だからビリーは東京で
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2022/01/08 (土) ~ 2022/01/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
久々のモダンスイマーズ、西條氏、古山氏、生越氏、蓬莱竜太戯曲。痛さを抉ってくれる。ミクロな、つまり個の(個同士の)痛さからマクロな即ちそれが生じる背景=時代、社会状況をうっすら見せて来る。
「モダン史上最も執筆に苦しんだ」との蓬莱氏の弁。明るいラストにしたい、という自らに課した「制約」に拠ったと読めるが、私の理解では痛さの中にこそ光がある。「痛さ」とは言い換えれば「本当の姿」。この劇にもモダン流が流れ、気づきの契機と真実を欲する人間の本性への肯定がある。リアルな「痛さ」は、「だからこそ」「にもかかわらず」の希望を擁している。だから好きである。
『ウエア』『ハワワ』
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
団体を知った時からどこかしら期待したくなる若手ユニットだったが、「当たり」に当った事がなく二の足を踏む。今回は作が池田亮であったので観劇した。
評価は、やはり微妙。
原作は散文であるらしく、要は「戯曲でない」原作の舞台化であったが、原作がもし明快な(説明可能な)ストーリーを持つのだとすれば、この演出は不親切(又は下手)。カオスな原作だとすると中途半端に原文に忠実であろうとしすぎでは(世界観の醸成に傾注するのが正しいのでは)・・つまりは演出の主体的な創造的姿勢があまり感じられなかった。
映像が多様された舞台で、個の代替不能性が溶解していく、みたいな原作の世界観に迫ろうとはしており、(これありきで評価するのは気が進まないが)映像がもたらすトリップ感は相当に貢献、作品としても「持った」感ありである。
ともかく井上ひさしの名句「難しい事をやさしく」、深く面白く、を目指して欲しい。
一方、無意味の毒に浸食されずどこまでも健気に突き進んでいく二人の役者にも、助けられていた印象。ユニットお得意のノンバーバル表現が手を変え品を変えて繰り出されて、そこは見て飽きない。もっとも彼らと同じ事を別の人間がやって面白くなるかと言うと・・?(「役」が曖昧では役者個人の持ち味に掛かって来るという意味。)
ただ台詞の「言い」に難あり、拠るべきリアルがなく宙に浮いている。このあたりも演出の「言葉」の処理の面での不得手さと映った。
ギャンブラー
地点
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2022/01/12 (水) ~ 2022/01/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
昨秋延期公演を観た地点に早くもまみえたが、それでも新鮮である(これまで全く似通った作りを見た事がない)。また同公演でも日々変化するとも。今回初日を観たので、一つ千秋楽あたり、リピートしてみようかと考えた程。
空間現代との「コラボ」と言える公演でもあった。昨秋のはナマ出演叶わず録音となっていたが、以前観た「グッドバイ」と同様、音楽で始まり音楽で終わるほぼフル演奏の舞台。
ギター・ベース・ドラムの3名の演奏と俳優の発語とステージング(装置移動含む)、照明(ルーレットの作動に対応する頭上の巨大電光オブジェを含む)のワークが、一つの楽曲の「演奏」のようである。このステージに覚える高揚は音楽のそれに近い。
俳優の仕事の方は「賭博者」(ドストエフスキー作)のテキストのコラージュをルーレット台を囲んだカジノ客らが織り成し(登場人物は各人に一人ずつ割り振られている)、ギャンブルに埋没した主人公の実存が、現代の我々の生と重なり、あるいは隣り合わせだと知らさせる。「生きる意味」の晴れがましさ(幻想)と、飾り立てを許さない現実との落差が感覚される。明と暗背中合わせのカジノに象徴される人生の舞台が造形され、そこに自分の生を思わず投影した私であった。
hana-1970、コザが燃えた日-【1月21日~1月23日、2月10日~11日公演中止】
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2022/01/09 (日) ~ 2022/01/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
