葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー
株式会社ステージドア
蒲郡市民会館(愛知県)
2014/08/11 (月) ~ 2014/08/11 (月)公演終了
満足度★★★★★
ミュージカル『葉っぱのフレディ』蒲郡公演を観劇。
ミュージカル『葉っぱのフレディ』蒲郡公演を観劇。
蒲郡に隣接する豊川は,私の出生地だ。蒲郡の市制記念行事は,病院関係者が,市長に直訴して実現したものらしい。台風が怪しくて,公演も吹っ飛んでしまうかもしれない,と不安もあって,現地にはお昼頃到着したら,偶然それらしい集団が歩いてきて,市民ホールに入っていった。ほどなく,発声練習も聴こえた。大ホールなので,有名な公演でも席が十分に埋まらないこともあるらしい。私は,イプセンを観にいって,四五人しかいなかった経験もあるので,スカスカの演劇もあっても驚かない。しかし,毎回好演しているルーク先生役の宝田さんには,いつも大ホールが満席であって欲しいという期待がある。それだけ,一生懸命なのだ。心配はされたが,二階席はともかく,一階は80-90%ほど。
さて,『葉っぱのフレディ』観劇は,東京公演の四回から一週間おいて,五回めとなった。回を重ね,観劇する席を変えると,いろいろと見える世界が違う。地方公演のホールであるからといって,特に舞台が見劣りするようなことはなかったと思う。お孫さんを連れての観劇か,結構おばあちゃんが目についた。彼女たちは,ひょっとすると,往年の銀幕スター「宝田明」を見に来ていたのかもしれない。
五回めともなると,気がついたのは,カミキリのモアに,葉っぱが襲撃されるまでが意外と長かったことだ。たぶん,挿入歌を一曲ずつじっくり聴き始めたのでそういう印象になったのだと思う。とても良い曲が多いと思う。歌詞もなんとなくイメージできる。『葉っぱのフレディ』の主役はもちろん「フレディ」であるが,とりわけ挿入歌を独唱しているのは,「フレディ」の周辺にいる,メアリーとか,クリス,あるいは,葉っぱのクレアだった。ルーク先生役の宝田さんもかなり目立っていると思う。
このあと,2014『葉っぱのフレディ』は,北上し,岩手県に飛ぶ。さらに,グランド・フィナーレは,神奈川県に戻り,芸術劇場で二公演が行われる。それが終了すると,葉っぱは解散するのであろう。そして,初春になると,オーデションの激戦を勝ち抜いて,2015年新メンバーの芽が出る。いずれにせよ,最後に,もう一度感動の名演技を期待したいものだ。子どもの演劇・ミュージカルも,たまには良いものだ。そればかりだと,なんだか自分の頭の中の,キャパシティが柔軟さを欠いていくような気もする。ひとつ子どものミュージカルを観たら,ひとつ大人の演劇を観るのがいいかもしれない。
秋になると,葉っぱたちはみんなきれいに色づいた。
同じ木にいるのに,どうして違った色になるのかな?
一人一人が,お日様へ違う向き方を体験したからだよ。
葉っぱの僕らがすみかを変えるときが来たんだ。
どんなものでも必ず死ぬんだよ。
怖くないのかな?
