陰陽師 生成り姫
松竹
新橋演舞場(東京都)
2022/02/22 (火) ~ 2022/03/12 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ここ、新橋演舞場とか明治座のように、千席以上の大きな劇場で多くの観客を集めなければならぬ演劇を製作し続けるのは本当に大変なことだと思う。それは、若い情熱で走り始められる小劇場の演劇とも、長い歴史に支えられた伝統演劇や宝塚歌劇団とも、公共劇場とも違う演劇観が必要な世界なのだろう。
「陰陽師・生成り姫」は、新橋演舞場で松竹の制作。関西でも上演されるから、この時期慎重にならざるを得ない。集客が最も安定しているジャニーズ頼みのキャスティングは仕方がないにしても、どういう芝居が興行的に成功するか、演劇部は大いに頭を悩ませるところだろう。
素材は陰陽師、平安時代を背景にした王朝ファンタジー・ロマンだ。前例豊富と言う世界でもない。夢枕獏の原作をマキノノゾミの脚本は大劇場向きのスペクタキュラーなドラマに仕立て上げた。筋立ては、陰陽師の安部晴明(三宅健)と源博雅(林翔太)の友情を敷いて、その上に博雅と徳子姫(音月柱)との音楽を仲立ちにした恋物語、安部晴明と蘆屋道満(木場勝己)との陰陽術競べ。さらに時の施政者である藤原清時(姜暢雄)のコミックなダメぶりが引き起こす混乱など、かなり複雑なストーリーが展開する。
演出の鈴木裕美は、この物語を音楽、ダンス、劇場機構を使った技術、さらには美術、衣装などを総動員して和製ファンタジーを飽きずに見せ切ってしまう。そのためには、音楽はナマの西洋音楽だし、陰陽師の起こす仕掛けをコンテンポラリーダンス風の踊りで表現しもすれば、フライイングもある。舞台美術も衣装も視覚的で、あまり時代考証にとらわれていない(しかし、道満と蝉丸の衣装の色調とコンセプトが似ていて、時に錯覚する)。
役者ではジャニーズの林翔太が健闘で、晴明との若い友情が物語を支える。笛と提琴の恋物語も、その後のミステリアスな展開も、小劇場出身のマキノ・鈴木の息があって青春ものの味がする。変な翻訳劇を見つけてきて皆が分からないままやっているスター興行に比べると、随分苦労してまとめている。例によって女性客ばかりだが、年齢層は広く、ほぼ満席だったのは以って瞑すべしか。35分の休憩を入れて三幕3時間半。たっぷり!(と言う掛け声も聞かれなくなったが)
Speak low, No tail (tale).
燐光群
新宿シアタートップス(東京都)
2022/02/18 (金) ~ 2022/02/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
シアタートップスが小劇場に戻ってきた。
80年代から今世紀初頭まで(85-09)一階の喫茶店トップスの上にあった劇場には、遊眠社以後の小劇場が次々と登場して、「バブル・その後」の広い層の若者に支持される「トップス演劇」を繰り広げた。
そのころすでにそれらの若者とは一線を画して社会に強いメッセージをもって下北沢から演劇を発信していた燐光群が、昨年秋から本多劇場が新しく経営することになったトップスの舞台に立つ。坂手洋二は演出に回って、本は詩人の小沼純一の戯曲処女作。ちょうど、トップスがあった時代から今までの小さなジャズバーをメインの設定にしたユニークな舞台である。バブル期にはその前の安保闘争型の若者は去り、ジャズバーで気心の知れた仲間だけに沈潜する若者の時代になり、さらには個人の時代になる。その経緯を自分好みのLPをかけながら見守っているマスター役の猪熊恒和が好演だ。あまり幸せでなかったこの国の一時代を言葉でなく体現している。客たち、古い時代は鴨川てんしと川中健次郎、次の世代は杉山英之、一番若い世代は樋尾麻衣子が軸になって演じるが、いい味を出しているべテランに負けず杉山、樋尾も微妙な時代性を出していて、この劇団の年輪と時代の波を感じる。樋尾麻衣子は、地か、演じているのか分らないが、まさに今の女だ
舞台はこのバーのクロニクルに、街中の野良猫を見守る近所の女性たちのエピソードと、一家の中で欠かせない犬との交流を回顧するエピソードが交錯する。その構成は多分、坂手が演出とともにやったのだろうが、うまいものだ。話としては猫の話が発展するところがなく後半退屈になるが、全体として、短いシーンを重ねて時代を巧みに描いていて、劇作家としての坂手の円熟ぶりも見られる。思いだしたように政治的、社会倫理的メッセージも出てくるが、そんな言葉はなくても時代批評にはなっている。いかにも、いまの小劇場らしい、時代を敏感に反映する新宿にふさわしいトップスの芝居である。これでこけら落としをやればよかったにと思うが、それはできなかったのだろう。それはネタバレで。
SLAPSTICKS
KERA CROSS
シアタークリエ(東京都)
2022/02/03 (木) ~ 2022/02/17 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ケラリーノ・サンドロヴィッチの旧作を若い演出家が戯曲を尊重する以外一切条件なしで商業劇場で上演するクリエのKera Cross の第三弾。
鈴木裕美、河原雅彦に続く三人目の演出者はロロの三浦直之。幕内では接点があったのかもしれないが外見では、今まで縁もゆかりもなさそうな若い小劇場演出家が、この気難しい劇団持ちの劇作家の戯曲にどう対処するか、が今回の見どころだ。演出者とケラとの年齢差・鈴木、同年、河原、六年に比べると三浦は二十四年。思い切った若い演出者起用だ。