値は張るが、この脚本・演出は必見だろうと心の声。足を運んで正解、声に感謝。
沖縄という題材、そして基本台詞のみのストレートプレイ(戯曲・演出上の趣向はあるがドラマを逸脱せず的確)と、正面勝負の演劇であるが、目新しさ、見やすさに傾きがちな演劇界にあって、安易な娯楽性にも逃げずに書き上げ、作られた演劇の持つ確かな力に打たれた。(もっとも、赤裸々な人間描写ゆえに「笑い」はあり、リアル劇ゆえの「ミステリー」要素は備わっているが。)
九十九龍城
ヨーロッパ企画
本多劇場(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々二度目のヨーロッパ企画。初の回がもう一つだったので「どうかな?」と恐る恐る。趣向が盛り沢山で楽しかったが、ドラマを見たい自分としては・・二の次な感じが拭えず、要するにかなり惜しいこの惜しいは「これは超えたい」という惜しさ。うまく言えないのでまた。
カミノヒダリテ
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/16 (日)公演終了
朝ぼらけ
teamキーチェーン
吉祥寺シアター(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/10 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初見の劇団。贔屓劇団が増えれば勢い開拓の機会は減るが、口コミメディアお陰で冒険が出来る。モロ師岡以外知った名はゼロ、ただ美術担当が知った名で若干背中を押されて観劇。
根のいい人間に遭遇した時の如くで、最後にはあれこれの不足も許してしまう感じ。浸透圧でぐぐッと台詞の入ってきた瞬間が2か所、キーとなった役の貢献も好印象であった。
『忠臣蔵・武士編』『忠臣蔵・OL編』
青年団
アトリエ春風舎(東京都)
2022/01/04 (火) ~ 2022/01/18 (火)公演終了
実演鑑賞
OL編→武士編の順で観劇。OL編は確か過去2バージョン、家老役が確か天明女史、森内女史のを観た。コメントする程の事もないオヤジギャグ的作品だが、今回OL編を観た感触が良く、平田作の駄弁芝居の楽しみ方を習得したという事か?と省みるに、どうやら女性の家老の頼もしさを滲み出すところに照準化するテキストだと気付いた(天明、森内の時も家老が芝居を締めていた)。
前観た時は武士編に比べておちゃらけな印象だったのが、今回は炭火のような確かな温かさを感じ「意外といいじゃん」と再発見。(舞台成果の違いではなく、見方の変化かと思う。)
一方、武士編はいま一つ迫って来なかった(元々いまいちピンと来ない演目だが..)。OL編が思いの外良かったので期待値が上ったのだろう。
武士編は今回で3回目だったか。テキストはOL編と大枠同じ。役者が弾けてナンボの演目でもあり、それぞれ弾けてはいるのだが、白っと見てしまった自分がいた。
以前は男性が演じる手堅さが利点に思えたのに、何が違ったのか・・。女優の「性」に備わるマイノリティ性・被害者性、それを超えて前進する力強さ、といった属性(ステロタイプではあるが)が、テキストの隙間を埋め、テンションを支えていると感じた。
一方武士編の男バージョンで感じたのは役者の細さ、というと申し訳ないが、前に出演した島田曜蔵氏レベルの破壊力ある存在あって釣り合う(人物の色分けがくっきりする)戯曲なのかも。配役では一人、西風生子を入れて破壊力を注入しようとしたようだが、役者全体として「役柄を全うした」感に至らず、そうなるとこのパロディ上演の意味は厳しくなる。
OL編と違い、陣幕が張られ出で立ちも武士であるので、異質同士の境界線は少し異なるが、羽織袴を正当化する要素が希薄になってしまったせいか。所作、姿勢は武士に準ずる等が足りなかったか。
ほんの小さなボタンの掛け違い等でどつぼにハマる事もあるだろうし、そういう回であったのかも。
