tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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能『羽衣』

能『羽衣』

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2021/11/17 (水) ~ 2021/11/17 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

シアターXレパートリー久々の観劇は能。一回公演だがうまく時間が合って観る事ができた。Xではお馴染みの清水寛二氏のシテと、ワキ1名による「羽衣」はフルバージョンだという。純正の「能」は夏に新作能をやはり清水氏の企画と主演で観て衝撃であったが、こちらは古典の割と知られた能の演目で、「絶対に寝る」法則が当てはまるかどうかも検証。うとうとはしたが、完眠は避けられた。もっとも、うとうとして良いのだと思っている。音楽劇であり能役者の動きや喋りは説明的部分と言え、五感に来るのは強烈な「音楽」、即ち地謡と囃子である。これは心地よいので眠って良いのだ。恐らくかなり良質な睡眠が約束される(私の隣の青年はほぼ寝続けていた)。
それはともかく、「羽衣」は、能の多くが鎮魂を描く処の複式夢幻能とは異なり、羽衣を浜に忘れた天女がそれを拾った漁師に頼むと「舞いを舞う」事を条件に返してやるというので舞うという話。ミソは、天女の舞いは羽衣を着て舞うものなので、衣を返すように言うと漁師は「先に返したらそれを着て天に帰って行ってしまうだろう」と疑いをかける。すると、嘘は人間のもの、天に嘘などというものはないと天女は告げ、漁師に羽衣を返してもらうというやり取り。
シアターXでの能公演は十数年前、観世榮夫らによって多田富雄の新作能「原爆忌」が演じられたというが、毎年のレパートリーにしようという話が、観世氏や中心人物が翌年相次いで亡くなり、立ち消えたという。今後Xでは能の企画を積極的に考えて行くというので、ちょっと楽しみ。

15(Fifteen)

15(Fifteen)

円盤ライダー

アトリエファンファーレ東池袋(東京都)

2021/10/25 (月) ~ 2021/10/31 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

円盤ライダーは確か3度目か。以前観たのもそうだが、舞台として仮に設定した場そのものの面影を残したまま、芝居は何となく始まり、次第に世界が出来て行く。社会に生きる男が登場人物で、個々のキャラに合った(実際そういう仕事に就いてるようにも見える)人物を演じるその風味がこの劇団の魅力であったりするのだな。途中何だかケッサクな場面も織り込まれて、美味しい時間であった。(女性が登場する円盤ライダーは初めてか。)

藤田嗣治〜白い暗闇〜

藤田嗣治〜白い暗闇〜

劇団印象-indian elephant-

小劇場B1(東京都)

2021/10/27 (水) ~ 2021/11/02 (火)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

「ケストナー」に続き歴史上の人物(芸術家)を戦争との関わりを焦点化して描いた秀作。前作が初見の劇団印象の過去作は見てはいないが「演出家」のユニットという認識は「劇作家」のそれに変った。
「戦争画」を巡ってのやり取りに後半長い時間が割かれている。
話は逸れるが・・今ハマってる朝ドラが「花子とアン」(時々思いついたように過去の朝ドラを見る事がある)なのだが、村岡花子の幼少からの人生をじっくり描いていてスパンが長い。「赤毛のアン」はいつ出て来るのかと思いながら見ていたら、殆ど最終段階に、ひそやかに、その英文の本が手渡される。今、それどころではない、戦争の渦中に。ドラマは花子(本名ははな)が甲府の貧しい農家から東京の女学校に上がり、社会人になった頃でもまだ大正時代、社会は徐々にきな臭さを帯びるが、描かれるのはあくまで花子の生活圏のドラマ。時折「社会」の風が姿を見せるのであったが、回も大詰めを迎えた第141回の今は日米戦争真っただ中の1943年。社会(国)は覆っていた布の下から露見した般若の形相でむき出しの暴力性をあらわしている。1930年代後半から強まっていた息苦しさが、息継ぎをする間も与えられず胸が抉られるように苦しい。あと2年もこの時を耐えねばならないのか、と。

・・芝居に戻れば、主人公・藤田嗣治が芸術家が食って行けない時代に「戦争画」を書いた、と言ってしまえば実も蓋も無いが、芝居ではこの藤田にそれを書かせるまでに様々な契機を与え、周囲に説得させている。つまり「何故」との問いに単純には答えられない「戦争期」というトンネルを潜った藤田の暗中模索の時間を思うのである。ポツダム宣言受諾後「戦争犯罪」の訴追を予想した、架空の弁明の台に芝居は藤田を立たせる。体制に協力したか否かは、確かに重要であろうが、この作品が描く藤田は果たして何に学べただろうか、とふと思ってしまう。
コロナの間、いとも簡単に「一色」になり、お上の制限を受け入れ、殆ど感染確率のない不要な「対策」を自らの判断で受け入れるだけならまだしも、他人を非難する行為が(TV出演の医師、専門家の一部さえも)横行した。
学ぶべき財産である先人の大きな失敗から、何も学んでいない日本の現実を見れば、それに比べて一人の画家の当局への協力が、戦争を「描く」という行為が、何ほどのものだろうというのが実感だ。

