tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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対岸の絢爛

対岸の絢爛

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2020/03/06 (金) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

IR法によるカジノ誘致にゆれる関東Y市・現代。漁民が軍により船の供出を強いられようとする九州の漁村・1940年代。大規模公共事業だか誘致だかへの反対運動が熾烈化する中国地方F市・1980年代。ロザリオを受け継ぐ家族史を縦糸に流しつつ「公」と個人・市民の対立局面を切り取りその本質に迫った力作。
人物造形が秀逸。付和雷同で思想の無い人間が自分の正しさを疑わず異質を目の敵にする姿、異なる価値観の折り合い地点を見出そうとする善意の人間が結果的に陥る欺瞞。。登場する凡そ末端に等しい人間を通して、こうした「事業」が持つ本質と、事業推進の根源となる何者かが「空白」として浮かび上がり、それについて考え始める。
2時間20分によくまとめたと思える濃さ。

黒い鳥

黒い鳥

アートグループ青涯

アトリエ第Q藝術(東京都)

2020/03/07 (土) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★★★

初の成城学園前そしてアトリエ第Q藝術。駅から徒歩2分の道のりだったが見失い、心細くなったその時、前方から歩いて来るある若手演出家(先日舞台を観たばかり)の家族連れが目に入った。「このへん?、いや違う」的会話をしている風。これは心強い先客と安堵し、後をついて行こうかと家族を追った視線をふと進行方向に戻すと、数間先に劇場の小さな看板が手招きしているではないか。やあそこに居たのか君は。さっきの演出家はここに立ち寄ったのかい? 無言の対応で、どうやら全く無縁だったと了解。暖かいお出かけ日和、さほど遠くない土地にこんな劇場が、と嬉しくなる。調べれば2017年~とまだ新しい。狭い受付スペースを通って劇場へ入ると、どことなくアトリエ春風舎似。座席はゆったり幅に置かれ、隣席の脚に接触する(嫌がられる)心配なく、心は舞台に集中した。
劇団阿彌出身の二人のユニットによる立上げ一発目公演が実現の由。パフォーマンスは阿彌特有の世界がやはりベースにある。と言っても私は十年以上前、王子神谷駅からの道を迷いに迷ってたどり着いて20分程度目にしただけだが、舞踏と能を観た目には馴染みある世界。超低速の身こなしと、面の使用、劇的シチュエーション(ストーリーでなく)の吟味の時間。パフォーマンス中の時間は、人間のある劇的状況をするめを噛むように噛み締める時間であり、視覚的な美が物語の状況を突き放すように端麗さを保っている、という能の風景は阿彌のそれと(多分)共通している。舞台は霊的交感が目指され、そのための俳優の身体的鍛錬が恐らくあり、観客はその念を共有し霊性を感受する。観客(信者)を説得し続けるのが「道」の探求者となった者の宿命。

さて今回の舞台は、私には、阿彌の特徴がある仕方で継承可能である事を示した、という感想になる。それ自体物語を持つ個体(身体)と、物語の世界とを橋渡す言語が、今探り始めたように恐る恐る、ぎこちなく吐かれ、培われたそれなりの年輪と、素人性が同居する独自な空気が流れていた。つまり、阿彌との比較では言語世界の方へ一歩踏み出そうというベクトルを感じ、しかし未だ不分明、手探りとの印象だ。
現在進行形のストーリーを追う「お芝居」的側面がそれに当たるが、言葉は詩のモードで書かれ、出来事を既にあったこととして俯瞰的に捉える場所に誘う(彼女らの出自)。ストーリーとして見た整合性の甘さは、「芝居」のモードで浮き上がり、一方詩劇の基調となれば、ディテイルよりは全体を覆うディストピアに生きる人間の実存に意識が向かう。問題は「芝居」な部分で、舞台にメリハリを与えるピースにはなっていたが、演技態かテキストか、いささかぎこちなかった。
美術、照明含めシンプルな中に趣向(意図)が窺える。次の点を探り当て「青涯」の線(足跡)を画いて行ってほしい。

ダンシング・アット・ルーナサ

ダンシング・アット・ルーナサ

劇団俳小

d-倉庫(東京都)

2020/03/01 (日) ~ 2020/03/09 (月)公演終了

満足度★★★★

「群盗」「殺し屋ジョー」と秀作の続いた俳小の翻訳劇の最新作。「沖縄世」に続き小笠原響演出舞台であったが..。
わが想像力の減退のせいか(はたまた疲労か)、人物の個体識別までは出来るが、語り手である青年と彼が育ったその家族の他の成員との関係(続柄)が判然とせず。。それでもこの物語の舞台の地方性(都鄙の差)や民族的事情による困難、家族としての苦悩などが苦くもノスタルジックに再現されている、という雰囲気は感じ取った。

京河原町四条上ル近江屋二階 ー夢、幕末青年の。

京河原町四条上ル近江屋二階 ー夢、幕末青年の。

Pカンパニー

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2020/03/04 (水) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★★★

昨年名前の頻出した福田善之(サルメCとの『オッペケペ』/新人会『新・ワーグナー家の女』/Pカンパニー『一人芝居「壁の中の妖精」』)いずれも旧作だったが、今回は齢八十九にして新作を作・演出。混迷の幕末を切り開いた(らしい)志士の一人坂本龍馬と盟友中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件というらしい)に照準したお話。取材記者とその上司風の現代男女二人の語り手は物語の「現場」に近接し、「今」にこの事件を再構築しようとのコンセプトが冒頭から小気味よく展開していた。
フォーカスは中岡慎太郎の方だが、しっかり登場する龍馬を演じた客演者は身の置きどころ(演じ方)を得ず、妙にヒロイックに振る舞うなど迷走していた様子。前半気になって仕方なかったが気を取り直して後半(休憩有)。
舞台は疾走感の中、語られる言葉を吟味する間もなく進む。時代と併走しながら人は物を考え、身の振り方を定め、事を為す他ない事実を近江屋事件の「時間」を再現して味わおうという趣向か。彼らにとっての悲劇が如何なる意味で悲劇か、そうでもないか、作者なりの眼差しを汲み取ろうとしたが、手垢のついた評を避けたのか。しかしある種の気迫のようなものは舞台に流れ(こちらも想像を逞しくし)、正体のよく判らない塊そのままを受け止め、帰路についた。

