tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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『雨降らす巫女の定置網漁』

『雨降らす巫女の定置網漁』

抗原劇場

SCOOL(東京都)

2023/12/22 (金) ~ 2023/12/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

最初に風景が立ち上がるのが良い。語り出した女性の、言葉によって、人が使わなくなって寂れた「空港」が提示されると、そこに風が起きる。パリ・テキサスかバグダッドカフェの乾いた空気がふと香る、気がする。
四人の登場者が、モノローグでそれぞれ語る。最初の話者が言う。かつて日に何十機もが発着していたが、今は人の姿もまばらで、恐らくこの飛行が最後になるのかも、と仄めかし、人類が火星に移住してしまったか、人口が減ってしまったか、この「地球」を舞台ににぎにぎしく生を営んでいた人類は、舞台からほぼ退場したらしい。
他の話者が語った文脈は今思い出せないが、絶滅しかけた人類であってもそこに人が居れば生の営みがある。取るに足らないような小さなこだわりや感情、感覚が、どんな状況にあってもその人間が彼・彼女自身である事の不可分な要素である。その言葉を、彼らが紡いでいる、と見える。もちろん作者がそのような言葉を(凝縮された劇の言葉を)書いたわけであるが、批評的だ。日本がイケイケである事、日本人はスゲー存在である事、を前提にしなければ「その人」では居られなくなるとすれば、「彼自身」は何処にいるのか・・。

抗原劇場は二度目。過去一度観たパフォーマンスもどことなく見入ってしまう要素があったが、今作がより各テキストにまとまりがあり、各様の風景が見られた。

ゼンイとギゼンの間で  呼吸する世界。。

ゼンイとギゼンの間で 呼吸する世界。。

エンニュイ

エリア543(東京都)

2023/12/23 (土) ~ 2023/12/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

最初に観たリアルな「会話/議論=会議」(の劇?)、そして神奈川短編演劇祭での人の動線の軌跡(線図)と現代的発語の奇妙なミキシングの実験、配信で観た超リアルな居酒屋会話劇(葬儀を終えて死者にまつわる噂の真相や本音激白的な)と、「色々試してるユニットなんやなあ」の印象。
今回も初めて訪れる場所(SCOOLより狭い?)で雑多な舞台上にて、どんな具合に「いなされる」かと見始めれば、がっつり二時間超えのドラマのしっかりとある、構成された劇であった。照明も中々の変化をもたらす。
とは言え空間の右端に居座ったギタリストがエフェクターやプロジェクター、それらの付属機器にとどまらず小物をいじくったりそれを叩いたり音ともいえぬ音を立てたりしており、「音」だけでなく光に干渉したり、壁のあちこちに貼られたり吊るされたりしてる物の内近くにあるものをはがしたり外したり、法則性があるのかないのか不明な動きを常にしている。・・って所は実験の要素だろうか。
舞台ではできる役者たちがマジに演じている。
後で聴けば本作はこのユニットのデビュー作品で、台本として存在するものを元に作る(言わば普通の)演劇であった。
人が表面上繕っている己と、本音との間には、二種類のそれではなく薄さ厚さがあって故意と無意識のグラデーションもある・・そうした表現は中々(新劇俳優などには)難しく、微妙なニュアンスの表現と言えば最近では加藤拓也氏の舞台にそれを見るが、脚本がそれを要請するものである事は重要だし、より緻密な観察と想像力を求める要素があるだろう。
本作では人物らが本音と分かる激情が露出するが、それに至る人間感情の「微妙な線」を示唆する時間も、観客の目を釘付けていた。不思議に心地よかったり不快だったりするバランスと、混沌も含めて、細部に表現を届かせている事の演劇のレベルというのも変だが質的な価値、早い話が「よく言ってくれた」思いがじわりと湧いてくる。そして少なからず揺さぶられた。
世代的には四十歳という色んな意味での分岐点を迎えんとする世代の社会人感覚が基調。経済的自立と芸術の道との葛藤、効率重視社会とアートの関係、そのアートの営みも「表現したい」と「売れたい=知られたい」との間で引き裂かれる葛藤が常態である事など、主人公の属性もあってアートの側に常に暗雲が垂れ込める。が、単純な二項対立の生成と解消といった筋に本作は流れず、対立の軸が動く。理不尽なまでに動き、最終的に何が収まり所であるかも分からない。だが、作者の「最後に本音が出れば本当の解決が見える」(といった芝居は多い)なんて事にはならない、という「本音」は漏れ出ていた気がする。そこにも妙な説得力がある。

閻魔の王宮

閻魔の王宮

劇団俳優座

俳優座劇場(東京都)

2023/12/20 (水) ~ 2023/12/27 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

劇場に着いて上演時間を確認。三時間。おっと。次の予定は断念し、今日はこれ一本と腹を決めて観劇に臨んだ。
大作となるのも分かる大テーマ。1980年代に起きた中国での薬害問題(事件)を、血液製剤を作る科学者たちと、貧困脱却のため売血が隆盛となった河南省の農民の両側から描く(両者の接点はある)。
中国?と訝る向きもあろうし自分もその一人だったが、この戯曲を書いた女性作家は名前に中国系が入り、米国に生まれてから生育期に台北、沖縄、北京と居所を転々としている。中国で起きた血液製剤を介してのHIV感染(日本でもあったが同じ構図)と闘った実在の女性研究者を題材にこの作品は書かれ、英国で2019年初演、日本での今公演が二回目だという。

人間が描かれている。前方の列で間近に観たせいもあるか、人物のかすかな表情の揺れも見えた。「エイズは西欧の病気だ」と言い放ち、「血液収集のスピードをこれまでの三倍で」との外国製薬企業が提示した条件を飲んで契約をした「兄」。他に先を越されたくなかった彼は、同じ研究者でもある弟のその妻(清水直子)に、新設する血液センターの所長に就くよう懇願する。最終的ここでの無理が、安全後回し・効率優先の処置・管理を招き、やがて薬害への道をたどっていく。
彼女の夫は平穏な家庭生活を望み、彼女は科学者としての正義を望む。冒頭の場面は仲の良い弟夫婦の宅に、兄が若い新人研究員(女性)を連れてくる楽しい場面。明るい前途を信じる彼らの間では、ユーモアの滲む会話が弾む。そこからボタンが一つ一つ、掛け違って行く過程が描かれていく。

彼らが住む都会の場面が舞台の平場で描かれると、今度は舞台上を横断する大きな台の上で、二役を担う俳優が、農民たちの生活場面を演じる。鉱山労働の期間を終えて兄弟が戻ってきた故郷では、貧困にあっても明るさを忘れない彼らの暮らしがあるが(その明るさの大きな要素として次世代への期待がある)、その暮らしにも少しずつ、影が落ちる。
抽象的な舞台(美術)と具体性の高い台詞劇の対照が緊張をもたらし、異化され通しなのだが、人物たちの真情が芝居を膨らませていく。