「アン」に戻れば・・(戻る必要もないが)
花子とは紆余曲折ありつつも常に腹心の友であった蓮子(白蓮、仲間由紀恵)は、愛を貫いて築いた家庭を守る思いばかりでなく、子どもたちのために戦争を終らせねばならないと昔とった杵柄、活動家として動き始める夫にも理解を示し、心の底で結ばれている。その蓮子は「一色に染まる」時代の変化にいち早く違和感を抱き、その事を言葉にする。それに対し、まだその時は「空気に逆らわない事が個人のため(時代がこんなだから)」と信じて周囲を気遣っていた花子は、同じように蓮子に「口にしない」ことを助言するが、既に夫が一度投獄され、現状に甘んじる事こそ子供たちへの裏切りと強く感じている蓮子にとって、「何も言わない・しない」事はあり得ない選択であり、花子に「あなたのような卑怯な生き方はしない」と言わしめる。
戦争を背景にした生活の細部での理不尽さ(大いなる滑稽さ)を、このドラマでは「静かに」描いている。
2014年放映というから、「まだ」7年だが、震災・原発事故の記憶がまだ生々しい中、このような真摯にテーマ性と向き合う場面が作れた時代だったのだな、と思う。この後、戦争法案可決、20万人デモが徒労に終わった揺り戻し、安倍政権のやりたい放題(森友、加計、文書偽造(役人忖度によるが圧力はあったのでは)、統計偽造や統計法変更(アベノミクス成功を印象づける)等々)と、個々の案件は個々のものだが「それを許す」面倒臭がりの市民を生み出した。中でも地味で大きな変化は報道に携わる人員の変化だろう。
蓮子と袂を分かつことになった花子も、譲れない一線を見てある決断をする。
恐らくドラマは戦争の経過をなぞり、降伏。花子は翻訳を完遂し、広く読まれる事になった「赤毛のアン」の初版本の装幀のアップで終わるのだろう。
戦争を生きた者にとっては、忘れたい時代であるかも知れない。だが、そこから何かを見つけなければ、踏み締めがいのある足がかりがなければ、望みの持てる未来への期待など湧いてこないのではないか。苦痛を避けたい弱い存在であるが、苦痛の中に希望を見ようとするのも悪くないと思ってみる今日である。

女は泣かない

女は泣かない

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2021/11/05 (金) ~ 2021/11/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

女性の性被害を扱った作品で、男性には想像を超える重い題材ではあるが、不思議な感覚で面白く観た。一つにはミステリー要素のある戯曲、一つには無機的に流れる時間(の酷薄さ)を介在させた演出が、「問題」への踏み込みの深さにも関わらず男性客の凝視を可能にしていた。後者についてはユニークな美術と、抑制しつつも暗くなり過ぎない照明が印象的。長~いテーブルとこれに付随した台が、場転では必ず反時計回りに回るが、テーブルの動きはある点を軸とした回転であり付随する台はテーブルの先端を軸としてまた独自に動くので惑星と衛星の公転の早回しにも見えたり、とにかく物理学的である。
幼少時の義父からの性虐待体験をカムアウトしその分野の研究で教鞭を取る大学教員の主人公(森尾舞)は時に別居中の夫と会い、時に「事件」の参考人として2人の刑事の訪問を受けるが、芝居の中では彼女の想念なのか作者の観念なのか、被害女性(恐らく「事件」で殺害された?)が登場し、彼女自身の中のまだ解消しない被害者性を表わす。想念の中に登場するもう一人の寡黙な男性は「元夫」とパンフにあったが芝居中そうとは気づけなかった。実は彼女の夫が、状況証拠から事件の犯人と疑われているが、刑事の訪問を疎ましく思いながら彼女自身は事件の起こった夜、睡眠薬を飲んで眠っていたため夫のアリバイを証明できないにも関わらず「自分と寝ていた」と証言していた。夫が性犯罪事件の当事者である、という可能性は、彼女が「過去」を克服した証を揺るがすものに思われ、彼女はその可能性を封印しようとした・・台詞を繋ぎ合わせると概略そういう事である。嘘は解消しない何かがある事を逆に示しており、やがて彼女は義父と実母が暮らす実家にやって来る。カラオケ店を始めたのがうまく行っているようだが、ここでの母の娘への気づかいと脆弱さ、義父の無神経さ、不遜さがキムチの匂いの如くリアルに生々しく描写される。母は哀れだが娘を助けなかった意味で共犯だと子供は思う。してやれる事をしたいと母は思うがそのどれもが虚しい仕業である事も知っており、ただ泣く以外に無い姿に「一体何が解決なのか」と途方に暮れる。
芝居は彼女をして「嘘」の証言を刑事に吐露せしめ、夫に対して「避けていた質問を今夜、投げてみる」勇気を持たしめる。「危険だ」と告げる刑事を彼女は黙らせ、夫との対決に向かおうとする所で芝居は終わる。犯人の正解を示さないだろう事は予想通りであるが、その事によって「ミステリー」に引き寄せられていた者は、残された「問題」に向き合わされる。
妻と夫とのやり取りは、その関係も、ユニークで確かに夫はサイコパス的に描かれていて面白い。(「羊たちの沈黙」でのレクターと女刑事とのやり取りと同種の面白さ。)
主人公が夫との間の「曖昧さ」の中に温存した何かを手放す決意をした事は、「問題」との関連では何を意味するのか・・判らない部分が多いが、しかし「問題」が及ぼす当事者の心理を第一とするのでなく、使命に殉ずる事を潔しとする彼女が「全て良きものは真実から導き出すしかない」という信念を貫徹しようとしたと解釈するのが正解に近いかと思う。「殺人事件」は小さな事ではないが、彼女と夫との間の関係にとってはまた別の意味を持つ。彼女は犯人検挙のため、ではなく、性被害にあい、勇気をもって「証言」した女性が貶められる現実の中で、自らがとるべき態度を選択した。

ちーちゃな世界

ちーちゃな世界

青春事情

駅前劇場(東京都)

2021/10/27 (水) ~ 2021/10/31 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

前回映像で初観劇し、今回も映像で拝見。面白く観た。ペンションに集った人々が中庭的な場所で接触し、来歴を知ったりする。本折最強ひとし演じるオーナーとその妻(後藤飛鳥)が独特な風味を放ちながら背景画のように存在するが、記憶が長く持たない障害を持つ妻と日々付き合うオーナーがどこまでも「悲観」を遠ざける人で、最後に全てを失った状況でその存在感が浮上する。「まあ、大丈夫ですよ」。この言葉との認知的不協和を解消するかのような、予期せぬラストが唐突に訪れる。願望のこめられた結末がリアリティを踏み越えても成立する部類、にんまりという奴。

おせん -煎餅の神様-

おせん -煎餅の神様-

さんらん

アトリエ第Q藝術(東京都)

2021/11/03 (水) ~ 2021/11/09 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

