幼女Xの人生で一番楽しい数時間 公演情報 幼女Xの人生で一番楽しい数時間」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.7
1-7件 / 7件中
  • 満足度★★★★★

    東京と言葉に直接向き合った切実さ
    初演も「幼女Xの人生で一番楽しい数時間」という形で上演されていて(@新宿眼科画廊、2012)、初演を観た私としては「幼女X」は2部構成の1部であって、前半だけだと片落ちな感があります。

    「幼女X」だけだと物語や世界感だけを追いがちになるのですが、「楽しい時間」とセットで考えることで、山本卓卓さんが書いてるのは世界感や物語、ましてや映像を使った「メディアミックス」的な「演出」ではなく、「言葉」と「人間関係」のずれ、違和感、ディスコミュニケーション、それでも言葉やコンテクストに依存しなければ人と触れ合う事ができない人間としての根源的な焦燥感のような物な気がしました。
    そのため、「楽しい時間」という言葉と時間と関係が繋がらない、しかし伝えようという努力は決して止めることが出来ない、という作品が一緒だと見えやすい、と思いました。
    「幼女X」に関してはアジア情勢が一気に変化する中でのアジア滞在制作を経て、東京・日本語に対峙せざるを得ないという切実さを強く感じます。

    アジアだけでなく日本国内、地域の中でも震災後物凄いスピードで分断が進行していて、世代間だけでなく所得差や地域差、信条で大きく言葉も分断されて、同世代でさえ言葉が通じない・・と感じることが多くなりました。その哀しさ、しんどさ、絶望感の中で、それでも、コミュニケーションを取ろうとする意志、希望を感じる(信じる)作品だと受け取りました。
    言葉を使ってコミュニケーションをとる人間である以上、誰もが無縁ではないはずなのですが、この分断に対して、切実感のある人とない人で受け取り方が分かれるだろう、と感じた作品でした。

  • 満足度★★★

    映像の範宙
    芸劇で観た作品は「意表を突かなさ」に疲れ、昨年のアゴラでの作品は覚えていない(興味深く見れる場面もあった程度)。今回も実はあまり期待せずに(失礼だが)足を運んだ。
     「幼女X」は自信を持って送る(?)再演だけあってテーマとストーリーが分かり易く入ってきた。「幼女連続殺人事件」がブラックボックスのように置かれていて、不可解の領域に、2人の落ちぶれた負け組の青年が、それぞれのアプローチで(それとは意図せず)接近する。二人のどちらも事件の犯人では無かった訳だが、この事件と同じ地平に二人は立っている、そんな含意を感じる。
     範宙遊泳ならではの映像使用だが、ベタの単色にゴシック文字、というパターンは、パソコンやテレビに見入っている時に近い疲労を起こさせる。単純に文字を読ませる(台詞として、また挿入詩として)効果以上に、文字面だけを見せられ、それを読む行為の中で、一人PCに向かっている感覚=孤独なんだが文字(意味)に救われている感覚=が呼び起こされる。画面はシンプルで涼しげを装っているが、書かれる文字は次第にスキャンダラスさを帯びる。「物語」としては二人の青年像が終盤で反転する具合が気持ちよく、「演劇」を観た気にさせた。
     後半の「楽しい時間」は一人であれこれやる。生への否定感情を、手を変え品を変えて延々と吐き出す。最初は肯定に転じる契機もあるかと見ているとどうも「否定」を言い立てたいようで、如何に否定すべきか、というか否定したいか、を言い換えながら繰り返している、という印象を拭えなかった。よく見れば最後は「肯定」の言葉を吐いているが、救いにならない。「波」への怨念を語る詩のような場面がある。波との結婚式での挨拶だが、津波の事を言ってるのなら、悪いのは波か。これを言って誰かが溜飲を下げるのか。やや食傷である。世の中の理不尽なあれこれに不満だから生を否定してみる、だが本当は肯定したいのだ・・という命題、これを観念図として語られるだけでは、演劇としては物足りない。生身の体が声を発する人間ドラマに行くか、もっと深められた思索の提示を試みるか、どちらかだ。
    ・・深めるとは例えば、最後に「生きたい」と言ったその言葉を疑うことなど。「生への不満」の持ち方が、浅いか疑念の余地があるため、「生きたい」がドラマティックに響いていない。「生きたくない」と言わせる事とは何か。具体的に思い起こそうとすると中々大変だ。つまり「生きたくない」とは単なる言い方で、登校拒否と同じ、人生の「積極的否定」ではない(消極的否定)。自己の否定というより、環境への否定、もしくは自分と他者、社会との関係のあり方が「こうでしかない」事への不満(否定したい欲求)だから、特段「人生」そのものの意味を疑うといった、哲学的な思索には向かわない。そこを「生」の積極的意味の議論にまで深めれば、それはそれとして、抽象的な出し物であっても見応えのあるものになるんじゃないか。
    そんな事を考えた。
    ☆‥「幼女X」3.5/「楽しい」2.0

