満足度★★★★
役者総出で大熱演!
会場の「西荻ギャラリーがらん」とは文字通りギャラリーである。しかも西荻という町にふさわしい、小さくてちょっとおしゃれなギャラリーである。
過去に使われた人形たちの展示もある。
「バジリコFバジオはなぜ人形+人間の劇団になったのか?」というテーマで、バジリコFバジオの虚構的バジリコFバジオ史を、わずか4人(総出演!)の役者(&人形たち)がフル稼働で見せてくれる。
ネタバレBOX
物語は、2004年。
バジリコFバジオの稽古場で、劇団員たちは、武田(武田諭さん)の弟(武田諭さんの2役)が入院したということを聞く。手術をすれば治るということなのだが、本人が手術を拒んでいる。
なぜならば、小5の精神しか持っていない医者(三枝貴志さん)の手術が怖いからである。なんてったって、手術させてくれないのならば、床に転がって駄々をこねてお尻まで出してしまうし、手術中はカールを食べながらじゃないとできなかったりするのだ。
そこで、劇団で彼を励まそうということになり、木下(木下実香さん)の提案で、人形を使ったオズの魔法使いを演じることになる。主人公ドロシーはもちろん木下である。
しかし、武田は、黒子をやっていた新人・井黒(井黒英明さん)のせいによるお寒い笑いで大やけどを負い、出演できなくなってしまった。
困った劇団は、励ます相手である武田の弟に武田の代役として出演を依頼するのだった。
そんなストーリー。
もちろん、なんだかヘンテコなエピソードを盛り込んだり、懐かしの人形たちが大勢出てきたりが、とてもいいテンポで繰り広げられる。
バジリコFバジオ自体の話なので、自分自身を演じながら、さらに別の役までも演じたり、人形を操作したりする。
それをわずか4人で行ってしまうのだ。
それぞれのキャラ立ちもいいしね。
これは凄い。大熱演!
会場はとても小さい。10数人で一杯になってしまいそうな劇場。
観客の顔が(たぶん)1人ひとりはっきり見えているだろうから、やりずらい環境だったかもしれない。
舞台装置などはシンプル。音響(音楽)は、舞台横の棚の上に置いたipodを直接スピーカーにつないだものだけ。
それで十分に観客のイメージを刺激してくれる。
音楽の必要なシーンとなれば、そこで中心となる役者が直接ipodを操作して流すし、音楽を終えるときも同様にipodのスイッチを切るのだ。
そこに間延びみたいなものはない。
なんかそこまでが「演出」の中なのだ。
あっという間の60分。
そして、面白い!
楽しいなあバジリコFバジオ。
当日は、カードとスーパーボールのお土産付きだった。
劇中で観客がスーパーボールを弾ませることができるシーンなんかがあったらもっとよかったかも。
「観客のみんな〜、ドロシーお姉さんをスーパーボールで助けて〜」みたいな(笑)。
満足度★★★★
登場人物たちへの優しさが溢れている
とにかく、台詞が1つひとつとてもいい。それを等身大で役者が丁寧に演じているところに好感が持てるし、引き込まれていくのだ。
登場人物たちに対するまなざしが優しい。演出も役者も、きちんと手を加えながら、育てていったのだろうと思う。つまり、そこには愛情がこもっている。
ネタバレBOX
物語としては、若者たちの群像劇であり、気持ちのいいメッセージが読み取れる。この舞台が好評なのは頷ける。なぜならそのメッセージは優しくも強い力で、今を生きている(特に若者たち)人々の背中を押してくれたり、さすってくれたりしているのだろう。
登場人物たちの精一杯さが、とてもいいのだ。それは同時に役者たちの精一杯さでもあり、観客のそばにいる、大勢の人たちのことであり、さらに自分のことでもあるのかもしれない。
観客の多く(若者たち)は、自分の背中を見つつ、観劇していたのではないだろうか。すでに若者ではない観客たちは、そこにかつての自分を見ているのかもしれない。
「東京に行けば夢がかなう」というテーゼ(というか希望的観測)が根底に見える。それは古くさいし、そんなのは嘘っぱちであると知っていても、そうあってほしいという気持ちが心の中にある(疲れた)人たちが多いのかもしれない。
(東京に行けなかった姉だけが-直接-夢をかなえることができなかった)
とは言え、今も昔も何かを求めて上京しているのは同じなので、それへの共感はしやすいのかもしれない。
続けることが夢をかなえることである、ということが基本ながら、就活していたら、バイト先から正社員の口がかかる、とか、結婚もできる、とか、シェフを続けていれば認められてお店を任せようなんて声も出て、とか、水泳の目標がなくなったのに、すぐに大学に進学できて、さらにあっさり就職もできる、とか、映画を撮れば受賞できる、とか、インディーズのミュージシャンがデビューできて、アルバムも出せ、ヒットましてしまう、とか、さらに、心を休めたいときには、いつでも温かく迎えてくれる故郷がある、とか、そんなハッピー・ストーリーの連続であっても、イヤな感じがしない。
それはもひとえに、この作品が持つ、「愛情」が、つまり「本気の愛情」が観客の胸に届いているからであろう。
だから、温かい気持ちのまま、会場を後にすることができるのだ。
この後、劇団競泳水着は1年以上の充電期間に入るという。たっぷり充電して、競泳水着らしい「愛」を、また見せてほしいと思う。
満足度★★★★★
フェスティバル/トーキョー
のほうに「観てきた!」を書き込みました。
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=85174#divulge
どちらにするか迷ったんですけど。
満足度★★★★★
時空を超えて現在の、池袋の、東京芸術劇場小ホール1の、あの時間、だけに流された生放送
やっぱり、地点は「音楽」だ。
全体がアルバムであるとすれば、各パートは収録曲。各テキストにふさわしい調べで奏でる。
そして、アルトーさんは放送局、役者はそれを伝える(意思を持った)スピーカーであった。
ネタバレBOX
ドキドキするようなセットが組んであった。
プールだ。
もちろん水が張ってある。
水には波紋が起こる。波紋は運動が伝わる様を見せてくれる。
舞台で行われているのは、アルトーさんを刻み上げ、彫り上げていくような作業ではなかったか。
アルトーさんの残したラジオドラマと手紙を、ひたすら役者たちが声にしていく。
もちろん本来は日本語ではないアルトーさんの言葉たちだが、その言葉が洗練されているようで心地良い。
その内容は、テキストとして読んだとしても、同じところを何度も読み返し、意味を知ろうと苦心するレベルのものだ(何度読み返しても理解できないものが多いかもしれない)。
だから、一度、音で聞いたとしても、何について、どう述べているのかは、ぼんやりとしかわからない(いや、ほとんどわからない)。
そう、それは、ちようど外国の曲を聴いている感じに近いのではないだろうか。
英語の不得意な私が、例えば、英語の歌を聴いていて、ところどころ聞き取れる単語(loveとかpeaceとか…なんだそれ・笑)があったりして、なんとなくこんな曲なのかなと思ったりするのと似ているような気がする。
もちろん、恋愛の歌かと思っていたら、反戦の歌だったりすることもある。
しかし、それでも「いい曲」だなと思うことは間違いではないと思う。
アルトーさんの言葉は、とても鮮烈な印象がある。
単語やセンテンスがぐいぐい来る。
普通に考えたら、役者たちが一気に声にするアルトーさんの言葉たちは、平板で退屈なものになりそうだ。しかし、そんなことはない。
たぶん、言葉の強さと、それを伝えようとする(あるいは単に発する)役者の肉体の存在が、それぞれの演出によって、アルトーさんの言葉をさらに鮮烈にしているのだろう。
それは、例えば、舞台上に「水」がなかったらどうだっただろうか、と考えてみる。つまり、真ん中にあるのはただの台であり、そこにアンテナが立っているセットだ。
そう考えると、「水」は不可欠だったようにしか思えなくなってくる。
「水」はラジオとアンテナからの印象としての「波(波紋)」を意味していると、とらえたが、それ以上の効果がもちらされていたということだ。少なくとも私にとって。
「水」の「音」と「質感」が、直接(生に)響いてくるということが、心地良さやある種の違和感をもたららしているからではないだろうか。
つまり、ここにあるのは、「役者」と「舞台(装置)」も込みで(上演された今となっては、必要不可欠な要素となった)のアルトーさんの言葉なのだ(もちろん「上演」しているのだから、それは当然なことではあるが)。
かつて観た地点の『三人姉妹』では、音楽を感じた。同様に今回も「音楽」を感じたのだ。
「音楽」としての地点の舞台は、ステレオ的な要素が楽しめる(特に初期のステレオ録音)。左右や奥行きの楽しみだ。役者の声の張り方、顔の向きに至るまでそれは「音」として楽しめる。
さらに言うならば、姿、形も「音」の一部として楽しめるのだ。
その「音(音楽)」は、役者というスピーカーを通して観客に伝わっていく。アルトーさんが放送局であり、時空を超えて現在の、池袋の、東京芸術劇場小ホール1の、あの時間、だけに流された生放送だ。
スピーカーである役者は意思を持ち、放送に(&演出家もプラスされた)意思のノイズを加えて観客に届ける。
スピーカーから流れてくるアルトーさんの言葉は、音楽になり、それは地点が選曲した1つのアルバムとなる。各パートは、各曲であり、独唱が基本でありつつ、合唱もある。
そして、その曲は、当時に「ノミ」であり、アルトーさんというカタチを(ぼんやりと)1曲が1刻みのようにして、彫り上げていくのだ。
それにしても、地点という劇団は、役者に無理を強いるという印象だ(笑)。対話ではなく台詞でもないあの長文をあれだけ一気にしゃべらせたり、言葉とリンクさせながら(単語に対応した振りで)手旗のごとく身体を動かせたり、指の上に機械を置いたまま、ずっと同じ姿勢でいさせたり、…とっても大変そう(笑)。
地点は、どうやら私の何かにフィットするところがあるようだ。だから、来年神奈川で行われる舞台『Kappa/或小説』をすぐに予約したのだった。
満足度★★★★
staying alive!
