夏至の侍
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2022/06/07 (火) ~ 2022/06/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
音無美紀子と桟敷チーム、天晴れ。九州のとある町の老舗養魚店(金魚問屋、品種改良も手掛けかつては品評会で幾度も賞を勝ち取った)が、時代の趨勢に勝てず滅びて行く様を描く。
無論芝居の過程では復活の可能性は消えておらず、それは跡取り息子を台風で亡くした母(音無)の前向きな展望と執念に拠っており、娘二人が家を出ても家を離れなかった嫁(板垣桃子)との二人三脚で看板を守り来って二十年後・・たまたま、相前後して二人の娘が帰って来る、という場面から本編は始まる。
二人の娘の帰還は吉兆か凶兆か・・芝居は概ね、往事の人脈と信頼を担保に、壁にぶつかりながらも乗り越え・・という塩梅に進行すると思いきや、ある種の抗い難さ(一つの要因に帰せられない静かで大きな流れというべきもの)に取り囲まれて行く。しかしなお芝居は起死回生の余地を残すのであるが、最後に母は一人になる。
この時この母がその瞬間まで何を支えに、何を目指し、何に執着して生きてきたかが明らかになる。無言の立ち居で(つまり全身で)それを滲み出させる女優の姿に圧倒される。
貴婦人の来訪
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2022/06/01 (水) ~ 2022/06/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
2022年度第一期のシリーズ「声」第二作「ロビー・ヒーロー」に続いて、第三作を観た。1シリーズ3作中2作品観れて、しかも「当たり」というのは珍しい。
小川絵梨子芸術監督が打ち出す主催公演のテーマ設定やプロジェクトには理念先行の印象が勝つが、今回のテーマ「声」が何を照準しているかは判る気がする。もっともこの「声 -議論,正論,極論,批判,対話...の物語」は、演劇それ自体と言っても大過なさそうである。ただ、身体感覚に訴えるタイプの舞台、情緒に浸るタイプの舞台とは異なる領域を指していて、例えば日本という船を曳航するのが世論であるとすれば、そこには「言葉」と「論」が存在している。安倍某のようなトップが率先して「論」を破壊した焦土にあって、必要なのは言葉と論(理)が生まれる源(平たく言えば人間の営み)を見詰め直すことだと感じることしきりである(個々人の中に論があっても公論の場で有機的な交流=議論を阻む障害が・・以前からあったのだろうが・・目立つ)。そんな私の問題関心に応えてなおかつ面白い舞台だった。
ドイツ語圏スイスの劇作家ディレンマットの名を昨年あたりから目にし(「物理学者たち」)、今度また違う作品の公演があるとか。前世紀(冷戦期)の作家で寓意性が高い。今作では書籍なら帯、映画なら惹句になりそうな挑発的な物語設定があるが、それを「仕掛け」に来訪するのがとある貴婦人、これを演じる秋山菜津子がどハマり。彼女と相対する男を演ずる相島一之は劇が進むにつれ適役と思えてくる。
安部公房を思わせる思考実験に満ちた作品の持ち味がとてもうまく出せていた。
【公演中止・延期】熱海殺人事件~売春捜査官~
深海洋燈
新宿スターフィールド(東京都)
2022/02/18 (金) ~ 2022/02/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
6月リベンジ公演。
本ステージの他に若手公演が3ステージあり、こちらを観た。主宰の申大樹がProjectNyxで「これがやりたかった事!」とばかりの舞台を傳田佳奈主演で打った演目、思い入れがあるのだろう。本ちゃんを観たかったが断念、せめて若者バージョンをと日曜夜に初の新宿スターフィールド(久々のタイニィアリス)に踏み入れた。若手は4名で演じ一役を申氏が務めるが、熱海殺人事件のボルテージはこれでなくては、という高レベル。ハイテンションかつスピーディに繰り出す台詞と立ち回りそのものに胸倉を揺さぶられて泣ける、というのがこの演目の持ち味である事を思い出した。
