満足度★★
文学的?
キャストの多くが赤い鼻のついた黒縁めがねをかけての演技で、とにかくそれが気になった。私は小劇場は「役者の表情」の芝居が堪能できるところが魅力だと思っているので。
野口オリジナル君はとてもよかった、彼の演技だけは期待以上。
満足度★★★★
無題1379(15-027)
19:00の回(曇、雨)、18:28会場着受付(整理番号あり)、18:34開場。
(膝高)舞台上には「かかし」が不安定ながらも立っている。ベンチシート2列と椅子席。
19:01前説(90分)、19:08開演~20:29終演、アフタートーク20:42~20:55。
「Ⅰ(2013/4@画廊)」を観ているのですが、このときは二人芝居。「aji」は「こあじVol.1(2013/9画廊)」以来。「幸福の王子」は未読ながら他の劇団で観ていて、「正義の人びと」は初めて。
黒縁メガネと赤鼻は一度観ているし、口調は前回と同様。なので、突然の違和感などはありませんでした。もちろんお約束の「青い液体」もあり。
「幸福の王子」はかなり違った印象、カラスかと思った。「正義の人びと」は未読だからなのでしょう、(思い違い込みでも)かなり面白いものでした(実際のテロがどうの...という切り口とは別に)。
王冠(?)は英字新聞、北國新聞(?)。テロリスト=白系、つばめ=黒。「7番」のピアノ演奏は初めて。
ベンチシート席が椅子席より一列の人数が多いのは辛い。
満足度★★★★
海外文学二作品を巧みに編集した佳作/90分強
カミュ『正義の人びと』とワイルド『幸福な王子』。この二作を原作とし、「正義と幸福」に真っ向から迫った舞台作品。
両作を90分でやりきるのは無理なので、どちらもかいつまんであるのだが、話の編集がとても上手く、骨子をきちんと押さえてあるため、原作を知らなくともおそらく理解は可能なはず。
思わぬ趣向を取り入れ、さらに音楽と照明を効果的に用いた演出も素晴らしく、「正義と幸福」を主題とする大真面目な作品にもかかわらず、面白く鑑賞できた。
それでも、我々に身近でない「革命」を扱った『正義の人びと』を軸に劇が進むため取っつきづらいところもあり、眠気を誘われやすいのも事実。
今作のテーマを伝えるため、そして眠気を覚ますため(?)随所で「語り部」が登場し、マイクを使って軽快に喋るのだが、いかんせん言うことが分かりづらく、かえって眠気を促す結果になっていたのは残念至極。
ただし、眠気を誘う内容でも良作は良作。
本作を含め、出来がいいのに眠気を誘う演劇作品は少なからず存在する。
印象に残った俳優は『幸福な王子』でツバメを演じた若手女優。情感あふれる豊かな演技に魅きつけられた。
満足度★★★
どこから出発しているのか
WS(ワークショップ)は人を当事者にする有効な仕掛け。たまさかある題材を出発点に、人々が互いを発見し、議論を深め、案を出し合って結論を導き出す。演劇WSなら、作品を作る。参加と主体性、対等性が重んじられる価値で、テーマや題材が先行する。・・若干そんな雰囲気のするパフォーマンスだった。
『幸福の王子』と『正義の人々』のテキストをそれぞれ残して紹介もしながら、二つが混在したり、影響しあって場面が重ねられる。この2つの作品の接触による化学反応はしかし、設定した段階で既に一定の結論が見通されており、着想を出発点とすれば、着地点に意外性は感じられない。『正義の人々』の活動家たちによって順繰りに吐かれる台詞が全体として赴く結論は、人のためを思ってテロをする自分たちの正義は果たして正義か、という自問。従ってそれは反語的疑問となる。「本当に正しい事なの」と、これっぽちの結論を導き出す事のために書かれた台詞らしいと感じとるせいなのか、睡魔が何度も襲ってきた。(その結論を歓迎する向きには、共感で聞けたのかも知れぬが。)
