旗森の観てきた!クチコミ一覧

381-400件 / 698件中
All My Sons

All My Sons

serial number(風琴工房改め)

シアタートラム(東京都)

2020/10/01 (木) ~ 2020/10/11 (日)公演終了

満足度★★★★

アーサーミラーの1947年のデビュー作だからさすがに古い。アメリカ演劇が注目を浴び、勢いのある時代の気合の入った作品ではある。三位一体古典劇のしっかりしたつくりだが、芝居の中身はイプセン風の古めかしい社会倫理ドラマである。確か民藝が数十年前にやった、いかにもそういう作品だ。
アメリカンドリームに乗った起業家の製造責任を、その起業家の家庭劇の上にのせている。起業家は金物製造業で戦時中に戦闘機のキャブレーターを作っていたが、不良品を納品してそのために21機の墜落があった。それの責任を共同経営者に押し付けて、工場はうまくいっているように見えるが、裏ではそしられている。その起業家と二人の息子の運命の一日を描いている。ニューヨークから列車で二三時間という地方都市の起業家のポプラの大木がある家のオモテの一杯舞台の装置が、小劇場としては東京随一の天井の高い、奥の深い劇場の特性を生かしてよく出来ている。
俳優は神野三鈴、大谷亮介、に脚本・演出の詩森ろぼの劇団シリアルナンバーから田島亮など。意外に皆神妙な新劇風で、戯曲解釈も舞台作りもオーソドックスと言えば聞こえはいいが、どうにもいじりようがなかったのではないか。今この作品を取り上げる意味も伝わってこなかった。
今月はアメリカ演劇を十二人から始まって、心の嘘、みんな我が子と名作ばかり見たが、改めてアメリカという国に生きる難しさを感じた。また、いずれも日本人にとっては、ホントのところはよくわからない、隔靴搔痒というところも、どの舞台からも感じられた。

ネタバレBOX

この小屋の劇場警察は殊に元気がよく、ご注意の数々も、くどく不愉快。ことに客に対しアンタの為にやってんだ的な言い回しには閉口する。公共劇場を抑えると意外に政府の思想統制もできてしまいそうなコロナ実験である。
MISHIMA2020

MISHIMA2020

梅田芸術劇場

日生劇場(東京都)

2020/09/21 (月) ~ 2020/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★

なぜ、いま三島没後50年でこの4編を上演するのか、解らないが、今回上演の一編「真夏の死」は面白く見た。演出は「た組」の加藤拓也。出演は中村ゆりと平原テツ。三島存命中、その後しばらくは一切原作に手を入れられなかったが、今回はかなり原作へのリスペクトはありながらも、切り込んでいる。班女と違ってこちらはもともとが小説である。この脚色が非常にうまくいっている。
日生劇場の大きな舞台に椅子が二脚、そこの男女二人の役者が腰を下ろし、夫婦のモノローグ風に物語を語っていく。始まった途端、失礼ながら、あまり大劇場の経験のない演出・俳優で、いくら1時間の短編とはいえ、これで大丈夫か、と思ったが、どうしてどうして、小さな舞台から少しづつシーンを広げていく段取りなどうまいもので、最後には広い海浜まで目に見えるような気がする。椅子にちょっとした仕掛け(椅子の足だけ延ばして高くなる)があるだけで、こういう構成ができるのは大したもので、俳優二人も大健闘。ことに中村ゆりは、ナレーション風の読みの緩急もうまいし、後段変化していくところもそつがない。
班女は近代能楽集で、麻美れい、中村蒼、橋本愛、演出は熊林弘高、興行側としてはこちらがメインだろうが、三公演では気が乗らないのか、装置は埋めようと考えているのに大きな舞台を持て余し気味で、やはりこの戯曲は紀伊国屋ホールあたりが適度な大きさだと思った。その点でも、「真夏の死」は結局大劇場に負けていない。拾いものの良さであった。
それにしても、コロナ自粛もそろそろ終わりだろうが、ほんとにしらける。こんなことを劇場側が得意そうにやっているようでは、劇場に客なんか戻らないぞ。全興連も政府に唯々諾々としたがっていると肝心の客を逃がしてしまう。

十二人の怒れる男

十二人の怒れる男

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2020/09/11 (金) ~ 2020/10/04 (日)公演終了

満足度★★★★

おなじみのディスカッション劇である。もう何度も見たが、何度見ても面白い。陪審員が十二人。問われた裁判は、少年の父親殺し。ニューヨーク下町の貧しい家庭の犯罪である。有罪対無罪の比率が最初は11対1.これが話し合ううちに次第に無罪へ変わっていく。陪審員番号8号、映画ではヘンリーフォンダが演じたおいしい役を堤真一が演じる。今回のキャスティングは、いろいろなところから面白い俳優を集めている。山崎一のような意外な役柄もあるし、絵で書いたようにハマった石丸幹二、溝渕淳平。柄で説明しきったような青山達三、永山絢斗,それぞれ役の味に本人のガラも加えて健闘しているのだが、どこか物足りない。演出が英国人の為かと紹介文を見ると、コロナ騒ぎで来日せず、リモートで、映像を見ての演出だった由。これでは、演出側も、俳優側も一応の動きになってしまって。行き届かない。生身の人間で切り結ばないと、お互い豆腐を切っているようで歯がゆかったに違いない。言葉が分かる、解らないの問題ではない。舞台に肉感が乏しくなってしまう。それでも、おもしろいのは脚本の功だろうが、今回は50年代のニューヨーク下町の陪審員の生活感覚はかなり切られていて、話し合わなければならない、という事と、被疑者への偏見が、クローズアップされている。(戯曲を手にして見たわけではないので間違っていたら後免)今までの公演では、幕開きはニューヨークの下町のグランドノイズだったと思うが、今回は優しい音楽から入る。そういうところにも時代を感じた。休憩なしの2時間。


