tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ウィルを待ちながら~インターナショナル・ヴァージョン

ウィルを待ちながら~インターナショナル・ヴァージョン

Kawai Project

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/07/02 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い。こういう出し物はありそうで無かった(というか観なかった)。演じる役者が沙翁と深い縁であるのも要素になっている。全編に流れる「生の終わり」の匂いと併せ、作者の演劇へのオマージュと受け止めた。「ゴドー」的な場面が確か三度訪れるが、何者かを待つともなしに待つ姿とは、究極「死」を待つ姿、言わば人間そのもののありようである、という解釈が窺え、全編においては僅かな挿入シーンに過ぎないが、これをベースに、シェイクスピアの「死」の場面と台詞などのコンテンツが披露される。何度もリフレインされる中心場面は、めしいとなったリア王が召使(実は息子)を案内役に自死を遂げるべく岸壁へ行き「一度死んだ」と思った王がもう一度生を手にする(と解釈する)場面。死地からの劇的な生還が本旨のはずだが、この舞台を通して見ると「人生の総仕上げ」、死の予行練習に思える。誰のか・・シェイクスピアか、リアか、俳優二名か、それとも作者か・・。
俳優両名とも「年輩」であるが、一方の「たかさん」はシェイクスピアカンパニーの元主要俳優で「老境にあって昔とった杵柄をやる」趣向が相応しい、死者役。もう一名の「はるさん」がたかさんを慕い、慮る(車いすを押す=リアと召使のように)関係。俳優自身と役がうまい塩梅で混在し、最後は高らかに演劇よ永遠なれを謳う。
数年前、死色の濃い「ゴドー」を演出した作者が自ら書いた舞台であるが、殆どが「引用」にも関わらず平板にならないのは、戯曲に知悉した作者ならではと諒解。「想像の世界」大なり「現実」、故に舞台の方が現実より大事、との明快な理屈は因数分解したシンプルな数式の如くで個人的にはこれが頂きである。

母と暮せば

母と暮せば

こまつ座

紀伊國屋ホール(東京都)

2021/07/02 (金) ~ 2021/07/14 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

念願叶ったり。それでも途中寝てしまった。
畑澤聖悟の台詞、松下洸平の溢れ出るかの演技、富田靖子の佇まいは殆ど完璧と言える世界観で、寝落ちした部分を差し引いても満点を献上。

解体青茶婆【7月8日19:00公演中止】

解体青茶婆【7月8日19:00公演中止】

劇団扉座

座・高円寺1(東京都)

2021/06/30 (水) ~ 2021/07/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

かなり久々の扉座である。コロナを経て以前と何か変わったような・・という気配が見えるとつい覗いてしまう。「解体青茶婆」なんだこの題名は・・医学にまつわる芝居らしい・・成る程コロナ騒ぎから何かを嗅ぎ取ったかエンタメ寄りな横内氏も・・と、観に行った(実は急遽予定に穴が開いたため観劇できた)。
戯曲の印象はシンプルで飾り気なく、線が太い。ただ、終幕の場の直前、戯曲としてはお膳立て整って漸く迎えた緊張の場で、我が体力持たず寝落ちと相成り、(その場が戯曲上果たす役割はシンプル故に凡そ推察できるが)どんな話をその人物にさせたかが聞けぬとは・・ここが肝心ではないか、恨めしや、と独り言ちて帰路についた。
時代物とは言え女役が一人はいささか淋しかった。男女同権とは程遠い時代の無念を担わせる意図は理解できたが一様に収まらない側面も見えたかった(芝居自体は長くなるだろうが)。ドラマの本筋では、「医学の道」を志す者が研鑽を積む場で、旧弊を乗り超え「人の命を救う」真の使命に従うべき理想が語られる。その言葉は、江戸の時代を軽々とワープして今現在に届けられる。「扉座らしさ」を思い出す。らしさ、と言えば涙に訴えるシーンの多いのも私てきには扉座らしさであり、「そこはドライで通したい」と思ってしまう感覚の差があるが..、徒手空拳で物申す姿勢だけは、端から愚直に見えようとも頑固親父らしく堅持し抜いてほしいと思う(主宰の人となりは殆ど知らないのだが頑固に違いないと勝手に想像している)。

DOORS

DOORS

森崎事務所M&Oplays

世田谷パブリックシアター(東京都)

2021/05/16 (日) ~ 2021/05/30 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

倉持裕舞台はPPPPの晩年(?)の一作のみ、他は随分前になる新国立での「イロアセル」、今回と同じM&Oプロデュースの「磁場」、他にあっても一つ位か。「DOORS」配信有難く拝見した。

パラレルワールドの話。「イロアセル」もSF要素のある話だった気がするが、SFには思考実験の側面があり哲学的な作品が多いのは頷ける。透明人間やタイムマシンと来れば人の直接的な欲求や願望に直結するが、「同じだが微妙に違う」あちらの世界の話は必ずしもそうならない(設定も難しいがうまく整理されていた..元の世界の人物の関係性が微妙にずれながら成立している形が上手く描けている)。もっとも母の願望には直結していたが。。「惑星ソラリス」を幽かに連想させたのは、脳が勝手に感じ・思うことに人間は抗えない「中毒性」を匂わせている点。母はあちらの世界で生き直そうとした。不仲であった一人娘を置いて、であるが予想に反して・・娘は「向こうからやってきた」姿かたちの同じ母を「別の人間」と一発で見破り、当然の事として「本当の母」を探すこととなる。母(早霧せいな)への複雑な感情と欲求を滲みだす娘役・奈緒の演技はこの舞台に一本貫く軸を与えた。学校で異端児キャラの彼女を「いじめ」ている、付かず離れずの仲の女子(伊藤万理香)も憎さ余ってな心情を意地悪く愛らしく好演。彼女らの担任教師(田村たがめ)、その元夫で警察官(菅原永二)、近所の変な人(天文物理学にはまった引き籠り)(今野浩喜)が脇筋を盛り上げる。それぞれがパラレル(あちら側)でも登場し、たどった道が少しズレているが、そのズレが人格や関係まで変えており、「母」は荒んだ人生に見切りを付け「DOOR」を潜った先に平和を見る。
演劇的面白さはパラレルワールドでの少し(いや大分)異なる人格を演じる点。ただ、一つ難点は奈緒演じる娘が(衣裳で見分けが付かないというのもあるが)演じ分けが甘く「どっち?」と判りづらい所があり、脳ミソを駆使するが追いつけなかった。
(その主な原因は、優しい母の下でわがままに育ち、オーディションに受かって芸能界に入ろうとしている「向こうの娘」がその高慢さを発揮した後、奈緒は同じ目つきで「元の」娘を演じてしまっていた。切り替えが難しかったのだろうと想像したが、そのあとドアを焼くくだりも「どっち」かが判らず脳内は迷走した。)
新型コロナについて一切触れていないのが潔い。SFでも硬派。