楽しく美味しい芝居であった。
着想が面白いな~と思う。で、キーになる人物が「らしく」立ち上がっている。荒唐無稽さがほのぼの。それは「リアル」の土台が作られているから。フォーカスされている世界(業界)に限らず、社会の片隅で思いとこだわりを持って生きている実在の人々の夢が、これも劇中語られるがコロナの前に潰えている事を思う。

ネタバレBOX

未だにマスコミは感染の「数」だけを伝える風習をやめない。
「数」が厄災となるのは医療体制が構築できないからという道理の「見える化」にマスコミが躊躇する理由は何だろう...日本の病院の殆どが民間のため経営が優先され、その業界団体である医師会の発言力は強いため、これらを公機能として再編するには行政による調整に甚大なエネルギーを要し、財政的フォローも必要となるだろうにしても。といった事には触れず、「唯一の解決法」としての活動自粛(緊急事態宣言など)をちらつかせる。あとはせいぜい医薬品開発の最新情報とか。
活動自粛とは、文化(食文化も含め)享受の機会を減らす事であり経済を沈滞させる事。それ以前に人から自由な行動権を奪う事。情報番組も未だ感染症医師を呼んで「やはりこういった事が気の緩みに繋がり、感染を広げるリスクを高めます」とどこを切っても同じ金太郎飴コメントを言わせている。人はいずれ死ぬ。その確率が僅かでも、同じコメントがアナウンスされ続けそうだ。思考停止した人間にとっては変わらぬ日常がよく、行動指針を他者に示してもらうのが安心(責任とらなくて良いから)、感染症騒ぎはその分かりやすい指針を示し、他者との共通の関心が提供される感覚。
人が動かないという事自体が「感染」よりも大きな社会的なダメージになり得る、という認識が報道現場に無ければならぬ。・・そうしている間に南西諸島の自衛隊配備はどんどん進み、日本の領空は米軍に牛耳られたままであり、日本の食糧自給率や安全性や主導力を売り渡しても平気らしい政治家の集団が再び政権をとり・・・南無。
フタマツヅキ

フタマツヅキ

iaku

シアタートラム(東京都)

2021/10/28 (木) ~ 2021/11/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

疫禍の潮が引いて芝居の上演も盛況、こちらは訪問先の選定悩ましい折、一旦候補から外していたiakuの新作を日程が嵌まって観劇。
常連の清水直子、橋爪未萠里に加えて役人物にハマった個性的俳優らの競演は、整ったフォームを描いて無事着地した(体操競技の喩え也)。
好きな落語を扱っている事が冒頭で判り、心でにんまりする。あれ?この人。そうそうオイスターズ主宰の平塚氏も出演とあったな。そのまんまじゃん。横移動したら役の形にはまったという感じ。オイスターズの舞台がそれであるが決して「狙ってる」気配を出さない。
落語を扱った芝居と言えば
Mrs.fictionsの「花柄八景」を面白く観たが、どこか共通するのは落語が描くふわっと軽やかで洒脱な世界を地で行こうとする芸人の姿への憧憬。
若い二人のエピソードだけは一方と交わらずに進むが、やがてきちんと繋がる。繋がるには繋がるのだが、時代の違う二人の役を演じる一方の組は雰囲気は近いが体型全然違う、他方の組は体型近いが雰囲気がまるで違う。それでも何か心地よく成立している。
清水直子が夫と息子の不仲の間で必死に立ち回る姿が笑えて泣けて、哀れで笑える。

ネタバレBOX

モロ師岡演じる芸人(崩れ)とその妻(清水)は実は芸人とファンのカップルで、自死を思いとどまった女はあっけらかんと他人に尽くす役回りに情熱を注いで突っ走る。だが彼女はピンで漫談をやっていた夫にある時落語を勧める。
現在から見ると彼は落語家を志望し、挫折した人、となるが実は以前は気楽な漫談家であった。彼は芝居の後半で本音を吐露する。妻の期待がプレッシャーだった事、落語など敷居が高くてやれないのに事あるごとに勧められ、今も縛られている・・。このくだり、「わろてんか」の中盤に出て来る落語家志望の北村有起哉とその師匠の娘(中村ゆり)を彷彿させた。俺はやりたくなかったのに、こいつがやれやれとうるさく言うんだろう、と言う。
そこに真実があるかのように錯視すると、元々やりたくなかった事など長続きするはずがない、真実に向き合えて良かった、となるが、この芝居では妻が最後には我が儘を言い、駄々をこねる。夫の落語が聞きたい、夢を見させてほしい・・。かつて子どもの頃息子は父と二人で「初天神」を台詞分担してやった事があった。それをやるしか母さんを立ち直らせる方法はない、と二人はつい仲違いの事も忘れて、これをやる。襖の向こうの母は立て籠もり状態。母はかすがい、というお話。
音楽劇 百夜車

音楽劇 百夜車

あやめ十八番

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2021/10/29 (金) ~ 2021/11/02 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

うむ。悪くなかった。
あやめ十八番、三度目であった。前回は吉祥寺にて、タッパのある装置を使い、「悪くない」舞台だったよう。
本作は「おや現代劇?」(あやめなのに)と珍し気に見ていると、「古典が好き」を導入に和歌のやり取り、台詞の調子と共に世界観が立ち上がる。今回も高さを使った装置で上段に演奏エリアを設け、役者も上り下りしてそのエリアを使う。奏者5名の内、二人は役もやる。
音楽劇のタイトルに違わずミュージカル風に歌が挿入されるものの、「劇的」における歌の効果はさほどでない(台詞だけを喋っても情報的に変わらない)。加えてテキストの方も快調と行かないのだが、最後に帳尻が合った。我慢の甲斐あり、である。

ぽに

ぽに

劇団た組

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2021/10/28 (木) ~ 2021/11/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

