1
近松心中物語
シス・カンパニー
近松門左衛門の「冥途の飛脚」をベースに、「ひぢりめん卯月の紅葉」「跡追心中卯月のいろあげ」を織り交ぜて2組の男女の物語として秋元松代が書きあげ、蜷川幸雄演出で79年2月に初演され大ヒットした作品だが、私が観たのは、おそらく83年の夏、帝劇では3回目の上演時だったろう。忠兵衛は平幹二郎、梅川に太地喜和子、与兵衛に菅野忠彦、お亀に市原悦子という顔ぶれだった。終盤の本水を使った演出が印象に強く残っている。
蜷川幸雄によって何度も上演された作品だが、蜷川の死を受けて、今回は劇団☆新感線のいのうえひでのりが演出。
今回ほぼ35年ぶりに観ようと思ったのは一昨年の劇団だるま座「金の卵1960~あすなろう~」で観て以来、ずっと注目していた青地萌が出演すると知ったから。台詞はなかったものの、冒頭の花魁行列の脇でぴょんぴょん飛び跳ねている(笑)ところから始まって、細かな動きと表情がよく目立っていた。
冒頭は桟敷童子「標」を思わせる一面の風車。
忠兵衛・梅川と与兵衛・お亀という崖っぷちの男女二組の運命がテンポよく描かれていく。
梅川役の宮沢りえとお亀役の小池栄子という2人の女優が秀逸。
小池栄子は昨年のTVドラマ「下北沢ダイハード」でその魅力を再認識したところだが、私が彼女をナマの舞台で観たのは03年の夏にアートスフィア(現在の天王洲銀河劇場)での「森は生きている」だけ。今回が2回目となるが、存在感がぐっと増した。
全体を通して期待以上の作品となっていたが、殊に、一面の雪原をよろめきつつ舞台奥へと歩む与兵衛の向こう(舞台奥)に遠く新町と人々が現れるラストシーンが素晴らしかった。
2
渦中の花
room42
新しいユニットの旗揚げ公演であるが、その質の高さに驚愕した。
7年前の文学座のサマーワークショップの際に、参加者の一人であった野村亮太が「7年後、もしお互い芝居を続けていたならば、一緒に公演をうとう」と約束していたのだという。その後野村は大阪で役者活動を続けていたが、芝居を続けるかどうかを悩み、上京。多くの出演機会を重ねたことにより手応えを感じ、役者を続けることを決心し、7年前のW.S.の仲間に連絡をとったところ、トントン拍子で結成されたものだという。ワークショップに参加しただけのメンバーが7年前の口約束に積極的に参加するという、その成り立ちにまず感動する。
メンバーで私が知る役者は柏尾志保と辻井彰太。そこにOn7の宮山知衣(テアトル・エコー放送映画部)が客演している。この3人が出演していることで観ようと思ったのだったが、おかげで素晴らしい舞台に出会うことができた。
作・演出は牡丹茶房の烏丸棗だが、この人の作品は初見(終演後の挨拶に登場したが、いや~ぁ、美人だった…)。
雨の中、車で恒例の神社参拝に出かけた父母と長男夫婦、長女夫婦の6人。そこで、母親が行方不明になる。その不可思議な出来事を境に、一見睦まじく見えた家族間の確執が次々と明らかになり、暗い闇に包まれていく…。
家族間の不和を増幅させる母親のパート先の同僚の男や、得体のしれない巫女…といった人物が不気味な雰囲気を漂わせる。
“実際に起こった未解決事件をモチーフに描く幽玄なる失踪劇”とのことであったが、濃密な空気が舞台空間を覆いつくし、目をそらすことができない。
見事な作品だった。
3
死旗
鵺的(ぬえてき)
寺十吾のtsumazuki no ishiと高木登の鵺的による合同公演である。
冒頭、暗い中でくちゃくちゃと何かを食べる音。舞台がやや明るくなると、そこには裸に剥かれ、餌食となって食べられた女の身体が生々しく横たわっており、傍に浮浪者のように汚れきった男たちの姿が…。
近親相姦や女を殺して食べることが当たり前のように行われている山奥の村が舞台。冒頭から衝撃の舞台空間がこれでもか、これでもかといわんばかりに展開される。いやぁ、こんなドロドロの芝居、久々に観た。
終始暗い照明の中で本水の雨を降らせたり、これがスズナリかと驚くが、そういえば桟敷童子がここで公演した時(「紅小僧」)も、終盤で舞台床面が持ち上がると、その裏に真っ赤に紅葉した森が作られており、一面の穴となった床下からは落ち葉が吹きだすという使われ方をしていたなぁ。
ともかく、決して愉快でも心地いい訳でもないが、観終わったあとに、ずっしりと重いものを残す作品だった。
