそんな感じである。
ロングランの序盤、芝居はまだ硬いように見受け、こなれてくれば台詞も身体化し、私の不満も解消されて行くかも知れない・・・とは思った。(二度は観れないが・・)