と同時に、私としては深海洋燈の「次」をチラ見しようとする。つかこうへい的「感動」の形を今回くっきりと見せられた事で、ある種の限界も見えた気がした。つか的感動の片鱗は扉座の舞台にもある。(かく自認する扉座の「つか演劇」要素が、今回の観劇で遅まきながら判った。ただ、これは今演る事による感じられ方なのかも知れぬ。)
「風のセールスマン」「控室 Waiting Room」
若葉町ウォーフ
WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)
2022/06/09 (木) ~ 2022/06/20 (月)公演終了
関数ドミノ
イキウメ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2022/05/17 (火) ~ 2022/06/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
イキウメの代表的な作品(イキウメらしい作品)。二度観ていて最初はイキウメでの再演「よく出来た話」との印象、しかし寺十吾演出・若手俳優(タレント寄り)のは物語が整理されて見えて来ず、“不思議”を扱う難しさを痛感。戯曲が微妙なバランスで成立しているので、観客の「関心」をキープし続けるための演出、演技が必要な訳である。
青少年向けの冒険譚、探偵小説、そして超常現象。わくわくを喚起する素材を、一定のリアリティを付与して沈着させ、現実社会の中に位置づけるのがイキウメの真骨頂だが、果して今回の再々演舞台は・・。
戯曲の構成は割とシンプルであった。超常現象(としか思えない)自動車事故をたまたま目撃した者たちは、まず最初に保険調査員(温水洋一)によって集められ、事故の全容を掴みたい調査員のためにそれぞれが証言をするが、結局のところ、それを目撃していない者には「信じられない」。次に、目撃者自身も、「あれ」を見たにも関わらず、「物理法則を超えるような現象が起きるはずがない」と、自分の方を疑い、知覚が捉えた現象を「常識」に合わせようとする。だが最も近くでこの事故を見、目に焼き付いた一人の男・真壁(安井順平)は食い下がり、この現象を説明するドミノ理論を展開し、これを検証する作業にかかる。
ドミノ理論とは、この世には自分の思いが実現してしまう人間(ドミノ)が存在し(殆どの場合本人は気づかない)、その彼・彼女と接触したり関係する他者に(ドミノ式に?)影響を及ぼしてしまう、というもの。
この芝居では、センスオブワンダーに回路を開く仮説の「検証」による勝敗の行方が軸となり、見物であるが、この「勝敗」が最後には溶解してしまう。ここがこの戯曲への評価のポイントになる。
おちょこの傘持つメリー・ポピンズ【岡山公演延期】
劇団唐組
花園神社(東京都)
2022/05/07 (土) ~ 2022/06/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
SPACで一昨年だったか上演された演目。晩年の作品(唐十郎は存命だが絶筆している)と思いきや、1976年状況劇場で初演という(wikipediaには載っていない)。テキストの勢いと粘着性が物凄く、稲荷卓央と藤井由紀の丁々発止、久保井研のナチュラルな台詞が「戯曲をこなしている」(若者が全力でやって何ぼな代物をこの御仁らが)。見事である。
傘屋の中でほぼ劇が進み、終盤のクライマックスが「その場で語る空想」「夢」に仮託しているのが戯曲としては些か淋しかったが、メリーポピンズの傘で飛び立つイメージはそれ自体、時代状況の中で観客に響くものであったのかも知れない、と想像した。
近年になるにつれ若い男女の客が目立つようになった。(何故だろう?)