現代を生き続けるということは、カオスの中にあるということ。
一見無秩序にあるカオスは、渦を巻いており、その渦は「町(という「場」)」の中だけで起こっている。
ネタバレBOX
ブッツバッハという町は、ドイツの古い町らしい。
それはそうとして、舞台の上には、発酵組織研究所がデンとしてあった。しかし、その内部は、町がすべて押し込められているようである。
一般住民が生活するガレージ、銀行、街頭、経営者のいる事務所等々。
それにしてもドイツ人はカオス好きではないか。カオスと言っても計算されたカオスとでもいうか(計算されたのならば、カオスというよりはフラクタルなのかもしれないが)。
観ながら感じたのは、ドイツのロック。
例えば、60~70年代のAMONDULLとかFAUSTとかGuru Guru、80年代のEinsturzende Neubauten、(極初期の)DAFなど。
これらはドイツ(西ドイツ)特有の現象で、他国でも似たようなアプローチがあるのだが、やはり独特であり、独自ではないだろうか。
そこにあるのはカオスだ。
それをこの舞台から感じた。
FAUSTやEinsturzende Neubautenのような破壊衝動はなく、AMONDULLのような政治的メッセージがないカオスだ。
現代を切り取る舞台だからこそ、逆にカオスであるのは「現実」ではなかろうか、というよりは、そうあって当然である。
現代を生き続けるということは、カオスの中にあるということ。
一見無秩序にあるカオスは、渦を巻いており、その渦は「町(という「場」)の中だけで起こっている。町は社会であり、今の体制であると言ってもいいかもしれない。
経済の破綻も渦の中だけのことであり、社会からあふれ出ることはないのかもしれない、という予感があるのだろう。
旧弊な社会のシステムの中にすべては留まっているということ。
それはドイツの現状なのだろう。もちろん、日本でも同じだ。
経済の進行による歪みの予測は不可能であり、資本主義も頭がつかえてしまっている閉塞感。
その中にいる「私」は「何者」なのかという問い。消費しているラベルやブランドが私ではないのかという不安。
それらは、混沌としていて、ぐるぐる回るだけ。
一般市民(庶民)の声(歌)は、ささやかで慎ましく、貧相なガレージの中だけで歌われる。しかし、その歌は、事務所にいる経営者(支配階級)が「うるさい」と思うときにはドアを閉められて、聞こえにくくなってしまう。
ドアを閉められるだけでなく、開けることもさえも彼の自由である。
それは、ずっと続いていることなのだという暗示が、ラストに経営者が、チロルの上着に半ズボン、羽根の付いたチロルハットという民族衣装で現れ、庶民が歌うガレージの扉を開け閉めすることで行われる。
2時間を超え、字幕を追いながらの観劇であるが、コロスの導入や、やや(声を出して笑うというより顔をゆがめる感じの笑い)歪んだユーモアが計算されており、とても楽しめた。
そして、弛緩とも言えるような「間」や「繰り返し」が心地好くさえある。
歌がとてもよかった。合唱もだが、経営者の独唱が素晴らしいものだった。
また、合唱がオフの状態で聞こえたり(壁の向こうから聞こえる)、その場での演奏や、壁にツメを立てたり、喉を鳴らしたりするなど、音の聞こえ方(聞かせ方)にも工夫があり実に楽しい。
字幕だが、誤植が目に付いた。これはいかがなものか。訳自体も、例えば、ことわざのパロディのあたりは意訳だろうということで、なんだかなぁだったし。
それと、関係者笑い(1人だけ)も気になった(ホントに笑うところなのか、も含めて)。ラストの拍手が、飛び抜けて1人(たぶんその人だろう)だけ早くて、ちょっと白ける。
毎回思うのだが、こういうのって、舞台の面白みを半減させてしまうことに気がついていないのかなあ。
満足度★★★★★
独特の斬新なスタイルに、リズム、持続する熱量が素晴らしい
ノルウェー語で上演(字幕付き)なのに、ぐいぐい引き込まれた!
役者もいい。
ネタバレBOX
温泉施設の専属医師であるストックマンは、温泉施設の水が工場のせいで、人の健康を害するほど汚染されていることをつきとめる。
それを新聞『人民新報』の編集者に伝えたところ、すぐに新聞に掲載したいと言う。また、旅館組合の組合長は、民衆(絶対的多数)の代表として医師の支持を約束する。
その情報を知った医師の兄であり、町長兼警察署長は、町の評判を落とし、町が凋落していくことを防ぐため、弟の医師に事実の発表をやめるように言う。
汚染防止のためには莫大な資金と時間が必要だからだ。
しかし、ストックマン医師の意思は固く、兄の意見には従わない。
そこで、ストックマン医師の告発は、町の評判を下げ観光地としての魅力がなくなる、汚染防止費用のために増税がある、工事中は温泉を休業しなくてはならない、ということになると告げられた旅館組合長や新聞社は、自らの考えを翻し、医師に事実の発表をするなと言い出す。
さらに、医師の妻の父は、汚染源である工場を持つ経営者であり、ここからの圧力もストックマン医師とその家族にかかってくる。
そして、町民集会が開かれ、町の利益を損なおうとする医師を「人民の敵」とする決議を行ったのだ。
医師は温泉専属医師の職を解かれ、教師であるその娘も退職させられてしまう。
そして、医師は決断をするのだった。
そんなストーリーが、本当にまったく何もない、黒い舞台の上で繰り広げられる。。
ノルウェー語で上演され、字幕頼りに観劇しているのに引き込まれる。
古典なので、てっきり重々しくいかにもなスタイルで上演されるのかと思ったら、いい意味で裏切られた。
独特の斬新な演出スタイルがある。
ダンスの様な動きや、登場人物たちの関係性を具体的に見せるような、ねちっこい演出。
一瞬で変わる場所と時間。連続性とスピーディさ。
リズム感と緩急、そして持続する熱量が素晴らしい。
役者も力があるのだろう。特に主人公ストックマンを演じた俳優の、正義への情熱が、抑圧されつつラストに行くに従い、いろんなところから噴き出してくる様が素晴らしい。
「内部告発」という現代に通用するテーマを軸に物語は進行する。
そこで描かれるのは「絶対多数」というものの危うさである。
それは、民主主義の危うさでもある。同時にそれには「古めかしさ」も漂ってしまうのだけど(ラストとか)。
「自由」は「絶対多数」によって脅かされるという事実。
そして、主人公が「正義」のようであるが、追い詰められて発する彼の「正義」の理論は、「少数派」「純血」というキーワードによって、「正義(感)」の危うさまで浮き彫りにしていく。
つまり、「正義」とは今も昔もそんな危ういバランスの上に成り立っているということなのだ。
「内部告発」することが、行為としての、社会との関係における「正義」と、周囲への影響や自己満足(自分の姿に酔いしれる)ということとのバランスというだけでなく、なんかもっと根本的なところにも言及している、そんな印象を持った。
これが今、この舞台を上演する意味や意義ではないのだろうか。
ノルウェー国立劇場『人民の敵』は、とてもよかったのだけど、客席には空席が目についた。「国際イプセン演劇祭」は短期間に集中して上演されるので、時間の都合がつきにくい、それと料金がもう少し安ければと思う。
満足度★★★
なるほど3分間!
