ショパロヴィッチ巡業劇団(公演日程が変更になりました) 公演情報 ショパロヴィッチ巡業劇団(公演日程が変更になりました)」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.3
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  • 満足度★★★★

    力作!
    セルビアに行ったことはないが、なんとなく情景が思い浮かんだ。出演者の個性も生かされていたし、それぞれが楽器を演奏するなど、なかなか楽しめる内容だった。本物の水が出て、それで洗濯をするなど、リアルに水を利用した演出にはビックリ。洗濯の水を捨てるところまで舞台上で再現するなんて・・・・・、今まで見たことない!

  • 満足度★★★★

    戦時下の狂気
    戦時下、それぞれの人々が心に闇を持ち、狂気となる瞬間のエグサも表現しそれらしい情景を演出した舞台だったと思う。
    ショパロヴィッチの旅一座が時には「ラマンチャの男」風にも見えて、奇妙で不思議な空気感があった。

    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX

    時は第二次世界大戦中のセルビア。
    ウジツェの大広場にてショパロヴィッチの旅一座が今夜の芝居の客寄せしている場面から始まる。彼らは警官に職質されて署に連行されるも、公演許可書を持っていた為に自由の身となる。しかし、地域の人たちは彼らの巡業を好意的にみていない。
    戦争という状況の中、警官はワイロを受け取り、ぶっそうな組織が徘徊する一方で、潰し屋といわれる拷問屋の行為に恐怖を感じながら、住民はその精神が狂気化していく。

    本来なら穏やかに暮らしているはずの広場近くの家族まで、絶望から逃れるように夫は酒に溺れ、妻は日々の貧しい暮らしを嘆く。ここでの妻・ギーナが実にリアルな演技なのだ。実はこの演技によって、広場近くの民家の様子が想像できたほど。ホント、素晴らしいです。

    ショパロヴィッチの旅一座は、「なぜ、こんな状況下に芝居なんか・・。」と詰られるが、彼らは「こういう状況下だからこそ、演劇は必要なんだ。人々が人生を理解する為にも。」と説明する。
    また、彼ら一座の仲にはフィリップという現実と演劇の境界線を混在し、自分がどの世界に居るのかが解ってない輩も居たりして、道化師のような背景もあった。後に彼は妄想を抱きながら殺される。旅一座の回想シーンではシラノやリチャード、リア王、チェイホフ、シェイクスピアなどが挙げられ、それらを想像するだけで、おもちゃ箱を一度に開けた時のような気持ちになって童心に返ってしまった!笑

    他者から侮蔑される仕事をしていた潰し屋は「他の仕事をするには何かが足りなかった。」と白状し、心の闇から逃れるように自害する。死んでやっと楽になれたのだ。

    こうして沢山の人に関わりながらもショパロヴィッチの旅一座は今日も巡業するのだった。。

    演出といい、起用した歌といい、セルビアの情景を見事に表現していたと思う。そして出演者のそれぞれがいい仕事をしていた。照明によってセルビアの混沌とした薄暗さ加減の演出も良かったと思う。
    リアルに水を出しきちんと洗濯して、干してた情景は生活観が溢れてて、見事だった。


  • 満足度★★★★★

    演劇はひとを幸せにするか。
    今回このお芝居をはじめて日本で上演するにあたり、セルビアの歴史的背景、心情、文化を理解し、受け入れることからはじめられたことに、深い尊敬を抱きました。

    一滴の血のしたたるにおいまで漂ってくるかのような繊細な演出、色味のない淡々とした舞台の中で繰りひろげられる演技は、配役の枠組みを超えて、とても生き生きと輝いていました。そして、観るひとを選ばずにすべてのひとに楽しんでもらおうとする姿勢が素晴らしく、それは本来の演劇のあるべき姿なのではないか、と痛感致しました。深い共感と感動を与えてくださったこと、この作品を観る機会に恵まれたことに心から感謝いたします。

    ネタバレBOX

    ナチスの指揮下にあるセルビアのウジツェでは毎日多くのセルビア人が殺害されて家族を失った多くの人々が喪に服し、暗い影を落としている。
    そんな失意に暮れた町にやってくる(おおよそ場違いな一座)流浪の劇団ショパロヴィッチ巡業団。