心白
ほろびて/horobite
調布市せんがわ劇場(東京都)
2022/06/01 (水) ~ 2022/06/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
仮名四文字とか正体不明のユニット名多々ある中、頭一つ出て注目していた「ほろびて」。さいたまネクストシアターに書き下ろした戯曲を(岩松了演出で)鑑賞したのみで、今回初めて主催公演を目にした。
舞台上には雑多なモノが盛られ、三人による芝居(屋外)と二人の芝居(屋内)が交互に演じられるのでその転換では役者が物の配置を若干変更して次の場を用意する。芝居の冒頭では五人が談笑しながら上演開始時の「形」にするべく和やかながら粛々と物を移動し、芝居のラストでは(芝居の準備でなく)自分たちが暮らす「町」を作ろうとしている。
記号的・機能的な装置は「頼るべきもの」として存在しないため、観客は役者の台詞と演技にのみ集中する事となるが、ヒントの少なさは睡魔との闘いにもなる。
寝落ちは免れたが、台詞は幾つも飛ばしたようではある。ただし本作は時間経過と共に見えてくる骨格がある。二つのエピソードは最後まで交わらず、このドラマで「変化」が目に見える人物は一人のみ(基本は真相が観客に「開陳される」事での変化に止まる)であるが、二つの話に共通するのは、一方がこの世からいなくなった他方へ、心を寄せる言葉を最後に語る事によって人物の「繋がり」のありかが漸く観客に理解できる形で提示されること。
それぞれの逸話の中での「残された者」は私たちであり、天災ないし戦争が仄めかされ、近未来予想図めく。ディストピアはしかし現在そのものにも見える。空爆が無くとも、今闘う者たちがおり、軽んじられる生があり、消滅した今もなおそこいると信じる存在があり・・。
昔トリックスターなる存在がもてはやされたが、佐藤滋の演じる地べたに生きかつ超越的な存在にこそ名を与えられたい。(探すまでもなく居た。古来そのような存在は詩人と呼ばれたのだった。)
Naufrágio 出雲阿國航海記
水族館劇場
臨済宗建長寺派 宗禅寺 第二駐車場 特設野外儛臺 天飈の鹿砦(東京都)
2022/05/19 (木) ~ 2022/06/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
主宰の執筆事情で初日がズレ込んだ。お陰で観に行けた。
役者いじりの台詞と、詩的言語を媒介に時空を旅し、喫緊のテーマと歴史の因果を紐解く作風は健在。野郎共(女優も含め)の殆ど手ぶらで裸同然の演技と舞台が目指す高邁さとのギャップも水族館ならでは、相変わらずであった。
主宰が世代交代するという。桃山邑氏の筆による最後の舞台という。アングラ精神(テント公演はレジスタンスなエンタメ)を最も体現してきた(私はそう思う)水族館劇場の今後を見守る所存。
最後の炎
シヅマ
SPACE EDGE(東京都)
2022/05/27 (金) ~ 2022/05/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ドイツの女性劇作家デーア・ローアー作品は劇団TEEがしばしば訳出・上演していたが未見。(観た人から感想を聞いて晦渋な印象があったので・・。子供向けに書かれた最近の上演は観劇したがこれは面白かった。)
立ち上げ当初から注目していた(自分への)義理で内容不詳の舞台を観に行った。間近になって「あのデーア・ローアー」と気づき一瞬怯んだのだが、逆に期待するこのグループを通して未知の劇作家を発見できるのでは・・と久々のSpaceEdgeにわくわく足を運んだ。
この小屋の内部をこう設えたか、と目をパチクリ。漂白色の段ボールを剥いだ裏側(デコボコした)を、横長の階段式客席と、同じ階段式の演技スペースにまで敷き詰め、かなりセンスを感じさせたファーストインプレッションは開幕以後も続いた。
確かに手の込んだ戯曲という感触であるが、目立てが的確で俳優の立ち居に清冽さがあり、陰と陽、静と動の緩急が絶妙(出来の良い弟子のように作家の狙いをハイレベルで具現している)。
