tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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灯に佇む

灯に佇む

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2021/09/24 (金) ~ 2021/10/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

名取事務所公演の外れ率はかなり低い。別役作品、海外戯曲、韓国系戯曲と幾つか系統があるが、今回は日本人による新作(書き下しか)。内藤裕子作演出舞台は昨年、「やっと初めて」本拠地・演劇集団円のを観て感じ入った所であったが、本作にも当てられた。下北沢B1の前列からはほぼ同じ目線の高さで、手を伸ばせば届く場所にも役者がいて芝居の世界を作る。二代続く診療所が舞台。最小限の登場人物が効果的に各役割を担って簡素ながら饒舌で余白もありながらきっちり伏線はさらう、台詞と演技が心地よい時間であった。
一診療所という医療現場での出来事を描きながら、「何のための医療・医学か」の問いにまでテーマが及ぶ。「生きること」について考える事になる。そして制度が絶対ではない事も仄めかされる。この視点は現在の問題にも通じる。うまい。

オペラ『さよなら、ドン・キホーテ!』

オペラ『さよなら、ドン・キホーテ!』

オペラシアターこんにゃく座

吉祥寺シアター(東京都)

2021/09/18 (土) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

萩京子×鄭義信による4つめのレパートリー。「旅する芝居」だった過去三作とは打って変わって舞台は馬小屋の中。ドン・キホーテよろしく旅に出るには二頭の馬のロシナンテとサンチェは頼りなく、名づけ親である主人公の少年(性別は女の子)ベルはまだ小さい。ファンタジックな展開は訪れず、第二次大戦中のフランスの長閑な片田舎にも砲弾の音が聞こえ、レジスタンスの若者、ドイツ軍の制服姿もやって来る。逃れられない現実だが、本好きのベルは想像の翼を広げる。戦局が熾烈さを増し(仏を占領した独軍の敗勢)、老馬ロシナンテの供出の話を聞いたベルは本当の旅に出る事を決心するのだった。が、その夜ベルは運命的にある女の子と出会う。。
妻に逃げられた実直な父トーマス、わけあって学校に通わなくなったベルを連れに来る女性教師オードリー、片足が悪いが女あしらいのうまい馬小屋で働く青年ルイ、彼の元を時々密かに訪れる村出身の親友サイモン。そして着の身着のまま逃げ込むように駆け込んできた女の子サラ。人と出来事の来訪にドラマの風が吹き、旅が向こうからやって来る。
ストーリーに絡まるように、詩と旋律が別の色の糸を織り込む。歌による飛躍が凄い。言わば台詞の交換(旋律付の台詞もその範疇)で成るテキストの世界に、ポエムと楽曲が表現するコンテクスト(今のこの時代の、と言ってもいい)の世界がせり出してくる。ミュージカルの如く一つの楽曲の中で場面(相)が変化し、希望、夢、勇気、愛という直接的な言葉を高らかに切望するように歌い上げる一幕ラストには思わず拳を握りしめる。
類似の構成が二幕の最後にも訪れる。不遇と抑圧の底辺から僅かな一筋の光を見ようと立ち上がる人物たちを優しく鼓舞し、返す刀で諦めの中に安住する現在の私たちに檄をとばす。最終日に枯れた喉を絞ってベルが歌い、他が応答する長い歌曲がこれでもかと叩いて来た。
ハッピーエンドにしなかった(望みは残しているが)作者の意を汲んで作曲者が書いた楽曲、笑みを封じ前方を睨みつけて歌う歌が頭にガンガンと(ピアノも低音でガンガン鳴っていた)響いている。
このような上質な作品を観る時間と、心の余裕と、財力(私は無いが)を持つ者が、今必要なことのために何かを為すとすれば今持てるものを差し出すことだ、というアイロニーをどこか醒めた頭で考える自分がいる。
自分がこれを秀作として語りたい理由は、この作品が現状肯定したい者ではなく現状に喘ぐ者またはその存在に多少なりとも胸を痛める者(即ち現状を否定せざるを得ない者)に照準した作品であるから、という言い方になる。もっとも、小気味良さあり笑いありの鄭義信らしい舞台である事に変わりはない、とだけは一言付記。

ネタバレBOX

私が観た楽日は赤組。
青組には自分的にお馴染みの沖まどか(「ロはロボット」)、大石哲史(孤高の渋味)、梅村博美(ファルセットが美しい)、佐藤敏之(安定のコメディ路線、ちと癖あり)と居たが、自分的に未知数度が高い赤組を選んだ。お馴染みは岡原真弓、やや知りの高野うるお、武田茂くらい。共通の富山直人はお馴染み。そしてピアニストもその基準で馴染みでない方(大坪夕美)を選んだら楽日になった。
休日の11時開演など普段なら寝る確率70~80%だが全く寝ず(当然)、この後に観た芝居で快眠を貪ってしまった。
風の市

風の市

激団リジョロ

サンモールスタジオ(東京都)

2021/09/23 (木) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

開演と同時にナチュラルな関西弁の激突。猪飼野が舞台の作品である事と合わせ関西発の劇団と推したが、プロフィールだけでは不明。「ハードコア」を謳い役者に徹底した負荷を強いるパフォーマンスが売りというから、関西弁の台詞も訓練の賜物?等とも想像してみたり。作=金哲義も出演しているが他劇団。こちらは関西だろうと推す。
在日家族の喧しい食卓の会話は激烈である。総連、民団の話も出てくる。役者の殆どは日本人だろうがこの「空気」の再現の度合には舌を巻いた。この題材の芝居にはコメディオンザボード「イカイノ物語」、趙博の「風の仲間たち」と思い出すとやはり関西である。日本アパッチ族を描いたシライケイタの「SCRAP」に感じてしまう不満は「在日らしさ」の足らなさだ。(その中間と言うと「役肉ドラゴン」、話の舞台も作者の出も関西だが地元臭はないのがこの作者の特徴。)
粗削りな部分も含め「よくやってる」集団。コロナなんぼのもの、と忘れさせる勢いに飲まれた。

