テトラポット 公演情報 テトラポット」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.3
1-8件 / 8件中
  • 確か初日
    確か初日にみたように記憶している。
    構えのいい世界観を据えての展開に引き込まれた。

    スタッフワークも充実していて、本格的な小劇場作品になっていた。

    いい芝居だった。

  • 満足度★★★★

    激烈な発想、鮮烈な舞台
    大きな時空を重層的に構成していて叙情性も高い、柴幸男らしい発想に満ちていて鮮烈な印象の舞台ではある。
    ただ若干の切れ味の悪さが残るのは、どうやら俳優へのあて書きが影響しているようだ。

    詳細は、演劇感想サイト「福岡演劇の今」に書いています。
    http://f-e-now.ciao.jp/20120210.html

  • 満足度★★★

    インパクトがあった。
    キッカケ多すぎ~
    どこにハケてるの~
    というインパクトが大きすぎて、作品そのものを冷静にどうだったか語れないような気がする。

    2,3回観たら、何かいえるかも。
    1回では無理でした。
    好き嫌いだけなら、好きな話でした。

    途中(それも序盤)でダレて、睡魔に襲われたけど(あたしの体調のせいかもしれないです)ふわんと出てきた寺田さんで目が覚めて、そこからは集中できました。

  • かわいい
    重いような気もするけど、それをさらっとみせるところが好きだなと。
    ままごとという劇団名にふさわしい空気感で、良い意味でとても「かわいい」と感じました。かわいいという言葉は軽く見られがちですが、しかしかわいいとしか言いようが無い…。そして、最初から最後まで、優しさが溢れていたような気がしました。優しさ溢れる繰り返しだったと。

  • 満足度★★★

    雪の降る海にて
     90年代以降、解離性障害が演劇のモチーフとして描かれることが多くなった。
     鴻上尚史『トランス』がその代表格だが、このような「病気」が芸術の題材として普遍性をもって受け入れられるようになったのは、大なり小なり、我々がみな、社会生活を営む中で、何らかの精神的疾患を抱えざるを得なくなっている状況があるからに他ならない。私たちは往々にして、「個」を喪失してしまう。複雑化する社会の中で自分を見失ってしまっている。
     「ここはどこ」「私は誰?」は、現代人に共通の、普遍的なテーマになっているのだ。

     『テトラポット』の主人公は、常に周囲の「現実」に対して「違和感」を覚えている。
     いや、周囲が、主人公に「現実を疑え」と問い掛け続けている。
     「誰もいない」と叫ぶ主人公に、周囲の「彼ら」は、「いないのはお前だ」と返答するのだ。

     我々の「主観」がどれだけ信じられるというのだろう。
     我々は常に自己の認識を「騙し」続けている動物である。「言葉」は決して真実を語る道具などではなく、欺瞞を作り出し、我々を虚構へと誘う。最大の欺瞞は、デカルトの唱えた「我思うゆえに我あり」である。その思考が他人から与えられたものではないと証明することが果たして可能だろうか。
     我々が現実に違和感を覚えるのは当然のことなのだ。自分が現実だと信じているものは、他者から見れば、当人が勝手に作り出した虚構に過ぎないのだから。

     柴幸男は、作品ごとに手を変え品を変えて、その我々が作り出す虚構に、果たして展望があるのかどうかを問い掛け続けている。
     『テトラポット』の恐ろしさは、主人公が、自らの虚構性を常に問われながらも、何一つ明確な返答もしなければ、行動に出ることもない、ということだ。
     そうなのである。この主人公は、徹底的に「何もしない」ことを明確な役柄として与えられている。私たちが、観客のあなた方がみな、今現在、「何もしていない」のと同様に。

     私たちは、「何かをしなければならない」時に直面してはいないのだろうか。もしも直面していながらその事実から目を背けているのだとしたら、やはり我々は自らの作り出した巨大な卵の中に閉じ籠もったまま、孵化することを拒絶している存在なのである。

    ネタバレBOX

     廃墟のような教室。
     机の上に立って、海坂三太(大石将弘)が叫んでいる。「誰かいませんか!」
     おもむろに現れる兄の圭二郎(寺田剛史)。「いるよ」と返事する。しかしそのあとでこう続ける。「いないのはお前だ」。
     それから、細かい暗転が繰り返されて、いつともどことも分からない、脈絡のないシーンが点滅するように描写される。
     それは、三太と、彼を巡る人々の物語だ。

     長男の一郎太(谷村純一)は教師。妻のとと(ヒガシユキコ)とは別居中。あろうことか、妻の妹で生徒の葦香(折元沙亜耶)に恋をしてしまっている。
     次男の圭二郎は妻の紗知(原岡梨絵子)と正式に離婚。慰藉料と娘・片吟(米津知実)の養育費を請求される毎日である。
     四男の四郎(藤井俊輔)はまだ学生。なのに恋人の川合らっこ(古賀菜々絵)との間に子供ができて、どうすればよいか分からずにいる。