別役実短篇集  わたしはあなたを待っていました

別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2021/06/25 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

別日に両方を観劇。4作品全てが「別役戯曲的合格ライン」(個人的な基準だが)クリアでハッピー、とは行かなかったが..収穫はあった。2015年前後にあった別役フェスでは二、三の優れた舞台によってフェスの価値は否が応にも刻印されたが、一公演としての評価は難しい。なんて小賢しさを嫌うのも別役流に思われ、個々の舞台の見たままを書きゃいいんじゃね。とも思うが。
いずれ詳述してみたい。

ネタバレBOX

別役演劇には毒がある、というか、毒を見つけられる舞台でなければ、と思う。
「毒」と言ってみて今思い浮かべたのは上方落語の「寝床」の冒頭シーン。なぐさみに過ぎぬ超ド下手な浄瑠璃をなぜか語りたがる商家の旦那のもとへ、たった今町内の店々に会の案内をして回って戻ってきた手代の久七が、いかに旦那の機嫌を損ねずに「皆が皆今日は来られない」事情を伝えるかに腐心するという場面なのだが、旦那の突っ込みをかわして報告するも、本音が間欠泉のように噴き出しそうになる。要は「あんたの浄瑠璃など誰が聞くか」と、心は如実に揶揄している。能天気な旦那に、「真実」という毒を最後には浴びせる事になる。

禁忌への巧妙な接近と見える場面が、これに当る事がある。小市民的でありながら、剣呑な「真実」に言及したり寄って行き、それを小市民的慎重さで正当化する、といった技を、別役戯曲の「人物」はやってのける。不器用者代表のようでいて、実に技量のある人物たちなのだ。台詞にそれが表われている。何しろ別役実が書いた言葉なのだから、それがあり得るのである。
言動が顛倒し、意味がひっくり返っても、現実には存在し得ない人間を別役氏は書いてはいない(いやいや、存在しにくいのだが、存在するかのように演じ、舞台上には存在するかに見える事によって別役戯曲は底力を持つ...役者頼み、役者泣かせの書き手だと思う。。いやいや役者に与えるこの課題こそ別役にとっての「演劇」の核に迫るものになっている、と考えるしかない・・同義反復な事しか言ってないな)。

不器用代表を「演じる」場合に役者はその声や流麗な活舌を、ある形で駆使してそのキャラを演じる。その意味で手練の要素があり、演劇の約束事というか断るまでもない当然な事実だが、戯曲に書かれた潜在的「手練な人物」たちの、毒や皿を食らって来た人生の厚みや、弱さを克服しようと苦渋を敢えて舐めた来歴は、それ自体「絶妙な演技」を強く要求される経験に、重なる。役者の身体が戯曲に書かれた人生の毒を持て余すのでは、太刀打ちできないのではないか・・と考えるのである。
こういう考察は「今一つ」な舞台から導かれる事を大方が察してしまう所だろうが、書いてしまう。
真面目な話、「見たい」ものがある。端的に、コロナの空気に考えなく追従する凡人の言葉より、空気に斬り込める眼力を持つ者の言葉の方を聞きたいのは本音である。
世間的負け組であってもその中に「そうあるしかなかった」核を見出す時、ある意味での「勝ち」を見、その存在の中に真実がある事がその裏付けだ。演劇はそこに照明を当て、ドヤ顔をする。
別役氏の言葉を発する者は、発する言葉に値する人物として存在せねばならぬ、という至極当然の要求は、次の考えにも扉を開く。・・高潔な人物を演じるのも大変だが、付和雷同で思考力に劣る人物でありながら人生の矜持を持つ存在を演じるのも、至難。演劇が持つ包摂力に果たしてどちらがより貢献するか・・。
(次は別立てで4作個々の感想を書く...つもり。)
おかめはちもく

おかめはちもく

Nakatsuru Boulevard Tokyo

サンモールスタジオ(東京都)

2021/05/16 (日) ~ 2021/05/23 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

二度目の投稿。全配信回アーカイブ視聴のチケット購入し、みっちりとは行かないが全回見比べた。
期限が迫ったので未見の千秋楽を「一応見てみるか」と再生したが、千秋楽で突如芝居は「化けて」いた。スイッチ映像のチョイスもうまくなっている。千秋楽が最良とは限らないのが芝居の難しさで面白さであるが、この作品のそれはきっと千秋楽であった。
変化の具体的な一つは、ベテラン市議の存在である。中津留氏が「そこ」に触れながらも芝居には収まりきらずに終えていた部分が、役者の演技によって炙り出され、含蓄のある=現実への奥行がイメージされる場面になった。
彼ら「かつての政治」を体現する市議はコンプライアンス優先で表面的なクリーンさを求められる趨勢では「汚れた政治」「不透明な政治」にカテゴライズされる。だが「言葉に責任を持つ」政治家の矜持は(目に見える評価に繋がらないためか)軽視される中、彼らはそれを自らに課する。スキャンダルを騒がれ、損を被っても表立って抗弁せず、党と盟友に筋を通す彼らの背中に滲む悲哀が、軽薄な新自由主義の犬に等しい政治への潜な批評となっている。