今回は更に難しい条件もある。コロナ禍でほとんどの商業劇場はファンチケットを見込めるキャステイングになっている。このキャストでももちろん固定ファンはいるだろうが、券売からキャストに媚びていない。三浦にとってははじめてのキャストと組む。それに、このような長期の全国ツアーを含む商業大劇場・公演は初めての経験だろう。
物語は無声映画からトーキーに移る時代の1930年代のアメリカ・ハリウッド。設定からすべて作り出さなければいけない劇的世界である。この座組で正面から勝負で大丈夫か。
結論から言えば、すべての危惧は見事に回避され、舞台は、楽しく懐かしい青春喜劇に纏まっている。ナイロンの俳優たちだったら粒だって笑いを取るところや独特のケラ喜劇調も生かせただろう。アクロバチックなところはもっとドタバタの面白さが出たに違いない。今回はそういうところはすべてモノクロのホンモノ的な無声映画フィルムに任せ、舞台を勃興期産業(映画)に巻き込まれていく若者たちの青春回顧劇にしている。ケラの戯曲ではいつも照れて隠されている素直な良さが出た。こうしてみると、主人公の助監督(小西遼生・木村達成)をはじめ、大監督(マギー)も、有名女優(荘一帆)も、若手の女優も事件に巻き込まれる不運な喜劇俳優(金田哲)も、ピアノ弾きもみな懸命に青春を生きている。
東宝の商業劇場系の俳優たちが適役を得て生き生きと演じている。演出も、アメリカ映画の初期トーキー喜劇風のスタイルがあって、とても初めての商業演劇とは見えない落ち着きぶりだ。ほとんど音楽には比重をおいていない。
ケラの戯曲だけから出発していて、今までのケラ演出作品とは違う世界になっている。そこがいい。
Kera Crossの企画は東宝とケラのプロダクションでもあるキューブとの共同開発だが、一年一度、五年は続けてほしい。欲を言えば末永く。それがケラリーノサンドロヴィッチと言う稀有な劇作家を日本の演劇財産にしていく確かな道である。さしづめ、まずはケラの初期作品、例えば、ウチハソバヤジャナイとか、カラフルメリイでオハヨを加藤拓也の演出で見て見たいものだ。がんばれ東宝!
レストラン「ドイツ亭」
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2022/02/03 (木) ~ 2022/02/12 (土)公演終了
実演鑑賞
ドイツのベストセラー小説の日本での劇化。脚本は長田育恵。長田主宰のてがみ座と民藝の
合同公演。演出は民藝の丹野郁弓。
この小説がいつ書かれたのか知らないが、舞台はほぼ、六十年前、ようやくドイツ国内でホロコーストが裁かれるようになった時代である。その裁判のポーランド語訳者として法廷に出ることになった「ドイツ亭」の娘(賀来梨夏子)の視点からのアウシュビッツものである。十五分の休憩を入れて二時間半足らずだから長い芝居ではないが、登場人物も三十人近く多い上に、小説の脚色にありがちの人物設定、説明も多くかなりもたれる。
ドイツと日本は同じ敗戦国でありながら、一応前世紀の間にその位置を回復した。六十年前には、負の遺産の清算ではさまざまな場面で国民も生傷を負った。戦前生まれの私にはそれはよくわかる。それを忘れないでおこうという事も大事だが、それならもっと、今の若い人たちが共感できるような作りがあったのではないだろうか。このドラマを作った人々はほとんどその時代を生きてない。無理にその時代に戻るよりも、現今の民族国家の問題点を生きたドラマにすることの方がよほど訴求力があると思う。運悪く私は長田育恵の評判の良かった作品を見逃しているが、見た作品からでも今注目されているア・ラ・フォーティの女性劇作家の実力者の一人だという事は知っている。海外を舞台にすることも、時代を超えて設定することも、ドラマには便利かもしれないが、そこは、無理にでも祖国のドラマを祖国の人間と文化の中で描いてほしい。日本固有の歌人を素材にちゃんといいホンが書けているではないか。
天日坊【2月25日-26日公演中止】
松竹/Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2022/02/01 (火) ~ 2022/02/26 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
改築になるコクーン最後のコクーン歌舞伎。掉尾を飾るすばらしい舞台だった。
数え上げればきりがないほどいい。初演は12年、再演らしく跳ねるところははね、抑えるところは抑えて緩急自在、現代歌舞伎の代表作になった。
まず宮藤官九郎の脚本。百五十年ぶりの黙阿弥再演と言うが、中身は黙阿弥歌舞伎によくある趣向盛り沢山の大歌舞伎でも時に見る御落胤悪党ものである。そこを宮藤官九郎が現代観客向きに、あれよあれよというテンポのいい道中物にアレンジしている。御簾内は上手下手に置いたそれぞれに金管二本(ほかに下手にリズム二名、上手はギター二名)入りのジャズ風バンド(音楽Dr,kyOn、平田直樹)これがよく似合う。二十分の休憩を入れて3時間10分、全く飽きない。
演出は串田和美。コクーン歌舞伎を先代勘三郎と組んで始めた功労者である。串田ももう八十歳、初期の青臭さはなくなって老練であるが古びていない。いつまでも気分は青春だ。ここの歌舞伎がよくやるように小屋掛け芝居の外枠を作っていて、それがこのチープな詐話にぴったりだ。
