旗森の観てきた!クチコミ一覧

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岸辺の亀とクラゲ-jellyfish-

岸辺の亀とクラゲ-jellyfish-

ウォーキング・スタッフ

シアター711(東京都)

2021/03/06 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了

満足度★★★★

いかにも今どきありそうな話だが、面白く見ていてもどこか物足りない現代世相劇である。
物語の主人公は多摩川河口の下町あたりの中学校の女教師(南沢奈央)、ア・ラ・サーティで結婚前提でお泊りを重ねている男性(岡田地平)もいる。その一DKのアパートが舞台である。
物足りなさをひとつ上げて見ると、この物語、77年のテレビドラマ「岸辺のアルバム」を意識して作っている。前の年に起きた多摩川岸辺の洪水で、あこがれのマイホームを流された家族の物語である。この戯曲は2011年の初演。今回は手を入れての再演だが、五十年も前の世相劇を背景に持っていることが足かせになっている。
岸辺のアルバムの時代はテレビドラマが最も社会的な影響力もあった時代で、この作者の山田太一をはじめ、向田邦子、橋田寿賀子、倉本聰などのテレビ世相シリーズは家族の生活モラルも支配していた。そのモラルが崩れてしまって、変わりうる新しいモラルも見いだせていない現代では、モラル談義は一言で言うとウザイ、上から目線がうっとおしい。
現代は、この女教師のように一人生きる社会で、そこでは家族やパートナーですら縛られたくない。この主人公は、ちょっと面白い人物像なのだが、その物語を囲む人間たちが古い。考えて見れば、このカンパニーの主宰、演出の和田憲明も60歳を過ぎている。この演出家はかつて新宿にあったトップスで新鮮な小劇場社会劇を作っていて経験も豊富、演出は手堅い。今回もそこは遺憾なく発揮されているのだが、若い世代を扱うと、上から目線が見えてしまう。
人物では、一階上に住む年の離れた男女。主人公への絡みは面白いのだが次第にありきたりになっていく。大学時代のサークルの友達、ユニークな万引き女として登場する(この登場の部分はよく出来ていてリアリティがある)がこの折角の人物も今風に生かし切れていない。
2時間、飽きないで十分面白いのだが、どこか通俗に流れている、そこが丁寧な仕事の割には残念なところである。このカンパニーの再演戯曲の選択はなかなかのもので次回を大いに期待したい。

義経千本桜―渡海屋・大物浦―【伊丹・北九州公演中止】

義経千本桜―渡海屋・大物浦―【伊丹・北九州公演中止】

木ノ下歌舞伎

シアタートラム(東京都)

2021/02/26 (金) ~ 2021/03/08 (月)公演終了

満足度★★★★

義経千本櫻は、歌舞伎の代表作と言われているが、「仮名手本忠臣蔵」や「四谷怪談」のように、全編を通してこういう芝居、と言えない複雑な物語である。乱暴に言えば、源氏平家の争いを「義経」という人物のエピソードに沿って見ていく、と言うあらすじで、この二段目の「渡海屋―大物浦」と四段目の「河連館」とは内容のつながりもほとんどない。そこが歌舞伎の面白いところでもあるのだが、この木ノ下歌舞伎では、最初にこの粗筋を二十分くらいで一気に見せてしまう。なにか見たような気がした(それは各段を切れ切れに見たことがあるからでもあるが)一昨年だか、花組芝居が全段を一気に見せてくれた公演があったからだ。正直に言うと、全段見たから演劇として満足か、と問われれば、そうでもないのだが、終始一貫の近代劇を見慣れた若者がそこで躓くといけないという配慮らしい。
現代語と現代音楽をバックにしたスタイリッシュなこの冒頭の「時代背景とこの後のあらすじ」部分がよく出来ていて、当時の天皇権力をめぐる争いがよくわかる。音楽と、装置の面白さにつられてここを見てしまうと、そのあとは、古典に従った場面でもついていきやすい。古典の名セリフや見せ場は全部入っている。
「渡海屋―大物浦」は、天皇家に振り回された平家、源氏の二大勢力の激突を、瀬戸内海の港町の船宿を舞台に、見せる、と言う趣向で、両者の策略を歌舞伎お得意の「実ハ」を使って二転三転、見せ場を作っていくので、細かい筋はとても書ききれない。しかし、見ていればそのいきさつが分かるのだから、確かのこのアダプテーションはよく出来ている。
ことに今回は人の世の争いがテーマになっていて、安徳帝入水の説得「争いのない海の底には平和な世界がある」を柱に使っている。
「碇知盛」のような歌舞伎の見せ場も多く取り入れている。知盛はあらすじと本編と二度もバック転をやらなければならないのだからさぞ大変だろう。ほかもほとんどうまくいっているが、魚づくしのセリフで笑いをとるところはうまくいかなかった。語呂合わせが突然出てくると、芸人時代の若者もついてこれないか。ここは歌舞伎役者に敵わないのは仕方がない。
16年の上演の演出多田淳之介の続投。押せ押せの演出で力強い。いつもは凝った小道具が面白い木ノ下歌舞伎だが、今回はほぼ正方形の板の角を上下に八百屋に組んだ舞台がよかった。板には七か所長方形の窓がありそこからの照明を効果的に使っている。音楽は標記がないから既成曲のアレンジだろうが、うまくはまっている。「戦場のメリークリスマス」をおもわせるメロディは少し耳につく。休憩なしの2時間15分。トラムを半分の客でやるのだから劇団は苦しいだろう。ご苦労さま、と言うしかないが次の作品も楽しみにしている。早い機会に昨年上演予定だった「三人吉三」を見せてほしい。

アユタヤ

アユタヤ

MONO

あうるすぽっと(東京都)

2021/03/02 (火) ~ 2021/03/07 (日)公演終了

満足度★★★★

久しぶりのMONO新作。舞台は十七世紀のタイ。アユタヤの日本人町である。当時山田長政などのリーダーのもと、南方へ進出していた日本人が、次第に追われる立場になっていたころ、アユタヤの商人兄弟を中心に、流れてきた武士、商人、労働者、現地妻などの人間模様である。この京都の劇団はかつて、ゲイの若者たちが共同生活するアパートの日常を描いた作品で、鮮烈な印象を残した。それからもう30年もたつという。確か男性だけの劇団であったがそのメンバーが今も残っていて、今回の舞台にも出ている。みな、結構おっさんになっていて、時日は残酷だなとも思う。しかし、このちょっと小味な劇団が、関西と東京で劇団のカラーのある上演を続けてきたのは、同じ京都のヨーロッパ企画と並んで、演劇界に快いアクセントをつけてくれたと思う。
今回の作品は、作者も書いているが、落ち着かない世相に足をとられてしまった。この作者で、この素材なら、もっと面白い設定や展開があるだろうが、極めておとなしい。細かさと言うならほんの一月前に秋元松代の「マニラ瑞穂記」を見ているので、どうしても比べてしまう。もちろん秋元とは別の線を狙っているのだが、うまく成功していない。もう東京での活動が多くなってしまった作者、俳優を擁する要するMONOだが、自分たちの年齢(初老の曲がり角)に見合った小劇場作品を考えてみたらどうだろうか