心の嘘

心の嘘

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2020/09/04 (金) ~ 2020/09/20 (日)公演終了

満足度★★★★

ひさしぶりに新劇らしい翻訳劇を見た。それも、アメリカンドリームの妄執の中に生きる人々群像の生粋のアメリカ演劇。1985年の作品というから、今のアメリカではないが、ギスギスが極まり始めたころの二組のホーム・ドラマが舞台で交錯する。トランプ社会の原点を見る感じがする。筋を追っても仕方がないところもあるので、感想を列記すると、
40年近く前といっても、アメリカの妄執のドライぶりは半端ない。下流社会で生きているだけのような人生に時代を重ねる物語だ。しかし、それを、日本語で日本の役者がやると、湿気が多くなってしまう。親子兄弟夫婦という日本的関係が抜きがたい。それが悪いか、と言うとそんなことはない。芝居は、そこで生きている役者しか登場できないし、差配する演出者も同じ環境にあるわけだから、もととは違うことを承知の上で見なければなるまい。それでもアメリカが透けて見えるし、翻ってわが姿も見える。痛烈な時代批評である。こういう芝居は公共劇場でやると、昨年の新国立の「1984」みたいに、文部省への恐れながらやらせていただきます的な過剰なヒラメの配慮が出て惨憺たることになるから、劇団主催のよさが出た。翻訳も演出もテンポがいい。
二つ目。俳優座は役者の層も厚いし、皆上手いという事がよく分かった。。
主演の志村史人も、飯見沙織も知らなかった。斎藤深雪は、地味な脇役で目立たない人だったのに、なんと、ものすごくうまいではないか。役の難しい安藤みどり。演出者が注文したことをちゃんと演じていることが分かる。
ことにみなセリフがいい。上手下手を言う前に、とにかくはっきり聞こえ、ニュアンスが受け取れるセリフになっている。
三つ目。自粛劇場警察も後二週間。あのイヤーな雰囲気は早く払しょくして芝居を観たい。「心の嘘」のような芝居は自粛劇場で公演成果50%引き。客も席を減らしてもいっぱいではなかった。しかし、苦しいのはわかるが、だからと言って来た客に寄付せよ、というのは観客の共感を呼ばないだろう。客はタニマチじゃない。
最後に、俳優座もようやく上演作品が意欲的になって文学座の後ろ姿が見えてきた。あと奮起を望むのはいつまでも低調の民藝。三劇団でなければ見られない芝居はあるのだから。

知ラン・アンド・ガン!

知ラン・アンド・ガン!

劇団献身

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2020/09/04 (金) ~ 2020/09/13 (日)公演終了

満足度

面白い,いい舞台だと言われて見に行った芝居がつまらない時ほどがっかりすることはない。
とにかく、この舞台をあれこれ言うのは止そう。忌憚なく言えば戯曲、演出、演技俳優、美術や音照明を含めて、珍しく良いところが何もない舞台なのだ。、数々の若い演劇人の仕事をいち早く紹介してきた三鷹星のホールの新人発掘シリーズ。過去には何度も、寂しい三鷹の夜道が輝くような公演があった。近いところではiaku。献身という劇団は見たこともなかったので、ほかでいい仕事があるのかもしれないが、これを見た限りではそういう僥倖もなさそうな気がする。これは選んだ方にも責任がある。劇場企画で選定者の名前が出ていないが、新人を出すのは共同責任だ。名前標記で、選定理由を聞かせてほしい。贔屓の引き倒しは結局だれの利益にもならない。

ネタバレBOX

なんだか苦し紛れで上演したような感じもする。それなら、やめればいいのに。コロナ騒ぎの中だからだれも傷つかなかったろうに。
ひとよ

ひとよ

KAKUTA

本多劇場(東京都)