ネタバレBOX

好みで言えば、関西産に多いが大団円がしつこい。ドラマは済州島からの密航者がある家族と暮らす事になり、騒動を巻き起こすが、やがてこの男・ソンジンの人間性、来歴が明らかになる。この存在は日本の日常感覚では違和感の塊だが、最終的には欠落部分を補完されたように感じる。観客は顔面を叩かれるような強風を浴びる事になる。
欲望に忠実な強引さは「血と骨」の父(俊平)のキャラを連想させるが、一つ「?」は彼の来訪を受ける家族は母を早く亡くし、7人兄弟姉妹が末期がんで入院中の父を時々見舞っているが、姉弟らはソンジンに対し、「チャグナボジ(小叔父)を見舞わない」事をなじる。彼らはソンジンを遠い親戚(いとこ)という認識で、居候するなら親戚の叔父を見舞うくらいやれ、と訴えているのだろうと見ていたが、結局はどうだったのか、解読しきれなかった。語り手にあたる末っ子は「焼肉ドラゴン」の末っ子に通じ、「家族の物語」を思わせ、大団円も「その後」を割と丁寧に描写する、そうであるならば、という要求でもあるが、むしろ私としてはそのあたりは捨象してよく(5人の姉が既婚か未婚かも判らず・・未婚と思しいがそれならその事に言及する台詞は一つ欲しい)、ソンジンという男がいた。その後、あれこれあって音信もない・・くらいで切り上げ、「存在」を印象的に残すのがまあ好みの問題だが、良かったかな、、と。
ファクトチェック

ファクトチェック

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋ホール(東京都)

2021/09/17 (金) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

報道番組を「選べる」と感じることは稀だ。高給せしめてジャーナリスト名乗ってる事の贖罪のように「やってる感」出してそれっぽいコメントをするキャスターやコメンテーターたち。言い回しの語彙力の差はあっても、語る範囲は決まっており、それゆえ結果的に横並びになる。誰もが注目する新型コロナ関連の情報さえ、踏み込んではならない領域があり(何者かを守っており)、公益は二の次になっている。スクープ!という代物が記者の「ジャーナリスト魂」と取材活動の動機を担保している模様だが、いつも思うのは「速さ」を競った所で何だという話。質で勝負しろと思う。特に政局の新展開などいずれ知られる事だし政治家は自らを顕示したがる生き物なのだから、、。挙動を追う価値を感じないような政治家でも、首相や幹事長クラスならコンペで勝負できる、つまりルールは健在。運動会の徒競走で優勝して無邪気に喜ぶ小学生、スポーツと同じゲームに見える。真に価値のある情報をゲームに持ち込むと、出来レースの平和共存に不穏な影がよぎるのだろう。ジャーナリズムとは元来不穏な事実に触れるものだと思っていたが、「業界の平和」の方がそれに優先するらしい。

そんな体たらくのマスコミの病根が奈辺にあるかを明快に描いた劇。言いたい事をほぼ言ってもらった気分で、頬をぶたれる衝撃はなかったが、溜飲を下げた。平和共存の反対語は、戦々恐々。先進国ではあり得ない「許認可権」がテレビ放送に関しては所轄官庁に与えられ、政権批判を行なうと許認可に関わる。もしマスコミ業界に平和共存が道義的に可能だとすれば、政権との距離を互いに取り合い、政権が懐柔できないよう結託する事、では。。等と繰り言を言っても「仕方ない」のは変わらないからで、変われば「仕方なくなる」のも一方で事実だ。日本の現実はそれに程遠く、政治の介入に完璧に負けているが、「負けている」という自覚もないのだろう。一億総なんとか。戦前はまたやって来る。

ベンジャミンの教室

ベンジャミンの教室

電動夏子安置システム

あうるすぽっと(東京都)

2021/09/16 (木) ~ 2021/09/20 (月)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

見ようと狙っていたがかなわず、映像を有難く拝見した。数年振り二度目の電動夏子、作品性にも俳優にも既視感を覚えなかったが(記憶のかなた)、「侮れない面白さ」を感じた点が共通。
設定がユニークである。税務署の協力だか管掌だか、「税の大切さ」の教化・啓蒙活動を行なう協議会なるものがあり、小学校への税金教室の出張が主な活動。商工会議所的な組織でもあり参加資格は事業主である事。話の端緒は著名な若手起業家(健康食品)が今度参加するらしい、という話題。彼の講演映像を見て感想を言い合う雑談タイムが冒頭。全員が集まる前に女性同士の会話があり、思い出深い炊飯器の修理を頼まれた家電屋の女主人が依頼主の女性にブツを渡すのだが、家電屋は実は特許申請しない斬新発明をやっていて今日はその炊飯器を「炊飯器としての寿命は終えた」と別物に仕上げてくる。便利だが現実離れしている機能を持つこの代物を見事な伏線として序盤に奇妙な展開があり、作品世界の自由度はいや増して荒唐無稽さは後半に向かって拡大して行く。

「税」を語る舞台が据えられるが、サークル的な緩い義務感(使命感)による緩い繋がりの中で、個人事業主だから許される外目「人格破綻」かと思うキャラが炸裂、平然と「税金教室」の私物化(自己欲求の手段に)する者ども。小学生を前に一度ならず二度目も児童そっちのけでドラマが進行。各々勝手きままに行動するが、奇妙なかみ合いが生じて高揚する瞬間がある。というあたりはテイストは全く違うがアングラか元気な小劇場の要素がある。

だが、なぜ今「税」か。・・これに触れる会話は一瞬だが光る。「必要な事に税金は使われているのか。」
雑談の中でもさらっと、こんな具合。コロナ禍で支援が届かず自殺した事業主も知ってる・・しかし政府は支出を渋るため「日本は借金づけでお金がない」と喧伝している、親方の税務署に逆らうのもなんだが・・借金の殆どは国民だから財政破綻しないんじゃない?・・等。現在のマスコミを通して語られる事のないセンテンスが、言霊ではないが声になって耳から入るだけで私には光明だ。

物理学者たち

物理学者たち

ワタナベエンターテインメント

本多劇場(東京都)