ネタバレBOX

話は一地方議会の多くの議員による「政務活動費」不正使用のスキャンダルを数年前にすっぱ抜き、ドキュメント映画まで製作した地方テレビ局が舞台。今、迫る市議選に向けて「市民の政治参加」を促すどのような報道方針をとり、特集を組むかが議論されているが、通信業界からイスに収まった社長からは、「議員批判を控えること(頑張ってる議員の姿を伝える)」との方針が下令されている。
場面は報道局室と、市議控室を往復するが、報道局では、報道の精神を貫こうとする主人公・庄野(小飯塚貴世江)と、他の社員とのそれぞれの温度差が描かれる。立ち位置の遠い方から、視聴率とスポンサーの顔ばかり窺う社長橘(村上隆文)、ホームレス女性の問題に取り組むも政治問題は保守派の女性社員西本(岩井七世)、現場より営業が言いとのたまう定時退社組の若手社員安藤(大部恭平)、市議スキャンダルを共に追求する看板報道番組の女性キャスター三枝(桝田幸希)、かつて主人公がそのジャーナリスト魂に憧れ今もそれを持ち続けようとする元報道部長(現社長室勤務)大橋(田邉淳一)、そして主人公。
一方、市議控室ではスキャンダル(刑事告訴)を機に離党したベテラン市議の梶山(友澤晃一)と野坂(福田裕也)、そして民自党若手女性市議岸本(上西小百合)が登場し、両者の激しい「新旧」対立が描かれる。

前半は数回の場面転換があるが、中盤からはたったの二場面、中津留氏お得意の「議論」劇が展開する。一つ目が控室場面で、企画も実現可能な趣旨に変更され、いよいよインタビューとなるが、ここで二議員引退に至る背景として不正事件と現在の民自党の思惑が徐々に露呈し、終盤では自分がスキャンダルについての回答を拒否し、無理くり梶山を紹介したにも関わらず、二人が民自党について一体何を喋ったか、チェックをさせろと息巻き、国政では常態となっている報道と政治圧力の構図があけすけに描かれる。
最終場面はインタビューで獲れた映像を放映するか否かを巡って揺れる報道室場面(ここも30分以上ある)。細部を突けば綻びもある話だが、観客の関心は議論の焦点に向かう。最後に初めて姿を見せるのが社長。事実を伝える報道の価値を全く顧みない大手スポンサーからの出向組の説得に、一人ずつ落ちて行く。最後にさり気ない逆転劇があり爽快感を残す芝居だが、この報道室での議論が日本のジャーナリズム、メディアの病理を如実に表現していて重いものが残る。

山姥の息子

山姥の息子

水中散歩

シアター風姿花伝(東京都)

2021/06/23 (水) ~ 2021/06/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コロナ前、VUoYでユニークな対バンの企画の一つとして鑑賞したユニット。今回も新作であるが前回のとまるで違うタッチ(チラシから推察)から美崎女史の演劇世界観の確立の程を確かめに行った感。「山姥」のタイトルと解説からファンタジーと判り、逆にイメージの狭まりに傾きかけるも前作の面白さからの期待で観劇に至る。人ならぬ者の登場では(SFもそうだが)設定が問題になる。今作に登場する「人ならぬ存在」は3体だがうまく登場させ、ドラマの勘所が徐々に背景地図が現れるに従い見えてくる。抉って来る台詞がある。「コロナ」に一言も言及しないが生命平等主義にそっと触れる部分がある。人は生きて、死んで、腐って土に還る。コロナに右往左往する社会をわんやり揶揄し、命への洞察をじんわりと伝えて来る。

フェイクスピア

フェイクスピア

NODA・MAP

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2021/05/24 (月) ~ 2021/07/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

満足。

ネタバレBOX

久々にして2度目のNODA MAP観劇に至らしめたのは本作品のタイトル(勿論野田氏がコロナをどう受け止め作品に反映したかも関心の内)。
駄洒落の止まらない親父の名調子の中で時折挟まれリフレインされる幾分収まりの悪い台詞と、同じく時折「原点」の如く舞い戻る謎めいたオープニングが、最終シーンで一気に謎解かれる。そこは「永遠+36年」前の御巣鷹山である。
「オモテ」のドラマを行く白石加代子のイタコ見習いが、口寄せ依頼人らの憑依する世界(ここにシェイクスピアの4大悲劇も開陳)に翻弄される形で横糸を繋ぎ、時に顔を出す「ウラ」の物語との微妙な釣り合いを見せるが、この舞台の出色は(恐らく)従来にない「解釈の余地を与えない」ドキュメントが組み込まれている事だろう。事件を知る世代(自分)とそうでない世代とで受け止め方が違うのかどうかわからないが、この「時間」は今後脳裏に刻まれ、この事件を思い出す時の思い出し方の補助線となる事は間違いない。野田秀樹の「本気」を初めて体感した。
第70回公演「ベンガルの虎」

第70回公演「ベンガルの虎」

新宿梁山泊

花園神社(東京都)

2021/06/12 (土) ~ 2021/06/23 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