2020/09/03 (木) ~ 2020/09/13 (日)公演終了

満足度★★★★

このコロナ規制が行われているさなかに、小劇場がかなり大きな箱で公演するという勇気にまず敬意を表しよう。演目に劇団の三演円目になる代表作を選んだのも見識である。
苦難の時期に代表作で勝負しようという心意気。戯曲は、現在の世相をよくとらえていて、ドメスティックバイオレンスから生じた夫殺しを軸に、地方都市の生活の実感(犯罪者への差別、偏見、問題を抱えてここに流れ着く他郷からの流れ者への対応)を小さな家族営業のタクシー会社を舞台に一つの家族に集約した秀作で、11
年初演、15年の再演(共に主演は岡まゆみ)、も、どこかで受賞していると思う。戯曲は時々に代わっているのであろうが、難しい素材を巧みに処理した現代劇の秀作である。さらに映画では、若い白石和弥監督が主演者に田中裕子を迎えて優れた映画作品を創り上げている。
今回の公演は主演に渡辺えりを迎えている。その功罪が今回の公演の全てのような出来である。確かに、今の社会環境の中で、夫殺しの犯罪者を出した家族の生き方は、ことに地方都市では気の重いものであろう。夫殺しの原因が家庭内暴力であり、そのことで青春期にあった家族それぞれがその負荷を追っていくとは苦難の道であったろう。主人公もそれを見越して、刑期を終えた後、八年間も故郷に戻ってこなかった。
その苦しみと、家族の運命の重さが、渡辺えりのガラに合わないのである。何事もなかったように家業の中に戻っていくところなどは、この女優のガラがあってこそ成立するのだが、それが戯曲の新しい狙いになったとは思えない。
コロナ禍の中で、あまり重いテーマでは、と考えたのだろうが、その配慮が裏目に出た。幕切れの渡辺えりの号泣が何のための号泣なのか観客につかめない。家族それぞれの生き方が変わった「母」への思いもよく伝わらない(登場人物13名は一人づつよくかけているが少し多いか)
一夜は何があっても物理的には一夜でしかないが、それを受け取る個人になるとその長さと重さはそれぞれである、というようなせりふが最後に出てくるが、そんな相田みつおみたいな言葉よりも深いシチュエーションが舞台では提示されている。

楽屋 —流れ去るものはやがてなつかしきー

楽屋 —流れ去るものはやがてなつかしきー

ことのはbox

シアター風姿花伝(東京都)

2020/08/22 (土) ~ 2020/08/30 (日)公演終了

満足度★★★

批評の前に良いところ。
一つ目。このカンパニー、初めて見たが、近いところの戯曲をやってみるという試みは非常にいいと思う。最近の戯曲は相対化されているからだ。唐十郎や寺山修司とはわけが違う。
しかし、作品選択はもっと演劇的に工夫のし甲斐のある、面白いものを選んだらどうだろう。「楽屋」のようないいホンが少ないことは認めるが、探せば、今までやったという本よりいいホンは山ほどある。
二つ目は、全面的に良いというわけではないが、いろんな組を同時にやってみるという事。これはどこでもやっていないことで、これも相対時代の所産だと思う。しかし、これは、演出者、俳優にかなり感受性に感度の高さが必要で、今日見たメンバーではなぁ、
見た感想になっていくが4組目を見た。やっぱり清水邦夫は若いころからうまいなぁと改めて感心。戦前リアリズムと戦後リアリズムのギャグで思わず笑ったら、一人しかいなかったので恥ずかしい思いをした。こんな今は通じない笑いも含めてこの本はいろんなところでやるが、昔はずいぶん笑ったような気がする。
この本はどこで、出演者たちが幽霊で演じるか、というところにあるのだが、その腰が決まっていなかったような気がする。プロンプター二人はかなりベテランでそつがないが、若い二人は、もっと何とかしないと「楽屋」にならない。事に少しセリフが速くなったり小声になったりすると、この小劇場でももう処理する技術がない。こういうところは徹底的に教えて訓練しないと、このドラマじゃないが、若いころやってみました、と言うだけになってしまう。もっとも、客席半分では、どうやっても持ち出しで稽古分の気分でなければ、やってられない、という事だろうが、それでは客もしらける。
そろそろ、「科学的」反論も出だしたから、演劇界も、おとなしく愚昧の政府のいう事なんか聞かないで、満席で上演すべきである。内容から演劇は崩れると思う。「コロナ後」なんて調子のいいことを言うやつは「演劇」を知らないものの無責任な言説なのだから。

フライ,ダディ,フライ

フライ,ダディ,フライ

劇団文化座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2020/08/06 (木) ~ 2020/08/16 (日)公演終了

満足度★★★

。歴史のある劇団が、この事態の中で公演を打つというのはご苦労なことと思う。
しかし、今回の公演は、空転した。差別社会を主題にした小説を原作にしているが、学校差別、在日差別、家庭内不和、など日常的な差別が次から次へと出てくるが、脚本の扱いがどれも型通りで、この劇団が得意な「真摯さ」がない。あるいはそれを避けて今風を狙ったたのかもしれないが、柄にないことをするものだから、どこまで行っても型通りを下手に上塗りすることになってしまう。昔、と言っても二十年位前にふるさときゃらばんという劇団があって、生活問題を素材に元気が出るように、としきりにやっていたが行き詰った。こういう問題は作り物でやるなら、隣の劇場でやっている「赤鬼」くらい徹底する力量がないとお客も納得しない。コロナ版だから客席も百くらいだがそれも七分の入り。佐々木愛も劇団を背負うなら、座長顔見世みたいな出方をするのではなくて、自ら主演してこのさい「おりき」をやってみる(あまり賛成しないが)とか、差別なら「サンダカン」とか「親不知」とか、こういうものの方が劇団の独自性が出てよかったのではないか。26人も役者が舞台に乗るが、この本を面白くさせるパンチのある役者がいないのも寂しかった。