なるほどなぁと思う。
確かに「3分間」。
それへの考察と積み上げ方が見事。
そして、1つひとつのエピソードには、無駄がなく、観客を集中させる力がある。
ネタバレBOX
ただし、それぞれのエピソードは暗転によって結ばれているので、数の多い暗転のたびに気が抜けてしまう(40近いエピソードがあるのだ)。
これは、もったいない。
エピソードがどれも面白いのだから。
そして、物語が産まれてくる感じもとても面白い。
広い舞台なのだからそれを活かし、それぞれのエピソードを映像のオーバーラップのようにして、重ねつつ、テンポアップしていけば、いいリズム感も出ただろうし、重ね方によっては印象的にもなったのではないだろうか。
3分間の小人あたりから、物語の「闇」のような部分が姿をちらりと見せてくるのだが、3分間の集団が行っていた影の事業や、男女の性別に関するラストへの展開(きれいに前フリが効いていたけど)などに、「3分間」との関係が薄いことに、落胆した。
せっかく「3分間」にこだわるのならば、ウソでもこじつけでもいいので、すべてを「3分間」に集約してほしかったと思う。
とは言え、ラストの展開はとても面白く、収拾のさせ方は「うまい!」としか言いようがない。
しかし、物語が転がり出す後半あたりから、どんどん面白くなってくるのだが、もうひとつこちらに飛び出してこなかった。つまり、「3分間」への驚きとは違うベクトルへも、物語が進行してしまったためではないだろうか。
もっと突き抜けてほしかったと思うのだ。
また、主人公の人生が、あるいは生きてきた背景があまり立ち上がってこなかったのにも不満が残る。娘との関係も、もっと深みを見せることができたのではないだろうか。娘とどう向き合って生きてきたのか、とか、自分の仕事に対する想いとか(彼女の歴史的変遷は見ることができるのだが、そのときの感情や生き方までは見えてこなかったように感じてしまったので)。
なんとも、もどかしい。
それと、沖縄のエピソードで、普天間関連のことを漁師が一気に話すのだが、なぜかここだけ細かく丁寧に説明していて違和感を感じた。物語全体の中で明らかに浮いているのだ。
ここが大切ならば、ここに物語をシフトさせるべきだろうし、1つのエピソードにすぎないのならば、ほかと同様のトーンにすべきではなかったのだろうか(もっと簡潔に説明させることは可能だし、物語としてはなん問題はないはずだと思う)。ここだけがあまりにもくっきり鮮明すぎるのだ。
このエピソードで言えば、主人公はこの漁師が窮地に立たされたときに助けるのだが、その結果として彼女が得たものは、物語に大きな意味をもたらすが、なぜそうしたか、が弱い気がする。
ストーリーのうまさ(展開&収拾)と、独特の奇妙さが面白みを出していたのだが、どうも全体のバランスがあまり良くないように感じてしまったのだ。
何かちょっとしたことで、すんごく面白くなったような気がしてしまうのだ。
満足度★★★
60分じゃ足りないよぉ!
独特のリズム感がある。
コントというよりは、演劇であり、演劇というよりはコントでもある。
かと言って、その中間というわけでもない…と、思う。
ネタバレBOX
アドリブっぽいところが、演技なのかどうなのかはわからないが、一見「素」に見える感じは、普通そんなのには、イヤな印象を受けるときもあるのだが、PLAT-formanceにはそんなイヤな印象は感じない。
どこまでもスマートなのだ。
客いじりとまでは言えないものの、ちょっとした観客とも交流的な入れ方もうまいと思う。
小さな舞台という効果もある。
オープニングはとてもスタイリッシュだった。
できれば、各シーンでもそれがうまく活用されていたら、もっと広がりが出たのではないだろうか。
また、エンディングにも、そうしたスタイリッシュさがあれば、60分のパッケージ感が出たと思う。
内容的には満足しているのだが、どうしても大満足だった前回と比べてしまうと、もう少しもの足りないように感じてしまった。
上演時間そのものもだが、深みというか、そんな感じだ。
でも、次回も観に行くだろう。PLAT-formanceのリズム感みたいなものに、はまりつつあるのかもしれない。
満足度★★★★★
愛おしくって、たと、のと、しと、い。
「やけくそじゃない享楽Ver.」
動いている姿を見ているだけで、気持ちが揺さぶられる。
人が感じる「不安」と「希望」という2面性がそこにあるからだろう。
そして、手作り感ある舞台と、役者たちが「天」へくっと伸びる姿が美しいし、愛おしいと思うのだ。
ネタバレBOX
冒頭の哀愁感とせつなさ溢れる男の姿から、舞台はスタートする。
その要素を背中にきちんと感じさせつつ、猥雑感を生命力で歌い上げる。
突き抜けた明るさではなく、単にせつなさでもない、そのバランスをいつもFUKAIPRODUCE羽衣の舞台に感じる。
「はと」という設定がたまらない。
彼らは何も考えずに動いているように見えるのだから。
だから、「考えすぎ」の人には妬ましくもある。
恋愛や男女関係が物語の中心にあるように見えているのだが、今回の舞台で、その本当の姿が見えたような気がする。
「人」とのつながりに「不安」や「恐れ」を感じつつも、「希望」を持っているということがすべての舞台にあるのではないだろうか。
そうしたいろんな要素を込めた上で、「前に!」という気持ちがきちんと出ているからこそ、胸に響いてくるのだと思う。
だから、ラストはとても素晴らしいと思った。
そして、(後方の席で観ていたということもあるが)小さな舞台とそれを見守る観客を入れた「箱」が、まるで、ムットーニのカラクリ箱のようにも見えてきて、なんだかとても愛おしくなってきたのだ。
お揃いのヘンテコな(笑)衣装を着た人たちが、動く様はキラッキラしている。
そしていもつまでも観ていたいと思ったのだ。
役者では、日高啓介さんの哀愁感(特に台詞回し)が素晴らしいと思った。深井順子さんの上に伸びる様子はいつも本当の身長以上のものを見せてくれる。寺門敦子さんの恋人感(笑)も良かった。そして、伊藤昌子さんの表情は素敵であった(特に笑顔)。伊藤さんは、ホームの「阿佐ヶ谷南南京小僧」で拝見したときに「怪優(快優?)」ぶりが素晴らしいと思ったのだが、その良さがさらに出ていたように思えた。
もう1本の「いじけじゃない虚無Ver.」が観られないのが残念。
満足度★★★
舞台上で表現される「画」は素晴らしい
テクニカルな意味において、計算された「画」作りと、シーンのつなぎ、セットの使い方、どれをとっても素晴らしいものであった。
ネタバレBOX
現代とノスタルジックな意味においてのシノワ風味が、全編に散りばめられており、それがいい色を舞台に添えていた(直接的にも比喩的にも)。
具体的には「書」(劇中では「書道」と訳されていたが「書」では?)や「刺青」といったものであり、それは欧米人にとっては刺激的で興味をそそるものであっただろう。
そして、それらの使い方が効果的であり、文学的でさえあった。
特に冒頭で行われる「書」の説明にあった、「一」の意味さらに「木」の書き方は、物語に意味を持たせていた。
舞台は大きく上下に分かれ、天地を分かつ「一」が大きく表現され、それを常に意識させていたと言っていいだろう。
さらに、妊娠検査薬で現れる「+」という文字の2画目の縦棒は、「木」を書く際の縦線であり、「根を張る」ことである。
妊娠したことにより、中国に残ることを意味づけられ、誰かと誰かが結びついたり、そこに定着することを表している。
