5S~5つの小作品~
ENBUゼミナール
「劇」小劇場(東京都)
2021/02/26 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★
配信で鑑賞。横山短編戯曲がMONO公演に提供したのや以前劇場で売っていた短編集のも含め5編。役者の誕生に立ち会う緊張感と共に横山戯曲を味わった。配信のおかげで「手ごろに」味わえるのはラッキー。
ドレッサー【2月26日(金)は公演中止/兵庫公演中止】
加藤健一事務所
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/02/26 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★
芸劇プレイハウスとは言え僅か3日の公演が1日減り、さらに時短に対応できなかったとかで2ステージのみの公演となる。しかも間引き客席。旅一座の座長の狼狽と最早一枚岩でない一座の苦悩が、現実の演劇界にシンクロする。カーテンコールに並んだ姿は役人物とは違う人格ながら等身大にも見え、上演をやり切った事に祝福を送る拍手が鳴り響く会場に同期して、痛くなる程手を叩いた。
台詞に込められた洞察の含蓄、演劇人の盛衰のリアルな残酷さを通して人生の儚さと尊さを滲ませる。
ジレンマジレンマ
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/03/04 (木) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
初めて満足度5を付けた(確か..と思う)。原発事故後の福島の三つの「真相追求」の場で構成され、今や殆ど語られる事のないこの公共的な(であるべき)問題に触れられている。本作は現実のほんの断片だが、背後に横たわる福島のリアルへの推察へと導く契機となるのに十分な言及があった(これしきで言い尽くせたとは到底思えないがそれでも)。
2ステージ目だが白チームは初日(と書いたが1ステージ目だった。両チーム共通の役者も初日)。多分その事もあり最前列で感知する俳優の熱は届きすぎる程の量であったが暑苦しさがなく、これまで観ていたこの劇団の「作為と自然さ」の塩梅とはやや違った塩梅を感じたのも新鮮であった。(うまく説明できないが..芝居にとってナイスな事である)
断片/ペール・ギュント
劇場創造アカデミー
座・高円寺1(東京都)
2021/02/21 (日) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
満足度★★★★
演劇人育成プログラム「劇場創造アカデミー」の修了公演というと随分前、『大いなる平和』三部作(の第3部)を観て以来のことで、二作目。アカデミーの中身も内情も全く知らないので、演目に惹かれて観るには観るが、新たな門出をする俳優たちの晴れ姿にも幾分惹かれている。もっとも「劇場創造・・」なる存在の正体もよく判らない。パンフに紹介された講師陣は所謂「演劇」での第一線の面々多数で、けっこう厚い(新国立劇場研修所には及ばないが)。座・高円寺の態様もそうだが「劇場創造」という名称からして一捻りだ。座・高円寺の指定管理者がNPO法人「劇場創造ネットワーク」と言い、ここの初代理事長、及び劇場の館長を斎藤憐がやった(この劇作家は経営手腕も秀でていたらしい)。斎藤憐亡き今は館長に広告・コンサル畑の人、NPO法人代表はマキノノゾミ。「芸術監督」の方は当初より佐藤信で、館長が変ってから氏の方が劇場の顔的存在になっている。(斎藤憐もメンバーだった)出身である所の劇団黒テントてぇのがテントや独自な地方オルグで「劇場を作る」存在であったというので、演劇=思想の実践、ようは晦渋な印象である(私が観た佐藤信作品:近年の黒テント「絶対飛行機」「亡国のダンサー」、演出舞台は座高円寺プログラムで幾つか)。
という事を踏まえつつ、また一応「俳優養成所」(的な場)の成果発表である事も踏まえつつ作品を鑑賞。演出は独特でも内容は『ペール・ギュント』であった。『断片/・・』等と命名し直さなくても『ペール・ギュント』で良いじゃん。と。(「断片」化する主体、つまり研修生の個的な何かが反映されているだろうと勝手に予想したのだが割と普通(物語叙述)であった。)そもそもこの作品がペールギュントという超変わった人の「生涯」ではあっても各エピソードは断片と言えそうであるし。
まあそれはともかく・・舞台を観ながら思いを強くしたのは、コロナ禍という現状では、舞台上のどんな営為も現実との対比が意識されてしまう事である。優れた舞台と思える舞台には実世界との接触点がある。しかしコロナ禍下においては演劇をやってる事自体が「現状へのアゲンストな接触」を含む。
「ペールギュント」という一人の人間の人生(濃密で波乱万丈なそれとして描写された)を俯瞰する物語には、人間がどんな人生もその人独自の、交換不能(従って価値換算不能)なものであるメッセージ、究極人の運命は人自身で引き受けるしかないものであるメッセージがそこはかと漂う。「自由」という語に集約されるその「人生」のありようが、現在の息苦しさとの対照として意識された。
舞台の方は数少ない俳優(4人の研修生の内俳優3人と、卒業生が加わって10名程で役をこなし、なおかつペールギュントは場面ごとに俳優が入れ替わる。若い俳優ら(年齢幅はややある模様)は動きの負荷の中で、自然らしい躍動をもって物語を支えていた。