赤鬼

赤鬼

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2020/07/24 (金) ~ 2020/08/16 (日)公演終了

満足度★★★★

いま公演される演劇として、誠に時宜を得た舞台である。
NODAMAPの赤鬼の再演.1996年の初演は今はなきパルコパート3で、段田と富田靖子で見た。海外公演を最初から予定していたと覚えているが、野田にしては寓話性がはっきりしていて、90分の小品ながら、気持ちのいい公演だった。今回は、後半、かなり変わっていると感じたが、大枠の話の筋は踏襲している。25年もたっているから、時代に合わせ、複雑になっていて、ミズカネの役は単純なずるい奴から、現代的な融通のいい悪い奴になっている。これを河内大和が好演。知恵遅れの行き届かない弟の木山雅彬も塩梅がいい。前川知大の舞台で見た記憶のある森田真和の赤鬼も純なところがわざとらしくなくてよかった。初演はイギリス人がやったからそれだけで説得力があったが、今回のテーマである「異人」という役どころをよく演じている。問題はきっと評判がいいとは思う夏子の主人公のあの女で、真正面から乙女の武器全開で場をさらっていくが、本はもう少し複雑な設定になっている。村人の反発もそれなりの位置がとられているし本人の出自も単純ではない設定なので、この単純に押しまくる演技では、底が浅くなる。
周りを囲む円形舞台は初演を踏襲しているが衣装などはタイ版(だったか?)の白衣装を引き継いでいる。15人の登場人物が円形舞台で、動きもテンポよく「ここから向こうへ」のテーマを演じていく。コロナ騒ぎの中で未知のものへの対処を考えざるを得ない時期には適した公演だ。しかも、単純な解を求めていないところがいい。
見ていて、何か連想する舞台があったなと気になっていたが、帰りの電車で気が付いた。これは木下順二の「夕鶴」ではないか。戦後の混乱の中で上演された寓話劇と、コロナ騒ぎの中で上演された「赤鬼」。村社会の中で、別世界に生きるものに出会う、というテーマは同じである。そういえば野田は「夕鶴」の映画版にも主役の相手役で出ていたなぁ
劇場は席を半分にして、中央舞台をビニールで遮断しての公演。最初は嫌だなと思ったが意外に透明度もよく邪魔にはならないが、役者がやたら声を張るのはこのスクリーンがあるからかも。早く自粛劇場警察みたいな雰囲気のなかでなく芝居を観たいものだ。自粛で、この非常にうまく言った舞台でも4割引きくらいにはなる。やっている人たちはもちろんわかっていると思うが、舞台と客の間に大きな溝ができているのは事実だ。
、初演とほとんど同じ93分。

アンチフィクション

アンチフィクション

DULL-COLORED POP

シアター風姿花伝(東京都)

2020/07/16 (木) ~ 2020/07/26 (日)公演終了

満足度★★★

いま壮年期の演劇人として仕事が注目されている谷賢一。コロナ騒ぎのなかで自分自身の劇団での一人芝居。どんなものかと期待してみたが、今どき演劇人のボヤキのようなモノローグ芝居。今フィクションが通用するかと自問している内容だが、そんなこと言っている場合か?と思う。通用させてこそ演劇人ではないか。積極的に演劇擁護の発言を、バッシングにめげずやっていて、その上代表作の過去作を自分の劇団の若者を軸にこの時に見せる、という結構な覚悟の野田や、さっそく、本領発揮の昔タッチのケラのネット劇に比べて、なんという線の細さ。この際、昨年岸田賞の再編集でもして見せてほしいところだ。演劇界も谷ばかりではないが、しっかりしてくれなくては困る。終盤現役連中がドロップで並ぶが,それで義理を済ませているつもりだとすればもう情けないというしかない。モノローグ芝居はまとまりはいいだけに今どきの若者困ったものだという感想だ。

天神さまのほそみち

天神さまのほそみち

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2020/07/03 (金) ~ 2020/07/19 (日)公演終了

満足度★★★★

こわごわ劇場へ行ったというのが本音である。コロナ感染を恐れてではない。劇場の過度の規制でしらじらしい空気の中で、規制した上演側だけがやってます、みたいな空気になったらいやだな、と思っていた。入場前の諸手続きで、やはりそうなるのか、とかなりがっかりしていたが、劇場に入ると、そこはやはりスズナリで別役実の世界である。
例によっての、別役劇で、市民生活の中で、てきやの広場の場所取りの不条理劇が面白おかしく展開する。文学座や新劇系を見慣れていると、燐光群はやはり言葉の訓練が足りず、最初は意識的にやっているいわゆる現代語セリフ調が浮いていたが、次第に動きとセリフが同調してきて舞台の上の人数が多くなると演出のさばきもよく楽しめてくる。経験豊富の男優陣の健闘に比べると女優陣はやや手薄な感じ。それにしても、どうしても社会派的な正邪を求めやすい坂手演出が、不条理劇でまとめてしまったのは意外でもあった。
最初の「あなたの家の前を通ったトラを見ましたか?」という問いかけを結局解決していないのもよく辛抱したと思う。それで面白いのだから成熟と言っていいだろう。席を間引いて70席ほど。これくらいだとほとんどスカスカの感じはしなかったが劇団としては赤字だろう。劇場の客席で同一方向を向いている客席でクラスターなど起きるはずはないのだから、間抜けな官僚のいう事なんか馬耳東風で、どの小屋もフルシートで客を迎えればいいのに。この頃の演劇人はおとなしいなぁ。