2021/09/19 (日) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

会場へ入るとロビーがどことなく簡素。「ご自由にお取り下さい」という無料リーフレットを探すと事務用長テーブルにB4紙2つ折りの当パンがまた質素(桟敷童子のみたく)。座席に近い入口から入ろうと裏手に回ると案内スタッフがおらず「コロナ対応で裏口は閉じたのか?」という状態(そうではなかった)。
芝居が始まると序盤に登場した草刈民代の台詞が時折覚束なく「おや?」と思う。そこでふと「今日はプレビューだから?」との考えが過ぎった。以前観たプロデュース公演のプレビューが(結果的に準備が十全でないというのでなく)わざわざ1ランク落とし、スタッフの客対応も素っ気なかったのを思い出した。今公演がそうだったわけではなく実際には「差」もないのかも知れないが、「引き算された分を足すとどうなる」等と脳内で考えを巡らした程に、特に前半は混迷し、乗れないものがあった。
幕間を挟んでから俄然巻き返して天晴であった芝居は確かにあったが何だったか・・さほど気落ちせず休憩時間を休み、迎えた後半は目が覚め、戯曲の「狙い」的な所がいくらか見えてきた。といっても変わり種な戯曲には違わぬ。ノゾエ氏演出舞台と言えば新国立の「ピーター&ザ・スターキャッチャー」(ラストで萎んだ感はあったが)が秀逸で腕は確かだと知れるが、書き手・演出家としての「傾向と対策」は未だ不明。それでも料理人・ノゾエ氏を引き当てた素材というのが何故か腑に落ちる作品。シュールさは前半の「死」の扱いと言いイヨネスコを連想させるが、要は叛逆、アナキズム、よりソフトに言えばはぐらかし、へそ曲がりな志向。

感じた難点は、配役。チラシの俳優陣を見て観劇を決めた客も多いだろうが、川上友里子を除く女優陣(瀬戸さおり、吉本菜穂子、草刈民代)のキャスティングは果たしてどうだったか・・。小柄で容姿端麗の瀬戸、声に特徴あり倒錯の域を表現できる吉本、すっくと立つ肢体こそ見たい草刈が、わざわざその長所を封印したような役柄である事により、元々異種な戯曲の「読み違え」「迷子」を誘引したようにも思う。
まあしかしそれより何より、事挙げすべきは戯曲という事になるのだろうが、今ひとつ物語を追えていない。終わってみれば事象じたいはシンプルではあるが事象を語る口調、含みは感受しきれない。
誤読の一つは、ステージを占める直方体の共有スペース(居間であり休憩室であり食堂のような)には左右の壁と正面の三方に三人の科学者を名乗る入院患者の居室のドアが付いているが、大きく立派なので居室には見えず(特に正面は廊下に通じるのだと終盤まで思っていた)、意図としては三名の科学者に集約される話である事が前半の段階では判りづらく、象徴的に扉をデーンと据えたのかも知れないが、では居室以外の場所へ通じる通路はと言えば壁が人一人通れる格子になっていて、どこからでも出入り出来る仕様になっている。三人以外の存在の性質を三人と区別するのにグッドなアイデアとも思うが、幻想ではなく実際に起きている事象であるので、例えば扉に名札でも貼っておけば「居室」だという事が最初に判る。芝居の見方=ルールは早々に告知するのが良く、適度な謎で引っ張り後で解く手法はここではそぐわなく思う。また、看護婦役、刑事の部下役、主役の一人メビウス(と名乗る患者)の息子ら役などを兼ねてコロス的なグループとした感じだが、メビウスの妻(川上)や刑事(坪倉)、あと確か看護婦長(草刈)が他を兼ねない配役である事の意味はあるか、なども。本作はこの「豪華な」出演陣に適した素材だったのかどうか。この発掘戯曲は無名でも剛腕な役者、ぶっ飛んだ役者を使って下剋上を挑むような素材ではないか。ただ、全体に漂うシュールな感じ(ノゾエ氏の色?)の中で、メビウスや三科学者が倫理と科学についての真っ当な議論を真顔でやってみせるなどシニカルで押せないものがある。水に浮いてしまう油の処理法は難しい。作者がミステリー作家であった事を考え合わせると、どんでん返しの後付けの政治論争で、政治論争の手段としてのミステリアスプレイではなさそうだ。とすると味付けの位置に当る論争は当時の世相の反映であり、もし今これをやるなら、「人類が踏み込んではいけない領域」とは生命科学だったりコロナ禍を引き起こした自然破壊だったりするのかも・・。(まあそれだとインパクトには欠くが)

娼婦 奈津子

娼婦 奈津子

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2021/09/11 (土) ~ 2021/09/20 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

パギやんこと趙博が自作を梁山泊に持ち込む、の巻。第3か4弾になる。
弾き語りシンガーだけに歌と演奏入り舞台が特徴であるが、今作もこの系譜にして「演劇」作品として傑作と言える舞台であった。作者によるオリジナルは恐らくラストのみ、他は所謂「洋楽」(ほぼ70年代か)だがこれが優れた劇伴となっており、芝居本体に見どころがある。数年経っても脳裏に過ぎる観劇になりそうである。

ネタバレBOX

入場するとステージ奥にバンドセットが見える。少しわくわくする。・・と、妖艶な娼婦と若い常連客の絡み。男は女に首ったけらしいが質は悪い。オンリーになれと迫るもやんわり断られ、いきり立つ男。修羅場到来。おもむろにギターとドラムの一打、「BURN」が生でポテンシャル高く演奏される。
書きたいこと、言いたいこと仰山持ってる人なんやろな..。趙博氏がどこからこの話を立ち上げたのか判らないが、今という時はこの芝居を待ち望んでいた、なんて台詞を吐きたくなる心持。ラストソングの合唱は自作だろう、ストーリーを反映した歌詞「言いたい事を言い、生きたいように生きる」が、今の現実とシンクロする。もっとも「空気」はメッセージ色を忌避する。空気を吸う自分も言葉を耳にして一瞬怯む。が、そこへ至る90分の芝居にはそれを弾くだけの密度がある。
今回尊顔を拝めなかった金守珍のキレ味良い演出も効いただろうが、何より娼婦に行き着いた奈津子の人生を全人的に存在させた蜂谷眞未に圧倒される。物語世界が抒情とリアルを以て地上2階の床上に現われ、蜃気楼のように消えた。

配役では、気性の激しい彼女を静かに受け止める李弁護士(広島光)・・李(リー)という名がまた良い。特に在日だとかいった説明はないが、日本社会の仕組みの中で資格を取り片隅で自分の領分を守り生きて行く順応型在日でありながら、ただ名前は李を名乗る・・絶対に己を語りはしないが李とだけ名乗って生きて行く・・静かな物腰の中に芯の強さを湛える見事な設定で、好演。そして奈津子の実母(のぐち和美)、型の演技を繰り出す印象ではあるが「大好きなお母さん」と幼い奈津子が言い、ある時期から見向きもしなくなった母親と娘の風情がこれも見事なマッチング。裁判に彼女の精神鑑定を出した精神科医(島本和人)が悪役の一方を担い(いささか哀れ)、時々パギやんと漫才風やり取り。ベテランの域だ。
音楽(生演奏)の挿入箇所も選曲も穿っており、演奏には奈津子の義父役(ジャン・裕一)のベース、留置所行きダンサー(神谷沙奈美)のサイドギター、ドラマー役(諸治蘭)のドラム、島本のリードギターでガッツリ演奏する。諸治女史は指導を受けての演奏、やや走り気味だったが骨のあるドラムプレイ。ある意味クライマックスがロッドの「Sailing」、ヴォーカルは蜂谷眞未。
朧な処で、徐に。

