tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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変身

変身

江戸糸あやつり人形 結城座

「劇」小劇場(東京都)

2022/03/26 (土) ~ 2022/03/30 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「変身」のドラマ(ストーリー)を直截に表現して不条理を噛みしめる舞台になっていた。若干構成が原作と異なる部分もあるが、小説を立体化した感覚が大きい。ラストは原作とニュアンスが異なったと思えたが、演出なりのかみ砕き方と理解。

三木美智代ひとり芝居「業火 GOUKA」

三木美智代ひとり芝居「業火 GOUKA」

劇団 風蝕異人街

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/03/25 (金) ~ 2022/03/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

こまばアゴラでの今年最後の演目。う~ん一人芝居・・どうかな?と正直躊躇があったが、時間が出来たので初日を観た。次いで翌日また時間が急遽できたのでリピートした。初日は遅れて入場し15分程逃したが、演じる人物(を具現する三木美智代も)の存在感、エピソードに見入り聞き入って目が離せなかった(場内を見渡せる席であったが寝落ちは一人もおらず)。ラストの処理がこなれない感じで(演出部分)、もう少し改善できそうに思ったが好感触。だが二度目、少し突っ込んだ見方になり、要望がもたげた。トークに呼ばれた若手演出家もその部分について演出に疑問を投げていた(中々嚙み合ってなかったが..本舞台の演出は喋りが長い(苦笑))。
二日目の女優の台詞がやや流れ(目立てが甘い)、一人芝居の難しさを思わされたが、十分に見せる舞台で三木女史が一人芝居の「出来る」女優だと認める。が、終わりよければで言えば、上記はやはり重要な部分に思ったのでいずれ書いてみる。

ネタバレBOX

演出について。
オープニングに流れる曲が、終盤そしてラストと3回流れるのだが、嗄れた米語の歌い手の歌(声からするとブルース・スプリングスティーン?)で曲調は「人生讃歌」。波乱の半生を送った主人公の前途を励ます意味合いになっているが、3回は多い。特に終盤の2回(だったか、音量が落ちて薄く流れ、また高まる、だったか)はつらかった。(一回目の観劇では冒頭を逃しているので気にならなかった。)
その「人生讃歌」であるが、正確には「応援」の意味合いになっている。傷付き倒れまた起き上がる彼女の半生は、放火というヘキによって相殺、バランス保持の現状にある。原作は独白で進むらしいが終着が「逮捕」なのかどうなのかは不明。ただ舞台ではカウンセラーに対して「語る」という形を取っており、放火は現在進行形でなく「過去」を語っていると観客は理解する(事実そう書かれていると思う)。
「放火」が破壊的な犯罪である、という世間的な通念を彼女が「知らない」のではなくそれをやってしまう精神を宿してしまった彼女という存在が、この話では焦点になる。報われない悲劇的人生を送った者の「絶望」には、何がしかに縋ってでも立ち上がり「生」へと向かうくドラマツルギーが成立するが、このドラマにはそぐわない。永山則夫の図式が妥当する。ドラマの主体が求めているのは応援ではなく、理解である。この人生の主人公は弱々しくはなく、(ある意味豪胆にも)火付け女になる必然があったと信じさせるだけの背景がある、そう思わせる証言がこの話の中味だ。放火によってその人生との精算を果たした彼女という存在に、少なくとも凡庸な人生を送る者の安易な同情や応援は必要としておらず、我々の方がその逞しさに畏敬を抱くべきなのであり、もっと言えばその存在に更生の余地があるか否かを見通す洞察力を、持つものであるのかが社会の方に問われている。
彼女たちの断片

彼女たちの断片

東京演劇アンサンブル

渋谷区文化総合センター大和田・伝承ホール(東京都)

2022/03/23 (水) ~ 2022/03/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

女性劇作家のオリジナルを女性が演出した女優のみによる舞台。
妊娠・中絶という女性専科なテーマを男性抜きに語る、その事により語りの真実味を試される場となり、事実真実味を取り戻していく。一夜の「出来事」の帰趨は重要ではあるがそれよりも語られる内容、語るという行為、そして繋がりの形成にも幾許か、スポットが当てられる。

ネタバレBOX

石原燃と言うと報道問題を人間ドラマ化したPカンパニーの「白い花を隠す」があり、問題理解の深さが優れたドラマ構成に表われる、クレバーな書き手という印象だったが、今作もその印象に違わずで、既成概念を一つずつ剥がす手付きは(台詞は人物になじんでいるが)頭脳派と感じさせる。客観的情報(どこで拾ったかも含め)と一個人の主観的意見を巧く組み合せて平らかな地平に地ならしをし、「その上で、どうしますか」と問いかけている。
ポストトゥルースの現在、「利益」の最大化という大義名分が議論上は「事実性(真実か否か)」と同等又はそれより上位ににある土壌では、「意外な事実」も既に出尽くした問題について、論を起こすのは難しい。本作では知られていない、あるいは改めて問い直す事のなかった制度上の問題も多く語られた。だが例えば夫婦別姓や、同性婚の公認、また日本の汚点とされる歴史上の事実について、凡そ反駁側の根拠が薄い案件が、平然と否定されている状況に、同じアプローチは通じそうにない。それだけに、この書き手に密かに期待を寄せている。
マリーバードランド

