ブカブカジョーシブカジョーシ
オフィスコットーネ
小劇場B1(東京都)
2020/11/12 (木) ~ 2020/12/10 (木)公演終了
満足度★★★★
コメントしていなかった。
配信期間が長かったので何週間か空けて二度目を視聴したが、中盤を随分忘れていた、というより一度目は途中半分程見ていなかった(「少し意識が飛んだ」自覚はあったがこれほど長かったとは)。
会社人間である課長(高田恵篤)と、扱いにくい神経質な部下(野坂弘)のコミュニケーション齟齬から破滅的な結末へ至る話。上司が幻影を見ているのか、実は部下の幻覚なのか、それとも現実なのか・・不分明だが、見終えた時課長にとって会社、人生とは何か、彼は何に納得して生きている(きた)のか、問いが残る。現代ではこういう「会社人間」的存在はシーラカンスであるかも知れないが、吹く風になびいて人が右往左往する風景は会社という建物を出て広がっているかも知れない。
舞台は開帳場のような四角の台の奥に背中合わせのデスクが置かれているのみ。周囲は暗く、居て落ち着く場はない。他の登場人物は、課長演じる高田が部下の母を(部下の自宅)、部下を演じる野坂が課長の上司(部長・社長・専務3人セット)と、課長の妻(課長の自宅)を、コピー紙にマーカーで目鼻を描き殴ったような面を付けて演じる。常に狂気を帯びた部下は上司を翻弄する。部下の狂気がエスカレートするのか上司の精神が揺らいで風景が歪んで行くのか・・作者大竹野がどう書いたかは分からないが、最後に命果てた課長は「会社人生」の残骸に見える。
人が不安に見舞われる時、確かに「見たくない」光景が脳裏を掠めている。想像に過ぎないそれは得てして生々しく、ただしそれは殆ど意識されずただ怖気だけを残す。この芝居はその光景を描き出したようにも見える。だが作者的狙いは恐らく(庭劇団ペニノが以前作っていたという)深層心理の映像化、とは異なる感じ。部下は、標準的会社人間である上司を効果的に追い込む攻撃を繰り出すものの、それが確信犯であるのか逆なのかは、どちらとも読めるというサスペンスな作りになっている。そして二人のやり取りの中に社会批評が読み取れる、という構図になっていると思う。
部下が自宅で母とかわす会話には、彼が神経病みである線が強く滲むが(彼は今29歳で以前やっていた登山の仲間から電話で誘いがあったと伝え、健やかでスポーティだった息子に戻って欲しい願いを込めて誘いに応じる事を勧める)、他の場面=会社では上司側から見た部下が、確実に上司に打撃を加えようとして来ているように見える、
境界線上を行くような不条理劇が領分とも言える佃氏の演出は、激しく緩急がありかつ不気味に不安の漂う舞台を作っていた。
ガールズ・イン・クライシス
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2020/12/04 (金) ~ 2020/12/16 (水)公演終了
満足度★★★★
配信で拝見。
演出家・生田みゆきの名はよく知るが実際に観たのは初めてか。
戯曲もぶっ飛んだ内容だが演出も負けじと飛んでいた。だが演出の言葉によれば原作は移民問題がテーマとなっていると言い、終盤その問題を連想させる場面が僅かにあるものの上記の通りなら演出は明らかに強調点を変えている。
感覚的なものだが今の状況で書かれた戯曲ではないかと思い、すぐさまデータを見返した。2017年作であった。
最初「女性の自立」路線の話かと思いきや、現状を脱して「次」のステージを求める主人公が、やがて破綻を迎える。コロナ状況をどう捉えるかにも拠るが、コロナは文明の矛盾をあぶり出し、人間の本性を、文明(科学主義・進歩主義)に依存した人間の脆弱さを暴く。
主人公は自分の望む未来を「ある物」を手に入れる事で手にしようとするが「ある物」の欠点への不満はその製造者へのクレームとなり、理想を追うかに見えた彼女の実像は結局怠惰な「消費者」へと矮小化していく。容姿も整った主人公と、いきさつあって友達となるデブ子の存在が面白い対比となって効果的。
断食芸人
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2020/12/08 (火) ~ 2020/12/08 (火)公演終了
満足度★★★★
シアターX独特の主催行事は多々あるが今回は<一人芝居>試演会vol.5、前半最後の演目との事で「一発限り」の上演を観た。(後半の5名による試演は来年3月頃より順次実施との事。)
服部吉次によるカフカの短編の上演。舞台奥のパネルの一部が外れ道具類が見える隙間から、スタスタ登場した氏の右手には紙が握られており、「読むのか・・」と思っていると、イソップ寓話の一話をやろうという。舞台役者たる氏一流の耳心地良い口上で、4行ばかりの話の朗読を挟みつつ「皆さんとこれをやる」との提案。やんわりかつ強引な動員による大がかりな客いじりの後、本編へ。
舞台脇にも客席を置いた三方客席に挟まれたステージ前方で、カフカの風変わりな(という事はカフカらしい)短編が始まった。服部吉次という俳優の面白さが、このステージの面白さの全てと言って良く、それはシアターX恒例の上演後交流会での服部氏の語りに続く。とりわけ黒テント役者(それ以前に音楽一家出身)の面目躍如たるオープニングとラスト(と途中にも一箇所)の生ソプラノサックスが聴かせる。黒テント芝居が音楽抜きに語れぬのと同じく、服部氏のこの作品の解釈(又はカフカ理解、又は本上演の文脈)に関わる何かを感じさせるのである。(氏の音楽への造詣を知った思い出として・・黒テントの2007年「上海ブギウギ」の幕間で斎藤晴彦と二人で披露した懐かしの楽曲を巡る歌・演奏込みの丁々発止。両者一歩も引かぬ凄技であった。)
一人芝居研究会?は数年来シアターXでレパ上演(ローズ)を続けて来た志賀澤子が別作品をやる他、石井くに子、谷田川さほとベテラン役者が名を連ね、作品の方ではやや若手の女優が石原燃戯曲に挑戦するようで楽しみ。
妖怪の国の与太郎(再演)
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡市民文化会館(静岡県)
2020/12/19 (土) ~ 2020/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★
12/5無料配信を拝見。今年は2月に訪れて以来ご無沙汰のSPACだが、やはり上質なものを作る。最近この話ばかりだが体調による睡魔が後半訪れ、無念。大団円の所で目が開いた。12月後半の静岡公演にゃ、俄然行きたくなった。するてえと、無料配信にまんまとしてやられたてえ塩梅だな。