ミュージカル「ナミヤ雑貨店の奇蹟」

ミュージカル「ナミヤ雑貨店の奇蹟」

ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ

俳優座劇場(東京都)

2020/03/26 (木) ~ 2020/03/31 (火)公演終了

満足度★★★★

悲運の中劇場ミュージカルだ。
リアルな人間感情をしっかりと持ちながら、ファンタジーの世界をミュージカルで成立させるのがいかに難しいかは、いくつもの事例が示している。これはまれにみる成功した中劇場ミュージカルなのに。
原作は映画にもテレビにもなった人気作家東野圭吾の連作短編集。廃業した雑貨店にたまたま侵入した三人の若者の発見する過去・未来の人々の手紙という枠の設定だけは同じだが、連作だからそれぞれ趣向が違う。これを一つの2時間前後に舞台作品としてまとめるのは容易ではない。初演(2017)は見ていないが、今回の再演では、その経験を生かして原作をうまくまとめている(脚本・大谷美智浩)。原作を多く使いながら、非常に長い映画の脚色に比べると実に手際がいい。しかも、小説の主題でもある、挫折した人々に寄り添う優しさだけでなく、人生の歳月や世代への感懐のような表現しにくい(通俗に落ちそうな)領域まで組み込んでいる。
音楽(小沢時史)はミュージカルの生命線だが、巧みに作品の基調を作っている。さらにねだるとすればファンタジーなのだから、もっと奔放に歌い上げるところがあってもいい。メインの二曲は少し趣向が近すぎる
初演は劇団の劇団内公演のような形で上演されたようだが、再演では、ゲスト出演者も招きレベルアップしている。ベテランの石鍋多加史(雑貨店主)と、若者の一人を藤原薫の二人が、役どころにはまっていて舞台が締まった。なかには、うーんという人もいなくはないが、青年座から招かれた磯村純の無理のない素直な演出にひきだされたのか、皆がこの上演に向かって纏まっていることが感じられる。見ていて上手下手を超えた爽快感がある。
だが、この、久しぶりの俳優座公演はもろにコロナ騒動にぶつかった。企画でも若干は考えられたであろうが、一つのエピソードの軸になるオリンピックも延期が決まった。どこまでもついていない、のである。
外出自粛の首都の六本木の土曜日のマチネは三割がやっとという入りだったがフィナーレに並んだキャストの顔を晴れ晴れとしていた。手を抜いたところは全くなかった、ぜひ、時宜を見て再再演を期待している。

山の声—ある登山者の追想-【東京公演3月29日公演中止】

山の声—ある登山者の追想-【東京公演3月29日公演中止】

オフィスコットーネ

Space早稲田(東京都)

2020/03/25 (水) ~ 2020/03/29 (日)公演終了

満足度★★★★

時に、作品の背景が、内容と相まって観客の心を打つ、という伝説的な作品が生まれる。
スッカリ忘れていた投稿作品が、受賞した時、作者がすでに亡くなっていた、という(劇場パンフによる)この作品の成立は、ヒマラヤに思いを残しながら、雪山で遭難する二人の貧しい登山者の物語を一段と引き立たせる。
没後十年の大阪の地方作家の遺作は、どれも対象へ向かう作者の誠実さを見せているが、「山の声」は自身の登山体験も裏打ちされているからか、甘いところもあって、そこが魅力になっている。
若い単独登山の青年(山田百次)が、単独登山のベテラン(河野洋一郎)に誘われ、冬の北アルプスに登る。共に下級サラリーマンで、山へ登ることが生きがいになっている。そういうちょっと鬱屈した青年、そこから抜けられなくなった中年の二人の男が好もしく登場する二人芝居である。なぜ山に登るのか、わからないが、そこにしか生きがいを見つけられない二人である。夜のキャンプ、天候に欺かれると知りながらあまりの山の美しさに惹かれて、試みる無謀な登山、と、物語は山岳冒険ものの、類型的な進行なのだが、二人の会話と、モノローグから、二人の置かれた冬山登山の困難な状況や人柄がよく伝わってくる。本も、二人が、北アルプスの連峰の美しさを語る場面、とか、家族に論及するときには、詩的な味わいもある。
今回の登山者は河野洋一郎と山田百次。この二人がいい。特に、河野洋一郎は一人立つ佇まいがこの役を生きているように、はまっている。背筋の伸び方が素晴らしい。ふたりとも単なる市井の登山者という役の行動を超えて、山(のように未知なもの)に惹かれる人間の宿命に触れている。
今回の演出は、初演を踏襲したというが、音楽だけは入れ替えてもよかったのではないか。説明的で、通俗的すぎる。そういうスタイルながら人間の高みに触れているところが素晴らしいという面はあるのだが。