「告発」に向かう妻に「君が居なくなったら何にもならない」とあくまで引き留めようとする夫が、彼女の思いを理解し送り出す場面。だが結果的に彼女は当局に捕えられ、夫も捕まりスンでの所で命を残される。数ヶ月の実刑を被るのは兄。その妻となったかの若い研究者は、夫と共に地獄への道をひたすら進んで行く。
この件があって「もう自分にやれる事はない(やれる事は全てやった)」と観念した妻は、かつて献血(売血)の現場での事故に立ち会った農民の家族と出会い、エイズを発症した彼らの置かれた現実を知る。そして再び「告発」へと踏み出す。そして決定的な決別の時が来る。家族を愛しながらももっと大きなもののために踏み出す彼女の穏やかな表情、夫に対する失望を悔しさと共に吐き出され、何も言葉が出ない夫。パンフによれば、作者の父がこの題材を彼女に提供したと言う。父はかつてこの女性と同じ職場にいた事があり、彼女は救国の徒=ジャンヌダルクのように言われていたという。

貧困から抜け出すため(それは家族の誰か=子どもたちのためでもある)売血を選んだ家族(河南省では多くの人間がこれで収入を得る事となった)は、妻を亡くした長兄の一人娘を除き、皆売血をした。長兄も最初拒んでいたが、娘のために信念を曲げた。次兄夫婦とその息子、遠方の姉とその息子、祖父たちは、場面が変わるたびに体の各所に少しずつ、斑点を持ち始める。息子にもそれが出た。娘は大学に合格する。深い事情を知らない娘に、父親は絶望の中の希望に語り掛ける。お前はこれから沢山を学ばなければならん、だから帰って来るな、いいか前だけを見ろ、どこまでも自分の道を行け。
報われない死と対峙する者、一縷の望みを託す者、そして託された者、人の命が辿るシンプルな形が、真情が、胸を打つ。

ネタバレBOX

「閻魔」と言うが、ちょっとした会話の中で「地獄が」云々という文言が出てくるが、それほど発展する事なく地獄のくだりは終わる。だが装置の方は閻魔、地獄の何かしらが織り込まれている風である。上手から下手に台があり、アーチ状の大きな口の奥へと続く。中央部分は盆の上で回転し、高さがつながる側と一段下がる側とある。その台の下に支え木が沢山あるのだが、黒字に赤(朱系ではなく青寄り)が塗られている。既視感がある。こんにゃく座「天国と地獄」の地獄の色だ。この美術も杉山至。冥界へと繰り出す人間たちの道行きを誘う「通路」が1mほどの高さで据えてある。このイメージの変奏であり、こんにゃく座の美術を私は難じた。視覚的な美しさ、という点でもいまいちであるし、地獄の「赤」のイメージが「血の池」に限定される感がある。今回の作品はタイトルに「閻魔」とはあるものの、主題ではない(気がする)。私が観た回はバックステージツアーというのがあり、コロナ以降実際の「ツアー」は出来ない代わりに色々と説明があった。農民が台上にいて研究者ら都会のエリートが下にいるのは「上下」関係としては逆に見えるが、意図としては、台そのものが巨大なテーブルの比喩であり、料理として食される農民という構図だそうだ。台を支えていたりいなかったりする赤い支柱は地獄のイメージだが、私は台上の物を焼く炎。地獄、閻魔のイメージはやはりこの作品にはそぐわないな・・と思ってしまった。
Strange Island

Strange Island

Nakatsuru Boulevard Tokyo

サンモールスタジオ(東京都)

2023/12/13 (水) ~ 2023/12/20 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

本ユニットの芝居は立ち上げ公演を含めて2本、配信で観ていたがこの度初めて劇場にて体験。画面と音量を調節しながら視聴するのと違って、おートラッシュ並みに叫んでるぞと。え~そこでその台詞を叫ぶか~的中津留戯曲+演出特有のくだりが例に漏れずあったりも含めて、終始面白く観た。
ストレンジ・アイランドとは日本の事かな?と想像していたが、架空の都市が舞台。横文字(英米系)の名前で呼び合う。
貧乏人の住む裏町、金持ちの住む表町という設定は、格差社会を極限化した近未来か、歴史上又は現在どこかにある状況か、しかしいずれにせよ現実社会のメタファ。
格差を容認する社会の行き着く果てのルッキズムへの言及は、自然淘汰や命の選別問題を想起させる。「美」を愛でる心を肯定し、その返す刀が醜さを蔑み、その持ち主たる存在を「切り捨てて良い」理屈を暗に肯定する。
・・表町の人間は「美しい」婚姻相手を選ぶ力があり、結果表町全体の容姿レベルは上がる。人々は美を求めておりそれを追求する権利がある・・。
傍若無人な発言を繰り出すのが、後半頻出する市長(村上)。彼はローマ帝国の皇帝のような衣裳で歩く。
(「美は多様である」との言葉がこれに対置され得る。が、この問題、個人が個別具体の思考と体験を経て「解答」を手にするしかない類のものだ。)

芝居の前半は主に裏町を舞台に、来たる市長選で現職を引きずり下ろすために候補者を立て、格差放置の政策を改めさせようと画策する者たちのグループや、彼らとは距離を取る者、選挙前に金を配りに来る市長の手下に金額の交渉をしようと画策する者らが、居酒屋に出入りする。
そして立候補者である女性(姉)は闇商売に足を突っ込んだ妹を持ち、父が妾に産ませた子である彼女らの前に、父の家業を継いだ「本妻の娘」が現われ軋轢を露見させたり、市長派、反市長派の潜在的対立が緩やかなドラマの動きを見せる。
また色恋の話では、不動産業を継いだ表町の男が店を訪れ、表町と裏町の違いに全く無頓着であるらしい彼がいきなり材木屋の娘に「結婚を前提としたお付き合い」を申し入れたり、市長の手下で悪い商売に手を染めている青年も、幼なじみである同じ女性を下っていたりする(親同士が二人の結婚を約した経緯もあるが彼は結婚のために手を汚して金を稼ごうとしている)。だが相手は「悪い事をしている人は嫌い」と何度もやっただろうやり取りを繰り返す。といった伏線が織り込まれる。

