2013年・蒼白の少年少女たちによる「オイディプス王」 公演情報 2013年・蒼白の少年少女たちによる「オイディプス王」」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
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  • 満足度★★★★★

    両ver.観劇。
    川口覚くんと小久保寿人くんがオイディプスとクレオンを演じたそれぞれの回を観ました。川口くんのファンとしてはいつ役が変わるかと開幕前までヒヤヒヤしていましたが、いざ開演してしまうと何でそんな心配をしてたのだろうと思うほど圧倒的な演技。しなやかな体躯から繰り出す重厚かつ繊細なセリフ回しは、同世代の役者さんの追随を全く許しません。オイディプスとクレオンの演技の振り幅も尋常じゃなく、逆に脇役で実力を確認できたのも良かったかなぁなんて思ったり。でもご本人はやはり主演が良いのですよね。さいたまネクスト・シアターという若手ながらも実力派揃いのこの劇団、一枚看板では良くないのかもしれないと思いつつ、やっぱり川口くんの主演が観たい。そして周本さん白川さんもとっても良かった、コロスひとりひとりも全員魂がこもってました。ちなみに演出は蜷川入院のため、途中から演出助手の方にバトンタッチ。だからから、綺麗すぎて綺麗すぎて、蜷川さん独特のフェティッシュ感は薄れてました。しかし黒装束の川口くんのセクシー度は半端じゃないです。

    ネタバレBOX

    1回目は小久保くんのオイディプスでしたので、川口くんのオイディプスでは間近で観るために早めに席を確保。結果、すぐ隣(手を出せばすぐ繋げるくらい隣(笑))で立ち止まって演技をしている率の高さが異常。そして川口くんが駆け抜けるとフローラルの良い香りがふわぁーーーっと。幸せでした 笑

    それにしても去年のハムレットは素晴らしかった・・・。蜷川さんの読売演劇大賞受賞も納得です。
  • 満足度★★★★★

    オイディップスとは誰か?
    ラストシーンで涙が溢れた。
    それは普段作品を観て流す涙とは少し違うものだった。
    「オイディップス王」を見ながら、その陰にある別のものを観ていたのかもしれない。
    残像のように見え隠れする、この時代の断層とでも呼ぶべきものを。

    父を殺し、自らの眼を潰したオイディップスとは誰なのか?

    作品評として、過剰に寓意的に解釈するのは控えるべきだと思っているが、
    この舞台に関しては、例外的にそういう読みをしてしまった。

    古典であり、ストーリーも有名な作品を、
    蜷川幸雄氏が、なぜ、敢えて「ネクスト・シアター」で上演するのか、
    ということを考えながら観てしまったからかもしれない。

    私がネクスト・シアターを観るのは初めてだが、
    以前、TVでネクスト・シアターによる第一回公演『真田風雲録』の
    稽古から本番までを記録したドキュメンタリー番組を観たことがあり、
    その映像の中で、蜷川氏は、なぜ有名ではない若者とやるのか、なぜ『真田風雲録』なのかということを、熱く語っていた。
    若い役者たちに、「今の時代に対する憤りや反感などのエネルギーをそのまま舞台にぶつけろ」という主旨のことを言っていた。
    おそらく、蜷川氏は、商業演劇に移る前に、小劇場で社会への批評性の強い劇団「現代人劇場」や「櫻社」をやっていた頃の自分や仲間が持っていた想いを、
    ネクストシアターに集う若者に託そうとしているのではないだろうか。
    そして、もう一度、あの眼を、若者が、そして蜷川氏自身が取り戻そうとしているのではないだろうか。

    そう考えながら観ると、
    オイディップスとは日本という主体のことなのではないかとも思えてくる。
    ならば、オイディップスが自ら眼を潰すのは1973年頃のことか。
    蜷川氏が櫻社を解散した1973(74?)年。その前年、1972年の浅間山荘事件としてもよい。
    いずれにせよ、政治の季節の終焉。
    誰もが、政治や社会に無関心になる。眼をつぶるようになる。

    いや、この年は、父ラーイオスを殺した年であり、
    オイディップスがその悪夢のような運命を自覚し、自らの眼を潰すのは、
    今現在のことなのではないか。

    よく考えてみると、オイディップス自身には何の落ち度もない。
    悪いことをした罰という訳ではないのだ。
    その運命の中で、その役を与えられたに過ぎない。
    今の社会構造だってそうだ。
    個々人に何の責任がない問題でさえも、個々人にその運命が忍び寄るということはありえる。



    解釈は無数に開かれる。そこに回答はない。
    1945年は?東京裁判は?