注目は異色客演陣(風間杜夫、奥山ばらば、紅日毬子)、必見であったが中々予定が立たず、当日精算期間に予約だけ入れて成行きに任せたのであったが、仕事を上げて駅へ走り、会場に19時過ぎに着くと幸い予想は当ってまだ開演前であった。中央花道の両側のひしめくジャガイモの一つに収まると、何と小型座椅子が腰を支えて格段の観劇条件になっている。前方端席でテント芝居を満喫、千秋楽であった。
開幕からボルテージ高く観る方も気合が入る。白塗りの奥山ばらばが怪しく無言の口上を舞い(その後も折節にドラマに伴走する)、風の中を紅日毬子がマッチを擦りながら彷徨う。絶品である。そして本編ではビルマ遠征の風間杜夫率いる部隊が不在の水島上等兵との対話、切なく染み入る「埴生の宿」の合唱。『ビルマの竪琴』を換骨奪胎した唐十郎お得意の昭和の裏路地物語が幕を開けた。2回休憩を挟んで3時間。

ネタバレBOX

6/22に李麗仙が亡くなった事を今日知った。
宇宙のなかの熊

宇宙のなかの熊

東京演劇アンサンブル

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2021/06/12 (土) ~ 2021/06/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

抽象度の高いらしいデーア・ローアー作品であったが、子ども目線の話という事でハードル低く足を運んだ。食わず嫌いでもあったドイツの現代劇作家作品との初お目見えは幸福な時間となり、感謝であった。出演者4人の役割の案配よろしく、マリンバ生演奏を始め、趣向と言える演出が多々あって会場から子どもの笑いが聞かれたのも良かった。
前作で登場した若手女優・仙石氏が芝居を力強く支えていたのは出色。他の役者の表情、佇まいもじっくり見られた。この人数での上演じたい劇団では珍しいのでは(「桜の樹の満開の下」が確か二人芝居だったか)。
内容は、「罪な男の話」としておく。

ネタバレBOX

終演後の並びでは、無理に笑顔を作れとは言わないが、不安げな表情で「素」に戻る事はないのに、と思う。力強く演じ切って去る、で良かったと思う。「こんなご時世」が合言葉のようにカーテンコールで唱えられるが、演劇人が演劇をやる、この当たり前の事をやり続けて欲しい。(とは言えこの宣言期間だからだろうか、客席は市松で半数であった。ただでさえ演劇をやる事の厳しさを思うと・・)
Silent Scenes

Silent Scenes

ゼロコ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/06/11 (金) ~ 2021/06/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

マイムがベースのパフォーマンスだけに無言だが「無音」ではなく、BGM、効果音、生声でも唸りやシーッ(BESILENTの意)など賑やかだ。二人組が大道芸よろしく登場し、客いじり(拍手の要求)から徐々に「見せる」無言劇仕立てのエピソード集へ。
マイム出身(恐らく)の二人が演劇的表現に魅せられ、あるいは開拓の地平を見出したのだとしたら納得。技術を披露するパフォーマンスから、人が出会う風景を表現する「演劇」に踏み込んでいる。そのための技量が開拓されている、と見える。ただしマイム=形を作る技術の上に演劇を構築する作業は伝統芸能でも余程な事ではある。何が言いたいかと言えば、「芝居」として見る限り、気になる隙間がある。無言の表現として「ここまでやった」芸は披露され拍手は起きたが、「演劇」に踏み込んだ以上「演劇」を見たくなる。ここで言う演劇とは、別役実の言うそれに近い。
神は細部に宿る。人間の存在はどのように切り取ろうとも切り取られた「実(じつ)」が放つリアルの魅力がある。演劇を観たいのはそのリアルとの接点を観たいからで、折角おかしな人間の様が描写されるならそこに人間のディテイルが欲しい。目、口、鼻と輪郭を描けば人だと分かるが、もっと陰影が欲しくなるのだ。

ネタバレBOX

例えば図書室のシーン。
一人がテーブルの一角で読書し、時々笑いを漏らしている。当然、そこへもう一人が登場。演劇ならば、その男が「なぜ先客の隣席に座ったか」は重要だ。ただ目についた席に着いた、のか、空いてる席がなかったので仕方なく隣席に座ったのか、席の面子を吟味して選んだのか、いつも座ってる席だからか・・。その如何によって、隣に座られた男の方も反応、視線が変わって来るだろう。
また、音を立てた時に気遣う相手は誰か。普通の解釈なら向かいの席に人はいるだろうから、向かいに視線を向け、少し会釈する位はあるだろう。もっと大きい音なら周囲が気にしていないか、窺うだろう。
やがて隣人が「面白そうに読んでいる本」が気になり出し、覗き見をしようとするあたりから「笑」の展開となる。が、そもそも沢山の本を持ってテーブルの一角を占拠したのに、他人の本が気になるという現象が何から起きたのか、例えば資格試験の勉強でもしようとしたが、身が入らず他の事が気が行ってしまう、あたりが妥当だろうが、それならそのように見えたい。そこから本をミットに見立ててのキャッチボールは、シュールなマイムの世界となる。実際に二人が図書館で「マイム遊び」をやったのかキャッチボールをやったかは不問で、観客はボールがミットに収まる音が実に似ているので面白くて笑う。だが演劇的には、リアルベースのやり取りの延長に、全く周囲の人を気にしない二人だけのマイムの狂騒曲へ展開しても全然いい。むしろ前段が演劇的であれば、そこからの「逸脱」の瞬間がはっきり判るだろう。私はそこで笑いたい。メンソーレ演劇的快楽の世界へ。
舞台は95分、飽きずに見られたのは技術の賜物には違いないが。
虹む街

虹む街

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2021/06/06 (日) ~ 2021/06/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