役者もいい。座頭の勘九郎はもとより(いやと言うほど先代に似てきたなぁ。歌舞伎と言うのは怖いものだ)お六の七之介ももはや見事な大看板ぶり、地雷太郎の獅童もニンにあっている。脇の鶴松の高窓大夫、萬次郎の猫間、など歌舞伎役者に交じった笹野高史のお三婆ア、初出演(でもないと思うが)の小松和重の現代劇俳優がいい色合いで入っている。抑えに扇雀。いう事のない座組である。皆精彩があって少しづつ全体を押し上げ、舞台が活気を帯びている。最後の長い殺陣。古典歌舞伎の殺陣の様式を踏まえていて、それがジャズ伴奏に嵌まる現代の殺陣で山場になっている。コロナ禍で掛け声がないのが歌舞伎公演としては唯一の失点か。ここは仕込んででも掛け声がないと緞帳が降りない。
コクーン歌舞伎全作に言えることだが、どの作品も古典を踏まえている。そこが赤坂歌舞伎、六本木歌舞伎や新感線とちがって、高く評価したいところだ。歌舞伎はファッションではない、単なる様式でもない。日本の文化の中で、数少ない世界のレベルで誇れる演劇文化なのだ。
見舞う男
ジェットラグ
CBGKシブゲキ!!(東京都)
2022/02/03 (木) ~ 2022/02/07 (月)公演終了
実演鑑賞
企画は先を見ている。ジャニーズもファンクラブの総会のような演劇公演をやっていても仕方がない、中津留も社会派ばかりでは観客の幅が狭くなる。トムプロジェクトに代わる新しい若者向けのストレートプレイで劇場を埋めようというのは意欲的だ。ジャニーズ主演、文学座から手堅い女優を借りてきて、ショーが似合う劇場シブゲキで若者の人情社会劇をやる。狙いは新鮮だが、今回は滑った。あまりやらない試みだから仕方がないが、意余って力足りず。みなが安全興行に走って見逃しているとことをついたいい企画なのに残念。懲りずに次を期待しよう。
ある王妃の死
劇団青年座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2022/01/21 (金) ~ 2022/01/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
若い作家が歴史上の事件を舞台に上げることが多くなったように感じる。
これは、130年前の朝鮮王朝の王妃暗殺事件を素材にしたシライケイタの作。歴史劇では先鞭をつけた古川健が意外なアングルから歴史に光を当てて人間像を描くのに対して、こちらは正面から直球一本。当時のかなり複雑な国際情勢や日韓の国内の事情も分かりやすく、登場人物もよく整理されていて、2時間のコンパクトな歴史ドラマになっている。その中に、親子の情愛溢れる短いシーンとか、国民歌であろうアリランを織り込んで、温泉ドラゴンではどこか不器用なところがあったシライケイタ、なかなか筆達者になった。芝居として見れば、歴史を知らない観客も釣り込まれる裏切りと反逆の王宮陰謀劇になっている。歴史に翻弄されるそれぞれの人間像もよく描かれている。
若い演出の金沢菜乃英も、上手に宮廷の御簾を置いたシンプルなワンセットでテンポよく全場を裁いてダレない。出演者も、こういうドラマになると層の厚い青年座の地力が出た。
中でも、物語の軸になる王妃(万善香織)と夫の高宗(若林久弥)その子で語りても務める世子(須田祐介)は、陰謀の中で孤立する親子の情感を巧みに出していて、好演、新人にしては舞台度胸があるなぁと見ていたら、みなベテランではないか。大院君(津嘉山正種)をはじめ周囲の日韓の敵役もみな一癖をうまく演じている。芝居としては楽しめる出来になっているのだが、単純にそう言えないところが、こういう歴史素材の難しい所で、近代になってから日韓関係のこじれはこの事件を日本側が仕組んだところから始まる、と言われているくらいだから、このドラマについても議論はいくらでも立てられるだろう。
ドラマは、よくある空疎なお題目を並べてケリをつけたりしていないでいるのはいいが、単純に面白いというにも後ろめたいところがある。そこが近い国同士の近親感情かもしれないが、そこへあえて踏み込んだところを評価したい。青年座、なかなかやるじゃないか。
アオイの花【1月25日-27日公演中止】
“STRAYDOG”
テアトルBONBON(東京都)
2022/01/20 (木) ~ 2022/01/30 (日)公演終了
実演鑑賞
こういう事態だから急遽休演という事もあるだろう。しかし、今日の対応はいかがなものか。私は13時にストレイドッグのHPを確認して何事もないと、午後の仕事に出かけ、中野へ行って見れば、がらんとしたホールの表にはり紙が一枚。帰宅して私のパソコンをチェックすると、今日休演の通知が来たのは16時30分。開演の1時間半前である。これでは、劇場の前でうろうろしていた今日のチケットを持った客はどうしようもない。緊急事態だからとは言うが、紙一枚で、係員は一人もいない。払い戻し、代替公演の案内もない。いかにも礼を失していないか。こういうところで「アート気質」を出していてはこの劇団に未来はない。まぁ、そんな悪意はなかったとしよう。しかし、世間の常識、儀礼は舞台に立つもの心得ていてもらわなくては困る。雨も降り始めた帰りの夜道、かなり不愉快だった。
MURDER for Two マーダー・フォー・トゥー
テレビ朝日/シーエイティプロデュース
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2022/01/08 (土) ~ 2022/01/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
二人の出演者がピアノの演奏もしながら、殺人事件の犯人捜しをするオフ・ブロードウエイ・ミュージカル。2011年シカゴ初演、NYへは2013年、日本では2016年に初演している。この再演では坂本昌行は変わらず相手役が松尾貴史から海宝直人に変わった。