君は,春から夏,夏から秋になるとき怖かったかな。
季節が変わるのは,自然のなりゆきなのさ。
そう考えれば,いつかそのときが来ても怖がることはないのさ。
葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー
株式会社ステージドア
THEATRE1010(東京都)
2014/08/01 (金) ~ 2014/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
2014年,『葉っぱのフレディ:いのちの旅』を,初めて観た。
2014年,『葉っぱのフレディ:いのちの旅』を,初めて観た。東京公演では,すでに,4回観劇している。
私は,子どもの演劇・ミュージカルでは,どうしてもミュージカルの方が具合良くできていると思うことが多い。ストレート・プレイは,すごく難しくなる。その点で,音楽や,ダンスが十分に取り入れられたものは,とても楽しい。
『葉っぱのフレディ』は,元小児科医のルーク先生が,地球の起源から説き起こす壮大な物語だ。だから,最初は少し違和感がある。しかし,たとえとしては,ふだんは何気なく見落としている「葉っぱ」にも,生命があり,物語があるという重要なメッセージが隠されている。
どうして,「葉っぱ」なのだろう。植物は,何もしていないように見えても,フレッシュな空気を生産してくれる。夏の間は,木陰を作ってくれるという役目だけでなく,実際緑が多くある地域は,熱帯夜などになりにくい効果もある。また,神様のいたずらかもしれないが,紅葉の時期には,考えられないスケールの自然美で,人のこころをなぐさめてくれるだろう。
『葉っぱのフレディ』を初めて見て,最初の方は,少し退屈だった。単なる中学・高校の理科の授業的にも感じたからだ。しかし,自然の中にも弱肉強食は起こるというシーンが始まると一変する。葉っぱたちが,カミキリ虫たちに食べられそうになり,風がそれを微妙に邪魔し,やがて,巨大な毒グモが現れて,カミキリ虫たちが駆逐されていく。この場面が,名場面だと思う。音楽がかなりドラマチックで,毒グモメフィストは,『オペラ座の怪人』的雰囲気をもって,舞台を盛り上げていく。
少し弱点をいうと,メアリーは,もう少し悲劇的に演出できないものか,ということがある。彼女は,どういう事情で,母子家庭になったかわからない。しかし,最後は,その母親との酷い死別が,あっさりとし過ぎている。どのように手を加えていくと,それが出来るか,わからないが,何かあると思うのだ。
マークと,クリスの話も,全体が非常に格調高く仕上がっているのに比べて,やや手抜きにも思えた。子ども相手だから,あれで良いのだろうか。たとえば,三角関係の場面でも,加えて,それを越えて,もう一度本当のものに近づくことができた。といった設定が必要かと思う。
『葉っぱのフレディ』の,いのちの提示は,本当のところは,さほど深いところにはない。ルーク先生は,死ぬことがさほど怖くなくなった,満ち足りた気持ちである,という。しかし,そのような気持ちになるのは,やや説得力が弱い。ミュージカルは,ストレート・プレイほど,深い思想などを伝えるものではないので,無理をいってはいけないことも承知ではあるが。
子どもたちに,地球環境を守っていかないと,自分たちの未来がない!日がやがて来てしまうかもしれないよ,という重要なメッセージ。それから,子どもであっても,成人しないうちに病気で亡くなることもあるし,命というものを意識するにはまだ早い時期とはいえ,「死」というものの存在くらい漠然と認識しておいてほしい,というもう一つの重要なメッセージ。これらは,上手に表現されていたと,絶賛したい。
一時間40分は,適切な時間だと思う。これ以上長くなると,冗長になる。プロは,ルーク先生役の,宝田明さんだけだ。子どもたちのための,子どもたちによる,ミュージカルという点では,ずば抜けて魅力的だと思う。良くできた作品にちがいない。
葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー
株式会社ステージドア
THEATRE1010(東京都)
2014/08/01 (金) ~ 2014/08/03 (日)公演終了
ゆうなっちが、すごい。