マリーバードランド

やみ・あがりシアター

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2022/03/17 (木) ~ 2022/03/21 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初観劇の劇団。口コミの評判から凡そ想像していた範囲ではあったが、予想以上に楽しく観られた(足が向いたのはその「想像」と違うコメントを目にしたからだったが..)。開幕時はウッと押し寄せる学生演劇の雰囲気に一瞬引いてしまったが、アンサンブル、的確なテンポで畳みか成行きを目で追ってしまう。程よく予想を裏切る展開が荒唐無稽な話にも注意を繋ぎ留め、人物の心情に関心を向けさせるのに成功している。
「問題」発生、その解決が常道から逸脱するのもシチュエーション(場所は南極)のなせる必然と納得(映画「The Thing」の悪夢も南極だった)、ドタバタあって又元鞘へと収束される時点で、揺れに揺れた「その他大勢」の中で唯一最初から姿勢一貫した一人=新婦が(照明を当てずとも)浮かび上がる。何という事もない話だが彼女の真情吐露に溜飲を下げ、余韻を残した。好きも嫌いも人を求める心も理屈でない、最後は心の声に従い、進むしかない・・的なメッセージ?が、殆どそんな説明も台詞も無いがじんわり滲んで来たのは中々痛快で。

『無表情な日常、感情的な毎秒』2022年2月公演

『無表情な日常、感情的な毎秒』2022年2月公演

エンニュイ

STUDIO MATATU(東京都)

2022/02/25 (金) ~ 2022/02/27 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

配信で鑑賞。いずこかの狭い空間で、居酒屋の座敷とテーブル席のエリアを設え、その居酒屋の店長(恐らくチェーン店の)の葬儀の帰りに現・元従業員の男女6名程が実質「貸し切り」状態でそこに居る。最初客席に向かって並び、気恥かしそうに「始めます」的な挨拶をしてズルっと芝居に入るのが端緒。現実の時間と地続きで境界を消している。超リアルなやり取りゆえ、当然音楽も効果音も無し、ハケはトイレの中座のみ。あとは現従業員が脇の方で駄弁りながら(一人は飲みながら)待機、途中からは店仕舞いして仲間に入る。
殆どが会話で進むが、所謂舞台上の即興というのでなくきちんと作られている。次第に見えて来る「店長の死」が当然軸になっているが、その事実と各人の受け止め、距離感がまたリアル。殆ど感傷がない。「死」を軸に劇の骨格は有りつつも、目を引くのは情景のリアルさ。その事は「脚本のよく出来た」ドラマと違い、「生きてる」人間の様そのものが醸す面白さの勝利に導いている。観客は秘密を共有した感覚になった事だろう。
映像ではこの「リアル」は、突如でかい声を出す野郎の存在と低い声の振り幅がかなりあって鑑賞にとってきつい要素。だが、二度目はイヤホンをして改めて見始めたらほぼ巻き戻しマークをクリックする事なしに「芝居を鑑賞」できた。
感傷を最大限抑制した「劇」では、リアルの純度の高さにより、僅か0.1%濃度の「厳粛さ」でもアルコールのように血を熱くする効果を持つ。過去二度観たエンニュイとは色の異なる、挑戦の姿勢を見受け、好感。

京時雨濡れ羽双鳥/花子

京時雨濡れ羽双鳥/花子

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2022/03/16 (水) ~ 2022/03/27 (日)公演終了

実演鑑賞

「マリアの首」の作者、田中千禾夫(ちかお)による戯曲の上演を初めて観た(「マリアの首」は観ず終い)。
実はこの日は未見の若手劇団を観劇するぞと決めた矢先に初日が中止になったので、無理に出掛ける事も無いっちゃ無かったんであるが、「口が芝居の口になってた」のでこれを選んで六本木まで出掛けた。
日本の古典戯曲には惹かれるものがある。当時の人々にとってはレトロでも何でも無かっただろう木造家屋や、着物や路地や、口調が、「前時代的」ではなく「いい感じ」になっている。もっとも田中千禾夫は主に戦後活躍し注目された人だから今言った範疇から若干ズレるのかも知れぬが。
この所海外戯曲の秀作舞台を打っている俳優座、果たして今回は・・

ネタバレBOX

申し訳ないが正直を言えば、残念感が。
私としては「花子」を見せ、その後「京時雨」で真っ向勝負して欲しかった思いである。
その心は「花子」が持つ強み、詩と言い換えても良い短編劇の魅力は、喩えるなら出し物やドラマで動物か子供を使う所謂「ズルい」手。実際この劇は自然讃歌でもあり、通ずるものがある。
一方「京時雨・・」は敗戦何年後かを舞台に、橋下に棲む女の目と存在とを媒介に、人間の姿を点描する作品。残念ながら新劇団の「ちょっと演技が違う」パターンの典型という感じで、見続けたいと思えるフックが見つけられないままに芝居の終盤を迎えてしまった。二作目の「花子」は一作目のダメージをカバーするに至らずであった。