    資本主義そのものをオイディプスと捉えることもできるかもしれない。
    バブルの崩壊は? 9.11は? リーマンショックは?


    オウム真理教事件は?

    原発事故は?



    この作品には私の友人が出ていた。
    友人と言っても、私が不義理をして、長く連絡をとっていなかった。

    ラストシーンで、彼が僕の前に立っていた。

    その生身の本気さに圧倒された。

    理屈っぽい文章を書き、インテリぶっている自分が恥ずかしくなった。

    勿論、彼だけではない。出演者の皆が、本気だった。
    大きな役を与えられている人だけではなく、
    舞台に立っている1人1人が本気だった。
    そして、そのエネルギーが集まった時の熱気はすごいものがあった。

    「オイディップス王」を一つの寓話として捉え、仮に、1973年をオイディップスが自ら眼を潰した年だと仮定した場合、そこで見えなくなってしまったのは、政治性という以上に、この真剣さなのではないだろうか。

    もう長いこと、真剣であることや、生真面目であることは、カッコ悪い・ダサいと思われてきた。

    そんな時代に、蜷川氏が、そしてこの舞台の出演者たちが投げかけてきているのは、
    真剣さ、熱さだと捉えることもできる。

    なんだかんだ、理屈っぽく、長い文章を書いたが、
    結局、僕がこの舞台で涙を流したのは、出演者の真剣さと熱さ、それに圧倒されたからに他ならない。

  • 満足度★★★

    シンプルでエネルギッシュ
    オイディプス王の呪われた運命をストレートで熱い演技で描き、強烈なエネルギーが感じられました。

    ほとんどのシーンが絶叫調な台詞回しだったり、メインキャラクターの台詞に反応するコロスの動きが過剰だったり、効果音・音楽の使い方が説明的だったりと個人的に好みではない表現が多かったのですが、セットや舞台機構を用いたこけ脅し的な趣向や、スター役者の客演に頼らず、何もない空間の中で劇団のメンバー達の演技だけで冗長さを感じさせずにドラマを進めていたのが魅力的でした。

    ロングコートに旅行鞄を持った姿で舞台の遥か奥の暗闇からゆっくりと手前に歩いて来るプロローグ的なシーンは、とても美しかったものの、本編との関連において必要性が感じられませんでした。
    その後に続く、舞台中央に胎児のようなポーズで寝そべってゆっくり動く姿が、後に自ら目を潰し、のたうち回るオイディプスの姿と重ね合わされていて印象的でした。

    ボロボロの衣装で、布でくるんだ遺体(?)背負ったコロスはメインキャラクター達以上に感情を露にして演じ、感情が高まるシーンでは叫びながら全員で三味線を掻き鳴らしていたのがインパクトがありました。

    稽古期間中に蜷川さんが入院したため演出補の井上尊晶さんが演出を引き継いだ旨が当日パンフに書いてありましたが、蜷川さんも客席で観ていて、体調が回復している様子だったので良かったです。

  • 満足度★★★★

    小久保オイディプス王/川口クレオン 回
    蜷川さん、狭心症で1/24に入院されて演出補の井上尊晶さんへ引き継ぎの注意事項の説明有り。しかし、随所に蜷川さんテイストがほとばしっていた。蜷川さーん、お大事に!
    ネクスト・シアターではおなじみの、大ホール内に常設されたインサイド・シアターでの公演。「コ」の字方の三方囲み舞台で、舞台全体を楽しむなら両サイドかな、中央部の階段は頻繁に王様達の花道。
    オイディプス王とクレオンは小久保寿人さんと川口覚さんのダブルキャスト。

    情熱的な小久保オイディプス王に対し、クールに見えるが血の通った川口クレオン。二人の距離から見える関係と覚悟、娘達への吐露に思わずホロリときそうになる。ああ、両方見たい!
    そいでもって、この手の作品の予言者って余計な事言い過ぎ、ってツッコミをいれたら話が成立せんか。コロスほぼ出ずっぱり、熱を発するような一言一言と行動がエネルギッシュ。セットが無くても充分舞台成立する空間。
    最後の日まで声が届きますように。いい舞台でした。
    約2時間。

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