そして、「木」は2つで「林」になり、3つで「森」になる。それには4つはないのだ。つまり、ラストで描かれる3つのパターンには、「4」は存在しないことを暗示していたのだ。
「刺青」の「痛み」の伴う「美」というものも、物語を大きく支配していた。
主人公の男性が、それを好んで受け入れている様がすべてを物語っていたと思うのだ。
物語はほんのささいなストーリーだ。
それを台詞等で、観客に機微のようなものを感じてもらいたかったのではないかと思うのだが、単に言葉の問題だけでなく、もうひとつ響いてこなかったのだ。
それは、私が舞台となっている中国と同じアジアに暮らす住民だからだろうか。ちよっとそんな気もした。
全編、映像の使い方が素晴らしい。また、すべてを「見せる」ことで説明的な舞台演出となっている。例えば、空港ならば、雑踏や行き先掲示板、そして、列車に乗り込めばその走る様子などのセットが用意されているのだ。さらにシーンのつなぎ方が、映画等の映像作品と同様な「カットつなぎ」のように見えていた。
そのように「映像的」すぎる演出で、さて、これは本当に舞台にする意味があったのか、と思う場面もあった。
しかし、途中に入ってくる、ダンスが素晴らしいのだ。これが「舞台」であることの意味であったのだと少しだけ納得した。
とにかくキレも振りも素晴らしいのだ。
きちんとしたパッケージ作品であり、確かに「キレイ」ではあるのだが、「人」の「営み」というか、「存在」のようなものが、つるつるした手触りのためか、あまり感じられなかったのが残念ではある。
そして、ラストだが、可能性と最適を見せていたようだが、残念ながら私はまったく楽しめなかった。
満足度★★★★
上手いなあ【恋たち】
ずっと気になっていたのだが初めて花組芝居を観た。
『あまうめ』等の他の舞台でときどき拝見する堀越涼さんが、演じられている【恋たち】版のほうだ。
ネタバレBOX
なるほど、花組芝居とはそういう劇団だったのだと納得。
芸達者な人たちが多い印象だ。
別バーションは配役がすべて異なるということだから、その数だけ芸達者がいるということなのかもしれない。
小劇場の舞台であれば、通常何役かを掛け持ちしそうなところを、それぞれをそれぞれ役者が演じるというのは、小劇場ばかりを観ていた目にはやや新鮮に映った。
蔦代を演じた谷山知宏さんは、設定的に三のセンなのか、やや騒ぎすぎの感もあるものの、見た目や動きだけで笑いを取ろうとあまりしないところに、劇団の品のようなものを感じた。
主人公の正子を演じた堀越涼さんは、特に芸者を辞めてからのほうが、逆に物腰や所作に柔らかさが見え、きっと美人で凜とした人なのだろうなあ、ということを感じさせてくれた。
今半の60代以降には、その凜とした感じがさらに増し、美しい老女のように見えてきた。
堀越涼さんに限らず、全体的にきちんと動きがコントロールされていて、メリハリもあり、それは今回のような大きな舞台に映えるものであったと思う。
また、女将や女中など、初めから中年以降の女性ほ演じている役者さんたちは、誰もが無理なく中年女性を演じていて、動きもなかなかだと思った。
役者さんたちの動きや台詞が、次にきちんとつながっていく様は、気持ちいいほどであった。相当の練習も積んでいるのだろうが、上手い人たちが揃っているのではないかと思わせた。
物語は、有吉佐和子原作の2編の作品『芝桜』『木瓜の花』をうまくつないでおり、それぞれの植物が印象的に現れてくる。
明治・大正・昭和を舞台に、純愛と悲哀が芸者だった女性の人生を彩るという、新派っぽいストーリーではあるが、すぐにその世界に引き込まれていった。
それは、とにかくテンポがいい、早いということではなく、緩急の付け方や、役者の絡み方などがうまいのだ。
また、細かい前フリからそれを拾いつつ、物語は進行していく。細やかな感情がさりげなく表現されていたりする。
特に、正子が恋人の歌舞伎役者と別れるはめになるシーンは、ちょっとした間と、まるで大見得をきっているような正子の悔しさが滲み出ているようで、きちんと見せ場になっており、素晴らしいと思った。それは役者と演出によるものなのだが、飯島早苗さんの脚本もいいからだと思う。
身長や顔かたちで、どの役者さんたちも、少女の役はややきついものがあったが、中年以降の役は、ぴったりとしていた。
だから、無理を承知で言えば、正子と蔦代の前半の十代のときだけでも、うんと若い俳優が演じたほうがしっくりきたような気がする(少し前屈みになっていたが、やはり身長や声が気になってしまったのだ)。
大正、昭和の出来事と主人公たちの年齢を重ね合わせて、そのときの年齢を脳内変換しながら観たのだった。
満足度★★★★★
醜く、恐ろしく、滑稽で、哀しく、憐れな人間たち
確かにタイトル通りの物語が進行していた。
ただし、それはあくまでも「道具立て」であり、そこで繰り広げられたのは、「ある状況下での人間の行動」。
それは、醜く、恐ろしく、滑稽で、哀しく、憐れな姿であった。
ネタバレBOX
会場も含めて見事に設定されていた。
入場すると、小さな机付きのイスが並ぶ。チラシの束は茶封筒に収められ、その上にはなにやらレジュメのようなものが。
舞台となる場所にはO.H.Pプロジェクターがある。
そう、ここは大学病院内で行われる公開講座の会場だったのだ。
私たち観劇は、その講座を受けることから始まるのだ。
手触りが硬質の物語が進行していく。
登場人物各々の歪み方がいい。
背中にはそれぞれが抱えているものがあり、そうした「気持ち」を内在しつつ、物語は進行していく。
しかし、内在した「気持ち」は常に発酵状態にあり、それが物語が進行する中で、ところどころで噴き出してくる。
こんな表現がうまいのだ。
爆発しそうなのに、爆発させることができない状況下にあって、声をあまり荒げることもできずに発するトゲトゲしい様が、真っ白く無味乾燥の壁に反響して、観客の気持ちも荒立てていく。
ストーリー自体が、一般の人からすれば神経を逆撫でするようなものであるだけに、それはとても効果的であった。
ストーリーとしては、現実にはあり得ないほどの飛躍があるものの、全体的な「うまさ」で見せてしまう。
それは、演出、役者のうまさだろう。
物語としては、生命の大切さとか、薬剤開発の裏側とか、大学病院でのヒエラルキーだのを、批判・批評するというものではなく、ましてや、大城助教授が唱える「生物はみな平等」という考え方を問うものでもなかった。つまり、何かの問題提起ということではない。あくまでも、用意された「ストーリー」は「道具立て」にすぎないのだ。
つまり、ある状況下に置かれた人間の行動を綴ったものであったのだろう。
保身のため、利益のため、感情のために、自分の腹の中と一致したり、不一致だったりする、人間の、醜さ、恐ろしさ、滑稽さ、哀しさ、そして、憐れな様子がそこに表現されていたと言ってもいいと思う。
ただ、少々残念なのは、「公開講座の会場で起こったハプニング」という当初の設定があるものの、事件の核心に触れそうになるシークエンスで、「一般の観客の前である」ということを、もっと盛り込むべきではなかったのだろうか。
人が何人も死んだという出来事が、事件性を帯びてくるところでは、当然「そこにいる部外者の目」は気になるはずであろう。
それと、気になったのは「助教授」という名称、そんな言葉はすでにないはず、「准教授」が正しいのでは?