     それぞれに深刻な問題を抱えている兄弟だが、三太にだけはたいした問題がない。せいぜい幼馴染の抹香鯨(高野由紀子)に迫られている程度だ。
     それでも三太は、この「海の町」を出ていくつもりでいる。故郷を捨てて、もう戻らないつもりでいる。

     しかし、三太は戻ってきた。母の伊佐名(荒巻百合)が死んで、戻ってきた。
     葬式に集う四人の兄弟。しかし、それは“いつのことだったろうか“。

     時間と空間が前後し、交錯し始める。教室の時計を見る三太。2時46分前後。時計はいつでも、2時46分“前後”。そこから動くことはない。三太は、過去から現在に至るまでの長い時間を凝縮された形で、この時間の狭間に閉じ込められたのだろうか。
     だとしたら、“今はいつ”で“ここはどこ”なのか。
     最初に現れたのと同じシーンが、何度も繰り返される。背景に流れる音楽は、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』。同じ旋律が何度も繰り返されるオスティナート奏法の代表曲だ。

     三太の前に現れる謎の女性、安藤いるか(多田香織)。たった一人の吹奏楽部員。オルガンを弾きながら、学生の三太に「部員になってよ、楽器弾ける子も連れてきて」と呼びかける。
     実は、彼女だけが、この海にちなんだ名前を持つ人々の中で、「本当の名前」を持っている。安藤“はるか”。かつて、病気で入院していた時に、兄の圭二郎と出遭っていたことがあった。大人になって、教育実習生として、弟の四郎の前に現れたこともあった。
     彼女は言う。自分は、海と陸の間の、テトラポットの中にいるのだと。それは何かの比喩か、それとも「現実」なのか。それが「夢」なのだとしたら、今、その夢を見ているのは誰なのか。

     人々が教室に集まってくる。めいめい、楽器を持って。
     演奏される『ボレロ』。プランクトンの死骸、マリンスノーが教室に降り注ぐ。
     三太は「溺れている」のだ。でもまだこの海の底から「帰れる」のだ。「帰って」と叫ぶいるか。人々が叫ぶ。三太を助けるのは「いるか」。
     地球は全て、海の底に沈んでいた。わずかに残された地上を支配していた生物は、進化したイカたち。三太は、最後にたった一人生き残った哺乳類“テトラポット”。
     彼らは叫ぶ。三太に戦えと。イカと戦えと。生命が誕生し、単細胞から進化をし続け、その果てに現れた最後の哺乳類の代表として、戦えと。楽器を演奏できない三太は、必死に指揮棒を振る。それは溺れる者のあがく姿。『ボレロ』が、クライマックスを迎える。


     あらすじだけを書き出すと、これは大いなる悲劇のように見えるが、実際はかなり笑いどころも多い喜劇である。ブラック・コメディと言うべきか。
     時間がループする(同じ時間を何度も繰り返す)アイデアは、小説、映画、アニメを問わず、近年のSF作品には数多く見られる。昨年の読売演劇大賞、前田知大の『奇ッ怪 其ノ弐』もそうだったし、先日の多田淳之介『再/生』も時間の観念は定かでないもののやはり「繰り返し」ネタであった。
     『テトラポット』の脚本・演出である柴幸男自身も、前作『わが星』で、ループネタを既に試みている。いささか手垢が付きすぎているアイデアだけに、「見せ方」に工夫が必要となると言える。

     ここで注目したいことが、三太が「何もしない」主人公であったという事実だ。閉ざされた時間の物語は、たいていの場合、主人公がそこから脱出しようと懸命の努力をし、あがくものだ。ところが三太はほとんど事態を傍観するばかりなのだ。
     他の兄弟は、何らかの形で前に進もうとしている。
     一郎太は自分の恋心に忠実に生きようと決意するし、圭二郎は養育費を払うようになるし、四郎はらっこに押し切られる形ではあるが、子供を育てることを決意する。
     しかし彼らはみんな死んだ。
     何もしようとしなかった三太だけが生き残った。そして今、彼は溺れかけている。なのに、自分が溺れているのだと事実すら、認識しようとしない。まるで閉ざされた時間の中にいた方がいいと無意識のうちに望んでいるかのように。
     人間にとって最も困難なことは、実は「現実をありのままに認識する」ということなのだ。いや、困難と言うよりもそれが「不可能である」と理解するところから全ての表現活動は始まる。もちろん、演劇の場合も然りだ。

