4.48サイコシス(演出:飴屋法水) 公演情報 4.48サイコシス(演出:飴屋法水)」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.8
1-14件 / 14件中
  • 満足度★★★

    疲れた
    不快感とか絶望感とかで圧倒。
    演出にも圧倒。
    ぞぞぞ~ってした。

  • 満足度★★

    肌に合わない
    この作品に関してはキャストは4人まで。そんな思い込みをずっと前から持っていたものだから、こうも多い登場人物に面食らう。
    でもって、たどたどしい日本語をしゃべり、はちゅおんもちっと違うんじゃね?なんつって聞き取り難い外人のセリフに閉口してしまったのだった。

    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX

    開演と同時に舞台上空で逆さ宙吊りに浮いている謎の男。「ワシ、インディアン!」なんつってセリフが聞こえてきそうな雰囲気。その異様なくらい髪の長い男の髪が真っ直ぐ下に伸びて男の顔全体を隠す。あまりにも異質な空気感が漂う。と、同時にその男の後方、高いところではドラムのセットが2つ。このドラムの音が響き、やっぱアパッチじゃね?なんて観客椅子に響く音響に興奮したのもつかの間、奇妙な日本語をしゃべる外人が・・。

    これはないよなー、興ざめしちゃうじゃん!英語で話して字幕の方が良かったような気がする。物語の筋は元々の原本「4.48サイコシス」自体が遺書のようななぶり書きと・・・・・・・・。が続くわけだから、この舞台ほど演出家の感性が試される本はない。生きてることへの罪悪感と罰を常に心に持ち続け、その精神的不安から自分を責め、人として生きていてはいけないんじゃないか?と思い込み、自分を殺したいと考える。その考えの元は孤独であり、満たされない愛であり、誰も愛せない心であったのだと思う。人間、人よりも頭が良すぎると稀にこうなる。あまり物事を考えすぎない愚鈍のほうが案外、幸せに生きてるのだ。

    最後は神に懺悔して自害するが、今回の演出の奇抜な部分は、この吊り下げられた人体と赤いプールに入っていく男と壊れた電話BOX,、そして髪の長い男がプールに沈む場面は衝撃的だったが、他の場面ではまったくのれなかった。ワタクシの感性には合わなかった。という事だけだ。
  • 満足度★★★

    もともと
    DCPOPでこの戯曲は知ったんですが

    観れなかったので

    今回楽しみにしてました。


    なんというか、圧倒的な不快感と衝撃で目が離せないというか

    すごかった。


    でも長かった、、、

  • 満足度★★★★★

    心風景を伝えるイマジネーション
    イメージを作り上げ伝えるための
    作り手の手練に呑みこまれてしまいました。

    観る側の感じる心が悲鳴をあげるほどの
    表現の強さがあったかと思うと、
    包容力と粘度のある表現がやってくる。

    痛みを伴う作品ですが・・・・・・、美しかったです。

    ネタバレBOX

    この戯曲、
    少し前にDull-Colored Popが上演したのを観ていて
    そのときには、徹底的に打ちのめされたのですが
    (谷賢一氏の演出力もすごかった)
    今回は、戯曲の構造が少しはわかっていたので
    やってくるものをじっくり見つめることができました。

    「4.48 サイコシス」という戯曲自体が
    どのように書かれているのかは知りませんが、
    シーンがあって、その中で表現すべき物語があることは
    間違いないらしい。
    どう表現するかは
    演出家の裁量に委ねられているのでしょうけれど。

    冒頭のボクシング、
    戦う自分、励まし、折れる自分・・・。
    人間関係のこと、うまくコントロールできないこと。
    不安、脈絡のなさ。
    主人公の心に浮かぶもの奇異さと鮮やかさ。
    観る側は出口のない森に迷い込んだような気持ちになって。

    音、過敏になったように聞こえてくる音。
    言葉、鎖を外されてさまよっているイメージ。
    リアリティを持った狂気の果てに
    その時間がやってくる。

    バランスが比較的保たれた時間の微妙な不安定さは
    薬によってコントロールされているのかもしれません。
    その、冗長でどこか慰安に欠けた時間が
    じりじりと観るものを浸蝕していく。

    7をひくのはシンプルかつ明快で、残酷なテスト。
    並んだ様々な意識が数字を刻んでいくシーンのコミカルさに
    コアにある意識の自虐的なウィットが伝わってくる。
    医師の言葉、統合されないつぶやき、つぶやき、つぶやき
    機能しない電話、恐れ、リストカット、血の慰安、甘い死への誘い。

    恐怖と慰安の混在した不思議ないごごちに浸潤されるなか、凄くクリアな画質で目の前に広がる。言葉がその空気を導くのではなく、導かれた空気のなかに言葉がちりばめられ、すごく澄んでいるのにどこかぼやけた風景に、いらだちが混ざる。

    それらが、軋みを伴いながら一つのモラルに再び縛られていく姿も
    圧巻でした。モラルが荒っぽくがしがしと積み上げられていく中で、詠唱とも祈りとも聞こえる声が心を揺さぶる。
    狂気のぬくもりから抜け出すような高揚が生まれ、でも、正気だからこそ見える行き場のなさがあって。