時代モノだがエレキベースとギター、ドラム3名の生演奏(監修:日高哲英)が効果的。プロテクトソング(ダンス?)としての「えじゃないか」(えやないか)が変奏されるフィナーレでは、重奏で聞き取れない歌詞は残念であり、この掛け声が二人の志士の生き様ともう少し響き合わせたかったが。。

出だし以降小気味よい自由な台詞運びは、前衛というより自然体に書きつけられたこの雰囲気、思い出せば別役実の最新作(下北B1でやった、昨年だったか)を思いだ出させた。

グロリア

グロリア

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2020/02/27 (木) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★★★

数回に一度観たくなるワンツーワークス。今作は初演で海外戯曲(メルマガでも俳優諸氏の「戯曲がヤバい」とのコメント)、オーディションとは言え客演で固めた布陣に古城氏の意気込みが・・という事で今回は迷いなく「買い」。中日を観た。
脚本がやはり面白い。翻訳の限界、英語文化圏の身体と発語に迫る難しさは感じるものの引き込むものあり、終演まで持って行かれた。秀逸は前段で悲劇が確定し、覆水盆に返らず努力は報われない事態から、「その先」が描かれる所。現在進行形で力強く物語は続くが・・。

ワンツー観劇7本程度?の中で一番面白く観た芝居だが、これが通常公演では団員さんも中々...とは余計な心配か。

色指南 ~或る噺家の恋〜

色指南 ~或る噺家の恋〜

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2020/02/22 (土) ~ 2020/03/02 (月)公演終了

満足度★★★★

こたびの新作はドガドガの要素の一である艶路線にぐぐっと踏み込んだ作で、野坂昭如による興味深い題材を舞台化した稀有な産物を目にした。
難点から言えば、、受け止め方にも拠るが、戯曲上のお家芸は歴史の中に物語を据える作りである所、今作の舞台は太平洋戦争開戦からミッドウェー海戦の手前まで、即ち日本が破竹の勢いでアジアの広域を軍事制圧下に押えた時期まで。冒頭戦勝の報に人々が湧く場面総集編が置かれ、また別の場面では自分のためでなく自分が誰のために役立てるかを考えねば(オリンピックもあるし)、という台詞、そしてラストは軍歌が立て続けに2曲、最後はフルコーラスを歌って赤紙青年を送り出す・・で幕。「日々の暮らしに文句もあろうが今は日本が大変な時、自分が国に対してどう役に立てるのかを考え、生きがいにしよう」・・このメッセージでまとめた劇であった、と結論付けても違和感のない作りになっていた。大いなる皮肉で締め括った、というような仄めかしもなく、やや後味が悪い。
一方、主役である空気読まない噺家の台詞「軍服に髭をはやした野郎共が幅を利かせやがって」が唯一「アンチ軍国化」を言語化した台詞と言えるが、酔った彼がそう言うのを友人が必死で止める、という場面は「現代」に重ねた皮肉と読める。だがこれ一つのみで最後の軍歌代斉唱を「皮肉」と解釈するのは中々厳しい(演出意図はそうであったとしても)。また「他者のために生きる」メッセージそのものは正しい、とのエクスキューズがあるのやも知れぬが、いやいや。語る文脈が言葉そのものより重要であるのは敢えて説明する事でもない。
それにしても客席はまばらでこれは客としても淋しかった。

Pickaroon!<再演>

Pickaroon!<再演>

壱劇屋

DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)

2020/02/25 (火) ~ 2020/03/01 (日)公演終了

満足度★★★★

4年前の花まる王子以来2度目の壱劇屋。評判を聞きつつも日が過ぎた・・そのせいかと訝ったのは舞台がまるで変貌、しかも世界観は確立された感があり、狐につままれた心地であった。
芝居の方は、凡そ殺陣ショーに等しい冒頭暫くから、それなりな物語が立ち上って来るあたりは見物であった。。・・いやいや、その前にやはりこの変わりようである。

結局あとで調べたら同じ壱劇屋にも大きく二系統あるらしいと知り、得心。今回のは、私がチラシで容赦なく候補から外す、時代劇風・ファンタジック・活劇(勿論殺陣有り)、演目では「猩獣」「独鬼」(作・演出武村晋太朗)等で、要は新感線ファン向けの世界(個人の憶測です)。
これに対し以前観たのは別系統(「SQUARE AREA」作・演出大熊隆太郎)、王子小劇場の四面だか二面客席の真ん中に置かれた台(スクエア)を使って目まぐるしく展開する計算された身体パフォーマンスであった。

4年前のは「型」の芸術性を指向した知的なユニットの風情であったのが、今回は座長(作演出)自ら主要人物の一人を演じ、終演後もよく喋り、体を張って汗で売るパフォーマンス集団といった面持ち。このギャップは何度でも言い募りたくなるがここまでにして、、両者に共通した印象は、場面の造形と構成のアイデアとスピード、それを可能にする俳優の身体能力。
結論的には、今回のは物語が大掛かりな分、動きの型には情緒が伴い、以前観た「目だけで味わう快楽」は減退したが、物語による高揚があった。欲しかったのは以前のであったが。
その「物語」については又、余力があれば。