登場人物は当て書きであろうと思うほど、しっくり役になっていた。
中でも、講師の才原を演じた西原誠吾さんの「気持ちの上での」頭を上げたり下げたりという、感情の発露と押さえ方が見事だった(台詞の感じが)。
また、研究者の諸川を演じた加藤敦さんの独特のねちっこさ、どの状況でも同じでクールな大城助教授を演じた生津徹さんの、実は一番歪んでいたという内面が垣間見られる目(何も見てない、何も感じてない)が印象に残った。
早い時期にチケットを購入した観客向けの「おまけ」は、薬袋に入ったタブレット状のタオルだった。
薬袋はちゃんと、舞台の設定通りの帝塚山大学付属病院のものだった。ナイス!
こうなると、制作スタッフ(受付や案内のスタッフ)も、大学で働くスタッフという雰囲気がほしかった(看護婦はコスプレすぎてNGだけど・笑)。
満足度★★★★★
見えてるのに手探りで歩く、心の地図の中
物語の展開、重ね方、つなげ方の縦横無尽さ、そして台詞回しに前田節が炸裂してた。
面白い!
笑いの散りばめ方やセンスも好きだ。
これは大好きだな。
ネタバレBOX
考えすぎると迷子になってしまう。
そして、それは、誰もが同じ状況にある。
そんな物語。
装置・セットが、いい感じ。
下手の奥には、体育館にあったような縄がぶら下がる。
その縄は、頭5分の1ぐらいが白くて、残りは赤い色をしている。
ライトが当たったその姿を見て、すぐに連想したものがあった。
それは「東京タワー」。
ストーリーが展開していくに従って、それは想像通り「東京タワー」として使われていた。自分のイメージとマッチして、ちょっとうれしい(笑)。
整然と並べられているイスが東京の街並み、ビルに見えてくる(もう少しいろいろなイスがあったほうが、雑然とした東京っぽいと思ったのだが)。
主人公の女性とそのボーイフレンドは、その縄の「東京タワー」を目指して歩いたりする。
「東京タワー」は、東京一の「ランドマーク」である(もうすぐとって変わられようとしているが)。
スカイツリーにはない、人々の記憶がこびり付いているのが、東京タワーであろう。だてに50年間も建っていないということ。それぞれの記憶の片隅にある赤い東京タワー。
とても象徴的な建造物。
考えすぎて、迷子になり、過去や未来や場所まで、右往左往している人にとっては、心の中に是非ともほしいと思うような象徴でもあろう。
自分の歩く道の先に、あるいは、その道が正しいのかどうかを知る術としての「ランドマーク」(できれば「自分のランドマーク」)があれば、どんなに素敵だろうかと思う。
ぼんやり自分の道を歩いているときに、ふと周りを見回すと、周囲の人たちは、自分の道を信じて歩いている人ばかりに見えてしまう。
主人公の年齢(20代後半から30代)ともなれば、同世代の人たちは、自分の歩く道を見つけて歩いている人ばかりに見えてしまう。
でも、それは他人の目からそう見えるだけで、本人は、周囲が見えるのに、暗闇の中のような気分を手探りで歩いているのだ(よっぽどの人じゃない限り、たぶんね)。
そのときに「自分のランドマーク」があればどんなにいいだろう、と思うことは当然あるだろう。
自分のランドマークも、自分が歩くべき道も見つからず、迷っている。
そういう人にありがちなのは、(考えすぎて)自分の内側に入り込んでしまうということだ。
だから、劇中では、主人公は、自分の中の「穴」に入り込むというところまで進んでしまう(ここの表現は面白かった!)。これには「おお!」と思った。
主人公は迷いすぎて、現実世界から退行してしまう。だから、非現実の助けがないとやっていけない、そこで、「いるはずのない姉」という。虚構の登場人物と語ることになるのだ。
それがホンネであり、救い、安全弁にもなっている。
過去や未来や、そこでの登場人物が錯綜する中でも、意外と淡々としている主人公。
これは、混乱の極致に達してしまっているからだろう。
もう、「受け入れるしかない」混沌さ、迷い子さ。
とにかく「歩」を進めるしかない。
ボーイフレンドと延々歩くというのがいい。
そして、ラスト。
主人公は、自らの内側から脱出するために、「東京タワー」をよじ登る。やけくそなのか、悟りなのか、目覚めなのかはわからないが、2次元の平面を4次元の軸を踏みしめつつ、3次元への新たな方向へ向かおうとする。それは逃亡であってもいいと思う。(偉そうに言えば)「あがくこと」こそ大切なのだ。
じっとしていてもしょうがないから、「行けるところには行ってみる」という姿勢が必要なのだ、ということ。
それは、とてもいいラストだったと思う。
それにしても、なんとも言えない展開と台詞回し、そして、お母さん、お父さんの表現にはやられた。
一見、飛び道具的なのだが、お母さんの存在感の具象化、そして、お父さんの存在感の「ついで」さ(家族の気配というか)、さらにお父さんの自分への影響などが、一連の展開ですべて見えてくるという演出がうまい。
医者と看護師が両親というのも意味深だし。
笑いもいいい感じに散りばめられていて、本当に面白いと思う。
だから、五反田団は好きだ。
とても個人的なことだけど、その昔、「東京タワーが見える」ということで、武道館あたりから東京タワーまで、意味もなく彼女と2人で歩いたことがある。そう、まるで劇中の2人のように。若いカップルっていうのは、むやみに歩いちゃうものなんだよなあ、と昔を思い出しながら観たのだった。
満足度★★★★★
バレエの美しさと生命賛歌
新国立劇場バレエ団による『火の鳥』『シンフォニー・イン・C』、そして『ビントレーのペンギン・カフェ』の豪華3本立て。
それぞれ40分程度の小品ながら、バレエの美しさ、楽しさ、豪華さを十分に味わえるものであった。
大満足。
ネタバレBOX
ペンギン・カフェ・オーケストラと言えば、ブライアン・イーノのレーベル、オブスキュアからデビューし、人気のあったユニットだった。
いろいろな音楽的要素をミックスしながらも、現代の室内楽とでもいうような、その楽曲は、とにかくオシャレな印象があった。
(もっともオブスキュア・レーベルの他の作品に比べて、オシャレ度が高すぎて私はあまりきちんと聴いたことないのだが…)
そのペンギン・カフェ・オーケストラの曲をもとに(しかもペンギン・カフェ・オーケストラの中心サイモン・ジェフズ自身の手でオーケストラ用にアレンジされて!)行われるバレエということで、興味津々ででかけた。
40分程度の小品ながら、ユーモアがあり、風刺がある優れた作品だった。
バレエというよりは、コンテンポラリーダンスのようであったが、さすがにバレエで鍛えている出演者の身体のキレは素晴らしいものであった。
思わず、笑いが起きるようなユーモラスな動きや、刺激的なシーンなどを交え、物語は、ペンギン・カフェ・オーケストラの心地良い曲に乗り進行していく。
物語では、人間を含めた動物たちの危機が描かれ、ラストに救いが示される。