帰還不能点【3/13・14@AI・HALL】
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/02/19 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
個人的に注目な俳優ぞろい、しかも紅一点に黒沢あすか(初お目見え)という思わせぶりな布陣に惹かれて観劇。無論今作のテーマも注目なのであるが、戦争を巡る議論の本丸とも言える「開戦に至る経緯」、古川氏なら骨太に書いてくれるだろうと、期待しつつも幻滅を覚悟で、よっしゃと足を運んだ。
すこぶる評判が良いので、逆に怪訝に思う。というのも、史実とその問題点に触れながら人間ドラマとしての着地ができた優れた舞台であったから。自分と世間の感覚はずれている、と思っているので「なぜ受け入れられたのか」と考え始めてしまう。
劇チョコは「あの記憶の記録」の2013年以来、だいぶ見落としたと思っていたら、ほぼ全て観ていた。振り返れば「エレジー」を例外としてどれも大きな歴史的事象を題材にした舞台。戦後囚われの身となったナチス親衛隊が罪と向き合う「親愛なるわが総統」、南京大虐殺の実行責任者として処刑された松井石根の罪の認識に迫る「無畏」、いずれも第三者的人物との対話から「罪」の焦点となる部分に迫るという、優れた「内省」の軌跡を描く劇であったが、今回は「総力戦研究所」(劇では開戦前1941年に若手エリートが集められ戦争遂行の実現性が検討されたという)の所員が戦後、亡くなった仲間を悼むために久々に集ったという設定で、それぞれの思いが交わる群像劇となっていた。
酒宴の中で「研究所」時代を回顧し、雑談の中で「問題」に触れて行く手法は、直接の利害関係人のいない日常感覚を観客も共有しながら話題に入って行く効果を持つ。
そうする中で、わずか10年前に開戦か否かを決するプロセスに(結果は同じであったにせよ)「関わった」事実の軽重が、各人各様にあるというあたりが見えてくる。
彼らは亡き仲間の追悼のために集まったのであったが、前半は「研究所」でみた風景の再現に興じ、日中戦争期間の軍と政府の「決定」の是非が話題になる。そして誰一人、開戦が勝利を導くとは考えなかったと言う。だが後半、会場となった料理店を営みホストをする亡き仲間の夫人を通して、生前の故人の事、そして集った者同士の近況、つまり戦後の時間枠へと意識が向かう。
劇の相をガラリと変えるのは、夫人とその「伴侶」となった故人との出会いとその後のエピソードの回想からだ。またどことなく伏線となっていた、故人と辛うじて連絡が取れていたという一人の広島体験の証言も・・。具体的な「死」の場面が、日本の指導者が導いた戦争による犠牲を想起させ、戦後の生の全てを償いのために捧げたらしい故人の姿から、焦点は戦後責任、即ち現在の自分たちの態度にシフトする。彼ら総力戦研究所(そのものが描かれているかは判らないが)の元所員が、政府の政策遂行者に対し何を為し得たのに何を為し得なかったか、歴史のifへの想像力が動員されていく。
現在、日本の過去の侵略的要素を含む事実が「不利」と認識され、現在の日本にとって不利であるゆえにそれを認める事を避けるべきだ、との合意がある。日本が侵略をしていない、とする認識は事実ではなく、虚偽事実が独り歩きしているが、これを選択する人は「日本に不利なことを言いつのって日本の不利を確定し、自らに利を誘導しようとするコスイ策謀だ」とする陰謀論で「敵」を見出して喜ぶ類。敵というものにしがみつきたい層が相当程度存在すること自体この社会の不健全さを表すが、あの戦争で他国民を殺戮した数には及ばないまでも百万単位の自国民の死者を出した事の方を問題にするなら、「学ぶ」べき事はもっとある。
「しっかり考える」という態度を持ちたいものだがこの作品は情熱をもって「あるべきこと」へ向かおうとした戦後間もない日本人の姿を映してもいた。
(歴史的には1980年代までの日本での戦争責任論は為政者の国民に対する責任を言い、他国への侵略行為の責任が議論されるのは後の事になる。)
鮮かな朝
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
青年劇場スタジオ結(YUI) (東京都)
2021/02/10 (水) ~ 2021/02/21 (日)公演終了
満足度★★★★
青年劇場と言えば新作上演が中心という印象だが、ここ数年演出大谷氏を迎えての“日本戯曲発掘”シリーズ(勝手な命名)が上質な舞台を実現している。(正確には不定期の「小劇場企画」が既存戯曲をアトリエで上演するシリーズのよう。)
だが今回は「古典」ではなく劇団レパの再演(1996年初演)、シナリオライター森脇京子の数少ない舞台戯曲の一つという。「時代が近いこと」が逆に時代的な不具合を来すケースがよくあるが、奇しくも作者がパンフで「当時と今とでは、様々な側面で状況が違っている(ので承諾を迷った)」と記している。全くの白紙で開演を待つ。
開演後暫く経ち、従軍慰安婦を扱ったドラマだと判る。「鮮やかな朝」というタイトルの意味に気づいたのは中盤の事(不覚..)。
終始暗めの照明の中に、半ば現実半ばファンタジーな世界が浮かぶ。中央に四隅を上から吊った四角い布が敷かれ、布の上下と、照明変化で場面が変化する。