You'll Never Walk Alone
青春事情
ザ・スズナリ(東京都)
2020/11/26 (木) ~ 2020/11/29 (日)公演終了
満足度★★★★
映像配信で拝見。画像音声ともパソコンで十分見やすく「劇」に堪能できた。ウェルメイドでも嫌味が全くなくストーリー展開が自然に入って来るこういう作品は「降って来た」ものでは?等と想像する(初めての劇団で何も知らないが)。
冒頭はサッカー観戦の光景。接点のある4組それぞれの人間模様が描かれ、ラストに同じ観客席のシーンに戻る。赤の他人同士の観客席が群像に見え感慨が打ち寄せるという塩梅式。人間模様の断面の見せ方がうまい。人の内にある目立たないが動かし難い思いが、小さな変化を起こす。微妙な変化を演じる役者も何気に貢献。
演出的な最大の貢献は「応援の声」。バラエティに富む応援ソングが試合が進むにつれ熱を帯び、情緒を掻き立てる。
彼らの姿は非日常を求めて劇場へ通う我々に似ているが、彼らの日常とサッカーとの関係について想像を巡らした。
Knife
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2020/12/03 (木) ~ 2020/12/06 (日)公演終了
満足度★★★★
小野寺修二がここ数年所縁のKAAT公演で接点のあったベトナム人ダンサーや台湾人ダンサー、シアターXで協働したろう者劇団のダンサーとで製作したステージ。
過去に観た『変身』『椿姫』『あの大鴉、さえも』等、原作という土台からの小野寺流の飛翔・抽象化を味わう観劇と違って(それでも相当程度抽象性は高い)、新作舞台ではあるテーマを「巡っている」感覚を覚えるものの正解には辿りつかない。
小野寺修二の舞台は装置の比重も大きい(動きがセットとの組み合わせで作られている)。原田愛による装置は足が不揃いのテーブルが斜面を作ったり組み合わせて広いテーブル状となったりひっくり返すと奇妙な形状の容器に見えたりする。摩訶不思議感が舞台に充満している。小野寺氏の振付はマイム畑だけにユーモアがありデラシネラの片腕藤田桃子の身体のキレも人間の滑稽さに収斂する「技」が秀逸、他の踊り手もスポット場面を持つが、やはり凄いのはアンサンブル。
70分のステージの「世界観」は私の受け止めでは「境界」「封鎖」、閉じられた世界で生きざるを得ない状況が大きな枠組としてある。ただし彼らの中では別種の存在、すなわち出入り自由な管理人ないし支配者が認識されており(それに当たる役が登場)、非対称が常態となった(支配関係が固定化した)時空の中で、しかし彼らなりに濃密な人生の時間が刻まれているようだ。虫にも一分の魂ではないが、巨視的視点と微視的視点の双方へ誘われる感じがあった。
難解さについて考えるに、小野寺氏は自身にとって具体的な何か(具象や概念)を「動き」=比喩に落とし込む作業がある部分で為されているのではないか。ダンサーや振付師なりの身体言語(表現)体系の「内部」で完結した表現ではなく「翻訳語」(ロゴス=意味に対応する身体表現を探し当てたもの)が混在している、ゆえの抽象性ではないかと思うフシがある。全くの推測だが。
[Go Toイベント]詩X劇 フクシマの屈折率
遊戯空間
上野ストアハウス(東京都)
2020/12/03 (木) ~ 2020/12/06 (日)公演終了
満足度★★★★
前方下手寄りの席に座り、開演するとステージ上手側面に透明ボードで仕切ったブースが浮かび、中に演奏者が見える。「見やすいラッキー」と見ると、奥にキーボード奏者が居る手前にもう一名居るらしく、楽譜めくり?まさか、と思って終演後パンフを見るとなんとチェロだった。
開幕後、間歇的な音の中で白いビニル(防護服かその暗喩か)をまとった俳優らが一人また一人と出てくる(一名のみ男性で黒)。「詩」が始まると声(まずは演出篠田氏の低音)が心地よく耳をくすぐり、詩の内容はタイトルから想像され、シリアスの予兆はあるものの静謐な導入に居心地がよくなる。・・私めはこのあたりで野太い睡魔がもたげ、前夜の睡眠2時間の体調が表に出てきた。
耳は「言葉」を聴こうと試みるが言語認識(音から意味への変換)は追い付かず、「観劇」しているつもりで終ってみれば敗北。この舞台にとって全てと言える「言葉」を取り逃した。
痛恨の観劇であったが、五感で受けた印象だけ記せば・・
遊戯空間の「詩×劇」と言えば2年前新宿でやはり和合亮一氏の「詩の礫」を元に構成したものを観た。「詩」・「劇」を謳う通り舞台での主役は「詩(言葉)」であり、パフォーマー=語り手は言葉に命を吹き込むように声を出し、動き、位置取り、大勢で畳みかけ、静寂と闇の際が見えた。新宿文化センターでは観客は床の上に座る格好、役者をほぼ見上げる形で、「地面」を意識した。言語を際立たせるための発声と動き、という関係性は<地点>に似る。「仮名手本忠臣蔵」に通じるが出演者の数(こちらは役の数と言った方が良いか)、横に広がるステージで客席との近さもポイントであった。・・といった気づきは、今回との比較により、上野ストアハウスのどちらかと言えば縦長の箱でステージを見下ろす形、また出演者数(9名)に視覚的、聴覚的(声量)に若干物足らなさを感じたのは確か。但し演出的には数量による押しのパワーより、ナレーションを多用し「想起」の時間へ誘うものがあったようにも。視覚的にハッとする瞬間が幾つかあり何かの隠喩となっていたが思い出せない。時間があれば再見したいが今の所無理である。
投げられやすい石
ハイバイ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/11/18 (水) ~ 2020/11/24 (火)公演終了
満足度★★★★
どこかで聞いた題名?・・そうだ一度観たと思い出した時は既にチケットを買っていた(新作と勘違いした)。
初演は何と2011年(震災前)。こまばアゴラだったらしい。舞台はシンプルでハイバイの過去作の中でも時折思い出す方であるが、自分はと言えば何やら気もそぞろに劇場に入り、ぼんやりと風景を眺めるように舞台を観ていた(耳の奥で「現実」がガランガランと鐘を鳴らしていた)のを覚えている。
そんなコンディションでも、分かりやすく展開する「痛烈にイタイ物語」を楽しんだが、際どいポイント突くな~と感心しながらも見終えた時何かが欠落、又は過剰と感じた。
学生の身で世の注目を得た“アーティスト”佐藤が、失踪する。そして再登場、そこからが「痛い痛い」本編である。
