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- 舞台芸術まつり!2022春
- 応募作品
【上演中止】散策者『話』
散策者(東京都)
公演に携わっているメンバー:5人
- 【団体紹介】
- 2018年活動開始。作品発表の場としての本公演と、実験的プロセスをひらく「発表会」を主軸として活動しています。
直近の本公演では、新居進之介によって書かれた『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』、『アイルトン・セナの死んだ朝』の二作を上演しました。戯曲ではない小説的なテキストに取り組むことを通して、書き言葉を舞台化する際に避けがたく生じる〈過剰さ〉を演技・演出の根本的な課題と捉え、舞台における〈過不足なさ〉について探究してきました。
一方、「発表会」ではテキストへの取り組み方自体に焦点を当て、共同的な制作過程のあり方をめぐって様々な試みをおこなってきました。それは本公演に向けてのコンディショニングでもありつつ、未来のよりよい集まりのために、あえて不確かな状態を外部に開き「見ること/見られること」の圧を再考する試みでもありました。
- 【応募公演への意気込み】
- 「苔を飼うように微細な記憶を飼っている」—鳥居万由実『07.03.15.00』
人が(と言っていいのでしょうか、あるいは有機体が)、互いの微細な記憶に触れ合う術として、「話すこと」はあります。記憶は「話」となることで、有機体のもとを離れ、また異なる有機体を呼び、その連鎖がやがて共同体という単位を形成します。もし劇場が日常への距離をもった特異な空間でありうるなら、その力学の別の使用法を考え出すこともできるはずです。
私たちは本作で、いくつかのテキストからの引用と、俳優自身による話を上演します。ここで使われる言葉は、演出行為によって三次元に具現化されることを第一義とする素材ではなく、俳優に仮の定点をあたえることで、逆に〈俳優〉という表現主体そのものを舞台上に投射するために用意されます。つまり、私たちはたんなる作り話やエピソードの上演ではなく、日常/舞台の区別を超えて俳優の身体に織り込まれたすべての時間の上演を試みます。
- 【将来のビジョン】
- 私たちはこれまで舞台作品を制作することを通して、使い物にならなくなった概念の捨て方を学んできました。たとえば「(他人と比較して言われる個人の)能力」がその一つです。私は賃金労働に従事するなかで、やれあいつは生産性が低いだの、あいつよりおれが勝ってるなどといった価値観がいまだに随所で残っていることを実感します。しかし、こうした価値観は、貨幣の配分に文句が出ないために過剰に信じさせられたものでしかなく、実際に集団制作を経験してみれば「誰が演技がうまくて、誰がヘタ」などの価値基準はまったく使い物にならないことがわかります。
演劇はいるのかいらないのか分からないような概念を再検討するのに有益で、かつ「社会」では全く信じられていないが本当は使えるものを開発するポテンシャルもあると、私は考えています。私たちは本作とその先で、「俳優/観客」というフィクションから「主体/共同体」の新たな展開を考えます。
公演に携わっているメンバー(5)