幼女Xの人生で一番楽しい数時間 公演情報 範宙遊泳「幼女Xの人生で一番楽しい数時間」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    それから 『幼女X』と『楽しい時間』の2本立て
    と思っていたら、タイトルからして1本の作品なっていたようだ。
    切れ目がないから、1本の作品だ、というよりは、底に流れる「気分」が同じだからだろう。

    (ネタバレへ……また、長く書きすぎたか)

    ネタバレBOX

    非常に不安をかき立てられる作品だ。
    「ストーリー」を追って見ていた者としては、劇中で語られる「連続幼女強姦殺害事件」の犯人は、“いかにも”な大橋一輝さん演じる男のほうでなく、埜本幸良さん演じる男のほうじゃないか、と“あたり”をつけていた。
    なので、訪問販売で1日何件も契約を取った、ということが犯行の数と重なって見えたりしていた。

    しかし、そうではなかった。
    彼らが体現する“現代”は、実に不安と恐怖に満ちていると感じる。
    彼らの存在そのものが、“それ”であり、かつ、彼らが生まれてしまった背景にも、“それ”がある。

    この不安感は、字幕で「今、こんな世の中に生まれて来たくない」と語られる。
    「まだ準備が出来ていない」というところが、新しい。
    「こんな世の中に生まれてくるのはイヤだ」ではなくて、「まだ」ということなのだから。
    あるいは、「もっと前に生まれていればなあ」というのとも違う。
    つまり、過去が“羨ましい”というわけでもない。

    しかし、それはポジティヴな感覚ではなく、「(自分は出来る子なので)もっと勉強すればいい学校に入れた」的な、“言い訳”“言い逃れ”のような、ネガティヴ感があるのではないか。
    「準備さえしておけば、こんな世の中でも大丈夫だった」と。
    そう「だった」なのだ。

    我々は、今、この時代にすでに「産まれている」のだ。
    だから、「不安」なのだ。


    それから
    とにかく、ネガティヴの“圧”が強すぎる。
    現代の不安感は、ここまで来ているのか、と少し他人事のようになってしまうほどの“ネガティヴの圧”が強い。

    それから
    現代の不安の背景には、“情報(過多)”がある。
    今までならば知ることのなかった、事件や事故の背景や、それを取り巻くあらゆる情報が押し寄せてくる。
    例えば、犯罪者のみならず、犯罪被害者の家族や住まいや仕事や学生時代の出来事まで、知らされてしまう。
    例えば、放射能が人体に及ぼす健康被害についても、事細かに知らされてしまう。

    しかも、それらの情報の真偽の程は明らかにならないままだ。

    それから
    政治信条もヘイトともに飛び交う。

    それら情報は、ネットによるものが大多数。
    テレビや新聞などの、マスメディアはネットの後追いにすぎない。

    ネットの情報のほとんどは、“文字”だ。
    文字に追いまくられ、不安をかき立てられるのが現代の不安の構造である。
    しかも、不安になるからと言って、それを“絶つ”ことは絶対にできない。

    それらは“不安装置”でありながら、“繋がっていること確認装置”でもあるからだ。
    そして、“繋がっていること確認装置”は、そのまま“不安装置”にもなってしまう。

    舞台の上では、字幕の“文字”とあたかも会話しているように、2人の役者が演技をしている。

    まさに、「それはリアルなのか?」と問い掛けてしまうような、バーチャルな状況である。
    本当に彼らは、元カノや、姉や母と会話をしているのだろうか?

    それから
    役者という存在そのものが、肉体があるものの、“バーチャル”であるとも言える。
    したがって、観客はバーチャルと対話しているバーチャルな存在を持っているリアルな肉体を観ていることになる。
    目の前にいる姿や、発する声はリアルであるが、舞台の上の物語はバーチャルである。

    観客はここでもバーチャルに振り回されて「不安」な気分となる。

    それから
    独特の緊張感が舞台の上にある。
    非常に気持ちは悪い。

    それから
    登場する2人の男は、「何かを変えたい」と思っている。
    それは作者の希望でもあろう。
    不安な現実から、「悪いモノを取り除くこと」で「良くしたい」という願望だ。