開幕は、佐藤の展示会のレセプション会場の控え室らしい空間で、会場から佐藤のスピーチが遠く聞こえる中、舞台上の山田が、佐藤との思い出を語り始める。少し離れて佐藤の恋人美紀。やがて佐藤がスピーチを終えて控室に戻ると、次は山田の番。逡巡する山田に佐藤は言う。「何も心配はいらない。自信を持て。お前が自分について何かを証明する必要はない、俺がお前のことを評価してる、その事実だけでいい。その事だけで世間の評価はついてくる。だから自分から評価を気にする事なんてない(といったニュアンス)」。山田は自分の絵にさほどの自信もなく売り出そうという野心もなかったが、ただ佐藤という大きな存在によって日常は変わり、あの佐藤に認められた人間という評判が自分のステータスを押し上げ、変えられて行く自分を感じていた。そして同じく佐藤の恋人美紀も「付いて行く」タイプの人間だったが、三人が青春の季節を歩んだ日々は、そのレセプションの翌日佐藤が忽然と姿を消した事で終わる。
さて、ぽっかり穴が開いた時間、山田と美紀は互いの寂しさを埋めるように付き合い始め、結婚(か婚約までだったか)に至る。「そんなある日、僕は佐藤から呼び出しを受けた」・・ここで山田のナレーションは終わり、以後ほぼ「実写」の芝居が続く。
コンビニの雑誌コーナーで立ち読みをしていた佐藤を、最初見誤る山田。まるで風貌を変え、以前の輝き、自信、そして健康を失われた事が一目で判る(そういうメイクもしている)佐藤に戸惑い、山田はすぐさま立ち去りたくなる。だが、そのコンビニで店員から理不尽な扱いを受け、その後雨に降られ、空き地だか河原だかのベンチで過ごし、その後美紀を呼び出しカラオケに行く事となる。芝居の終着点はカラオケである。そして「石」のくだりが、空き地で手持無沙汰に過ごす時間にある。
佐藤は人に触られるとパニックになって後は死ぬしかないみたいな状態の人間になっていた。芝居はこの「醜い存在」を透明プレートの上でフナみたく観察し、解剖し、残酷に葬る。ただし初演時は、佐藤を演じた岩井秀人は作者本人であり、自虐は笑いに通じ、微かに救いがあった。
今回、若い俳優達(皆知らない)によって演じられた「投げられやすい石」は、佐藤を岩井秀人以外の俳優が演じて成立した一点において大きな成果であったと言えると思う。
作者岩井本人による佐藤が恐らく最も的確に違いない。ただしそれはハイバイ独特の構造の中で可能な面もある。今回の若手俳優の佐藤が「やれなかった」演技は、最後に「絵」を見せるまでのくだりである。佐藤の惨状を目の当たりにしながらも、輝いていた一年前の佐藤を知る二人だけに、佐藤の精一杯の「プレゼン」についほだされ、泣くのであるが、それはこういう構図である。
佐藤の「俺は俺なりに頑張って絵を描いてる、そして少なくとも俺はここまで来た!」という言葉は、「それに引き換え二人は描いてきたのか、意志を貫いてきたのか」という問いと表裏一体で、忸怩とする感情が二人に去来する。しかし二人の中でその後ろめたさを「今の佐藤をリスペクトする」という代償行為で打ち消す心理規制が働く。二人が「リスペクト」に導かれたのは、「佐藤がこんなになりながらも、それなりの絵を描いてきた」というドラマチックな物語を佐藤の言葉に見出したからだ。だが二人が自覚的でなかったのは、佐藤が持ち歩いていた絵が「きっと二人を(良い意味で)驚かせる作品に違いない」という前提が忍び込んでいたこと。
カラオケの場面では、その前段に、山田がいない間佐藤が美紀に「セックスしたい」と迫るくだりがある。佐藤がしつこく迫るのを美紀はその性格上邪険に拒絶できず体を触るに任せていたが、それを山田に見つかり、逆上した山田が美紀を連れ出そうとする。この緊張シーンあっての、その後の佐藤の「巻き返し」であった。「ずたずたになっても俺は絵を描き続けている」その絵が、いよいよ開陳される。そしてその瞬間、全てが瓦解する。
ただ、初演と今回とで「絵」は微妙にニュアンスが変って見えた。
初演で出された絵は、「美」の片鱗もなくただ精神薄弱者となり行く者の「後退面」が強調され、それゆえ「痛い」となっていた(病室を描いたような絵で、ベッドの向こうにテレビがありその中でタモリと思しいグラサンの男が描かれていた)。
が、今回の絵は(出来は確かに悪いが)微妙に「頑張ってる」痕跡がある。佐藤は二人のたじろく反応を見て、自分が甘味な空想の中で予想した「佐藤復活への祝福」の態度が微塵もない事を見てとり、何度も自分の絵を見返して首を傾げて焦る、という芝居が、最後を飾る「痛い」場面になる。
美紀がショックを受け、最終的に「もう私いやだ!」と立ち去ろうとする反応は、「微妙に頑張ってる」絵に対するリアクションとしては少し大仰になってしまったような。
ハイバイには『ある女』のような岩井氏本人が演じてこその作品があり、『投げられやすい石』もその一つ。その「岩井秀人の世界」を、「岩井秀人戯曲の世界」へと押し上げる試みは、それ自体貴重な仕事(アーティスト岩井秀人の本来的な仕事)だと思う。上に最後の佐藤の巻き返し「説得」演技は「やれなかった」と書いたが、私は秀逸すぎた初演に比べ、戯曲の狙いと俳優の演技との間で通常生じる「誤差」を考えれば、十分健闘している方である。
初演が作者本人=自虐=笑いの構造にあって、岩井氏が言わば神の特権のように露悪的、というより露醜的?演技を繰り出して笑いを取ったのに対し、今回は俳優が一人のあり得る佐藤を貫徹しようと演じた。ナルシシズムとコンプレックス、どこか漂う純朴さといった佐藤の構成要素を体現し、この戯曲を成立させたという事である。
山田を演じた俳優は初演の松井周に肉薄。恋人役はおっとり型の持ちキャラ(いや演技か)を生かして自然。コンビニ店員とカラオケ店員という佐藤のトラウマ的存在を演じるもう一人も「商品を取るふりをしてふざけた」事を(それと言わず)ネタに外見が「終わってる」(ニット帽を外せば円形脱毛だらけ)佐藤を(これもその外見については一言も触れず)いたぶるとことん性悪な悪役を好演。
詳述しないが石を投げ合う中盤でのシーン、初演にあったのを忘れていた。タイトルに重なる場面だが謎めいて美しい場面であった。
ハイバイ作品の批評は難しい。よく参照させてもらう宮台真司によれば、アートとは人に「傷」を与えるもの。この意味を知るにはハイバイの舞台を観るのが差し当たり正解、と書いておこう。
月曜日の朝、わたしは静かに叫び声をあげた
甲斐ファクトリー
王子小劇場(東京都)
2020/11/25 (水) ~ 2020/11/29 (日)公演終了
満足度★★★★
前知識なしの<初>劇団訪問は久々。体調は万全でなかったが観劇中眠くもならず、程よく心地よく1時間40分が過ぎた。