ゆうなっちが、すごい。上野ストアハウスのときは、まるで幼児だったが、いつのまにか大舞台で堂々とフレディを演じていた。明るい笑顔と、時々声が裏返るのがおもしろい。まあ、ハスキーなボイスは魅力的であろう。
ダンスはニュースとかで、中学やら高校のお姉さんたちにまじって、ぴたりとあっていたのが役にたっているだろう。その点、つばさ基地の特訓はどのへんに加味されているのだろうか。なんならてんとう虫と共演してほしい。
葉っばのフレディは、メアリーがなかなかいい役柄だ。ほんとうは、そんなに恵まれていないのになぜかほっとする。歌もいい。ルーク先生と、たいへんいいコンビだった。また、お婆ちゃんコも可愛いかったが、その恋人がいい。彼が毒ぐものメフィストなのか。
ということで、舞台おっかけは、蒲郡市に参加したいところです。神奈川県知事は、ちゃんと仕事やってるんだろうか。最後は、神奈川公演を観たいところです。来年は、アニーでお願いします。
ハムレット
京都芸術センター
あうるすぽっと(東京都)
2014/08/01 (金) ~ 2014/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★
楽しい時間をありがとう
池袋で、ハムレットを観た。中央におおき くTheaterのネオンサインが光っている。こ れが演出で最後まであった。少し上下した り、字の一部が隠れたりした。
野球帽に、赤いシャツ。半ズボンのハムレ ットは、さすがにくだけ過ぎる。途中で大 きなイビキ。ただ、場面ごとにジャンと音 響があるのですぐ起きたみたいだ。
半分ほどして、一番まえの席に誘導してい る例があって、帰れコールをしたい衝動に かられた。背の高いひとで目立っていた。 が、十分くらいしたら、退席していった。
ハムレットが連れて来た地方劇団が出現し たあたりから、眠けもさめた。たいへん面 白い。たしかに、国王に犯罪を認めさせる 意図は成功する。ハムレットは、演出も上 手だ。
最後は感動的だった。オフィリアは、絶望 して死んでゆく。あとをおうように、主要 な登場人物は消えてゆく。あとには、ひと りこの難解な物語を語り伝える役目が残る 。
良いシェイクスピアだった。格調高いでき となっていた。近くで泣いている女性の気 持ちもわかった。また、ひとつ貴重な体験 ができた。深い世界を目にできた。
十二夜 The Twelfth Night
オックスフォード大学演劇協会(OUDS)
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2014/08/02 (土) ~ 2014/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
楽しい時間をありがとう
東京芸術劇場で、『十二夜:The Twelfth Nig ht』を観た。これは、オックスフォード大 学演劇協会によるものだ。字幕は、高い位 置にあったんだが、英語でやるものだから たいへんだ。自慢じゃないが、シェイクス ピア演劇を、英会話のままで理解できる能 力はない。
この作品は、数ヶ月前たまたま下北沢でや っていて、内容をほぼ覚えていた。ふたご の兄妹は生き別れになる。兄の衣装で待っ たが、似てるから話は混乱する。
ハープの生演奏とか、オンブラマイフが心 地良かったと思う。シェイクスピアのセリ フは、長くて速いから理解するのはじつに たいへんだ。しかし、日常会話的なところ は時々きれいにキャッチできる。なんか楽 しい体験だ。
シェイクスピア演劇は、英語の韻などにそ の魅力がある。だから、翻訳した演劇は日 本化された何物かなのだ。たまには、英語 のままなにかを感じ取るのも良いものだ。
葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー
株式会社ステージドア
THEATRE1010(東京都)
2014/08/01 (金) ~ 2014/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
葉っばのフレディ、三回終わり
葉っばのフレディ、三回め終了。同じ演劇 を五回みた経験はあるが、今回は六回見る 予定になっている。
たくさん観ると、はじめて起こることが結 構新鮮だ。最後に、応援で歌を歌ってくれ た子供たちが印象的だった。