ネタバレBOX

。最後は、日本人同士の葛藤も持ちながら、新天地を求めて、ルソンにわたって出発するところで終わっているが、これでは、どこまで行っても日本人、という以上の終わりにはならない。なにか突き抜けた未来を持たせるつもりで書き始めたのだろうが。
このヨツボシは劇団35年お祝いと、今の演劇環境を考慮した長年のファンの花束もの。芝居としてはスト――リーや人物の展開に行き届いたところがなく、この作者とは思えない不手際である。この特殊な場所設定がまるで生きていない。
帰還不能点【3/13・14@AI・HALL】

帰還不能点【3/13・14@AI・HALL】

劇団チョコレートケーキ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2021/02/19 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

太平洋戦争にあれだけ不利が明白だったのになぜ日本が参戦したか。戦後さまざまなところでその理由は論じられてきたが、これは当時の若手エリートを官、軍、民間から集め、内閣のブレーンとなるべく設立された総力戦研究所の記録を素材に、国が開戦の決意をする帰還不能地点を探る歴史探索のドラマである。
のっぴきならなくなる帰還不能点が、仏領ベトナム南部の油田占拠のための進駐の時点(アメリカの強硬姿勢の引き金となった)と言うのは、おおむね現代史では認められているところで、この作品はその不能点を確定するよりも、既に明らかになっている多くの資料の上に立って、科学的に検討すれば、だれもが日米戦回避となる結論が、なぜ内閣をはじめ、国民の総意にならなかったか、を描いていく。
この作品を特徴づけるのは、それを明らかにするユニークな手法である。
戦後五年、総力戦研究所のメンバーはそれぞれの持ち場で市民に戻っている。その仲間の一人、日銀から出向していた一人が亡くなって、その人が戦後にむかえた後妻が経営している居酒屋で開かれるしのぶ会に当時の会員が集まってくるところからドラマは始まる。すでに数人の故人もいるが、生き残った彼らは、自分たちの研究が戦争を止められなかった理由に改めて向き合うことになる。集まった九人のメンバーはかつての開戦前の自分たちの意見がどのように当時の施政者、政府や軍によって退けられていったかを演じてみるのだ。ここも普通は一人一役になるところだが、夫々がいろいろな役を演じる。つまり、東条も松岡も近衛もいろいろな研究員がやる。その趣向は、意外に利いていて、誰もが行き当たりばったり時世に流された判断しかできなかったという事を如実に表すことになった。反面、研究員ひとりひとりは、それぞれの専門分野で事実と科学に基づいて開戦反対を唱えるのだが、その背景となる個人の信条はえがかれていない。
それが描かれるのはドラマの枠になっている戦後のシーンだが、ここは、亡くなった研究員の後妻(黒沢あすか)のドラマが、圧倒的でほかの研究員のエピソードはかすんでしまう。
戦争を止められなかったことを深く恥じた故人は、戦後闇市の仕切りや担っていたのだが、たまたま、戦後の混乱の中で自殺しようとして見も知らぬ女を助け、生活のためになるならと後妻にまでしていたのだ。おおきな社会の悲劇を救えなかったからといって、ひとりの悲劇を見過ごしていいという事にはならない、と言うのが彼の戦後の信条である。ドラマの全体の軸として舞台となる居酒屋の女将でもある女性の運命が、前半の国の運命の裏打ちとなって効果を上げている。惜しむらくは黒沢あすかはガラはいいのだが演技がストレートで、戦後を生き抜いてきた女には見えないところだが、それはないものねだりだろう。
全体は、メタシアター作りの歴史ドラマと言ってしまえば、その通りなのだが、責任を押し付けあう倫理感の乏しさが当たり前になっている今の世の中では上演する意味は大いにあった。それは、単に芝居のスタイルとしてメタシアターであるなし、などという事を超えて、
歴史を俳優という肉体を使って立ち上げてみるという演劇の効用だろう。
少年のころ見た東条の演説が(まったく形は違うが)いまの総理大臣の論理構成と全く同じであることにも気づかされた。これもまた演劇の効用で、権威的な政府が演劇を弾圧したがる意味もよくわかった。

ネタバレBOX

ラスト、もう一つの終幕が用意されているが、これはなくもがなであった。こうはならないのが人間の業のような気がする。
マニラ瑞穂記

マニラ瑞穂記

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2021/02/19 (金) ~ 2021/02/24 (水)公演終了