五階稽古場のL字配置の客席のちょうど角、ステージを見やすい座席からの眺めが、芝居に入り難くさせたのかな、とも考える。長方形のステージの長辺に木の橋が渡され、上手、下手の端の階段から昇り降りでき、道行が長い。橋下には野宿モノの住まいが橋の端=庇からはみ出て箪笥が置かれたりしている。人間が十分潜れる高さの橋の前面には、美術の志向だろう、くすんだ色の広い布(質感は皮革っぽい)が天井から垂れ下がり、橋を歩く者の顔が見えない。顔を出す時はその布幕を暖簾のように手で除ける。竹邊奈津子の装置だが、外観の色彩はともかく装置としての機能美が醸されて来ない。「京時雨」の冒頭、女が箪笥から舞台中央に向かって何着もの衣を乱暴に投げ出し、布が広がるのだが、これが意味不明。女は元高貴な家の出らしく、最後には盲目の帰還兵の謡いに合わせて能を舞う展開になるが、そのためか「橋」の縁の下あたりからほぼ正方形に黒い大理石か、濡れた石の設定か判らぬが黒光りする平らな面がある。それを埋め尽すようにぶん投げるのだが、装置としてそこが河原の砂利場なのか土なのか、彼女にとって住まいの中なのか外なのか、リアルに空間を想像して良いのか象徴的な空間と見るべきなのかそこからまず混迷する。四角のエリアの途切れ目からこっち、橋の詰めへ線を引いた三角のエリアには白い玉砂利を敷き詰めた風になっている。硬質で整然としたな黒とラフな白の馴染みも悪い(見た目がいまいち)。
リアルに見ようとすると、女が衣を投げる平らなエリアは雨に濡れている加工された石に見える。だから「時雨」との関係で捉えるべきかとも思うがそれにしては現代的なので単に「地面」を象徴しているのかやはり不明。衣を投げる行為は天日干しをしようというのか何か自棄になって衣に当っているのか、と想像してしまうが、そのどれでもなく、ただ芝居の冒頭をインパクトあるものにしたかったのかと勘繰れば合点の行く、装置の(床の)「見方」が観客の脳内で固まる前にそれをただ分からなくしただけの無駄な行動に見えてしまった。
また女の言葉遣い、発声がただ元気の良い健康な発声で「曰くあり気」な雰囲気が微塵もない。物語構造としては女は当面「観察者」、橋を渡る男女のエピソード、盲目の負傷兵のエピソードを言わば目撃し、彼女が幾許かの接点を持つ様子を通して観客に紹介される格好になる。後者は、妻が警官を客にとって男を養っている、その妻の「仕事」の間にこうやって河原に出てこの身を嘆いている、という形。詠嘆の謡いに女は共鳴して舞いを舞う、という訳である。
この芝居に出て来るエピソードが3でなく、2である事(女自身のを加えれば3になるのだろうが、「語られる」話の当事者の佇まいとは一線を画したただ陽性な存在は数に加えられぬ)、となれば、2である。基本情景描写が二点のみでは、作り手が見せたかった面が定まらない。社会の貧困、戦争の遺産、不条理を、ここ橋の下の住人の眼差しがとらえ、眼差しの対象らに作者の観点を語らせるには、駒がしょぼい。かといって観察の対象に過ぎぬ彼らが観察者に剣を突きつけて来る訳でもなく、身に迫って来ない。という事は、初演時にあって今はないもの、それは敗戦後の社会状況や風景という人々が共有していた感覚だろう。そうした戯曲の場合、どういう息を吹き込むか、何が新たに作られねばならないか(演出によって、役者によって)が重要に思うが、私には明確な視点が見えずその点で淋しく思えた舞台だった。
休憩を挟んで「花子」。独特な世界観は悪くなかったが、「京時雨」で必要十分性が見えなかった美術、中でも邪魔に思えた橋に掛かったボロ布が、何と「花子」のオープニングの後、ガバっと剥がされ、剥き出しのキレイな橋が現われる。これは演出上のサプライズなのだろうが、「京時雨」で人の姿を隠す邪魔をしてただけの装置だったか、と、私的には落胆。
この作品は子供から女性へと花開く蛹の季節にある娘が、さてこれから複数の男性に誘われて夜の町に繰り出す事になっている、その時間、母ののどかな方言の語りから始まる。母とのやり取り、仕事から帰った鷹揚な父とのやり取り、やがて「声」がする。「はなこさ~ん」。母から、飼っている(卵を産まない)鶏に譬えられる花子は、いつか卵を産むようになる可能性を秘めた、神秘性に満ちた「今」を生きる女性の姿として、ただただ愛でる対象として作者は描き切っている。男性に囲まれて恥じず、己を全肯定する「自然が祝福した」存在を清々しく描き、この対極にあるものを舞台上に上げて言及する事なく批評性高い、不思議な作品。
サヨナフーピストル連続射殺魔ノリオの青春