その「救い」とは、実は、まだそういう救い(対策)は何もないのだ(何もないままに絶滅しつつある種がいるということ)、ということを示唆している。
このほかに、セットや衣装などの作りが豪華な『火の鳥』とシンプルな『シンフォニー・イン・C』の3本立て。
セットも何もなく、一番シンプルな『シンフォニー・イン・C』は、踊り手たちの力量が試される舞台であったと思うのだが、みごとにシンクロする姿や形の決まり方は美しいものであった(踊り出しのタイミングの凄さ!)。
特に、特に最終楽章の美しさ、豪華さには目を奪われた。
ため息ものである。
バレエっていいなと、しみじみ思った次第である。
満足度★★★★
良質のミュージックPVを観た感じとでも言うか
F/Tの海外勢には前回もとても刺激を受けた(日本勢も凄かったけど)。
今回も刺激的。
音(音楽)とビジュアルの融合が気持ちいい。
トリップしちゃうよ(笑)。
(これからご覧になる方へ>字幕の数はそれほど多くないですが、舞台の一番上の黒いところに出ます。また、どんなものにせよスモークが嫌いな方は一番前(あるいは前方)の席はお勧めしません)
ネタバレBOX
舞台には、なんだか本格的な森が鎮座していた。うっすらとスモーク感もある。
そして、開幕と同時に大量のスモーク、さらに轟音(音量は小さいがイメージとしての轟音)。
ん? これって、まるで SUN O))) じゃないか、と思ったら、とたんに楽しめそうな気がしてきた。
本来は緊迫した空気の中で進行する物語なのだが、音楽のライブのような感覚で楽しめた。
後半の女性の歌もとてもいい。それは舞台の上のビジュアルとセットとして、いいのだ。
結果、長いミュージックPVを観た、という印象。どこのどの場面を切り取っても「画」になる作り込みがされていた。
このまま映像で観ても十分楽しめるのではないかと思う。
もちろん、ライブ感は「肉体」があることと、台詞との関係による緊縛感が醸し出されているところにあり(沈黙も)、そこはヒリヒリしながら楽しんだと言ってもいい。
冒頭の体操女子のシークエンスは、一瞬「?」と思ったのだが、見ていると、これってもっともっと同じパターンを繰り返してもいいんじゃないかと、思ってくる。轟音には、うんざりするほどのリピートがお似合いではないかと思ったのだ。
それによって、さらに絶望感が高まったのではないだろうか。
もっとも「絶望感」というには、あまりにもカジュアルな印象で現代的であり、逆に根源的でもあろう。それが「死」に結びつくという図式は短絡的ではあるが、「そんなものかな」というようなドライな感覚で受け止めてもいいのではないかと思ったのだ。
そして、森(で)は求めるものを返してくれるし、隠してくれる。
ラストの猛禽類の演技には驚いた。
大量のスモークは、前に座る観客もきれいなシルエットになっていて、ライティングの妙技とも言え、美しいものだった。
スモークは、薬品系ではなかったようなので安心した(水蒸気のものか?)。
これだけ大量のスモークが、あのイヤな匂いのするヤツだったら、確実に外に出ていた。
……夏だったら、涼しげでなお良かったかも(笑)。
で、帰宅して、当パンを見て驚いたのだが、音楽には SUN O))) のスティーブン・オマリー氏がかかわっていたのだ。な~るほど、と言うか、な~んだ(笑)。
しかも、ジム・オルーク氏やメルツバウの秋田昌美氏も関係したとなると、音楽的な気持ち良さは当然とも言えた。
そして、それらプラス、音響効果なのか、実際の外の音なのかが判然としないところが、また素敵なのだ。
「ライブ演奏」のクレジットにも、スティーブン・オマリー(!!)の名前があるのだが、最後に出て来てもよかったんじゃないかな。
ちなみにyoutubeにあったSUN O)))のライブ映像。まさにネタバレか?
http://www.youtube.com/watch?v=VSoal5Zegpo&feature=relatedv=VSoal5Zegpo&feature=related
満足度★★★★
手堅く面白い
前回はどうしても日程が合わず断念したのだが、スクエアは『泊、』以来の2回目。
2回しか観てない私が言うのもナンではあるが、スクエアはいつも手堅く面白いのだ。
きっちり作り込まれていて、嫌みなところなどは微塵もなく、のんびりと楽しめるという感じ。
ネタバレBOX
バイトから正社員になった市原は、正社員になったのに浮かない顔をしている。
隣に住む大家さんが、物干し台から勝手に市原の部屋に入り込み、心配している。
市原は、マンガ家志望だったのだが、30歳までに芽が出なければ、マンガ家を諦めると妻に言っていたのだ。
そんな中、東京の出版社から市原のマンガを掲載したいという依頼が来る。
妻は、それを聞き、市原がマンガ家を諦めると約束したことを守っていないことに激怒する。
市原は、それでもマンガのほうをとってしまう。
東京の編集者・梶尾は、文芸誌から左遷されてマンガ雑誌にやってきており、市原のマンガを当てて、文芸誌に返り咲きたいと思っている。
そこで、市原のマンガの原作はすべて自分が考えると言い、市原には絵のみ描かせることにしした。
市原は会社勤めをしながらマンガを描く決意をする。同僚でマンガ好きの星野が、仕事上の手助けをしてくれることにもなった。
実際にマンガが出版されたものの、梶尾のストーリーは、学生の主人公が教室に入るまで連載4回分もかかり、常に悩んでいるばかりなど、つまらない内容だった。
その結果、読者アンケートではビリになっていた。
一方、市原の妻は、妊娠し、市原とは不仲のまま実家に帰ってしまった。
窮地に立たされた市原は…。
こういうストーリー。
今回も作り込まれたセットで、夢を追う男とその妻、そして彼らを取り巻く人々という構成で、鬱陶しい人はいるものの、基本、普通のいい人たちばかりが出てくる。
強い葛藤や、大きな盛り上がりには縁遠いかも。だけど、いいな、と思ってしまう。
次も観たいと思うのだ。
物語は、すべて丸く収まる大団円になる。
それはそれでいいのだが、本当は応援したかった妻が、やっぱり夫である市原に戻ってくるあたりの描き方については、もう少し深さがほしかったというのが本音ではある。
妻の気持ちはわかるけど、あっさりすぎるんだよね。
むしろ、市原のマンガが失敗して、連載を打ち切られてしまい、さらに会社もクビになって、という展開のほうが、市原と妻の関係がもっと浮き彫りになってきたのではないかと思うのだ。
もっとベタな人情コメディになってしまうかもしれないのだが。
夢が適ってしまうというのは、メルヘン的であり、イヤな感じはしないんだけれどね。
スクエアの4人ともがいい味を出していた。妻役の阪本麻紀さんの丁寧に感情を追っていく姿は、スクエアにマッチしていてとても良かった。
満足度★★★★
私のレーゾンデートルは何処に?