東京ノート

東京ノート

青年団

吉祥寺シアター(東京都)

2020/02/19 (水) ~ 2020/03/01 (日)公演終了

満足度★★★★

東京ノート実質初見がInternational ver.であり、良い方のインパクトを受けた(おまけに青年団的演技の新局面か?等と)。そのためか、オリジナルバージョンは従来の青年団現代口語演劇に「戻った」感じがあった。やや中心に位置する松田弘子・能島瑞穂のイイ感じも前回と変わらないはずであり見ていて特段変化はないが、多様な異質の中での光り方は違う。インターナショナルバージョンは設定じたいドラマチック。細部がよく出来ているのは今回のオリジナルの方であったりするが、群像として見る訳であるので、そういう感想になった。
欧州での戦争のため、美術品を皆遠い他国に送り出すことになっているらしい、という設定は、広い欧州のかなりローカルな地域までも戦闘(美術品が損壊するような)が及ぶ程シビアなのか、とか、ゆったりとした戦争なので人類の遺産保存等の公益を各国考える余地がどの国にもある、という事なのか(若しくは美術品保存団体が活発な運動を展開している、当事国同士のそれは合意事項となった)、とか。やや特殊な状況が近未来に発生する、そういう想像を客席でめぐらすのは悪くないが、戦争の実態が殆ど語られない中では「戦争」の語がドラマ性を担保する記号としては、いまいち機能しないな、というのが実感。作者がそれを狙ったか否かは判らないが。
そんな事で、戦争、美術品の保存、という世界大の「公」の視野と、美術館の中で展開する「個」的なあれこれの対比が、インターナショナルverでは「数カ国の人間が居る」状況から明白であるのに対し、オリジナルverでは皆日本人であるので遠いヨーロッパとここ日本という対比のみとなる。そこで「個」が強調されるが、個々それぞれの事情の切実度の見え方が前回とはやはり違うなァ(従来の青年団劇だなァ)と。

往転

往転

KAKUTA

本多劇場(東京都)

2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了

満足度★★★★

痛恨の中止発表が相次ぐ中、どうかこれだけは・・と祈る気持ちで当日を待った公演。
9年前の初演(もう9年!)は、せわしない日々に紛れて見のがした。震災の起きた年。初演をプロデュースした元・世田谷パブリックの矢作氏(現・穂の国とよはし芸術劇場)がパンフで上演までの紆余曲折を記しており、舞台が被災地福島である事と「事故」にまつわる物語である事とで、上演見送りの声もあったらしいが、演出・青木豪氏の押しで(具体的な地名を止める等して)上演が実現したという。
つまり作品自体は震災を踏まえて作られたものではない。にも拘らず会場に入るや高みから見下ろす舞台装置のシルエット、そして流れているノイズから2011年当時に引き戻される感覚に襲われた。混沌の状況で現在地を探していた、と今は思い出すあの混沌を思い出させる雑音。初演時に用いた音源使用なら合点だし新たに作ったとしても納得する。
夜行バスというプライベートかつ公共空間で人がたまたま居合わせ、そこでの出会いもあった3組の「それまで」と「それから」を点描し、全体を構成する本作は、人の言動のディテールに人の心を発見し、その接触と変化にハッとさせられる、桑原女史らしい上質な劇であった。

ネタバレBOX

作品と無関係だが...
言い逃れ(桜)と責任転嫁(森友籠池判決)が横行する政府でも、以前ならとっていただろう感染症に当たっての「緊急事態」的対応を、今回全くとれていない事に疑問符が湧く。様子見をして、一定の拡がりを見せてから対応をし始めた。
これは、人には李下に冠を正さずという意識、つまり疑われまいとする心理があって、緊急事態的対応は「権力」にとっては目指すべき本丸なので、今回それを発動する事で下手をすれば(つまり感染拡大が見られなかった場合)顰蹙を買う(本来なら顰蹙を買ってでも国民生活を乱す要因を初期段階から排除する事に乗り出すのがお上であり、以前はそうしていた)、その結果国民に(改憲などへの)警戒心が「実感」として芽生えてしまう事を嫌がったのでは・・とでも勘繰りたくなる。いや物事は単純で、少ない情報では「確定的」判断が出来なかった、だからやらなかった位が妥当か。

しかし・・今回は以前(2002年)のSARSコロナウイルスと同系のウイルスで、ウイルス名にもSARSであるらしい。
とすれば、従来なら「サーズ」とか「今回のサーズ」くらいが適切な呼称だろうに、なぜか普通の風邪ウイルスも含む一般名詞の「コロナウイルス」に「新」を付けた新型コロナの名称が飛びかっている。
サーズであれば、前のSARS(感染拡大の規模じたいが小さかったが)が殆ど子どもの感染例(正確には発症例?)が無かった事実にも、言及がされそうなのだがこの情報がマスコミで全く流れないのがまた疑問だ(警戒心を下げる情報を敢えて出さないという方針が周知されているのだろうか)。

入って来る情報そのものが少ない、と言いたげだが、そうは言っても検査薬の「対応できる数」の発表をする厚労大臣が、単純に「在庫数」を発表しないのは何故か、とか。もし足りないなら従来なら国際協力を呼びかける、など、しかしそれもない。わかりやすい情報がどれだけ人々の実態把握を助け、一定の個々の正しい判断を助けることか。
また疫学観点から言えば、他国からの入国状況の実態把握をしていないのか、情報をとめているのか、人の移動の規模からして無理なのか、かなりの統制力で人々の不都合を要求する事になってしまうからやらない、という事なのか・・・いずれにせよ霞ヶ関は自分らが判断した結果のみチョロチョロと滴らすのみで、我々に総括的判断を可能にする情報を出さない(本来は一日何回となく会見を開いて新情報を流していい)。
民主的な社会では、一部の人間がパニックに陥る可能性を盾に情報公開を渋るのでなく、個々人の判断力に信頼して公開する事が原則でなければならないと思う。
以前のSARSでの子ども感染例がなかった事も、今回の中国での子どもの感染状況数と合せれば、インフルエンザが子どもに感染しやすいウイルスである事と比較し、それなりに判断材料になるのでないか?