私小説的な痛い話だが、超常的設定で軟らかく膨らみのある劇世界を作っていた。
知らない劇団(ユニット?)だが、出演者の名を見て観劇。津村知与志、平原テツ、金子岳憲、安川まり(最近お目にかかってる)と美味しい面々だが、他の役者もぐぐると映像出演頻度高く、世間的にはこっちの方が著名のよう・・とすれば作・演出の加藤某はそれなりの御仁?と推察されるが、名も初めてで来歴は調べていない。その内また、行き当たるだろう。
ドラマツルギー的には、松本穂香演じる学卒フリーター(一応進路の希望はある)が「就職できてない」という一事に言い尽くされている所の、甘さに、つけこまれて泣きを見る男女関係の行方という軸と、ベビーシッターのバイトで知った男の子との奇妙な関係という軸が交差する作りになっている。前者は「社会性」という名の実は実体のないコードをクリアしている事を自他に示そうとする自我に翻弄される「オモテ世間」的なひりひりする時間が描かれる。しかし後者では、彼女の人間的な可能性の微かな気配を漂わせる。終局で「「社会性」的にアウト」な己の実像に向き合わされる手前、彼女が出会った「友達」(と敢えて呼ぶ)は利害関係のない(むしろ彼女が自分の部屋という場所の便宜を供与する)相手であり、初めて人間的な他者との繋がりの気配がみえるのだが、しかしその存在はこの世に属するがこの世ならぬものであり、ある種の「夢」と捉える事もできる。(ここで「マルホランド・ドライブ」を思い出す。)
前者での社会性における(主観的には大きな瑕疵とは思えない)不徹底は、あらゆる局面で彼女に破綻の影を落としているが、大地震(停電と帰宅困難者の3.11の東京を想起させる)を機にそれらがそれぞれの形で噴出する。
彼女は十分頑張っている・・・そう弁護したい自分がいるからこそ、恋人(というよりセフレ状態)のどこまでも上からの態度と最後には暴力でプライドを維持しようとする挙動にめらめらと怒りが湧いたが、しかし彼女のどうしようもなく甘い生き方、社会への態度(容姿に恵まれて来た事が災い?)にその遠因を求めてしまう。
まあそう描いているんだろうけれど。。私のかなり近い所にいる彼女のような人のことが思い浮かび、「痛い」と心で疼いていた。

『動ける/動けない 言える/言えない』を考えるWS 試演会

『動ける/動けない 言える/言えない』を考えるWS 試演会

升味企画

アトリエ春風舎(東京都)

2021/10/24 (日) ~ 2021/10/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

出演者観客共に若い層。「試演会」のレベルや如何に、とフタを開けた一作目はどっと疲れて後悔が過ぎったが二作目、三作目は収穫であった。椅子にじっと座る、という行為はそもそも苦行であった(幸運な事にそのことを忘れていた)。目の前の現象によって苦痛を忘れ、心が動き活力が湧く。血流、脳内分泌物の力。演劇とはナゾな代物である。

ネタバレBOX

「若い」と言ったのは一つ目の出し物の関心事であるらしい「喧嘩ができる/できない」という問いに発する彼らの「あり方」が、自分のエリアに届いて来なかったから。というのと、就寝前30前に行なっているらしいワークのルールが不明。2人×3組の一対一の関係性の描写をやるが、面白い領域に行きそうな所、ピッと体操用の笛が鳴り、審判が「注意」と言って止める。このルールが判らない。ルールは大事だと思うんである。
二作目は升味女史らしいヒント少な目の台詞でナゾが次第に浮かび上って解かれるお話で、今回の「試み」の趣旨との関連は分からないが出し物として面白い。
三作目は友人、家族、関係性の点描が少ないキーワードで淡い水彩画のように見えてくる感じで、好感が持てた。
各15~20分。
紙屋悦子の青春【9月28日~29日公演中止】

紙屋悦子の青春【9月28日~29日公演中止】

(公財)可児市文化芸術振興財団

吉祥寺シアター(東京都)

2021/10/20 (水) ~ 2021/10/28 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

最も楽しみにしていた公演の一つ。観劇叶って幸福である。
黒木和雄晩年の監督作として題名を知っていたのが実は松田正隆原作と知り、数年前に映画版を見た、という記憶だけ持って(ストーリーを思い出さず)劇場へ。もっとも私めこの度は俳優陣に注目。「あつい胸さわぎ」の枝元、昨年4公演で目にした(突如現れた感ある)新人平体もさる事ながら、私としては文化座藤原氏、過去客演もあったが今回のようなプロデュース色の強い公演で、どんな存在感を発揮するか等楽しみに開幕を待つ。その部分の関心についてのみ言えば、無言の嘆息。脇役だがある意味での主役、誰もがやれる訳でない役どころを存分に形象していた。
あ、と映画を思い出したのは兵士二人が悦子の実家を訪れ、卓に置かれた布のかぶさった皿の中身が「おはぎ」らしい(昨夜女らが話していた)と気付いた時。見合い相手の男がこれをパクパクと食う。情感豊かなシーンである。
小さな、町の片隅に生まれてやがて消えて行く人生を体現する平体の小さな体、飛行機もろとも消えた思い人の命(同僚を見合い相手として彼女に紹介した)を、無言で見つめる小さな眼差し。おっちょこちょいだが実直で、今思いついた好意を伝える表現としてひたすらおはぎを食べ続ける今日婚約者となった男。悦子の思いを知り、最後の挨拶に来た青年との最後の時を悦子に与えようと必死に立ち回る義姉(女学校時代の親友で兄の嫁)、その夫。プロデュース公演色もゼロではなかったが、ala発舞台の前例に違わぬ温もりのある上質な舞台だった。