朧な処で、徐に。

TOKYOハンバーグ

サンモールスタジオ(東京都)

2021/09/10 (金) ~ 2021/09/20 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

喩えは変かもだが...快適な小旅行、演劇という名のショートトラベルを堪能した。さすがに「劇作家」を軸に置いただけあって水を得た魚の如くだ。我が身に引き付けた話はどの書き手も(架空のクリエーターや実在の芸術家を描く等を通して)一度は描くものだろうと思うが、本作の滑らかな筆、飛躍の小気味良さは強く印象づけられる。
題材はディープだが、主人公の女性劇作が悶々と才能の「枯渇」に喘ぐ軌跡を本筋として、それに絡む形で、コロナ禍の中で置き去りにされたその領域へ意識的に踏み込んで行く彼女を観客は見つめる。暗い状況なのに舞台には明るさがある。絶望的光景の中でも決して落ちない。死者あるいは「いなくなった者」を思う時間が、衒いなく芝居の中に存在する。

悪魔をやっつけろ~COVIDモノローグ~

悪魔をやっつけろ~COVIDモノローグ~

燐光群

座・高円寺2(東京都)

2021/09/13 (月) ~ 2021/09/14 (火)公演終了

実演鑑賞

第一回を逃したので今回の追加上演を観に出かけた。後半寝てしまったのでデヴィッド・ヘアのコロナ体験記(70代にして感染)がどう着地したのか判らず終い。COVID19へのヘアの「考察」を私は聴きたかった。いつか翻訳台本が読めることを期待。

新型コロナをどう捉えるか、どう対するか、どう距離を保つか・・そういう類の議論が「緊急に」必要な状況であると私には思える。だが人に思索を促すコンテンツは地上波放送ではまず見られない。
コロナ時代がいつまで続くか知らないが、恒常的に有用かつある場合には必須である「検査」を可能な限り広範に実施できる体制さえ、1年半の間に構築できなかった政権の(即ちコロナに真摯に向き合わない=既得権益構造を変えない政党の)後継者問題、しかもポンコツ候補者ばかりを追いかけ、「他の可能性」を全く封じる報道がまるで誰かの命令一下でなされているかのように横一列で並んでいる。
医師や感染症専門家は「感染を広げない。そのためには出歩かない」と言う。地域医療の担い手が民間主体であり「経営」とリンクしながら為されて来た経緯を見れば、各医療機関の「自発性」に期待して社会的広がりの中での「対コロナ体制」ができるのを期待する(待っている)方がどうかしている。各機関の「経営」に目配りしつつ「全体に奉仕する」医療体制の構築をやれるのは政治しかない。
その議論を展開した番組を見たことがない。私には報道の様相が狂気、または低能の証に見えるが、背後に恣意性が働いているとすれば、それに唯々諾々と従う人と組織の異常さもさる事ながら、その「力」を構成する中毒性の偏執的要素が想定される。
映画「チャイナタウン」は水道の利権の欲にとらわれた老獪な男の前に正義が敗れる話だが、主人公の探偵ギディスがきな臭い事件を追って突き止めたその黒幕に、裏を掛かれて拳銃を突きつけられて言う「なぜ?」「金に困ってる訳でもないのに」すかさず老人が反論する「The future, Mr.Gidis, the future!」。「未来のため」という大義をしゃあしゃあと言ってのける男の姿に、世の権力が重なる。その本質は単なる「既に得たものを持ち続ける」事への執着、失わないために増やそうとする偏執、即ち中毒(意志ではなく病から来る症状)である。

「戦争協力」でかつて裁かれたマスコミのように、今現在のマスコミの体たらくも犯罪的であったと裁かれる日が訪れてほしいものだが、かつては敗戦によって曲りなりの改革がなされたが、今没落し行く国家がその非道さで国民を苦しめようと、誰も助けないだろう。自力でやるしかない。
米国という兄貴に頼む向きもありそうだが、人権外交で他国に介入するのがかの国の常套で、今の日本は敗戦によって既に米国の「介入」を成功させ、軍用地や制空権を与え、今やジャパン・ハンドラーに逆らう政治家は「いない」のではないか?(共産党くらいか) 今、日本は米国に搾り取られるプロセスにある。
日本は「取りに行く」国ではなく、今は敗勢に回った。安倍政権の間に通った重要法案は国の財産や社会資源を米国や企業に売るためのものだ。この視点を報じないマスコミも政権と共犯にある。
・・かく凡庸な想像力も、自分で考えるから働くが、マスメディアの不作為(考える材料としての情報を出さないこと)の前にただ受動的でいたなら、常に栄養を摂り続けなければ奪われる身体機能のように、奪われる事だろう。
演劇の与える影響力は数の上では少ないが、浮薄に流れる情報とは異なる確かな情報を手渡す強みがある。坂手氏と燐光群の仕事に敬意を表する。

ネタバレBOX

食事も控えたので眠るとは思わなかったが、座高円寺1の座席ならそうならなかったろう、2の座席はフカッと座り心地よく、坂手氏のさして心地よくないリーディングの間よくぞ快眠に誘ってくれた。(椅子に文句を言っても仕方ないが。。)
熱海殺人事件

熱海殺人事件

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2021/09/02 (木) ~ 2021/09/14 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

文学座版「熱海殺人事件」。諸々発見あり。
稲葉賀恵演出の才気が冴え渡る舞台、とは印象の一面で、冒頭から暫くは文学座もその範疇である新劇の役作り、物言いが気になってどうにも入って行けなかった。それでも成行きを追わせる緊迫があり、土台の無い所から楼閣を作り出して「あり得ない」取調室での台詞の応酬を一つの確固たる世界を信じさせるつかこうへい戯曲は、やはり役者に力技を要求するものであったが、文学座俳優の演技と稲葉演出共々に2021年初秋の文学座アトリエ版「熱海殺人事件」が生まれたのは確かのように思う。
「モジョミキボー」のコンビの片割れ石橋徹郎の木村伝兵衛役以下、計4名の俳優の持ち味が十二分に目に焼き付いた。
「熱海」には幾つものバージョンがあるようだが、ラストで伝兵衛が一人で長演説をやったのには驚いた。時代を感じさせるが、真摯に純粋さを求める心から発する言葉は作者の声そのものにも聞こえる。

