満足度★★★★★
東京と言葉に直接向き合った切実さ
初演も「幼女Xの人生で一番楽しい数時間」という形で上演されていて(@新宿眼科画廊、2012)、初演を観た私としては「幼女X」は2部構成の1部であって、前半だけだと片落ちな感があります。
「幼女X」だけだと物語や世界感だけを追いがちになるのですが、「楽しい時間」とセットで考えることで、山本卓卓さんが書いてるのは世界感や物語、ましてや映像を使った「メディアミックス」的な「演出」ではなく、「言葉」と「人間関係」のずれ、違和感、ディスコミュニケーション、それでも言葉やコンテクストに依存しなければ人と触れ合う事ができない人間としての根源的な焦燥感のような物な気がしました。
そのため、「楽しい時間」という言葉と時間と関係が繋がらない、しかし伝えようという努力は決して止めることが出来ない、という作品が一緒だと見えやすい、と思いました。
「幼女X」に関してはアジア情勢が一気に変化する中でのアジア滞在制作を経て、東京・日本語に対峙せざるを得ないという切実さを強く感じます。
アジアだけでなく日本国内、地域の中でも震災後物凄いスピードで分断が進行していて、世代間だけでなく所得差や地域差、信条で大きく言葉も分断されて、同世代でさえ言葉が通じない・・と感じることが多くなりました。その哀しさ、しんどさ、絶望感の中で、それでも、コミュニケーションを取ろうとする意志、希望を感じる(信じる)作品だと受け取りました。
言葉を使ってコミュニケーションをとる人間である以上、誰もが無縁ではないはずなのですが、この分断に対して、切実感のある人とない人で受け取り方が分かれるだろう、と感じた作品でした。
満足度★★★
映像の範宙
芸劇で観た作品は「意表を突かなさ」に疲れ、昨年のアゴラでの作品は覚えていない(興味深く見れる場面もあった程度)。今回も実はあまり期待せずに(失礼だが)足を運んだ。
「幼女X」は自信を持って送る(?)再演だけあってテーマとストーリーが分かり易く入ってきた。「幼女連続殺人事件」がブラックボックスのように置かれていて、不可解の領域に、2人の落ちぶれた負け組の青年が、それぞれのアプローチで(それとは意図せず)接近する。二人のどちらも事件の犯人では無かった訳だが、この事件と同じ地平に二人は立っている、そんな含意を感じる。
範宙遊泳ならではの映像使用だが、ベタの単色にゴシック文字、というパターンは、パソコンやテレビに見入っている時に近い疲労を起こさせる。単純に文字を読ませる(台詞として、また挿入詩として)効果以上に、文字面だけを見せられ、それを読む行為の中で、一人PCに向かっている感覚=孤独なんだが文字(意味)に救われている感覚=が呼び起こされる。画面はシンプルで涼しげを装っているが、書かれる文字は次第にスキャンダラスさを帯びる。「物語」としては二人の青年像が終盤で反転する具合が気持ちよく、「演劇」を観た気にさせた。
後半の「楽しい時間」は一人であれこれやる。生への否定感情を、手を変え品を変えて延々と吐き出す。最初は肯定に転じる契機もあるかと見ているとどうも「否定」を言い立てたいようで、如何に否定すべきか、というか否定したいか、を言い換えながら繰り返している、という印象を拭えなかった。よく見れば最後は「肯定」の言葉を吐いているが、救いにならない。「波」への怨念を語る詩のような場面がある。波との結婚式での挨拶だが、津波の事を言ってるのなら、悪いのは波か。これを言って誰かが溜飲を下げるのか。やや食傷である。世の中の理不尽なあれこれに不満だから生を否定してみる、だが本当は肯定したいのだ・・という命題、これを観念図として語られるだけでは、演劇としては物足りない。生身の体が声を発する人間ドラマに行くか、もっと深められた思索の提示を試みるか、どちらかだ。
・・深めるとは例えば、最後に「生きたい」と言ったその言葉を疑うことなど。「生への不満」の持ち方が、浅いか疑念の余地があるため、「生きたい」がドラマティックに響いていない。「生きたくない」と言わせる事とは何か。具体的に思い起こそうとすると中々大変だ。つまり「生きたくない」とは単なる言い方で、登校拒否と同じ、人生の「積極的否定」ではない(消極的否定)。自己の否定というより、環境への否定、もしくは自分と他者、社会との関係のあり方が「こうでしかない」事への不満(否定したい欲求)だから、特段「人生」そのものの意味を疑うといった、哲学的な思索には向かわない。そこを「生」の積極的意味の議論にまで深めれば、それはそれとして、抽象的な出し物であっても見応えのあるものになるんじゃないか。
そんな事を考えた。
☆‥「幼女X」3.5/「楽しい」2.0
満足度★★★★
それから 『幼女X』と『楽しい時間』の2本立て
と思っていたら、タイトルからして1本の作品なっていたようだ。
切れ目がないから、1本の作品だ、というよりは、底に流れる「気分」が同じだからだろう。
(ネタバレへ……また、長く書きすぎたか)
満足度★★★
いまだ中二病者の私は身につまされっ放しでした/約95分
『幼女X』と『楽しい時間』の二本立て公演。両作とも私は初見。
『幼女X』は表現こそ洗練されているものの、内容はドロッドロのルサンチマンを抱えたまま成長した青年二人の寄る辺ない生を描いた中二病演劇。
大人になっても中二病が癒えきらない身としては彼らの気持ちが痛いほどよく分かって、鑑賞している間じゅう、身につまされっ放しでした。
これが面白かった反面、『楽しい時間』は観念的で取っつきづらい一作。こちらは楽しみづらかった。
満足度★★★★★
身体表現パフォーマンス映像ショー
幼女Xは、スクリーンに映し出される文字(背景もあり)をたどりながら、負担の出演者が身体表現パフォーマンスをしながら、なぜ、こういう事件に巻き込みながらも、現代の演劇から、近未来への演劇へと模索しながら異次元の表現さが光ったし、楽しい時間は、一人芝居の進化型パフォーマンスショーという感覚で、言葉と身体表現さがすばらしかった、100分でした。