休憩を挟んで2時間50分程だったか(少々記憶に自信ないが2.5~3時間の間)。終盤にややきつい時間があるが、幕までに十分に回収してドラマの全体像を観客にしっかと受け渡す。役者皆がこの作品と作品の根底に流れるものへの奉仕者に徹し、共有していると信じられる事は、演劇の可能性(大胆に敷衍すれば人間・社会の可能性)を信じたい者にとってどれほど勇気づけられるかという話であるが、この劇作家が広く評価されている(と聞いた)本質に通じる所だろうか。。(判らんが)
この作品の風景が日本では見られないものとして迫ってきた理由には、戦争責任への向き合い方における彼我の差が連想される。戦後ドイツがナチス時代のホロコーストに対峙し、「償い」の姿勢を示し続けて来た内省的なあり方には、やはりキリスト教が介在しているに違いないが、単純比較で日本の戦後の「加害への向き合い方」が浅薄であった事は「人間をジャッジする」(神的・超越的な)存在の不在が大きいのだろう。
「正しく苦しむ」(真の癒しを得るため)道が開かれている社会と、利得感情(自分の、だけでなく周囲のため、が混入するから絶望的にややこしくなる)に従って「嘘」をつき続けなければならず、癒される事のない社会との差、と表現する事もできるだろう。だが、この「向き合い」には当然、多大な苦痛が伴う。その風景が、この作品では描かれている。だがその苦痛を避けずに持ち、何から生じる苦痛であるのかを直視し、もがきながらその先を見通し進んで行く姿も作者は描く。
ある不幸な交通事故(死んだのは子供)が起きる。一人息子を亡くした夫婦と、認知症化した祖母(孫がまだ生きていると信じている)、事故を起こした青年(不遇な生まれだがボルタリング選手の夢を見出すも躓き、薬物依存となった)、その車を追跡し事故のきっかけを作った事に悩む女性警察官、そして事故を目の前で目撃した帰還兵(戦争体験からのPTSDに悩む)・・彼ら全員に共通するのは、それぞれの形ではあるが「罪責感」と向き合わざるを得ない「現在」を生き、逃げようがなく「苦痛」である事だ。
他の登場人物として、事故を起こした青年と同居していた親友(事故以来青年が部屋にこもり、部屋に入れなくなった)、息子を亡くした夫(教員)が一目惚れした元美術教員の女性がある。その女性と特殊な関係を持つ事となるのは女性警察官。
ドイツ社会でもこの作品の人間ドラマは「理想」なのかも。子供の事故死に連なる己の「責任」は、己の行動が己の責任においてなされている前提なくして発生しない。日本では己一人の責任において行動を決する意識が希薄、そもそもそのような行動自体が奨励されない。「周囲を見て」「皆がやってるから」する行動が大部分を占めているため、戦争を起こした軍部と同じく、制度的には自由社会、公共の福祉に反しない限りの自由と権利が与えられていても、行動の根拠そのものは「己」ではなく「全体」「周囲」にある。その意味での責任概念は時代が下るほどに希薄になり(自己責任論は深まったが)、その代り「管理」への要請と依存が高まった。
己の責任で行動するからその結果に対し己の責任を痛感する。女性警察官に象徴されるが、彼女は事故を発生させた張本人だと自分を認識しており、しかし法律が裁くのは青年である事を知っている。罪と処遇の乖離が彼女を分裂させ、彷徨が始まる。この苦しみは(法違反ではなく根本的な意味での)「罪」の自覚からしか生じない。
日本では集団規範(縛り)が罪意識の源であると感じる。社会を生きるには他者が必要で、それは一つの集団だと捉えられている(共同幻想)。日本の民主主義は個人の考えを言う事ではなく、集団として進もうとしている方向に「協力する」事で実現すると感覚レベルで理解されている。それは手段であり、目的は「民のため」だから民主主義という事なわけである。
彼我の違いを考えながら、人生が「変わる」事が可能でドラスティックな可能性を秘めていると感じる事のできる社会はどちらか、という事を思う。
ホテル
20歳の国
新宿眼科画廊(東京都)