目を引く題名、そして惹句に想像をかき立てられ、HPを見れば意外と年輩の構成員(劇団は新しめであるのに)。さらに空想を広げ、演劇経験をそれなりに経て団体を作ったその<魂>を見てみたくなった。
さて芝居の方は若い俳優中心、不条理でなくファンタジーであった事など予想をそちこちで裏切られたが、個々の逸話のディテイルに引っ掛かりながらも、終ってみれば全体で一つの物語となっていた。これやるの?と訝るような思い付きの場面もどうにか舞台上に出現させ、粘り腰である。
ただ、このタイトルから染み出してくるような主題、つまり初期の狙いを作者は果して具現化できたのだろうか?。。
考えさせられた事あれこれ、いずれネタバレにて。
ミュージカル「NINE」
TBS/ 梅田芸術劇場
赤坂ACTシアター(東京都)
2020/11/12 (木) ~ 2020/11/29 (日)公演終了
満足度★★★★
ライブ配信で鑑賞。映像は生に及ばない事は承知で、一言感想を。
藤田俊太郎演出舞台は今年春の「VIOLET」が流れ、今回漸く初鑑賞できた。
「観たい」と思った理由は、フェリーニ監督の『81/2』(はっかにぶんのいち)に因んだ作品であること。更に賞をとった舞台と来れば期待は嵩増しである。
フェリーニの映画は好きだった。十代の頃テレビで観て衝撃を受けた『道』や、「カビリアの夜」あたりの初期作は「小さな存在」への眼差しがあり、フェリーニの原点が偲ばれるが、中~後期の映像詩と呼ぶべき作品こそ「フェリーニ映画」、度肝を抜くセットや破天荒なフィルム繋ぎ、ストーリー説明がなく強烈なイメージの映像が語るに任せる独特な手法、フェリーニ節が全開である(見たのは「そして船は行く」「カサノバ」「サテュリコン」「ジンジャーとフレッド」「インテルビスタ」「ボイス・オブ・ムーン」)。「81/2」もザッツ・フェリーニと言うべき作品で、映画製作に行き詰まる(アイデアが湧かない)映画監督グイドの苦悩と荒廃と、再生の物語。最後には不思議な幸福感に包まれる。この作品が芸術及び芸術家について書かれたものであるのは言を俟たないが、さらに人間を描いていると感じるのは例えば監督自身の幼少時の記憶を蘇らせる場面等である。
さて「NINE」である。大型ミュージカルの「威力」を私は「ビリーエリオット」で知り、また「LENT」は映像で観ても楽曲が持つ魅力にやられてしまう。しかし「NNE」は色々と物足りなさがあった。
大きな一つは楽曲である。昔懐かしのミュージカルメロディが「狙い」だったのか、それとも米国の音楽文化の割とスタンダードな形なのか分からないが、小編成オーケストラによる楽曲が私には物足りない。本来大編成での迫力を想定して作曲されたものを「簡略化」したように聴こえるからか。タカラジェンヌ出身女優が大部分を占める出演者の「生声」の歌はさすがだが、メロディラインをヴァイオリン等が補強していて、同じメロディをなぞる女優達の声を合わせると、どうも宝塚の舞台の雰囲気になってしまう。(別に宝塚が悪い訳ではないがどうも音楽的・声楽的には1ランク下がった感じに聞こえる・・何故か分からないが。)
まあとにかくそれもこれも楽曲の良し悪しだろうと思う。しんみりと聞かせる母の歌や、女たちの荒々しさが見える群唱の曲など、中々見せる場面もあるが、ラストを締める曲が、曲・詞ともに深みがなくバシッと決まらない。散文詩のような舞台では、最後は楽曲でぐいっと心をさらうくらいでないと・・という後味であった。
「物語」は城田優氏の演じる主人公グイドの女性関係と、修羅場と化す彼の映画製作及び人生そのものの行き詰まりを描く(そのあたりは原作と同じ)。心の拠り所である妻ルイザ、情熱的に彼を慕う女性カルラ、作品のインスピレーションをもたらす女優クラウディア、この3人に加えスポンサー、プロデューサーも女性。その他彼のファン、行きずりの女性と、ダンサー以外の出演者は皆女性だ。
ある時彼はクラウディアから「あなたは一人の女では足りないのよ」と言われ、(実際は『81/2』より後の作品となる)『カサノバ』を着想する。ようやく製作が波に乗って来たのも束の間、作品中に自分のプライベートが使われていると憤慨した妻に去られ、「夫と別れた」とノリノリで言ってきたカルラをそれどころじゃないと邪険にした結果ついに思い改めた彼女にも去られ、元々気難しかった女優クラウディアにも映画現場を去られ、グイドは一人になる。「全てを追う者は全てを失う」、という格言が自ら語られ、出演者総勢による合唱で劇は閉じられる。
映画を構成する多彩な映像イメージは、主人公の現実であったり想念であったり、また「あり得る」別の現実であったりする。だがその判然としない中に光が刺す。ありきたりな言葉を使えば「物事全て捉え方次第」、フェリーニの出自であるカトリックの「全ては起こり得る」楽観性(神への信頼)もバックボーンにありそうだ。『81/2』の最後、恐らくだが作品制作に対しグイド自身が持ち込んでいた負荷から彼が解き放たれ、映画製作を放棄しても確かに存在する自分自身に出会い、その瞬間彼がそれまで出会ってきた人々の存在にも気づく、という事が起きる。その時彼は、映画もそのように撮ればよかったと気づくのだ。そしてそれは毎回映画製作者としてのフェリーニが苦悶の果てに辿り着く「完成」までのプロセスなのだろう、とも想像させる。人生においても何が肝心なことかを見失う場面を体験する。映画のラスト、人々が広場で隊列を組んで歩き出すと、それまで孤独にあえいでいたグイドの目に、彼らが自分の味方である(友人である)と映っている。
「NINE」の舞台は、孤独になった主人公が孤独を歌い上げるクライマックス、その後特に説明を施さず皆が登場して比較的淡泊な楽曲の「大団円風」でさらりと幕を閉じた。結局原作(映画)の設定を「使った」だけにすぎず、ミュージカル化する意味があったのか・・私にはもう一つピンと来なかった。
嘘 ウソ
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2020/11/07 (土) ~ 2020/11/15 (日)公演終了
満足度★★★★
新旧の秀作を堅実な演出とキャストで舞台に上げる俳優座劇場プロデュース。今回はフランス産の近作で、登場人物4名による、サスペンスフルで予期せぬ結末が待つ考え抜かれた台詞劇。
最終的に艶笑譚に終わる芝居だからつい「喜劇」と紹介したくなるが(実際そのカテゴリーに入るのだろうが)、私は本編を「笑って」は見なかった。