サヨナフーピストル連続射殺魔ノリオの青春

オフィスコットーネ

シアター711(東京都)

2022/03/11 (金) ~ 2022/03/21 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

秩序の縁辺に生きる生を多く描いた大竹野氏が、実在の人物を描いた本作は異色作か、代表作か・・舞台を観ての結論は「大竹野正典らしい作品」。役者、演出申し分なく、後方席からほんのり暖かい気の塊のような舞台を眺めて座席に座る感覚を忘れた。

透き間

透き間

サファリ・P

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2022/03/11 (金) ~ 2022/03/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

過去観た二作は「悪童日記」「怪人二十面相」と著名な原作だったが今作は知らない作品。舞踊の色が強いユニットであるが今回は舞台上の「現象」をただ鑑賞した。パンフには場面割りが書かれていて、事前に読んでおくのが正解だったかも知れぬ。が、慷慨を知らなくとも面白かった。と言っても最後はストーリー的な着地をしたと見え、純粋舞踊作品というよりやはり「原作の舞台化」を志向するユニットであるのだな、と。

裸の町

裸の町

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場付属養成所

青年劇場スタジオ結(YUI) (東京都)

2022/03/04 (金) ~ 2022/03/15 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

衝撃の「動員挿話/骸骨の舞跳」以来、日本の近代古典戯曲を舞台化する青年劇場のアトリエ公演を毎度楽しみにしている。真船豊の作品世界は「鼬」を二回、目にしたのみで他に二三作を戯曲で読んだが本作は初めて。損得ずくの世の中、孤高ではいられない生身の人間の本質を透徹した真船らしい作品で、クラシックを中心にチョイスされた音楽と、暗転で浮かぶ(目線は上の方になる)「町」のシルエットが、作品世界を裏で捉えて秀逸(美術:佐々波雅子)。役者は特に夫婦の二人の比重が大きいが、妻役の形象には目が釘付けであった。真船が刻んだ彫像のような力強い人物像たちを皆が好演した。

実は数場の芝居で最初の一場を見逃し、二場の途中に滑り込んで見始めたのだが、椅子に座るや瞬殺で劇に引き込まれ、あれよと最後まで連れて行かれた。優れた舞台である。

リムーバリスト―引っ越し屋―

リムーバリスト―引っ越し屋―

劇団俳小

萬劇場(東京都)

2022/03/12 (土) ~ 2022/03/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前々作がやはり暴力描写のある芝居で、同じくオーストラリア産の、入植白人とアボリジニの確執の話だった。今作は現代(携帯電話が出てこないので20世紀の戯曲と推測)のメルボルンの荒廃地区に勤務する二人の警官が、とある日の数時間に体現する暴力とその心理構造を炙り出すような作品。
役者の負荷が大きい戯曲で、violenceが暴発する狂気の瞬間だけでなくそこに至る精神状況の過程を辿る。戯曲の台詞がそれを誘導している。破滅的な結末は、告発的作品な色を帯びなくもないが、カタストロフに浸るだけでは済まさない要素がある。
観たばかりの青年劇場「裸の町」は真船豊による昭和前期の、小さな人間たちを描いた作品だったが、「鼬」と同じく金銭、引いては当時浸透の過程にあった資本制の持つ暴力性を描き、システムの中の人間の闇に触れる。両者全く違う作風だが似た風景を見る感覚を覚えた。

ネタバレBOX

この回は噛みが多く注意を削がれ台詞を逃した。故に星一つ減。
ネオンキッズ

ネオンキッズ

OFFICE SHIKA

座・高円寺1(東京都)

2022/03/03 (木) ~ 2022/03/14 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

OFFICE SHIKAには三度目(位)のお目見え。鹿殺しもそうだがディストーションの掛かったギターでダークな世界観を盛り上げ、照明暗めの印象は今回も通じる。音量大きめ、照明は「ネオン」の青赤緑が基調。つい最近見たトー横キッズを撮ったTVドキュメンタリーの題材がそのまま出て来てオヤ?と思う。だがドキュメントにも登場していた(無論同一人物な訳はないが)面倒見の良い兄貴の「実像」が明らかになる所から芝居はダークサイドへ。
音楽劇ではあるが、それにしても女子がソロを聴かせる歌が多く、歌い終わると拍手の音が大きくやや長。なんだか芝居仕立てのコンサートにコアファンが来てる風な雰囲気だな、と終演後にパンフを見るとAKBメンバーが3名出演していた。芝居も歌も若干3人フィーチャーした感じを持ったがそうだったのねと納得。あの演技で良しとした(演出がOKした)事情にも納得。(いや納得したくはないのだが、容姿の貢献と相殺されてる感は序盤からあると言えばあって、大詰めでもそれは変わらなかったというだけの話。ただ欲を言えば悲しみ絶望自棄っぱちな気分を彼女らが実在のキッズに心寄せて追体験することが出来たなら、それは舞台の感動とリンクした事だろうに、と惜しく思うのみ。)

夜の来訪者

夜の来訪者

俳優座劇場

俳優座劇場(東京都)