疲れた体で観たので(寝なかったが)もう一度観て感想を述べたかったが願い叶わず。
「こだわり過ぎ」が標準である庭劇団の、こだわりゆえの逸脱度(演劇的常識からの)はあの「蛸入道」と同レベル。ただしこちらには一応演劇的ストーリーがある。
もっとも点が幾つか配される程度のストーリーで、大きな隙間を埋めるのが「リアル」、これである。
劇場に入ると「この町」の空間に足を踏み込む感覚をまず味わい、度肝を抜かれる(美術=稲田美智子)。最前列の席の足下にまで「この町」の地面が及び、両サイドの壁もくすんだ色で舞台の色調に馴染んでいる。ステージと客席の境界で「世界」が区切られた感がない(客席とステージの境界が絶妙に処理されるのがスズナリ)。
事前に詳らかでなかったのがこの町に住む多国籍な人々の登場。フィリピン人、台湾人、南アジア人(インドかパキスタン)が商売の町の風景を彩る。日本人俳優が扮するのはランドリー(超レトロな)のオーナー(安藤玉恵)、カラオケパブの女将と常連客女性(蘭妖子・島田桃依)、風俗の従業員らしき初老の男(金子清文)、フィリピンパブのオーナー(緒方晋)、看板持ち(タニノクロウ)といった面々。ストーリーの主体ではなく、風景を構成する一部として存在する。
舞台装置が具現する「経年」のディテイルは驚嘆物だが、この場所にはたとえどういう形であれ、生活があり、否定し得ない人生が実在する事実が静かに迫ってくる。

ネタバレBOX

新型コロナの状況が如実に、しかし殆ど目立たぬ様相で痛めつけているものが、この舞台には取り上げられている。スカ某が自助・共助を掲げるずっと以前から、社会の底辺では共生のルールがあった。むしろ社会はそれを取り上げ、つぶし、今もその路線で政治が進められている事に思い至ってやるせなくなるが、健気に生きる姿には癒される。
20年振りにALISON OPAONのギター&歌(一くさり程度だが)を聴けるとは思わなかった。
愛、あるいは哀、それは相。

愛、あるいは哀、それは相。

TOKYOハンバーグ

座・高円寺1(東京都)

2021/06/13 (日) ~ 2021/06/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初演を観た自分の目にこの芝居が今どう映るのか、あるいは広いステージでこの芝居を今どう演出して見せるのか、との関心につられて観に行った。
幾分遠い(高い)席では座高円寺は不利なことがある。今回は台詞が聞こえない箇所や、若い女優が扮する人物の混同、「間」に語らせるニュアンスの読み取りづらさ、等あった。ただし(前記二つ目を除き)その根本の原因は、震災・原発事故からの歳月が初演時の倍を超えた今、確実に「当時なら皮膚感覚で共有できた」であろう一つの言葉が持つ含意や風景が、必ずしも一つに集約されない事にあるのでは、と思った。言葉は震災という唯一無二の事件から(良くも悪くも)解放された、という事になるか。
原発事故に関して、時間経過によって明らかになっている(はずの)事実を示される事で、この歳月の空白を埋めたい(何もできなかった後ろめたさを幾らかでも軽減したい)願望を持つ自分は、震災直後に設定されたこのドラマによって「痛いところを突かれない」事に不足感を覚えてしまう。何とわがままな観客か、という事であるが、それが正直なところで実感である。
初演とは俳優陣が大幅に変わり、いくつか演出が異なる部分もあった。総じて良くなったと感じる反面、やはりこの芝居は間近で、狭い空間で観たい思いは残った。

オイディプス/コロノスのオイディプス

オイディプス/コロノスのオイディプス

隣屋

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/06/03 (木) ~ 2021/06/08 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

隣屋の名称は耳にしていて、一度d倉庫の現代劇作家シリーズ「ハムレットマシーン」を観たようだが記憶になく、レビューでも言及していないので印象に残らなかった模様。といって気に食わなければ必ず一言申す自分が「書いてない」という事は、まあ統一感のある舞台ではあったのだろう。
さて今作は二作ともコロナを意識した「一人芝居」と場内数か所で映写される「映像」で構成。上演時間約1時間の中程で20~30分ほどの一人パフォーマンスがあり、他の時間に映像を観覧して回る。ただし映像は俳優の語り又は字幕、つまり「時間」で拘束するもので、全体を見終えるのに1時間程度必要である。で、1時間経つと音声は再生を終え、退出扉が開けられ閉幕。「展覧会」とは異なる。
一人芝居の一場面で「オイディプス」の物語を思い出しながらも、主人公オイディプスの「悲劇」の叫びが遠い声に聞こえた。神から告げられた「父を殺し母をめとって子を宿す」との忌まわしい予言から逃れようと旅に出たにも関わらず、オイディプスはその旅先で図らずも予言を自ら現実化させる。調べさせた家臣にその事を知らされるという場面が「芝居」のシーンだ。この悲劇は、尊属殺、母との姦通が「禁忌」であるという事実の上に成り立つが、禁忌の子であるアンティゴネとイスメネはその後も人間らしく生きて行く(作品「アンティゴネ」において)。古代では「罪」は「刻印」されるものであり、厄災の源だったが、現代においてもこの原初的「罪」を扱いかねている面はある。ただこの上演で強調される「嘆き」や人物らの「主観」を切実に受け止める素地が自分にはない。むしろこうした禁忌に苛まれる人間(又は禁忌で人を追い込む社会システム)への観察へと促されるものがある。「何をそんなに嘆いているんだろう・・」と。

「コロナ」という状況が如何に演劇をゆがめているか、その婉曲表現なのではないか、と思う所もある。まず一人パフォーマンスを行なうエリアは天井から吊り下げられた透明シートに囲われ、演じる台にはブルーシートが敷かれている。そして独特な衣裳(ギリシャ風をもじった)をまとった演者がゴーグルやマウスシールド(確か)など二重三重に「対策」を講じた姿で大真面目でオイディプスを演じる。観劇人数は10名程度に抑えられている。
感染対策に「ひたすら(大真面目に)忠実」であるのか、感染対策を強いる社会を「揶揄した表現」であるのか、判別がつかない。ただ、様子からして大真面目の方だろうと思うが、私は後者を望む者だ。「感染ゼロ」を理想とする形を目指す態度、その事自体に私は非人間性を覚える。何度も引用してしまうが戦中の竹槍訓練に「虚しさ」を感じるか、それとも「協同性の美しさ」を見るか、ベクトルは正反対になる。
私はクレバーでない政治・決定を盲目的に人に強いる力への隷従を忌む。竹槍訓練を本気で「戦争に勝つため」に指導した者はいたのだろうか・・。想像するに大半は自分の地位安泰だけが目指されていた。同様に、今の感染対策の殆どが感染防止よりは「異端視されないため」もしくは「濃厚接触者の認定を回避するため」に為されている。これは喜劇を通り越した悲劇だ(「悲劇を通り越した喜劇」のレベルを通り越している)。