もともとはタレントショーとして企画されたようでコクーンの客席は固定フアンらしい40歳代を軸とした女性観客に埋められている。あまり一般には宣伝もしていないが、顔見世だけに終わらせるにはちょっと惜しい舞台である。
二人だけのフーダニット(犯人探し劇)というと、「スル―ス」と言う名作があるが、こちらはミュージカルである上にアクロバットなピアノ演奏もあるから誰にでもできるというものではない。今回も出演者たちの好演もあって、まずまずの出来なのだが、スルースのように何度再演しても、キャストを変えても、なお別の面白さが出るところまで練り上げたらどうだろう。翻訳物が得意なプロダクションCATの財産になるかもしれないではないか。
出演者でいえば、坂本昌行はほとんど捜査官の一役を演じるが、相手役の海宝直人は男女、老若、少年から老婆までを白シャツに黒のベスト、スラックスと言う衣装で、小道具の助けも借りず多くの役を演じる。本は何もしない二枚目役と、何でもできる役者と言う取り合わせの面白さも狙っているので、ここがうまくいっている。海宝直人は、これをやってのけただけでも見直した。もっとそれぞれのキャラを立てるところを見つけていけば持ち役になりそうだ。坂本は以前「オスロ」を見て愕然としたが、こちらはニンにあっていて、資質(歌える)が生きている。いい組み合わせだと思う。
本は、やはり問題あって、ミステリとしては犯罪そのもののドラマが描けない。フーダニットを正面からやってはボロが出る、犯罪現場と時間を絞ったのはいいが、あとは動機探ししかない。そこは説明になってしまうので、歌となじまない。よく聞き取れないところが何か所かある。歌詞翻訳はよく見る人だが、思い切って日本語で聞き取りやすいように譜割りを直したらどうだろう。外国人演出の思わぬ弱点である。
原作にもあるに違いない客いじりが四か所もあるが、おオフの小さな小屋ならともかく、コクーンではしらけるだけで客も乗れない。
コロナ禍で劇場にまで来てくれるのはファンだけ、という現状も理解できるが、せめてこのレベルの舞台は見せてほしいものだ。
S.ストーリーズ
劇団かもめんたる
座・高円寺1(東京都)
2022/01/19 (水) ~ 2022/01/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
演劇と演芸と、どこで線を引くのか。ステージで演じる、という事では同じなのに、両者の間のジャンルの溝は意外に深い。かもめんたるの岩崎う大は、岸田戯曲賞の候補にもなっている。超えられるか。
小劇場の一方の雄・佐藤信が芸術監督の座・高円寺の公演である。
裸舞台に雪が降る。冬の夜の若い夫婦の家にマラソンランナーとそのコーチが入ってくる。どうやら時空を飛んでコースを間違えたらしい、「しゃがいも」という不思議な声がどこからか聞こえる。と言うのがシュールな序幕から、六つの短編が演じられる。演芸を志す若者の生活に近いエピソードもあれば、カフカ風の挿話もある。コンテンポラリーダンスをからかったようなものもあれば、流行のユーチューバーを志す若者をやや時代から取り残されそうになった芸人がとっちめる話もある。いずれも、形で見せる外面的な演芸の要素と、内面的な演劇の要素が織り込まれている。1時間50分、見ている分には面白いが、この舞台が、どういう方向に進んでいくのかは掴みかねた。岩崎自身もまだ模索しているようだ。幾つもの答えがあって、その中にはステージをより豊かにする発見もあるだろうが、見ていて感じたのは演芸と演劇の物理的なステージ設定の違いだ。基本ノーセットで演じる演芸と多くの人々がかかわって作っていく演劇の違いである。そこは多面的な要素がかかわっていて、単に戯曲、あるいは演者だけではなかなか乗り越えられないのではないか。この感想は横に長いこの劇場だから感じられたものかもしれないが。
九十九龍城
ヨーロッパ企画
本多劇場(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
二年ぶりのヨーロッパ企画東京公演・何だかファン気質で「待ってました!」となる劇団である。
舞台いっぱいに凝りに凝った舞台が組まれているのはいつもの通り。いかさま商品の製造所、やくざの本拠のマージャン部屋、インチキ肉屋、売春ショー、貧民向けの宿と香港の名高いスラム九十九龍城が三階建てでぎっちり組まれていて、いかがわしさ二百%の人物たちが右往左往している。そこへ香港警察の二人がおっとり刀で乗り込んでくる。
物語の進行はいかにものヨーロッパ企画なのだが、仕掛けとしてコンピューター社会が組み込んであって、芝居だから許せる笑いとバランスをとって物語の中で回収していく。二人の刑事の登場が遅いのも、なんだかおかしな展開があるのも、普段のパソコンとの付き合いで出会うトラブルで説明されていくのだ。その辺の塩梅が実にうまい。
以前はあまり見なかった劇団の俳優たちも東京の劇団からのお呼びも多いらしく、かなりなじみが深くなった。
ヨーロッパ企画は二十年を超えて独特のカラーの劇団を続け、本多劇場で22公演、芝居の面白さで東西に固定客を持ち、多くの俳優を輩出し、小劇場劇団の経営に道を拓いた。大したものである。今日の本多劇場も満席だった。
ミネオラ・ツインズ【1月25日~28日公演中止】
シス・カンパニー