寓話的な色合いの物語の中に、現代的なコトなどを込めていたのではないのだろうか。
台詞のやり取りが気持ちいい。
ネタバレBOX
どこかの国に似た寓話的な国が舞台。
国の象徴である「姫」は国民のアイドルであり、「神」としても崇められている。
一方、極限的にまで下手な絵のため、戦略的にもの凄い画家として、やはり崇められている変人がいる。
さらに最下層で、芋煮会を行うモテナイ男たちがいる。
そうした社会的な階層が、具体的な3層のセットで示される。
絶対に交わることのないはずの彼らは、「本当の自分を知ってほしい」という想いから、徐々に交わっていく。
「自分は何者なのか」は、わかっているつもりだが、「他人はそれを知っていない」と感じているし、「他人にそれを知ってほしい」とも思っている。
姫にはかつて両親がいたし、変人画家にはいまは亡き最愛の人がいた。彼らが理解してくれていたはずで、それがなくなった現在は、立つ足場がない状態にある。
そこで、他者(正確には他の階級・階層)の人たちと交わり、彼らに理解してほしいと望む。
自分を知ってほしい、という欲望から姫は、世話役の女にため口をきいてもらうし、最下層の男性オクダとも接触をする。それによって、オクダに理解されたと思った姫は、彼に恋心のようなものを抱く。
また、変人の画家は、自分の絵が売れているカラクリを雑誌に暴露し、すべてを失うことを選択する(本当の自分とのギャップにうんざりしていたし)。
しかし、姫の想いは、自分のことをわかってくれたと思っていた、オクダの一言で打ち砕かれ、変人の行動は、あり得ないミサイル攻撃で破壊されてしまう。
オクダには、姫や変人のような欲望はない。なぜならば、彼のことを思ってくれる友人たちがいるからだ。オクダがいないときに、荒れた畑をきれいにしてくれるような友だちだ。
実際には、姫のことを想ってくれる(くれそうな)人も、変人のことを理解してくれる(くれそうな)人も身近にいそうな、結末でもあった。青い鳥の話のように。
結局、「自分を見てくれる人」がいることで、「私はここにいる」ということなのだろう。
他人の認知が、レーゾンデートルの源泉であるという物語だったように思えた。
寓話的な世界と恋愛の根底にあるのは、現代的なコトだったということか。
「階層(階級)」と「恋愛事情」の要素から、観客はそちら方面に強く引っ張られてしまったと思うが、それがあるからこそ、姫の気持ちがぐっと入ってくることになるという、うまいシカケでもあったのだ。
音楽は姫にちなんでか、クイーン一色であった(オープニングSEだけは「God Save the Queen」だったかな?(忘れてしまった・笑))
役者では、姫役の桑原裕子さんが、その感情のきめ細かさを見せるあたりが光っていた。執事のナカガワ(中川智明さん)は渋く、世話役イシザワ(石澤美和さん)のため口からのノリには笑わされた。また、サクライ(櫻井智也さん)のねちっこさがと、キタジマ(北島広喜さん)のいい人ぶりがが印象に残った。
満足度★★★★
日常の中で口を開けている暗闇
うまい役者たちが、とにかくいい「間」「タイミング」で渡り合う中に生まれるリズムと笑いがとてもいい。
ワン・シチュエーションの中、シリアスな進行が笑いを誘うコメディと言ってもいいかもしれない…のだが…。
ネタバレBOX
川嶋と律子は、川嶋のマンションで深い関係になろうとしているというオープニングで始まる。
川嶋のマンションに、川嶋と律子の結婚祝いのために、仕事仲間や部下などが集まってくる。
川嶋はそれぞれを紹介し、集まった客は祝いの品を見せる。
シャンパンで乾杯をしている中、律子と結婚したはずの川嶋の「妻・ミドリ」が帰宅する。
あまりの事態に凍り付く客。
そして…。
とにかく、何がどうなっているのか、一体なぜこんなことが起こったのか、そして、この事態はどうなっていくのか、ということを駆動輪にして物語は進行する。
新たにマンションにやってくる人たちが、また、恐ろしくいいタイミングでやってきて、物語をあらぬ方向へ振り回すのだ。
シリアスであればあるほど面白くなり、まさに、シチュエーション・コメディと言ってもいいだろう。
しかし、コメディと呼んでいいのは、終盤までのことである。
なんとなく違和感が生まれてくるのだ。
それは、律子や妻のミドリ、そして、川嶋自身までもが、マンションのテラスから飛び降りようとすることや、まるでその伏線となっているように、川嶋と仕事で関係のあった人が次々と自殺しているという事実などの、不穏な空気が物語の底辺に流れていることを観客が知っていることもある。
さらに、妻がマンションに帰ってきてからの展開として、明らかに夫である川嶋が身勝手で悪い、としか見えなかったのだが、さらに展開するごとに、ひとつの疑念が頭を横切る。
それは、律子への違和感である。
つまり、冒頭から観客も感じていたであろう、律子のあまりにもエキセントリックな様子である。冒頭に行われる、律子のあけすけな欲望の場面では笑っていたが、どう考えてもその行動はどこかおかしい。
途中の展開でも、律子のちよっとしたエキセントリックさが顔を出す。異常とは言えないほどの違和感のようなものだ。
それは、彼女を好きになった岩谷や、前に付き合っていた岡部のことが明らかになったときに、さらに露呈してくる。
岩谷も岡部も、それぞれ家庭があり、岡部においては、(彼女のせいもあり)すでに壊れてしまっているのだ。
それは、このような状況に陥った川嶋も同じで、妻がある身なのだ。
つまり、律子は、ひょっとしたら、彼らを狂わす何かを持っていたのではないか、と思うのだ。
冒頭で彼女が見せた奇妙な行動(たぶん他の男性にも同様なことを行っていたのだろう)は、彼らの思考を停止させ、さらに彼女のペースに巻き込み、結果、彼女から抜け出せなくなるというものではないのか。
だからこそ、川嶋は「なんでこうなったのかが、わからない」のであり、まず最初に、自分自身のこの行動は、若年性痴呆症によるものではないのか、などと疑ってしまうのだ。つまり、この台詞には納得がいくということなのだ。
してがって、川嶋は、単なる言い訳をずっとしていたのではないのだ。
だって、どう考えても、別れてもいない妻(しかも別れるつもりもないし、嫌いになったわけでもない)と一緒に住んでいるマンションに律子を呼び、結婚する、なんて言うことはあり得ないのだから。
そうすると、川嶋の様子が、まるで魂を抜かれてしまっているようだったな、とも思えてくる。
これは非常に恐ろしい。
律子は(たぶん)自分の行動に無自覚であり、また、周囲の誰もそれに気づいていない。
気づいたときにはすでに遅い。
ラストに至って、川嶋は、今も好きだという妻に去られ、どうやら何かに気づいたようだ。律子の「銀杏の落ち葉を踏みしめながら一緒に歩きたい」という言葉に対して、川嶋は、まったく気のない返事をするだけで、視線もうつろだ。愛する2人が残って、めでたし、めでたし、ではない。
終盤の金子のモノローグで「彼女が死んだあと」という台詞があるのだが、たぷん、ラストに見せた律子に対する川嶋の対応に、律子は何かを察して自ら命を絶ったのではないだろうか。
ただ、そうストーリー読むにしては、ラストの彼女には足りないものがあるように感じてしまった。
「死んだ」という言葉だけがそこに取り残されてしまったようだった。
その処理が残念ではある。
とにかく全員がうまい。全員がくっきりと印象に残った。
川嶋を演じた吹越満さんの魂を抜かれてしまったような演技(特に後半)がよかった。また、おじさんを演じた三浦俊輔さんの、ずるいと言ってしまうほどの設定と演技と台詞(特に英語)は笑ったが、ラストの展開からの「音楽が聞こえない」という台詞が凄いと感じた。そして、とにかく「間」が素晴らしい。
岡部(岡部たかしさん)と岩谷(岩谷健司さん)の、いかにもいそうな人たちの言いそうな台詞回しと雰囲気もよかったし、ミドリを演じた石橋けいさんの感情の振り幅、ゆう子を演じた山本裕子さんの腹に何かを抱えている様子もよかったのだ。また、金子を演じた金子岳憲さんの、おじさんとの絡み(振り回される)のうまさには笑った。
細かい設定や伏線の入れ方もうまいなぁと思った。
満足度★★★★★
地の果てで、押し殺された欲望たちのダンス
バラックのような建物と雪、暗い空、作り込まれた舞台装置。
そこは、閉塞感のみが支配する。
ダンスであり、(ある意味)無言劇であり、音楽劇でもある。
次々とわき上がるイメージの世界が広がる。
ネタバレBOX
雪に閉ざされた最果ての土地に住む人々がいる。
ヨーロッパ人、アジア人など多彩な人が暮らす。
絶えず吹き荒ぶ風が、観客までも凍らせる。
世界の果てのようなこの場所にふさわしい陰鬱さが支配している。
雪や人間関係からくる閉塞感が支配する場所でもある。
しかし、そこにも人は生きている。
窓に明かりが灯れば、暖かい光が溢れ出す。
その光の中にいる人たちは、この閉じられた世界(空間・共同生活・集落)にあり、避けて通れない人間関係が繰り広げられる。
アジアの青年を惑わす妊婦。
一見仲のよいカップルに見える2人の男女。
妊婦は、このカップルの男性にも近づく。
カップルの女性に起こる不信感。
そして、カップルの間のDV。
アジア人の男性2人の様子も怪しい。
彼らを泊めている中年の女性は、彼らのことにいちいち首を突っ込む(キツネらしき小動物を首に巻き、手に猛禽類らしき鳥を持つ姿は凄まじいけど・笑)。
姿の見えぬ、何かに怯えながら、雪に閉ざされた空間に抑圧され、だからこそ余計に欲望が、彼らの頭の中や心の中に沸々とわき上がる。
冷たい世界と裏腹に、熱い欲望はドロドロとしている。
それらが、舞台の上に溢れ出す。しかし、それらは実際にそこで行われているというよりは、彼らの想像の産物ではないのだろうか。
そうした彼らの頭の中を見せていく。
その様子は、恐ろしく、おぞましいのもでありながら、どこかユーモアもある。ユーモアと呼ぶには、あまりにも乾いていて背中には暗さがつきまとうのだが。
この作品は映画『楢山節考』からインスピレーションを得たと言う。動物的本能と土着の因習とを描いたその映画との接点はいくつかあろう。
中でも、「動物」という点で見るととすれば、冒頭で足元で蠢く動物のようなもの、そして、家の縁の下で泣く小動物(鳥?)を雪に埋めるシーンが、動物的本能(つまり『楢山節考』で描かれていた世界観)を雪という概念によって、押し殺している、というこの世界(つまり現代)の状況を示していたのではないだろうか。
『楢山節考』では、本能が白日の下に晒されていたのだが、現代では地の果てと言えども、そうした欲望は、押し殺し、心の中だけで燃やしているのだ。
閉塞感には終わりはなく、欲望も満たされることなく舞台は終了する。
それがこれからも延々と続くのだ。
それにしても、出演者の身体的能力の高さには驚かされる。
なにげなく行われているのだが、恐ろしく凄いのだ。
また、女性が浪々と歌う、歌が素晴らしい。物語をさら膨らませてくれるようだ。
また、音楽も素晴らしい。ベルギーと言えば、Univers Zeroのようなチェンバー系やX-Legged Sallyのようなアバンギャルドなバンドをすぐに思い浮かべることができるのだが、それらを彷彿とさせるような、画の見える音楽が効果的に仕様されていたと思う。
満足度★★★★★
ああ、やっぱり桟敷童子は面白い! そして、深みがある
50分+45分の2本立て。
それぞれは1時間足らずの上演時間で短いけど、やっばり桟敷童子が詰まっている。
どちらも面白くってあっという間!