2022/05/13 (金) ~ 2022/05/24 (火)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
3作品(1作はダブルキャストの2バージョン)の舞台を1つにまとめた映像作品(生舞台と同じ2バージョン)である。
ホテルの一室にカメラが潜入し、パンすると別エピソードの二人が現われ会話しているといった演出で、間にホテル従業員女子の二人の会話も入る。過去の回想が入るエピソードでは他エピソードの男性が過去のその人役として出るが同一人物設定かどうかは不明。
ほぼ1カットで撮ったと思われ、その事にまず驚く。役者も段取りよく1舞台に登場するのと同じ(いやそれ以上の)正確さと緊張を強いられるだろうと思う(素人の想像だが)。
話はそれぞれ趣があり、過去20歳の国は一作しか観ていないが夕陽に向かって走る若者芝居の印象(何しろ20歳)からすると「大人」の印象であった。
教育
J-Theater
「劇」小劇場(東京都)
2022/05/20 (金) ~ 2022/05/22 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
田中千禾夫は「マリアの首」という名作をしきりに勧める人が居たので認知はしているがよくは知らず、文学で言う椎名麟三と時代的にもキリスト教の影響という点でもどことなく重なって見えていた(劇作は時代が生み出すものと考えているのでそういう記憶のし方になる)。もう一つ共通する印象は「独特の暗さ」。もっともこの暗さは「現実」の暗さを映しているのであり、この現実を透過した、闇の向こう側にある真の光の照らす場所が想定されてこそ描ける暗さのようにも思える。
この作品は有名で戯曲も書棚に置かれてあったが未読。幸運にも今回の企画で舞台として見る事ができた。場面ごとの構成がシンプルで台詞がよく書けている。と、ドラマの大詰めでキリスト教的要素が突如現われ、攪乱される。生々しい具体の世界と抽象性の振り幅。リーディングとしては中々攻めた演出で、読みの正確さはともかく、優れてキャラが立っており、強い印象を残す舞台だった。
ト書きには人物の服装と様子が細かく設定されており、四人の人物像をト書きのそれと見比べて味わえる俳優のチョイスも鑑賞に堪える。
マックス・フリッシュ「バイオ・グラフィ: プレイ(1984)」
shelf
シアタートラム(東京都)
2022/06/09 (木) ~ 2022/06/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
以前短編を一度観た切りだがハイ・アートな部類で、ある劇評家が評価していた事のみ記憶していた。評論家好み、「演出」を見せる舞台、とだけ当たりを付け、会場がトラムというのにも後押しされて赴いた。
戯曲自体が実験的な、メタシアターとリアルの中間を漂うようなアート性高い代物だったが、体調↓でもどうにか持ち堪え、前半の晦渋な森をくぐり、後半幾らか見易くなった続きを経た最後、私的には(という事は「解釈」が大きく占めている訳であるが)劇的感動を手にした。
俳優の負荷の大きい作品だが健闘していた。
ビニール
コンプソンズ
シアター711(東京都)
2022/05/25 (水) ~ 2022/05/29 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
大谷皿屋敷作演のコンプソンズ公演は(学生劇団時代から現在に至るまでのいずこかで)接点があって初めてでないらしい。
(両者とも数を見ていないがその上で・・)破壊的な作風は地蔵中毒を思い出すが、こっちの方が「演劇」になってる感がある(ギャグのさじ加減で芝居の土台をひっくり返すか踏み止めるかが分かれる..パフォーマンス的な表現全てにおいてそうだが)。