安らかな眠りを、あなたに YASUKUNI

安らかな眠りを、あなたに YASUKUNI

燐光群

劇場MOMO(東京都)

2020/03/20 (金) ~ 2020/03/29 (日)公演終了

満足度★★★★

タイとの共同制作というと「赤鬼」が浮かぶ。国際共同制作という点では、野田の場合は、自分の作品を、世界各地で上演してみる、燐光群の場合は、地域先行で東南アジアの各地と、混合型というか、できるところから共同で作ってみる。今回は本もタイで俳優も来ている。共同制作だからただ役割分担しただけでなく、現場の交流も重ねてのことである。
タイは日本に親しい国の一つであるが、もちろん国情は大いに違う。お互いの理解も距離があるのはこの二つの「共同制作」を見てもよくわかる。
今回の本は、日本の靖国問題がタイではどのように見られているか、というケーススタディになっていて、勉強にはなるが、演劇的に見て面白いかというとかなり苦しい。観客の中に政治的な意識の側面が抜きがたくあって、それがコロナ騒ぎの中で靖国問題を取り上げた芝居を見るという営為とバッティングする。芝居が靖国から広がっていかないのだ。
現実のタイとの関係で言えば、外国人労働者の問題がある。身近な小さな会社でもタイの人を迎え入れて、たぶんお互いに初めての国際経験をしている。こちらは人間的に具体的で面白い。そういう素材は中津留に任せて、と言わないで、現実的な話題から入った方が実り多いのではないかと思う。85分。

冬の時代【3/28-29公演中止】

冬の時代【3/28-29公演中止】

アン・ラト(unrato)

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2020/03/20 (金) ~ 2020/03/29 (日)公演終了

満足度★★★★

五十年という歳月を改めて考えさせられる舞台だった。
舞台の設定はほぼ百年前。木下順二が戯曲を書いて民藝初演がほぼ五十年前。そして今、この芝居を見る。
すでに、この芝居の実録的背景になっている「大逆事件」は遠く。カリスマ的だった劇作家の作品は現実を打つ力よりも古典化し。今上演のスタッフキャストは平成令和の人々である。
今の閉塞時代に、この舞台が、現実味を持ち、改めて上演の意義があるという政治的な見方もあるが、それは言ってみるだけであまり意味はない。時代は違う。この物語を今の現実の教訓にするというのは、つまらない教養便利主義だ。
演出の大河内直子は、この戯曲を青春劇として読み直したようで、それはこの戯曲の一つの読み方であろう。この明治の青春劇の奥に、時代へ向き合う普遍的な若者像が見えてくるというのが狙いだ。ホリゾントに枯れ木の並木(現実)を配し、大きく空(青春)をとり、舞台前面に長方形の枠で舞台を隈どった舞台装置にもそれはあらわれている。二重に張ったスクリーンのおくに雪が降る「冬の時代」である。俳優たちを戯曲に沿って細かく動かしているのも計算が立っている。舞台の上の俳優たちを、まとめたり、ばらしたりする計算づくの動線は見事だ。絵になっている。改めて、木下順二はセリフがうまいなぁと感服した。さすが、言葉に生命を見た劇作家の作品である。
しかし、それを実現するべき俳優の力が足りなかった。コロナ騒ぎで、稽古も浮足立ったのか、演出のつけている動きを自然に見えるまで消化していない。セリフも大声で口にするだけで、言葉になっていない。セリフは原文のままだから、やりにくいのはわかる。しかしそれをやり切って、明治のメディア青春劇を令和の観客に「今生きているように」見せるてこそ俳優というものだろう。渋六、くらいしか印象に残らなかった。3時間半、入りは7分。いいキャストで見たい。

ネタバレBOX

全くこの上演にとってはどうでもいいようなことだが、冒頭に出てくるインタナショナルは、確か、佐野碩が昭和になってから翻訳した歌詞で、この時代にはなかったのではないか。ひょっとすると旧訳かもしれないが、この曲自体、日本で歌われるようになったのは劇中の時代よりかなり後のように思う。まぁ、それでもかまわないのだが。
対岸の絢爛

対岸の絢爛

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2020/03/06 (金) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★