序盤からおっぱいむき出しで、それをわしづかみにされたりする女が存在感ありすぎで、ギリギリに予約した私の席は後方で、最初は顔がよくわからなかったのだが、暗い客席でなんとか当日パンフの配役を確認したら、なんとVoyantroupeの看板女優・川添美和だった。彼女が脱ぐとわかっていたら、もっと早くに予約して前方の席を確保するんだったのに…(笑)。
それにしても自劇団の奥野亮子ではなく、他劇団の看板女優を脱がせるなんて、高木さんもやるなぁ(爆)。
4
ドキュメンタリー
劇団チョコレートケーキ
チョコレートケーキ劇団員のみで行われた公演。従って登場する役者は西尾友樹・岡本篤・浅井伸治の3人のみ(制作の菅野佐知子もノアノオモチャバコでは役者として活動しているが、チョコレートケーキでは制作に専念している)。
なにより、今やシアタートラムでさえも初日前に全ステージ完売して立見が大勢出るほどの人気劇団となったチョコレートケーキが、サンモールスタジオやこの楽園のような小さな空間での公演をやろうという心意気が嬉しい。
小空間での3人だけの舞台といえども、その内容は血液製剤とエイズの関係から第二次世界大戦下の日本軍の731部隊へと掘り下げていく緊密な構成と、濃密な空気感はやはりチョコレートケーキである。
私は森村誠一が「悪魔の飽食」を書く以前から731部隊については知っていたが、こういう描き方は思いもよらなかった。この作品は11月公演の「遺産」とペアを成すというが、これまた楽しみだ。
5
翼の卵
劇団桟敷童子
いかにも桟敷童子らしい舞台世界。
入場してまず舞台前方の上を見上げるが、今回は紙吹雪を降らせる装置はなし(笑)。安心して最前列センターに。だけど、Twitterには嬉々として紙吹雪を切っている原田大二郎の写真が掲載されてたよなぁ…。
昭和49年7月7日から物語は始まる。
舞台には篠塚畜産農園の看板の下に昭和解体社/浦部組宿泊所と書かれた木札が打ち付けてある。
ここに行方をくらませていた篠塚家の長男・毅彦が妻・頼子とその高校生の娘・恵子を連れて帰ってくる…。
群像劇だが、誰一人として扱いが軽い登場人物がいないのは、さすがに東憲司だ。
大手忍は恵子役で、実年齢を全く感じさせずにセーラー服がよく似合う(笑)。
浦部組の従業員・常藤耕作役の原田大二郎が物語の柱となるが、加えて毅彦役の坂口侯一(一の会)の怪演が光る。
今回はラストでどんな仕掛けがあるのかと思っていたら、ド派手な屋台崩しに続いて、舞台奥には紅白歌合戦での小林幸子のような大きな装置衣装を纏ったちっちゃな大手忍が登場した!
6
リチャード三世
芸術集団れんこんきすた
前日はシス・カンパニーのイプセン作「ヘッダ・ガブラー」を観て、この日はシェイクスピアの「リチャード三世」…本格的な海外戯曲が連続する形となった。
地下の劇場に続く階段のところに、チラシと合わせて“直近の駅へのダイヤが15分以上遅れない限り、定刻に開演”する旨の掲示がされている。5分程度の開演遅れは当たり前のような顔をしている小劇団が多い中で、こういう姿勢は実に好感が持てる。
チラシは血に塗れた白いバラ…白薔薇はヨーク家の象徴であり、それをリチャード三世が血で汚したということが巧みに表現されている。幻想芸術集団Les Miroirs主宰である朝霞ルイによるデザインだが、感覚が素晴らしい。
シェイクスピアはリチャード三世を狡猾で残忍なせむし男として描いている(この“せむし”という点については疑問も呈されていたが、2012年に発掘されたリチャード三世の遺骨に脊柱後湾症の痕跡が見られたことから、あながち誇張ではなかったことが証明された)。が、れんこんきすたの座付作家であり演出でもある奥村千里は、このシェイクスピアの「リチャード三世」に新たな光を当てている。
開場されて中に入ると、客席最後列の椅子には頭からすっぽりと黒衣を纏った6人の人物が俯いて座っている。舞台には四角くむき出しのステージが組まれ、その後ろでも黒衣の人物がゆっくりと動いている。開場時から何やら不気味な空気感が客席全体を覆っている。
開演間際に客席奥から黒衣の人物がステージに上がり、うつぶせに横たわる。トイレ待ちの客のために実際の開演は2分遅れたが、既に開演していたと言うこともできる(上演時間2時間40分弱)。