社会の最底辺が描かれる。・・という文字自体が作者の意向を裏切っていそうだが、意味的にはこの通りで、救いのない人生の閉じた円環の中で精一杯悪あがきをして散っていく存在たちが(清々しい、と言いたい所だが残念ながら)痛々しい。物理的に正しい意味で最底辺の「おっさん」の存在が世界観を支えている。「逃げの姿勢」と若者に突っ込まれつつもそこに居直るという一周回って手に入れたおっさんの哲学が秀逸この作者ならでは。妙な説得力を持つ。実社会の「底辺」では大概、病と無縁でないが、精神を蝕まれず常識へのプロテクトを可能にする強靭な肉体はヒロイックである(いやフィクションと括った方が早いかも)。
おっさん以外の人物は皆若者であるので、勢い、「人生をどう終えるか」という場面には簡単に立たせてくれない。現在進行形と見る以外ないゆえに「痛々しい」。荒唐無稽だったり「そんなやついねえよ」と突っ込ませる人物像たちだが、この痛さのリアリティが終盤に至ってそれなりに迫って来た。ネガティブ思考が飽和状態な中での「希望」を問うている、と書けばそれらしいが、そんな高尚なものではない、と言いつつも、泥まみれの中に光明を見出せるかは最も切実な問いなのは確か。
ふすまとぐち
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/05/27 (金) ~ 2022/06/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ホエイ独特のわちゃめちゃ芝居。「わちゃめちゃ」の印象は割と毎回だったりする(「珈琲法要」を除く..この作りは少し別種の感がある。「郷愁のロマントピア」はややこちら寄りだった)。
久々にお目見えの三上晴佳の嫁役、山田百次の姑役、嫁の旦那が中田麦平、その妹(出戻り)の成田沙織、その小学校の娘の井上みなみ、その年下の従弟が中田麦平いった具合。津軽弁を激しく繰り出す名手は山田氏と成田女史、ナチュラルに繰り出す三上女史。外部の人間としては姑を典型的な新興宗教に誘う二人連、また嫁をDV被害者の会的な会に招く二人連に森谷ふみ、赤削千久子のコンビ。秀逸な場面多数であるが、整理のされ方のためだろうか、「わちゃめちゃ」さが前面に出て、典型は姑だが激しい言動の起伏が「ギャグなのか」「演技なのか」と戸惑う。
オーソドックスに収束する家族の物語であるが対立する二人や嫁と旦那の過去についての言及(仄めかしでもよい)は少なく、約めて言えば観客の想像に投げている部分が大きい。
素材は光っているが扱い方が・・という印象が残る(割と毎回であるが)。
平家物語〜語りと弦で聴く〜一ノ谷・壇ノ浦
art unit ai+
座・高円寺1(東京都)
2022/05/25 (水) ~ 2022/05/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
完成度は高かった。平家物語からの抜き読み数場。ウッドベースとの相性が頗る良い(音楽的レベルが高い、というのが正確な言い方だろうが)。金子あいの語り舞台は最初、女性の声という事もあって単調にも聞こえたが、集中して行くと文語体のテキストのニュアンスを汲み取った抑揚で(細部は判らずとも)場面の情景を伝えて来るのが秀逸であった。日本人の祖先たちが「物語」に心を震わせた一つの原型が、よおく判った。軍記物は講談で断片的に耳にしたと思うが、何かこう、形式の枠を外して広がった風景を改めて見るような鮮やかさがある。予想を超えて上演に耐える内容であった。
青空は後悔の証し
明後日
シアタートラム(東京都)
2022/05/14 (土) ~ 2022/05/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
岩松了作演出舞台は二度目である(あと演出のみ、岩松作品の別演出はそれぞれ一本ずつ観た)。戯曲も2本位読んだが、文字では判らない舞台になって判る劇世界が岩松作品の特徴で、作品には時代の奥を見通す要素が何かある印象があるが、本作もどこか近未来か(そうとは書かれていないのだが)と感じさせる雰囲気である。現実臭さと幻想的要素が同居し、また、カテゴライズされない固有の存在(唯一無二の個人)が徐々に姿を見せて来る作劇も岩松作品のものであった。