「判っていること」を囲う線が知られることは、「判ってないこと」の存在をバラしてしまう事であるゆえに、官僚という人種(に限らず上に立つ者)は情報はなるべく出さない、というのが(今ではそれが許されてしまうので)暗黙の了解なのではないか。
知と不知を峻別する境目がシフトするに従って、その時点で効果的と判断できる措置の中身も変わる。だが、知と不知の境界が伝えられれば、人は政府が今どういう状況で判断をしているかが、経過として判る。そしてそれに対して現場の状況を逆にフィードバックしていく事ができる。そういう流れを作れていないのは、このかん現政権が「国民を信頼した情報の公開の仕方」でなく「誘導する(嘘をごまかして忘れさせる)情報の出し方」しか為されて来なかった事のこれ以上ない証左ではないか。

そして残念な事に、情報を枯らすことによって、人々を「自分で考えず受動的に行動する」事に慣れさせ、公開された情報を受けて自ら考え対処する習いが希薄になっている、と思う(昔から日本人はそうだった説もあるが程度問題という事がある)。
小出しにしか出さない、というのはお金にせよ情報にせよ、「持つ」立場になればケチ臭くなるのが人の性というもので。いやはや(で終えたくないがもはや・・)。
少女仮面

少女仮面

metro

テアトルBONBON(東京都)

2020/02/19 (水) ~ 2020/02/24 (月)公演終了

満足度★★★★

metro版『少女仮面』は主宰・月船女史としては、いつかは取り組みたかった本丸中の本丸に、時期尚早を怖れず船に飛び乗るように上演を決めたといった事のよう。女優月船女史の大一番な気配を察知しつつも、こちらは単に、単純に『少女仮面』世界をどんな風味で堪能できるかを楽しみにつぶらな瞳で舞台を見つめておった。
先日のシアタートラムでの同作を観た者としては、この演目にはこの会場の広さが何とそぐわしい事かと、首が痛くなる程頷きながら(いや心で)、まず女優志望少の女(熊坂理恵子)と婆(村中玲子)による絵本風可愛げなオープニングや、狂気演技のサイボーグのような若松力演じるバー春日野マスター、ボーイ2名(片岡哲也・影山翔一)によるブラックバイト的泣き笑いタップダンスやらに当てられる。蛇口をすする男(井村昂)、腹話術人形と暮らす男(久保井研)、そして元宝ジェンヌ月船による春日野の登場である。
小空間が可能にするのはまじめと不真面目、実と虚の共存であり、虚を生きる春日野の目に同期しつつ対象化する観劇というのは、相当な技であり、狭いステージから虚がはみ出して観客に侵食するという距離が必要なのではないか・・。
様々オイシイ要素が圧縮された天願演出の舞台であったが、前半の飛ばし方に比すれば後半、というか終盤少々息切れの感も。戯曲の問題と言えば問題だし料理法の問題と言えば問題。これだけ巧く料理できてもこの舞台の本質とは何なのか、劇中人物が括られるのだろうアウトサイダー性を発揮して彼らは一体何に抗っているのか、総体としての回答がやや薄い気がした。しかし過去観た3つの少女仮面の中で最も映像的に記憶に残りそうである。

炎の人【公演中止(02/28~ 02/29)】

炎の人【公演中止(02/28~ 02/29)】

劇団文化座

こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)

2020/02/20 (木) ~ 2020/02/29 (土)公演終了

満足度★★★★

本棚の戯曲本を手に取り電車で小一時間、ざっと眺めて劇場へ(この所の睡魔対策也)。三好十郎の戦後の出世作とされるが何処となく商業的成功を得たぶん批評性の点でどうなのか(甘いに違いない)・・等とぼんやり想像していた。「廃墟」や「胎内」等に見られる鬱々とした内省、自己批判とは、確かに一線を画した一画家の評伝だが、作者自身若い頃画家を志したという事情は作品が明快に打ち出すゴッホ観、芸術論・人間論の掘り下げに見事に結実している。評伝によくありがちな、鋳物の如く周囲から対象の輪郭に迫る方法をこの戯曲はとらず、全くゴッホその人に行動させ、多弁に語らせている。俳優の仕事としてはゴッホ役が主役として3時間の舞台を担う。
ただし作者はこの遠い他国の物語を、むしろ当時の日本としては「新劇」=左翼の演劇として受容され易い作品に仕上げ、そのように評価された事を良しとした・・と想像する。その価値観に振れたように思える場面(典型はゴッホ以外の役達がゴッホについて語るラスト)には言葉の総括に違和感があるが、ゴッホの死までの場面は秀逸であった。
ゴッホの出自・来歴(牧者として炭坑の町で人々のために奔走した)と、絵に向かう時のこだわりは不可分にあり、ギリギリの所を生きる様に人間の美を見出す感性は周囲の理解を得られない中、弟テオドールだけが彼を経済的・精神的に支え続けたのは史実に違わず。
タンギーという老マスターが営むパリの画材店では、ゴーガン他の絵の手法に目を見開かれたゴッホがそれらを生き急ぐように自作で試し、画家として出遅れた年齢分を取り戻そうと絵を描き、また激しく議論を闘わす。ここでゴッホは絵画にとって重要な原則を発見したと言い、盛り場で飲もうと出ようとする一行を引き止めて議論を吹きかける。ゴッホは絵には実在、人間が「そこに居る」事が重要なんだと唱える。これに対しロートレックかゴーガンあたりが近代的思考に基づく見解をもって反論する。全ての事物は人の目に映るイマージュに過ぎず、画家は自分が対象を見るイマージュをカンバスに描きつけるだけだ・・。こう来られれば普通なら引きさがるしかないが、ゴッホはさらに反論する。○○の描いたあれは確かによく描けている、だが表層を舐めただけの絵には、肝心の人間が居ない・・一番大事なのは、そこに人間が居る、それを外しては何もならない・・。
近代がやがて行き着く相対主義を代弁したかのようなゴーガンの説を否定するゴッホという存在は、「人それぞれ」と割り切れって生きる事のできる高踏遊民ではなく炭坑で困窮する人々をまず思い浮かべる人間であり、「確かにそこにいる」と認知される事が生存の条件である人間の方を顧みる人間である、と言える。(中流意識という戦後経済成長がもたらしたこいつから、この件を考察するも有り。)