やがて客席最後列に座っていた6人をはじめとした黒衣の11人がステージを取り囲み、客電が消える。一瞬の後に舞台に照明が当たるや、ステージを取り囲んだ11人は黒衣を剥ぎ取り、中世イングランドの男女と化す。彼らは“戦で死んだ最後の王”リチャード三世により汚名を着せられ、あるいは殺された人間たちで、横たわるリチャード三世の死を喜ぶ一方で、彼を生き返らせ、自分たちの恨みを骨の髄まで思い知らせようと話し合う。前王・エドワード四世の相談役であり、その歴史を記していたイーリー司教は「最後の審判が下されるまでは何度でも歴史を書き換えることができる」と言い放ち、やがて彼らは横たわるリチャード三世に近づき、「生き返れ」と強く唱える。と、リチャードが身体を起こす。開演直前に横たわったのは中川朝子であったのが、開演時の一瞬の暗転の内に濱野和貴と入れ替わっている。実はこの部分さえ、終盤で意味を持ってくるのだが、ここらの奥村の構成の見事さが光っている。
ここから本来の「リチャード三世」が始まる。エドワード四世の弟であるグロスター公リチャードは王位をものにしようと企み、巧みな話術と策略で政敵を次々と亡き者にし、その女性たちを籠絡して見事王位に就くものの、その栄光もつかの間、ランカスター家の血筋を引くリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー七世)が兵を挙げ、ついにはボズワースの戦いで討たれる。
ここで冒頭の場面に戻り、リチャードを取り囲んだ男女は、それぞれに「絶望して死ね!」と叫びながらリチャードを刺していく(この場面、私はアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」が一瞬頭を掠めた。「オリエント」の方は刺し傷が12ヶ所だったが、このれんこん版「リチャード三世」でもあわや刺し傷が12になろうとする…)。
が、息絶えたリチャードを見ながら、彼らは「これではまだもの足りぬ」と言い、イーリー司教の「何度でも書き直しましょう」という言葉に力を得て、再度リチャードを生き返らせようとする…。
さて、この終盤で“時の娘”という言葉が2度登場する。“真実は時の娘”というフレーズの一部であり、“時の娘”とは真実や真理を意味し、“真実は、今日は隠されているかもしれないが、時間の経過によって明らかにされる”という意味だとされているが、それと共に思い出されるのは歴史ミステリの名作として、またベッド・ディテクティヴの嚆矢的作品として知られるジョセフィン・テイ作の長編推理小説「時の娘」だ。骨折して入院した警部が退屈を紛らわすために史料を集め、せむし男というイメージや甥の殺害をはじめとした様々な悪行により英国史上“稀代の悪王”というリチャード三世の悪名は、彼を打倒したチューダー朝によって不当に着せられたものであることを証明する作品だ。実際に最近では、リチャード三世の統治下、英国の商工業の発展は著しく、貿易も盛んとなり、国内政治は安定していたこともあり、実際は残忍な王ではなかったとされるようになってきている。
この“時の娘”という言葉が残忍な悪行を繰り返す(と、恨みを持った人間たちの感覚で描かれる劇中劇のような形での終盤の)リチャードの口から出るところこそ、奥村の真骨頂ともいえるのではないか。
歴史は常に書き換えられる。戦勝国である米国のG.H.Q.によって戦前の日本がいかにも暗黒時代であったかのような教育がなされたのと同様に…。一方、現在の日本に言論の自由があるのはそうした米国のおかげでもあるのだが、その恩恵に浴すばかりで「日本は米国の植民地」だの「日本人は米国の家畜」だのと上から目線で言い募る自称文化人がはびこっているのは悲しいことだ。そうした輩はさっさと理想とする他の国に行けばいい。中国や北朝鮮だったらどういう目にあうか…。
劇中を通してステージ後方には王族たちが一列で座り、リチャードの所業(と彼らが思い込む事件の数々)を見つめているのだが、中川朝子はほとんどの場面で彼らの後ろに隠れており、たまに登場するとリチャードの影の人間として動き回る。終盤で彼こそが実はリチャード本人であることが明らかになるのだが、そうすることで、一般に信じられている面は歴史を書き換えた者の思惑であり、真実の姿はその裏に隠されて別にあるといった両面性が巧みに表現されている。
その他の役者陣も皆が熱演だが、殊にヘンリー六世の妃・マーガレット役の高橋仙恵が素晴らしい。佇まいが王妃然とした威厳を感じさせる。