  • 満足度★★★

    不思議感覚
    疲れました。

    ネタバレBOX

    『幼女X』  幼女強姦殺人事件を犯す人がいますが、身内にも幼女に執拗な関心を示す弟がいることが分かりましたという話。映像と文字とちょっと不思議なパフォーマンスで進行。

    変態呼ばわりすることで収まるものなのか、エスカレートするのか。性犯罪の再犯性を考えると将来が心配です。嫌われ者の親戚のおじちゃんになりますね。

    『楽しい時間』  結婚式の披露宴で、関係者が口からでまかせの挨拶をする話。

    単なる口からでまかせなので不条理劇とも異なるのですが、不条理劇を観ていると考えれば楽しめたのかもしれません。いずれにせよ、二つ合わせて100分がものすごく長く感じられました。
  • 満足度★★★★

    それから 『幼女X』と『楽しい時間』の2本立て
    と思っていたら、タイトルからして1本の作品なっていたようだ。
    切れ目がないから、1本の作品だ、というよりは、底に流れる「気分」が同じだからだろう。

    (ネタバレへ……また、長く書きすぎたか)

    ネタバレBOX

    非常に不安をかき立てられる作品だ。
    「ストーリー」を追って見ていた者としては、劇中で語られる「連続幼女強姦殺害事件」の犯人は、“いかにも”な大橋一輝さん演じる男のほうでなく、埜本幸良さん演じる男のほうじゃないか、と“あたり”をつけていた。
    なので、訪問販売で1日何件も契約を取った、ということが犯行の数と重なって見えたりしていた。

    しかし、そうではなかった。
    彼らが体現する“現代”は、実に不安と恐怖に満ちていると感じる。
    彼らの存在そのものが、“それ”であり、かつ、彼らが生まれてしまった背景にも、“それ”がある。

    この不安感は、字幕で「今、こんな世の中に生まれて来たくない」と語られる。
    「まだ準備が出来ていない」というところが、新しい。
    「こんな世の中に生まれてくるのはイヤだ」ではなくて、「まだ」ということなのだから。
    あるいは、「もっと前に生まれていればなあ」というのとも違う。
    つまり、過去が“羨ましい”というわけでもない。

    しかし、それはポジティヴな感覚ではなく、「(自分は出来る子なので)もっと勉強すればいい学校に入れた」的な、“言い訳”“言い逃れ”のような、ネガティヴ感があるのではないか。
    「準備さえしておけば、こんな世の中でも大丈夫だった」と。
    そう「だった」なのだ。

    我々は、今、この時代にすでに「産まれている」のだ。
    だから、「不安」なのだ。


    それから
    とにかく、ネガティヴの“圧”が強すぎる。
    現代の不安感は、ここまで来ているのか、と少し他人事のようになってしまうほどの“ネガティヴの圧”が強い。

    それから
    現代の不安の背景には、“情報(過多)”がある。
    今までならば知ることのなかった、事件や事故の背景や、それを取り巻くあらゆる情報が押し寄せてくる。
    例えば、犯罪者のみならず、犯罪被害者の家族や住まいや仕事や学生時代の出来事まで、知らされてしまう。
    例えば、放射能が人体に及ぼす健康被害についても、事細かに知らされてしまう。

    しかも、それらの情報の真偽の程は明らかにならないままだ。

    それから
    政治信条もヘイトともに飛び交う。

    それら情報は、ネットによるものが大多数。
    テレビや新聞などの、マスメディアはネットの後追いにすぎない。

    ネットの情報のほとんどは、“文字”だ。
    文字に追いまくられ、不安をかき立てられるのが現代の不安の構造である。
    しかも、不安になるからと言って、それを“絶つ”ことは絶対にできない。

    それらは“不安装置”でありながら、“繋がっていること確認装置”でもあるからだ。
    そして、“繋がっていること確認装置”は、そのまま“不安装置”にもなってしまう。

    舞台の上では、字幕の“文字”とあたかも会話しているように、2人の役者が演技をしている。

    まさに、「それはリアルなのか?」と問い掛けてしまうような、バーチャルな状況である。
    本当に彼らは、元カノや、姉や母と会話をしているのだろうか?