エピソードを全て紹介する紙幅と余力はないが、この後幾年かが過ぎ、人物らの状況の変化がある。トラッシュ作品の名物でもあったこの二部構成は、まるで変わっちゃってる面白さが笑えもし、人間の浅はかさを炙り出しもする。
波乱に富んだそれぞれの人生の歩みの中で、壁に突き当たり、真実に気づいて行く群像劇的なドラマの帰趨が控えている。だがこのドラマには狡猾な悪役とその忠実な僕が存在する。
「変化」の幾つかは劇的で、多様だ。真摯に生と向き合う一人一人の内なる心を垣間見せる一方、打算と権力への固執を続ける者が、手段を選ばず、少なからぬ犠牲を生む。冷酷なドラマでもある。既に構造的なレベルとなった悪弊が、膿を出し切るプロセスとはこういうものだ、というサンプルのような逸話と見るも可能。当然、日本の現在が重なる。

萎れた花の弁明

萎れた花の弁明

城山羊の会

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2023/12/08 (金) ~ 2023/12/17 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

三鷹・星のホールで何度めかの城山羊の会。
ここの名物は演劇担当森元氏が冒頭のあいさつから少し芝居に噛む事。今回は舞台上に、劇場の道路に面した外観が出現している。森元氏の挨拶の後、岩谷氏が現われ、質問を投げる。そのやり取りから芝居が始まる。
今作はこの岩谷氏が何のためにそこにいるかの説明がないまま、ずっと居続けている。彼が主体性を発揮するのは全て「性欲」に対する知的関心とその発散への関心について。ただし彼は凡そ観察者であり、観察される対象として登場する「もっとも下半身のだらしない」男として岡部たかしが登場する。
出演陣の中で今回の関心は劇団普通の黒川女史であったが、新人マッサージ師として岩谷氏の前に現われ、その黒髪と風貌は中国人風で思わずマッサージと結びつけて連想してしまったが、実は信仰厚い日本人シングルマザー役。素にしか見えない(城山羊でのゲスト俳優の特徴?)。もう一人の注目はミルクホールのJ.K.goodmanであったが中国人役を適当中国語で好演。緩いグダグダな芝居を締めているのは、個々それぞれの中の欲望(それも下半身に近い方の)であり、人間としての振る舞いの背後に「欲望」が薄っすら見えるのが楽しい。

夜の初めの数分間

夜の初めの数分間

劇団牧羊犬

王子小劇場(東京都)

2023/12/13 (水) ~ 2023/12/19 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

話の出来の良さに驚き、「おやおや」と引き込まれた。この世界がある変化を遂げた事が芝居の序盤、(後で分る)写真家役によって説明される。これを聞き逃したらちょっと理解が難しくなったかも知れない(間に合って良かった)。
鏡に人の姿だけが映らなくなった世界。過去にも同様の設定でドラマを書こうとした人はいただろうしメタファーとして利用した芝居を観た気もする。だが、科学的にあり得ないこの設定が「ある」と端から観客を招き入れる芝居は初めて。意外に破綻が訪れず、架空の世界に巧みに引き込む。
人の姿は写真にも残らず、映像にも、鏡と同じ効果を持つ水面にも映らない。勢い映像メディアは衰退し、ラジオが人々にとって中心的なメディアとなる。人は自分の顔が判らなくなり、似顔絵を描く画家たちが重用され、鏡と呼ばれる彼らが人気の高い職業となる。といった具合。
今回の観劇のきっかけとなった井上薫女史は一世を風靡した女優役。前に観た芝居では名脇役であったが「売れっ子女優」なる役も、ある映画撮影現場にて新人女優の「声の出なさ」にカリカリして発声の指南と悪態につい没入するというコメディエンヌぶりを基調に存在感。
この冒頭シーンの後、世界の「変化」が訪れる。彼女は引退を余儀なくされる。
で、もう一人の目当ての女優、平体まひろ女史がその娘役。母はスパルタで自分を描く「鏡」に育て上げる。やがて成人し、若くしてカリスマ「鏡」となっている。肖像を描いてほしい芸能人は引きも切らぬが、母にとっては隠しておきたい存在でもあり、出自を隠している。このカリスマ的な絵描き役を平体が好演。肖像画を描くスピードも速い。相手が著名人だろうがモデルに指示を出すなど横柄なキャラが板に着いて気持ち良い。
物語の軸になってくるのは母娘の関係だ。娘は母の「鏡」として今も彼女の顔を描き続けている。ところがある時ラジオで主催されるミラーフェスティバル(的なタイトルの画家のコンペティション)のモデルにと、母にオファーが来る。かつてのマネージャーが回して来た仕事だが、娘はこれを断固辞めさせようとする。
既に見えている問題が最後に露呈するが、そこに至るまでの周辺のドラマの絡ませ方がうまい。
ただ終盤のコンペ(実はやらせ)場面では、「その趣向、誰も見てないんですけど」と突っ込ませたかったり、女優のヒモ(詩人志望)の面目躍如を見たかったり、その妹の目が見えない属性をもう一つ生かしたかったり・・要望がもたげたが、尺の事情もあるのだろう。主題はその後にある。
画家たちのキャンバスは木枠だけの無対象。客は想像するのみ。コンペの結果発表の際に起こるべくして起きた悶着を経て、娘が真実を語った後、「私が本当に描きたかったのはこれ」と、母に今描いた絵を渡す。女優が「現実」をどのように受け止めたのかは想像の域だが、その絵を見た母の目は悦びに満ちる。そこで作者の意図は汲み取れた。
ルッキズムの観点で「美」を語ろうとしたナカツルブールヴァールの芝居をちょうどその後に観て、結論的には同様の所に落ち着いていた。美には一つの尺度だけがあるのでなく多様である・・。
だがその芝居の中で悪役である「市長」に言わせた台詞・・人類は戦争をいつまでも止めないし、常に美しいものを見ていたい(醜い存在は無視したい)欲求も変わらない・・は、人間にとっての難問。人類が終りの瞬間を迎えるまで携えていく問題なのだろう。