惜しむらくは台詞を噛む場面(殊にリチャード役の濱野和貴)が頻発したこと。初日といえども完璧に仕上がっていないのなら客に失礼だ。
あと、こういった歴史劇(殊に西洋モノ)では登場人物の相関関係がわかりづらい。明治大学が毎年、全学を挙げて取り組む「明治大学シェイクスピアプロジェクト」の公演パンフには必ず相関図が付されているが、そうした工夫も必要だろう。
ともあれ、これは観るべき価値のある舞台だ。
7
同棲時間
亜細亜の骨
日本では上演される機会がほとんどない台湾の戯曲である。
台湾人3人で演じられ、時折日本語で会話がなされるが、概ねは台湾語で日本語の字幕が出る。
台湾のボロアパートの一室。ここで一人暮らしの末に死んだ父親の遺品を片づける弟。そこに日本人の母を持ち、日本でサラリーマンをしている兄がスーツ姿でやってくる。実はこの2人、以前兄が出張で台湾に来た時に興味本位でマッサージパーラーに行き、そこで彼を見染めた弟に誘われ、兄弟と知らずに同性愛にはまりこんでしまっていたのだ。
そこにこのアパートの家主で、これも同性愛者のサルサが現れ、三人三様の生き方が交錯していく…。
同性愛の濃密な描写といい、行儀のいい日本人の何気ない異国人差別の問題を根幹に置いた設定といい、かなりショッキングな内容ながら、惹きつけられ、目が離せない。
台湾演劇の力をみせつけられた舞台だった。
8
フランケンシュタインー現代のプロメテウス
演劇企画集団THE・ガジラ
フランケンシュタインを描いて、秀逸な舞台世界を創りあげている。
若き日のフランケンシュタインを演じた岩野未知がとてもいい。
9
砂塵のニケ
劇団青年座
青年座劇場がビルの老朽化による建替のために、59年の歴史に一旦終止符を打つという。その最終公演はてがみ座の長田育江が書き下ろした「砂塵のニケ」。長田にとって青年座は初登場となるが、それも創作戯曲の上演を大きな柱としてきた青年座らしさを感じさせる。
青年座という劇団、そしてこの劇場、さらには20代の一時期毎晩のようにやって来た代々木八幡という場所(青年座のある角を左に曲がり、2つ目の階段から坂を上って、路地を大通りに抜けた場所が目的地で、一人の時は「マイ・フェア・レディ」の「君住む街角」を口ずさみながら歩いたものだった…)には思い入れがあり、個人的にも別れを告げたくて千穐楽で観劇。
さて青年座という劇団への思い入れの理由はというと、以前にも書いてはいるが、今では年間350本前後の舞台を観る私だが、最初に「演劇ってこんなに面白いものか」と心底思ったのは青年座の地方公演「夜の来訪者」(プルーストリー作)を高校生の時に故郷の佐世保で観た時だった。この作品は当然私の生涯BEST5の1本となっており、演出だった森塚敏(後の座長)の名前は私の心に深く刻みつけられた。
そして生涯BEST5のひとつとして、20世紀最後の年に初演され、1回きりが通例だった俳優座劇場プロデュース公演としては異例といえる毎年再演が繰り返された「高き彼物」があるが、この作品(私は毎年観た)に前述の森塚敏が客演しており、ラストシーンはその森塚の顔にあたったスポットライトがフェイドアウトして幕…というものだった。その時に折込アンケートに「夜の来訪者」のことを書いたおいたところ、後日森塚から手紙が送られてきた。そこには「夜の来訪者」は森塚が演出を任された最初の作品で、若い情熱をありったけ注ぎ込んだことと、30年以上前の作品の演出家の名前を憶えていてくれたことへの感謝が綴られ、日記を調べたら佐世保公演は●●年●月●日だった、ということまで書き添えてあった。このことで青年座が私にとって特別の存在となったのだ。
そうした思い出の青年座劇場もこれで最後かという感傷で胸がいっぱいになる。終演後にこの千穐楽だけ配られるという青年座劇場の平台を細かくカットしたものに青年座のロゴを焼印したキーホルダーをしっかと握りしめて劇場をあとにした。
10
黴-かび-
BuzzFestTheater
一部ダブルキャストの青を鑑賞。
ほんの少し前にあることでSNSを炎上させたコウカズヤだが、彼の作品群を観ると、それらがいかに彼の本質をみない中傷のための中傷かよくわかる。
この作品も人間の心の奥底を次第に浸食していく“黴”を見事に描きだしつつも、家族や血といったものを深く考えさせる秀作となっている。