実は本題は俳優について、のつもりだったが例によってだらだら書き連ねてしまった。
一言だけ。大型俳優がキャスティングされ集客される演目としてでなく、作品勝負で文化座の若手(にまだ入ると思う)を据えた公演で、彼はゴーガン演じた文学座のバリトン声の中堅俳優とは異なる「判り易くない」演技、言い換えればその場に即し、生きたゴッホを演じ、生き切ったと見えた。完成されておらず、完成を目指したものでなく、ただ一舞台を生きる、を続ける姿に好感。

社会の柱

社会の柱

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2020/02/21 (金) ~ 2020/02/26 (水)公演終了

満足度★★★★

大作に挑んだ第13期修了公演。見応えあり。彼らが演じてこそのこの作品、という印象も。
幻想劇を書いていたイプセンが現代劇の作家となる転機の作品、とパンフあったが、昨年上演のあった「リーグ・オブ・ユース~青年同盟~」(雷ストレンジャーズ)がむしろ転換期の作品で、今作は既に現代社会劇の範疇に思えた。39歳で「ペールギュント」を書き、上記の作を経てその十年後に「社会の柱」、となっている。以後間をおかず「人形の家」「幽霊」「民衆の敵」とイプセンの代名詞となる作品が続くが、その始点と言える「社会の柱」が初々しく感じられるのは、人間の良心に頼んでのハッピーエンドだからか。
こううまくは行かない、と思える余地が多分にあっても、卑小な人間を新人らが体当たりで演じる姿はいささか出来すぎた結末も感動をもって受け取れた。この町随一の有力者という地位と富を危うくしてでも真実を告白するに至った男、カルステンの爪の垢をこの国のトップに進呈したい。

「帽子と預言者」 「鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラ-」

「帽子と預言者」 「鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラ-」

名取事務所

「劇」小劇場(東京都)

2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

遠い国の話。だが。。日本には判官贔屓、宵越しの金は持たぬなんてのがあるが、予測づくが通る端から予測外が湧いてくる人間の(バランス感覚の)妙。天の邪鬼は集団的狂気から集団を救う。今の逆をやって見ようと思えるかは心の健康のバロメータ。
・・んな事で、これは観るべし。という事の他言うべき事がない。
(無論、芝居は言う事なし。)

Gengangere 再び立ち現れるもの 亡霊たち

Gengangere 再び立ち現れるもの 亡霊たち

CAPI-Contemporary Arts Project International

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了

満足度★★★★

題(「幽霊」)に惹かれて数年前読んだ戯曲だが舞台は未見。あやふやな記憶ナビで楽しく観劇した。古典そのものより俳優陣に惹かれたのが正直な所。
最近の体調による例の睡魔が(瞬間的にだが数回)襲った間にワードを落したのだろう、作者の意図の取り違えが若干。後で筋を確認して修正した。
舞台は溌剌と進んで行くが、流麗さより俳優の個性の凸凹が面白い。ただし結句自分の関心は、台詞でのみ登場する幽霊(亡霊)が何を指すものか、戯曲の背景であろう時代の移り行き(近代化)の何処に何をイプセンが見たのかであったが、判りやすい解答はなさそうである。

まほろばの景 2020【三重公演中止】

まほろばの景 2020【三重公演中止】

烏丸ストロークロック

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了

満足度★★★★

初演を観て、今回再演も観た。2年前と劇場は同じだが俳優6名から5名の減員、舞台装置の圧縮が、見える所での変化。テキストは変わらず演出が変わった、とは関係者の談、いずれにしても私には現前する舞台と現象が初演とは随分違って感じられた。いや、さまよえる青年の心模様と回想されるエピソードも、舞台風景も細部の違いを除けば初演と変わらない(と思う)が、発せられる言葉が「意味」として前面に出ている感じがある。
昨秋アゴラで観た怒濤の二人芝居の片割れ、小菅氏が今回は(も?)複数の重要な役を担うが、比重が増えた印象。初演に登場した無言の存在(山伏?)が不在。これが大きい。かの存在は山=自然と人間の間を取りなし、我々に山の存在を確信させる媒介者。この超然たる存在の前では、主人公という人間は小さく無力。初演の舞台全体を支配していたのはやはり「自然」であり、それに包まれる恍惚があった。初演ではあった舞台奥に組まれた大足場を、道のない山を登るように登るクライマックスは、視覚的効果としては万有引力の規模。しかし今回は、舞台中央に立てた幅狭の足場に登る動作は、ややシンボリックに止まった。その分より「演劇」らしくなり、言葉が前面に押し出されただけ批評の俎上に乗り易くなったような。
身体と自然の通い合いよりも、言葉が過剰に印象付けられた事は観劇前の期待からすればガッカリという事になるが、初演には宗教儀式に近いものを感じた位で、作り手は軌道修正を施したのかも知れない。