戒厳令

戒厳令

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2021/09/03 (金) ~ 2021/09/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

作家・思想家カミュの戯曲作品。小説『ペスト』(1947)が仏国民に称賛をもって受け入れられた翌年、本作は著名俳優・演出で上演されるも、評判は振るわなかった由(wiki参照)。ただしその意味は約めて言えば「作品と時代の(ビビッドな)関係」が作用したものと推察され、初演から70年を経た現代、とりわけコロナ禍の日本では中々面白い舞台になった。

ネタバレBOX

本作には擬人化された<ペスト>とその秘書が登場するが、小説『ペスト』がそうであったのと同様、<ペスト>はナチス・ドイツの隠喩であった。ヴィシー政権(ナチスの傀儡)時代の記憶も生々しい初演当時、小説では優れたメタファーであった「ペスト」がナチスの制服まで着て舞台上に姿を現わし、これに抵抗する青年が一人彼らを恐れず「抹殺されない」存在となり長い弁舌を振るう場面などは、いささか図式にハマり過ぎていたのではないか。また<ペスト>が差し違えで青年の命を奪い自らは敗北を認め去って行くという、ナチスの敗退をなぞったラストも恐らく当時のパリの観客にとっては興醒めだった・・飽くまで想像だが。
(これに対し小説「ペスト」は中世のアルジェの町を襲ったペストの惨劇が描かれる。悲惨な現実に直面し、葛藤し闘う主人公を通して、読者は戦後のカオスの状況から事態を「理解」する足掛りを得たかったのではないか。)

昨年来日本で小説『ペスト』が注目を集めた理由は言うまでもなく新型コロナにより、従って注目点は(ナチスよりは)未知なる伝染病への恐怖だ。『戒厳令』に登場するキャラクター<ペスト>も、今の観客は新型コロナ・ウイルスの隠喩と受け止める。同じ言葉が1948年当時とは異なる意味を含み持つ。だが一方、当時ナチスという存在に人々が(カミュが)見ようとしたものを、我々も別の形として見ているとも言えるかも知れない。

作品の冒頭、地球に接近する彗星を見やる町の人々。彼ら各々が吐く言葉の中に不吉の予兆がある。やがて血を吐いて倒れて死ぬ者がそこここで現われ、人々を恐怖させる。町を統べる総督は「動揺する勿れ」を言い続けるが、ペストと名乗る者が秘書と現れると彼らに漂う「死」のオーラの前に跪き、町を明け渡す。その時から始まるのは町の幽閉、そして人を人間性から遠ざける非人間的管理だ。
舞台では「管理下」に置かれた町の者らがマスクに顔をうずめて沈黙する姿があるが、理不尽な管理・規制に置かれた人々への視線は、新型コロナ下での無根拠な(とは認識されない日本の現状はともかく)規制に翻弄される人々への眼差しに重なり、日本の現在地を示す。
気骨の判決

気骨の判決

オフィスワンダーランド・(一社)演劇集団ワンダーランド

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2021/09/08 (水) ~ 2021/09/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

オフィスW観劇は3回目だろうか。劇としての進行の独特さ、というか場面を構成する各演技がジグソーのパーツを当てたような独特な間合いが毎回不思議なのだが(はっきり言えばたどたどしい)、今回もそれは変わらぬながら、テキストの力を感じた。題材(原典)の良さもありそうだが、日高哲英氏の劇伴も心なし「気」が入ってる(?)と感じられ、不覚にも胸に来る瞬間があった。
パンフの竹内一郎氏の文章によると同作品は俳優座に書き下され(2013上演)、その後今回を含めて2度再演されたが、そのいずれも脚色ないし演出が変っているという。状況により力点の置かれ方が異なり、今回はテキストは前回とほぼ変わらぬが作りは全く違うと書かれている。その言葉だけではどこがどうとは判らないが、この舞台の感動は芝居が「今」という時間に干渉している証左。史実の人、吉田久判事役には、俳優座初演では演出を担った川口啓史氏。風貌、声ともに、ひたすら法に誠実に仕えた一徹者の「らしさ」を備えて舞台を締めていた。

ネタバレBOX

冒頭述べた不思議な感触というのは、役者それぞれは経験ある御仁らと窺えるのだが、人物を深めようとする形跡が見えずパターン演技に収まり、稽古数が少ないのか台詞をどうにかこなしている印象。優れた舞台には人が出会う空間固有のエーテルが醸成され、時間を掛けて作る演劇のそれは醍醐味であったりするが、それが無いのは相当短い稽古期間で作られているから、というのが最も腑に落ちる所。。・・とは言っても、テキストを判りやすく伝える手段としての演劇の機能は十分果たしている。演劇の一つの経脈にあるところの辻演劇(広宣手段としての)がこれに近いのかも知れぬ。「南の島に雪が降る」の粗末な芝居小屋での芝居でも、観客である兵士らの壮大な想像力が舞台を「作った」。
タージマハルの衛兵

タージマハルの衛兵

東京演劇アンサンブル

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2021/09/08 (水) ~ 2021/09/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

優れた作品のライブに立ち会う悦びが序盤から血流になって体を巡った。戯曲の良さとこれを料理した演劇アンサンブルの攻めた演出に深く納得(時々演出イスに座る三木元太の『クラカチット』の鮮やかさもまだ記憶に新しい)。
二人芝居のダブルキャスト組合せ4通り(黒子的役割は該当でない方が顔の装飾をして行う)、いずれも2011~2013入団の中堅男優。他の組も観たい(無理だが)。

タージマハル建設は歴史上存在した点だが、人の寄り付かない場所での二人の衛兵が職務の合間の暇つぶしに交わされる会話の中に飛行機やロケット、タイムマシンといった現代のアイテムに相当する代物が(空想上の発明品として)登場し、それだけで現代性を帯びる。世界一美しい宮殿タージマハルを作った者二万人の処遇について、王から下されたのは「二度と同じものを作らせない」理由で職人らの両手を切り落とす命令であった。・・