    心が肉体のなかに取り込まれていくようなラストシーン、そしてその場所がステージであることを観客に示す終幕に愕然。観る側の心に浮かんだものの主観と客観が逆転するような、あるいは観客がその世界からサルベージされるような終幕に、ただただ息をのみました。

    この秋に観たふたつのサイコシス、胸を突き刺すように作者の風景が伝わってくるDull-Colored Popヴァージョン、深く刷りこまれるように広がっていく飴屋ヴァージョン。お芝居というのは戯曲を受け取って育てる演出家のイマジネーションの賜物であることを、あらためて思ったり。

    観る者にとっては、どちらも印象に深く、またふたつの作品がそれぞれを浮かび上がらせることも、とても興味深かったです。
  • 満足度★★★

    サラ・ケイン
    イメージ・感覚的に研ぎ澄まされている。28才の若き劇作家。その死がセンセーショナルなだけにそちらにどうしても寄ってしまうのか。作家がほんとに求めていたのは果たして・・・よく考えてみる。

  • 若い友人が自ら望まぬ死を、
    前日に、遂げてしまったので、
    死を欲するかのような物語は、そこに激しい生への希求があっても、
    ちょっと同調することができなかった…。

    ネタバレBOX

    まるで自分が手首を縦斬りにして流したかのような、赤い血の溜まる三途の川の向こう側で繰り広げられる、スポーツの健全、健康さなどにすら潜む、強い希死念慮の思いに、いまはどうしても抵抗感があったのです。あるいは、彼女の書いた戯曲が役者を通り、それによってこちらに強要しようとする脳内体験を拒否しないわけにはいかなかったのです。

    それからこの夜は、音楽・音響がよいからこそ、逆に、役者の言葉たちが負けてしまった印象も。
    終演後に喋った知人によれば、その不統一感は狙いでしょう、とはいうのだけれど。
  • ビリーミリガンの頭の中
    観劇しました。

    ネタバレBOX

    多重人格者と呼ばれたビリーミリガンの頭の中をもし覗き見ることが出来たなら、またはビリー本人の感覚とはこんな感じだったのかしらん、とか思いました。

    サラケインの戯曲なんですが……。

    私の中の僕や俺やIや、その他の何人もの私が、私を叱り、私を慰め、俺を励まし、僕を責め、愛してくれたりする。

    戯曲の言葉に原理主義者のように忠実に従った結果、
    戯曲がもたらす先入観
    (サラケインに抱く先入観?)
    から遥か遠い処にありそうな、もの凄い生命力を獲得したのかなぁ、と自分勝手に解釈してしまいます。
    なんか元気を頂きました。
    怖かったですけど。
  • 満足度★★★★

    狂気
    全然わかんねえ!!!
    でもすごい面白い。

    そう、面白いことしかわかんねえ。

  • 0911171900
    観劇

  • 満足度★★★★

    内なる狂気へようこそ
    良い意味で、演劇作品に名を借りた美術作品ではないかと思う。サラ・ケインの原作は前にいちど、川村毅の演出で見たことがある。あちらは映像で東京の街並みを映し出したりして、それなりに凝った演出が面白かった。それとの比較でいうと、飴屋作品の場合は字幕のほかには映像を使っていないというのが一つの特徴かもしれない。映像を使うとそれだけでけっこうスタイリッシュな感じがするものだが、この作品では映像を使っていないので、美術面ではなんとなく手作りな感じがするのがいい。遊園地のお化け屋敷を体験するような感覚で、観客は眼前に展開する鬱病患者の狂気を目の当たりにする。

    脚本は鬱病の末に自殺した劇作家の遺作。会話劇といえるものではなく、作者の独白に近い内容で、普通に演じたらたぶん退屈なものになるだろう。そのぶん演出家が腕を振るう余地のあるテキストなのかもしれない。
    昔、二十歳で自殺した女子大生の日記がベストセラーになったことがある。サラ・ケインの場合もそうだけど、作者が自殺したということが作品の付加価値になっていて、もし作者が健在ならそれほど特別視される内容ではないのではないか、という気がしないでもない。
    変な例えで申し訳ないが、この作品の作者がサラ・ケインではなく、もしも三谷幸喜とクレジットされていたら、観客はただもう、なんてひどい作品だろうと思うのではないだろうか?