外地の三人姉妹

外地の三人姉妹

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2023/11/29 (水) ~ 2023/12/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初演とほぼ同じキャスト(高橋ひろし→佐藤誓のみ)。舞台装置もああこうだったなと思い出す。下手手前にマイクが置かれ、たまにここで独白するが、何となくの感じだが使用頻度は減り、全体に深刻さがシニカルさに寄り(これは俳優の演技の自然な変化の範疇か?)、長男の嫁の憎らしさが減っていた。
連隊が移動しドラマが終局に向かう段で、孤独と先行きの見えなさをそれぞれ抱えた姉妹三人が体を寄せ合い、それでも生きて行くと言うあの場面、本作はここがラストにはならず、日本人らが出て行った後、残った朝鮮人の登場人物四人による無言の場面が置かれている。この場面との兼ね合いを考えたため、というのは深読みし過ぎかもだが、朧ろな記憶では、次女が恋に破れ泣いた後、初演では「断念と共に家庭生活に戻る」兆しがあったに思うが今回は夫を最後まで拒否する。また三女の新婚の夫との決闘の結果を彼女に告げるのは原作と異なり決闘相手(三女を男尊女卑的に恋慕していた)、しかしその前段にある「愛はなくともそれを合意の上で未来へ一歩踏み出す」瞬間が刻印されないため悲劇性が際立たない。等の些かの淡泊さを覚えたのだが、これは朝鮮人が閉じ括る最後の場面との兼ね合いだったのかも・・と思ったりもする(三人姉妹ドラマが燃焼し尽くしてしまうと最後が取って付けたようになってしまう)。
そのラスト、「解放」を祝い、新たな時代を刻む儀式は、初演より簡略になっていたが、その素朴さがぐっと迫るものになっていた(客席斜め前の年輩女性、他にも涙を拭う仕種が見られた)。
思えば劇中、登場頻度は少ないものの「外地の日本人」の人間模様を捉える朝鮮人の眼差しが、劇をシニカルにさせていた、このあたりが初演から幾許か変化の認められた理由かも(と言ってもごく微妙な変化ではあるが)。
だが「三人姉妹」の物語としてはもっと「燃焼したい」「しっとりしたい」思いが残った気がする。そう考えるとこの翻案戯曲の限界という事になるかも知れない。
だが植民地支配の構造の片鱗が、演出も含めてちりばめられており、批評的な一面が、瞬間が翻案作品としての悦びをもたらすのは確か。拍手。

胎内

胎内

7度

こまばアゴラ劇場(東京都)

2023/12/06 (水) ~ 2023/12/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

随分前にノアノオモチャバコによる同作品を観たのが最初で、楽隊の入る風変りな演出でも戯曲の内容は伝えていた。そして数年前OPAL桜美林鐘下クラスによる打ってつけとも言える「胎内」は緊迫感漲る濃い舞台であったが、若い俳優にはかなりの負荷と見受けた(大人びた役に必死で、背伸びしていた)。
さて三好十郎が描いた閉ざされた洞穴=密室での人物らの激白を味わいたく、勇んでこまばアゴラに赴いた。結論的には、期待した的を少し外された感。後で見ると先行した利賀演劇人コンクール、鳥の劇場公演では三人が出演とある。私はと言えば、今回の一人芝居バージョンでは女性役の村子目線でこの物語を語り通すのだろう、と勝手に想像していたのだが、開幕して開口一番は、花岡の唸るような台詞。そして村子、花岡、佐山(男2女1)三名共の台詞が吐くのである。
恐らくは、利賀での上演台本と今回のは同じ(またはベースにしている)もの、とすれば役の数だけ俳優を配さずとも上演が成り立つ判断であったのだろう。
ただ私の「あてはずれ」というのは、一人多役であった事より、元戯曲のどこをどう切り取るか、そのチョイスだ。
舞台となる時代は戦後復興の兆しが見え始めた頃。この密室で吐き出されるのは、世間が忘れ去ろうとしている戦争の残した疵跡(それは人心にとって一様でない)であり、それを経て今このようにあると気付かせる、ゆえに目を背けたい傷である。
戯曲は三人それぞれの来歴と人間性=個性を彫像を掘るように浮かび上がらせた先に、戦争や時代性、社会がなべて人間にもたらしたものを突きつける。それぞれの人物「らしさ」が、やはり重要なのだ。
一方、今回のバージョンでは「名言集」、生死にまつわる普遍性のある言葉を、詩劇のように構成したもののように見えた。普遍よりは個別具体の匂いを感じたい・・というのが私が観ながら感じていた事だった。彼らの掛け替えのない醜さ弱さ、それゆえの愛おしさを媒介にして、人間存在の普遍を「感じる」舞台を、と。

ただ、台詞の背後に想像の翼を広げ、私の描く「胎内」の世界を感知する余地もあったのかも知れず、自分にその体力がなかっただけなのかも知れぬ(実際舞台上の緊迫の演技に身体が付いて行けてなかった感じもある)。
時折女優の発する声質に感じ入る瞬間は覚えている。心身とも準備を周到に(体調を整え深呼吸をして)観るべき舞台であったかも。

青い鳥

青い鳥

サイマル演劇団

サブテレニアン(東京都)

2023/11/30 (木) ~ 2023/12/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々のサブテレニアン、そしてサイマル演劇団。60分程の作品だがアフタートークでの新野守広氏の読み解きは随分参考になった。「難しい」「一般受けしない」との定評を自覚しつつ「自分がやりたいこと」を追求する、という姿勢について(そうだろうとは想像できても)言葉のやり取りの中で聞けた事は何やら報われたようで嬉しかった。この所常連の葉月結子女史を本作でも拝めたが、彼女の存在もこの間の劇団でのクリエーションに欠かせないものになっているようである。「青い鳥」の物語をベースに様々なテキストをコラージュし、大きな絵を作っている。詳述は後の機会として、他の主要テキストはヴァルター・ベンヤミンともう一つ(作者・題名は失念、ある特徴的な歩き方をする女性との時空を超えた出会いを描写したもの)。恐らくベンヤミンの部分であったか、音楽と共に現代の心象風景が立ち上がる劇的瞬間があった。

モモンバのくくり罠

モモンバのくくり罠

iaku

シアタートラム(東京都)

2023/11/24 (金) ~ 2023/12/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

トラムという事もあり、力の入ったiaku公演が観られるかなと足を運んだ。
作劇というのは難しいものだな、と思う。さすがに横山拓也、うまい、けれど自給自足の生活スタイルを目指している正にその山間の棲み処を舞台としながら、この生活スタイルが対話の中でのアイテム、記号以上に機能させ切れない感じがあって、ネタに終わってるのが勿体ない。(作者はその枠を超えようと罠にかかった鹿を冒頭に、猪をラストに登場させたり、試みてはいるのだがこれが笑いに収まってしまう。)
小屋に住む女性役に枝元萌。近所の兄貴役に緒方晋、この二人が出るので観に行ったような所もあってその期待は十分報いられたが、ドラマとしてはどうであったか。
女性は夫と別居しており(山奥での生活などとうてい出来ないので、出資・援助だけされている)、娘はある近年までここで育ったが高校に上ると同時に父の元に移り、都会生活をしている。それが、二人この山奥にやって来る。それを追うように夫の出した店を任された若い女性(橋爪未萌里)が現われる。たまたま実地体験のためにやって来て鹿の解体を体験した青年と、その手引きをした緒方晋が、この修羅場の見届け人となり深刻話を程よく軟化させる。