登場人物は5人の女と1人の男、だが男は女が見る幻影として僅かに登場するのみで、これは女性の物語である。不要な役がなく無駄な場面がなく、最後に皆が愛おしく思える優れた戯曲である。
布の上にしか現れない艶やかな衣裳の娘(アイコ)は亡霊で、彼女と会話を交わす同じ衣裳の娘(ノブコ)は、時代が下るにつれ次第にボロをまとい老女となる。二人には仲間(確かヨシコ)がおり、子を孕んで失踪した。いずれも日本女子の下の名だが、「私たちの国」という台詞で、彼女らが異国人であり、朝鮮から徴集された所謂戦時性奴隷制の犠牲者であると察する。
暗転で二人が消えると、一世代下に当たる女子高生3人が溌剌と登場し、現実の場所としてそこが現われる。中で、向こうに見えるうらぶれた集落にも触れられ、朝鮮人部落か、もしくは「闇売春」をやる場所を仄めかす(そこにノブコが住み、あるいはアイコがそこで死んだ)。3人組の一人・里子が実はヨシコの娘でありその出自を後年知る事となるが、彼女を中心に据えながら、歳月を経て他の二人(孝子・弘美)共々変化を遂げて行く足跡が、最小限の場面と台詞で描出される。この筆捌きにより、1時間余の小品はヘビーな題材に触れたと言える濃密な劇世界を立ち上がらせていた。
第1回 T Crossroad 短編戯曲祭 <2020年の世界>
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2021/02/10 (水) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
満足度★★★★
ユニークな企画であったが観る事ができたのは最終のFのみ。面白い。3編をやって1時間程度だが戯曲の魂を汲んだ演出もよく、他の回も観たかった、と思った。
もっとも1ステージ3800円、2ステージセットでも7000円(6バージョン全てセット18000円)、とても沢山は見られないので選ぶ事になるが観たいと思ったBは時間が合わず、後半のEも見られず「一つは観ておこう」とFを観た。
20近い短編上演と、リーディング上演ともに、多くがコロナ期間に物した戯曲の紹介である模様。私が観たFプログラムの一つは明確にコロナ状況を揶揄した戯曲、一つは昨年の森友文書改竄で自殺した官僚の手記公開に着想を得たらしい戯曲、一つがAI搭載アンドロイドが家政婦として家庭で購入される近未来物。どれも批評性があり力強かった。
僕の庭のLady
文化庁・日本劇団協議会
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/02/17 (水) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
満足度★★★★
映画になったドラマを日本で初舞台化。演出・河田園子の名は時折目にしていたが、今回の文化庁海外研修の成果発表を兼ねる“日本の演劇人を育てるプロジェクト”公演の対象の一人でもあり、2017年留学というから割と若手らしい。
実話に基づくとされる本作は、アラン・ベネットという英国の作家が自分の家の庭に住み着いたホームレスの女性との長年にわたる交流を作品化したものという。作者本人が「作家」として登場し、この出来事を自分の作品のネタにしたい作家魂(下心)に疼いたりするが、ナイーブな書き手の良心を打ち砕くように、とことんマイペースな「客人」は彼を翻弄する。
舞台では作者に当たるアラン役を二人が演じ、開演後しばらく何が起きているのか掴めず戸惑うが、やがて一人が実体を持つ本人、もう一人が彼に異論を挟んだり挑発する想像の人格らしいと(休憩を挟んだ後半に)判った。ミス・シェパードを演じるのが旺なつきというのも休憩後に分かり、コメディ調に収まる女優の挙動の度に客席から反応が起きるのに合点が行く。「迷子」ゆえに瞼が落ち気味であった前半を終えて後半が始まると一気に入り込んだ。
シェパードの頑固さ、押しの強さと、実直そうな作家との対照が見えて来ると、ドラマは自転を始めている。かつては名も売れたピアニストだったという彼女の来歴をアランは信じており、疑いを挟む要素もなく話は進むが、観客的には一応カッコに括られている。だが、呆気なく彼女が去ったラスト、残されたアランは彼女以外の人間から彼女という存在を「知る」。彼女に人間的に対応し、臭いの立ち込める住処(バン)に入り込んでいく「プロ」たち。そして唯一繋がった親族である実弟。彼にとって姉は人生を狂わされる程の存在であったが、ピアノだけは素晴らしかったと言い、意地でもピアノにしがみついていれば良かったんだ・・と呟き去る。
「分を弁えない」ミス・シェパードの存在はこのドラマを社会派にも人情劇にもせず、つまり彼女を社会の犠牲者だとか弱者としての居場所を保証する事をさせず、人生讃歌に終えることを強いる。ただ、このドラマの説得力は(「実話」とある通り)脚色で「盛って」おらず本当にあったと思える事、彼女の姿を通して多くの人生が見えてくる所にある。
機会があれば映画も見てみたい。
草の家
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/02/05 (金) ~ 2021/02/18 (木)公演終了
満足度★★★★