ネタバレBOX

近頃苦言が多いのはそういう年寄になり行く予兆か(いや前からそうか)。
長崎弁で紡ぐ松田作品の傾向を自分が知っているせいなのか、序盤から枝元女史による飛ばしが会場の笑い(比較的高年齢層と思しい声)を逐一起こすが、若干違和感を催す。「そんなに笑いたいか」と。特に・・左隣の女性は地声が大きく、枝元が「笑いに行くぞ」という構えに入った瞬間に笑いを発する、まではまだ良いが、アハハハ、と笑った後「fnnnnn~」と声が続くのには参った。(やれやれ、とか、ああ可笑しかった、というニュアンスの、自分なりの生理現象に終止符を打つ発声だ。)耳に絡みつくfnnnn~。「おいおい、まだ芝居は続いてるぞ、あんたが笑った直後の場面が一番大事だろ、ちゃんと見て頂戴よ。」・・と段々腹が立って来て、左耳に指を当てる事となった。まあこの時この人には「公然と笑う」機会が必要だったのかも知れぬが・・
物語に戦争ゆえの深刻な影が落ちてくると、隣への警戒心から解放され、芝居に見入った。
楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

アン・ラト(unrato)

赤坂RED/THEATER(東京都)

2021/10/16 (土) ~ 2021/10/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

一つまた新しい発見となった。じっくり丁寧に描き出す『楽屋』。

ネタバレBOX

上演によっては1時間を切る戯曲だが、この入場料を取るだけの内容に出来るのか・・と下世話な関心も持ちながら久々の赤坂RED THEATERの座り心地良い座席に収まる。
開演。照明に照らされた舞台美術にまず目を奪われる(「楽屋」を見慣れてるので)。「演出」の仕事を印象づける大河内直子、今回はこれか、とまず思う。以前同じく赤坂REDで観たunrato舞台に少し似る(美術 石原敬)。雑然かつ整然と、くすんだ鏡台や調度が置かれ、ススキの穂がそこここに顔を出す。野に吹く風の音。小さく流れてくる優しく包む系の音楽(確かピアノ音)の中に、小鼓の音がポンと微かに鳴り、空耳かと疑っているとまた遠くで「よおーっ」と聞こえる。能のモチーフである鎮魂の舞台はなべてかつて戦乱のあった野っ原であったと合点する。

楽屋を演じてきた女優たちの中で、飛び抜けて達者だという訳でないが、実力の確かな所はunratoの求めるレベルを担保。まず最初の見せ場、女優A、Bの演技のやり取りの中でもAがノリノリでやる「斬られの仙太」。渡世人の喋りを保坂知寿の細い低音が小気味よくぐっと来る。
女優Dが登場して女優Cが舞台から戻った後の二人のやり取りとそのA、Bの受けで進むアンサンブルの場面は、A、Bがやや控えめ(二人の会話に気をとられて互いに奇妙なメイクをしてしまう所は実際にはやらず)、だが精神を病んだDが去った後、女優人生を振り返るDの独白場面は過去観た「楽屋」の中で最大級に熱を帯びた。「出来る女優」然を形象できる女優が激情を迸らせると、リアルにその自負と孤独が浮き彫りになった。先まで陰でDを悪口を投げていたA、Bが、心の底から共振し静かに聞き入り、正面(鏡)を向く二人の内面をさらした表情が揺らぐ照明の中に浮かぶ。
クライマックスをこの場面に置いた事で、最終場面(Dが亡霊となって再び現れる)が若干厳しくなるが丁寧に切り抜けていた。静かに意気投合した三人は下手端の蓄音機に生のレコードを置いて針を落とし、三人姉妹の役らしい衣裳を各人がまとう。感情を高ぶらせ過ぎず、押さえ過ぎず、イリーナ、マーシャ、オリガが台詞を言い、オリガの途中で照明が落ち、台詞「それが判ったなら」が残る。風。

殆ど大勢に影響のない難点を敢えて挙げれば、冒頭場面でDが忙しく鏡を覗いてメイクをチェックする目線が鏡面と垂直でなく斜めだった事(やっぱそこはリアルに)。AとBの二人が言い合いになって物を投げ合う所で、最後の一投げ「えいっ」(畜生という心の声)が欲しかった。DがCの迫りに思わず激高して酒瓶を手に殴る所は「咄嗟」にしては手を伸ばす距離が(重箱の隅だが、逆に他が完璧という証左?)。
ただしその殴った瞬間(衝撃音)、その酒瓶(割れたず)があっと言う間にどこかへ消え、目で探したが見つからず、うまい処理であった。
(上演時間:1時間20分)
或る、ノライヌ

或る、ノライヌ

KAKUTA

すみだパークシアター倉(東京都)

2021/09/25 (土) ~ 2021/10/05 (火)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

劇場で観劇し、配信も観たのは確か初めて。eplus streamingだったが音声、画像ともに実演のクオリティに見劣りせずがっつりと「観劇」できた。
複数のエピソードとそれにマッチしたディテイル、また戯曲上のアイデアが詰まった劇。宿命的に受動的である人間が、新たな風景の中から能動性の欠片を探すのに「旅」は相応しく、車窓の景色のように移り変わる場面に二時間四十五分はあっと言う間に過ぎる。かつお、という名の犬の目線が効果的だが、飼い主を渡り歩くかつおと、彼が町や旅先で遭遇する「人生の師匠」ジョージの姿は寄る辺ない人間存在を象徴してもいる。
幾つもの印象的な台詞、おいしい場面、心から愛おしく感じられる人物たち。
出演者全てが劇団員という、KAKUTAなる集団の成り立ちも独特である。

ネタバレBOX

韓国語を喧しく喋るアジュモニの居る新大久保にある元探偵事務所に住む女・國子(桑原裕子)、失踪した彼女の相手(不倫)・正哉が置いて行った飼い犬かつお(谷恭輔)、探偵事務所時代國子に恩義があり、犬の世話を引き受ける男・小波(細村雄志)、建設会社で内部告発をして干された國子の兄・湊人(若狭勝也)。方や北海道の斜里町からそれぞれ上京してある時出会った幼馴染の男女・誉(森崎健康)と聖美(多田香織)、誉が職場で当てがわれた寮の同部屋に住む女性とその同性交際相手のカップル・智恵子(四浦麻希)とマアル(高野由紀子)。新大久保の町から、芝居前半の半ば、かつおと國子、引き籠りのはずの兄湊人が、小波の車で北海道を目指して旅立つ。芝居の三分の二は道中記となり、(個人の回想以外は)時系列に話は進んで行く。
旅のきっかけは小波が探偵として、正哉の正妻・沙梨(酒井晴江)の経営するエステに潜入して得た情報。札幌のとある病院の入院患者を見舞い、携帯を忘れたらしいという。國子は正哉の影を追うが、誉もじつは聖美の影を追って北海道へ向かっていて、誉と國子は札幌の病院で、遭遇する。