人物関係図は過去のエピソードにより立体化して行くのだが、枝元萌が目指した自給自足生活に関しては、抜き差しならぬ生活、「食うため」に日々の時間全てを使わねばならぬ位であるはずであり、そもそも父娘が「歩いて登って」来れる場所にあるというのもどうか、という所である。まあそれは於くとして・・枝元女性の現境遇については劇中で「夫の援助があってやれて来た、あなたも(夫の援助を受けて店を任された)私と同じ」であるとか、「誤って撃った銃で足を怪我させた男「緒方)の援助に甘えてやって行けている」だのといった台詞でディスられる。
これに対して枝元はこの生活が自分には「最もやりたい事」「自分に合った生活だった」と自認し、議論としては「多様性の中で一つの選択肢として許されるべき」というかなり引いた立ち位置に立たされる。それと言うのも、この山で育った娘が都会に出た今、全く自分が「普通でなかった」事を思い知らされており、その事への恨み節をある所から延々と聴かされる時間がある。この時間は娘が(宗教二世に重なる)特殊な境遇にあった事で「何にぶち当たっているか」を観客も想像して行く時間ではあるのだが、とにかく長い。そして話は「そりゃそうだろう」という落ち着きどころに落ち着く。
娘は最後に、実はここに来るのを楽しみにしていた事とその理由を白状する。それは都会で口にするものは「食えたものじゃない」。だから取れ立ての獲物を焼いた肉、採れ立ての山菜で煮込んだ鍋を食べたかった、と言う。
「鹿はもう食っちまった」(だってこういうのが嫌いなんだろうから跡形も残さないようにした)と悪びれるが、「じゃ猪を取りに行こう」と緒方。青年にも付いて来いと命令し、「何で俺が」と困った顔で大団円の空気。
母の元で育った娘が、その「舌」を持ったという事の中に何らかの(自給自足生活を送った事の)意味を仄めかそうとした作者であるが、日本の自給率を今なお返上し続ける外資導入政策を傍目に見ながら、枝元が目指したこの生活は単に「自分に合ってた」「趣味」の領域と矮小化して終わるのか。
特段「意義がある」と吹聴してほしい訳ではないが、ある視点を持てば「こんな生活は荒唐無稽」と思ってしまう私たちの感覚の中に現代の、日本の脆さが実は反映しているのではないか、と思わずにいない。枝元的生き方を卑下させ過ぎである点に、横山氏ほどの書き手が、と不満を持ってしまった。
会話の妙、面白さを味わう時間を「料金分」もらったのは確かであるが。。 と言うと何だか酷評であるが、穿った会話は多々あり、とりわけ橋爪女史絡みの会話は秀逸(関西弁演技もバッチシ)。

「慈善家-フィランスロピスト」「屠殺人 ブッチャー」

「慈善家-フィランスロピスト」「屠殺人 ブッチャー」

名取事務所

「劇」小劇場(東京都)

2023/11/17 (金) ~ 2023/12/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

名取事務所のチラシは毎度定番のデザインとなり、自分はと言えば公演に足を運ぶ頻度も増えた。今回の二本立ても期待大で両作品拝見した。
「慈善家」は新作、「ブッチャー」は再々演(今回初の生田みゆき演出、これも期待大であった)だがどちらも初と思っていたら「ブッチャー」は再演を観ていた(初演を「見逃した!」思いが強く観た事を忘れていた。開演して気づいた)。
いずれも秀作。空間は一つで複数場面の兼用はなく、時間は時系列で進む。局所を描写したドラマから世界で起きている出来事(負の連鎖)を想起させる。「ブッチャー」は架空の国が設定されており、少なくとも大戦後の時代タームである事は分るが、残党狩りという事ではナチスを想像させるし、国内で起きた民族間対立という事ではルワンダ紛争、捕虜・囚人への非人道的処遇という点ではアブグレイブ刑務所を始め世界中にあった(ある)だろう専制下での政治犯の処遇を連想させる。伏せられた事実が一つ一つ明らかになるミステリー要素、深夜の警察署(?)内という密室サスペンス要素など戯曲が持つ面白さと同時に、それを高々と越えて来る圧倒的なメッセージ性(とそれを証明するための様々な身体的いたぶり)に息が詰まりそうになる。(終演後高山氏に寄って来た知人らしい女子学生(位の年齢)が「(すごい)面白かった」と漏らしていた。)
「慈善家」は大資本を牛耳る者、そのステークホルダーと、当事者を登場させて生き馬の目を抜く現場のリアルを描きながら、「金による支配」のテーマを伝える。理念の希求と財政基盤の葛藤、支配欲求からの上昇志向、それらを巡る本音と建前とプライドと正義へのこだわりが錯綜する。まずこちらを観て圧倒され、もう一方を観て(二度目の観劇だったが)更に打ちのめされた。

ネタバレBOX

「屠殺人ブッチャー」とはその者に付けられたニックネーム。巨大な肉を吊るすフックを囚人に対して用いるためそう呼ばれた。アキレス腱を切るのが、この道具の目的だ。激痛と、移動のためには這うしかない身体状況を与える。
彼は捕まらなかった最後の犯罪人で、かつての階位を示す印章と軍服に身を包んだ彼(高山春夫)が運び込まれた警察署に、若い弁護士(西尾友樹)が呼ばれる。彼は警官から事情を聞き、その老いた軍人の首には屠殺用フックが掛けられていて、フックの先に名刺が付いていた。その名刺の名前の当人が呼ばれた訳だった。異国語を話す軍人のため、やがて女性の通訳が現れるが、彼女はこの軍人を巡る弁護士との問答の中で、軍人と彼の関係を明らかにし、次に彼女の正体が明かされ、そこは密室となる。ここからが息の詰まる修羅場である。
この劇のテーマを当たり障りない言葉で言うなら、「法では裁けない罪を個人が法を犯して裁くことの是非」となるだろうか。だが劇が炙り出すのは「法で裁けない、裁かれない罪」とは何かだ。世界は慈悲に満ちた空間でも合理的なシステムでもなく、何らかの復讐が為される事の方が必然と感じられる事がある。この作品では、個人が受けた被害に対する個人的な復讐が要求されるが、その背後に他の多くの被害者(非対称な関係を背景とした)の存在が見えている。
ガザ地区、ヨルダン川西岸地区の人々が日々被って来た緩慢な非人道的扱いや攻撃を、その蓄積を、それ故に閉ざされた未来を、僅かながらの情報の中からも想像していた身(私)には、ハマスの攻撃は、後の事など考えておれぬ止むに止まれぬ挙であると同時に、誰か分かってくれこっちを見てくれと叫ぶSOSにも見える。自然の発露とさえ。そうとしか見えないのだ。
誰も公正に(この場合はイスラエルを)裁かないのなら一体法とは何か、という問題は日本も対岸の火事ではない。止むに止まれぬ挙が、ある法に違反しているとして、その前段に不公正な事実はなかったのかを遡及する想像力を持てるのか否かは、司法を含めて常に問われる。過去の何処か別の国の話でなく、今を突く話としてビシビシと見えない掌が叩いて来る。
作者は、肉親の「処刑」に立ち会わされた男にこう言わせる。「私は(復讐を)しない」「(貴方が想定している人間たちと違って)私は、しない」。
生田みゆき演出はこの台詞を殆ど囁くような小さな声で言わせていた。
このドラマの強調さるべきは「放置された加害/被害」の存在、と私は受け止めた故、復讐の連鎖を誰が止めるかのテーマは関連するとは言えまた別の立論となる。
彼は今為された復讐の起こる根源を理解したからこそ、「自分は復讐をしない」と言えた。テーマはそこに戻って来る。イスラエルが自分らが如何に酷い態度をパレスチナに対して取っていたかを理解するには、一人一人監禁して思い知らせるしかないのかも知れないが現実には不可能だ。それが出来るのが演劇であり、そして観客が受け止めるもの。
たわごと