スパイラルホール(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/31 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ニューヨーク郊外のミネオラ生まれの双子の女児・マーナとマーラ(大原櫻子・二役)が1950年代から二十世紀後半に辿るアメリカの歳月を女性の視点から描いた世紀末アメリカ演劇の代表作と言う。初めて見る作者だ。双子の女児の相手役の男〈50年代〉女性(90年代)を小泉今日子(二役)、二人の子供を(八嶋智人・二役)が演じる。「6幕のシーン、4場の夢の場、さらに最低6個の鬘を使ったコメディ」と副題が振ってあって、上演は、アメリカでの公演の形式を踏襲しているようだ。
ホールの中央に横長の舞台を置き両側に客席。裸舞台の上は若干の椅子と長方形の棺桶型の移動可能な箱があって、それを二人の黒子の男が移動させながら舞台は進む。演出の藤田俊太郎がよく使う移動舞台の形である。客席は約三百。
社会の中で女性が変革を遂げていく一種の年代記で、二十世紀後半の保守政権の色彩が濃いアイゼンハワー、ニクソン、ブッシュの三つの時代が「シーン」で描かれる。主人公の双子は十代、三十代、五十代である。それぞれの時代の女性の在り方が「いい」とされたマーラ、「悪い」とされたマイラを大原櫻子が二役で演じる。その鏡となる社会の人物を男女とりまぜ、小泉今日子が演じる。二人の子供(実子と養子)を八嶋智人。コメディと言うが風刺劇的な面白さを狙っているので舞台の上の事件も、いい子も悪い子も極端で右か左か、その相手となる方は振り回される。しかしそれでも時代は進んでいき、双子は歳を重ねていく。
俳優ではあまり舞台を観たことのない大原櫻子が両極端の二役を衣装、鬘を早変わりで快演。男、女、さらにレズビアンの相手役と、性を縦断する小泉今日子、14歳の男の子をブレずに演じた八嶋智人が抑えになって、コント集を超えた90分の舞台になっている。
前世紀の間に女性と社会の関係が、生活倫理も社会における地位も大きく変わったのはアメリカだけでなく、世界どこでもある程度は共通することなので、そこはよくわかる。しかし芝居としての面白さとなると、多分、アメリカで暮らした人でないとよく味わえないのではないか。「ミネオラ」というだけで、NY郊外の空気がつかめるなら、この芝居おおいに楽しめ笑えるに違いない。その点では、これは全くアメリカの地域演劇である。今年早々に見た俳優座のアメリカの芝居「カミノヒダリテ」が、これまた一人の俳優が二つの相反するキャラクターを演じる芝居だったので、アメリカの人たちも、自分たちの中にある「分断」をもう笑ってしまうしかないところまで来ているのではないかと思ってしまう。しかしそれは、また我が国の近未来図なのかもしれない。
hana-1970、コザが燃えた日-【1月21日~1月23日、2月10日~11日公演中止】
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2022/01/09 (日) ~ 2022/01/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
敗戦後、アメリカ統治下におかれていた沖縄は1972年日本に返還される。その二年前、1970年に米軍基地のあるコザで反米デモが暴動に発展した事件があった。今につながる日米関係の問題点が噴出したようなその暴動の一夜の数時間を描いた一幕、二時間足らずの作品である。最近トラッシュマスターズ以外見なくなった正面から政治的な事件を素材にした社会派問題劇ではあるが、この事件のころまではしきりに上演されていた左翼系の昭和社会派劇とはかなり趣きが違う。論点の多い上演だが、そのいくつか。
まずは芝居としてどうか。
作者が青森在住の畑澤聖吾、演出が大御所の栗山民也、製作がなんと!ホリプロという異色の組み合わせ。バランスのとりにくい座組だが、ここは、劇場が少し大きすぎたのではないか、と言う以外は、よくまとまった一幕ものになった。
正面に大きく窓を造った舞台は、窓の外の光と煙で暴動の推移が背景としてよくわかるという利点がある。タイトルのhanaはその窓がある二階のバーである。
物語は、バーに集まった沖縄にそれぞれの思いのある登場人物たちが織り成していく。戦争の場にもなり占領という特別の経験をした「地元民」の体験や思いは、本土から来たルポライターや、脱走米兵などを使って上滑りしないように組み込まれている。主人公はこのバーの女主人(余貴美子)で、戦時中の孤児だった男の子二人(松山ケンイチと岡山天音)を育て、一方がぐれて沖縄やくざ一方は教師、という設定だ。大技は女主人公が失った女児が沖縄の霊として登場させている(上原千果)ことで、これが女主人公にしか見えない。
もともと芝居つくりには長けている畑澤の本は、この設定と登場人物を使って、本土と沖縄に生きる人の間の生活に根ざす微妙な行き違いを細かく掬いとっている。そこに今につながる「オキナワ」の問題点もしっかりと提示している。俳優たちは健闘で、ことに余は久しぶりの主演だろうが、松山ケンイチ同様、抑制が効いていてなかなか良かった。演出はベテランだからこの広い舞台で俳優たちをうまく動かし、本の細かい仕掛けを生かして、声高な反戦ドラマにしないで最後まで持っていったのはさすがだった。沖縄方言は全くついていけなかった経験があるが、このドラマではいいバランスでセリフになっている。こういうところで「うまさ」が出てくる。「沖縄」を素材にして歴史事件劇を超えて現代の人間劇になっている。
芝居の周囲。
コロナ禍の中で沖縄の新株の拡散が話題になっている。ここでも、この劇が指摘する沖縄問題はまだ続いている。本土との関係だけでなく、海に囲まれたこの国でも国境問題は生活問題として厳しく実在することを改めて感じた。時宜を得た切実な社会問題に広く触れているところがいい。