2022/03/06 (日) ~ 2022/03/12 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

以前文字で読んだ時は古い、硬い作品だと印象を持ったが、中々どうして面白く観た。新劇スタイルが避けられない作品に思えるが、仰々しさが回避されナチュラルに見れたのは何故かな、と考えてみるが、やはり「謎の男」の不思議な説得力という所だろうか。地味ながら謎を「謎」とする小間使いの存在だろうか(家政婦は見たではないが「語らぬが見ている存在」は深層部分に影響しそうだ)。
ストーリーも二転三転という所があって楽しく見れる。だがストーリー展開に依存するにはラストあたりに不要な台詞が一つ混じっていて(名作と言われる作品に何故そんなものが・・テキレジの際にうっかり残したか)、禍しそうだがそれオンリーにならない味わい(人物の形象)もあった。
経済的に恵まれ、自己完結した集団であるこの家族が「他者」にどうあるべきか、要は富者は貧者に対し道義的責任はないのかといった種類の問いが根底にあって、そう私がこれを本で読んだ頃(8年位前の感覚だ)には「古い」と感じさせた訓示が、今の新自由主義の時代には根源的な問いになってしまったという事かも知れぬ。

クリキンディの教室

クリキンディの教室

電動夏子安置システム

駅前劇場(東京都)

2022/03/02 (水) ~ 2022/03/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

やはりこの作風が電動夏子、なのかな。それとも近年この感じに? 面白い。そして色々穴もある。しかし楽しい。突っ込み入れたくなるがそれも含めて。
後日突っ込ませて頂く。

ネタバレBOX

何年か前に初観劇した、見た感じではアラフォー(今回の印象)中心の劇団。その後は機会がなく昨年の「ベンジャミンの教室」を久々に、配信で観た。今作はその別バージョンと言える作品。前作は税務署の外郭的活動グループの啓発活動を外枠に、その活動に参加する各人の個人的な動機や事情がエゴイスティックに炸裂する荒唐無稽なお話。小学校での出張サービスがその各人の「発表」の場だが、ハプニング続き、一方その裏側でも事態が動き、諸々が絡みあって最後に何となくベターな結末を迎える。
今回は小学校教員がSDG'sの教材というか授業企画を話し合う職員室で、桃太郎を題材に教化プログラムを作ろうとするが、個々人の意見が取り入れられて歪な代物になって行く。その過程で各人の個人事情が吐露され、その場にいなくなった教員への疑惑も持ち上がり、解決されて漸く「本題」に戻り、歪な怪獣のような教材の台本が演じられて幕となる。SDG'sに取り組むことの虚しさ滑稽さを暗にくすぐっているように解釈できるのだが、どうなのだろう。普通に小学生に「あんたら馬鹿でしょ」と突っ込まれて文句の言えない「桃太郎」教材は、それに見合う各人の特殊な個人事情、突進型や曲解型といった極端な性格の描写が要求され、それをやってるのが電動夏子と認識するが、戯曲の「謎解き」の中身は「根は悪くない人達」である事の証明に割かれ、ハッピーエンドに着地する。自分の好みを言えば、もっと毒を残して行っていい。回収し切れない毒を。
蜃気楼を抱け!

蜃気楼を抱け!

アトリエ・センターフォワード

OFF OFFシアター(東京都)

2022/03/03 (木) ~ 2022/03/10 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

なぜか分からないが、親近感が湧く。主宰のキャラのせいだろうか、何だろうか。芝居も面白く観た。100パーを振り切るかに思えた前半から、後半若干停滞も感じたが、好感の持てる舞台であった。
難点と感じた事から挙げると、選曲がいまいち。あと、幼馴染の二人が他の二人の仲間との思い出を語る、しんみりさせる場面の筆運びが・・もう少し。
だが現在の半ばリアルな社会観を逆手に、金を得る当然の権利を行使する居直り、詐欺をやる決意の悪びれの無さ、私には痛烈な皮肉で社会批評である。近年若い書き手にも多い「お利口」「良い子」な規範意識とは異なり、金、金で突き進む。義理人情も出てくるが、良識や遵法意識の要素は排している。という事は全編が痛快なわけで。

薔薇と海賊

薔薇と海賊

アン・ラト(unrato)

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/03/04 (金) ~ 2022/03/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

三島由紀夫戯曲を観る貴重な機会(これでやっと4作目か)。引き込まれて観たが、最終的な着地はどこに?主宰・演出はこの戯曲をどう読んだのか、関心は何にあったのかが見えなかった、というのが舞台の印象。後日詳述。

