薔薇と海賊 公演情報 アン・ラト(unrato)「薔薇と海賊」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    三島由紀夫戯曲を観る貴重な機会(これでやっと4作目か)。引き込まれて観たが、最終的な着地はどこに?主宰・演出はこの戯曲をどう読んだのか、関心は何にあったのかが見えなかった、というのが舞台の印象。後日詳述。

    ネタバレBOX

    大河内直子ならではの役者陣で、今回臨んだのは三島由紀夫の異色作、と言って良いと思う。三島のナイーブな内面を筆に乗せたような世界で、三島が志向し理想として追い求める「純潔」を、俗物性の対比で結晶化させようとした作品とも見える。
    であるために、この物語の中で完全に「浮いた」存在である主人公楓(女性童話作家)と八歳の魂を持つ三十歳の青年という「性欲を介しない」二人を、現実離れした不毛な関係として「否」を突きつけるのか、人が理想を追い求める心を思い出させここに改めて提起するのか、難しい選択に迫られる。
    作者自身は大真面目に、二人の純潔の関係を讃える意図で書いたようである。それは最後に青年の勇気の源である短剣(楓の童話に登場するヒーローの少年が持つ)を「敵」の手から取り戻すために、作家を慕って奉仕する老女と老人の「幽霊」を登場させ、敵の目をくらまして童話のように「正義が勝つ」世界の具現に貢献する、という場面に表われている。
    だが、この場面は「この一瞬の美で全てが満たされる」場面とならなければならない。時間は無惨に経過し、一瞬の美は時間によって色褪せる。時間に浸食されない「美」を二人の間に想像ができないのだ。(舞台処理によってそういう演出は出来るのかもしれないがこの舞台は違った。)
    本舞台のラストでは、「正義が勝った」末、結ばれた二人の周りで童話の登場人物らが舞い踊るが、その時間の「その先」を我々は想像している。そして終幕寸前、演出は舞台前面に素早く紗幕を下ろし、華やいだ世界が凍り付き、モノクロに色褪せた恐ろしげな室内を一瞬だけ見せ、暗転する(終幕)。
    つまり、二人の理想の関係は「死んだ」に等しいものであり、印刷された本の中でしか存在できず、現実に置き換えたが最後、時間経過によって腐ってしまう。それは「常識人」である我々観客の感覚でもある。
    だが、開幕以来執拗に説明されてきた二人の純潔性、俗物の鼻をあかす二人の世間離れした特質にこそ、作者は勝利を与えたかったのではないか、という感触が終演後も残っている。
    三島由紀夫の見果てぬ夢を「夢だった」と宣告するための舞台だったのか、これは?という考えがよぎる。

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    2022/03/13 08:55

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