満足度★★★★

戯曲には運・不運があるとつくづく思う。あまり上演されない、いい作品を見た。
秋元松代の「マニラ瑞穂記」は、64年の「ぶどうのの会」の初演。「村岡伊平次伝」の続編のような作品だが、ほとんど再演されていない。前の芸術監督の栗山民也演出でここで再演(2014)されたときも珍しいものをやると思った記憶があるが、結局見なかった。今回はこの劇場の研修生の卒業公演で、研修所長を務めた宮田慶子の演出である。
感想をいくつか。
改めて、秋元松代の戯曲のち密さにおそれいった。この作者の場合は、演出を兼ねる事がなかったために戯曲に全力投入されている、内容はもちろんだが、場割の構成から、登場人物のキャラ、セリフ、俳優の出ハケ、まで考え抜かれている。
日本帝国主義の拡大期を舞台にしているが、南方を舞台にした作品は珍しい。時は20世紀にはいる直前、アメリカの統治時代になろうとするころのマニラ日本領事館が舞台である。スペインからアメリカへ、その争いの中で独立運動や割って入ろうとする日本の思惑など、歴史的にもなじみのない背景が、あまり説明セリフがないのによくわかる。登場人物は日本領事館の領事や駐在武官と、内乱を畏れて逃げ込んできた南方進出の女衒と女たち。上部構造と下部構造。約二十人の登場人物が巧みにかき分けられて、研修のテキストにはもってこいの本である。だが、それだけではない、今見ると、南洋に売られた日本の女性たちが、男どもの小賢しい政治を乗り越えていく逞しさが心に残る。さすが、日本の女性劇作家の先陣を率いた作家である。向こう気の強い作家だったから、当時、ぶどうの会のみならず、日本演劇界の精神的支柱であった劇作家木下順二への対抗心が内心あったかもしれない(ただの個人的推測だが)。劇がしなやかで強い。
演出の宮田慶子にとっては自分の生徒たちの門出の公演なのだが、昔の宮田演出らしい、優しいタッチだ。生徒たちもそれぞれ持ち味を引き出されてのびのびとやっている。この研修所は全国から俊英集う演劇の東大みたいなところ、と聞いているが、なるほど、皆うまい。普通、こういう卒業公演だと、幾人かの力不足があからさまに出てしまうのは、やむを得ない、となるのだが、一人もいない。これも恐れ入ったところで、もう、どこでも使えそうだ。俳優は経験が大事で、研修所は囲い込む必要もないのだから、これから、積極的にいろいろな舞台で見てきたいものだ。
舞台は、卒業公演と言えないような本格的な舞台作りで、装置、音響、それぞれお金もかかっていて、観客もこの料金では贅沢に芝居を見物できた。

ネタバレBOX

これだけいい役者を育ててもう十年もやっているのに、研修所の名声が上がらない。初代栗山はプロの世界で浸透すればいい、と健気だったが、それは勿体ない。この公演だって、町場で出来ないはずはない。最初からホリプロのようにと望むから無理なので、まず、スターを作る。それを中心に、本多あたりを目標に最新のいい本を見つけてきて、あるいは昔の本を掘り出してきていい舞台を作る。プロダクションなら名取でもコットーネでもいいじゃないか。外からの勝手な意見と言われそうだが、小劇場はもっと過酷な役者のいない状態からここまで来たのだ。やればできる。秋元松代を見習ってほしい。

Oslo(オスロ)【宮城公演中止】

Oslo(オスロ)【宮城公演中止】

フジテレビジョン/産経新聞社/サンライズプロモーション東京

新国立劇場 中劇場(東京都)

2021/02/06 (土) ~ 2021/02/23 (火)公演終了

満足度★★★★

2016年にオフブロードウエイで初演された20年ほど前のイスラエルとPLOの電撃的なオスロ平和合意の舞台裏のドラマである。なぜ、ヨーロッパの中でも影の薄いノルウエイの外交官夫婦の手で、米ロが散々てこずった中東平和が一時的でも実現したか。
イスラエル問題は、日本では、実際にその地を踏んだ人も少なく、ヨーロッパと中東の間に位置する文化的複雑さもあって核心がなかなかつかめない。長年の課題解決を、舞台では、夫婦の粘り強い交渉術(多分事実なのであろう)を実在人物を織り交ぜながら見せていく。
いはば、歴史ドキュメンタリー実話ものだが、英米で、たちまちオフから大劇場公演に移ってトニー賞はじめ多くの賞を受賞したのは、距離的にも、文化的にも事件への身近さが大いに影響したのだと思う。この公演はジャニーズの主演興行でいつもなら、グローブ座だろう。今回は新国立の中劇場で1階だけでも千人を超える客席の大劇場である。2階は締めているが、客席を埋めたのはほとんどが三十歳以下の、久しぶりの芝居見物と気合がはいるファンクラブの女性観劇客で、男性客は合わせて二十人もいなかった。オスロ合意のころは生まれたばかりだった観客でこの内容、大丈夫か、と思ったが、結構ダレない。
内容は政治劇で、パレスチナ問題の難しさにももちろん触れるのだが、ドラマの軸を、無理難題の中での目的達成のためにめげないで七転八倒するノルウエイの若い外交官夫婦に絞ったので、中東問題を見過ごしても夫婦の成功劇としても楽しめる。この芝居のつくりでは主役は妻役(安蘭けい)の方のようにも見えるがこの舞台は夫(坂本昌行)が主役である。
演出(上村総)はすっかり大舞台にも慣れていて、多くの場面を照明を変え、プロジェクションマッピングも多用して現実感も見せながらテンポよく運んでいく。俳優の動かし方など見事である。しかし、事件の大きさからすると、やはり、全体が上滑りしているような感じがぬぐえない。俳優は短い時間でなじみのない実人物の性格を見せなければならない。一番大変だったのは、坂本昌行で、対立する勢力を人間的な魅力でまとめ上げて「リスクをとって世界を変えていく」役柄だがその核心がない。妻の安蘭けいの方が、腹をくくったような性格をよく表現していて好演だが、それは脚本のせいかもしれない。
1時間40分の一幕と20分の休憩をはさんで二幕1時間。コロナで自粛と言っても、配役表くらいは置いてほしい。那須佐代子が出ているのに気が付かなかった。

ネタバレBOX

ほぼ満席(80%の入り。いつも満席のジャニーズは不満だろうが、この内容でよくやったとは思う)この女性客の中にごひいき役者でなく、この芝居を面白いと見た人はどれくらいいるのだろう。それでも上村演出のもと、幕内はそつなく勤めているが、正直言えば、もっとコンパクトな劇場で(英米の劇場は結構大きいが)揃ったわき役たちの細かい芝居を楽しみながら見たかった
草の家

草の家

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2021/02/05 (金) ~ 2021/02/18 (木)公演終了