以前観た岩松作演出舞台は中堅・若手を配して鋭さがあったが、今回はベテラン陣主体だからか?芝居の作りに丸みがあり、岩松氏の「狙い」が体現した舞台になったのかどうか・・と考える所はあった。
旅と渓谷
スリーピルバーグス
永福町駅 屋上庭園 「ふくにわ」(東京都)
2022/05/16 (月) ~ 2022/05/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
楽日。遅い時間帯と低価格で一風変わった試みだろうと推測されたが、永福町駅施設の「屋上」に昇って漸く様子が知れた。リュック一つで身軽に移動、出張公演が出来るスタイル、という。砂場を囲うように地べたに照明数台、それを近巻きに囲って椅子が置かれている。時間帯が遅いのは照明変化が「効く」環境のためだ。男優と舞監?が客いじりしながらの開演待ちの間、ドキドキの懸念要素は「雨」、開場前から「本日雨の予想」とアナウンスしている。既にポツリと来はじめており、階下のダイソーにレインコートが売っていると案内があり、買いに行く。聞けば前日は途中から土砂降りの中での上演となった由。雨具の付け方のワンポイントレクチャーなどで非日常の気分、子ども連れが居たがはしゃいでいた。ズブ濡れになる不安と、「自分一人じゃない」心理から来る妙な一体感の中、野外公演が始まった。
出演者は4名(男3女1)、内2人がポータブルカセットデッキを肩から下げ(雨なのでビニールで覆っている)、場面になるとカセットを入れ替えて流す。照明にはフタが付いており、場面転換時に俳優が開けたり閉じたりする。
上演は一時間弱、その場所を「渓谷」に見立て、旅する者、旅人にたかる者が共闘的だったり敵対的だったりな干渉をし合うが、ロードムービー的なのは脚本それ自体。背景の見え方が少しずつ変わる。当てのない旅と見えていたのが、渓谷は終点と起点(下流と上流)を行き来するだけの閉じた世界となり、最後には終点(河口)に着いたら「ある旅」への出発という別のミッションが現われ、往復する場所でもなくなる。思いつくままに書かれた緻密とは言い難い脚本は、役者の絡みを優先した野外用短編劇。カタルシスは用意されるが、演劇芸術の質を測る「統合」の要素が希薄であるのは惜しい(要は筆の成行き任せで伏線が効いていない)。
今回の着想は以前夢の島あたりでやった野外劇「南の島に雪が降る」(ベッド&メイキングス)で屋外ならではの趣向の舞台を作った福原氏によるものだろうか。一つの試みではある。
表現形態の拡張の時期は、何と言ってもアングラ時代だが、当時は時代へのスタンス・思想と上演形態・表現形態が不可分であったのに対し、現在はコロナに起因する「形式の模索」の域を出ない気もする。
花柄八景
Mrs.fictions
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/05/11 (水) ~ 2022/05/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
この戯曲があったから、コロナ禍下で「何もしない」状況を耐えられた、と主宰がパンフに書いてある。不思議なバランスで魅力を醸している本作を、DVD映像で観て、これは作者に「降って来た」作品だなと感じたが、その印象に違わぬ(正直な)文面に思わず熱くなった。中井美穂プロデュース「落語」縛り企画からのオファーで実を結んだ作品。今回はMrs.fictions俳優二人の他は客演、特に元弟子役の風貌がガラリと変っており、また細かな台詞の直しの跡がある(笑わせる台詞)ものの、作品の骨格とこれを支えるハチ役(今村圭佑)が健在。10年を経て生き生きと蘇ったという感慨をもって芝居を愛でた。
眞理の勇氣
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2022/05/13 (金) ~ 2022/05/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