昨年の別役実戯曲の上演、そして2018年TOON戯曲賞を受賞した今作と、非坂手戯曲かつ社会派プロテスト演劇的要素のほぼ無い、(それでも十分見せる)燐光群の舞台が観れた。
岡山県の作者の実家がモデルだという本作は、昭和中期から現代が生存時期になる四兄弟の家族の物語で、今は高齢の母一人が住む実家(開店休業となって久しい計量器販売店)が舞台。舞台奥に並んだ計器類は岡山のその実家から借り受けたものだという。魅力的な作品であったが、こういう作品の魅力は言葉にしづらい。
母と同居していた長男夫婦の夫は鬼籍に入り、妻が重病で入院した今、(母を一人に置けないという理由で?)東京から来た次男夫婦がしばしの逗留をしている様子で、そこに地元で暮らす四男、大阪で暮らす三男、最後には長男の息子とその嫁、孫が訪れる。血族が織りなす歴史が垣間見え、来し方から今に至る必然=リアルが細密画のようである。こういう作品が魅力を放つのはまず都会から見た地方の風土への憧憬があるだろう。そして家族問題の普遍性、絶妙な距離感でのコミュニケーションのあるある感(多兄弟が集う雰囲気を私は親の世代に見ているが今の若者はその体験を持たないかも...)。
この作品に流れているのは「変わり行くもの」への思いだ。変わらないものの方が多いと思わせる「地方」の佇まいが、変化に気付かせ、無常感を催させる。
「地方」というのは象徴的な意味も含む。冒頭、富山の薬売りが登場して面白気なやり取りをして去って行く。「無くなった薬だけを補充しに来る」という、今流行りの「最適化」とは対極のあり方もそうだが、薬とは別に1本3千円のリンゴ酢を3本、「お母さまがお好きとの事で、お嫁さんが買って下さっていた」と売りつけようとする営業の男を最初はいかがわしく見ていた次男が、最後は「よっしゃ」と買う事を決める瞬間、都会暮らしの警戒モードから地方モードへ次男がシフトするのが判る。「一回3本」とは営業の男が盛った話で、実は「たまに一本だけ買う」が真相と後で判るが、男らは騙された気がしていない。
金銭換算で値打ちを測る思考に絡めとられない言動の方を、戯曲はさり気なく登場人物に取らせていて、それが昔風な構え方として目には映る。
不在の二人(長男夫婦)は後半に入って存在感を示す。母と長男(の亡霊)との会話(あるいは生前の会話か?・・時期は不明)によって、最後まで登場しない入院中の妻と彼の夫婦時代を語る(場面は病気の進んだ長男の死去間際での母との会話に見えなくもない)。頭脳明晰で仕事もできる身でありながら田舎に暮らす自分に嫁ぎ、苦労をさせただろう事、しかし自分はなぜか彼女には優しく出来なかった事、それでも彼女はその後半生の唯一の趣味となる短歌と出会い、せめて彼女のために歌集を自費出版した事が置き土産となれば良いと思っている事。。
老母を演じているのが鴨下てんし(男優)だがこの時点で違和感はとうに消え失せている。
夜が明けた朝、白い陽の光が注ぐ中、最後の場面では長男の息子夫婦と、その息子(子役に子供が登場!)が現れるのが鮮烈で、この孫によって(彼にとっての)祖母が詠んだ歌が紹介される。
次世代へとバトンを繋ぐ・・そのために自分らも存在する・・。ありきたりなメッセージさえ新鮮に感じさせるのはこの戯曲世界の「本当」の力であるのに違いない。今という時代を思う。
風吹く街の短篇集 第四章
グッドディスタンス
OFF OFFシアター(東京都)
2021/02/03 (水) ~ 2021/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
二作品を鑑賞(「人という、間」「自画像」)。残り一作は配信期間21日までに観るか否か迷い中。
先に観た「自画像」は、女優松岡洋子の個人史を辿る一人芝居であるが、実は多くを期待せず観たせいか期待以上の出来、というか説得力であった。特別に波乱万丈という訳ではない(女優人生という部分では多少特殊な要素はあるが)一人の現代人の人生が、文体・語りの妙で「本人との適度な距離感」で立ち上がり、愛おしく感じられて来る。生い立ち部分で紹介される時代の風俗に思わずにんまり、同世代ゆえの親近感もあったが、松岡女史が今のタイミングで自分史をこういう場で舞台化するという「生」へのある種の姿勢(達観? 勇気?..何だろう)が相俟って、ユニークな舞台になっていた。(語られた具体名のある演劇ユニットや演劇人の名は、ネットにも出て来ない貴重な証言・・Corichが大小あらゆる公演を網羅しているのはデータ的にも得難いがサービス開始は2000年代半ば(確か)、演劇博物館にも残らない演劇公演・作品は正に「時間の芸術」として人の記憶にのみ残り記録からは消えて行くものである事を思う。)
「人という、間」・・風の短編集第二章で上演の「隣のおっちゃん。と、」と同じ男女二人芝居。女の薩川(張ち切れパンダ)が今回も出演し、男は前回が有薗氏、今回は和田氏。戯曲のテイストが同じなので見ると同じ作演出者であった。
前作と今作いずれも、本来対話する必然性のない男女(知らない間柄ではないが)が「やむなく」向き合わされるシチュエーションで、言葉を交わす内に心の交わりが生まれ、何かを共有するが、結局はそれぞれ別の人生へと戻って行くという展開。前回は隣同士、今回は亡くなった女性の妹と、元夫。さらなる共通点は男の方が強引にわがままに話を進め、薩川演じる(多分実年齢の)女性は距離をとり、何なら反発さえ覚えるが、男のふとした言葉の中にある真情を感じ取り、少しだけ自分を開く。女の言う事を男は大概理解せず、男の事情も女にはよく判らず、結局「理解し合う関係」には到達しないが、それでも男女の交わり(必ずしも性行為を意味しない)がこの世界には生起しているノダ、というメッセージは受け取れる。