    それから
    役者という存在そのものが、肉体があるものの、“バーチャル”であるとも言える。
    したがって、観客はバーチャルと対話しているバーチャルな存在を持っているリアルな肉体を観ていることになる。
    目の前にいる姿や、発する声はリアルであるが、舞台の上の物語はバーチャルである。

    観客はここでもバーチャルに振り回されて「不安」な気分となる。

    それから
    独特の緊張感が舞台の上にある。
    非常に気持ちは悪い。

    それから
    登場する2人の男は、「何かを変えたい」と思っている。
    それは作者の希望でもあろう。
    不安な現実から、「悪いモノを取り除くこと」で「良くしたい」という願望だ。

    木槌を持って歩く男は、自らの行為を「世直し」と言い、サラリーマンの男は、自らを「白血球」と言う。
    「世直し」は“外”に向かって悪いモノを取り除こうとする行為で、パトロールのようなことをしている。対する「白血球」には“内”の害を退治する役割がある。

    彼ら2人で内外の“悪いモノ”に対峙するというわけなのだ。

    しかし、その想いとは裏腹に、彼らが、彼らの存在は現代では(いつの時代でもか)、「悪」である。

    この構造は、先に述べたネット情報とも重なってくる。
    ある種の「正義感」によって、本人は良かれと思って、ネットに書き込んだことが、人を誹謗し、中傷し、害毒を流してしまうことがあるからだ。
    2011年3月以降に、あまりにも多く見かけた“誤った情報がリツイートされる様”は、リツイートした1人ひとりは、「知らせないと!」という強い「正義感」のようなものに駆り立てられたことによることが多いのではないか。
    しかし、それは害になった。

    我々は、今それを知っている。

    2人の男の行動(考え)も、「正義感によるリツイート」と同じではないか。
    世直しも白血球も。

    それから
    木槌を持った男は、バーチャルとリアルの狭間から、テレビの中の人になり、信じられないような展開となっていく。
    つまり、バーチャルとなっていく。
    もう1人の男はそれに包まれていったのではないか。

    それから
    ここまでが、「幼女X」で、この先からテレビつながりで「楽しい時間」となっていく、と思う。

    後半は、前半でサラリーマンの男が家族を「血液」にたとえていたのを引きずっているように感じた。
    管とか線とか波とか。

    場所も時間もまったく見えない。
    結婚式の披露宴のような設定の一人芝居だ。

    それから
    言葉が滑っていく様はどこか筒井康隆の小説を思い起こさせた。
    ただし、それほど言葉の面白さや音の面白さはない。

    後半は、前半をより抽象的にしたような、不安感がある。
    ドロドロしたポエムだ。

    まるでネガティヴなポエトリーリーディングだ。

    それから
    前半のネガティヴ圧に比べると、ネガティブ感はあるものの、「圧」は感じない。
    それはなぜか?

    一人芝居の福原冠さんが、「楽しそう」だからだ。
    福原冠さんが演じる男が楽しそうなのではなく、「福原冠さんが楽しそう」なのだ。

    どこのシーンかは忘れてしまったが、身体を動かし同じ台詞を何度も繰り返していたところがあった。
    それが「あれ? これ、この役者さん、とっても気持ちいいんじゃないかな」と思ったのだ。
    自分に酔っているような、そんな姿を見た。

    つまり、「不安な現代」の「不安」を「身体を動かして、大きく発声する」ことで、吹き飛ばしているのではないかということだ。
    だから、観客は、作者が、いわば不安解消をしている様子を延々と見せられてしまった、ということではないのか。

    気持ちいいから延々とやる。
    「お腹一杯だよ」と観客が思っていても(舞台の上の役者やどこかで見ている演出家には伝わっているでしょ? 笑)気持ちいいから続けている。

