蛇と天秤 公演情報 パラドックス定数「蛇と天秤」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    醜く、恐ろしく、滑稽で、哀しく、憐れな人間たち
    確かにタイトル通りの物語が進行していた。
    ただし、それはあくまでも「道具立て」であり、そこで繰り広げられたのは、「ある状況下での人間の行動」。
    それは、醜く、恐ろしく、滑稽で、哀しく、憐れな姿であった。

    ネタバレBOX

    会場も含めて見事に設定されていた。
    入場すると、小さな机付きのイスが並ぶ。チラシの束は茶封筒に収められ、その上にはなにやらレジュメのようなものが。
    舞台となる場所にはO.H.Pプロジェクターがある。

    そう、ここは大学病院内で行われる公開講座の会場だったのだ。
    私たち観劇は、その講座を受けることから始まるのだ。

    手触りが硬質の物語が進行していく。

    登場人物各々の歪み方がいい。
    背中にはそれぞれが抱えているものがあり、そうした「気持ち」を内在しつつ、物語は進行していく。
    しかし、内在した「気持ち」は常に発酵状態にあり、それが物語が進行する中で、ところどころで噴き出してくる。

    こんな表現がうまいのだ。

    爆発しそうなのに、爆発させることができない状況下にあって、声をあまり荒げることもできずに発するトゲトゲしい様が、真っ白く無味乾燥の壁に反響して、観客の気持ちも荒立てていく。
    ストーリー自体が、一般の人からすれば神経を逆撫でするようなものであるだけに、それはとても効果的であった。

    ストーリーとしては、現実にはあり得ないほどの飛躍があるものの、全体的な「うまさ」で見せてしまう。
    それは、演出、役者のうまさだろう。

    物語としては、生命の大切さとか、薬剤開発の裏側とか、大学病院でのヒエラルキーだのを、批判・批評するというものではなく、ましてや、大城助教授が唱える「生物はみな平等」という考え方を問うものでもなかった。つまり、何かの問題提起ということではない。あくまでも、用意された「ストーリー」は「道具立て」にすぎないのだ。

    つまり、ある状況下に置かれた人間の行動を綴ったものであったのだろう。
    保身のため、利益のため、感情のために、自分の腹の中と一致したり、不一致だったりする、人間の、醜さ、恐ろしさ、滑稽さ、哀しさ、そして、憐れな様子がそこに表現されていたと言ってもいいと思う。

    ただ、少々残念なのは、「公開講座の会場で起こったハプニング」という当初の設定があるものの、事件の核心に触れそうになるシークエンスで、「一般の観客の前である」ということを、もっと盛り込むべきではなかったのだろうか。
    人が何人も死んだという出来事が、事件性を帯びてくるところでは、当然「そこにいる部外者の目」は気になるはずであろう。

    それと、気になったのは「助教授」という名称、そんな言葉はすでにないはず、「准教授」が正しいのでは?

    登場人物は当て書きであろうと思うほど、しっくり役になっていた。
    中でも、講師の才原を演じた西原誠吾さんの「気持ちの上での」頭を上げたり下げたりという、感情の発露と押さえ方が見事だった(台詞の感じが)。
    また、研究者の諸川を演じた加藤敦さんの独特のねちっこさ、どの状況でも同じでクールな大城助教授を演じた生津徹さんの、実は一番歪んでいたという内面が垣間見られる目(何も見てない、何も感じてない)が印象に残った。

    早い時期にチケットを購入した観客向けの「おまけ」は、薬袋に入ったタブレット状のタオルだった。
    薬袋はちゃんと、舞台の設定通りの帝塚山大学付属病院のものだった。ナイス!
    こうなると、制作スタッフ(受付や案内のスタッフ)も、大学で働くスタッフという雰囲気がほしかった(看護婦はコスプレすぎてNGだけど・笑)。

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    2010/11/11 05:57

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