ドラマはとある夫婦がこれから親友夫婦を夕食に招こうとしている自宅で、妻が悩まし気な顔をしているのを問い質した所、親友夫婦の夫が今日の昼、ある店の前で妻以外の女性とキスをしている所を見てしまった、という妻の証言に始まる。この事実?を巡っての冒頭の夫婦の言い合いを端緒に、「嘘」と「真実」を巡ってこの芝居丸ごと動員しての壮大な議論の様相を呈する。
「ディナー中止」の合意に至るも時遅く夫婦の訪問を受けてしまうまでの夫婦のやり取りは、次の通り。・・自分にとって親友である相手の妻に「真実」(相手の夫が他の女と会っていた事)を告げないではいられないと、妻が言う。夫は自分の親友である(妻同士の関係よりも古い)相手の夫の前でそれを言うつもりかと迫ると、「私に「嘘」を付けと言うのか」と妻は返す。夫は「それが友人としての態度。彼らの生活に立ち入らない事だ」と言い含めるが、妻は首を縦に振らない。決着がつかぬまま夕食の時が来る。
妻は暫くは我慢していようと思いきや、「例の事」しか頭にないらしく、相手の夫にカマを掛けてみたり、肝を冷やした夫が話題を逸らそうと奔走したりといった「喜劇」らしいやり取りが続く。しかし関心はそこにばかり集中しない。というのも、会話の流れが一々エレガント、言葉に知性と含蓄があり、相手夫婦の佇まいにもどこか注視させるものがあり、「人物」への興味が湧く。
芝居は早々に「真相への道程」のスタートを告げ、やがて主役である夫の目線で「謎」が深まり、彼の目を通して観客も「謎」に向き合い、迷路に入り込むという塩梅。つまりミステリーとなる。
この作品は「謎」に対する驚くべき「真相」が待っているという、「娯楽」作ではあるが、その謎解きに至る手前までは、シリアスドラマと言って良い程に主人公=夫の苦悩がある。人の苦悩(しかも浮気云々)は笑いの要素ではあるが、この場合、観客が登場人物より情報を多く得ているゆえの「笑」の構造はなく、観客は夫と同じく迷わされている。
途中までのストーリーも紹介すると・・スキャンダルの疑惑は相手の夫から、我らが夫婦(相互)にも及ぶ。例の件がショックであったらしい妻が感慨深く夕食を振り返り、ふと夫に訊くのだ。「あなたはどうなの?私以外の女性と・・?絶対怒らないから正直に言って。過去の事をどうとは思わない。その事より私は二人の間に嘘がある事の方がつらいの。」(という趣旨)。妻のまっすぐな目についほだされ、一度あった、と告げてしまう。妻はこれに対し今思いついたとばかり「そうだ」と畳みかけ、具体的な期日と場所を挙げて夫の証言を引き出す。「今年の春に出張とか言って○○に行った、あれ?」・・「そう」。「ちょっと待ってもしかすると夏に○○島に行ったあれも?」、「そう」(正直モードに入ってしまったので畳み掛けの質問につい返事をしてしまう感じ)。ここで妻が「全然過去の話じゃない。ただいま現在の話じゃない」とキレ気味に反応すると、夫は否定できない。話が具体的になりすぎて「いや関係はもう終わった」と抗弁したその舌で、いつ何故どうして終わったのかを具体的に説明せねば説得力を持たず、夫がそこに説得力を持たせる自信など無いのは様子を見ただけで明白である。
夫は今更ながらに後悔した様子だが、妻は最初に「怒らない」と言った約束とは裏腹に夫への不信感と嫌悪を露わにし、リビングを出てしまう(鍵を掛けられ寝室に入れてもらえない)。
夫婦のあり得るリアルなやり取りの一例だが、さて翌日、冷静になったらしい妻は、夫への反撃なのか、正直モードでの告白か判然としない(ここからがミステリー)台詞を吐く。「昨夜は自分の感情に負けてしまったけれど、私はあなたを責める資格はない。」(最初夫はその言葉の意味を理解しないが、やがて気づく)。「実は、私も・・」
その相手は芝居の構成からして相手夫婦の夫と思しく、観客は夫に先走って疑い始めるが、次の場面ではその相手の夫の訪問を受け、こちらの夫の相談に乗っているという案配だ。ここでの友人の「意味深な」回答、アドバイスも観客的には疑惑の説2パターンばかりを連想させる。こうして「謎への解答」は絶妙に迂回路を辿り、やがてラスト、観客に最も効果的なタイミングで見せられる事になるのだが・・。
全編にわたって「真実」と「嘘」が錯綜し、後半から終盤にかけて混迷の度合いは深まる。だが、この芝居がどんでん返しの快感で閉じる娯楽作(喜劇、ミステリー呼び名はいずれでも)と一線を画するように感じたのは、俳優たちのリアリズムに軸足を置いた演技による所が大きいと思った。
最後、仲睦まじく隣り合って座った夫婦は、互いに不貞を働いていたとおぼしいと知った今、事実を受け入れないために「嘘」を相手に暗に要求するのだが(この台詞運びも見事である)、二人はある種の明文化されない「約束」を交わしているように見える。
で、ここは微妙であるが、妻は女性らしく夫に、夫は男性らしく妻に(つまりそれぞれの仕方で)愛情を向けていると知れる演出・演技になっている。
だから、終幕に残るのは(よく書けている)戯曲の言葉ではなく、二人の存在=残像なのである。
夫婦が心底では望んでいただろう所に決着した、という風に少なくとも真実らしく見えた事が、私は演出の狙いであり俳優たちの仕事だったと見る訳である。
相手の夫は最後にはえらく悪役だった事が暴露される事になるが、愛嬌もありキャラも合致。相手の妻も、退屈な夫婦生活に刺激を求めて罪悪感なしというキャラで、裕福さが背景に見える。
一方主役の方の夫婦も一応収入はありそうだが(妻は会社で重要なプレゼンが明日あるとか言っている)、相手夫婦より観客に近い位置にいる。二人は各々「真面目さ(誠実さ?)」の片鱗がその人間性に垣間見える瞬間があって、それが大団円での愛の見え方にもつながっている(・・とすればこの作品はやはり戯曲の勝利か)。
どちらにせよ、戯曲は優れものであり、舞台は爽快感と深み(真実味)を残した。
母樹(boju)
下北澤姉妹社
小劇場 楽園(東京都)
2020/10/30 (金) ~ 2020/10/31 (土)公演終了
満足度★★★
初演『ミカンの花が咲く頃に』の再演(タイトル改め『母樹 boju』)が新型コロナで延期となり、西山水木が原作をモチーフに出演者4名の小編に改作し、10月に2日間だけ上演(60分)。配信を見た。
初演は印象的な舞台で、地方に暮らす家族とそこに出入りする人々を描いたドラマだが、開発計画に分断された村の状況に家族が翻弄される社会的側面と、亡き「母」という一個の存在に注がれる視線が絡み、不思議に溜飲を下げた。初めて聞く作者・釘本光の名を頭に刻んだ公演だったが、もう一つの印象は何しろ舞台が狭い。上手壁際を袖に見立て、俳優が「気配を消す」事ではける処理など苦肉の策を施していたが、できれば家屋に植物を添えた装置のある舞台(紀伊國屋か、せめてスズナリ位)で観たい舞台であった。