震災から3年後の設定である。道中、被災の跡のまだ生々しい海辺で、同じく北海道へワゴンで移動中の美帆(異儀田夏葉)と出会う。彼女とは北海道の病院でのすったもんだの後に再会し、旅慣れたトラック運転手である彼女の案内する民泊や、実は彼女の今回の旅の目的であった「妹のお迎え」と称する自給自足集団からの奪還作戦と、先の読めない賑やかな旅となる。車中「知床旅情」の歌で盛り上がる光景が、ロードムービーの気分を高めて情感がある。
美帆の行きつけの民泊では歯に衣着せぬ婆と、次男夫婦、長男の嫁がいるが、夫を亡くして失声症となった(でも明るい)嫁と、國子の兄・湊人との出会いがある。
車の旅に同行したかつお(飛行機にしなかったのは犬は貨物扱いにされるからとイヌ愛の深い小波が反対した)は、被災地の海、そして北海道で、先輩の犬ジョージ(成清正紀)と出会う。人間界から一定の距離をとった犬の世界での二人(二匹?)の存在は、リアルの犬らしさと人間のメタファー要素を併せ持ち、絶妙な描写である。北海道で彼の声を耳にしたかつおは國子の持つリードを振り切って駆け出す。そこにじっと立つ傷を負ったジョージの姿が胸に来る。誇り高く生きた彼は、車に引かれたらしい負傷した体で必死で立ちながらも、「ママ」(彼に立派な首輪をつけた)の幻影に近づこうと歩く。夕闇迫る中、不安に駆られ吠えるかつおを國子は見つけ、抱きしめる。そして遠くから、ジョージと思しい「負傷した犬」を見つけたと叫ぶ小波の声が遠くから聞こえる。弱味をみせず胸を張って立つ「美学」は現実の前に容易く剥がれ、孤独の内にあったろう彼の姿を犬を愛する小波の視線が捉えた事に、心からの安堵が広がる。
正哉(登場しない)と聖美を追った誉と國子の二人は、ようやく目的地に辿り着く。國子の訪ね人が札幌で見舞った病人とは聖美の唯一の肉親である祖母であり、國子らが到着した前日に亡くなっていた。そしてこの日は実家で一日中近所の弔問客を受け入れる日、数名の喪服姿が挨拶をして去っていく。
二人は探す相手が居る家屋の前に佇み、見えない屋内へ想像の視線を注ぎながら、それぞれの思いを吐露する。会話を交わす中で二人は励まし鼓舞し合うが、ある結論を受け入れ、泣き、笑い合う。
人と人が偶然、ある形で関係し、何らかの繋がりを持つ事という、余剰(欲望)を削ぎ落した最後に残るシンプルなありようが、冷たい現実だからこそ暖かく見える逆説。
海底歩行者

海底歩行者

ぐうたららばい

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/10/14 (木) ~ 2021/10/18 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昨年上演予定の公演。糸井演出の、同じくアゴラで観た一人芝居(出演深井順子)を念頭に見始めたが(俳優名から女優二人と勝手に想像していたため道中記のようなものだろうと)、出演は男女。水槽の中を行く二尾のマイム描写(水中音)から、糸井氏お得意の照れ臭いカップル描写へ(しっとり時間を刻むようなほのぼの切ないギター楽曲)。両場面がシンボリック表現のタッチで折り重なって行くが、何故「海底歩行者」か、に合点するのは芝居(95分)の中盤。予兆としては芝居の割と早い段階にさり気なく、透明な水に小さく一滴垂らしたインクが希釈しても微かに残るように二人の物語に影を落とすが、平和な生活のさざ波にとどまると思いきや・・。
これまで実力を秘めていそうに感じた程度だった伊東佐保の演じ力全開なる様を見て感服。丁寧に作られた、やはりコロナ期に改めてその手触りも愛おしくなる作品。

そして、死んでくれ

そして、死んでくれ

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2021/10/13 (水) ~ 2021/10/17 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

地元だけに劇場で観劇したかったが予約できず配信を視聴。(映像は良いが音声はやはり難があり、劇場で観たかったと後悔。)
数年前に観た同じ作・演出者の舞台はいまいち納得に届かなかったが、今回は二・二六事件が題材というので「おや」と思い鑑賞。結論的にはドラマの趣旨に同意でき、演劇表現として(まずは戯曲、そして役者達の演技)明確に出ていた。以前の作に近い「鬱々」な世界ではあるものの、史実を題材にとり、パロディに走らず事件の文脈を描き出そうとした事により、試された作者の筆はある成果を得たという印象である。(あくまで過去の一作との比較でだが。)
その一つは政治家、役職にある者の保身、狡猾さ、片やこの日本において理念が高々と語られ、それが遂げられる事の「可能性の薄さ」「絶望」。この気分は現在の日本にオーバーラップする。
実際の二・二六事件は理念と「血」(若さ)の先走りで、殆ど右往左往に近い実情だったという読み解きもある(小室直樹による)が、「今」求められるもの、という視点ではこの二・二六の顛末の描写はオーソドックスに見えながら「お涙頂戴」に頼らず、きっちりと敗北を描いた。
この気分は50年前決起し割腹自殺した三島由紀夫の「時代への気分」と恐らく同種と想像する。それほど日本は病んでいる、という認識からはコミュニズムもナショナリズムも単なる名称、その内実に比して些末な差異に思えて来る。

がん患者だもの、みつを

がん患者だもの、みつを

うずめ劇場

シアター風姿花伝(東京都)