満足度★★★★

トラッシュマスターズに続いて、戦後、産業構造が変わる中で、農業社会から過疎化へと大きく変貌した地方の家族の姿を描いた舞台である。こちらは四国の地方の戯曲賞の受賞作品。選考委員だった坂手洋二が自らの劇団で、演出もして、異色の舞台になった。
かつては農村社会で欠かせなかった計量器を小売りする店の一家が舞台だが、今はほとんど客もなく一家はそれぞれ村外に働きに出るか、村の中でも別の仕事についている。現代の農村を描くのに、この意外な「計量器を売る家」の設定が成功した。昭和の時代までの農村社会は何事も律義に計量することで生活を立ててきた。この家がそのたくまざる暗喩になっている。
一人残った老年の母(鴨川てんし)の面倒を見ていた早世した長男の嫁(舞台には出てこない)が血液がんで入院したところから幕が開く。東京から駆け付けた次男夫婦、独り暮らしを気ままに送ってきた大学教員の三男、家に残ったが家業を継ぐ気はない四男が、一人残されることになった母の生活問題をきっかけに、一族の運命の中でそれぞれの自分の人生と折り合いをつけざるを得ない事態に向き合うことになる。
日本の農村の過疎問題必ずしも新しい問題ではないのだが、この新人作家の筆は、一人ひとりの息遣いを丁寧に拾っていて、好感が持てる。病いに倒れた長男の嫁が、地元の短歌の同人になっているとか、時節になると庭に蛍が現れるとか、大学の教員をしていた放浪の三男がいつの間にか仕事を辞めていたとか、昔も今も訪問販売の富山の置き薬屋はやってくるとか、舞台の外の細かいエピソードが誠実に生かされている。
坂手洋二の演出も、今までの社会劇とはかなり違うタッチで、この新人女流作家の世界に寄り添っていく。それは昔で言えば、中野実や真船豊の新派劇とあまり距離がないスジガキなのだが(もちろん芝居運びのテンポは全然違う)、それが意外に今の時代に至る農村の道程を新鮮に映し出している。前に見た「天神さまのほそみち」(別役実・作)とおなじような燐光群の新境地である。声高に、スローガンを叫ばれなくても、観客に共感が広がる。
俳優では何と言っても、ジェンダーを超えて老婆を演じた鴨川てんしだろう。今回の配役はカンパニーの中だけのメンバーだが、この劇団の長い歴史が演技に反映している。
1時間40分。ちょうどいい長さだ。


堕ち潮

堕ち潮

TRASHMASTERS

座・高円寺1(東京都)

2021/02/04 (木) ~ 2021/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

昭和の末期、バブルもさほど届かない西日本の海辺の田舎町。土地の素封家の女主人(みやなおこ)は、南京大虐殺で活躍した亡夫を誇りに五人の子どもたち夫婦を保守の論理で支配している。その弟(渡辺哲)は土地の土建会社を経営して、その利権のために市会議員出馬を狙っている。一家のためにと哀願されて一家(登場人物一家15人)を集めた女主人は金銭的な助力を約束する。それが一家のため、という論理だが、一家の生活の実情には今までの保守の論理にはみ出すことが続出している。近隣にいる在日二世の選挙権、土建会社の談合、家族の職業選択、子供の教育方針、などなど、時代の動きをここでは、女主人は抑え込んでしまう。そして選挙で弟は当選。一家はその利権で潤って第一幕は終わる。第二幕は10年後、とそのさらに10年後。この間に昭和の「保守」のほころびは顕在化して、家族の中の軋みは大きくなり、市会議員の弟は死に、女主人は記憶も怪しく病床に伏している。
潮には満ち潮と引き潮があるように、引き潮にさらされ堕ちていった地方の一族モノである。
昭和のころまでは、高度成長で都会に出てきた一家が故郷へ帰る機会も多かった。多くは一族の冠婚葬祭。一族の数もおおかったし、叔父叔母も、従弟とも親しく付き合った時代だ。だれにでも経験のある家族設定で、これほどの大家族でない自分にも一つ一つの設定や人物にも「あるある」の実感がある。だが、ストーリーとして見ると、確かに「あるある」なのだが、どれもよくある話で、ラストに現代人が、昭和、もしくはそれ以前からの悪しき日本の保守体質を克服するのは心の問題だ、と説かれても、あまり心では納得していない。現代はさすがにこの段階は終えていると思うからである。(そうでもないのかな?)
舞台は、一幕から一族が意見対立の大声でやりあうシーンが長く、舞台慣れしていない俳優さんも少なくなく、見ている方もつかれる。わかりやすく安心して見ていられるのは型通りながら渡辺哲、清水直子、と言った他の劇団のベテランで役がよくわかる。女主人役のみやなおこはちょっと荷が重すぎた。15分の休憩をはさんで3時間半は長いが一族のクロニクルをやるとすればこれくらいの時間は仕方がない。しかし、もっとストーリーにも登場人物にもアクセントのつけ方はあるだろうと感じた。
横に長い座高円寺野間口一ぱいに広がった舞台は狭い劇場でシネスコを見ているような感じでこれが、意外に若い役者には舞台に立ちきれない原因になったのかもしれない。見えない仏壇を中央に配した設計はなかなか洒落ていたが。

ネタバレBOX

他の評者も指摘していたが、私の席の後ろに俳優仲間らしい二人連れがいて、大声でシャベルわ、指示通りに退席しないわと、特権階級さながらのふるまい、さらには背中に背負ったリュックで、振り向きざま、頭をけ飛ばされ、どーも、と言われたので、ぶんなぐってやろうかと思った。
ローズのジレンマ

ローズのジレンマ

東宝

シアタークリエ(東京都)

2021/02/06 (土) ~ 2021/02/25 (木)公演終了

満足度★★★★

ニールサイモンの晩年の喜劇、十数年ぶりの再演とのことだが初演は見ていない。演出者は変わったのかもしれないが、いかにも晩年の小品である。
夫がなくなって失意の中で経済的にピンチに陥った大物作家ローズ(大地真央)が、締め切りに追われている。作品のヒントにと夫(別所哲也)の遺作を手に取るが、自分ではとても手が付けられず、娘の秘書(神田沙也加)や、たまたま手に取ったミステリのワンブックライター(村井良太)が近所にいるというので助手に呼ぶ。四人だけの登場人物で、作品を仕上げるまで。舞台の仕掛けとしては、忘れられない亡夫が終始ローザには見え(現実に舞台に出てくる)、ほかの人には見えないという約束事で、そこでの登場人物たちのすれ違いが笑いを作っていくが、ここはそれほど新味もなく、夫婦の愛情物語も型通りのベタで、折角の母娘関係の葛藤にもニールサイモンらしい切れ味がない。
出演者はミュージカルもこなせるメンバーなので、最後に短いミュージカル風なシーンもあるが、まずは収まりのいい幕切れにはなっている。しかし、いかにものブロードウエイ喜劇で、太地も神田もいつもは、キャラクターを膨らませるのにおとなしい。男優陣も伸びやかさに欠ける。観客席もまだ始まったばかりなのに三分の二くらいしか入っていないので喜劇らしく盛り上がらないのが残念。
こういう芝居は日本の商業演劇に欠けているところで、この劇場(芸術座)を始めた菊田一夫が目指したのは首都市民が一夕楽しめる東京現代演劇を作ろうという事だった。社会劇の新劇とも、伝統を引いた新派、新国劇とも違う独自ので大衆現代劇で、芸術座は三益愛子の「がめつい奴」や森光子の「放浪記」で現代商業演劇の新境地を確立したわけだが、この手の喜劇はできなかった。いまなら、三谷幸喜だろうが、続く作者が出てこない。ケラとなると、もう、このレベルは超えている。時代に合った喜劇はつくづく難しいものだと思う。
今回よかったのはホリゾントのマッピングで、こういう技術の発展も芝居を変える。