たわごと

穂の国とよはし芸術劇場PLAT【指定管理者:(公財)豊橋文化振興財団】

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2023/12/08 (金) ~ 2023/12/17 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

最初何が起きているか不明な時間が過ぎて行ったが終ってみれば桑原裕子らしい再生の物語。役者も活きている。地方劇場から発信と言うと可児市芸術劇場(毎年秀作を出している)、時折北九州芸術劇場が、「芸術監督(作り手)絡みでない」プロデュース舞台を送り出してくれる。今作の企画者である穂の国とよはし芸術劇場は桑原女史が芸術監督で、就任以前からの縁があったよう。「たわごと」は今回上京し、お目にかかる事ができた。
しっとりと時が刻まれる瞬間が時折訪れる。リアルの時間、それを揺さぶるミラクルの時間。演劇という時間に浸る快感がある。

ロマンス

ロマンス

劇団こふく劇場

富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ(埼玉県)

2023/12/09 (土) ~ 2023/12/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昨年は地方ツアー二箇所のみで観る事ができなかった地方劇団こふく劇場の同演目。今年の拡大ツアーで辛うじてここに回ってきた。
数年ぶりのキラリ☆ふじみ。
上演は2時間超え。最初に観たこふく劇場の演技スタイルが、今回より板について洗練されている。終始鼻を啜る音が客席から聞こえていた。

空ヲ喰ラウ

空ヲ喰ラウ

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2023/11/28 (火) ~ 2023/12/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

見どころ有り。筆頭はもりちえの役柄。凡そ役どころの決まった桟敷童子の役者面々だが時折振り幅が大きくなる。「できる」立ち姿を見てきたもりちえは今回、板垣桃子共々「女だてら」に高木に登って作業をする「空師」集団として衰退する中村組を担う女空師の役。思わず拳を握り「やるな」と心で呟く。歌舞伎にも似て桟敷童子の芝居はある種の「型」があり人物らは「粋さ」を競う部分がある。大向こう(歌舞伎で屋号の掛け声を掛けるアレをそう呼ぶらしい)を入れたくなる演技というヤツである。一方の板垣桃子も「女だてらに」の役が深まっている(もりちえが影響を与えたのかもと想像も逞しくなる)。
林業の衰退は特記するまでもない事実となっているが、ウ露戦争で木材輸入が滞る分一時的に需要が高まっている、という会話がある(他に現在を語る台詞は特にない)。時代に翻弄され衰微していく産業を桟敷童子は取り上げて来たが、時代の「必然」を受け止める人々の姿は、その先に未来を見せた。だが林業はどうか。「どうあるべきか」の問いと共に、簡単に衰退してほしくない気持ちがもたげる。農業しかりだ。高い木材でもそれは自国の「第一次産業」、生存の根幹にかかわる産業を守る選択をしない国のあり方は、これで良いと言えるのか・・。

ネタバレBOX

中盤から芝居の中心人物となるのが、都会から来たらしい身元不明の青年。彼が姿を現した後は、中村組がある事業を請け負うために必要な頭数に数えられるが、予測に反して空師としての天性の素養を持つ事が(その道を知る者にしか分からぬ特徴から)分かる。それは村のもう一つの組である柳瀬組(こちらは勢力を広げ中村組を吸収しかねないが組頭は仁義を弁えている)共々に、希望の的となる。
だが、、彼は皆の前に出て来る前、村の鼻つまみ者でかつて崖崩れで脚をダメにした元空師(稲葉能敬=板垣の夫)と会い、互酬関係を持ってしまっていた。足を引き摺り金属パットを杖代わりに歩く彼と青年のしがらみは、村人の介入で一応は解消するも、純朴まっさらな青年の「弱み」を稲葉は握っており、最後にこれが効いてしまう。前にいた職場ではバイトの身でありながら「犯罪に手を染めた」と彼は思っており、逃亡を図った彼はバイト先の親父さんとその会社の者たちから逃げている、とも思っている。
客観的には彼は煩わしい都会から逃れた一人、なのであるが、都合よく使うために稲葉が彼に「負い目」を注入したものと思しい。
中村組が受注した仕事は柳瀬組とそれぞれ別の山をを受け持つ形で進める事となる。林業仲間では一の山、二の山等と呼び習わし、中村組はかつて持ち山であった五の山を自分らだけでやらせてくれと頼み込む。渋々承諾した柳瀬組だったが、程なく彼らは中村組の女空師の仕事の確かさに改めて唸らされる事となる。中村組を出て柳瀬組に入った番頭は躍起になるも叶わず、仲間に宥められ、良き競争関係が形作られる。
そんな中稲葉は妻の板垣や村人と一悶着あり、村を追い出される。もりちえ演じる空師は心臓の持病を拗らせ木に登る仕事を止められ、俺はこいつを育てると宣言する。
空師の仕事にやり甲斐を見出した青年は稲葉とそれに付随する枷から逃れる。確かな伝統技能に根差す事にこだわって来た中村組の未来に光が射す。

が、このドラマは悲劇へと歩む。
あるタイミングで稲葉は背広を着て現れ、青年が一人でいる所を脅し上げ、折しも吹雪が吹き始めた夕刻、パニックとなった彼は山に逃げ込む。せせら笑う稲葉。その前段として彼は青年に「もし空師になったらお前を殺す」と耳元で囁く。「自分なんかがなれる訳ないっすよお」と青年は頭を低くしながら答えるが、その後村人皆の前で「空師になる」と本心が噴き出してしまう、という事があった。
予言通りと言うのか、稲葉の計算づくか、必死の捜索にも関わらず彼は死ぬ(樹上で雪と一緒に固まって死ぬ事を「空死に」と言う)。ラストで板垣が一人、組の解散後も青年を探し続ける姿を残像に残す。