かように同じ作品を観ることの気づきはそれとして独特な楽しみがあり、自分は今回のような形態をレパートリー・シアターというカテゴリーに当て嵌めているが、欧州諸国での舞台芸術に対する人々のリスペクト、一定の社会的地位は、このレパ・シアターのありようと深く関連するように思っている。欧州(に限らないとも)モデルで想起されるのは「地域単位での文化の成熟」。東京一極集中の異常さを常に感じている自分としては、劇団の地方移転をやった青年団の今後を見守りたいが、不定期にせよ同じ演目を折節に上演して行くレパートリーシアターの試みも、支援会員制度と共に賛同する所。「地域に根付く演劇」という課題が社会の成熟と軌を一にしていると個人的には考えているので、一つの劇団や劇場、演目を「見続ける」観客のあり方の探求には密かに、大いに期待している。
赤目
明後日の方向
王子小劇場(東京都)
2021/12/29 (水) ~ 2021/12/31 (金)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★★
年も押し詰まったどさくさに「赤目」の字が目に入る。斎藤憐の作、とだけ記憶にあったが御大の王道的作品をちゃんと鑑賞した事は無かったが、幸い配信があり目にする事ができた。
紙芝居の絵描きだった三郎は、テレビの普及で衰退の一途を辿りつつあった紙芝居という手法で一つの作品を書き上げたいのだと言う。周囲には、紙芝居の時代が続くと信じ巡業に励む若手第一人者や、人形劇団を立ち上げて活動を模索する青年、「食えない」稼業を志して来た風変わりな新入りの少女、等が居り、彼らが「表現」に取り組む姿を通して当時の世相を語らしめる。が、やがてこの作中の「現代」から、冒頭紙芝居でそのさわりを見せた「磔茂左衛門のお話」の続きとなる三郎の作品「赤目」がいつしか本域で劇中劇である事も忘れさせて怒涛の如く展開する。殆ど妥協のない権力の描き方に私は「カムイ伝」を思い出したが、長い劇中劇が終わり、前半から時代が下った「現代」に場面が戻ると、今は伴侶(かつての新人少女)との生活を得ている三郎の苗字=黒田の黒と三から、「あ、白土三平だったか」と漸く思いいたった。
学生運動の事を言ってるらしい「たった数年前のあの出来事」という台詞が、観客に届かせる台詞として言わせているので、相当古い作品らしいと気付く。高度成長のさ中、冷戦構造の恩恵を被り、国家の罪責が不問に付される現実に、若者は自らのあり方を問われ、その多くが社会運動という形態に流れ、また表現する者は当然表現の意味を問われていたんだろう。世代が違うので想像するしかないが(もっとも変わり者の私はその「想像」の材料を学生時代殆ど義務のように漁った口であったが)、作者はこのことについて書かずにおれなかったのだな。
斎藤憐戯曲は10年以上前、あるアマチュア劇団が果敢に挑戦した舞台を見て、現代の社会派戯曲のスタンダードな筆致に思えたものだったが、今作で全く印象が変わった。
舞台成果としては、魅力ある役者の立ち姿もさりながら、3度目位になる久々の黒澤世莉氏の演出が堂に入った印象である。
とにかく劇中劇となる「赤目」には痺れた。
#31.5『パブリック・リレーションズ』
JACROW
雑遊(東京都)
2021/12/21 (火) ~ 2021/12/26 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
正月に配信映像を鑑賞。画面クリックですぐ本編に入り、無駄な場面なく見入って1時間半、番外公演らしいサイズでも中身十分の饅頭であった。
終幕の場面の続きがあっても良さそうだが、問題が出切った所で話を切り上げている。
「クィンテットPR」という企画会社を起業した5人の船出の日と、その7か月後の状況が描かれるが、出だしで社長が「大きな夢」を語り、威勢よく乾杯と来れば、前途多難を予感せずにいないが、場面変って七か月後、豈はからんや成功譚とは程遠い状況である。早くも内憂でガタついている。一方彼らの企画の売り込み先であるテレビ局(制作会社?)側の内部事情も描かれ、「業界」に横行しているだろう非公式な売込みやパワハラぎりぎりの駆け引きを十分想像させる場面のリアリティは、その八方塞がりに観客を鬱屈した気分に落とすが、索漠として映じていた風景に真実の水脈が見えて来る。
しがらみが支配する業界での新規参入は、「良い企画を売り込む」だけでは立ち行かない事が素人目にも想像できるが、その通りに会社の業績が思わしくないのは、社長の「勝算」の裏付けがなく(芝居では殆ど表面に出て来ない)、社員を叱咤するしか能がない(そういう場面しか切り取られていないので)事が原因でしょ? というあたりをチクリとやりたい芝居かな、と前半「勘違い」したが、実は違った。不良がたまに良い事をすると好感度抜群、みたいに、この芝居では人の熱意や善意が蹴散らされておかしくない(視聴率至上主義の)社会の中で、筋を通そうとする人間の意志が一抹の希望を担保するのだ、という話。