今作、演劇のカテゴリーとしては評し難く、☆は上の通り。

外の道

外の道

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2021/05/28 (金) ~ 2021/06/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

従来のイキウメ作品から受ける快感は、未知の領域へと分け入るぞくぞく感、謎の事象が「解明」されて行く痛快さにあり、常識を揺さぶる世界観とこれに息を吹き込む俳優への「感心」の要素が大きかった。
ところが今作はストーリーや世界観の斬新さより、新型コロナ禍の下で加速するある種のベクトルへの疑問を全力で投げかけたものと感じる所大であった。従来作品では人間同士の悩ましい諸々はあっても、あくまで「敵」は(現実世界に問題を持ち込んだ)不可知領域であった。だが今作では不可知領域(が示唆するもの)に気づけない人間、空気に従いしたり顔でステロタイプを押し付けて来る浅薄な人間が不気味な「集合」として見えて来る。(主人公となる二人以外の人物たちを風景として描き、コロス的な動きをさせる演出にそれは表れている。)
これを書かせた作者の心底は知る由もないが、わが眼には舞台に切実なそれが滲み出すかに見えた。

ネタバレBOX

今作ではセンスオブワンダーの世界を如何に矛盾なく(あるいは二時間楽しめる程度に)解明し、成立させるかは殆ど目指されておらず、あらゆる超常現象がまるで地球を滅ぼす人間に対して全面戦争を挑む妖怪たち、という構図を思わせる。「無」の存在、「空鳴り」、過去のない人間・・。時々聞こえる不穏な「空鳴り」の方へ人々はその時注意を向けるが、垂れ籠めた黒雲の下に長らく住まう日々を受け入れている風でもある。「無」は主人公(ら)にだけ感知され、「その他大勢」には見えない。この違いが「無から生まれた人間」の存在の受け止め違いに表れ、両者が似て非なる事を観客は見る。超常事象をその存在ごと感知する希少種である主人公(ら)は、現実世界では不器用な生き方の選択をせざるを得ず、明確に表裏の関係となる。彼らは最後に一つの決断をするが、この物語上の解釈はどうあれ、確かなのは自分を守る(売り渡さない)ために「この社会に暮らせなくなる」選択をする勇気が常に試みられている事(主人公二人のように)。
イキウメ作品にあった現代人の精神生活に豊かさを分け与える「あり得る一つの考え方」は今や急迫を告げる事態の中で皆に指し示されるべきあり方、となったのではないか。今現在に対する態度を観客に問う、芸術の側からの申立てを物語構成を通して物した前川氏の筆力にはやはり「感心」。
十一夜 あるいは星の輝く夜に

十一夜 あるいは星の輝く夜に

江戸糸あやつり人形 結城座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2021/06/02 (水) ~ 2021/06/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

日本の老舗人形劇一座を初観劇。時間枠が取れたので直前予約で観た。鄭義信作・演出だな..と何気なく見やっていたが開演ギリで劇場に向かう途中おもむろに期待がもたげ、徒歩が小走りに。客演植本純米の八面六臂も意外、そしてシェイクスピア「喜劇」を力技で翻案した舞台の最後も・・期待を超えて満足。
人形劇は面白い。ひとみ座が自分の中では筆頭だが(他にあまり知らないが)糸操り人形劇では一糸座のシュールな舞台を観ていた。結城座とは接点無しと思っていたが、スズナリで流山児舞台に客演していた(先代孫三郎の風貌が記憶の片隅にある)。「伝統」「料金高め」という印象であったがパンフを見ると実はアングラ時代から現代劇作家・演劇人との共作、コラボ等人形芸の開拓者の一面もあった由。

糸操り人形の「歩き」は不格好である。が微細な手の動きや角度で表情を作る。ポイントを押さえて風情が宿る。何より声である。主役の双子の兄妹を新孫三郎が、ゲップ親父を先代が演ずるが、その他は全て男役を女性、女役を男性が演じる。形代が持つ観客の想像力誘発の機能に最大限頼み、換言すれば観客の理解力に信頼しその限界を攻める演出の熱に、心底でやられている(まあ座員の男女比からの必然とも..)。
これら人形と絡む唯一の「人」である植本氏の芸達者振りにも驚いたが、大胆な起用というかこの演出ありきの台本を書いた鄭氏に敬服。

ネタバレBOX

一点減点の理由は言っても仕方ないのだがラスト、瓜二つの兄妹(妹が男装していたため)が一場にまみえる場面で兄の声をそこだけ先代が代行したのが、言っても仕方ない事だが勿体ない感が。
新座長がやがて無二の芸達者となった暁、兄妹を入れ替わり一人が演じて笑いを起こし、涙の大団円に・・想像だけは誰にでもできるがこれは観客の特権。
言うまでもないが「人形劇だから」と差し引いた評価は一切なく堂々たる舞台。東北弁が使われる理由は最後に判る。
アントロポセンの空舟

アントロポセンの空舟

水族館劇場

臨済宗建長寺派 宗禅寺 第二駐車場 特設野外儛臺 虹の乾坤(東京都)