さて今回は抽象度の高い詩的な舞台で、独特な場面割り、その中に振り(舞踊的ムーブ)もある。物語は久しぶりに実家で再会した姉妹が、生前の母の日記を読んで過去に旅し、母と自分自身に出会い直す話。母がかつて自ら求めて村の老人達から授ったもの、姉はその母を追うことでそれを手にし、今傷つき舞い戻った妹に姉はそれを手渡す・・再生の予兆がラスト、それと語らずに仄めかされる「演劇的語り」は雄弁。
姉妹が語る彼女らにとって凡そ個的なものでしかない家族の形が、既視感を伴って見えてくる。下北澤姉妹社の第一回公演(西山水木作・演出)に通じる不思議な味わいがあった。
ただし、配信映像は音声に難あり(台詞は聴きとれるが音割れが激しい)。
(それ差し引きでの★)
水の駅
青年団若手自主企画 堀企画
アトリエ春風舎(東京都)
2020/11/13 (金) ~ 2020/11/23 (月)公演終了
満足度★★★★
昨年末の堀企画第一作を思い出すと、「静寂」という明確な共通点があった。コロナ自粛期を避けて第一作、第二作と幸にも公演が実現し、私はささやかな幸福の時間をもらった。
演目はアングラ演劇の雄、状況劇場、黒テントと並び最も実験的・身体回帰;原始回帰的の路線を突き詰めた転形劇場の、中でも有名な無言劇。という知識だけで実際に上演を観る事ができたのは昨年のKUINO演出(割とオリジナルに忠実だったらしい)による森下スタジオの広々としたステージ。それで今回は記憶をなぞりながら「次は何?」と楽しみに観る事ができたが、何バージョンもの「ジムノペティ」を眠気覚ましに繋いだKUNIOの演出より、今回の堀企画の静謐の味わいがこの演目に相応しく思えた。
と言っても、50年前の舞台を知らず、ただただ想像を逞しくすれば、当時その渦中にあった「時代性」はアングラ演劇の全体的傾向を規定し、身体回帰の「目的」の中には純粋芸術以外の、例えばある種の抗い(社会への)のニュアンスが滲んでいた(あるいは観客がその期待を投影して劇を観、評価した)・・な風に想像してみると、KUNIO演出は(彼はオリジナルの舞台を映像で観たという)木造家屋に合うちゃぶ台を、硬質な現代建築に据え替えた「異化」によって、「時代性」をろ過して残った劇構造に太田省吾の遺産を見出そうとする試みであったとも。。
だが今回の演出では美が追及されている。ちゃぶ台自体の美しさに着目して現代の、アトリエ春風舎の風情ある床と狭さを生かし、地下ならではの静けさを生かし照明、音響を味方につけ一つの世界を作り上げていた。これは原典への別角度からの照射でより踏み込んでいると言えないか。
上演時間70分、抄訳であるのは前公演「トウキョウノート」と同であったが、出演人数はちょうど良く、場面を省略した代わりに一つ一つの場面(奥から人が現れては水場に立ち寄り、去って行く)を振付と言える程の考えられた完成度高い動きで作り込んでいる。青年団俳優でもある演出者の美的イメージの精緻さを思わされる。動きの速度、照明変化の速度、音響の音量、場面繋ぎのアイデア等、統一感があり、じっくり流れる時間の中を彼らは生きている。
しかしこの演劇は何なのか?・・人の営みはシンプルである。と、言葉にすればそういう事であるかも知れぬが、その実在を舞台上にかたどるのは難しく、地味だが中々できない仕事(と素人には思えた)。まあ、好みである。
「静謐」は演出の志向なのか、演目に即してたまたまそうなのか、、ぜひ次の仕事も観たい。
Rights, Light ライツ ライト
劇団フライングステージ
OFF OFFシアター(東京都)
2020/11/02 (月) ~ 2020/11/08 (日)公演終了
満足度★★★★
フライングステージ3回目の観劇。2年前観た作品と相似形に見えたが、これが関根信一流の作劇なのだろう。「問題」の提示がズバリ冒頭間もなくにあり、当人(主人公)にとっての障害が人との対話、出会いによって一つずつ解消して行く。これがご都合主義に見えないのは主人公の「痛み」の源がラスボスのように本丸に控え、これを打倒しなければ身が立たないと、観客が感じるように構成されているからだろう。シンプルでスリムな建造物で「問題」(性的マイノリティの現状)のありかを示すほとんど教科書と言って良い作品は、関根氏の本音、真剣味が滲む(笑いを交え口当たりが良いのはゲイバーママの接客の手法だろうか・・完全な「想像」だがストレートに真面目な話が「聞ける」のは語り口の勝利と言うしかない)。
ただ・・主人公が「新たな出会い」の中でパートナーを見つけ、最後にそれが開陳される(前回観たのと同じ)展開は、まあ「おまけ」と言ってしまえばそれまでだが、フリーターっぽい元彼からエスタブリッシュな新彼へ、という経済的・地位的なステップアップになっている点で「出来すぎ」の感が出る。果たしてこれは、パートナー活(婚活ならぬ)にとって相手の地位・収入は重要という感覚(同性パートナーの女性的な側にとっての?)が実はリアルに描かれていたりするのか・・等と想像したり。
確かにフライングステージはその腹の括り方がドラマの機動力であり、笑いをクッションに道理を通す。素人の観客(私)は毎度しっかり説得される。
JACROW#29「闇の将軍」シリーズ第3弾
JACROW
サンモールスタジオ(東京都)
2020/10/22 (木) ~ 2020/11/08 (日)公演終了
満足度★★★★★
JACROW、以前どこかで観た気がしていたが、中村氏演出舞台を見たのみで自作舞台は初めてであった。
劇団固有の世界というのはやはりある。演劇の成立の仕方というのは様々で、現実世界の一角で、現実世界に帰属する生身の体が架空の世界を「作る」仕事、この要は俳優の仕事となるが、この芝居では田中角栄という実在人物(わが子ども時代「ま~しょの~」の物真似で超有名人であった)の存在のさせ方が独自であった。他にも娘真紀子、山東昭子、中曽根、大平、福田、小沢、金丸と1970年代後半~80年代半ばの政界人オールスターが(パロディでなく)史実を演じるべく、しかし形態模写もまじえて登場する。その模写が興醒めとならず激動の政界ドラマを加速させる。一見物真似的にみえる表現がリアリズムな演技と不思議に共存するのだ。
記憶に残る竹下元首相の「あ~せ~こ~せ~と言ってたら創生会ができた」等と超つまんね~コメント(自分で作っておきながら自分に責任はないかのような表現と周囲のにやけ笑いに子供ながらに白けた記憶が)、またその後経世会で「御大田中角栄と離反」なんて報道も朧げに覚えている塩梅なので、耳馴染みのある人物のドラマを楽しく見た面はある。が、それでけではないと思う。