我が友 ドラキュラ

我が友 ドラキュラ

劇団NLT

劇場MOMO(東京都)

2021/02/03 (水) ~ 2021/02/07 (日)公演終了

満足度★★★★

 喜劇では既存のキャラクターの使い方が難しい。登場させるのは簡単だし、著名なキャラクターだと下手な説明をしなくて済む。便利だが、知られているキャラに振り回されるという事にもなる。
ドラキュラと言うと、森の奥の古城に生きる不死の生命、処女の生き血を吸う、殺すには心臓を杭打ちしなければならない、などなどのキャラクターが知られている。架空の悪役キャラクターでは、ルパンに並ぶ人気者である。
今回の作品では、不死に飽きて早く死にたいと悩むドラキュラをめぐる話で、そこはあまり新味はないが、二幕では、そのために芝居を組むというところが新しい工夫である。しかし、その新しい部分がこなれていなくて、人物も、話も、笑いも渋滞する。新人賞と言うが、作者は既に上演作品もあって、一幕などは手慣れた感じがするが、そこからうまく広げていくところがスムースに進まない。役者も、川端慎二はドラキュラ役を楽しそうにやっているが、ほかの役には役者がなじんでいない。そこが舞台では浮いてしまう。
喜劇は難しいもので、喜劇が旗印のNLTやテアトルエコーはまず本で苦労している。どちらの劇団も喜劇の新人脚本賞を出しているところからもそれはうかがえる。劇としての喜劇は演出、俳優に負うところも大きくすぐれた作品を創り上げるのは時間もかかる。わが国には、三谷、ケラ、宮藤と言う優れた喜劇作家がいるが後続は心細い。いい作品を待望している




墓場なき死者

墓場なき死者

オフィスコットーネ

駅前劇場(東京都)

2021/01/31 (日) ~ 2021/02/11 (木)公演終了

満足度★★★★

先月はカミュ。今月はサルトルと昔懐かしい実存主義作家の代表作の上演が続く。
なんで急にブームになったのか、多分、今のコロナ騒ぎが「極限状況」とダブらせやすいからだろうが、それはずいぶん早合点の牽引付会であまり乗れない。
サルトルの「墓場なき死者」はノルマンディ上陸作戦からパリ陥落までの間のフランスで、ナチ協力政府とレジスタンスに引き裂かれた民兵の悲劇を素材にしている。政府側に捕虜となった民兵五人が民兵側の秘密(隊長の所在)を自白するように拷問される。その先は虐殺が待っているが、彼らは「自尊心」のために自白を拒む。
自白しそうな弟を殺してしまう姉、とか、拷問のシーンとか、自殺したり、殺されたりするシーンも多く、芝居と分かっていても理不尽な死は重苦しい。「正義の人びと」のように抽象的な議論にならない反面、肉体的な痛みも観客は味合う。議論は死を賭けた自尊心という事で再三繰り返されるが、ここが当時の戦争の状況を背景にしていて、解りにくい。それはそうだろう、よく事情が分かっている翻訳者は、どこか奇妙なおかしみがあると書いているが日本人にはわからない。日本の事なら「日本の一番長い日」だって、どこか奇妙なおかしみを感じることができるが、フランス事情までは響かない。演出者もそこまでは狙っていないらしく、どんどん話を進めるが、もっと、一つ一つのエピソードを腑に落ちるように描いてくれないと外国人には共感しにくい。(そこはカミュの本のせいも大きいが俳優座の方が分かりやすい)コロナ騒ぎで、上演時間を短くせざるを得なかったのであれば大いに同情するが、全体に舞台の肉体的な痛みを吸収するゆとりがない。
俳優では、隊長の女であり、弟を殺さざるを得なくなる姉を演じた土井ケイトがなかなか良かった。少し席を間引いているが満席だったのは何より。俳優座の圧倒的に老年に比べるとここは半分は30歳代以下の若い人が入っている。15分の通気交換休憩を挟んで2時間半。



正義の人びと

正義の人びと

劇団俳優座

俳優座劇場(東京都)

2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★

戦後社会に生きる若者に大きな課題を突き付けた政治劇(1949)だが、すっかり忘れていた。民藝が上演して(1969年)安保世代には忘れられない影響を及ぼした作品を、俳優座が上演する。劇場(民藝は都市センターだったか?)はかつては青年の熱気であふれていたが今はコロナの一席沖の客席を埋めるのは老年の観客だ。若者は演劇勉強中の青年が売れなかった空席にパラパラといる。革命に自らの命を懸けて挺身しなければ、と若者が社会変革への運動への参加の意味を痛切に求めた時代はわが国では遠くなっている。
この作品は鈴木、つか、佐藤に始まる小劇場運動にも、清水、斎藤以下の劇作家にも、蜷川、渡辺、などの演出家にも大きな影響を与えた。坂手、鐘下はもちろん、現代の古川、長田、中津留らも、戯曲は読んでいるに違いない。現代演劇のメインストリームの一つである。だが、大劇団公演で舞台を観たのはずいぶん久しぶりだ。

サルトルもカミユも芝居はうまい。これはロシアの専制政治の主の大公を爆弾で暗殺すると決めた社会主義政党の暗殺実行グループの暗殺前と、暗殺後の二幕である。暗殺グループのメンバーも色分けがよく出来ていて、その中で、暗殺をめぐってさまざまな立場が論じられる。社会の不正をただすための殺人は正義か、という事がメインになるが、中国全体主義や、イスラム至上主義からトランプのQアノンまで、今も解が得られていない問題を社会正義とその実行をめぐって、議論が沸騰する。対比されているのは人間の愛で、二幕では捕らえられ死刑宣告を受けた爆弾投擲者(斎藤隆介)のまえに殺された大公の妃(若井なおみ)が現れ、自分の大公への愛はどうなるのだと、迫る。投擲者の恋人で運動家でもあるドーラ(荒木真有美)は、絞首刑になる恋人と同化して民衆への愛が達成できるという。議論は原理的ですっきりはしているが、実用的ではない。
今見れば、サスペンス・ロマンのような作りで、よく出来ているので飽きないで見られる。ことに一幕二場あたりまでは流れもよく緊張が持続する。
一日二公演の夜の部を見たので、さすがに二幕も後半になると俳優陣に疲れが見えたが、議論が主になる大量のセリフをこなしたのはさすが俳優座である。この劇団の俳優は立ち姿がいいのも自慢してもいいところで、あまり見たことがない主演女優の荒木真由美ももう四十歳近いベテランだろうが、セリフも動きも実に無駄がなくきれいだ。斎藤隆介も役をよく受け止めている。
五十年ぶりに見た舞台には感無量とでも言うところだが、考えさせられるところは多かった。とても「見てきた感想」では書ききれない。そこはお預けにするが、今の時代、お預けできるだけまだ、社会の状況は切迫していないともいえるし、もうこの段階は過ぎているともいえる。いや、単にこちらが老いたのであろう。