     彼らを襲った未曾有の災害に、東日本大震災を想起する観客は多いだろう。しかし、SF作品は、実際の災害や原発事故が起きるずっと以前から、それらに備えず“何もしなかった”人々の愚かさを指摘し、警鐘を鳴らしてきた。『タイムマシン』然り、『渚にて』然り、『日本沈没』然り、『サイボーグ009』も『デビルマン』も藤子・F・不二雄のSF短編も、もちろん『ゴジラ』も。
     『テトラポット』が、なぜSFでなければならなかったかの理由がここにある。SFのみが、我々の「未来の愚かさ」を指摘し続けてきたのだ。80年代までは、SF作品は波こそあれ、常に文学、漫画、映画の最先端を走り、受け手を増やしてきた。しかしマニア化が進むあまり、次第に一般客がSFと関する作品から離れるようになり、「かつてSFというものがあった」と揶揄される事態にまで至ってしまった。
     しかし、我々は、SFという手法を、決して忘れてはならないのではなかったか。「想像の翼」を広げることをやめるべきではなかったのではないか。柴幸男をシュタイナーあたりのオカルトと絡めて語る変人もいるが、誰もマトモに聞いてやしないとしても、こういう狂った誤読がまかり通ってしまうのは、SFの衰退と密接な相関関係があるのである。

     なぜ最後の敵がイカでなければならなかったのか、ただのギャグと解釈する人もいるだろうが、海洋生物で有史以来、伝説やフィクションの中で、人類の最終的な敵として想定されてきたのはイカなのだ。海の怪物クラーケンは、しばしば巨大なイカないしはタコの姿で描かれている。
     SFはその「系譜」をきちんと継承した。『海底二万哩』を初めとして、海洋SFでは「進化したイカ」は、繰り返し描かれてきた。アーサー・C・クラークが大のイカ好きであったことも有名だ。
     人類対イカの対決は、この作品がSFであることの「記号」なのである(『侵略!イカ娘』ってのもあるが、あれはSFと言えばSFなんだが、まあ例外ということで)。


     物語に不満はない。
     演出については、マリンスノーは客席にも降らせた方がよかったのではないかと思っている。あの世界では、観客である我々も「死人」だからだ。

     手放しで賞賛しにくいのは、やはり俳優の力量不足である。
     もともと、福岡の俳優は概して練習不足で表現の基礎もできていない者や、演劇的センスに欠けている者が少なくないのだが、それを柴幸男はかなり見られるものに鍛えてはいる。しかしそれは従来の彼らの舞台を見ているからこそ言えることで、この『テトラポット』だけを見て判断する客は、やはり何だこの下手くそたちは、と思うだろう。
     群唱すると声が合わず、殆ど何と喋っているか分からない。実は、分からなくても「何か変な奴らが変なこと叫んでいるな」と思う程度で、それほど気にはならないのだが、これは戯曲が予め「そう仕立てられている」からで、つまり戯曲に俳優が助けられているのだ。戯曲に何か付け加え膨らませるのが役者であるなら、これは役者失格と言わざるを得ないだろう。
     ギャグがあまり受けていなかったのも、戯曲のせいではない。殆どの場合、役者が間を巧く取れなかったり、声を変え損なって、笑いに繋げられていないのである。たとえば、時間が少しも進んでいないことについて、「さっきも2時46分前後で、今も2時46分前後。前後っていうんなら、前はずっと前で、後はずっと後なんだから、いいんじゃないの?」ととぼけたことを言う四郎に、あとの兄弟が「いやいや」と突っ込むのだが、このタイミングが各自バラバラなのだ。これでは笑いたくても笑えない。
     一番、困ってしまったのは、『ボレロ』の演奏が超絶的に下手くそなことである。下手でもいいから迫力を出してくれればいいのだが、これもクライマックスで音が“滑って”すかしっぺをこいたような終わり方をしてしまう。全人類が死んでるんだから、ここだけ客席にも楽隊を入れて、人数を増やすことをしてくれたらよかったのにと残念に思う。

     柴幸男のインタビューによれば、今回は俳優一人一人に当て書きをして役を作ったということだが、もちろんこれは役者を鍛えるにはあまりにも時間がなかったということもあるのだろう。だがそれが裏目に出た面もある。自分に近い役を演じた場合、演劇的センスのない者は、それがモロに見えてしまうのだ。
     今回の場合、ほぼ全員がSF世界の住人になりきれてはいなかった。現実と虚構のあわいに存在している空気を身に纏うことができなかった。台詞の内容ではない、「言い方」の問題である。素の自分に近い喋り方が、「現実」の方に針を傾けすぎたのだ。それが最も顕著だったのが「いるか」で、彼女は三太を現実に返すキーパーソンである。だから彼女自身は決して現実側に傾きすぎてはいけないのだが、往々にして、「生」な部分が、はっきり言えば「女」の部分が見えすぎた。
     もちろん彼女はこの世界のセイレーンで、いったんは三太を惹きつける必要があるから、「性」を失うわけにはいかないのだが、それは三太を溺れさせるものであってはならない。性的でありながら性的であってはならないという、二律背反のとんでもない要素、つまりは演技力が求められるのである。福岡の俳優にはこれはいささか荷が重すぎたが、こういうキャラクターがいないことには、三太は現実に帰れなくなるから、さすがにこの役だけはいいキャストがいないからカット、という訳にはいかなかったのだろう。
     眼を全国に広げてみても、若手の女優で、「はるか」と「いるか」の両面を併せ持つこの役を演じきれる役者は、そうはいないだろう。でもだからこそ、別キャストで、『テトラポット』の再演を観てみたいとも思うのである。