    そういったことはさておいて、美術と演出は一見の価値あり。

  • 満足度★★★★★

    頭蓋骨と自我の中の、孤独の、固まり。
    「驚いた」と言うべきか「震えた」と言うべきか。
    言葉が可視化され、舞台のような場所の中に、緻密に組み上げられていた。
    音楽のような調べが聞こえる。
    言葉が刺さる。
    言葉が、礫のように飛んで来る。それはまるで、錆びていたりして切れ味の悪い、とてもイヤな刃先のようなヤツで、それなのに身体に刺さる。
    客席にいるので、耳も目も閉じることができないので、刺さる。痛い。

    演劇って凄いなと素直に思う。2時間10分は長く感じなかった。

    ネタバレBOX

    観客席に案内されて、まずはちょっと「えっ」と思う。
    そして、幕が開いてからは、「あっ」と思う。
    単なるこけおどし、あるいはケレン味かと思う間もなく、そんな思いは一瞬にして崩れ去った。

    フェスティバルトーキョーが開かれている会場の中で、おそらく一番「演劇の会場」という姿をしている「あうるすぽっと」だったからこその驚きでもある。
    「演劇を観る」という行為を何の疑いもなく、あうるすぽっとのアノ座席に座って行おうとしていたのが裏切られたからかもしれない。
    これが、例えば、にしすがも創造舎だったら、多少の気持ちの用意をしていたかもしれないからだ。

    舞台となった、かつて客席と呼ばれていた場所で繰り広げられるのは、言葉と視覚と音のモザイク。
    それは、かつて舞台と呼ばれていた場所だった客席にいる私たちに容赦なく降り注ぐ。
    そして、緊迫感に縛られそれは続く。

    言葉が痛い。特に繰り返される言葉は辛い。

    音が降ってくる。鍛えた身体が提示される。
    交わされるのは、会話ではない、答えのない自問自答の繰り返し。
    なのに、だからこそ、こちらに届く。
    あるいは、だからこそ、受け取ってしまう。

    音と役者と肉体と台詞と言葉と音楽と人の動く音と動作そのものと金属音とノイズと重低音と鈴虫の鳴き声が空間を組み上げる。
    それらが作り上げて見せているのは、作者サラ・ケインの内面なのだろう。最後に感じた意識なのであろうか。

    かつて客席であった空間を前後左右上下とくまなく使う。まるで隙間を埋めなくてはいけない、という強迫観念のように。
    舞台をそのように、広く、大きく使うことで見えてくるのは、逆にその空間の範囲、狭さ、限界だ。
    天井近くで出されるノイズは、まるで「ここまでしかありません」と告げているよう。

    あうるすぽっとという、切り取られた、他と分離された空間がすっと浮かび上がる。その外には出ていかないような空間がある。内へ内へと組み上げられる。
    観客の中にも同じように組み上げられていく。
    それは、あたかもサラ・ケインの脳内のようで、壁や天井は、頭蓋骨のよう。それはさながらサラ・ケインの心の中のようで、壁や天井は、開くことのない自我のよう。

    われわれ観客とそれらを隔てているのは、「血」。生死の境にある血。生きている証でもある血。
    だから、リストカットは「あちらの世界」ではなく、境界線の上で行われる。

    サラ・ケインは「あちらの世界」に行ってしまった。
    その一瞬前の「頭の中」を、その一瞬前の「心の中」をわれわれは、興味津々で客席に座り、覗いているのだ。

    舞台で、健康な肉体やスポーツが繰り広げられるのは、病んだ心と身体が渇望する妄想。
    いろいろな自分がいて、いろいろなことを考える。外国の人が話す日本語の違和感は、自分の中の異物でもあり、違和感でもある。

    ラストにかつて観客席であった場所は、観客席であることを開始し、舞台にいるわれわれは、われわれが演じる舞台の幕が開くのを拍手をしながら待つことになる。


    どうでもいいことだけど、「血の池」深くて驚いた。
    そして、ホーミーのような歌声にはとても震えた。
  • どうなのかな。
    もの凄い鳥肌の瞬間とまったり飽きが来る時間との落差が激しい作品でした。衝撃だけでは2時間以上もたないってことなのかな。でもそれを超えての衝撃もあるんだけど。
    自分を鎮めたいってのと、もういい、っておなかいっぱいなのと。

    ネタバレBOX

    入場から開演30分くらいまでのインパクトはどの公演よりもすごい。あうるすぽっとで逆さづりとか、赤い液体の水槽とか、沈黙とか。身体のざわめきが止められない。

    けどそこからがなんだか、私の生理的に持っているリズムに合わなかったというのか、慣れてしまったからの飽きなのか、妙にもったりとスローな感じ。ストーリがないせいなのかしら。つい時計をみてしまいました。

    そしてラスト。存在がそのままのしかかるような、もうそれ以上しないで、っていうような、切ない終わり方。苦しさでこちらの動きも封じられそう。

    全体としての作品ではあるんだけど、自分の感じ方は一瞬一瞬で評価がすごく変わってしまうので、星はつけられません。もし自分が初めて舞台を観たのがこれだったとしたらたぶんその後10年は足を運ばなかったかも、とは思います。好き嫌いではなくてわからなすぎる、びっくりしすぎる。
  • 満足度★★★★★

    うーん!
    面白いかどうかは別にしてキました。予想以上にすごい。
    谷賢一さん演出作品とあまり間をおかずに見られてよかった。
    迷っているなら見た方がいいです。

  • 内臓にクる
    あうるすぽっとが豹変。ロビーからアート空間に。音に、ヤられました。2時間10分。

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