巨大資本に利するための制度的足場が整えられていく(またそういう話題が報道に乗らない)日本で、私は殆ど希望を見る事ができないが、この芝居のディレクターのように視聴率を慮りながらも社会に寄与する情報を選択的に流す、という筋を通す人間が(意志が)風向きを変える事もある、人間捨てたものではない、という作者の思いは受け取れた。
リーディング公演 「ローマ帝国の三島由紀夫」
一般社団法人銀座舞台芸術祭
シアター風姿花伝(東京都)
2021/12/29 (水) ~ 2021/12/31 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
今年の見納めに、目の覚める激烈な舞台に遭遇した。
リーディングの範疇に収まらない内容でもあるが、「リーディング」が上演形態に相応しい戯曲とも思われ、いずれにせよ元が取れた。
俳優陣を見て観劇。完売のところ当日券を買ったが後方の席はまだ幾つかあった。「東京crossing舞台芸術祭」とは初めて聞く企画。観客動員の不安から縁故にチケットを蒔いた分だろうか?等と余計な推測をする。
俳優陣は七味まゆみ、武谷公雄、SPACの貴島豪と実力派の曲者揃い。比較的著名な成河の名は後でパンフで「そうだった」と思い出したが、間近で見るのは初めて。
戯曲自体は中々晦渋であったが、題名は「ローマの一日」とでもした方が判りやすい(多層的なので題はシンプルな方が)。ただ、そこにいるのは皆日本人で、「三島由紀夫」は恐らく日本人のメタファだろう、「本人」への言及は僅かしかないが日本人論は語られる。「その部分を見よ」という作者の目印が「三島由紀夫」だったか。。
演出はカクシンハンの木村龍之介氏。滑らかとは言えない戯曲だが骨は太く噛むと歯が折れる。
vitalsigns
パラドックス定数
サンモールスタジオ(東京都)
2021/12/17 (金) ~ 2021/12/28 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
たまに観るパラドックス定数、前回は風姿花伝の過去作連続上演の最後だったか(オーケストラのやつ)。今回はSFというので気になっていた。
冒頭から危うい体調だったが、闇と静けさに囲まれた深海での出来事が、徐々に不気味さを増す(映画「エイリアン」に似た感触)サスペンスを中盤まで堪能した。が、後半、二度程の寝落ちでぽっかり空いた穴を埋められず、最終場面を見ても「どう終わったか」が把握できなかった。
他の方の感想を見ると「前半が良かった」ようであるので、美味しい所は味わわせてもらったらしい。それはそれで良いか。
徒花に水やり
千葉雅子×土田英生 舞台製作事業
ザ・スズナリ(東京都)
2021/12/15 (水) ~ 2021/12/19 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
観たい公演のリストは当然だが月日と共に増え、今数えてみると月30~50位になっていた(実際観るのは10~20)。ところがこの12月は70以上。東の演劇事情は盛況也。配信でリベンジできる公演があるのは有難く、本作もその一つ。
配信に伴う悪条件を物とせず、面白く楽しく観れた。声は大きく台詞は判りやすくキャラも演技も明瞭。よくよく見れば、ヒロイン役の田中美里以外は4名とも皆戯曲を書く俳優である。
最後をどう仕上げるかは書き手が最も考える所だろう。土田氏の本は話の締めを「イイ話」に着地させる印象があり、ヤクザ(の父=故人)の絡む話にしては、アウトローの世界から軸足が最後は普通人の世界に戻る感じがして、私としては些か淋しかった。芝居に頻発する笑いは「着地」する前の「期待」の笑いである事が多いが、反社、アブノーマルな家庭環境、頭は悪いのに裏社会の事情は「肌で読める」等々のキャラ・設定から生まれる笑いは、「逸脱(解放)」の快感がもたらすものである(枝雀の「笑いは緊張の緩和」理論は汎用性高いな..)所、最後は「はみ出た」場所に着地はしなかったな..というのが、この芝居への唯一の不満であり、だがそれがラストである故にやはり無視できないな、となる。
が、、美味しい場面は癖になるもので。もう一回は笑わせてもらおうと思っている(配信でラッキー)。