     蛇足。
     舞台の内容とは無関係だが、「テトラポッド」は株式会社不動テトラの登録商標で、一般名詞としての呼称は「波消しブロック」である。だから劇中での台詞はともかく、タイトルとしておおっぴらに使うのは本当はマズイのである(つか、北芸もタイトル提示された時に誰か気付けよ)。
     訴えられはしないかもしれないが、念のため、ソフト化する時は改題した方がいいんじゃないだろうか。でもこれには「四足獣」としての意味も掛け合わされているから、「波消しブロック」にしたら何の意味もなくなってしまう。と言うか、んなふざけたタイトルが付けられるもんか。何かいいタイトルはないものかね。
     基本的に、私の批評は作り手に何かを要求する目的で書くことはないのだが、この点は気になったので、どなたかが柴幸男氏にお伝えいただけたらと思う。
  • 満足度★★★

    結果としてはそれなり
    会場からバックに流れ続ける「ボレロ」のイメージ。
    曲そのままに何度も反復される時間。
    同じでありながら、変化は確実にみられる。

    観ながら、柴さんはSFが好きなのだろうなと分かる。

    話は私好みの日常SF系、演出も悪くない。
    暗転後に突然現れる役者たちなどいかにもインパクトがある。
    役者たちは主に九州弁を話す。脚本はなく、演出はほぼ口立てで行われたらしいが、これは正解だろう。
    役者もそれなりに見える。柴さんは、「下手な役者を使ってそれなりに見せる演出家」というイメージが私の中にある。なので、これも間違いではないのかもしれない。

    しかし、何を言っているのか分かり辛い役者がいる。
    群唱になると聞き取れない、音と被ると聞き取れない。これは辛い。しかも複数人だ。
    この作品はあて書きだと聞いているが、そうなると、役者は自分本来の声を使うこととなる。当然聞き取り辛い声を持っているものはそのまま演じられる。
    似た声質の者がいても、区別をつけないままとなる。
    もちろん、練習段階で改善は行われたのかもしれないが、楽日一日前に観劇した私がそれを感じることはなかった。

    練習中はついて行くことだけで精一杯だったのかもしれない。
    だとしても、役者たちの中に、自分たちのやっていることの意味を分かっている者がいるとはとても思えなかった。
    もちろん、「イカ」の意味についても。


    もしも、これが小学校の学芸会だったとしたら、大感動し、惜しまず拍手を送ったことだろうと思う。

    ネタバレBOX

    プロ級など求めてはいないが、最後の役者たちの演奏が下手すぎて乗れなかった。
  • 満足度★★★★

    波間という設定。
    序盤の繰り返される暗転で引き込まれました。
    震災のおもい、繰り返される時間、そこに残る感情、深くきました。

    ネタバレBOX

    ではけのポイントがこんなところにも、という遊びもありました。
    重い中にも笑いもあり落ち着ける一瞬。

    何人かでのセリフが、微妙にずれてて聞き取りづらい。
    今後あわせていくんでしょうね。
  • 満足度★★★

    プレビュー公演を観ました。
    舞台装置にわくわく。照明にわくわく。開演が迫るに連れ、大きくなっていくボレロの音にもわくわく。

    柴さんの作る舞台はもうなんかLIVEな感じ。心地よい。

    ブログとか前情報無しで観たけど、
    それで良かったなーと思えた。

    一瞬だけチカっと点灯したライトが、(まさか操作ミスなわけはないだろう)
    わざとらしくもあるけど、
    でもやっぱり希望の光のように見えて、良かった。

    リアリティがあり過ぎたり、
    まったく虚構であったり、
    冗長かなーと感じた場面もあったので、
    もうちょっと足りないなー、と思うところがあったので☆3つで。

    こなれた頃は東京かしら。
    そちらもちょっと観てみたい。

    ネタバレBOX

    もう何度目かわからない「2時46分前後」と、「3月なのに雪が…」みたいなセリフでやっと気づいた。
    東日本の遠さ、2011年3月のTV画面で見た出来事の現実感の無さ。

    喪服であることにもなかなか気付けなかった。寺田さんのつぶやきを拝見してようやく気付いた。

    死んでしまったのはどちらだったのかな。
    その辺はよくわからなかったけども。

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