2021/05/14 (金) ~ 2021/05/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ザッツ水族館劇場。東京の果て、雨降る夕刻に集った客と俳優の数は共々少なめであったが「らしさ」は健在、堪能した。役者陣のデコボコ感、歴史を貫通して詩的文体に刻むテキスト、目を喜ばせる舞台装置、水。
後の席に座った親子連れの子供二人がしばしば遠慮なく「感想」を差し挟んで途中邪魔っけだったが、フィニッシュの大展開に「やった!」の一声は観客の心と一体化していた。(分ってるぢゃないかっ。)

てげ最悪な男へ

てげ最悪な男へ

小松台東

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2021/05/21 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

凡そ9か月振りの三鷹。小松台東は昨年のグッドディスタンス、アゴラ公演でさほど久々感は無いものの本拠地で本領発揮の「細部にこだわる芝居」が観れた。「痛い」男の話であるが男は一度は経験するだろう「失恋」のロングバージョン。ただ、そこをオチにしたのはたまたま、とも見える。不幸な生まれの女子物語としても通るしそちらの目線で追えばハッピーエンド。裏表の関係。
小松台東での瓜生氏の役柄は割と枠に収まっている気がするが(そういえばiakuの舞台でも恋の成就しない哀れ男だった)、時には二枚目役も見たいぞよ。

ネタバレBOX

前作でも「殺し」が出てきたが、松本氏の役柄も身を持ち崩す系に寄っているような。。
破滅的な話にしては話の筋に無理を感じる箇所は、脇役である同町内の男の笑わせ所のためにせよ、小園演じる女性が長年同居した叔父に気を許し「過去から逃れられない」と悲観して思わず叔父の抱擁に身を任せる時間が長い。回覧板を届けに来た時その二人の姿を見て「誤解」し、回覧板を音を立てず足をそれ以上踏み込まずどう置いて去るか、を色々試した揚げ句諦めて持ち帰る、というくだりだから長くはなるが・・。
女は叔父の「妙な動き」に気づいて「そうだったの?」と呆れ、百八十度真逆の存在となる。冷たい世間の風を二人でしのいできた歳月も色あせ、父代りの叔父が彼女の新しい恋人に中々会おうとしなかった事とも符合した。だが、、「過去」は拭い去れず、従って「二人」で生きて行くしかない、その「絶望」(叔父にとっては希望)が叔父との紐帯を確認する事となり、抱擁に至ったのであれば、そこから男女の関係の可能性もゼロではない。むしろ、ある。ただし、女の絶望に乗じる男も「最悪」ではあるが・・しかし女も叔父にしなだれかかる程には、実は絶望しておらず、新しい彼氏との関係に不安ながらも希望を抱いていた訳である。つまり抱擁は彼女の素直な表現でなく、彼氏との面会を拒む叔父を「懐柔」するため、悲劇のヒロインを演じ「絶望するな、希望を持て」の台詞を引き出そうとした。計算があり、純粋一本でない、と見える。
ただ、叔父の父権主義な態度を女が「許していた」一面があったとすれば、その裏側には「叔父は自分のために存在してくれている」という仮説、信頼が存在しており、その暗黙の契約関係を叔父は(愚かなことに)破棄したという事態とも見える。
いずれにしても、この「最悪」は男の人格や存在が、というより、ここに至った事態が、であろう。年輩男が年下女性に恋心を抱くことを「汚い」といった形容で規定するのは殆ど「見た目」の問題に思える。もっとも見た目は重要だが、瓜生氏でないタイプの男(しゅっとしたダンディ男、またはもっとうんと不細工)が同じ思いを抱きそれを実現させようとしたと想像すると、「汚い」と眉を顰めるのでない別の物語が生まれる気がする。その違いは・・客観的には見た目だが、主観的には「汚い」と感じているかどうかなのだろう。この芝居の男は恋心を打ち明ける事なく、流れに任せて事に至ろうとした。言葉に出来ない後ろ暗さがあった、という事の証であり、自分の主観に閉じこもって相手を実は見ていない、そのエゴを貫徹するのでなく押し殺し「演じてきた」事が、最悪なのだろうと思う。実に、よくある話だ。。
おかめはちもく

おかめはちもく

Nakatsuru Boulevard Tokyo

サンモールスタジオ(東京都)

2021/05/16 (日) ~ 2021/05/23 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

背信を鑑賞。中津留作品だけに政治物ではあるが軽妙さもある独自なカテゴリー。小飯塚女史のキャラがこのカテゴリーにはピッタリである。
実は第一回配信日をライブ鑑賞したのだが疲労で後半をそっくり逃し、ラスト10分で復活したが、2日間のアーカイブ期間にも見直しできず。上演後の短いアフタートークにて、「初舞台」の二人が登壇。一人は「どこかで見た事のある演劇関係じゃない人」、その正体は以前物議を醸した若手女性議員、もう一名はT1PROJECT主宰(作・演出)友澤晃一氏が実は一度も俳優経験のない御仁であったと知った。
この度全配信回のアーカイブを約一か月間配信で売るというので宣伝にまんまと乗って再度観た。
「そう思って」見ると、前衆議・上西小百合氏は、周囲のベテラン演技陣には及ばないながら声量もあり、若手与党市議の憎まれ役を務めていた。
芝居は地方テレビの報道現場を舞台に、何年か前に起きた議員らの不正事件の波紋を現在の日本の国政に絡め、報道のあり方、報道人の姿勢を問うもの。おかしな論理が報道現場で通用してしまうのが、不自然に感じられない。それだけ現状では日本のジャーナリズムが後退している証なのだろう事をやんわり伝えて来る。現実と重ねれば絶望的な話ではあるが、どことなく喜劇臭があって救われる。