ネタバレBOX

小笠原響は翻訳劇の小劇場公演の演出でよく見るうまくまとめる演出家だが、ラストの処理などは疑問が残る。死刑執行の音が聞こえた後に、本人の処刑縄の前に立つ姿を見せるのはいかがなものか。これでラストの意味が濁った。
ミュージカル『パレード』【1月15日~17日昼まで公演中止】

ミュージカル『パレード』【1月15日~17日昼まで公演中止】

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2021/01/15 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★

百年前のアメリカの南部のアトランタで起きた冤罪事件を素材にしたミュージカル。南北戦争がまだ後を引いていて、黒人差別や白人同士の貧富の差別が社会に根強く残っている。戦没者追悼記念日のパレードはそういう地域に生きる人々をひとつにするお祭りだ。
事件は、北部からきたユダヤ人経営者(石丸幹二)のマッチ工場でそこで働く貧しい白人家庭の少女の死体が発見されとことに始まる。犯行の確証がないまま、市民のいわれない反感から経営者が裁判に掛けられ犯人とされる。経営者の妻(堀内敬子)の奔走や良心的な知事そうとする夫婦の愛の物語は、復讐に熱狂する人々のパレードに呑みこまれていく。
当時の南部を思わせる音楽。大木一本の裸舞台を照明でホリゾントの色を変え、さまざまな場に変化させ、ここに五色の紙ふぶきを降らせる美術が効果的、斜に入れた照明もいい。これで舞台転換に時間がかからず、テンポもリズムも出て音楽が生きた。衣裳も少女の衣装で一本勝負。オケも台詞との絡みが多いのに、見事なものだ。ことに裁判の場面をだれずに変化を持たせながら面白くまとめたところがいい。コーラスの振り付けも無理していない。チームをまとめきった新劇団出身の森新太郎に拍手。
「パレード」がトニー賞を得たのも、二十余年前、今なんで日本で上演?と思うが、差別と偏見を抱いて冤罪を許した人々の姿は、メディアで増幅される不寛容な日本の現実にも重なってくる。
「パレード」で夫を殺された妻は、ラストで、「でも私はこの地で生きていく」と高らかに言う。風と共に去りぬに似たアメリカ魂には冤罪や差別の悲劇を越えて、人間を信じる力がある。演劇ならではの見事なラストであった。
最近のロックミュージカルと違って、セリフに曲を付けられる(笑)正当なミュージカルスタッフの座組みがよく、ここの所、瞠目するミュージカルがなかった中では出色の出来だ。ホリプロも既成の東宝、四季、松竹、梅コマと並んで、新しいミュージカルの舞台を作る実力を備えてきた。企画としては大衆迎合の最近の世相への時宜を得たもの、と言いたいところだが、それは少し買い被りで、今はアメリカでもやっていない旧作をよく掘り出して夫婦愛のミュージカルにして面白く仕上げたことを評価すべきだろう。
2017年のメインキャストスタッフを残した再演。


ザ・空気 ver. 3

ザ・空気 ver. 3

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2021/01/08 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★

当たりシリーズだけあって、見ている間は、展開も面白く楽しめるが、現代世間批判としては新劇版ニュースペーパーみたいで、作者が永井愛なら、もっと演劇的に深く突っ込めるのにと、「時の物置」や「パパのデモクラシー」を懐かしく思い出してしまう。
テレビのニュース番組の裏話で、このレベルのメディア批判劇は既に幾つもある。若い作家も書いている。永井愛ならもっと、ユニークな視角でドラマを作ってほしい。というのはこちらの勝手な願いで、この方が分かりやすい。劇場の観客はテレビしか見ない善男善女だからこれでいい、現に拍手喝采してくれるではないか、といわれると二言はないのだが。
現実社会の実働人間はニュースが必要なら、新聞も週刊誌もSNSも利用する。この舞台で見られるようなテレビ番組だけを頼りにしてはいない。トランプは半分も支持者があるから侮れないという識者もいるが、あれだけテレビで宣伝し、SNSで発信しまくっても半分に届かないのである。別の評者(かず氏)も言っているように、これで自らの主張とするならかなり寂しい。
しかし、この優れたおとなしい劇作家をこのレベルまで駆り立てたのは、新国立劇場での官僚との対立や現政権のでたらめ政策が蓮日繰り広げられ腹に据えかねたからであろう。無学・無神経な政治家・官僚の権力を嵩にきた文化いじりは本人たちが気付いていない一国の文化水準を貶める罪深い所業だ。

スルース~探偵~

スルース~探偵~

ホリプロ

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2021/01/08 (金) ~ 2021/01/24 (日)公演終了

満足度★★★★

登場人物が二人だけ、というのはミステリにとって、究極の状況設定だろう。どちらかが加害者、もう一人が被害者。それが犯罪の進行に伴って、目まぐるしく攻守所を変えるところが見所である。初老のミステリ作家(吉田剛太郎)の妻を寝取った若い男(柿澤勇人)への復讐計画が物語を進める軸である。
事件はミステリ作家らしい、古典的なトリッキーな犯罪計画で、幕を開ける。作家が若い男を孤立した豪邸に呼び出し、計画にそって復讐を遂げるのが一幕。若い男が反撃に転ずるのが二幕。今までの上演は、計画犯罪の経緯を主にしたサスペンス・ミステリ劇と言う感じだったが、今回は舞台の遊戯性(とでもいおうか)を立て、役者も適役を得て、よく出来た戯曲「スルース」を今に生かす上演になった。かつての公演ではホラー風の効果を出すために置かれていた異様な笑い声を出す人形の小道具も、今回は喜劇的な役割を果たす。上演台本で、歌える柿澤を生かし、派手な衣装や小道具で動きを重視しゲーム性を生かしたテンポのいい演出である。反面、古典的ミステリ批判や、男女の機微などは後退して喜劇性が強い。そこは今風で、吉田剛太郎は自らも主演しながら柿澤との老若対立のドラマにうまくまとめている。柿澤の裸体を見せるところも今回の工夫だろう。ドラマを動かす女二人が全く出てこないのに、最後まで気になるというのも戯曲の洒落た仕掛けだ。
大きく戯曲を変えることなく「スル―ス」現代版としてよく出来ているが、コロナの緊急事態宣言下に見る芝居としては時期が悪かった。三分の二という入りは残念だったが、それは珍しく日曜の夜公演だったせいかもしれない。