個人的にこの末路は選びたくなかった。先述したような、「その先」が見えない。
この結末を選ぶのであれば、青年の死は中村組やそこに繋がる人々の個人的な悲しみに止めず、私たち皆が財産を失ったのだ、とまで言い切ってほしかった。衰退も致し方ないと言える産業と、そうでない産業とがあると思ってしまうからである。
諦めの美学は「その先」がなければ諦めに終わる。
久々に厳しい評価を持ってしまったが、ここ近年の桟敷童子舞台に「今」に分け入る模索の姿勢を(何となくだが)感じていただけに、そこが個人的には残念であった。
タイムトラベル大五郎

タイムトラベル大五郎

さんらん

王子小劇場(東京都)

2023/12/06 (水) ~ 2023/12/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

多彩な題材、作風でもさんらんらしさを短・中編の中に認めるこの頃であったが、今回は長編の回。リアリズムに立った「掘って100年」「ポンペイ」の次は、と構えて開演を待ったが、予想とは異なり?さんらんらしい「可愛らしい」作であった(この題名であるからして当然と言えば当然と言えるか)。
台上を屋内とした素に近い舞台で、現代に迷い込んだ侍とのエピソードだけでなく、時代を遡った維新の頃も描く。走り回っていた子供たちが正装の侍姿で現れるのは一興で笑えるが、切り取られているのは戊辰戦争で敗れる彰義隊(に合流するあるグループ)で最終的に皆が死ぬ。現代の母子家庭の息子の闘い(最終的にいじめっ子と勝負をする)に、タイムスリップして来た剣士(上記グループの師匠に当たる)が影響を及ぼすが、背中に担う物として上記史実の場面がある。戦の無慈悲さの風景が、現代では戦場カメラマンの夫を亡くした母親の「思い」にシンクロするが、母が反対する息子の闘いそのものは(観客皆がそう思うだろう)正当性を持つ。(戦というよりは「勝負」である。) 母親もまた、自分の職業であるプロ雀士としての「勝負」から息子を守るためを理由に降りる事をやめ、出る決意をする。
その意味では、背後にひっそり流れる戦争というテーマは必ずしも前面化しない。肯定されて良い「勝負」とは異なる、無為な戦いというものを、作者が具体的には何に見出し、それをなぜ否定したいのか、そして何故それらは起きてしまうのか・・(本作を通してという事ではないが)言及してほしい願望が残った。

あしもとのいずみ

あしもとのいずみ

劇団わが町

川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)

2023/12/01 (金) ~ 2023/12/03 (日)公演終了

実演鑑賞

川崎市北部のこの劇団は全国的にも少数の自治体主導による市民劇団で、年齢層の幅は広く大所帯、だが団員になるためのオーディションも(何年かに一度)あり人数制限はあるらしい。
10年と言う節目に団員の一人による脚本を舞台化したが、過去公演の中でも優れた仕事となった。川崎市中部にあった登戸研究所を題材に市民劇らしい群像劇が立ち上がっている。全体に市民劇団っぽさは残るのだがそのベースの上に一つ一つ事実が積み上がり、メタシアターの構造による複合的な叙述で気付けば絵が出来ている。
登場するのは「芝居を作る」人物たちで、劇中劇(稽古)に登場するのは「研究所の歴史を掘り下げようとする」高校生やそのサポーター、教師そして彼らが出会った歴史の証人たち、つまり現代の人々。最後にはこの題材が行き着かざるを得ない場所へ観客は案内される。戦争の道具を開発していた研究所であった事の実相、すなわち時代を超えた先に事実存在したものとして、ふと浮かび上がって来るものがある。

ネタバレBOX

2023年の今を生きる者が2〜30年前のやはり現代人を演じる事の中から、さらに遠い歴史の事実にニアミスする瞬間を観客は「共振」体験する。しかも芝居中「踏み込んだ」描写、場面の追加へと作家を促すのは、高校生らが漏らした本音なのであった。平和の大切さを詩にした歌がラストを飾る事となり、稽古の大詰めで楽曲の委託を受けた担当から歌を聞き、皆で吟味する時間、舞台化の完成に力を得たと大人たちが肯定評価をする中、「綺麗事に聞こえる」と彼女らは溢すのである。その背後には、「芝居」の中での高校生同士の交流、協力、競う心、軽い嫉妬も混じった敬意の贈与関係の中で「真実」の重みがテーマありきではなく自然に生まれ出た事を想像させる。飽くまで観客である自分の想像力によるものではあるが、着実に積み上げた末に終章へ辿り着いた過程の中に、稽古のそして執筆の苦労をも想像させるものがあり、その想像を裏付けるように、渋い老役をやった作者がコールにて、花束を受け取った時フイを突かれて落涙した。舞台と舞台裏は別であるし別であって良いし別であった方が良い事もあるかも知れないが、市民劇団が紆余曲折を経て辿り着いた山の中腹でただその見晴らしを愛でる以上の何も望まない心境を勝手に想定し、勝手に共感した日曜の夕刻であった。
ジャイアンツ

ジャイアンツ

阿佐ヶ谷スパイダース

新宿シアタートップス(東京都)

2023/11/16 (木) ~ 2023/11/30 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

長塚圭史と言えば先般「アメリカの時計」で確かな演出の仕事を目にしたばかりだが、彼の書いた作品と言うと下北沢の小劇場で二三作、新国立劇場の(どっちかつと)子ども向け企画の最初のを観た位か。奇想天外な現象を真実そこにあるものとしてその解明にでなくその先へドラマを進め、いつしか観客を深みに引き摺り込んでる、といった印象が共通で、新国立のは言葉遊びで散らかした遊戯世界を何とか回収していた印象(第二弾以降のは好評だったようだが見てない)。
前者が暗鈍、後者が明軽とラベリングしたとすれば今作は両の要素を合わせた感じ。作者の「言いたい」事は分からなかったが「狙いたい」所は受け取った気がした。いずれ現実世界に着地する旅ではなく浮遊し続ける感覚があり、非日常の劇世界に浸かった感触より、劇場を出た現実世界を見る眼差しを変えられているとでも言ったような、怖くないけど不可解な何かが浸潤している。インフルエンスを与える犯人は場面の細部に宿る快楽、美味しさだろうか。
二度見たら裏が透けて見える代物か、はたまた有機物の分子構造みたく奥へと分け入りたくなるミクロの決死圏の世界か。

わが友、第五福竜丸

わが友、第五福竜丸

燐光群

座・高円寺1(東京都)