ネタバレBOX

劇団内的には登場人物2名、ダブルでも4名のみの演目が秋の目玉公演に。風当りが強かったのでは、と勝手に想像するが、本公演の「常連」でない男優の名前が並ぶ本企画は外野の目には嬉しく、はっきり言って当たりではないか。
一点、あの小さな劇場で席を市松に固定するのはどうだろうか..。カップル親子連れは連席、他との間に一席あける、で良いのでは。
チーチコフ

チーチコフ

劇団俳小

萬劇場(東京都)

2021/08/27 (金) ~ 2021/09/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

結局観たのは千秋楽だったようで(分ってろという話だが)、少し硬く見えたのはそのせいか。最前列で表情が「見えすぎた」のか、それとも時々役者と目が合ってしまう事があったが(目立つ外見ではないと思うが)調子を狂わせたとか、または良い評判に答えようと肩に力が入ったか・・など、一方では面白おかしく展開する芝居に乗っかりながら、何故か頭では芝居の条件やら客演は誰かといった事を考えていた。寝落ちしそうになるのは我が体の問題で例に違わずであったが、どこか覚めてしまうのを超えられない所が正直あった。
恐らくこの舞台の作られ方・形式が「今の自分」の欲するのと少うし違った。焦点は音楽に向かう。
音楽は頑として変らぬ存在感を持つ(楽曲を変える訳には行かないから当然なのではあるが)。俳優、及び芝居本体と、音楽の配分、関わり、兼ね合いといった事だと思うが、観ながらの感じ方では音楽が前に出、作曲家がイメージを塗り込め過ぎであった。そのように感じてしまう具体的な断片は、コーラスガールの歌いの崩し過ぎな所であったり、上田享氏のピアノのサス(残響)の入れ方等音の存在アピールの強さであったりで、芝居に対する音楽の位置づけがどう決定されるのか、演出と音楽家の力関係は・・等も頭を巡った一つであった。
が、音楽は芝居を補完しており、それが狙いだった事に疑いはない。好みで言えば冒頭歌われるタンゴ調は素晴らしく、頻回挿入される「チーチコフ!」は頻回使用には耐えなかった。
対峙する芝居本体の方である。物語の発端である「死んだ農奴を買う」理由、チーチコフの目論見と勝算がきちんとは飲み込めないまま物語が走り出してしまった。音楽の時間と、芝居の時間、それぞれが理想的に共存したかったが音楽に引っ張られて進む時間の中でドラマは多面的な顔を出す余地がなかった、とは繰り言になるが、キャバレーチックな音楽は明快な物語にそぐわしく、不明さを残す所では些か邪魔になった。
ゴーゴリと言うと「鼻」「外套」など身近で小さなアイテムが大きな騒動を引き起こす様を通して、問題の個人より社会を笑う引きの視線がある(と言っても両作とも芝居でしか見てないが)。チーチコフという存在もそのようであるが、彼は何を欲したのか。

<会場変更/追加公演有>山中さんと犬と中山くん

<会場変更/追加公演有>山中さんと犬と中山くん

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/09/02 (木) ~ 2021/09/07 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

工藤千夏と言えば自分は渡辺源四郎商店の在京座員(店員?)という認識であったが、青年団演出部での実績(若手企画~後に青年団リンクうさぎ庵)が先であった。枠にとらわれない独自の動線を行く工藤女史が今回花組芝居役者らと組んだいきさつ、ないし狙いは知らず。前説によれば「コロナ下での模索」の紆余曲折の結果、現在の形となったという事でワークインプログレス的な出し物かと構えたが、中身は三部構成の「工藤テキスト」の上演(リーディング風)と、その合間の素の時間。平場との地続きの感触が趣向のようであった。
のっけから言いたくて仕方ない一言を言ってしまうと、(後で役者名を照合した)3名の花組芝居の役者の立ち姿が好きでない。主宰加納幸和氏の俳優姿は何度か拝んだがこれは別格として、3名の醸す空気と何を重ねたかと言えば、私は派生ユニットのあやめ十八番でしか「それ的なノリ」を知らないが、江戸を舞台の「時代物」(花組芝居の領分らしい)に漂うある匂いが役者の演技の質を高みから遠ざけている、その部分。
型の演技に対するリアリズムの演技の面の深まらなさは、やってる芝居の性質から来るもののように思え、今改めてあの「時代物」に自分が最も感じていたもの・・芝居の中身は忘れたが断片的な風景とその中で自分の中を巡った感覚を思い出し、再考することになった。
・・と大袈裟に入ってしまったが、今回の「素」と「上演」の垣根の低さは、果たして彼らの得意技であったか、という疑問が湧く。必死こいてたのかも知れないが、演劇では素の挿入も演劇的な作為でなければならない、という前提を敷けば、狙うべき焦点がしっかと据えられての「素」のふるまいではなく、アドリブ性の「演出」でなく、アドリブそのもの。そこで役者という存在の正体、根っこが問われる。どういう芝居をやっていて、どういう精神で取り組んでいて、だからどういう生活者としての矜持を持っているか、つまり「素」の役者自身という土台から「素」というものは発するのであって「素」という状態が代替可能なものとしてある訳ではない。・・・随分当たり前な事を書いて役者諸氏を馬鹿にした物言いになっているが、私が「好きでない」のはある種の役者というあり方なのかも知れぬ。
ファンには失礼だが「時代物」の多くが「大きな物語」としての「江戸」というブランド、そして歴史(事実)という重みに大なり小なり「おんぶにだっこ」している。パロディが成立するのはパロる対象のデカさ故、だからこそそれに拮抗する現代性、独自性、骨太なメッセージを見出そうと創意工夫する、という事な訳だろう。芯のある芝居はそこに生きる一人ひとりが生き生きと、リアルに、魅力的に存在する。その根っこに人間性への希求がある。さて・・。(言葉を飲み込む私。)

ネタバレBOX

余談だが後でパンフを見返して「西川浩幸」の名を見て少々驚いた(観劇前から判ってろという話だが..)。
芝居を見始めた20年以上前、まだ当時は劇場中継もテレビでやっていて、キャラメルボックスの芝居なんかも放映され、劇団の両頭上川隆也と西川氏のやたら元気に走り回り女の子にワ―キャー言われる役どころ、芝居は女子が好きそうな甘っちょろい(失礼)フィクションで「あ~世の中にはこんな起こり得ない奇跡で慰撫されたい観客がいるものか」と冷めた目で見つつも大真面目に叫び走る俳優諸氏の姿が印象に残った。
以来全く目にしていなかったので、実物にも気づかず、朴訥としたむしろ不器用な役、というより本人キャラに徹し、脳内で両者を照合するが今も結びつかない。ただある一瞬、持てる爪(能ゆえに隠している)がさっとよぎり、目に光が宿ったその瞬間この人は本来主役やれる人なのでは・・と一瞬予感しただけが両者の接点。
それにしても歳月は経った・・。