今回の企画は、完全なダブルキャストでは なかったようだ。春組と夏組は、出演の頻 度とか目立ち方に少し差があるだけかも。
は
回数進むと、挿入歌が意外なほど輝いて来 る。セリフだって、覚えはじめてしまうも のだ。内容いっぱいのミュージカルだ。
葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー
株式会社ステージドア
THEATRE1010(東京都)
2014/08/01 (金) ~ 2014/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
葉っばのフレディ、ひのはら先生出現
葉っばのフレディは、ニューヨークでもや ったんだよ。9000万円集めるのに、苦労し た。われわれのミュージカルを見て欲しか ったから。
一時間四十分が、終わってスタンディング ・オベイションがあったんだ。みんな、感 動してくれました。いのちの美しさ。
ぼくはね。もうすぐ103歳になるんだ。80 歳の宝田あきら君なんか、まだ若い。いの ちなんてね、フレディのように潔いものさ 。
いのちの尊さを表現したミュージカルは、 葉っばのフレディが光っている。だって、 ぼくたちが一番のお手本だからさ。
PS
鈴木大拙の『真宗観』。から・・・
真宗には,『教行信証』がある。教+行+信+証,はそれぞれに意味がある。教は,教えること。行は,行いである。信は,信仰。で,それらが,証拠だてられる。
親鸞は,お経をたくさん引用して,経典的に根拠をしめす。大行は,大きな行であり,「南無阿弥陀仏」を唱える。ここで大事なのは,自分が弥陀を信仰するのではない。弥陀という他力が,この自分を通して,弥陀に向かわせる。
信ずるというものは,直接に感覚の上で体験したものを信ずるのではない。明ざるもの,聞かざるものを信ずる。教えの内容を信じ,同時に,その内容を掲げる人格を信ずるという二重の状態が起こる。
信仰というものは,見たこともない,聞いたこともないものを信ずるわけでもなくて,信そのものは,自分が持っていながら気が付かなかったものに,気が付くというようなものではある。
言葉,そのものは大事ではある。しかしながら,言葉をどこまでもその通りに考えるのは間違いになることがある。言葉だけを研究するのでは,だめである。なぜなら,これは,言葉が生まれる前の「記憶」の問題だからだ。
信ずるということは,人の持っているものと,自分の持っているものと,共通性があるべきであろう。娑婆では,見るものと,見られるもの,知るものと,知られるもの,がある。それに対し,極楽では,行為だけなので,善も悪もない。
行為の世界には,「嘘」がない。動物には,ウソはない。植物にも,太陽にも,山・川・水にも,ウソはない。行為だけの世界では,嘘がはいる余地がないのだ。人間に信が出て,行為だけの世界を去って,退屈な場所を人間は去る。
かくして,行の世界となる。弥陀の願いのままに,ついてゆくだけだ。動物の本能生活は,受動的だが,行の世界は,受動的であり,同時に,能動的である。分別して,同時に,分別しない。人間生活ができる。人生の生き甲斐がそこにある。
われわれは,何のために,生きるのかという必要はない。意味を「外」に求めてはいけない。生きていることが,そのことが意味である。お前は,何のために生きているのか?生きているから,生きている,それで良いのだ。
葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー
株式会社ステージドア
THEATRE1010(東京都)
2014/08/01 (金) ~ 2014/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
葉っばのフレディ、開始
2014葉っばのフレディが、始まった。まず 、幕が開くとルーク先生が地球の生成をと く。物語の不思議さに、子どもたちは取り 込まれていく。すごい! なんか難しそう。
最初、おもしろい場面がさっそくやって来 た。平和な葉っばたちが、カミキリに襲撃 される。すると、なんと、蜘蛛が助けてく れる。
ここで、葉っばのフレディは、食べられち ゃても仕方ないのかな! どうして? だって、 地球って食物連鎖で出来ているんだから。