前面に出てきた主人公のあてどない旅の風景(回想含む)は、それでも十分に精神世界の彷徨を描いて余りある。かつて交際のあった既婚女性が震災時、彼に助けを求めて連絡をよこしたが、気前よくシャワーを貸した彼に女は葛藤し、結局はきっぱり彼との間に線を引き直して泣きながら去る。地元仙台で少年時代、お神楽を一緒にやった幼馴染との場面では、熊本へボランティアに行った時の様子と自分の使命感を語る主人公に、相手は愛想尽かしの酷薄な台詞を投げつける(まずは自分の生活じゃないの。今のお前、何だよ。ボランティア。それはお前じゃなきゃやれない事なの?)。そして彼の「ギルティ」を決定づけた事件の当事者=彼が支援に関わっていた知的障害の青年と、その姉との事。山の麓にあるらしい施設から近くの神社へと夕刻出かけた青年と主人公は、その場から動けなくなる。青年の「いーーー!」(自閉症特有の状況不適応の激しい反応の事を言っていると思われる)が始まり、夕食の時間が迫り雨も降ってきたのに彼はテコでも動かず、その否定的反応に心が折れた主人公は彼をその場に置いて帰ってしまう。そしてそのまま行方不明となり、3ヶ月以上経った今も彼は青年の顔写真を持って山に入り、登山者に彼のことを尋ね、探し続けている・・。山を彷徨う彼の姿に、無常の世を生き蠢く人間の姿が重なる。障害を持つ弟と一緒に、と言いながら、放置する選択肢も厭わない己の心をさらして主人公に迫る姉は、薄幸の物語の主人公であると同時に罪深き女でありその赤裸々な告白者。恵まれているのに何故自分だけ逃げ出したいと思っているのかと自責を募らせる既婚女性、そして主人公は正に「罪に囚われて」生きている(あるいは敢えて自分に課している?)。もう一人の登場人物、主人公の父は、彼に神楽を教えた村の大人の一人であり、肉親としてはあやふやな関わりのまま離別した人間、と見える。
彼の中を通り過ぎた4人を、舞台では主人公の想念のように浮かび上らせ、主人公は彼らと神楽を踊り、山を登る。
悠久の時間と自然に通じる「神的なもの」に同期できるのは、思考ではなく身体=感覚。その象徴として修験者を(初演ではより明白に)描いたこの舞台は、何か解決の方法を探っているのでなく、ただ人間の再生を期して祈る姿を描いている。と思う。

『わたしたちはできない、をする。』

『わたしたちはできない、をする。』

The end of company ジエン社

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2020/02/15 (土) ~ 2020/02/16 (日)公演終了

満足度★★★★

まだ3回程度しか観ないジエン社だが、新たに生まれた(新調された)横浜の「小劇場」HIKARIスタジオで、試作品のような小品を興味深く観た。
主宰・山本氏のパンフの長文を半分読み、トークでの話を聴き、帰宅してパンフの残りを読んだ。思索の跡は大真面目に演劇する演劇人の孤高を示し、アポリアを前に演劇的な具現化に挑む姿には素朴に声援を送りたくなる。
ただし創作の成果への評価はそのものとして行なわれねばならぬ。
・・という前振りには合わぬが、好もしい作品であった。

ネタバレBOX

一点、議論があろう所は今回の製作のラディカルな方法。演劇的コミュニケーション(観客との)的には、事前に(せめて事後)承知したかったとは正直な感想だ(知らずに帰ればそれはそれだったろうけれど)。
即ち、舞台では台詞が殆ど決められておらず、固めている部分もあり大まかな流れは定まっているが、60分程度の舞台の相当の割合を「決めてない」場面が占めるとの事で、最後の台詞も(殆ど消え入りそうな静かなやり取りだったが)「今日はああいう流れになった」、との説明。勿論これには「話題性」への下心は一切感じられず、むしろリスクを選んだ「番外公演」という事なのだろう。しかし台詞が決められていない、という事のラディカルさは、とてもそうは見えなかったと感じる自分の演劇に対する観念の方を結果的に問うものになった。
保守的な私は、このカラクリを必ず事後に説明をする事になっているのであれば、上演形態として納得できる、と考える。それは観客との約束事がどのように成立するか、という次元での話で、こうした議論もこの試みあっての物種だ。
そのように見れば、舞台は「完成」とは言えない出来だったと、事後的に印象記憶の変更が起きるが、それでも好感触という記憶に変更はない。

「カラクリ」の話を続けるなら、若い俳優たちとの製作の作業は昨年夏頃に始まったという事で、相当の時間と期間を掛けている。
「即興」そのものが持つ面白さは、それを下支えする人的レベルでの共有の上に生まれ、それを醸成するのは長期間の「共同」と想像する。上演に流れる思想や原則やエピソード、また俳優の互いについてのあれこれが、創作過程で共有される事は、作品の土台として機能するだろう事も想像される。従来のシステム(舞台の図面としての台本を元に台詞を骨組として作品化がなされる)とは異質な、しかし有機的な何ものかが形作られる。
反論はあるだろう・・この方法では俳優らのレベルを超える作品が出来ない、と。だが私は逆で、熟成の過程は他者との「自分の中にないもの」の発見と共有、衝突と包摂という、半ば強制的な学びのプロセスとして機能する。何より「共有」は通常の舞台でも困難な課題。
今回の作品は、「何かが出来ない」=不足のある人間存在(人間のある局面)にフォーカスするという基本的姿勢があり、「できない人が集い、できるようになったら去って行く場所(施設)」での断片的な風景を描写していくものだったが、「台本があるかのような」舞台となっていた。この事が、良い効果と捉えてよいのか、作品評価にとってどうかは今は判定困難だが、聞けば俳優が、演出が「決めたい」と思って進める稽古に歯止めをかける空気であったという。この事は、俳優らが「台詞以前のもの」(概念、思想、テーマ、もっと狭く劇のシチュエーションであったり)を内に育て、状況に身を置いてその場その瞬間に生まれるものに価値を置いたという事に他ならない。
その指向が行き着いた取りあえずの場所は、解読しきれない部分もあったが、目を釘付けにした濃密な時間であった。
Better Call Shoujo