デンギョ-!(再演)

デンギョ-!(再演)

小松台東

ザ・スズナリ(東京都)

2021/09/01 (水) ~ 2021/09/07 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「山笑う」(初演=僕たちが好きだった川村紗也)と、もう一つ同じ頃観た「小松台東を発見!」と喜んだ舞台があったのだが思い出せず随分と探し、電気工事屋の職人が集まる控室が舞台だった気がするし正面奥にプレハブ用サッシの引き戸もあったと記憶するので「デンギョー!」だったか・・?とまで真剣に考えたが、結局「想いはブーン」であった。(記憶の中の印象とは程遠い「ほのぼの」という口コミが付されていた事でハナから除外してしまった。)
改めて「初観劇」の感想。近作に比べて筆に若さを感じるが、間と説明しなさの攻め具合は変わらず、最後まで判らなかった小暮と松本の夫婦役や終盤やっと判った下請職人(新婚という別の職人の相手が小暮だと勘違い)、後出しジャンケンな展開を松本の力技で正当化する部分など、自分の「読み取れなさ」故に見えたようにも思える穴が気になりながらも、左脳の理解度とは裏腹に終演時我に返って足を掬われた気がした。「よくぞ表現した」と言うしかない幾つもの断片の気づきもそうだが、数日経って振り返ると、いつか自分の中に巣食っていた「接触を遠ざける」感覚を、敢えて破る「抱擁」にあったのでは、とも思う。初日であった。

Le Fils 息子

Le Fils 息子

東京芸術劇場

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2021/08/30 (月) ~ 2021/09/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

2019年の「父」が評判であった同作者による新作、タイトルもずばり「息子」は「母」に始まる三部作の三作目だとか。「ある息子」でなく「いわゆる息子」への眼差しのある、特殊と言えば特殊だが変哲のないと言えばよくある思春期の子と親の物語。フランス人演出舞台は初。演出は淡々とシーンを折り重ねて行く。人物らが渦中にある感情を観客は「演技を介した」記号として受け取る。だが感情移入を排してもそこに「ある」ドラマが、否ドラマのドラマたる所以が、やがて姿を現わす。
舞台を思い出しながらなぜかふと過ぎったのが映画「花様年華」(内容は全く違うが)。幾度も繰り返されるアンニュイなワルツと、どこか覗き見るような(思いきり寄っていようが変わらぬ)カメラの「眼差し」は、この舞台で言えば・・・簡素な装置(十分に「家庭」である事を教えるパーツはある)の無機質な転換の形式が、「実験台」に置かれた人間たちとそれを眺める観客との関係をやんわりと作り、音楽はどこかで聞いたクラシック曲が各場面に当てられ、微かな感情移入を助けるが逆に「いかにも」なニュアンスも湛えて微妙~な線を行く。(場面に寄り添いながらも、一定の距離をとっている感じ。)
お話についてはまた後日。

かわいいサルマ

かわいいサルマ

人形劇団ひとみ座

横浜市教育会館ホール《エコーレ》(神奈川県)

2021/08/18 (水) ~ 2021/08/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

人形劇の「不思議」にもっと魅せられたく、子供向けらしいこの演目にも出かけてみた。劇団アフリカとの共演とあるが、アフリカの童話のバックに3名がジェンベやアフリカ木琴等を生伴奏し、時折ステージにも出てパフォーマンスを行なう(観客参加の振付タイムもあり)。フィーチャリング劇団アフリカの趣きであった。
10日寝かせた正直な感想は、人形自身から滲み出る蠱惑的な雰囲気とテンポ感が、伴奏音楽に座を譲り、いささか勝手が違った。あくまで私の好みに即せばの話だが、「共存」は十分できたと思うがそれにはパフォーマンスの方を少し控えて頂かねばならないだろう(演出的に恐らく)。
前半大きく膨らんだ期待が、後半しぼんだ理由を考え中。

ネタバレBOX

お話はかわいらしく、ある緊張を持って進んで行く。冒頭、広場でいろんな遊びを遊ぶ子供たち、サルマもいる。ご飯に呼びに来る近所のお爺さんとの和やかなやり取り。サルマは目の悪い婆さんと暮らす家に戻って来た。婆さんはサルマの声に喜び、キスをしておくれと言う。ところが婆さんの方は木の置物を孫と間違えて抱き付いたり、今度は花の鉢植えを孫と勘違いしてチャーミングである。
お婆さんは早速サルマに町へお使いを頼む。スイカ、鶏、ジュース、等。サルマを知るらしい市場のお店の人たちはお金を受け取って品物を渡す・・大丈夫、大丈夫。
先ほど「緊張をもって」と書いたのは、生活の営みが人の繋がりの中で成り立つ様は、それが損なわれる因子をその背後に忍ばせているからである。
お使いの帰路、のどかに見えた町は暮れなずみ、建物や路地の影に紛れるようにして、サルマの道行を追う者がある。正体は犬、なのであるが抱えた物を持ってやると親切そうに接近し、徐々に図々しく、サルマが「お出かけ用」に身にまとったスカート、ベスト、ターバン、イヤリング等も全て自分の物にして去る。彼は満足したわけではなく、サルマをこよなく愛する婆さんもわが物にしようとサルマの家へ向かったのだった。
ここで、何でも欲しがる犬で連想するのは「千と千尋」のカオナシなのであるが、赤ずきんの狼もサルマの犬も、「与えられなかった者の病理としての欲・孤独」というモチーフが頭をよぎる。
もっとも童話としてのこのお話は犬が実際に婆さんの家に辿り着き、「おやサルマいつからそんなに鼻が濡れているんだい」「どうして毛がふさふさなんだい」といった赤ずきん風の「見せ場」となるのだが、この「犬も意外とチャーミング」の線を行くなら、この後、村の「神様」に頼んだ村人たちが犬を「コテンパン!」に懲らしめるという挙に出るのがどうもやりすぎに感じられる。何よりも、懲らしめのシーンが長い。水戸黄門なら仰山いる悪人共を成敗するには時間が掛かるだろうが、このお話の犬はさほど強そうでもなく、ただただ「厳しい制裁」の時間が続く。とっくの昔に「反省」してそうなのに。
ところで私が途中までこの舞台に見ていたドラマは、こうだ。犬はコミュニティの紐帯や信頼を破壊する存在の象徴。サルマの訴えを聞いた村人たちが「闘い」に立ち上がるシーンは、劇団アフリカの地を鳴らすような太鼓の伴奏に鼓舞され、熱くたぎって来るものがある。
道理を違えた悪なる存在、それは例えば昔、自らの持ち込んだ法を一方的に押し付け利権を構築し現地人を従属させた西欧人であり、未だに南北問題を再生産して改まる事のない現代世界の構造である。そうした存在に、徒手空拳で立ち向かう悲壮かつ楽観的な決意を、微かにではあるが、シーンの背後に見る思いがしたのだった。
が、犬は熱湯をかけられ、ぶたれ、とことんいじめ抜かれてボロボロにされる。物語的には「痛快」という事になっているのだが、しかし犬はただ人間の言葉を聞き分け悪知恵の働く「人ならぬ者」として存在し、処理されるだけに終わるので、どうもスッキリしないのである。
子どもたちがどう受け止めたか、心の声を聞きたいところであるが、私は勧善懲悪の「良い側」=「強い側」図式を教え込むだけの教材になってはしないか、と懸念がよぎる。まあ教育問題はさておいて、「感動」の観点から見て私は「子どもを舐めるでない」という思いが起こる。
それは音楽を活用した演出の問題でもある。音楽を活用する場合、明快なドラマの場面の意味を「増幅」するのに適しているのが音楽だと思う(稀に物凄く微細なニュアンスを表現する阿部海太郎や、殆ど環境音ほどに芝居に同化して気づかせない国広和毅といった音楽家を除いて)。
「犬」を何のメタファーとしてイメージさせるか、という所に一考が欲しかった。音楽の活用法も変わったのではないか。
4