葉っばにも、秋が来る。ひとり、また、ひ とり風の精が吹き飛ばしてゆく。ダニエル 、あなたも消えちゃうんだね。
春が、来てまた葉っばは、通りすがりの老 人たちの夏の光をやわらげるために活動を 開始するのだ。
「広島に原爆を落とす日」
非シス人-Narcissist-
サンモールスタジオ(東京都)
2014/07/09 (水) ~ 2014/07/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
,『広島に原爆を落とす日』by非シス人(Narcissist)を観た。
サンモールで,『広島に原爆を落とす日』by非シス人(Narcissist)を観た。これは,題名どおり大変ショッキングな作品だった。広島のことは,遠い。沖縄と同じくらい,自分には,遠い問題,だと思っていた。
ただ,子どもの頃,父は,軍人で,呉にいた。そのために,原爆投下直後の広島市内の惨状を目撃している。そのことは,話として何度か聴かされた。しかし,被爆していないはずの父は,最初の子ども(私の兄)をガンでなくしている。私は,ひょっとすると,隔世遺伝とかの結果,妙な遺伝子が悪さをしたにちがい・・・と,思い始めている。
物語の仮説は,実に大胆だ。しかし,デマ・憶測に過ぎない事実も,こうもたくさん並べていくと,愕然とする。
つかによれば,アメリカがすべて仕組んだ芝居に,日本ははめられたのだ。日本は,いまでも,対中国のために,事実上基地が完全に残ってしまった。
日本に戦争を無理にさせて,結果として,実験中の原子爆弾を,使ってみたかったのだ。どうしても,あの時点で原爆は投下したかった。なぜなら,ヒートアップしてから,原爆・水爆を世界戦争で使用するようになったとき,地球は再生不能に陥る危険があった。だから,戦争終結が決まり,真珠湾攻撃の倍返しとして,広島・長崎が,スケープ・ゴートになる必要があった。これらが,本作品の大胆なる仮説である。
つか作品で,本作品は,異色である。もちろん,朝鮮人などの弱者に対するまなざしは変わらない。ところが,物語の重さは,格別であり,役者のセリフも鋭い。ものすごく分かりやすいと思った。迫って来る演技は,似たようなものかもしれない。しかし,やはり,衝撃的であり,よくできた構成だと思う。劇団も気迫があった。
HARVEST
teamオムレット
座・高円寺2(東京都)
2014/07/11 (金) ~ 2014/07/13 (日)公演終了
満足度★★★★
とてもしっかりした演劇であった。どこか,さわやか青春ドラマだった。
高円寺で,teamオムレット『HARVEST:日本女医第一号』荻野吟子の生涯を観劇した。飛龍伝でがんばっていた,小越那津実が出ていた。
荻野吟子の生涯は,20年ほど前に本で読んで知っていた。彼女の人生は壮絶である。そもそも,しあわせな結婚を夢見て,最初の夫とベッドインしたら,病気をうつされてしまった。そのために,その後,62歳でなくなるまで,体に常に異変を感じていたらしい。
この事件をきっかけに,彼女は,明治維新政府に,女医第一号を認めさせようと戦い,勝ち取るのであるが,すでに,34歳になってしまっていた。愛する母が危篤となっても,彼女は勉強していたのだ。
すぐに気がつくのは,この演劇も,論理学・キリスト教思想が根底にある。実際,荻野吟子は,クリスチャンにもなっている。仕事がら,生死を超えて,静かな気持ちになりたい衝動があったと想像される。しかし,そのとき,禅やら,浄土思想にすがるのではなく,西洋医学を支える,論理学とキリスト教思想に近づいているようだ。
とてもしっかりした演劇であった。どこか,さわやか青春ドラマだった。生のバンドにあわせて,挿入歌も美しかった。キャンセル待ちでは,観るのは困難だと感じて待っていたら,ギリギリセーフだった。日曜日には,少し空きがあるとの情報であった。
子供の時間
スターダス・21カンパニー
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2014/06/22 (日) ~ 2014/06/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
素晴らしい傑作!
Truth exaggerated may be falsehood.