獣唄2021-改訂版

獣唄2021-改訂版

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2021/05/25 (火) ~ 2021/06/07 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新・すみだパークスタジオ倉へは二度目の訪問(二度とも桟敷童子の観劇)。新館の特徴はステージが奥深、客席の段も多い(と見える)。天井高め、最上段にオペブースが組まれ劇場全体にフェードアウト感があるのに対し、旧スタジオは横長で最上段は背中が壁、天井も迫る感じだったから閉塞感即ち一体感もあり、客席とステージも間近。前回、今回と最上段から観たことで、長い旧スタ時代に完成されたとも言える桟敷童子舞台の検証の機会となった。
前作『花トナレ』は千秋楽、今回は初日を観たが、アングラの系譜を辿れる桟敷童子の「テント」に劣らぬ熱量が、新スタジオの最上段=「巻き込まれ感」圏外まで直接には届かず(地球が最適距離なら火星位か)、俯瞰の目線になるが、それでも前回の『花トナレ』は一個の有機体にも似る劇団の即応力(観客や場の空気に対する、また「同時代」に対する)にただ感服し、抑制から滲み出る純度がコロナ下の一つの理想形にも思えた。
今回、「そこまでではなかった」との感想はまだ初日のせいか、客演率の高さ(主役も客演)のせいか・・。人間どうしても比べてしまうが、同じ回を観た知人は前作に比べて大満足だと笑顔をこぼしていた。
詳細後日。

ネタバレBOX

村井国夫氏が初演では降板していた事を今回知った。初演も初日を観劇。微妙なバランスで成立した芝居だと感じたのを覚えている。家族を顧みない「花ト」(山地の崖を渡って蘭の珍種を採る名人=花を商う村に固有の職業)である老父と、彼を(生活苦で)母を奪った奴だと恨みながらも「花」に魅せられ父に弟子入りする長女、足の悪い次女、同じく花トに憧れる三女の三姉妹との関係を中心軸にドラマが展開する。
満州に本社を置く花販売会社(東亜満開堂)の社長の「幻の花=獣唄」への情熱、社長の妻と古参の女中、社員が村に現地法人を設立し、長期逗留となり芽生える姉妹らとの仄かな恋、戦争の深化に伴う「花商売」の暗い雲行きと、戦争体制に迎合する在郷軍人会による「非国民」狩りとエピソードが分岐して行くが、時代という不安定要素が言わば写実的になぞられる居心地の悪さが「悲劇」の構造に収斂される事で(逆に)観客が安定を得るのは、三姉妹の死によってである。
戦時の花禁止令で村と花ト、東亜満開堂は万事休すとなるのだが、辛うじて繋ぐ糸は幻の花と言われる蘭の一種「獣唄」の伝説、即ち「絶望の際で姿を見せる」花の存在だ。ただし現実的な敗勢の中では、この花の存在は希望とならない。もっと別の意味での絶望がこの花の存在と紐づけられている。
花の生産地が戦争時代花禁止令で苦悩する古い戯曲を見たことがあるが、初演に無かったのは今や「不要不急」の典型である演劇がこの芝居の生業に重ねられている(と感じる)ことだ。
さて老父は花きちがいの偏屈物だが長女トキワ(板垣)が弟子入りして一年、長女を花トにしようという気になっている。そこへ三女シノジ(大手)が「自分も弟子入りできるよう話を通してほしい」と姉に頼み、聞き入れない姉をよそに自分で山に入って珍種の花を採って来る。二人の感情的な対立は初演ではもっと肌の泡立つ感覚があった。次女ミヨノ(増田薫)は幼少時の事故で足を痛め「村の男らの慰み者」として存在を許されてきたとされるが、村では異質の者であった三姉妹が(そうとはっきり書かれていないが)花トとして村に貢献する存在となり、また東亜満開堂の登場により村に活気がもたらされ、長女と三女が村の宴席にも呼ばれると次女にも行こうと誘う等、本来対等な村の成員である権利意識も描かれる。男好きのする次女ミヨノにまず接近するのが東亜満開堂の社員加藤(稲葉)。同情・憐憫の域を出ないと見える加藤は招集を受けた時、ミヨノを袖にするがそれが良心の発露であるのか逃げであるのかが不明(初演では男の一時的な熱情であった事が露呈した、それに絶望して自死する経緯がはっきり見えた)。一方社員山浦(三村晃弘)は考え深いタイプ、これにトキワが惚れ、相思相愛となるが山浦は戦争に対する疑問を口にし、徴兵逃れの方法を教えた咎で捕まってしまう。三女は一本気で空気を読まない突進型に描かれているが、村で徴兵にも取られない男三平と何故か気が合いカップルのようになっているが、その三平がついに徴兵に取られる。・・・こうして老父(村井国夫)は、時々登場して我が儘ぶりや、長女との関係の変化を示す程度であった所が、(作者がそう書いたのだから当たり前ではあるが)三姉妹が皆死することで「望まずして」主役に躍り出るのである。
初演での印象は、この老人は「花に捕えられた」男であり、人間関係には不器用だが花採りにだけは才気を示すような存在、その男が娘と(親子ではなく花トの一味として)関係を持つこととなる。全てを選んで来たようであっても宿命の中に生きるしかない存在、そのようにも見える余地があった。頑なな老人が、娘を失うことでまるで「思い出したように」そこにあったはずの何かに自らが(はからずも)依存していた事に気づき、絶望する。この懊悩の中で、男は三たび「獣唄」と出会う。そして終幕で辛うじて体を支え、生きてやると叫ぶ。ラストで受け取ったのは父の存在(を演じる俳優)それ自体であり、村井国夫の父あっての感動だった。
この「感動」を基準に今回の初演観劇を振り返ると、父のスタンダードと「変化」の描写に物足りなさを覚えた。簡単には認めない父である。頑なさ、傍若無人さ、人の神経を逆撫でする存在を存分に感じてから、娘の怪我に狼狽する父の姿が見えたかった。
次女の自死に必然性がもっと見えたかった。花採りが禁じられた後、冬山に入る長女と三女の衝動がもっと見えたかった。正直な感想だが、「比べてしまう」自分にも困ったものだ。

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