自分の言葉を語らず都合の悪い質問にふて腐れ、ふてぶてしく会見を打ち切り、又制限し、小煩い記者をターゲットにし出禁へと誘導したり(これしきで動揺する記者クラブの方が亜然であるが...)、のらりくらり逃げを打つしか能無しの菅首相(さすが安倍の政治私物化をサポートした手腕、というか単に貧層な哲学を発揮)を見て嘆息ばかりつくこの頃だから、余計に田中角栄という人物が対照的に存在感を持つ。人の心を動かす言葉を探り、人を説得し続ける政治家像に、政治の「あるべき」原点をみる思いがするんである。
ドラマの葛藤は、「田中派(党内多数派=決定権を握る)からは絶対に首相を出さない」とするこの頑固親父(角栄)が中曽根康弘(風見鶏と竹下派に言われた)を推して二期目の首相に就任した事態に至って、若手(60前後)竹下登を押す金丸・小沢を筆頭とする分派がついに創生会~経世会の既成事実化によって派閥乗っ取りを仕掛ける部分である。
(会は表向き政策勉強会であるが派閥政治の常套で「次の主流派に乗り遅れるな」という平議員の心理に働きかける。小池都知事がぶち上げたあの「希望の党」に民進党議員がうかうかと参集したのを想起せよ・・その後小池はハシゴを外した完全な「罠」。政策論争での選挙戦を「させなかった」のが小池現都知事である事を忘る勿れ。)
その角栄は数年来彼を疑獄に陥れたロッキードの案件では刑事被告人となっている。人気はあるが首相にはなれない。でもって、長い裁判の結果、有罪判決を下される。この事も要素となり政界での力を失う動きとなっていく。
史実を辿ったドラマだが、角栄の人物形象が優れている。(上に述べたが)通常省略される「物真似」をしながらの演技は、しかしこの人物像の場合抜かせなかったかも知れない。演説の調子、田中派の側近議員らを労う言葉、気遣い等一々気が利いており、「愛らしい」親父像であるが、特に演説は、高度成長期のスタンダードであるインフラ整備、地元企業への利益誘導が「地元の利益=全体の利益」である時代、たとえ方便であっても魅力的である。そこには貧しさへの共感と思いやり、不平等の是正という公共理念が流れているからだ。
何よりこの人物は、この数年極まった「説明しない」「理念、目標のない単なる政権維持のための政治」「不都合を排除する(公文書さえ廃棄、改竄する)」など日本のレベルの低さの無惨な露呈を痛ましく思う心に、一つのオルタナティブを示し、力強く溜飲を下げる。現実(史実)に連なるこの舞台はその数十年先である現在に連なり、劇場の中に完結して終わらず人物らの思いがチリチリと火が燻るように鳴っているようである。
ヴィヨン
アン・ラト(unrato)
シアター風姿花伝(東京都)
2020/10/28 (水) ~ 2020/11/01 (日)公演終了
満足度★★★★
配信での視聴ができるとなるとつい手が出る。unrato=大河内直子演出と認識していたが今回は文学座新鋭稲葉賀恵。台本を持って喋る朗読劇だがかなり演出が入り、立ち位置、動き、台詞の割り振り、音楽、照明と結構作り込まれていた。
「ヴィヨンの妻」は映画を観たので太宰の分身らしき放蕩文士と妻の話であったのを思い出したが、紅一点の霧矢大夢+3男優の好演でコラージュ風の構成が一つの世界観に織り上げられている。終盤唐突に挿入される「藪の中」(映画『羅生門』の原作)の一場面も違和感なく効果的であった。
The last night recipe
iaku
座・高円寺1(東京都)
2020/10/28 (水) ~ 2020/11/01 (日)公演終了
満足度★★★★
この日高円寺駅に総武線しか停まらぬとは知らず、走ったが冒頭3分見逃した。帰宅後台本で確認。演出は分からないが恐らく、この作家(+演出)は気の利いた会話としてこの始まりの夫婦の会話を提示したろうと推理。そうなると私の目が追ったこの芝居の相貌が変わって来るような来ないような。。私の観劇後の感想は、「足を滑らすとどちらかへ滑落する切り立った尾根を行く」劇をよく書いたな...というもの。
突如、彼女(ヨリ)は死ぬ。それを告げられた母、母からそれ聴いた父の戸惑い。暗転し、ドラマは時を遡る。暗転を挟んで時系列的には順不同の場面が淡々と連なり、徐々に出来事の展開順序が分ってくる。そして謎の幾つかが黒い斑点のように点在する一枚の絵となって行く。そしてその黒の部分に何が隠れているかによって全貌が変わって見えてくる。最後にそれは「見える」のか・・そこが微妙である。冒頭3分を見返したのはそのためだ。この芝居をミステリーとして観たのである。
この物語のミステリーたるポイントは、急死したヨリの死因で、もっと狭めれば年下の夫である男が殺したのではないか、という疑念だ。そうではないという判断材料も積み上がるかに見えるが、男は最後に嘘をつく。彼女が死んだ夜、3月3日の彼女の(夕飯紹介の)ブログには彼が死ぬほど嫌いな(だが彼には最も縁の深い)ラーメンを食べた、とアップされた(3月3日がそれを食した日付なのか単にアップした日付で・・というあたりが不明(ここが不明である事は話をややこしくするので作者は単に注意がここに及ばなかっただけ、との推測もできるのだが)。
だがラーメンには曰くがあり、彼の祖父が原因不明の死を遂げた、という男の家族史の一つの証言がそこだけあって、その死に関わったと仮にすれば男かその父かしかおらず、疑惑は残る。そしてラーメン屋を続け、息子を仕込みや皿洗いの手元で使い、毎日ラーメンしか食わせていない、という父親の虐待疑惑がこの珍事のそもそもの始まりなのだが、「人は殺さない」と観客にも分かる父を消去法で除けば孫である男が浮かび上がる。
死んだ女はルポライターを目指す雑誌記事や雑文を書くライターだった。新ワクチンの治験レポートを書く依頼を受け、ワクチンを打ったその夜に突然死をする。ここから、彼女と懇意であった先輩ライターが薬害の線を追うことを決意するが、これを告げた相手、ヨリの元カレでコンサルティング会社の社長は薬害の可能性を否定する。私にはこれは彼が新薬を扱う会社が顧客である事からの利害から言っているとは見えず(この記者とはきちんと議論をする相手として描かれているので)、薬害追及がそう甘くない現実を告げていると見た。が、先輩記者はかつてヨリが訪れた郊外のラーメン屋を訪れ、取材を始める。
この店のマスターが店を手伝う息子に虐待を加えていると確信したヨリが、父のいない時間を狙って取材を続ける中、あるやり取りがきっかけで、何とヨリは男に結婚を申し出るのである。もう一つの謎があるとすれば、このヨリの決断、又は彼女の人格についてだろう。