リリアン・ヘルマン『子供の時間』を,阿佐ヶ谷で観た。とても良い演劇だった。スピード感あり,心理描写が卓越していて,たいへん良いものだった。
ドビー寄宿学校には,美人教師カレン・ライトがいた。結婚も決まっていた彼女には,創設以来の無二の親友マーサ・ドビーがいた。彼女は,どうも男には縁がないようだ。むしろ,カレンと毎日同じものを見て,同じ作業をし,生活をすることが唯一の幸せである。マーサは,どこか変なのだ。女性なのに,カレンしか見ていないのだ。
子供というものは,動物的感がさえている。だから,このことに大変心を悩ます。一番のお転婆むすめメアリーは,カレンと悉く対立する。あいつは,自分ばかりしめつける。これじゃ息もできないじゃないか。こんな化けものみたいな学校,おばあちゃんに言いつけてつぶしてやるんだ。カレンは,世間知らずで,このような意図になぜか気がつかない。
あるとき,メアリーは,ロザリーが,外出するのに,黙って友達の「飾りもの」を拝借した現場を目撃する。ようし,あいつは,この弱みで今後アタシの子分だわ。いざとなったら,なんでもあの子のせいにしてしまえばいい。メアリーは,ロザリーをうまく利用して,カレンと,マーサがレズであった!というデマをばらまく。
この事件を,ティルフォード夫人が膨張させてしまう。やがて,カレンとマーサは,裁判において負けていく。彼らは,学校経営において,平気でほかの同僚を追い出すような自分勝手なひとたちだったので,証言を拒まれてしまったのだ。
カレンは,恋人との関係もギクシャクしていくのに気がつき,別れを口にする。ここにいたって,カレンにはさほどそのような感情はなかったかもしれないが,アタシには,結構そのような不自然な感情が確かにあったのかもしれない・・・と,マーサが反省をすることになる。マーサは,結局自殺するのだ。
白い夜の宴
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2014/06/20 (金) ~ 2014/07/02 (水)公演終了
満足度★★★★
劇団民藝『白い夜の宴』を,紀伊国屋サザンシアターで観た。
劇団民藝『白い夜の宴』を,紀伊国屋サザンシアターで観た。このしにせの劇団は,昨年も観ている。『無欲の人』というもので,同じ出演者もいたことに気が付いた。
物語は,祖父・父・息子の三代にわたる。みなで,誕生日を祝う。そのときに,メンバーの中で過去の事件・出来事が懐かしくも又,苦々しくも語られる。
まず,父は,祖父との葛藤があった。官僚でもあった父に反発し,一時は左翼の活動をしていたが,なんせ治安維持法下の中で弾圧されていく。刑務所では,朝鮮人が熱く「独立」問題を語るのに感銘をしたものの,自分は,民間企業の社長になってのうのうと生きていく結果になった。まさに,「転向」にほかならない。
この父を見て育った息子は,安保問題まっさかりだった。熱心な活動家になったが,不幸なことに,当時つきあっていた恋人が顔をつぶされるほどの事件に遭遇し,その後自分は,父親の会社にもぐりこみ,身をくらました。しかし,父親以上に,彼は心に傷を負ってしまった。
政治性のある演劇はあまり観ない。どこか説教臭く,また,過去に何があったか,それを演劇から学ぶのも一つの方法でしかない・・・そんな気がするからだ。しかし,劇団民藝などの役者は迫力がある。ときには,このような名作を観るのも良いだろう。
パダラマ・ジュグラマ終演いたしました!総動員3672人。ありがとうございました!
