満足度★★★★★
オイディップスとは誰か?
ラストシーンで涙が溢れた。
それは普段作品を観て流す涙とは少し違うものだった。
「オイディップス王」を見ながら、その陰にある別のものを観ていたのかもしれない。
残像のように見え隠れする、この時代の断層とでも呼ぶべきものを。
父を殺し、自らの眼を潰したオイディップスとは誰なのか?
作品評として、過剰に寓意的に解釈するのは控えるべきだと思っているが、
この舞台に関しては、例外的にそういう読みをしてしまった。
古典であり、ストーリーも有名な作品を、
蜷川幸雄氏が、なぜ、敢えて「ネクスト・シアター」で上演するのか、
ということを考えながら観てしまったからかもしれない。
私がネクスト・シアターを観るのは初めてだが、
以前、TVでネクスト・シアターによる第一回公演『真田風雲録』の
稽古から本番までを記録したドキュメンタリー番組を観たことがあり、
その映像の中で、蜷川氏は、なぜ有名ではない若者とやるのか、なぜ『真田風雲録』なのかということを、熱く語っていた。
若い役者たちに、「今の時代に対する憤りや反感などのエネルギーをそのまま舞台にぶつけろ」という主旨のことを言っていた。
おそらく、蜷川氏は、商業演劇に移る前に、小劇場で社会への批評性の強い劇団「現代人劇場」や「櫻社」をやっていた頃の自分や仲間が持っていた想いを、
ネクストシアターに集う若者に託そうとしているのではないだろうか。
そして、もう一度、あの眼を、若者が、そして蜷川氏自身が取り戻そうとしているのではないだろうか。
そう考えながら観ると、
オイディップスとは日本という主体のことなのではないかとも思えてくる。
ならば、オイディップスが自ら眼を潰すのは1973年頃のことか。
蜷川氏が櫻社を解散した1973(74?)年。その前年、1972年の浅間山荘事件としてもよい。
いずれにせよ、政治の季節の終焉。
誰もが、政治や社会に無関心になる。眼をつぶるようになる。
いや、この年は、父ラーイオスを殺した年であり、
オイディップスがその悪夢のような運命を自覚し、自らの眼を潰すのは、
今現在のことなのではないか。
よく考えてみると、オイディップス自身には何の落ち度もない。
悪いことをした罰という訳ではないのだ。
その運命の中で、その役を与えられたに過ぎない。
今の社会構造だってそうだ。
個々人に何の責任がない問題でさえも、個々人にその運命が忍び寄るということはありえる。
解釈は無数に開かれる。そこに回答はない。
1945年は?東京裁判は?
資本主義そのものをオイディプスと捉えることもできるかもしれない。
バブルの崩壊は? 9.11は? リーマンショックは?
オウム真理教事件は?
原発事故は?
この作品には私の友人が出ていた。
友人と言っても、私が不義理をして、長く連絡をとっていなかった。
ラストシーンで、彼が僕の前に立っていた。
その生身の本気さに圧倒された。
理屈っぽい文章を書き、インテリぶっている自分が恥ずかしくなった。
勿論、彼だけではない。出演者の皆が、本気だった。
大きな役を与えられている人だけではなく、
舞台に立っている1人1人が本気だった。
そして、そのエネルギーが集まった時の熱気はすごいものがあった。
「オイディップス王」を一つの寓話として捉え、仮に、1973年をオイディップスが自ら眼を潰した年だと仮定した場合、そこで見えなくなってしまったのは、政治性という以上に、この真剣さなのではないだろうか。
もう長いこと、真剣であることや、生真面目であることは、カッコ悪い・ダサいと思われてきた。
そんな時代に、蜷川氏が、そしてこの舞台の出演者たちが投げかけてきているのは、
真剣さ、熱さだと捉えることもできる。
なんだかんだ、理屈っぽく、長い文章を書いたが、
結局、僕がこの舞台で涙を流したのは、出演者の真剣さと熱さ、それに圧倒されたからに他ならない。