私はヨリがある種の発達障害を想定して描かれていると感じたが、この「取材対象と住む方が早い」「早く本を出したい」と利己的な言葉を平然と相手に投げるヨリと、男との内的なコミュニケーション、そして男の内部で起きていた感情、考えに暗い影が落ちている、そんな風景を見るのである。
ヨリが取材対象に投げる質問、求める答えが返ってこない苛立ちを相手にぶつける取材のやり方・・彼女が尊敬する先輩記者(若いころカンボジアに滞在してルポを書き話題になった)を形だけ模倣する姿が、その先輩記者が彼女と同じくラーメン屋を訪れた時の取材姿勢と比べ、いかに稚拙だったかが痛恨に浮き彫りとなる。
そんな「痛い」彼女は(文章はうまいがルポとなると)ある種の人間性、普通の感情や感覚をもっているかが問われるのだが、彼女は到底その「普通」に辿り着く気配がない。。と見える。だが、終盤で現れる夫との会話の場面では、彼女が自分なりに壁にぶつかり、その結果考えた結論を夫に告げ、「ゆっくりやってこうと思うてる」、と言う。男の方は「折り入っての話」と聞いて自分が離婚を言い渡されるのでは、と恐れたがそうではなかったと安堵する。これが式も挙げずに行った結婚一周年の会話で、その1か月後に彼女は死ぬ。
ところで最後の夜のレシピが、実は「チラシずしでした。3月3日だったんで」と、男は先輩記者に告げる。作劇上は、先輩記者が男に対して抱いている何等かの疑いを晴らす意味を持ったが、芝居も大詰めの場面で、ブログを読む時に登場する「声」だけのヨリは3月3日、ラーメンを食べた。やっと彼が作ってくれた・・と綴られた文を読む。やはり、最後に食べたのはラーメンだった・・というのが殺人への疑惑を抱いていた観客にとってはその仄めかしになるのである。
それでも男は、この「何を考えとんのか父親の俺にもさっぱり分からん」と父(役の緒方晋)に言わしめる男が、彼女との生活を「よき日々」として思い出すように、独白する。「初めてブログを見たら、びっくりした。あったんや、と思った。」「何が?」 「確かにここには生活があったんやて。毎日365日、食べて、食べて、暮らしてたんや・・(みたいな台詞)」。
彼女は人を「利用」し、それを指摘されれば不機嫌になり、単純な技術的なアドバイスさえも、他人の忠告は聞かない、そういう人物である。だがそれでも「精一杯生きてる」と、見る眼差しを、彼女が死んだ今、男はもっている。だが「現在形」であった当時、男は別の感情にも支配されなかっただろうか。。
人にはさまざまな側面があり、様々に欠陥を持つ。だが人は人を欲し、利己的な理由であれ必要とし、否応でも繋がらざるを得ない。ヨリは元より限界を抱え、男はそのヨリに対する自分のあり方に限界を覚えた。そして今男は死せる「彼だけの彼女」と繋がり、50年後には誰も思い出さなくなる対象へ、特別な思いを寄せる一人である。その確信を彼は語っているようにも見える。ヨリ以上に男の人格もブラックボックス。いろんな想像を掻き立てる。
もう一つには、台詞では一言も触れられないお金の事。ブログの中身がますます貧相になる、とのブログ評価はあるが。男を自分が食わせて行くと約束し、周囲にも宣言した彼女の食生活は収入のために細り、その結果ワクチン治験にまで手を出す事になった・・。この事に考えが及びそうにもなるが、彼女の突拍子の無い言動は、この感傷を吹き飛ばす。
シャンドレ
小松台東
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/11/04 (水) ~ 2020/11/15 (日)公演終了
満足度★★★★
小松台東らしい痛い人間模様を摘出する解剖劇が、こまばアゴラという劇場で理想的に実現していた。今の時世、巷の泥臭い人間関係や醜悪さを見るよりキレイなものを見たい・笑いたいと、乾いた喉が水を欲するように「疲れ」に侵されている。ゆえに小松台東の芝居を観るという時間が実は不安でもあったが、杞憂であった。宮崎弁をフィルターに、笑いをまぶして酷薄な場面と台詞を浴びる時間は心地よかった。またアゴラ劇場という小サイズで色気の無い劇場は小松台東に「合う」のかも一抹の懸念があったがこれも杞憂、大胆な抽象美術が美的に、ドラマの色調的に、また機能的にも良い仕事をしていた。登場人物4名、芝居はほぼ2名時たま3名の場面で構成、どちらかと言えばじっくり進む会話の言葉一つ重ねるごとに独特な人間味が滲み出るのが、醍醐味。
農園ぱらだいす
劇団匂組
駅前劇場(東京都)
2020/10/14 (水) ~ 2020/10/18 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年知ったばかりの匂組の2作目は、配信で見た。
前作は大逆事件で処刑される事となる女性を扱ったドラマであったが、今回は現代劇。女性目線のより濃い出戻り女性の集うある関東圏の農村でのお話。「アマゾネス」と自らを喩える台詞があり、傷を持つ者同士の健気な連帯の世界観もみえるが、その彼女らも若いイケメンの芸大建築学者が「都市近郊家屋の研究」と称して物件巡りに訪れるや一様に目の色を変えるという(女性目線的には)「自虐」表現もあり。
台詞が危うく感じたのは台本の上りが遅かったのか、千秋楽に映像配信で固くなったか。確かに説明的なくだりの多い台本ではあったが、瑕疵を拭って余る清々しい劇であった。
人類史
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2020/10/23 (金) ~ 2020/11/03 (火)公演終了
満足度★★★★
KAATホールで観る3度目の芝居。SPAC「マハーバーラタ」、地点「光のない。」(いずれも2014年秋)の変則、異形のステージに比してオーソドックスな形で、しかも前方席のためホールの奥行を感じる事なく「大スタジオより少し広い」空間で芝居が進む感じ。ただしホールの規模を感じさせるのが、バトンに吊られた(美術:堀尾幸男による)巨大なオブジェが浮かぶ時。
広い紗幕に人類史の年代が映され、風変りな芝居は始まる。人類の歴史を谷賢一はこう捉えたのか、と思う。そこに「必然」があったが「未来」はどうか。希望はあるのか。そもそも希望とは何に対するそれであるのか・・。扱うテーマは壮大だが舞台は当然ながら「抄訳人類史」である。不思議な感覚を伴う舞台であったが咀嚼しきれていない。後半は人類のある分岐点がピックアップされその時代のドラマが展開する。舞台作りの端々に試みの跡があり、私としては「人類史」の本質に迫る試みとするならば再演を重ねバージョンを変えて行く事により命を得ていくのではないか、と感じる。
(詳細後日)