おぼんろ
ワーサルシアター(東京都)
2014/06/11 (水) ~ 2014/06/22 (日)公演終了
満足度★★★★
今回もスピード感も十分あり,いいチームワークを見せてくれた。
おぼんろの『パダラマ・ジュグラマ』を観た。前回けっこうはまった演劇集団だ。演劇環境が独特なのだが,それが楽しい雰囲気を作っている。今回もスピード感も十分あり,いいチームワークを見せてくれた。最後は,やはり,感動を呼び,涙が止まらない。躍進めざましい劇団の新作を堪能した。
とはいえ,前作『ビョードロ:月色の森で抱きよせて』の感動とは少しちがっている。チェーホフでいえば,『ビョードロ』は,かもめのような芸術のなんたるべきか,インパクトをもって語っているのに比べ,『パダラマ・ジュグラマ』は,桜の園のようなもので,繊細な心理を観察すべきなのであろう。
というころは,比べるべきではない,ということになる。演出的には,十分美しいし,役者のパワーも強化されている。しかし,なぞときの好きな私には,前作『ビョードロ』の方があっていたかもしれない。たとえば,ジョウキゲンとは,一体何を示唆しているものなのだろうか。演劇の魂か,魅力か,限界か・・・
本作品も何度か見るべき。少なくとも,前作は二度観ることができた。もっと別の視点が浮かぶのかもしれない。いずれにせよ,ほかの場所にはない感動が必ずある。
赤鬼
こどもの城 青山円形劇場/ネルケプランニング
青山円形劇場(東京都)
2014/06/04 (水) ~ 2014/06/15 (日)公演終了
満足度★★★★
赤鬼は,演出もすごい。出演者の動きも機敏で気持ち良い。
青山円形劇場で,『赤鬼』(野田秀樹)を観た。これは,素晴らしかった。円形になっているので,反対側がはっきり視野にはいる。みんながみんな食い入るように,観劇している。たまたま初夏の疲れが出たため,自分は不覚にも最後の方で一瞬眠気に襲われたが,だれ一人そのような状況に陥ることはなかったようだ。
赤鬼は,演出もすごい。出演者の動きも機敏で気持ち良い。赤鬼プロジェクトというのがあって,本作品は,言葉の壁を越えて,国境を越えて大ヒットしたものらしい。西洋の文明が世界を覆い尽くすこと,それが「進歩」だと思う考えもあるだろう。しかし,赤鬼ロンドン公演では,日本語で,日本的なものが十分通じるという例を残した。
お話は,赤鬼と島の娘が心の交流があったというものが核になっている。赤鬼は,来島すると同時に,赤子をさらって洞窟に隠れる。なんとか説得し,子どもを奪還すると,島の重鎮はすぐに殺処分にすべきと主張する。老婆たちは,赤鬼を食せば,長生きできるかもしれない,と主張する始末だ。
島の娘は,赤鬼と手真似で交流を始める。次第に,会話が成立する。海の向こうの世界は,どうなっているのかしら。いつか,赤鬼からそのようなことも教えてもらえる。赤鬼は悪い人ではないだろう。しかし,娘がフカの肉であると無理やり食べて,元気になったものの,どうも赤鬼の肉であったことが発覚し,彼女はショックで自殺してしまう。
野田秀樹による,『赤鬼の挑戦:ロンドンへの道』2003の本を読んだ。日本語の芝居を,イギリス人の俳優と行うことになる。なにも,西洋文明が,世界を覆い尽くすのが進歩とはいえない。西洋社会がいつもわれわれの先をいっているのだろうか。治外法権や,関税自主権はなんとか欧米に改善させたが,そこに文化的不平等は執拗に残ったのだ。
「肉体と詩の交点に芝居は生まれる」同じ演劇観を求めて,仲間をさがす。『赤鬼』そのものは,ロンドン留学から戻った1996年に,富田靖子,段田安則と,アンガス・バーネットと日本で上演された。1998年夏に,ロンドンで,『赤鬼』のためにワークショップを始める。「誇張と省略で演劇空間を作る。リアリズムではない。」と説明した。