ネタバレBOX

大河内直子ならではの役者陣で、今回臨んだのは三島由紀夫の異色作、と言って良いと思う。三島のナイーブな内面を筆に乗せたような世界で、三島が志向し理想として追い求める「純潔」を、俗物性の対比で結晶化させようとした作品とも見える。
であるために、この物語の中で完全に「浮いた」存在である主人公楓(女性童話作家)と八歳の魂を持つ三十歳の青年という「性欲を介しない」二人を、現実離れした不毛な関係として「否」を突きつけるのか、人が理想を追い求める心を思い出させここに改めて提起するのか、難しい選択に迫られる。
作者自身は大真面目に、二人の純潔の関係を讃える意図で書いたようである。それは最後に青年の勇気の源である短剣(楓の童話に登場するヒーローの少年が持つ)を「敵」の手から取り戻すために、作家を慕って奉仕する老女と老人の「幽霊」を登場させ、敵の目をくらまして童話のように「正義が勝つ」世界の具現に貢献する、という場面に表われている。
だが、この場面は「この一瞬の美で全てが満たされる」場面とならなければならない。時間は無惨に経過し、一瞬の美は時間によって色褪せる。時間に浸食されない「美」を二人の間に想像ができないのだ。(舞台処理によってそういう演出は出来るのかもしれないがこの舞台は違った。)
本舞台のラストでは、「正義が勝った」末、結ばれた二人の周りで童話の登場人物らが舞い踊るが、その時間の「その先」を我々は想像している。そして終幕寸前、演出は舞台前面に素早く紗幕を下ろし、華やいだ世界が凍り付き、モノクロに色褪せた恐ろしげな室内を一瞬だけ見せ、暗転する(終幕)。
つまり、二人の理想の関係は「死んだ」に等しいものであり、印刷された本の中でしか存在できず、現実に置き換えたが最後、時間経過によって腐ってしまう。それは「常識人」である我々観客の感覚でもある。
だが、開幕以来執拗に説明されてきた二人の純潔性、俗物の鼻をあかす二人の世間離れした特質にこそ、作者は勝利を与えたかったのではないか、という感触が終演後も残っている。
三島由紀夫の見果てぬ夢を「夢だった」と宣告するための舞台だったのか、これは?という考えがよぎる。
プルーフ/証明

プルーフ/証明

DULL-COLORED POP

王子小劇場(東京都)

2022/03/02 (水) ~ 2022/03/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

後で調べると本作はDULL-COLORで何度となく上演されている。2009年初演?では、今公演Bバージョン中田氏が出演(パンフに「オーディション以外にもこちらからオファーした人もいた」とあるのはこの人か..)。以前、風琴工房で詩森氏翻訳による本作を観ていて、今回2度目だ。その時は台詞に付いて行けない箇所があったのと、脚本の落とし所が若干気に食わなかった微かな記憶が..。Aバージョンの「プルーフ」を観ていてその原因が奈辺にあったかを思い出し、そして芝居は満足できるものだった。
当パンの谷氏挨拶によればA~Cバージョンは「演出」が異なり、Bはガラステーブルのみの抽象空間、Cはリアル空間、Aは木製チェアと台と枯葉、とある。その線で言えば風琴のバージョンは洒落た抽象空間で演じられた「高踏遊民の話」とでも。さて今回の舞台は・・。

数学者だった父とその娘の物語。他には娘の姉と、父の助手である青年が登場する。青年は父の生前一度娘と会っているが、今回対面し、改めて彼女を思う気持ちを芽生えさせている。父の才能を遺伝的に受け継いでいる娘は、精神の病をも受け継いでいるのではないかと恐れている。父の遺した膨大なノートを調べに自宅を訪れた青年に、彼女は徒労だと言う、「得るものは一つもない、私も見たから」と。父の死を聴いた姉も遠方から戻って来て、彼女にニューヨークに来ないかと勧めている。邸を売り払い、忌まわしい土地を離れるべきだと言う。姉は妹の父譲りの「異常」な性質を肉親として知っていて、医者に診てもらうのが最良だと考えている。まずこの姉との間に、娘は断絶を覚えている。さらに青年との間にも。娘の中では、数学の才能において助手の男との間に内的な葛藤がある。葬儀の夜、彼女は青年との間で悶着を起こすが、彼への疑惑が百八十度逆の答えとして返って来る。彼女は泣く。後日彼女は男の恋心に答え、その後ある「秘密」を男に告げる。家に籠っていた晩年の父が何か貴重な数学的着想を残していないかと期待に膨らんだ青年に、父の机の引き出しの鍵を渡してそこに入っているノートを取り出せと言う。姉もいるリビングに、暫くして男が血相を変えて飛び込んで来る。凄い発見がそこには書かれていると言う。彼女は、実はそれは自分が書いたものだと言う。父を看病する期間、合間を縫って数学的閃きを綴ったノートだと。姉はこれを妹の虚栄心の表れ、又は数学の道を諦めない往生際の悪さ、姉に同道してニューヨークに行かない口実、といった意味に取り、最初から疑惑の目をギラギラと向ける。一方青年は、年端も行かない女の子だった頃を知っており、今もまだ女学生の年齢である彼女が、数学の才能を持ち合わせている事などあり得ないと考えている。自らは天才的閃きを持たなくとも、天才の業績の評価眼は持っていると自負する彼は、尊敬する亡き師の全盛期に匹敵する数学的発見がここには書かれてあり、君にはとても出来ない事だと告げる。
後日談は省くが、ここにはその数学的な発見が一体何であるかは一切書かれていない。以前観た「PLOOF」に対する不満はそこにあった事をぼんやりと思い出す。だがこの物語のテーマは、真実はどこにあるか、ではなく、実証しえない物を巡る人間の態度のあり方について、である。言わば「信頼」に関する寓話。
ただし、「芝居」は要求する。役者が具現する数学者らしい振る舞い、若き日に開花した頭脳との折り合いに失敗し精神を破壊した者らしい姿、またその内的生活の姿、そして数学に取りつかれそこに美を見出す至福を知る者だけが持ち得る、共感の表出である。これに迫るのは役者の仕事であって、この脚本の舞台に満足できるか否かがそこにある、そういう種類の作品に思える。Aバージョンを演じた役者諸氏に、敬意を表する。