このお話は妻の死以来「勃たなくなった」事に悩む男が、デリヘル嬢をやってる元義理の妹に女子高の制服を着て来させる所から始まるが、男は恐らく、新たな人生を始めるため、妻以外の女性へ向かおうとする発想を変え、元義妹と対面する(妻の側に近づく)ことで「男」としての再生を目論んだ、が、暗転後「うまく行かなかった」事が判る。妹はそんな男に心を許して自分の話をするが、男はそこで本当の悩みが「勃たないこと」だと薩川に語る。自分は悲劇の主人公であり憐れみを受ける権利があると義妹に迫るクソな側面を見せて薩川に去られるが、彼が勃たない事実の中に、今も妻の事を引きずっている含意があって救いとなっている。
上記2作を並べて比べるも何だが、味気ない現実に小さなファンタジーを見せる(演劇の王道とも云へる)「人という、間」より、自身を語った「自画像」が充実した内容に思えたのは何故だろうと考える。真実味というものがそれほど枯渇した社会に生きている、その感覚ゆえだろうか。
本当の自分、を自ら定めるのは難しい。私など一生かかってもその境地には辿り着けそうにない。自ら選択し、決定し、行動した者が、自らの軌跡を(自分でない者を見るように)描写できるのだろう。ただし、恥部を持たずに送れた(それを描写せずに済む)人生とは、「自画像」のそれは異なり、ある意味で赤裸々な人生の開陳がある。
終着点の知れない人生の現地点で紡がれる言葉は、(少々大袈裟に言えば)存在を賭してこの世に真実味を投じ入れたに等しく、その分だけ世の空気は清涼になったに違いないのであり、濁った空気がこの社会の上層に垂れこめている事との対照など、語るも愚であるが一応言葉にしておく。
グスコーブドリの伝記
しんゆりシアター
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)
2021/02/06 (土) ~ 2021/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
川崎北部を拠点に活動する劇団わが町はふじたあさや氏の主導で年一回公演を行なう。公の事業としては(雇用関係はないが)一応劇団員(市民)を持つ珍しい形態で息長くやっている劇団だ。
観るのは今回3度目位か。元々少ないステージ数を減らし、諦めていたが配信があったお陰で観る事ができた。
市民参加という要素は出演者の力量問題が生じるが、演者のエネルギーを舞台上に昇華できる舞台と、役者としての力量が要求される舞台とがあるとすれば、今回は後者であった感。が、宮沢賢治の紹介に当たるリーディングと演目の芝居をうまく織り込んで、グスコーの物語が味わえる舞台になっていた(脇役に2名客演を入れて「補強」はしていたが)。
演目はふじたあさや氏がかつて作った音楽劇の原曲を用い、新たな歌を入れて舞台化したもののようだ。こんにゃく座のような台詞に沿った旋律の響きで、古い方の作曲者・岡田和夫は中々著名な方のよう。
堕ち潮
TRASHMASTERS
座・高円寺1(東京都)
2021/02/04 (木) ~ 2021/02/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
二部構成3時間超えの長尺TRASHを久々に堪能。作者の地元・大分の「保守」一家のバブル期、その約二十年後を描く。尻がムズ痒くなる中津留節(日常会話が単一テーマ一色に染まり感情全開)も相変わらずだが、強靭なドラマ構築はそれらを凌駕した。
全編を通した大分方言の土着感が、以前見た初期作品「奇行遊戯」(の前半)もそうであったが舞台のリアリティを底支えしている(方言を操る役者が「嘘のなさ」を担保している)。役者の生硬な演技態にも関わらず「あるある感」があってついほくそ笑むのは、「見てきた者」しか描けないディテイルにリアリティが流れているから。
地方の有力者(と言えるだろう)の家屋が座高円寺1のステージ一杯に設えられ、そこに集う親類縁者一同が織りなす風景が、その関係(家系図)を正確に掴めずとも「ニッポンの家族」の図としてリアルに浮かび上がって来る案配な訳である。
韓国現代戯曲ドラマリーディングX
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2021/01/27 (水) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
「椅子は悪くない」(2002年/ソン・ウッキョン作/上野紀子訳/鄭義信演出)、「加害者研究 -付録:謝罪文作成ガイド」(2017年/ク・ジャヘ作/洪明花訳/西尾香織演出)の2演目を鑑賞。
「椅子」は早々と売切れだったが鄭演出だからだろうか。雑貨屋に置かれた木製の椅子を一目見て釘づけになった男の話で、売り物ではなかったこの椅子を手に入れようとする男と、雑貨屋の店主、売りたがらない店主の息子(椅子を作った)、男の財布を握る妻が登場人物。実は舞台は稽古場でこの芝居のオチを探してスクラップ&ビルトを繰り返すというのが劇の概要で、最後に相応しいラストを見出す。物の価値とは何か、についての考察が意外に深い。演出、役者もこなれてうまくまとまっていた。