小劇場の手打ちの公演がウイルス騒ぎで立ち往生している真っただ中で、果敢に開けたトラッシュマスターズ公演。駅前劇場で、座席も80くらいに絞って席の間を少し開け、マスクを配り、観客にアルコール消毒を求める、という苦渋の決断だ。こういう風に見せないと、ネットで叩かれたりするらしい。そういう上からのお達しに配慮はしたくない劇団だろうに涙ぐましい。生活が懸かっている。
表向きはいま問題が顕在化しているIRが素材だが、テーマは、こういう「已む無し、ことなかれ処理」でうやむやに解決していくことこそが、日本の宿痾であるという芝居だ。最近の「埋没」も「オルタニティ」も、表面的な事件の奥に、日本の社会構造の見えにくいところに触れていた。しかし、その課題には解決の先も見えていない。昔の新劇社会劇の裁きではどうにもならないから、民芸に書いた作品などは、訳のわからない風俗劇になってしまう。
「対岸の絢爛」では、戦時中の空襲による市民被害者の処理、80年代の開発ブームの中の地方都市の開発、近未来のIRの受け入れに揺れる大都市の住民説明会、と三つの時代の場面が交錯する。政府が住民に求めることは住民の生活の安寧とは食い違っているが、住民の方にも、付け込まれる要因がある。住民の中にも賭博嗜好が消えがたくある。いままで、パチンコとか、宝くじで長年、法で禁止しておきながら、抜け道を作って賭博には慣れ親しむようにされてきている。舞台で演じられるように、市民の家庭の中にも深く入り込んでいて、今さら単純な論理で排除できない。そこでどう生きるか。IRのように先端的な問題提起のおくに、根本的な問題を提起しているところがいいが、そこを解くにはまだ、作者にも見る方の社会にも時間がかかりそうだ。
七人の俳優が、三つの時代の登場人物を演じる。時代を超えて、相互に関係があるような、ないような作りで、それが日本に遍在する国民性を現していて、これはなかなかうまい趣向だ。トラッシュマスターズも二十年という。俳優も力をつけてきて、それぞれリアリティのある演技だ。今、小劇場で、社会問題を素材に、かつての新劇のような政治に沿った型通りのプロバカンダ劇でない芝居を志す劇団は少なくない。トップランナーとして、頑張ってほしい。
運悪く、今回は勘定は合わないだろうが、作った席だけは売れている。

死の泉 Die spiralige Burgruine【大阪公演 会場変更】

死の泉 Die spiralige Burgruine【大阪公演 会場変更】

Studio Life(スタジオライフ)

紀伊國屋ホール(東京都)

2020/02/27 (木) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★★★

オールメールのユニークな劇団の看板演目の一つ。原作は皆川博子の代表作、この作者は現代、近代を舞台にしながら伝奇的、ゴシック風なところが劇団と相性がいい。
原作小説は、確かその年のベストミステリになったはずで昔読んだ。第二次大戦をはさんでほぼ二十年、大戦に翻弄されるドイツを舞台に、登場人物もすべてヨーロッパ人、ナチのSSが登場し、人種差別や人種浄化がドラマの原点になっている。伝奇的な要素も十分で、クライマックスは古城が舞台である。複雑に組まれた人間関係が、異常な愛や憎悪を生んでいくゴシックロマンの大長編だが、ベストに上げられたくらいで、よくできている。
舞台は、原作をかなり忠実に追っていくが、何しろ長い。舞台は三時間あるが、それでも後半は説明不足で駆け足の感じがする。しかしこの物語ならやはりこの劇団だろう。初演は二十年前、4演目である。
メール劇団の色彩は、男性が両性を全部演じてしまうところから生まれる。だが、現実の社会では男性と女性の違いは、ファッションでは強調されている反面、日常生活の動作、言葉、衣装、履物、など、すべての面で急速に少なくなっている。歌舞伎や宝塚のように様式性が確立していればとにかく、日常的なドラマでは単一の性の演技で、表現が広がるメリットは少ない。単一性のカンパニーの行先は、今までのこの劇団の路線でも苦しいのではないかと思う。
今回は久しぶりに紀伊国屋ホール。かつてはもっと大きな劇場も開いた劇団だが最近は二百席位の劇場が多かった。よく見ると、なんと東映と組んでいる。東映というのは興業には独自の企画力があって、業界エエツと驚くようなことを成功させる。映画だけでなく、東映映画村、とか東映歌舞伎とか、直営館の雑居ビル化とか、前例にとらわれない事業を展開する。意外な事業でもちゃんと数字の計算もあってのことである。今回は初めてだから、見てみようということだろうが、これから東映がどんな企画を出してくるか楽しみでもある。今の業界を見ると、むしろ、2.5ディメンションの世界の方が、この劇団の色彩が生きてくるし、俳優の交流もしやすく、両方にメリットもあるのではないか。現実に、そのメリットを生かして成功した俳優も少なくない。しかも、ここも上演こそ増えてはいるが伸び悩んでいる。
創立35年という時間を経た劇団の曲がり角だ。

グロリア

グロリア

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2020/02/27 (木) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★★★