夜叉ヶ池

夜叉ヶ池

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2022/01/22 (土) ~ 2022/03/05 (土)公演終了

実演鑑賞

ふじのくに21→22最後を飾るのは宮城聰演出、棚川寛子音楽のこの演目。泉鏡花の著名な作品だから以前読んだアレ、と思って見始めたが、小説「高野聖」と勘違い。「その口になってた」のでやや落胆であった(勝手にしろという話だが)。

長の別れを惜しみつつの観劇(また訪れるとは思うが..)。さすがと言える出来ではあり、あっと言わせる演出、小気味よい場面、溜飲を下げる場面とポイントを稼いでいる。だが「厳しいな」と感ずる部分もあった。

第一はこれ、マスクの着用。ステージと客席の距離からすれば通常はマスク無しで問題ないはず(厳密には、発声により微小飛沫が生じれば2m離れてようが飛んでは行くのだが)。「表現」の点からすると、マスクをつけても声はよく届くものの、障害は半端でない。言葉は正直聞き取りづらく、それ以上に表情が見えないのは決定的だ。本当は見てほしいんだけど・・と目が言っているのが悲しい。
以前も書いたが地方における対コロナの許容ラインは恐らく都会よりシビアに違いない。だが感染リスク・ゼロ信仰を乗り越える事なしに日本の今後は無い、という事を考え合わせつつ、また客席はディスタンス無しに入れている事も考え合わせれば、別の判断は十分にあり得る。
感染防止の最大の武器は換気で、これによってマスク縛りを乗り越える事を考えてほしい。観客・市民と話合いを持つことができないのかとも思う。
たきいみき演じる池の白雪姫だけは、艶やかなマスクを外す時間がある。だが、チラ見せでも相貌が見える事が「貴重」という価値観は妙なものだ。マスク無しで一しきり動きを演じた後、台詞のある場面に戻り、思わず喋ろうとして従者に止められ、「そうじゃった」という無言のやり取り、マスクをつけ直して台詞を言う、というくだりが笑いを取っていたが、私は笑えなかった。演劇人の「敗北」に見えてしまうのである。

第二は、最終場面からコールに行く所。私は宮城氏はどうかしてしまったのかと思ってしまった。
純潔な二人の男女が最後に非業の死を遂げ、舞台中央で折り重なるが、紗幕の向こうにスポットで二人を照らす中、フェードアウトせずに舞台前部分に白い明りを入れて、二名以外の役者が登場し拍手となった。だが一旦そうした後、役者がはけると明りが落ちて、元の暗がりが出来、奥の光だけうっすらと照っている。つまり、コールを挟んで本当のラストは次に来る、という雰囲気になる。当然二人を照らす明りがついに落ちて終幕、となるだろうと思っていると、またコール用のまぶしい明りが入り、「同じように」役者が袖から、2コールを呼ばれたような顔で出てくるのだ。え?と思う。まだスポットは二人を照らしている。「頼むから終わらせてくれ」と思い、もう一度待つ。ところがやはり消えない。
拍手をする観客の側から言えば、最初に役者がコールに応じて登場した後は、拍手をしていた手は当然止めず、「本当の終幕」を待っている。ところが役者が満面の笑みで出てくるものだから、ああ、と思って拍手をしてしまう。それで引っ張って引っ張って、結局4コールぐらいやった後、二人を照らしたライトが消える。
演出としては紗幕の向こうを時間の止まった「絵」のようなものにしたかったのだろうが、私には「絵」に見えなかった訳である。絵画化するにはもう一つ何かが欲しく、それが無くちゃ認めないぞ、というつもりはないのだが、動き出しそうな感じがするものだから、そういう形は早く闇に溶かして欲しいと思ったのだな。恐らく「形」の問題だろう。

新平和

新平和

烏丸ストロークロック

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/03/03 (木) ~ 2022/03/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

広島発、作演出をストロークロックの柳沼氏に委託した合同公演の格好だが、一言でその特徴を言うならローカルな、リージョナルな、である点。チエ子という老人が介助担当の青年を伴って平和公園を散策しながら、生い立ちから戦争、原爆、戦後を丁寧に回想し再現していく構成。原爆投下、被爆者の存在、非核三原則といった従来全国区のイシューであったものが今、地方の生活圏域から、郷土史的視線から、光を当てられる時代なのだと思わされた。風化の現実を感じる反面、この舞台の目線が持つ強度は、人が想像し得る「時と場所」がある事に拠り、「具体」が持つ底力に釘付けになる。それでいて「抽象」即ち歴史を俯瞰する視野が確保され、安易に物語に回収させず物語を超えて迫って来るものがある。