ネタバレBOX

このミステリ劇の代表作の翻訳はなかなか出版されない。五十年昔にテアトロで雑誌掲載されたのと、英語教科書用に南雲堂で出されただけ。きっと著作権の問題があるのだろうが、本屋さんが代理業者に任せないで、交渉すれば、翻訳出版権はとれると思う。既訳の倉橋健訳は手堅いが今はこの上演の常田訳の翻訳の方が似合うだろう。しかし、もし出版されるなら、今回ほとんどカットされたミステリ蘊蓄部分は復活してほしい。ミステリを読む読者にとっては面白いはずだ。
光射ス森

光射ス森

演劇集団円

シアターX(東京都)

2020/12/19 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了

満足度★★★

小劇場が盛んになる前は、しきりに「新劇」が素材にしていた第一次産業の、それも珍しく林業の話である。時代が変われば、産業構造が変わるのは当然の話なのだが、新劇時代以来、第一次産業は被害者側、お上からも社会からも迫害され、それでも自然の美しさや、生活の原点に携わる喜びを見出して生業に励む、と言う手のドラマが量産されてきた。
最近は少なくなったと思っていたが、この作品を見ると、その基本的な取り組みは少しも変わっていない。林業はあまり取り上げられていないが、現代風俗的な登場人物は出てきはするが、俳優たちも、老人組はともかく、若い層は実感もないのだろうが、書き割りの人物のようでこれでは基本的構造を改革しようという次世代への力はない。ただの体制順応である。例えば、林業の実務を10年もやったという女性の役(馬渡亜樹)の衣装や体つきに山歩きの実感が全然ない。せめて腰回りに肉布団を巻くくらいの知恵はあってもよさそうなのに、現代は、山など歩かないというので都会に住む人物と同じスリムな体形で作業着もファッション風。これでは、山を歩いて世紀を超える喜びがあるというのも嘘っぽい。昭和20年代の新劇の農業改革の芝居と同じで、さんざん説明はされるが、リアリティがない。この作者が以前書いた、確か、深川の染物屋の話のような地に着いたところがない、おまけに二家族の話だが、その関係がよくわからない。時代が十年ずらしてあることなど、帰り道にパンフレットを読んで初めて分かった。そしてこう言う話になると、必ず出てくる宮沢賢治。またかの安宅関。
折角珍しい素材だったのに、残念な出来だった。

ピーター&ザ・スターキャッチャー

ピーター&ザ・スターキャッチャー

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2020/12/05 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了

満足度★★

新国が世間離れしているのは今に始まったことではないが、これだけ外されると唖然とするしかない。子供と見る演劇を作って、演劇普及するという触れ込みだが、私が見た回は子供が一人もいなかった。高校生らしい生徒もいない。学校休校で授業が詰まっている今、よほど自由の利く私立学校以外芝居見物などしていられないだろう。まだ冬休みも始まっていない。新国がその建前に自己陶酔して勝手にやっているだけなのである。
作品の選択もわからない。ピーターパンが子供の世界に普及している英米ならともかく、フライイングのピータンパンを見た生徒ですら、このストーリーは楽しめないだろう。
子供のための演劇が難しいのはわかっている。学校の団体観劇が不人気なのも知っている。しかし、その中で、円の「お化けりんご」のような傑作も出てくるので、思い付きだけでは周囲も迷惑、客席も半分がやっとで、楽しんでもいない。確か円はスタジオの近所の学校の生徒を必ず招待していたように覚えている。せめてそこが児童を扱う原点だろう。
芝居を見ると、込み入った筋の割にまとまりは悪くはなく、ノゾエは意外に商業劇場も行けるのでは・・と思ったが、子供抜きで大人だけで芝居として見ろ、と言われるとつらい。主演のピーターの入野白由とモリーの豊原江理佳は歌もまずまずで柄があっている。ミュージカル仕立てでそこはさすがアメリカでそつなくいい曲が揃っていて、そこではちゃんと子供と大人の観客が読み込まれていた。

23階の笑い

23階の笑い

シス・カンパニー

世田谷パブリックシアター(東京都)

2020/12/05 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了

満足度★★★★

もう何度も上演されているニールサイモンの本だが、大きな劇場では初めてか。
自らが放送作家時代だった経験をもとに書かれた構成作家・コント作家部屋を舞台にしたコメディだ。時代に遅れそうになってきたコメディアンを軸にした90分のショーが次第に短縮され、打ち切りを迫られる。そこまでの作家たちの仕事場・事務所の人間模様である。参加したばかりの新人(瀬戸康史)作家の語りで進む。いつまでもロシア訛りが抜けないヴァル(山崎一)中堅作家の気取り屋のミルト(吉原光夫)、さっさと見切りをつけてハリウッドへ行って成功するブライアン(鈴木浩介)、天才少年と言われたコント作家のケニー(浅野和之)、ただ一人の女流作家のキャロル(松岡美優)、いつも遅刻しては大げさな言い訳をするアイラ(梶原善)と多彩なキャラの作家たちが、軸になるコメディアン・マックス(小手伸也)のブレーンとして働いている。マックスの得意芸がギリシャ・ローマの史劇ネタというシーンもあって、懐かしいバックステージものの空気が伝わってくる。舞台としては、集団劇を狙っているので、マックスも物語が進む軸のひとつにすぎず、人生誰もが味わう働く仲間の一時期の哀歓のドラマである。ワサビは赤狩りがネタになるところだろうが、映画はともかくこの時代のテレビはあまり眼中になかったんじゃないか。それはいいのだが、やはりショーは放送局との力関係も、俳優事務所も一種の権力の構造で出来ているから、そこでは人間模様の面白さとはぎくしゃくする。ドラマのつくりが喜劇だから、その齟齬はあまり目立たないし、三谷幸喜も手練れだから2時間足らず、それぞれの俳優のガラが生かされた芝居を楽しめる。浅野和之や梶原善が健闘。小手伸也は懸命に話の軸をつとめている。懐かしいクリスマス観劇にはいい芝居だが、まさかのの囲い付きの客席では弾まない。