樹影
ケイタケイ's ムービングアース
シアターX(東京都)
2021/12/28 (火) ~ 2021/12/28 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
シアターXでの上演で名前だけ認識のあるダンサー・振付師だが、もう古い人らしい、とどこか避けていた(経歴もよく知らず)。今回は別の芝居と迷ったが、結局こちらに足が向いた。客席は結構埋まっており、若い人も割といる。
演目は二つあり、古木を使った「樹影」が、シリーズ化している「LIGHT」のナンバー○○を前後で挟むという構成であったが、両者は一体化していた。シンプルで力強く、古木が屹立する姿に照明が当たり、ケイタケイの無心に事を為す風情が、絵として強いインパクトを与える。「音」は控えめだが風景に深さを与えていた。少なからず関心がもたげた。
レクイヱム
小田尚稔の演劇
SCOOL(東京都)
2021/12/22 (水) ~ 2021/12/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
今回は新作だろうか。確かに「死」にまつわるエピソードが、「小田尚稔の演劇」の手でそれぞれの原石に光を当てられている。SCOOLでの二作目の鑑賞となったが、スペースを有効に使い、適度な密度と広がりがあり、ちりばめられたユーモアが小さな灯をともす。時間を自由に行き来する遊戯の中に身を浸した、という感じである。
若者をもノスタルジーに引き込むだろう車窓を過ぎる夕刻の映像は開演前から背景の白壁に流れ、置かれたデスク上のスタンド等が下辺に影を写して物憂げにリアル空間と映像を馴染ませている。
本レパも再演を重ねて行くだろう事からエピソードには触れずにおく。
境界
Noism
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/12/24 (金) ~ 2021/12/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
名を知ってかなり歳月が経ったNoizm、初観劇。一度見て面白かった山田うんと作品を出し合う公演、という事もあって足を運んだ。
別の作品とは言え、Noizm0、Noizm1とあるので出演はNoizmメンバー(山田うんのは若手、金森譲のはベテラン)であるようだ。
どちらが先か知らずに見始めたが、一つ目開演早々既視感。3、4人がステージを斜めにユニゾン、軽快に前へステップする動きにブレーキがかかって片足を出した所が停止点、また同じ軌跡を戻る、というのは山田うんのもの。舞踊には個性が否応なく滲む。たった一回の観劇でも焼き付いたのだろう。全編に穏やかなクラシック(室内楽)が流れ、音楽のみではステージの意図は汲みづらい。特徴的なのは衣裳で、春を思わせるが微妙な何か意図があるような・・淡い原色系の数種類の色を全員違うパターンで切り貼りした感じだが、「自然」か「人工」か狙いが不明、あるいは「人間の営為に自然などない」の意か・・。山田氏の出自がそうなのか、クラシックの影響か、バレーに寄った印象。技術を習得した若者がその技術も披露する「如何にも舞踊」な群舞であったが、ふんわりとして今ひとつ掴みどころが無かった。一人だけ体格の良い西洋人が男性だな、と見ていたが、終演後一列に並んだ顔を見ると半数が男性と見え(短髪の数)、ユニセックスな世界が狙いだったのかな・・?等と考えてみた。舞踊の娯楽の第一は身体の動きの視覚的な快楽、音楽とのコンビネーション(リズム感)にあり、要は理屈ではない訳だが、ピンと来なかったのは「境界」というコンセプトが醸す「攻めた」ニュアンスとかけ離れていたからか。
一方Noizmは荘厳という言葉が相応しい舞台。出演者は三名、高貴さをまとう白い衣裳の女性?と、黒をまとった武術的な動きをする二人。何もない舞台に、簡素で大胆な装置が場面によって挿入、そして照明を駆使して独自な世界観を見せる。山田うんの時は「白いリノリウム?」と見えたのが、黒になっている(15分の休憩時間に敷き直すのは無理だろう)。空間と時間、生命、人間の営みの反復といった、何か本質的な領域に触っていそうな視覚的なイメージが強烈である。そして、「見た事のない」風景が現前していた。
同じりゅうとぴあの「演劇」部門では笹部氏によるギリシャ悲劇の(ギリシャ悲劇だけに)荘厳な「赤」のイメージを思い出したのは、偶然か。