カミュの時代と言えばアルジェリアの仏からの独立闘争、植民地からの独立という疑問を挟み得ない「正義」が大前提としてあり、この歴史事実を背景画として「正義のために人を殺す事」をめぐる話をカミュは書いたのだろう、と普通に考える(詳しくないので認識違いはご容赦)。転じて今、テロと聞いて間違いなく想起されるアラブの状況を見れば、中東全体が欧米の半植民地状態(傀儡政権をうまく擁してきた)と言えないのかという事がある。
この日のアフタートークには役者が勢揃いし、客席との質疑応答となったが、印象に残ったのは、二人の俳優の口から「我々は暇をこじらせて演劇をやる。ある人たちも暇をこじらせてテロをやっている」という対照が吐露された事だ。彼らの製作過程で出てきた独自のものなのか、割と世間で出回っている言い方なのか知らないが、テロが生まれる背景を捨象して、何を選んでも良い条件でテロを選ぶ人がいる、つまりテロをやるかやらないかは「趣味趣向」の問題だ(煎じ詰めればそうなりましょう?)と、つるりと言ってしまう感覚には正直驚いた。真顔で、悪びれず、かといって断罪的にでもなく(寛容ささえ浮かべて)、若者は言うのである。
この事が強く脳裏に残ってしまったのだが、舞台の印象は必ずしも悪い事ばかりでは勿論ない。演技モードのチェンジのメリハリだったり、集団での踊りやムーブ、照明・音響も駆使して飽きさせない場面転換、位相の転換など演者の力量、演出アイデアによって緊張感は持続し(「言葉」に対する睡気を除けば)最後まで追えた。
ただムーブメントにしても、言葉が描き出す世界に対応するものであって、言葉の次元の「深め切れなさ」は必然に反映して、身体のキレはよいがいわゆる「感動」のレベルには届かなかった。
時代に「売り込む」演劇でなく、「切り込む」演劇を。なぜなら、時代は次第に誤りつつあるから。
満足度★
こういう形のものでしか食べていけない演劇というコンテンツ
私は途中で席を立った数少ない「観客」の一人だと思います。作品内容がどうこうという問題ではありません、このような形で上演するように、このような形とはどのような形なのかと問われれば「ありそうに無い物で心を満たしていく、人生を満たしていく価値」について無頓着な人々が喜ぶような、、価値ありと言うような、そんな人々を観客と想定して上演を行わなくては生きていけない、金を稼げないという形でしか生きていけない劇団ajiを含む諸々の劇団を哀れと思っていますし、そのような、人に媚びるような人々を賞賛してしまう観客たちが、観客たちの観劇態度が、問題だと思わされた作品でした。彼らは利賀村のコンクールで賞をもらいましたが、人様に与えられることに頼りすぎて、コンクールの後にも関わらず、自分たちの基準ではなくて、人様の基準で喜ばれる物を作ることを、何か、プロ意識として与えられて縛られているのじゃないかと感じました。
ありそうに無い物で心を満たしていくことは、私たちが人間として生きていく為に必要なことであると感じています。ユニコーンという動物は、飼い馴らしのきかない、凶暴な動物であったのでノアの箱船に乗船を拒否されました。こりっちでよく見かける、あー楽しかったねーで簡単に終わる角の立たない、飼いならされた動物を好むような、そんなコメントに心痛めていますし、あなた方が芸術だ美だと、そういう言葉を好むのであれば、家畜の内に秘められた美しさを愛でるのは当然のこととしても、ユニコーンを締め出すようなことをすべきではありません。
あなた方が単純に、自分が金を出した分「楽しませてくれよな」などと傲慢な考え方を持っているのであれば、あなた方はなんと卑しいことか!!
劇団ajiはあのような演劇を作ることしか許されなかったのではないかと思いますが、私は1時間しか観ていないのでどこかで反抗があったのかもしれません。