甘い傷

甘い傷

一般社団法人横浜若葉町計画

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2022/03/03 (木) ~ 2022/03/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

5年前龍昇企画で上演された作品で配役も重なっている(7人の内3人)。とは言うものの演出西沢栄治、今回出なかった俳優に外波山文明、藤井びん、様変わりと言える。
コロナの間に様々な描き手が白壁に絵を描き込んだ若葉町wharfの企画公演として、参与の龍昇が持ち込んだと思しい本作には横浜縁りの中山朋文(ヨコハマヤタロウに出てた人ネ)やTOKYOハンバーグ舞台で目に馴染みの小林大輔、若い役は若いのが演じ、オールメイルで女役二人も本域で演じ、しっとりと趣きある芝居であった。個人的にハマったので星5つ。

RENT

RENT

桐朋学園芸術短期大学演劇専攻

俳優座劇場(東京都)

2022/02/27 (日) ~ 2022/02/28 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

桐朋学園学生による「RENT」。在学二年の卒業公演でこの大作にどれほど迫れるのか・・客席に座りながら、早くも本作の名曲、名場面の現前を待ちかねる私。
17:30整理券配付開始、番号を呼んで列を作り、順次入場というテント芝居で見かける手順をロビーで行ない、キャストの家族知人や学生ら観客の熱がロビーから会場に満ちている。
18:30開演。バンドマンの入場、声が飛ぶ。楽器のチェック、そしてキャストの入場。ライブの流儀で観客も出迎え、開幕は申し分ない。
終わってみれば、未熟さは多々あれど見事に「RENT」を見せられていた。

ネタバレBOX

個人的なツボは、一幕後半のモーリーンによる長尺パフォーマンス(映像で観るオリジナルRENTのは文化の違いか、楽しめないのが憾み)。
どうしてもオリジナルを追いかけて先走る。一幕終り、テーブルが横一列に並ぶのを待つ。作者ジョナサン・ラーソンが火を吐くようにボヘミアン的自由の希求を謳うLa Vie Bohemeの序奏に鳥肌が立つ。開幕と同じく二幕の始まりも出演者のカジュアルな登場、キャストが一列に並んで歌うSeasons of loveから始まる後半のドラマは若者たちの苦難の季節。ヘテロのカップル、ロジャーとミミは純粋を求める若者ならではの屈折に加え、ミミの病気と薬物依存による衰弱という背負いきれない重荷がのしかかる。レズのジョアンヌは美貌のモーリーンの奔放さを受け入れられず始終こじれ、互いを孤独にする。「人に与える事」しか知らなかったゲイのエンジェルは病状が悪化し、コリンズの長い看病に関わらずついに逝く。友を失った彼らは追悼の歌をブルージーに歌うのだが、悲しみにあってもまだ明るさがある。エンジェルは天国で一切の悔いなく存在していると確信させる、という事だろう。本当の意味で彼らに暗い影を落とすのは、彼らのたまり場である元レコーディングスタジオをRENTし、自由を生きる仲間を映画に撮る主人公マークが夢ついえて現実に妥協し、不本意な職に就くという、現実への「敗北」を象徴する部分。理想を捨てた瞬間だ。
タイトルのRENTには、舞台となる賃借する部屋の意を超えて、夢を追う者の宿命=貧乏ゆえ家賃不払いが常態化していてもそれは自由に生きる権利の前では些末である、という含みがある。街のホームレス排斥に反対の声を上げる行動(モーリーンのパフォーマンスはその集会で披露されたもの)にも通じる。舞台ではコロス的に歌を支えたり呼応する他、ホームレスや寄る辺ない者として時折登場し、街の風景を作るが、これが中々効いている。
マークは一度は引き受けたレポーターの仕事を止める。最後のエピソードは離反したカップル、ロジャーとミミの再会。ホームレス化し倒れていたミミをモーリーンとジョアンヌが運んで来る。冷え切った体を横たえた台でロジャーはミミに語りかけ、離れている間ずっと作っていたと言う彼女への歌を歌う。息を吹き返したミミは天国(夢)での出来事、エンジェルが現れ、ロジャーの元に戻って彼の歌を聴いて上げてと言われた事を話す。
全力で演じ、歌う彼らのスピリッツが伝染し、涙涙の観劇となった。音を外したり、群唱ではハモりパートが弱く主旋律ばかり聞こえたり、と見ながらの不満は多々あっても、音程を感情に優先させる箇所が全くなく、人物を「演じ」続けていたのは好感。「RENT」の世界を丸のみさせてもらった。
桐朋のミュージカルを担当する信太美奈氏は約20年前同じ肩書で拝見したが、まだ続けておられたとは。学生と同じ目線で舞台作りを指導・演出する様がパンフの挨拶にも滲み出ていた。

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