ホリプロが突然、このような芝居を大劇場で打ったのはなぜだろう。ロビーではメアリーポピンスをはじめ英米ミュージカルのポスターが林立している、違和感は否めない。入りは一階で七分と言う感じで、よくはない。しかし、演劇の狙いとしては座組も成果も成功している。現在、ストレートプレイを軸とする大きな劇団で、この規模の企画を成立させることができるのは新感線、四季、プロダクションではSIS,興行会社では東宝に松竹位で、どこもこの企画だと二の足を踏む。それは経済を考えれば当然だが、そこへホリプロが入ってくれば大きな劇場のジャニーズ頼みの企画にも少しは新しい展開が望めるかもしれない。
だからビリーは東京で
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2022/01/08 (土) ~ 2022/01/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ウエルメイドな小劇場作品だ。蓬莱竜太の青春ものも、歳を重ねて成熟してきたというか。
皆違う方向を向いていながら、惰性で続いている小劇団が舞台である。
幼いころから姉妹のようにつき合いながら反目している二人の女優、韓国人の恋人とうまくいかない女優、アルバイトしながら演劇を命と信じている男優、座付きの作・演出は独自の世界に固執している。そんな劇団に何にも知らない若者が、貰ったチケットで見た「ビリーエリオット」に感激して俳優になろうと面接にやってくるところが幕開きだ。
劇団の青春と言うのは、時代が変わっても変わらないのだろう。六十年前ともちっとも変っていない。しかし、ここで描かれるエピソードは現実と密着していて、若さをたてにケンカに性にと騒ぐだけの劇団や社会派の劇団よりもはるかにリアリティがある。そこに蓬莱竜太の冷静な劇作家の眼がある。
劇作家(津村知与支)が事ごとに花びらを振りかけるウエイトレスと客と言うシーンに固執するとか、看板俳優(古井憲太郎)がコロナカ゚でアルバイトのつもりの家庭教師が大盛況で劇団を辞めてしまう、とかご近所で子供のころから張り合ってきた女優二人(伊藤佐保、成田安祐美)とか、韓国人の恋人と湯豆腐がもとで仲たがいの挙句なんとなく主人公の何も知らないで青年(名村辰)と寝てしまう女優(生越千晴)とか、類型的な役回りなのにきちんと造形されていて、見ているうちに「いま」の風が吹いてくる。舞台は短い駒を並べていくようなテンポのいい構成で、面白い。
この作者と劇団を始めて見たのはもう二十年以上昔の「デンキ島」で、日本の果ての青春が、一つの時代に共通する青春を鮮やかに切り取っていた、懐かしい。デンキ島の青年たちはいまはビリーを目指して、東京にいるんだ。そういう青春の流れも感じる捨てがたい小品であった。
蛇足だが、この公演23公演もある。しかも三千円、上演時間は一時間45分。行って見ると流し込みの自由席である。無料の配役表もある。今どき、五千円を超える小劇場も少なくないがそれに見合う満足感を得られる舞台は極めて少ない。その中で、モダンスイマーズは、人気者を客演に呼ぶでもなく自力でこの値段で満席だった。そいう経営にも拍手。
カミノヒダリテ
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アメリカの新作の翻訳上演だ。2017年の初演だが、ブロードウエイには出ていないらしい。小劇場向けの構えでもある。アマチュア演劇向けかもしれない。80分。
仕掛けはちょっと面白い。テキサスの教会の信者向けのイベントで、人形劇を上演するいきさつがドラマの枠取りになっている。人形劇を上演するのは、教区の中で、夫を失って失意の寡婦の母(福原まゆみ)子(森山智寛)とその子の友人(小泉将臣)とガールフレンド(後藤佑里奈)。牧師(渡辺聡)を加えて、登場人物5人で舞台は進む。左手にはめたグローブ上の顔を右手の棒で人形を操作する。
仕掛けとしてはこの人形にもキャラクターが与えてあって、それは人間の中の対立する価値観、倫理の一報を与えられている。つまり、善悪、正邪に始まって、人が右と言えば左、と言うような対立軸の一方で、之で人間バランスが取れているのだと、最初に幕前で前説がある。
人形劇稽古の間に進む登場人物たちのドラマは、今やアメリカのドラマでは珍しくもなくなった家族崩壊劇で、ほとほと、アメリカの人たちはこういうドラマが好きなんだなぁと思う。宗教もうまく使っていて、アメリカ社会には身近な風景でもあるのだろう。
芝居の中身はさしたることはないのだが、俳優座の俳優の層の厚さには改めて感心した。
右手で、人形を操作しながら、人形と本人の声、それも劇用と本人があるのだからほとんど出ずっぱりの思春期の男の子を演じる森山智寛は、もう大変!と言うところなのだが、全く破綻もなくこなしてしまう。母親の福原まゆみは、生活が世間並みにこなせない不器用な女をうまく演じていて新しい個性の発見になっている。他の三人はほかの舞台でもよく見るベテランで、彼らもソツガない。
訳・演出は田中壮太郎。こちらも役者も演出もこなすそつのない才人なのだろうが俳優座を背負うにはもう一つ骨格が細い感じがする。翻訳ではところどころ、忘れたように英語のままのところがる。無理にでも訳してしまわなければ。そこが「訳者」の務めでもある。役者なら仲代達矢、演出なら千田是也、の俳優座ではないか.(骨太は沢山いるが、例を挙げれば)。正月早々の稽古場公演は、介護者付きの三人の超老人観客を含め、満席だった。
vitalsigns
パラドックス定数
サンモールスタジオ(東京都)