海王星
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2021/12/06 (月) ~ 2021/12/30 (木)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
この入場料ではまず劇場観劇は無しだが、配信があるというので、寺山修司作品を、我らが真鍋卓嗣(小劇場演劇の演出では第一線)がどう演出?という興味で拝見。(出演者で気になったと言えばなじみある内田慈、「彼女と言えばこう」というイメージを破り、健闘していた。)
だが色々と物足りなさを語れば尽きない舞台であった。配信は「音」に難があり、できれば2回見ようと思っているが、今回は短い配信期間の中で都合2回、鑑賞できた。よって芝居の全容もほぼ把握できた。
冒頭の歌から全体の歌に行く出だしの運びは寺山舞台の要素があって良かった(主要人物以外は皆、白と紅の白粉でアングラ感を出し、灯りが入ると人形のように静止し、ホテルの広間の上部のプラットホームが演奏エリアなのだが、指揮者が神然として人間界を音で翻弄する的な風情。)
しかし・・寺山作品にしては「ひねり」が無い。戯曲としての出来は確かにありそう、ではあるが、それより気になったのは、主要人物の台詞の「言い」にひねりがない。ある感情を直線的に表現する。(白塗りのコロスは「いかがわしさ」を漂わす演技をやっていたが、コロスとして一体的に存在している感はなく、リアルな演技と見分けがつかない。)
特に気になったのは、松雪泰子がスレた女が若い男にのめり込む大胆な演技に振り切れず、歌もあまりうまくなく(これが決定的か)、おっかなびっくり演じている。映像畑が長いせいかショットを撮らせる的な「見せる」演技にとどまり、内から滲み出るものが少ない。(この女優の限界を感じたのは映画「フラガール」のラストで、非常にもどかしく勿体なかった。)今回は主役と言える役、だのに。。
寺山戯曲に臨むなら、役の二面性、多面性、要は二重人格?くらいに切り替える謎めきの度合いが欲しいが、全体にストレート演技である。にも拘わらず、テンポは緩い。たっぷり演技は「探る」演技との定理が当てはまるか。本来複雑な(つまりひねりのある)人間感情が、埋まらない感情表現で時間が緩いので、上演時間の長さの理由はこれか、と思う。
コロスたちの一癖二癖あるキャラとの対比を、演出は中心人物(山田裕貴、松雪泰子、ユースケ・サンタマリア、伊原六花)に求めたのかも。
ひねりと言えば、音楽にもひねりが少ない。個々の楽曲ではユニークな成功しているものもあり、才能のありかは認められるものの、芝居が語るものを受けて芝居が語れないものを埋め、繋ぐバトンとなる楽曲でなければ、音楽劇である意味はない。台詞の説明のための楽曲が散見され、何とか「台詞を喋った方が良い」というレベルは脱していたが「台詞を言うより断然いい」という場面を作った楽曲は限られていた。
本舞台はミュージカルではないにしても「畑違い」である真鍋氏がてこずったのは音楽担当だったのでは、と勝手に推測。
戯曲の作り(ト書きの指定も?)が根本的な問題であったかも知れないが、戯曲の立体化としての成功はもっと狙えたように感じる。ただし、もっと高いお金をとって客を呼ぶだけの「コンテンツ」にする使命がもう一つ加わったとすれば、その事自体が作品の質を薄めた理由だったかも。
泥人魚
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/12/06 (月) ~ 2021/12/29 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
新宿梁山泊のテント芝居が実力派俳優の客演でコクーンに出現!の趣きである。金守珍演出第二弾の「唐版 風の又三郎」が空間的スペクタクルに酔わせる作品とすれば、本作は言語によるハンドリングの比重が大きい印象。唐十郎戯曲の本質とは言葉一つで風を起こす(実は観客に想像力を駆使させる)ものである、との勝手な仮説で言えば、テントという小宇宙だからこそ、言語によるスペクタクルが屋台崩しのファイナルでせめて空間的スペクタクルを具現して溜飲を下げることが可能。というのが(私が唐戯曲を多く味わった)梁山泊の芝居であり、いよいよ金守珍は唐戯曲をテントでない劇場・・装置の置き場に困らない広いステージと座って痛くない椅子のある劇場で、日和らず(唐ファンでは必ずしもない)観客の前にストレートに差し出したのだとも見える。