小劇場が見つけてくる海外戯曲には、時に思いがけず面白い本がある。昨年は俳小の「殺し屋ジョー」。この「グロリア」はアメリカのオフで評判の作品の由で、誰にもわかってもらえない孤独な市民生活の絶望的ないら立ちが描かれている。本は面白い。
真っ先に社会の規範となるべきメディア(文芸雑誌)の編集部で起きる人間疎外に。耐え切れず、補助職員のグロリアが、銃を乱射、二人の死亡者が出る。第一幕はそこへ至るまでのいきさつ。動機は前の晩に準備されたグロリアのパーティに編集部からは一人しか行かなかった、そのことを陰でみな物笑いの種にした・・・・というような無関心の差別というようなことなのだが、職業の場でも、家庭でも疎外されているアメリカの下流市民の暗い絶望がよく描かれている。二幕と三幕はその悲劇の後日談、まずは二か月後、現場にいた仕事仲間が体験談を書いて売ろうとし、次には二年後、ロスの映像企画会社が商品化しようとする。事件は風化して、当事者たちの欲得ずくだけが残る。メディアの貪欲さと、そこに生きる人たちの徹底した商品主義、個人主義が、アメリカの現代社会の深い病癖を素通りしていく。アメリカの現代劇にはよくある人間相関図なのだが、よくできていて、NYにもロスでもいかにもありそうな話だ。(たまたま似たシチュエーションの映画「スキャンダル」が封切されている、比べるのは酷だが、映画は本場だけにリアルで強い)
しかし、このドラマ、今回の上演では、シリアスな社会劇なのか、風刺コメディなのかよくわからない。俳優の演技は揃って、セリフの順番が来たら異常な速さでまくしたてる、演技の終わりに形を作る、という単調なステレオ演技で、話は分かるけど、どこを訴えたいのか、笑っていいのかさえもよくわからない。
時間もとび、場所もNYからロスにうつり、場面も人も変わっているのに代わり映えがしない。本ではドラマの推移がよく考えてあるのに同じ調子が続く。「殺し屋ジョー」では客演していた、いわいのふ健が本の面白さを引っ張っていく牽引車になっていたが、こちらには目立つ俳優がいない。索漠としたドラマというコリッチ批評も多いが、それは舞台の未成熟だろう。折角いい本を探してきたのにそこが惜しい。

肩に隠るる小さき君は

肩に隠るる小さき君は

椿組

ザ・スズナリ(東京都)

2020/02/26 (水) ~ 2020/03/03 (火)公演終了

満足度★★★★

新型コロナウイルス禍で、大きな劇場が次々と休演する中でここは千秋楽の3日まではあけるという。首相が言えば、世間は従うと浅慮断行の政府も政府だが、お達し通りと、小屋を閉めてしまう演劇側もどうかと思う。個人的に残念と言えば、稽古も終わって舞台に上げるばかりになっていた「お勢断行」や明治座の「桜姫」が、チケット抑えて楽しみにしていたのに、見られなくなってしまった。大劇場も増えてきたが経営と制作が様々に絡んでいるからおいそれと小屋を変えての公演はできないだろう。座組があるから、「桜姫」は当分見られないかな? だが、折角の準備万端だったのだから、どこかでやってほしい。
ここスズナリでも、入り口で聞くと、若干のキャンセルはあった由で客席も絞って80席ほど。毎回新しい作者に書かせるユニークな椿座公演だ。
芝居の中身は、2.26事件以前三年ばかり(34-36)の下町の踊りのお師匠さんのファミリーヒストリーである。事変物は山ほどあるが、この時期の下町ものは久保田万太郎か幸田文かという昭和物の世界で、平成以後は珍しい。この時代を生きて、さらに今を生きている市井の人はもう、世間に出ることはないだろうが、伝統芸能の世界ではその世界を伝承している人は生きている。大きな戦争で丸焼けになり、さらにバブルにデジタルと大きな時代の洗礼を二つも受けているのだから、生活感覚にもとずく表現の伝承が難しいことはよくわかる。昭和の時代には兵隊は誰がやってもサマになると言われたものだが、今は、難しい。俳優も揃ってセリフが乱暴で、いくら落ち目の家元にしてもこうはならないだろう。上手に置いた稽古舞台の扱いもぞんざいである。舞台にかなり違和感があった。
しかし、それをやってこそ、人が演じる演劇ではないか。
舞台の細部ににリアリティがないと、中村屋の実例があるからいいじゃないか、というアジア某国社会運動家亡命のストーリーもただのファンタジーになってしまう。それでは、いまの時代を見てのこの上演も意味がなくなる。

罪と罰(神奈川公演)

罪と罰(神奈川公演)

地点

神奈川県立青少年センター(神奈川県)

2020/02/29 (土) ~ 2020/03/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

県立劇場休館の中で、貸し小屋だったために公演できた。皮肉なことに大劇場で、ほぼ満席。二回だけの日本初演である。
国際的な場で成功しそうなジャポニカ趣味の全くない画期的なステージである。現代的で、前衛。中身は「罪と罰」だが、多くの町の人物が交錯するはじまりから次第に、ラスコリニフ(小林洋平)とソーニャ(安部總子)に絞られ、そこで、原作のテーマが、舞台ならではの手法で演じられる。ホリゾントに工場の非常階段を三段に組み、そこから出入りする装置も、照明も細かく計算され、例によって、掛け声(今回は{あ!」)も効果を上げて、リズミカルに、ペテルスブルグの物語に誘われる。二回だけというのは勿体ない。劇場も増えているので再演を待っている。

ネタバレBOX

政権の要請だからという理由で、簡単に劇場を締めてしまう演劇劇場関係者の神経を疑う。当該の劇場関係者に感染者が出たのなら。そう明示して閉めるのは納得できるが、やみくもに締めるのは全体主義に、こちらも加担させられたようないやな気分だ。この紅葉坂ホールも他の部分は閉めているのだから、休演の要請があったろうが、突っぱねた「地点「」はごりっぱ。おかげでこちらも名演を見ることができた

このページのQRコードです。

拡大