    木槌を持って歩く男は、自らの行為を「世直し」と言い、サラリーマンの男は、自らを「白血球」と言う。
    「世直し」は“外”に向かって悪いモノを取り除こうとする行為で、パトロールのようなことをしている。対する「白血球」には“内”の害を退治する役割がある。

    彼ら2人で内外の“悪いモノ”に対峙するというわけなのだ。

    しかし、その想いとは裏腹に、彼らが、彼らの存在は現代では(いつの時代でもか)、「悪」である。

    この構造は、先に述べたネット情報とも重なってくる。
    ある種の「正義感」によって、本人は良かれと思って、ネットに書き込んだことが、人を誹謗し、中傷し、害毒を流してしまうことがあるからだ。
    2011年3月以降に、あまりにも多く見かけた“誤った情報がリツイートされる様”は、リツイートした1人ひとりは、「知らせないと!」という強い「正義感」のようなものに駆り立てられたことによることが多いのではないか。
    しかし、それは害になった。

    我々は、今それを知っている。

    2人の男の行動(考え)も、「正義感によるリツイート」と同じではないか。
    世直しも白血球も。

    それから
    木槌を持った男は、バーチャルとリアルの狭間から、テレビの中の人になり、信じられないような展開となっていく。
    つまり、バーチャルとなっていく。
    もう1人の男はそれに包まれていったのではないか。

    それから
    ここまでが、「幼女X」で、この先からテレビつながりで「楽しい時間」となっていく、と思う。

    後半は、前半でサラリーマンの男が家族を「血液」にたとえていたのを引きずっているように感じた。
    管とか線とか波とか。

    場所も時間もまったく見えない。
    結婚式の披露宴のような設定の一人芝居だ。

    それから
    言葉が滑っていく様はどこか筒井康隆の小説を思い起こさせた。
    ただし、それほど言葉の面白さや音の面白さはない。

    後半は、前半をより抽象的にしたような、不安感がある。
    ドロドロしたポエムだ。

    まるでネガティヴなポエトリーリーディングだ。

    それから
    前半のネガティヴ圧に比べると、ネガティブ感はあるものの、「圧」は感じない。
    それはなぜか?

    一人芝居の福原冠さんが、「楽しそう」だからだ。
    福原冠さんが演じる男が楽しそうなのではなく、「福原冠さんが楽しそう」なのだ。

    どこのシーンかは忘れてしまったが、身体を動かし同じ台詞を何度も繰り返していたところがあった。
    それが「あれ? これ、この役者さん、とっても気持ちいいんじゃないかな」と思ったのだ。
    自分に酔っているような、そんな姿を見た。

    つまり、「不安な現代」の「不安」を「身体を動かして、大きく発声する」ことで、吹き飛ばしているのではないかということだ。
    だから、観客は、作者が、いわば不安解消をしている様子を延々と見せられてしまった、ということではないのか。

    気持ちいいから延々とやる。
    「お腹一杯だよ」と観客が思っていても(舞台の上の役者やどこかで見ている演出家には伝わっているでしょ? 笑)気持ちいいから続けている。

    「不安は身体動かして、声出せば、なくなるよ (^_^)v ピース」なんていうメッセージではないとは思うが。

    それから
    後半部分の面白さは、マクロとミクロが繋がっていろところにある。

    どこか「神」を思わせるような“語り掛け”がありつつも、一人芝居であるという構造的な“意味”からの、極「個人的」な感覚と視点。
    地球規模サイズのような広がりと、血液のようなミクロな世界も見えて来る。
    そんなところが面白いと思うのだ。

    しかし、後半は、もう一度言うが、「お腹一杯」である。

    それから
    字幕の多用やチェルフィッチュみたいな動きのある台詞(サラリーマン男)とか、特にどうとか思わないが、「即時性」として、「生煮え」のような作品を、「今、これなんですよ、私は」と見せることには意味があると思う。
    「答え」はないので、「ないよ」と言うことだけでなく、「わかりませんけど、こうなんです」と言うことも、アリなのではないかと思ったのであった。

    観客としては「いや、まあ、どうなんですかねー」ぐらいしか言えないけど。

    0

    2015/09/04 07:34

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大