作家・唐十郎としては晩年の戯曲になる今作は、まず台詞に負わせた「飛躍」の度合いが従来作以上に高く、また物語を動かすアイテムとなるキーワードとキーマンも従来作以上に多い。生々しい現実の断片と、詩的イメージに属する断片は、小賢しく擦り合わせをする事なくぶっきらぼうに並存する。
本作が実際の社会イシューの暗喩であると判るのは、「諫早」という地名が出て来た時。芝居の前半で「湯たんぽ屋」に必要な材料であるブリキの板が景気よくエッサと運び込まれるが、店の中に一列、上手から順々に並べられる、という奇妙な場面の伏線が、そこで氷塊する。
(あるいは初演当時、観客はあのブリキの板の列を見ただけで諫早のギロチン板を想起したかも知れぬ。)
当地での農業と漁業の利益相反を、元の自然を大規模に改造する事によって片方に利するという無理筋な政策が、通ってしまうのを見て胸が痛くなった人は少なくないだろう、私もその一人だ。
作品はこの一つの現実に対する唐氏なりの昇華、というより代償行動の賜物で、観客にとっては未解決な元ネタが現実に存在し、しかもドラマの背景にとどまらず中心に絡んでいるという点で、特殊な演目ではないかと思う。
海へ帰って行くやすみは、船で育った来歴から人魚の化身と噂されるが、作者が地元諫早の「外」から持ち込んだアイテムである人魚は、外海から遮断された壁の中で滅んだに違いない生態系の象徴であり、この物語は「既に死んだ」存在への鎮魂歌となっている。ここで言う「死」は物理的な死にとどまらないだろう。あの光景を見て、何かが死んだと感覚させる源を、説明する事はできないが、唐十郎がラディカルを込めようとした作家魂は確信される。
サワ氏の仕業・特別編
劇団ジャブジャブサーキット
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/12/16 (木) ~ 2021/12/19 (日)公演終了
実演鑑賞
岸田國士の作品名をもじった回文風のタイトルは内容と殆ど無関係だろうと踏みつつ、ただ二年振りの東京公演への気負いは込められていそう・・と、そこは仄かに期待してアゴラ劇場へ赴いた。
率直に言えば、はせ氏の戯曲の「端折り」の傾向が行き過ぎの感。中盤意識が飛び(体調も↓であったが)言葉は耳に入って来るが意味内容が脳内で像を結ばない状態、
「これは何なのか」が判らない時間は冒頭から始まり、長い。パズルの最後のピースが嵌まらないと全体が見えてこないんではないか、という位の勢いで、ジグソーパズルなら目に見えるが演劇では前の場面は記憶が頼り。解かれない伏線が折り重なってはとても覚えていられない。
という事で、戯曲が掲載された雑誌を買い、たまたま載っていた作者の寄稿を読むと、最後に公演の宣伝があり、「掲載された台本を読んでも判らないだろうから舞台を目で見てほしい」と書かれてある。何ィ~、である。冒頭から読み始めた台本だが、一場での二人のやり取りのヒントの無さ。観劇中の睡魔は自分の体調だけのせいでもなかったかも、と。。
そんな訳で、台本を読んでから感想を書こうと考えていたが、それに割く時間はないと断念した。(何年か前同じ雑誌に載った「見なかった芝居」の台本を必死に読んだがやはり難渋した記憶がある。)最後に観たジャブジャブの舞台は判りやすかったが・・。
『水』/『青いポスト』
アマヤドリ
新宿シアタートップス(東京都)
2021/12/16 (木) ~ 2021/12/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「青いポスト」観劇。二本立て公演が多い劇団だが制作的にもこれが合っているのだろう。思い出せば昨年の二本立て「生きてる風/豚に真珠..」の後者も観ていたのだった。こちらは「生..」を観るつもりで予約し、都合が変って日時変更したら演目も変わりall女子の「豚」の方を観たという顛末だったが、今回も蓋を開けるとall女子芝居。
主役と身内以外の人物たちは関係性も判らないが(もっとも判った所で..という感もあるが)、芝居の勘所はフィクショナルな設定の成立の度合と、視覚的・美的仕上がり具合、という点では、久々に見たアマヤドリの群舞は相変わらず(苦手なやつ)ではあったものの、型のレベルは高くその分だけ仕上がり良く、つまりは劇的な高揚を舞台にもたらしていた。