戸坂潤と言う名はうんと若い頃、古本屋に如何にも昔の学生が手にしていただろうような、茶けた紙に1サイズ小さめの字がびっしりタイプの分厚い文庫本が置かれていた朧ろな記憶がある(唯物論研究序説だとか何とかいう物々しい題ではなかったか..)。
それにしても芝居の題材にし、主人公に据えるには随分マニアックで、評伝劇なら仲介者として現代から(またはせめて戦後のある時点から)当時を射程し、そこを入り口に時代を遡って行くのが常套である所、本作は「現在」を介在させず、戸坂の研究会のかつての同志を語り手に据えているとは言え、劇はほぼ当時を時系列に辿って行く。作者はこれが最も相応しいと判断したのだろう。戸坂の思想や哲学を(恐らく)原文に逐語的に本人に語らせ、解説に走らないのもその方針の延長に思われる。(ただし彼らに貼りついた特高刑事(3人いる)の質問に用語解説はする。)
が、言葉は晦渋でも、何が問題とされているかは戦時体制(思想弾圧や監視)という状況の中に鮮明になる。
唯物論という言葉は、日本史に引き付ければ、物理的事情を無視した戦略で国民を翻弄し、甚大な被害を与えた軍部の殆ど計画性の無い決定は「神」の御名の下に為された、という視点が多分に滲んでいる。勿論軍部の原則の無さが露呈するのは戦後の事だが、渦中にあって社会と体制の矛盾を見通す視点があった事、その視点を固持し説いた抵抗者が存在した事は現代に示唆を与える事実だ。
史実を比較的忠実に反映させる古川氏の筆は、いつも思う事だが何故か「それでも見せてしまう」。息を詰めて集中する時間と、大いに呼吸をして情景を味わう時間が適切に配されているようである。
もう一点本作の「見せてしまう」要素として、戸坂や既婚の研究会メンバーの女性関係の描写がある。大杉栄を前妻から奪った野枝らにも言及され、生活のためにでなく主義、思想で結びつく関係、自由恋愛の文脈に据えようとしていたが、劇中それなりの時間を割いたわりにいまいちフィットしていなかった。「科学的精神」をもって現実と厳しく対峙する戸坂潤の人物像(役者の造形も)は、ユートピアを謳うアナーキズムやある種の共産主義のそれとは異なり、文字通り「科学」に立つ態度、リビドーの発動と一線を画する事にむしろ自覚的である態度を想像する。戸坂氏のは単純に、一度後妻に迎えたい意思表示をした相手との焼け木杭のようなもので、本筋に噛んで来るレベルのエピソードかな..というのは素朴な感想。
それはともかく、、現在、日本学術会議の非承認問題に象徴される自民長期政権の学問の軽視と、非科学的態度(というか頭の悪さ)はマスコミの事後承認により(それを批判しない大多数の市民により)放任状態となっており、来たる参院選での野党惨敗後の3年間、「科学的精神」の敗北を逐一見続ける羽目になる事は覚悟せねばならんだろう。これからの課題は科学的精神そのものではなく、戸坂ら唯物論研究所が敗勢の中で後世ためにどう闘い、どう闘いを閉じたかに何を学べるか、既にそういう段階にある事を憂える昨今、本作は「歴史は繰り返す」を思い知らせる作品になった。
サラサーテの盤
くじら企画
座・高円寺1(東京都)
2022/05/21 (土) ~ 2022/05/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
好きな劇世界、ツボであった。思い出したのは名取事務所「背骨パキパキ回転木馬」。新作オファーに別役氏が(病体を押して)書いたよこしたのは自身のエッセイのコラージュと言えるもので、ペーター・ゲスナー氏がうまく舞台化していて秀逸であった。明確なストーリーのある劇ではないが、脳内の思考や空想のように一見文脈はなくてもどこか深層で繋がっているようなのが好きで今回の舞台にもその要素がある。
大竹野正典作品はコットーネ主催公演で6、7本観てきたが本家のくじら企画では初めて。大竹野戯曲が持つシリアスと飄然の狭間の絶妙な具合が十二分であり、さすが、魂を受け継いでるなァと感ずる。
作品は内田百閒を描いた異色作との事だが、内田氏の親友とのエピソードを軸にしながら(評伝というより百閒作品自体が出典と推察)、他の作品を織り交ぜて「百閒世界」という感じ。