    ウジツェの人々は彼らを、こんなご時世に化粧をして派手な衣装を着て、芝居をする。なんてお気楽な人たち!と言い放ち、ジーナに至ってはパンは食べてたらお腹が満たされるけど、演劇は観てもどうってことはない。という考え。
    劇団員は、パンを食べることと演劇を同じに扱うのは、優劣を競い合うことではないと主張するが、洗濯して、ご飯を作って、掃除を毎日するだけのジーナにはそれが理解できない。
    そして、会話を遮るかのように聞こえてくる銃声におどおどしながら暮らしていて彼らの生活は心の豊かさと隔絶した場所にある。

    そんなウジツェの人々の心情をあざ笑うかのように現れる男。
    自分のことを『潰し屋』と名乗る彼は、ドイツ軍に殺されたセルビア人の内臓をえぐり出し、全身をムチで叩き、広場の絞首台にみせしめのようにして死体を吊るす。全身血まみれで奴が歩く度に地面にくっきりと血の足跡が残る野蛮でグロテスクな男。

    ある時、ジーナの息子が何も悪さをしていないにも関わらず、警察に逮捕されてしまう。潰し屋の手に渡らないか危惧するジーナと街人たちは、闇夜の中刑務所へ向かう。
    その道すがら、川で泳ぐソフィアの元に、突然現れる潰し屋。
    彼はソフィアを痛めつけようとしたがソフィアは自分を怖がらなかったため、それを止める。草原に生えるいくつもの薬草や花の名前、その効能を教え合った後でソフィアはどうしてあなたは潰し屋になったのか聞く。
    彼は何かが足りなかったからだ、と潰し屋は言う。
    ソフィアはあなたをどこかへ連れて行ってくれるかもしれない。と言って、なでしこの花をひとつ掴んで彼に渡す。
    ソフィアと短い会話を終えた後、潰し屋の血の足跡は消えていた。

    時同じくしてフィリップは、舞台の小道具の”木の剣”を持ち、刑務所へ向かう。彼は実はテロリストで、”この時をずっと待っていた”。
    フィリップは芝居をすることで警察を欺き、ギーナの息子を救い、彼のロマンティックな遺書だけが残る。皮肉なもので、巡業団はウジツェの人々に、シラーの『盗賊』の演劇ではなくフィリップの死によって感謝されるのである。
    そして、喪に服す理由からこれまで白い服を着ることをこれまで拒んでいたシムカがキレイな白いドレスで登場し、巡業団を見送るところで話は終わる。


    巡業団とウジツェの人々の関係性が、戦争の当事者である国と傍観する国として捉えられるような構図が非常に興味深かったです。たとえばギーナの息子が何も悪いことをしていないのに、警察に逮捕されても巡業団は、積極的に助けることを行わない。(彼らには演劇の素晴らしさを伝える使命があり、生活があり、生きていかなければならい故。)

    それから演劇は戦場で必要とされ、また人を幸せにするものか。という難問。
    演劇にはひとの人生を変えてしまう力があり演劇はひとを生かしも殺しもするということなのかという疑惑。
    不思議なもので、この物語の中では、戦争を日常として受け入れざるを得ない街の人々の暮らしがリアルで巡業団はどこか浮世離れしていて、現実と最も遠い所に存在しているとすら思えます。それでも表現の自由が不自由の上に成り立っていて革命には犠牲が伴うのは否めません。
    得るものがあれば失うものがあるのも致し方ないことです。
    しかし芸術の呼吸は息絶えることなく後世に語り継がれなければならないものです。なぜならば、クーデターを起こせるのは、いつの時代も芸術だけなのですから。

    最後、巡業団も、街の人々も、警察官も、ナチスもつぶし屋も、舞台に登場した全員がそれぞれ楽器を手にして明るいマーチを演奏したのは、世界がひとつになることを願うことへの回答だと信じて・・・。

  • 黒テントのセルビア劇
    出演者の皆さんが楽器演奏。ウマいです。東欧の猥雑な雰囲気もイイ

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