ネタバレBOX

ラスト。一杯セットだった事務所全体が、舞台奥の闇に引っ込んでいき、現れた夜の街灯のもとに登場人物が揃ってカーテンコールになるが、ここは中劇場のクリスマスの舞台らしく、なかなかよかった。
ガールズ・イン・クライシス

ガールズ・イン・クライシス

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2020/12/04 (金) ~ 2020/12/16 (水)公演終了

満足度★★★★

文学座らしくなくて面白いよ、という評判を聞いてあまり予備知識なく寒空のアトリエへ。
コロナ下のせいか当日ビラも配役表も、もちろんパンフもない。ドイツの作品(2017?)という事はわかったが、余っていたチラシをもらうと、ここにも文学座らしからぬキッチュなタッチで男女の裸が躍っている。東欧の作品らしいエゲツなさもあって文学座としては珍しい演目だ。アトリエ70周年記念公演、とか日独協会の後援とか、大いに力は入っているらしい。演出は新進の生田みゆき。
ドイツのキワモノというと、時代は違うが、猥雑さと切迫した環境で書かれたでドルーテンの「キャバレー」を連想する。
内容は、男はうざいばかりで満足できないベイビー(鹿野真央)が、友人のデブで男にうぶなドリー(吉野美紗)と、思い通りになる男の人形(亀田佳明、木場尤視)と共に、金沢映子と横田栄司の狂言回しで、現代地獄巡りをするという筋の中で、「人間の欲望、エゴ、差別意識、群集心理をファンタジックに描く」(チラシ)という80分だ。ストーリーも登場人物たちもすべて男女三人づつの俳優で演じるのであまり筋を追っても仕方がない。役の設定にも母娘の関係や犯罪友の会のメンバーなどまるでよくわからないグループの登場などもあって、どんどん進む割には、気分は渋滞する。
俳優も、鹿野真央も亀田佳明も熱演だが、弾まない。文学座としては色変わりだが、こういう一種の不条理劇は文学座も日本の演劇も経験がないわけではない。別役実やケラリーノ・サンドロヴィッチがすでに扱っている領域である。その経験がうまく生かせていないのが残念なところだが、こういう戯曲を発掘して、このところすぐれた演出家を次々デビューさせている文学座の若い女性演出家で、見られたのは来年に期待を持たせる年末のいい企画であった。


窓より外には移動式遊園地

窓より外には移動式遊園地

マームとジプシー

LUMINE 0(東京都)

2020/12/08 (火) ~ 2020/12/13 (日)公演終了

満足度★★★★

新宿の南口ががらりと変わった。全国に向けて長距離バスがひきりなしに発着する新しい大型ビル、バス駅ビル・バスタがJR新宿駅と高島屋の間を埋めた。その5階にできたRUMINE0は劇場というより、イベントスペースと言った方がいいかもしれない。雰囲気は表参道のスパイラルホールに似ている。新宿としては結構小じゃれている。
新世代演劇としてもうかなり長い間期待の星とされてきた藤田貴大のマームとジプシーの公演である。
かなり広いスペースに平台展示からスクリーンや楽器を置いたスペースがあり、その半分は照明が落とせるようになっていて、そこでパフォ-マンスが演じられる。俳優は青柳いづみひとり。出し物は5つくらいあって、そこから三本を組み合わせてみる。中身短く15分程度、一応パフォーマンス枠は2時間枠だから、あとの1時間あまりは、展示物を見ながら過すことになる。私が見た回のパフォーマンスは、藤田の「animals」と川上未映子の「冬の扉」と「治療・コスモスの咲く家」の三本。最初は紙芝居仕立ての動物寓話的な童話・人形劇、川上の「冬の扉」は朗読風。長い衣装替えを見せてくれたあとは、一人芝居。 
テキストは女性向写真ファッション雑誌のコピーのように気が利いていて、引き付けられるところもあるが、三つの趣向の違うパフォーマンスを一人でやるのは荷が重い。「冬の扉」は十代最後の冬を迎える女性の語りになっているので、青柳の年齢では中途半端で実年齢と役年齢がまじりあってテキストが濁ってしまう。休憩になると、いかにも総タイトルの遊園地風のピエロ衣装の場内整理係がうろうろするのもしらける。
展示物はさまざまで、靴作りの内幕を見せるとか、本の直売場などもあるが、ミステリが一つも並んでいなかったのが印象に残った。答えが最後に明確になるものはこの公演にはないのだ。展示物の一つにあった「ぬいぐるみたちが、何だか変だよと囁いている引っ越しの夜」(このテキストは穂村弘)がこの公演のなんだか変なカラーをよく示している。
形としては、グッズを売る方が主でないかと思わせるような、2.5ディメンションの劇場に似ているが、ここにある2.5的な手触りは「なんだか変な空気」で、そこが新しいと言えばいえるし、そう思えば悪くないが、生活者の大人は、どうだろう。これで大人が乗ってくると考えるのは若さの特権だが、ファン以上には広がっていかないだろう。師匠筋の野田のドラマは、生活者をおろそかにしてはいない。
休憩にビルの屋上庭園に出てみる。新宿から西の富士山まで見渡せる。新宿も変わった。新宿の演劇地図は紀伊国屋とコマがリードしてきたが、その時代はおわって、いまはルミネ座よしもとだ。演劇に、テレビタレントや芸人から出発した人たちが大きな役割を占めるようになったこと、演劇興行がイベント化して例えば、2.5ディメンションやショーが盛んにおこなわれるようになったことで、今演劇はまた曲がり角を曲がろうとしている。新設のREMINE0が加わってどのような展開になるかコロナ後が楽しみでもある。


ネタバレBOX

以前の曲がり角の、「戦後新劇」(1950年代)と「小劇場」(1970‐80年代)が中身から変わっていったのと比べると、今回の曲がり角(2000年ごろから)は外の「状況」からの変化で、それも時代のなせることだろう。空洞がいいとなれば、またそういうのが演劇の役割という事になるなら、このパフォ-マンスはいまの成果をよく示している。

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