「加害者・・」は戯曲を見ても中々に難解で(ヴィトゲンシュタインの哲学書のような?)、演出を西尾女史に依頼したのが分かる。加害性についての考察ながら過激な内容を含み現代的。だが、時系列で書かれない散文なテキストの「割り振り」に苦慮した模様。
その後アフタートーク、シンポジウムと進み、シンポジウムは日韓演劇交流を俯瞰しつつ両国の現状報告が興味深かった。
最も見たかった「激情万里」(1991年/キム・ミョンゴン作/石川樹里訳/南慎介演出)を逃したのは残念。1990年前後の韓国映画は金明坤と安聖基(アンソンギ)が両頭という感じで、「西便制」等忘れようもないが(氏が脚本も担当していた)、この頃から既に舞台の戯曲を幾つも書いて上演していた等全く知らなかった。
この事業は当初の約束通り日韓交互開催(日本作品→韓国/韓国作品→日本)10回で20年、来年の韓国開催で1クールを終えるとの事だが、今後も何らかの形で継続される事を願う。シンポジウムが興味深かったのでまた後日報告したい。
墓場なき死者
オフィスコットーネ
駅前劇場(東京都)
2021/01/31 (日) ~ 2021/02/11 (木)公演終了
満足度★★★★★
珍しいサルトルのしかもあまり知られていない(自分も不知であった)戯曲と、俳優陣につられて観劇。今の日本のある種の暗闇に光を注ぐ作品をよく見つけた。ピッタリだ、と思った。
物理的な困難にとどまらず不穏な音を響かせてるコロナの浸食と政府の愚策・無策は、社会と人とを無音で傷つけてくる。為政者自身が傷を負う事から逃れ、民同士を傷つけ合わせている。
暗鬱な状況を明るいフィクションで慰撫する事も演劇には出来るだろう。が、人間の精神が蝕まれていくこの言いようのない暗鬱には、闇をさらに深掘りする事でしか慰されない部分があるとも感じる。
もっとも、読み取りに不備があった。フランス人同士の攻防とは気づかず、僻地で忠誠心の薄れた敗北目前のドイツ兵と見ていた(無言の見張り兵がレジスタンスの「説得の時間」部屋に残ったのも、仏語が解らないからかと..)。後に合点の行った箇所が多々あるが、仏人民兵とレジスタンスつまり同国人の闘争だと早く察知していたら、芝居の緊迫感は別物に感じたかも・・(哲学的問いの試験場として観た可能性も)とも想像する。
だがどちらにせよ人間が一秒一秒と刻む時間に随伴して離れることのない行動とその根拠を与えるための思考が、本質的には血を流す闘いそのものに等しいことをこの戯曲の台詞は思わせる。自己省察と自他の心理への鋭利な斬り込みが、人間の思想と行動ひいては存在の空疎さに肉薄して痛ましいが、何故かそこに自分は救いを見る。全てを失ったと気付いた瞬間にしか訪れない、ある何か(希望?)が、人間に残された真の救い・・といったような。。
ザ・空気 ver. 3
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/01/08 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★★
「ザ・空気」第一弾の風景が戻った。放送局内のある会議室、ロビー等に使い回される空間はアルミと白いボードの清潔感ある建築部材で簡素に設えられ、絵のキャンバスのように舞台上の芝居をクリアに縁どって見せる。その中で実力ある役者がドラマ世界を立ち上げる。
喜劇の語りで進む芝居。報道現場の通念を一応尊重しつつ軽くいなしつつの日常を象っていくタッチが喜劇調なだけに飲み込みやすく、言うまでもない永井氏の喜劇の作劇の巧さで事態の推移がはっきり見える。そして事態は討論番組出演者の発熱によるコロナ疑惑をもとに「降板かリモート参加か」の条件争い、そこからさらに進んで放送コードへの接近と目が離せない。面白いことこの上ないが、それ以上に「よう言うてくれたわい」と心で手を合わせる台詞。
思えば彼らは皆自分を代弁する者。英雄気取りをしたがり、保身に走りたがり、能天気にふるまって失敗し後始末も愚か、無能の自分に嫌気がさし、出世のチャンスには心踊るが心暗くもなり、魂を売った記憶は埋もれて「蓋をする」技だけは上達するが「本当」らしく生きてるつもりの日常は根から蝕まれている・・。
だが人は敗北するが終わりではないと、第一作でも(別の言葉で)語られたメッセージが残った。人間的に考え抜かなければ書けない戯曲である。
眠れない夜なんてない
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2021/01/15 (金) ~ 2021/02/01 (月)公演終了
満足度★★★★
たまたま時を昭和天皇崩御後に設定し直して改稿中、コロナとなり「自粛」というキーワードが重なったとの事。だが当初の設定のまま「これはあの頃書かれた戯曲」として上演するのも有りだった気がする。時代設定変更が徹底できてないのか、どことは指定できないがどこか部分的にそぐわなさがあった。(そのため時代設定そのものの意味があまり感じられない。)
1989年が日本での(まあ海外でもだが)エポックメイキングな年だったとしても、風景がピタッと来ないのは作家の「この時代を描きたい」という欲求・執念が足らないのでは、と思ったり。