2021/12/17 (金) ~ 2021/12/28 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
野木萌葱、奇想天外の調子が戻ってきた。
深海救急艦が深海で遭難した潜水艇の救援に向かう。その艦内の一杯セット。王冠を伏せたようなちゃちな艦内セットの、中央に遭難艇との接続ハッチがある。艦長(西原誠吾)と操縦士(神農直隆)の二人組が、深海400メートルから800メートルへと救急に向かうところで幕が上がる。
遭難した潜水艇には三名の生存者がいる模様だが、救急艦の二人はなにかおかしい・・・・と疑惑を持ちながら遭難艇に近ずいていく。とにかく出だしはうまい野木節で客を掴んでしまう。
そこから二時間足らず、観客は、深海冒険談につき合うわけだが、ま、お話は超SF級。冒頭のサスペンス溢れる深海潜水譚はやがて、後半はエエッツという展開になるのだが、そこは面白ければいいので、議論の可否については目くじらを立てることはあるまい。変に現実に寄せていないところが却って良い。こういう風に話を飛ばせるだけで作者の劇的才能はよくわかる。全く何もわかっていない新国に目をつけられてひどい目にあい、ここ数年才の発揮を見るところがなかったが、今回は自分の劇団に戻ってのびやかにかつての良さをとりもどしている。小さい小屋だが満席。
新宿のはずれの地下の小劇場で、こういう小洒落た芝居に出会うと、芝居見物の面白さを堪能した気分になる。
俳優は救急艦の二人は小劇場の名優たちだが、救われる方の三名もそれぞれにうまく個性を出している。
彼女を笑う人がいても
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2021/12/04 (土) ~ 2021/12/18 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
樺美智子か!!
同世代に生きて、その後も生き延び、今も生きるものにとってはいわく言い難い存在。それがこのドラマのヒロイン・彼女(木下晴香)だ。その言い難い個人の言説を言えば際限がなくなる。見たものに絞る。
ようやくこのヒロインを舞台に上げられるようになった。大逆事件から「美しきものの伝説」まで約六十年。こちらもちょうど六十年。直接向き合うには、そういう年月が必要な「事実に基ずく」素材である。
舞台は60年安保の国会抗議デモで亡くなった樺美智子を取材していた記者と、東北震災を取材していたその記者の孫にあたる記者(瀬戸康史・二役)の長い年月の複眼の視点から二つの事件が描かれる。一つは政治、一つは天災だから、作者が「事件」を描こうとしているのではないことは察しられる。事実、舞台では時代の流れを大きく変える事件をマスメディアがどう取り上げ、どう報じたか、という事がドラマチックに描かれる。大きな産業組織の中のメディアと、そこで生活を立てていく記者個人、具体的には、経営側の主幹(大鷹明良)と記者の対立、合理化と配転される記者、それがデモ全体の主張と個人、という構図にも重なってくる。テーマはメディアが報じる大きな事件とその中の小さな個人という事に絞られているようにも見えるが、それは、もちろん、この舞台を作った人たちのトリックだろう。
そのメディアに関するテーマは、内容的には既に言われていることも多く、少し辛く言えば記者がタクシー運転手になっていたり、企業記事に配転されたりというストーリーは平板でもある。
やはりこの劇の軸は樺美智子を陰の主役に据えたことだろう。そのドラマについては一時間45分の舞台の中でもあまり触れられていない。しかし、このドラマに描かれた60年安保も東北大震災の事後処理も、日本社会の病癖に深くかかわっていて(もちろん大逆事件も)演劇のみならず、われわれが常に考えなければならないことである。その第一歩として、このドラマはあまり一方的な情報に左右されず、しかし主張を持った素材をうまくアレンジしている。それがかなり難しいことだというのも、同時代人としてはよくわかる。
数年前、気鋭の劇作家・古川健が「60sエレジー」という作品を書いた。あまり評判にならなかったが、60年安保と集団就職を絡ませた優れた舞台だった(この作品でも、警官隊は農民の出稼ぎ、樺は東京市民と一言触れているが)。
これからも、この素材は扱われ続けると思うが、一言言えば、このタイトル「彼女を笑う人がいても」は、考えすぎだろう。同時代人の一人である者にはまったく馴染めない。正直言えば嫌な感じだ。しかし、歳の流れというのはそういうものでもあろう。
Hello ~ハロルド・ピンター作品6選~
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2021/12/03 (金) ~ 2021/12/15 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ピンターの作品は掴みにくい。ノーベル賞作家だし、何しろ演劇王国イギリスの代表的作家である。日本でも何度か翻訳上演された「バースディ・パーテイ」や「ダム・ウエイター」のような、評判も悪くなかった舞台も、正直に言えば、滅多に作品に出会わない観客にとっては、どこか腑に落ちないところがあり、その原因を探しても、スルリと逃げてしまう作家なのだ。
不条理劇のようでもあり、リアリズム演劇のようでもある。芸術至上かと思えば政治的、時には超日常的。今までの演劇のジャンルの枠では推し量れない二十世紀の過渡期の二重性を身にまとった劇作家なのだ。今回の文学座アトリエ公演はそのピンターの短編を6作上演する。いずれも翻訳は出版されているが、読んでもどうせよくわからない、手っ取り早く見てしまえと今冬最も寒いと言う日にアトリエへ出かけた。初見である。昼公演で老若男女取り混ぜ9分の入り。