Better Call Shoujo

シンクロ少女

シアター711(東京都)

2020/02/20 (木) ~ 2020/02/25 (火)公演終了

満足度★★★★

三鷹市芸文星のホールの<Next Sellection>を知った最初が2013年秋で、玉田企画と鳥公園、シンクロ少女だった。どんなだろ~とわくわく、今注目されている若手とくに女性のユニットを覗きたく、しかし枠は一本だけ。シンクロを止めて鳥公園にした。結局お初見は2015年1月空洞(あっさり美味)、その1年後スズナリ(濃味=三鷹と同演目)、2017年秋OFFOFF久々(あっさり薄味)、ペースは1年強に1本だがガッツリは1本のみ、だからか今回えらく久々感あり、そして無論ガッツリを期待である。
公演を2日前に知ったが小野寺ずるの名を観て即予約(口字ックでは見られなくなった...そういえば「かなこ」とだけある花鉢が受付に置かれてたな..)。
あの奇妙演技<妙技>を見たく足を運んだが、役どころは主人公、期待を裏切らず。舞台に調和をもたらすか、という点ではリスキーなアクトレスかも知れぬが(作品にも拠ろうが)、、部分的にであれ欲しい味を味わったので個人的に満足である(全く個人的なまとめ)。

ネタバレBOX

内容だが、例により睡魔に抗えぬ時間あり(体調で10~15分ほど)、終始憂い顔の主人公の「影」(過去)に関わるやり取りが熱っぽく交わされいたと思われ(耳でぐわんぐわん鳴っていた)、残念ながらエンディングにて事実関係がスッキリ解明せずという感じ。
役それぞれの持ち味とそれぞれの笑える一幕があるが、毒っぽいながら最終的には良い人、むしろ良い人過ぎる人達になって行く。それとの対照で主人公ジュンが自己嫌悪に傾く構図はあるのだが、ジュンの内面がもっとリアルに判りたい、もしくは、ジュンのズルさを言うなら周囲の者たちも同じくズルい人間だろう(見方の問題だ)というクエスチョンをクリアしたいように思った。
それぞれのエピソードを、もっと深掘りして完全版を観たい気分。
メナム河の日本人

メナム河の日本人

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2020/02/15 (土) ~ 2020/03/07 (土)公演終了

満足度★★★★★

遠藤周作の戯曲の題名は知っていたが(家の本棚にもあったが未読)、見ごたえある作品であった。舞台は近世のタイはアユタヤ王国で、戦国時代以降、主君をなくして流れ着いた浪人や迫害を逃れたキリシタンによる日本人町があったという史実を基に書かれた歴史物語だ。
作品の規模に相応しく静岡芸術劇場の容積大のステージをフル活用した布が主体の豪奢な美術、そして俳優の動線ミザンスまで視覚的なメッセージを緻密に構築した今井朋彦氏の演出力に感服。

ネタバレBOX

遠藤周作はこの作品を「キリシタン」という入口から物したと推察されるが、メインストーリーは権謀術数に長けた宰相(阿部一徳)を軸に展開するシェイクスピアばりの王室の悲劇。
力のあった前王(大高浩一。一言も喋らない唯一の役)の死後、宰相は王室内の対立に介入して平常化に成功、だがその後宰相自身が新体制の王室との対立の当事者となり、やがては当初の対立で宰相の援軍となった日本人兵が、宰相との対立関係に追い込まれる。
日本人兵を率いるのが駕籠かき上がりの山田長政(林大樹)であるが、策謀渦巻くまつりごとの世界と一線を画するキリスト教信仰の視点を絡ませているのがやはり遠藤作品たる所。「利」(得)こそ己が行動原理だと自任する山田の「心」を見抜いて確信を揺さぶるのが、ローマからの帰路ここに立ち寄った日本人神父(男役だが布施明日香)である。時折姿を現わすのが、酒を友とするボロを纏った元聖職者(渡辺敬之)、預言者又は吟遊詩人然として神に背を向けた己を告白し続ける(旧約の書がそうであるように不信仰を言う事により神を指し示す)。
今振り返って優れた演出と思った一つ・・ほぼ時系列に進む芝居なのだが、開演早々人々に君臨する王に急変が訪れる様をマイムで示された後にも、時として「言及」「想起」の対象となる王の威厳ある肢体が姿を現わす。それは口の利けなくなった薄幸の王女も同様。なお彼女は一度だけ、口を開く。
最後の最後、長政が宰相にしてやられる場面、先日の『コタン虐殺』を思い出す。
ポータブルトイレットシアター

ポータブルトイレットシアター

「老いと演劇」OiBokkeShi

県民共済みらいホール(神奈川県)