2023/11/17 (金) ~ 2023/11/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

千秋楽前、時間ができたので当日劇場へ足を運んだ。題材が題材だけに力作が出て来そうと予想したが想像以上だった。燐光群の特徴である「解説」部分(人物らが自分が知っている事として発し合う)の割合も高いがそれがアダにはならずただただ情報と思考に圧倒される。水爆実験に被災した第五福竜丸を語る事は必然、現在進行形である所の放射能、原発を語る事になる。被爆者への差別、補償を受けた者への誹謗、補償そのものの不平等や問題矮小化の政治的背景も。そして芝居の大詰まりでビキニ環礁辺を航行する船の場面が出現する。NODA MAPのある作品(高橋一生が主演した)を思い出す(この作品は私が観たNODAMAP三つの中で唯一感動を覚えた舞台)。重要なイシューが他の雑多なイシューと共に忘れ去られる現代に、力技で注視を促す坂手舞台の優れた成果。演劇表現と感動は多様にあり得るが、坂手氏流の劇的要素が確かにあった。

ネタバレBOX

本作で特記すべきは俊鶻丸というビキニ実験後に環境調査のため日本から出された調査船の存在。それを介して海洋における「希釈」が予測困難である事にも言及される。「処理水」の海洋放水の安全性に影がさす。
この調査は継続されず打ち切られた。根拠なき安全神話に調査・研究が対置されるべきは今日も変わらない。
演劇落語~二人芝居三席~

演劇落語~二人芝居三席~

アトリエ・センターフォワード

雑遊(東京都)

2023/11/23 (木) ~ 2023/11/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

一人話芸の落語も良いが、楽しい演目を舞台化したものもしばしば目にする。だが二人芝居というのはまた一興であった。一人話芸の持つ自在性は、二人が入れ替わり立ち替わるアレンジで表現され、演技は言うまでもなく動的で演劇的。私は三人が高座を務めるのを覗く心づもりで出かけたのだが、全く違った。高みの見物とは行かず、巻き込まれた。団体主宰・矢内氏と坂口氏の落語関連企画は一二度やったと承知、力量の程も想像の域であったが今回は北澤小枝子が加わる。結果は、中々のやり手であった。
演目は落語の有名な大ネタ三つを30分程の出し物として、休憩を挟んでやる(三つともに出るのは矢内氏)。話を知っているので「どうやるかな」との興味で話を追う見方になるが、それでも飽きさせない趣向とテンポ感、完成度がある。オチは既成のものとはどれも変えていたようである。
現雑遊に合った公演。

無駄な抵抗

無駄な抵抗

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2023/11/11 (土) ~ 2023/11/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

コロナ下での「外の道」以来、イキウメの異色作が自分の深奥に届く。時代を捉える感覚というか。
今回は世田谷パブリック主催公演で、ギリシャの叙事詩「オデュッセイア」を題材とした前作「終わりのない」(まだ四年前とは・・随分昔に思える)に続き、ギリシャ悲劇「オイディプス」を下敷きにした作品との事だが、そんな前宣伝は全く知らずに観た。
(結論的な事を言えば、この悲劇の悲劇たる核心の「現象」が今作では現代の悲劇に置き換えられているのだが、原典の物語の副題と読めば納得なタイトル「無駄な抵抗」は、今舞台では痛烈な批評の語になる。)
前川戯曲に盛り込まれる「不思議」は初期はそれが眼目のような所があったが、その「仮想」は問いを含む。言わば形を変えた現代批評。であるゆえに問いの投げ方により「不思議」の入り方が変わる。前作「人魂を届けに」では「魂」が実体化したらしい奇妙な物体であったが、物語の最初の一歩を刻むこの存在は、物語本体が進むにつれやがて霧消し、象徴的存在として最後には「処分」された。
今作の「不思議」は、いつしか電車が止まらなくなった駅(なのに駅として稼働しており「電車が通過します」のアナウンスが時折流れる)の存在、なのだが、効率化と省力化が進んだ先の、僅か先の未来と見えなくもない。少なくとも現代の感覚ではそれはあり得ないから「不思議」に属するが、一歩間違えばそれはあり得るかも知れない。
物語本体(幾つかのエピソード)が進み、あるいは共有されるこの駅前広場が、冒頭大道芸人(浜田)に紹介される(円形劇場の客席のような円弧を切り取った数段ある頂上の高い造作)。そこから劇は始まる。
場面乗り入れの演出も「不思議」との微妙な距離感を作る。平場でのやり取りを、人が遠巻きに座っていたりして、円形劇場風の階段から見るともなしに「見ている」ようで別の次元にいる風である。役を演じた後は椅子に座って役者自身に戻るアレにも似るが、ギリシャ劇風にコロスと呼ぶのが近い。結果的にギリシャ悲劇の筋書きが、円形劇場の中、皆が揃った前で成就するのである。
各エピソードは、会話により語られる対象であるので、その場所は必ずしも「この場所」である必要はない。が時折、語る人物らによってふと意識されるのがこの駅前広場であり、「電車が停まらない」現象についても言及される。そしてカフェを開く青年(大窪)や警備員(森下)の存在があり、とある社会の一角である事を意識させる。
今一つの「不思議」は、場面が閉じられるタイミングで浜田が「○○はこんな夢を見た」と言い、人物らが場所不特定な存在となり夢の構成に動員される(コロス的)。夢判断=深層心理のレベルへ観客を誘う。
かくして全方位的演劇の世界が具現し、「次の瞬間」への集中力が否が応にも鋭さを増す。

ネタバレBOX

謎が少しずつ「謎」と意識され始め、その解明へと静かに動き出すミステリーではあるが、人間世界を俯瞰する視点が絶妙に確保されている。クライアント(池谷のぶえ)と旧占い師・現カウンセラー(松雪泰子)の対話が中心だが、一見関わりのない他のエピソードが徐々に関連を帯びて来る。それと共に、物語の濃度は加速度的に高まる。
最後に残った結ばれないピースを、探偵(安井)の「目星はついてます」の一言で繋ぐ見事な終幕。
オイディプスとの関連を知っていたら、結末は読めただろうか・・?分からないが、無理くりにねじ込んだ設定とは感じなかった。

電車の止まらない駅では、人身事故が起き、脱線、追突事故まで起きる。愚かな人間の作ったシステムが愚かな結果を生む。それは恐らく、間違いなく、正にその愚かの極致にある「今」に向けられている(破壊的な顛末にその含意がありありと読める)、と感じる。
物語の結末に辿りついた人物たちは、そんな社会の象徴でもある「電車の停まらない駅」に対する同情、理解、擁護を止め、一種蔑みの視線を向ける(舞台正面上方を見上げる)。彼らの中に希望を見出す自分がいる。

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