何を書いてもネタバレになるんで、続きはネタバレへ。
ネタバレBOX
『光と影のバラード』
番外公演ではおなじみの映画のタイトルをそのまま使ったタイトルがいい。まさにそのタイトル通りの物語。
ラブホテルになるはずだった廃墟での話。
自分はダメだと思っていて、死ぬために訪れた川を歩いていた光と、ふとしたことから知り合った聖子がその1室にいた。
聖子は食料を万引きしてくるのだが、その彼女を尾行してきた轟木という女がいた。轟木は、聖子と光を脅し、金をせびろうとする。
3人の女たちがもみ合っていると、小さなと扉が開く。中には縛られた奈津実がいた。
実は、彼女は聖子の不倫相手であり、光が連れてきて、監禁していたのだ。
そして…。
一面グレーの、廃墟のセットで、鏡に映った自分の姿に呪いを吐くようにつぶやく光。非常にダークな雰囲気で舞台は始まる。
しかし、登場人物が1人、1人と登場するごとに物語は展開していく。
もう、とにかくその展開が面白く、わくわくしながら観てしまう。
4人の女のキャラクターがしっかりと立っている。彼女たちの「変わりたい」という意思(温度さはあるが)が、その内部に秘められている様子が匂ってくるのがいい。そして、それぞれが抱える不安が爆発しそうな、ギリギリのテンションにあることが感じられる様が素晴らしいと思った。「退屈」などとは遙かに違う切羽詰まった感じがしている。
廃墟の窓から時折見える「美しい影」。
自分と自分の人生に嫌気がさしている4人の女たち。
彼女たちの、心の奥底での願いは、新しい自分に生まれ変わること。
それができるのならば、犯罪だって犯しても構わないと思っている。
その彼女たちに、手をさしのべているような「美しい影」。
それは、彼女たちに何をもたらしてくれるのか。
影と一緒に消えてしまうのか、影を捕まえて新しい自分に生まれ変わるのか。
「影」と「光(名前)」の対比がいい。
ラストは、彼女たちは、自分の運命を自ら選択し、それに突き進むのだ。その幕切れも納得がいき、気持ちいい。
『珍獣ピカリノウスの法則』
バイト先の先輩・八重樫から誘われて、都市伝説であるピカリノウスが現れる廃墟に誘われる前山田山。
ピカリノウスは、孤独な人間に取り憑くと言う。それによって、24人もの人間が行方不明になっているのだ。
八重樫は、小劇場の女優・雫に孤独な女性を演じてもらい、ピカリノウスを誘いだそうとする。
ラブホテルになるはずだった廃墟に3人が訪れると、その廃墟のオーナー・ヨシコがいた。彼女は自分の持ち物である廃墟に悪い噂が立つのを恐れていて、3人に帰るように促す。
しかし、孤独な女を演じていた雫の様子がおかしくなってくる。
そして…。
タイトルから何が始まるのか、まったく想像がつかなかったが、桟敷童子にしては珍しいコメディ調の雰囲気に心躍る。
しかし、ただのコメディではなかった。
笑いの先にあるのは、「孤独」と「愛」。
センチメンタリズムが爆発し、ピカリノウスが次々登場することで、コメディ的要素もヒートアップしていく。
ピカリノウスの姿の(ある意味において)凄さには、思わず笑ってしまう。
対決するときに各々が手にする、でかいマイクのような棒も意味なくて面白い。
深みがあるのに、笑いも起きる。こんな経験はなかなかない。
見事!
こちらも、どう展開していくのか、まったく目が離せない。もう、面白いって言うしかない。
2本の短編は、実はつながっていたことがわかる。
もちろん、1本ずつでも成立する物語ではある。
本公演では伝奇的な要素が強いのだが、この公演では、都市伝説のようなものが軸になりつつも、「人」に本当の軸があり、その「気持ち(心)」がクローズアップされる様はまさに桟敷童子なのだ。
そして、この2本に貫かれているのは「愛」だ。
「孤独」と「愛」の関係を見事に提示してくれた物語の面白さには、驚かされた。
桟敷童子の番外公演は、いつもこの成子坂劇場で行われているようだ。
ここの劇場の特徴は、舞台と客席が近いことにある。
そして、番外公演は、少人数で演じられるので、短編であっても、個々の役者さんたちの印象が鮮やかに残る。
本公演とは違う姿を見せてくれ、新たにいい役者に出会えることが、いつもある。
今回の公演では、『光と影のバラード』で光を演じた大手忍さんの、光を全部吸収しちゃうんじゃないかと思ってしまうほどの暗い表情と、目、すなわち後半になるに従い、強さに変わってくる目が素晴らしいと思った。近いからこそ味わえる醍醐味でもある。聖子(中井理恵さん)の何かを悟りきったような不思議な佇まい、轟木(新井結香さん)のワルを装っているのだが根は…というキャラ、奈津実(椎名りおさん)の、鬱陶しくて哀しい女が印象に残った。
また、『珍獣ピカリノウスの法則』では、雫を演じたもりちえさんの、小劇場の女優には笑わせてもらった。気迫を感じたし(腹の据わった感じがいいのだ)。ヨシコを演じた外山博美さんは、もうおばさん(と子ども)を演じたら適う者なしなのだ。八重樫(深津紀暁さん)のクールに見えて、妻を取り戻したいという焦りの雰囲気、松尾(鈴木めぐみさん)の後半に吹き出す母の感情、そして、前山田山(井上昌徳さん)の普通の青年ぶりが印象に残る。
当日配っているチラシの中には、もりちえ扮する雫(小劇場の舞台女優)が出演する次回公演『三人姉妹は力持ち』(作・演:西憲司・笑)のチラシも、さりげなく入っているので、お見逃しないように。