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ティーファクトリー

あうるすぽっと(東京都)

2021/08/18 (水) ~ 2021/08/24 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々のあうるすぽっと。最後は何時だったかと手帳を捲ってみたら1年半前、同じくTfactoryの「クリシェ」であった。その僅か2か月前「8人の女たち」をあうるで観ているが随分昔の事のように思え、「クリシェ」はつい最近な気がする。この記憶の錯覚はどこから・・?
無駄話はさておき。
証言を構成した舞台は一昨年の「ノート」もその範疇と言えそうだが手触りは全く違う。ある死刑囚の死刑を巡る立場の異なる4名がそれぞれ一しきり証言をするので「4」であるらしい。自身の証言かと思いきや、「うまく行かないので立場を入れ替えたい」とこぼす者があり、また最初から「証言」の時間が再生される。極刑判決を支持した裁判員の一人、刑務官の一人、死刑執行指示にサインを書いた法務大臣、そして死刑囚。ある種の思考実験の模様であるが、役者は5名。一名が脱落した事で、実験の進行役としてそれまであまり姿を見せなかった残りの一名が証言する役を買って出、最終クールの気配から収束へ向かう。
仮設ホリゾントのような白い可動式の壁面と床面には、証言者ごとに木漏れ日や抽象的な模様の映像だか照明が当たり、場所と時を特定しない異空間を作る。意味深な台詞とも相まって、果して証言者がその役どころを担わされた実験の参加者に過ぎないのか、設定に深く関与している(実は本人性が高い)人物なのか、峻別が危うくなって来る。
テーマは明確に死刑制度の是非という事になるが、証言で構成される物語が仮想でありながらリアルさを帯びる微妙なラインが川村氏の狙いである事は明白。ただし終盤は混沌として整理を付ける事なく観客は放り出されるが、実に感触の良い時間であった。この所必ずどこかで寝るのが観劇のスタンダードとなった自分だが、深い眠りに落ちた御仁が周りに散見される中、一度も寝落ちせず観た(台詞落ちは多々あったが)。役者が魅せる舞台でもあり。

ローマの休日と東京の仕事

ローマの休日と東京の仕事

リブレセン 劇団離風霊船

日本聖書神学校礼拝堂(東京都)

2021/08/24 (火) ~ 2021/08/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

時間が出来たので急きょ予約を申込み、観劇した。離風霊船は数年前の『ゴジラ』が初で今回が二度目。前回の「楽屋」に並び企画性が目を引く事と、大橋・伊東両名の名も出ていない事からプロデュースに徹した公演?と、まあ特に気にもしなかったのだが先程HPを見ると演出・出演の松戸氏が離風霊船団員であった(そういえば前説も同氏)。
会場は神学校内の礼拝堂。特に違和感なく開幕を待つ。礼拝堂には演劇やパフォーマンスを行なう場所の性質を元来有している感じがある。この会場は外界とのディスタンス感もあり、内装は新しくシンプルで不要物がなく清潔感あり、出はけの工夫もなされ、暗転がない事を除けば十分に芝居がやれていた。
出入りに多用されるのが、礼拝堂ならではの長椅子を真ん中で分けて作った赤いバージンロード。
ドラマの方は穴だらけのコメディではあるが、歌あり俳優による生ピアノあり、うまい俳優が舞台を盛り立てていた。

ネタバレBOX

ドラマについて一つだけ注文を付けるなら、(今時いない)清純派で売る予定の箱入り娘(父の事務所に所属しマネージャーである母の指示に従って仕事をし窮屈な生活をしている)が、女優を夢見た原点である「ローマの休日」のヘプバーンの自由さとは正反対の自分自身に悩み、ローマの休日の「ロ」も口に出す事さえ封印する厳格な母という壁を乗りこえようとする前段から、いざ本人がたまたま出会った者たち(これがまた多い)にも助けられ家出(ローマへの旅)を果たす段になって母は元々娘を思い、彼女のローマ行きを見越し、応援している、という展開になる。どうも作者が最初の設定を書いてる途中で変えたのでは?と訝られる180度の転換で、この時このお話は「敵」を失い、容易に敵の見えない現代日本でぼんやりと自由を唱えて生きる等身大の現代人がそこに居たというだけの話になってしまった。
近い人間の悪、凡庸な人間の悪はコメディにはそぐわない?とも思えないのだが。。
「替え玉」の実態が全く想像できなかったが、そういう部分よりも何か私たちにとって卑近で大きな敵、ないし壁を越えて人生の新しい局面に立ったという、感動が薄かったのは少々淋しい。

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