本国を離れたマレーシアの日本人向け別荘では、天皇云々の話題がどの程度「身につまされる」ものだろうか。「本土事情などどこ吹く風」が標準である方が、戦後日本人的であるし、「どこ吹く風」であるならもっとそちらに振り切って帰属国への無責任ぶりを暴走させた方が日本人(論)的ではなかろうか・・と思う所も。。
先進国と発展途上国という当時の国同士の関係が「ソウル市民」に重なるようにも思うが、平田氏がありきたりを嫌うのか、成金根性を具現したような人物はいなかった。
だが代わりにナイーブでむしろ今の日本人の(慎ましさというより卑下した)物腰に傾いている感があったのは「今の日本人」が演じているからか、それとも私が今の気分を投影したものか。
そんな具合で、平田氏の宣言通り「伝えたいもの」は何も感じなかったが、「表現したいもの」は理解でき(人物の人物らしさ、滑稽さ、引いては人間の滑稽さ)、楽しめた。
アフタートークでは平田氏が質問に答えて「歌を入れるのは(それが無いと)終われないから」「そろそろかな、という感じで入れる」という身もふたもない回答。
へえ・・・「終われない」と感じる感覚はあるんだ、と言質を取った気分。
「劇的」なんぞ要らぬとうそぶく平田氏もまんざら冷酷な心の持ち主でもなく、実は最後くらいは幾許かでも「劇的」にしたいと願う好々爺であったのだなあ(はっきり皮肉を言ってるがまあご愛敬)。
いや、「歌で劇的を演出したい訳ではなく、台詞を止める機能を活用しているだけ」と天界にあると言う演劇法廷できっと平田氏は弁解してみせるだろうがもう逃さんぞ(まあご愛敬)。
少女都市からの呼び声
劇団唐組
駅前劇場(東京都)
2021/01/20 (水) ~ 2021/01/24 (日)公演終了
満足度★★★★
公演を知ったのは公演中日の事であったが、唐組初?の劇場公演(駅前)にして僅か5日間という「らしくない」公演はやはり見ておきたく、千秋楽当日キャンセル待ちで滑り込んだ。
「少女都市」は20年以上前の新宿梁山泊公演と、数年前唐ゼミ又は梁山泊で観ていたが、今回はコロナ対応で圧縮したのか「あれ?こんな短かったっけ?」休憩無し1時間半弱で終わった。
「普通に見れた」芝居であったが、恐らく多くの観客の期待する解放感(屋台崩しがその頂点)「町に接している」緊張感が無い中での上演という「チャレンジ」は、コロナ禍下のイレギュラーなのか今後への一歩なのか・・(当然私は前者であって欲しいが)。
評としては、劇場向け芝居の「細やかさ」が、野外の醍醐味(雑駁さ)を埋め合わせたかは微妙である(観劇料をやや安に設定した所に劇団の自意識がしのばれる)。が、劇団の健在を確認できたのは嬉しい。
他には、出演数も少なめ。コロス的俳優4,5名は見たところ新顔であった。
今回は特徴ある風貌の大鶴美仁音が主役を務めた。天然ぽさが武器だが細やかな陰影を持つ表現者への脱皮のこれが一歩となるだろうか。
風の祝祭
アートグループ青涯
アートスペース溝の口(神奈川県)
2020/12/12 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
満足度★★★★
(書き直した)
前回の青涯旗揚げ公演に書いた投稿をみると、探り探り予断を交えて文字数が膨らんでるが舞台の方は至ってシンプル、むしろ淡泊。今回についても同じ印象の範疇で、以下は「青涯」評改訂という趣。
能の動き、面の装着、独白・・前回と同じ美術・脇谷紘氏の世界観。劇はこの美術の世界観を軸に据え、どう肉付けし、構築するかであるな、と、自分の目は見ようとしている。
前回の評では「演劇=言葉」の領域に踏み込もうというベクトルが見えた、と書いたが、発声(とくに一方の出演者の声が終始そうなのだが)への印象だったらしい。
能の世界観への憧憬のようなものが自分にはあり、そこからはみ出すものを「挑戦」と理解したが、そのはみ出すもの=違和感の主は、やはり発声にあるように今回も感じた訳である。
ただし発する言葉は創作されたものであり、能のドラマ性とは質感も違う訳なのだけれど、あるいはそのテキストに対しても、その「声」はちょっと選択ミスではないかと感じたかも知れない。
能も面をつけて台詞を言うが、能の台詞の声は「歌」に等しく、ストレートプレイや詩劇の発語にあるリアルな感情表現はその声にはない。「演劇=言葉」に寄っている、という印象は、「面を付けているにも関わらず」の印象なのだが、もっと言うとリアルな俳優の身体を「演じられる者(役)」のために供する通常の演劇と、面を付ける、あるいは人形を使う劇との違いは、(そのものではないという意味で)フィクションを形作る演劇においては、後者がより「偽物」を表明している事で、逆説的に、観る者の油断を縫うようにして「役」の心という劇薬を観客に飲ませ得る形式となる、という点にあるように思う。つまり面を付けるという通過儀礼によって、そこには世界の見た目ではない本質を暴露する資格を得た者として立ち上がる。その者の発する「声」はリアルな人間の声ではなく異形(奇妙、不思議とでも)の声でなくてはならないのではないか、と考える。
(人形劇で言えば、手操りのひとみ座はアニメ声が活用され、アニメ的世界=フィクション=現実ではあり得ない世界が立ち上がる。そこで「人間のドラマ」が展開する。)