    「不安は身体動かして、声出せば、なくなるよ (^_^)v ピース」なんていうメッセージではないとは思うが。

    それから
    後半部分の面白さは、マクロとミクロが繋がっていろところにある。

    どこか「神」を思わせるような“語り掛け”がありつつも、一人芝居であるという構造的な“意味”からの、極「個人的」な感覚と視点。
    地球規模サイズのような広がりと、血液のようなミクロな世界も見えて来る。
    そんなところが面白いと思うのだ。

    しかし、後半は、もう一度言うが、「お腹一杯」である。

    それから
    字幕の多用やチェルフィッチュみたいな動きのある台詞(サラリーマン男)とか、特にどうとか思わないが、「即時性」として、「生煮え」のような作品を、「今、これなんですよ、私は」と見せることには意味があると思う。
    「答え」はないので、「ないよ」と言うことだけでなく、「わかりませんけど、こうなんです」と言うことも、アリなのではないかと思ったのであった。

    観客としては「いや、まあ、どうなんですかねー」ぐらいしか言えないけど。
  • 満足度★★★

    いまだ中二病者の私は身につまされっ放しでした/約95分
    『幼女X』と『楽しい時間』の二本立て公演。両作とも私は初見。
    『幼女X』は表現こそ洗練されているものの、内容はドロッドロのルサンチマンを抱えたまま成長した青年二人の寄る辺ない生を描いた中二病演劇。
    大人になっても中二病が癒えきらない身としては彼らの気持ちが痛いほどよく分かって、鑑賞している間じゅう、身につまされっ放しでした。
    これが面白かった反面、『楽しい時間』は観念的で取っつきづらい一作。こちらは楽しみづらかった。

    ネタバレBOX

    最も印象深いのは、“敵を探し続ける男”が息絶える『幼女X』のワンシーン。
    死に場所となる“血の海”が綺麗に描写されているために男の死までが美化されていて、“嗚呼、彼は浮かばれた。成仏した…”と救われたような気分になった。
  • 満足度★★★

    準備
    面白い。100分。

    ネタバレBOX

    「幼女X」
    変な髪型の弟(埜本幸良)と、精神的に起伏のある姉、その娘(幼女)、後々癌が見つかる母が新宿御苑で遊んで、徒歩20分程度の高層マンションで金持ちな姉の夫と飯を食べる。その帰りに母が倒れ、弟は夫のポルスケ(ポルシェ)に傷をつけ、娘のパンツを咥えてオナニーする。
    姉の元彼で敵を探し彷徨っている男(大橋一輝)と姉らが御苑で会って、(弟が遅れたせいで)一緒に飯を食べる。結局敵が出ないから学校を覗いて女先生に握手してもらえないし、バイトは首になる。連続幼女強姦魔逮捕の場面に居合わせ、強姦魔に金槌で襲い掛かるも警官らに取り押さえられ、果ては自身の頭をハンマーでボコり死ぬ。

    序盤の生まれる準備が出来てないという赤ちゃんの叫びという映像導入が上手い。根底から不安が付きまとう感じ。敵を探してた男の、社会不適合な性質とその母に宛てた手紙という構成がいい。
    一転、ややハイテンションな腋臭を気にしちゃう弟が、玉の輿にのった姉(とその夫のオーラ)に戸惑い、わけもわからず、娘への性癖も込みで奇行(変態プレイ)に走っちゃう感は、なんとも言えなくなる。
    両方とも、現代的な病みという気持ち悪さが生々しい。
    時に姉らの言葉を映すという映像の使い方も面白い。セリフを聞かせるのでなく読ませるのは、(客の持つ)気持ちを増幅させてくれるのかなと。

    「楽しい時間」
    正直眠くて仕方なかった。
  • 満足度★★★★★

    身体表現パフォーマンス映像ショー
    幼女Xは、スクリーンに映し出される文字(背景もあり)をたどりながら、負担の出演者が身体表現パフォーマンスをしながら、なぜ、こういう事件に巻き込みながらも、現代の演劇から、近未来への演劇へと模索しながら異次元の表現さが光ったし、楽しい時間は、一人芝居の進化型パフォーマンスショーという感覚で、言葉と身体表現さがすばらしかった、100分でした。

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