舞台は柱だけで建てられていて、上下に椅子四客が向かい合っておけるほどの部屋風のスペース、中央に吹き抜けの空間がある。男女8名の俳優は袖から部屋に登場し、そこから椅子をもって中央に出て位置を占める。モノローグと言ってもいいような台詞で舞台は進む。短編六作は,このような一つのタイトルのもとでの上演を想定して書かれたものではなさそうで、二作、三作、一作が10分の休憩を入れて演じられる、計2時間45分。
タクシーの指令室とそれを受ける運転手の二人芝居の「ヴィクトリア駅」や、同じく二人の「丁度それだけ」は、時間もその場だけで解りやすいが、全員が登場する冒頭の「家族の声」や最後の「灰から灰へ」は、物語の背景も、筋立て見えにくく、もどかしい。
ではつまらないかというと、これが結構、筋や演技はよく呑み込めないのに、面白いのだ。
短編ならではの短い瞬間を切り取った作品もあるが、長い物語が背景にある作品でも、演じられる舞台の上は緊迫感があったり、笑えたりする。テーマは、家族関係だったり言語差別だったりするが、一面的でなくそれぞれの戯曲の多面性がよく表現出来ている。文学座でも初めて見る演出家だが、さまざまな物語形式の本を、演出と俳優があーでもない、こーでもない、とやりあった挙句一つの様式的な舞台にまとめたという感じで、やっている人たちはさぞ面白かったと思う。それが一つの物語のテーマに収斂していかないところや、解釈を俳優の自由に任せているらしいところも、人間がすれ違う多様性のある現代のリアリズムにつながっているのかとも思う。
俳優は、文学座らしく手堅いが中でも新人の上小路啓志が新鮮でよかった。音楽の選曲もうまい。
さすがノーベル賞作家の戯曲ではあるが、やはり、もう少し、見方のガイドは欲しかった。この公演は、戯曲に対する一つの回答で、戯曲も読んでみようかという気にはなる舞台ではあった。
シャンソマニアII~葵~
花組芝居
あうるすぽっと(東京都)
2021/11/26 (金) ~ 2021/12/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
日本の古典を素材に舞台を作ってきた花組芝居の新作は、シャンソンの名曲に乗せて、源氏物語を舞台に乗せるという趣向である。十数年前に桐壷の部分をやったことがあるという。
今回はタイトルにあるように主に葵上が出てくる源氏物語の初めの名場面が次々に、歌に乗せて舞台で演じられる。花組芝居独特のステージで、ノーセットの舞台の奥には三人のコンボの楽団。その前で、羽織袴で統一された衣装の十五名ほどの俳優による踊りと歌が繰り広げられる。歌はいずれも、昭和のころには流行った懐かしいシャンソンの名曲ばかりで、歌詞は物語に合わせて加納幸和が書いたものだろう。単独唱もあれば、掛け合いになっているものもある。
花組芝居はこういうアレンジはうまいもので、以前「義経千本櫻」名場面をほぼ3時間ほどにまとめて見せてくれたことがある。なかなかの名脚色でこの手でかなり取っ散らかっている源氏物語の名場面集も出来そうだが、歌舞伎や舞踊の名作と違って、今回は同じ古典でも散文である。ずいぶん古典の和歌や本文を取り入れているが、すんなりと観客の腑に落ちない。そこを補うのがシャンソンの情緒性、物語性で、という企画意図はわかるのだが、それなら、歌が今少しうまくなくては。(劇場が大きすぎるのか?)
踊りは一斉に動かす振付の方針が決まっていて、バックダンサーの役割を果たすが、個々の役の俳優が個人で歌うシャンソンになると、かなり苦しい。ことに若い俳優陣はもともとシャンソン経験が乏しいからシャンソンの味をどうして出すか解らない有様で、前半六条御息所が出てくるあたりまで舞台が落ち着かず、バタつく。後半になるとベテラン俳優が軸になってそれなりに纏まってくるが、そこへ行くまでに歌で見物う掴まなくては企画が活きない。1時間50分。
かつて「ショーガール」というアメリカのポピュラー曲で話をまとめる二人芝居のショーが大ヒットしたから、シャンソンでも出来ない筈はない。筋も歌も借り物で異文化の混合だが、そのいかがわしさが何か新しい現代的な興行モノになるかもしれない。しかし、まずは歌だ。
シアトルのフクシマ・サケ(仮)
燐光群
座・高円寺1(東京都)
2021/11/19 (金) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
坂手洋二の舞台は、あまり知られない事実に基づいて書かれていることが多いが、今回は、はじめからフィクションだと断ってある。
先の東北地震災害で、生産拠点である酒蔵を流された地元の醸造業者が再生に向かって進むストーリーだ。その再生の方途として海外での日本酒の醸造を探る。劇中、その可否について、そこは今までの坂手の舞台と同じく、さまざまな情報が描かれている。
醸造という産業では測れない多くの歴史的、地域的問題もあって、問題点はうなずけるが、実際に当面する問題と、ドラマで見る葛藤とではずいぶん違う。突然の災害に出会った地域に住む人たちにとっては共通の問題だろうが、それが言わばローカルで止まるのが作者にとってはもどかしいものだったようだ。今回は従業員も数名という酒蔵を世界的な広がりの中に出してみる、という意図はわかるが、それなら、このおなじみのドキュメンタリー証言形式がよかったかどうか疑問が残る。もっと思い切ってフィクションに寄った方が、もともと劇的構成については長けている作者だけにパンチがあったのではないか。