SPAC(元クナウカ)の演者・話者分離の手法は、表現の原点、本質と思える所があり、伝統回帰というより、伝統芸能の中にたまたまそれがあった。「憑依」の表現形態は、話者が演者を操るという関係性において雄弁さを持つ。
能書きが長くなったが、いずれにしても阿彌の上演をちゃんと見ていない自分には、青涯の二人が阿彌を「継承」しようというのか、「新たな展開」を試みようとするものか、判別できないのはもどかしい。
能は死者を弔う劇なので「現在」という時間はほぼ止まっている。その時間が「現在」において進み始めることなく時間的「静」の世界を維持する。だがある種の「声」はそこから時間が動き出そうとする気配を作る。いわば肉感的になってしまう。
要は語られるテキストが、強い発声を演者に要求し、劇的時間を舞台上に作ろうとさせるのだろう。テキストの全てを覚えていないが、時間経過とともに物語が進む要素と、世界を俯瞰して描写する要素とが混在したもののようであった。
空間的「静」の観点では、「声を張って聴かせる」瞬間は全パフォーマンス中の数パーセントで良いと個人的には思う。
先を聞きたいと思わせるテキストを如何に書くか、という単純にそういう問題なのかも知れない。言葉そのものに語らせる質のパフォーマンスを目指すのが、このユニットの方向性であるとすれば、もしそうなのだとすれば、様々なテキストを渉猟し、言葉の紡ぎ手たちの胸を借りて舞台世界を主体的に構築するという事もあって良いのではないか。
(二人が目指そうとするものと全く真逆で興醒めを催させるかも知れぬが、素朴な感想だ。)
いずれにしても様々な試みを期待したい。・・という事でこたびの2×2公演を体験しての感想を少し。
小さなスペース故、感染症対策として考えられた2名という観客数であるのか、どうかは判らない。「観る」という行為に伴う覚悟が求められる、というのはある。たとえば感染防止を考慮しても椅子3脚は置いても文句は言われないのではないかと思う。そうした場合3対2で上演側が一人でも少なければ(普通そうであるように)観客優位である。だがスタッフもおらず二人だけのパフォーマンスを二人で観ると、これは何が出るか判らないお化け屋敷に入ると同じで客側が弱い。客一人だけの回では又どぎまぎ感ひとしおだろう。
そして照明は演者が持つライトのみ、これが消えると暗い。そして演者との距離、衣擦れの音も聞こえ、暗転中の移動、準備の音なども全て含めて、刺激的な時間であったことは確かであり、2名以下の人間のために演じられる1時間弱のパフォーマンスは厳粛に進められる。このあり方に、何等かの思想が込められているのかは判らないが、過去味わった狭小空間での演劇の中でも、演者と観客が殆ど交錯気味に接近しているものはなく、奇妙な感触だが初めて故にうまく捉えられない。
演劇を観る行為そのものの中に、今蔓延する「非接触」を是とする(接触を悪とする)空気に背反する要素がある。それが濃いものと薄いもの、あるいは「空気への恭順さ」をアピールする場所に迷いこんで息苦しさの方を味わう事も少なくないが、多くの演劇に関わる人たちがその演劇人本来の「目指し方」を貫く姿には、暑いまなざしを向けたくなる。青涯にも敬意を表する。
正義の人びと
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
カミュ作の知らなかった戯曲を味わう。帝政ロシア時代の革命主義者らの話だが、ある独特さを感じた。戯曲は成立していたが、自然行き着くと思っていた方へは流れない。そう感じた自分はどういう「現代」に生きているのか、を思わず考えた。
舞台としては俳優座の「新劇」演技を目の当たりにする(多々引っ掛かりがある)。土岐研一のダイナミックな装置が劇的感興を高めるも、まだ俳優はそこに生き切れてない感じ。戯曲紹介としては十分であるし勘所は押さえていたと言えるのだろうと思う。
戯曲についてはもう少し温めて後日。
東京原子核クラブ
アイオーン / ぴあ / オフィス・マキノ
本多劇場(東京都)
2021/01/10 (日) ~ 2021/01/17 (日)公演終了
満足度★★★★
配信で視聴。以前マキノノゾミ作品を知りたく古書店にあった戯曲(ハヤカワ演劇文庫)から想像した舞台風景とは随分違った。喜劇調(俳優の力量が左右する)で成立する作品との印象をもった。プロデュース公演だが座組は良く、既知だった平体まひろが奮闘、この役どころのピュアさがドラマを締めていた。(後でみると著名俳優陣が結構出演。)
歴史人物を取り上げた劇の一つであるが、物理学とは閃きの学問であること(芸術に通じる)、それを手にするのはごく限られた人間であること、国策、殊に戦争と無縁でないこと、しかし科学の進歩は人間の営為であること・・庶民が住まう下宿の人間模様の中に「物理学」という題材を置いた構図が良い。大学野球に情熱を燃やす若者、体制にまつろわぬ演劇人、ピアノ弾き等々のエピソードが群像劇に仕立てており、その風景の中に忍び入る戦争の描写も過不足なくである。
ただ「科学」というテーマが、恐らく原爆を視界に入れた形で語られる劇としては、語り尽くせない感は残る。朝永振一郎(をモデルにした主人公)には原子核の世界が実世界で実証された原爆投下に「興奮を覚えた」との台詞を作者は(同僚にも)言わせている。だが、現実の悲劇とは裏腹な告白が、「科学の罪悪」を意識しつつ為されたとしても、バランスがとり切れない。重い告白になるべき所、これは役者にとっては難しかった。