2020/02/12 (水) ~ 2020/02/12 (水)公演終了

満足度★★★★

汎用性の高い演劇の未来を幾許かでも願わない事のない人なら気になるに違いない、岡山のOiBokkeShi。近場の桜木町で開催(しかも1ステージ)とあっては観て来いと言われたようなもの。
菅原直樹という主宰の事は知っていたが、この劇団が氏と現在齢九十を超える岡田忠雄さんとの出会いに発し、この岡田さんを主たる出演者として活動する団体である事は知らなかった。つまり岡田さんの個性と菅原氏の手法・理念の両輪がOiBokkeShiのすがたである、という事な訳である。
下世話な話、会場に客は結構埋まっていたが200か300か・・入場料2000円は演劇公演としては廉価だが、「素人」劇団が何を見せるか・・。私の目には「作品」を観に来た客が不満を残さず会場を出るラインを十分クリアする内容、及び料金設定と思えたが、適切価格でもって得た収入は旅費、助演者・スタッフ謝礼と会場費等を引けば、通常は何とか赤が出ない程度ではないか。後は(旅費を除く)支払い先の「協力」の申し出がどれ程あるか、という所だろうか。どのみち「稼ぐ」ための公演ではない(多分)。

介護、高齢者問題と、岡田さんを巧く「使った」このパフォーマンスは、コロンブスの卵であり演劇的工夫の成果であり、やはり岡田さんという存在の賜物。そしてこのパフォーマンスひっくるめた中に通うメッセージは、菅原氏の本分である介護従事者としてのそれ。でありながらここには演劇を観る観客とパフォーマーの関係が(有料で)成り立っており、これは演劇だ、とも福祉(の演劇活用)とも割り切れない稀有な領域が生まれていた。
結果、先の二分法の境界線を、実線を点線にする位には相対化した。そのことに拍手を送りたい。

東京ノート・インターナショナルバージョン

東京ノート・インターナショナルバージョン

青年団

吉祥寺シアター(東京都)

2020/02/06 (木) ~ 2020/02/16 (日)公演終了

満足度★★★★

international ver.を観劇。過去に触れた東京ノートの「編曲版」(2本)よりもオリジナルに近い事がうかがえ、平田作品の中でも高クオリティたる所を感知した。「静かな演劇」興隆の起点となった代表作を放置していた不勉強を自戒。だがまだオリジナル版は観ていない訳である(観劇するつもりだが、さて..)。

このバージョンの評価すべき点は、帰属国(地域)の多さだ(台湾・韓国・タイ・フィリピン・ウズベキスタン・ロシア)。登退場は整理されているがブツ切り感は無く同一空間を共有し、共存し、世界的広がりの中にある我らがニッポンを意識させた(韓国人の比重がやや軽め、他、語り切れないものは多々残したにしても)。

美術館のロビー(展示スペースは別にある)には登退場ルートが上手下手各2、計4箇所あって(セミ)パブリック性高く、終盤日本人の親族らが漸く揃ってプライベートな会話になる所などは「美術館でそういうノリ?」と若干訝ったが、概ねリアルに収まっていた。
印象づけられたのは俳優の「演技」。従来の平田オリザ演出舞台の俳優の印象は、舞台を構成する一機能として存在する抑制された佇まいであったが、これは戯曲の要請なのか何か別の要因があるのか、キャラクターと不可分な微かな心情の動きが舞台上に覗いている。如実にそれを感じさせたのは松田弘子演じる「長女」であったが、その長女と他の家族を待つ時間の仲良しな話し相手である義妹(能島瑞穂)や、佐藤滋演じる男等も、陰影が深く脳裏に刻まれた。

思い出せば、随分前に観た平田オリザ演出・松田正隆作「夏の砂の上」は衝撃で、戯曲の音譜を正確無比に再現したかのようであった。感情面も正確無比を期したのだろうか、とすればどのようにして・・。今回の演技の温度の通った印象は、それと通ずるのかそうでないのか。
・・回ごとに異なる範疇の現象を大層にピックアップしてるだけかもだが、台詞に裏づけられて行くキャラと、心情が溢れるような長女の動きには凝視させるものがあった。

ネタバレBOX

・・思わせぶりなシーンにしたかったのかもだけど、しおらしい空気だけ作って「感情移入のきっかけ作ったから乗っかって頂戴」って言われても、説明なさ過ぎだし、観る側の自由つったってそれに乗っかんないと劇的気分味わえないんじゃ、それ誘導じゃん、自分の手は汚さず、手抜きちゃう?
・・と無言ツッコミ入れたくなる事が平田オリザ舞台にはしばしばあったが、今作はそれを感じる所がなかった。(・・結局ディスってしまった失礼。)

たまたま翌日SPAC「メナムの日本人」を観た後のアーティスト・トークで演出担当した今井朋彦氏に芸術監督宮城聰が、素朴な質問をぶつけていたのが印象的であった。それは俳優の演技の質に関わる質問で、曰く、細かな心理の動きを舞台上に見える形で表わされていた事に感服したが、どのようにしてそれを引き出しているのか、俳優でもある今井氏の舞台経験から出て来たものなのか・・自分には出来ない事。私もそういう演出が出来たらいいな、と思っている、という赤裸々な告白をしつつサラリと訊ねたのであった。
今井氏の回答はテキストに即した演出をした以上の事はない、という事であったが、要は俳優の仕事としての「演技」に演出家としてコミットせず、演出家が行なう仕事をもっと別の所に見出していたはずの宮城氏がこういう質問をした事が私には興味深かった。
新劇とは言わぬまでも「演技」とは人物に「なる」事で舞台上に出現させる事であり、俳優の仕事は演技である、という基本的・普遍的な定理に宮城氏は「回帰?」しようとしている・・
平田氏にも同様の曲がり角にある?などと想像したのだったが、騒ぎ立てる程のこともないか。

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