2021/10/06 (水) ~ 2021/10/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

かれこれ十数年以上前に名前を耳にし、その数年後やっと目にした北九州に拠点を置く話題の<劇団>うずめ劇場に対する思い入れと、劇団外の活動もあるゲスナー氏演出又はプロデュースによる舞台に対する芸術的関心とは、近似的だが異なり、舞台に対しても二つが混在する。
この度はうずめ劇場公演である。数年前観た内田春菊作・ゲスナー演出舞台は他プロデュースで秀逸であったが、今回も春菊風味の苦甘さ滲む私好みの世界。
もっとも今作の特徴的な部分は、表現として「逸脱」気味な部分でもあり、その一つは主役の一人を演じたうずめ団員・後藤まなみの逸脱性、そして今一つは(毎回チャレンジングな)ゲスナー氏が時折垣間見せるそれである。
端的に言えば前者はド当たりな演技と危うい演技の波があり、がんを患う事になった揺れる中年女性の「普段の人付き合い」の場面では饒舌であるのに対し、裏側(本音=弱み)が思わず開陳される局面での変わらなさ(声の張り)が勿体ない。後者は時間的に僅かだから乗り切ってはしまうが・・気になる人は居そうである。
一方ゲスナー氏のそれは、以前「喜劇だらけ」で一般人(演劇初体験者)を登場させた記憶が蘇るが今回は作品テーマに所縁の(その筋では知られた)人たちが出演し、芝居的には心許ない、危うい場面を作る。台詞が一言もない(のに存在感だけはある)女性出演者が舞台後半の一場面ズラリと存在を現わすのである。この不思議で不気味な趣きが、演劇作品的にはシュールで珍味の類。「がん」というテーマのみで作品を括るなどと言う野暮はやらなかろうゲスナー氏の、「味覚」の振り幅を味わう体験と言っても良いか。(拙さとアピール度は紙一重。出演したある無発語の女性の特徴的な風貌が今も脳に焼き付いている。)
そんなこんなで本編の面白さには触れないが、ツボな場面満載、楽しい時間であった。コロナ期に生まれた劇、というカテゴリーが後に出来るとすれば、命に関わる劇は全てそれに含まれるだろう。つまりは殆ど全てのドラマは、コロナ禍によって輝きを得ることとなった、訳であるが、本作では「がん」を扱うのに「命の尊さ」といった直截なメッセージや感傷はまずもって寄せ付けないのが核であり、魅力。(要は春菊風味である。)

盲年【東京公演】

盲年【東京公演】

幻灯劇場

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/09/30 (木) ~ 2021/10/04 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

一週間記憶を寝かせたら、「風景」はクリアに焼き付いてるがストーリーがぼんやり。思い出してみると・・劇は謎解き式の進行だが一観客的には最後にもつれた糸が解けてスッキリ、とは行き切れず。ただ盲の息子と父、母という三者のストーリー自体は数行で説明できたように思う。これに絡まる人物らとの関係がややこしかった(メインストーリーを盛り立てる役どころなのか、もう一つの物語として存在感を持つべき役どころなのかがいまいちハッキリせず)。
だがアウトラインを部分的に書き込んで行くタッチの中に、情動を伴って「父」が存在感をもたげるあたりがこの作品の核で、演出、演技がドライにドローイングした石灰色のカンバスにうっすら「色」が浮かんでいる的な、画法が売りのようである。
若い俳優のキャラも生かしつつの当て書きに思える所があったが、キャラ頼みのリアリティの薄いキャラを演じる姿より、もっと重層的な(つまりは人間の)役を担う俳優の頑張りを観たい・・とは劇団の志向の否定か?

ヨコハマ・ヤタロウ~望郷篇~

ヨコハマ・ヤタロウ~望郷篇~

theater 045 syndicate

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2021/09/30 (木) ~ 2021/10/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

あ~面白かった。小さなスタジオで観た一作目は「伝説の男」と恐れられたヤタロウが砂塵から現れても、喋っても納得させる台詞と異色な風体の役者が「伝説」性を裏切らず、度肝を抜いた傑作だった(佃典彦脚本)。下北沢での再演もB1と狭い小屋だったが「望郷篇」ではKAAT大スタジオに。観劇体験としてはステージが遠いのはやや淋しいがパワー全開で見劣りなし。殺した相手の「人生を引き受ける」ため奔走し、13人が相手でも拳銃で!負けないヤタロウ(そんなもんいるか)、怪し気な新市長に「キレイな町」にされた近未来の横浜を舞台に幾つかのエピソードが錯綜して最後に合わさる。だがドラマの構成よりも、広い廃墟の銭湯(言わば底辺)から社会を牛耳ってほしいままにする階層を眼差す視線のベクトルに同期し、どす黒い世界イメージが「現代」を穿って現実とクロスする。私にはそれがこの舞台の魅力。アウトロー任侠西部劇カテゴリーのはち切れんばかりのノリにその通奏低音が響いている。(映画ブレードランナーはストーリーもさりながら画面を支配する世界観という通奏低音が快感。)

『砂の女』

『砂の女』

キューブ

シアタートラム(東京都)

2021/08/22 (日) ~ 2021/09/05 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

配信うれしや。当然、うずめ劇場と比べている。うずめ版は狭いせんがわ劇場仕様、こちらはケラにしては狭いつってもトラム、十分広い。だが両者の共通点の多さに最初は驚く(どっちか参考にしたのでは?と思った程)。まずあばら家、四角の台上にひと間あり、奥にスダレ、その裏が台所(うずめ版は狭い廊下程度、ケラ版はひと間と同じ広さがあり180度回転して裏側にある)、下手端に小さな土間。他の演出では、土を搬出するロープが中央から下りる、昼間戸外に出た瞬間に鳴り出す音(強い日差しが頭を殴るような金属=鐘に近い音)、砂かきをボイコットした結果受ける攻撃?(あばら家が砂によって受ける衝撃音)のガーン!という音。そして人物形象は原作イメージが確固とあるとは言え、自分で意図せずとも重なり合って来る感覚があった。
他にも男女の他の4名の俳優に男女以外の役をコロス的に配し、うずめ版では舞台のあちこちからゲリラ的に登場、ケラ版では付加された場面(他役者による)がゲリラ的に登場、など。素人の目が見るニワハンミョウとカミキリムシの違い程度の差だ。

ケラによる独自演出は、男女(仲村トオル、緒川たまき)以外の役者(オクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲)が、例えば傀儡を操り、あるいは男の妻のいる東京の家の近所の交番で巡査や交番を訪れる人を演じ、時に男の前に突如現れて男を東京(回想)の場面に引きずり込むなど、書き加えられた部分。
あばらやの周囲には暗い色彩のシートが垂れ、砂の壁を表す。最初の夜、女が家の周りの砂をスコップで掬う「チャッ・・サッ・・チャッ・・サッ。」と動作に合わせてSEが鳴るのが時計の秒針の如くで、延々と続く時間を表して効果的。

ヒ me 呼

ヒ me 呼

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2021/09/24 (金) ~ 2021/10/03 (日)公演終了

実演鑑賞

久々に天野天街演出舞台を拝めると密かに期待したが・・所謂「天野作品」は演出は脚本と一体であったと思い当たる。
今作は単刀直入に言えば脚本に難がある。冒頭、古からの由来のある温泉(というより遺跡?)から一気に古代へ飛ぶ。仮想の古代王国で奇想天外かつ希有壮大な物語が展開するが、話の定着と飛躍のバランスがSFチックな話では難しい。天野節は散発的に織り込まれるが、原作は「設定」を正当化するストーリー説明に終始してどうにか結末にこぎつけた印象で、天野トリックを優位に効かす余地がない。「天野天街世界」に塗り込まれる事のない天野氏演出舞台を初めて観た。私的には残念な出来。

自由恋愛を「知らなかった」という設定に、やはり無理があったと思う。
火(ヒ)族、水(ミ)族、木(コ)族という三民族は、ジャンケンのように互いが接触するとどちらかを消滅させてしまう存在。だから共存していても「恋愛対象」とならなかった。というより互いに反目しつつもヒミコに従う事で共存していた。ところが女王ヒミコの下命または死により、王命ではなく部族同士のコミュニケーションで国を運営する必要が生じ、悶着がありつつも交流が生まれる。これが「一目惚れ」の機会を作る。
惹かれ合う二人(男女関係に限らず)が部族の違いを超えて繋がろうとする所の描写が面白いが、複数カップルで同じ意味合いの場面が描かれると、やや冗長。二人は接触するとビリっと来るが、最終的には「最初は怖くてもこうしていれば・・」と、皆が手を繋ぎ合い、分立を乗り越えて行くというクライマックスは神話的な描写で「自由恋愛発祥」が標される。

着想は面白く、「接触」こそ生命の源だ、というメッセージは現在を意識したものであるのは間違いない。
ただ、「まだ自由恋愛を発見していない」未開の状態から、「何だか惹かれてしまう」事の発見、そしてそれが常態化するまでのストーリーでは、ドラマに必要な葛藤や障害が希薄になる。単純化すればこの芝居は、三部族が生物学的に接触困難であった、という障害を、生物学的な変異に拠って克服した、というだけの事になり、カタルシスがない。細かなエピソードや歌・踊り、笑いで肉付けし、それが話の前進に貢献してもいるが伏線回収の構成として弱いのは否めない。

恋愛を縛るのはむしろ社会システムが構築され、しきたりや制度が作られて行く段階だ。統治者は統治に不都合な「自由」に制約を課して行く。支配層や一定の地位を有難がる人々にとっては、現状維持が至上命題であり、体制に揺らぎが生じるのは人民に「富」や「余暇」が生じて「知」を手にする時だ。領土を超えようとする人々と押さえ込もうとする領主の相克の光景がみられるのは、文明興隆の時代、産業革命以後~現代。為政者は常に人民に「知」を与えまいとする。現在の日本では現状維持層の広がりが目立つが、反知性主義に表れるように「知」を手放し、後は何を指針に生きるのか(朝のワイドショーの占いか)。。
このような時代に自分を見失わないために、素直に自分の「好き」を殺さず育てよ、とは正しいのであるが、ピンと来なかった理由には物語の起伏という事以上に、何かある気がするがまだぼんやりしている。「ああなりたい」人物像として、古代の人々が迫って来なかったから、だろうか。

終わり良ければ、という話もある。冒頭エピソード(現代)では中年男と若い女性のカップルが登場し、男が誘った秘湯に着いてみたが地元旅館の女将っぽい婆が「先ごろの地震で地下水脈が割れて枯れた」との説明で、女は男を見限る。残った男が温泉に建った碑に手を触れると古代に飛ぶ、という運びなのだが、さてラスト。同じ場面に戻り、古代に紛れ込んだ男が現代に戻った体。そこへ女が別の若い男と登場する。先まで自分と居たはずの女は男を覚えておらず、周囲の者も現カップルを承認している。狐につままれた中年男、という「現実は厳しい」オチである。これが捻りがない。冒頭の予感を裏切る展開か、何か中年男にもたらされる教訓(獲得物)がせめてあれば何だが、惨めな三枚目で放置される。作者が考えすぎて一周してしまったのか・・。例えば若い男女を結び合ってる動機が不純で、今見た「純粋な惹かれ合い」と遠くかけ離れてしまった現代をチクリとやって終わるとか、それだけでも感触は違ったかも。

ネタバレBOX

役所は市民の側か、為政者の側か。・・新型コロナに関しては東京都庁は「為政者」マインドで人民に対峙し、情報を制限した。検査、入院等に関する数値情報の、保健所を通さなかった数も重要なはずだが管轄が民間となったら手も出さず、「これが感染者数であり検査数である」と流し続けた。
ある場合には役所は市民を「コントロールすべき存在」と扱い、仕事として与えられた限りで、「市民の側」に立つ。だから、公務員が「市民の側に立つ」ためのルールを明文化しなければならない。

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