自分の台本には,コトバ遊びが多い。上演には翻訳はつきものだが,日本で文学と呼ばれるものの半分は実は翻訳文学であって,翻訳語は特殊な性質があるのだ。シェークスピア演劇でも,その本来のコトバを十分に把握して観劇できるようなことはありえない。日本人にとっては,翻訳家の存在がたいへんな比重を占めているのが日本の演劇なのだ。
英語で,日本語の芝居を上演することは難しかった。ワークショップの劇場選びも困難が続いた。ロンドンで役者は探した。ダンスのときには体を使う役者も,セリフばかりの芝居では,余計に頭を使うことになろう。一度会っただけでよい役者かどうか,わからないこともある。要求することについて来られる役者は思ったほどいない。
『赤鬼』出演のサイモン・クレガーは,ミズカネ役だった。彼は,気が短くて,ペットボトルを投げていた。子どもの喧嘩が始まる。演出家は私だ。私が決める。
2003.1.31.ロンドン『赤鬼』公演の初日となった。
演劇関係の本には,まれに「制作」と呼ばれる,演劇の周辺をささえる仕事関係がある。目立たないが,これは結構大事な部分である。野田秀樹をある時期引っ張っていった女性に,北村明子という名がときどき出て来る。85年から,劇団夢の遊眠社の営業マネジメントを担当。その後,「NODA・MAP」をたちあげる。98年からは,「シス・カンパニー」。
確かに,役者を売り込むこと,劇団の段取り・進行について,裏方でささえる仕事は地味であるが,貴重なものだと思う。無名の役者をどう売るか。テレビに使ってもらうにしても,舞台で見てもらうべきだ。役者たちにも,小さな役でも現場で認めてもらうべきと指示する。妙なプライドは捨てた方がいい。実力に役がつく。ワンシーンでもがんばれ!
野田秀樹に対して,役者として舞台に立つことより,演出に専念することをすすめた。ここでは,オリジナル脚本より,既存の戯曲を優先させる。集客についても,動員数をまず正確に予測するようにする。使う劇場もそこで決まって来る。問題は,少しあふれるくらいが良くて,最前列に空きがあるのはまずい。今回,青山円形では,追加なので空きあり。
プロデューサーと演出家で,企画会社「NODA・MAP」をたちあげ,年に一回プロデュース公演を行うことにする。劇団であれば,出演はほとんど劇団員が中心である。プロデュース公演には,劇団員はいない。キャスティングは,ゼロからのスタートとなる。ワークショップというものを,役者の動きを見るために多用し始める。
役者と,演出家と,脚本と,劇場を組み合わせて提案し,稽古場に入れ込む。企画力の強い,面白い芝居が出来上がっていく。ロンドンから野田が帰国してからは,「シス・カンパニー」は,野田作品以外に比重が移り,2008年には,北村は,「NODA・MAP」から撤退し,野田秀樹と距離を置くようになっていく。
興行の世界は前近代的な世界だと北村は思った。そこは,でっち奉公の世界となんら変わらない。労働条件もひどいものだ。北村は,演劇など観たこともない役人相手には,企画書とはべつに,プレゼンに力をいれた。プレゼンそのものが,芝居のようなものだ。言葉に命を吹き込む。言葉のリレーをいている人間どうしは,生きているのだから。
彼女は,ビジネスの世界にはちがいないが,演劇の制作には,人脈は必ずしも必要とは考えなかった。計算が先行する人間関係を抱え込むことは,制作において足かせになる。マネージャーは,役者の現場になどいって,彼女の背中をぴしゃっとたたいて,落ちつかせることもすべきでない。現場は役者のもの!役者はそこで自分で戦うべきだと。
舞台経験のない役者は,舞台で鍛えられるのが一番いい。失敗を恐れることはない。役者は,観客に向けて,どれほど心を開くことができるか,まるごと,自分を見せることができるのだろうか,北村は,そこが大事だという。恥をかく場所を見つけ,経験の積み重ねで,役者自身が強くなると主張する。
演劇の現場は,トラブルがつきもの。出演者の健康がまずある。役者は,チームワークで仕事をしないと成立しない集団にいるのであるが,個々は,ほとんどが自己中心的な,われこそが天才!という性格ばかりとなる。演出家が厳しく役者にダメ出しをし過ぎて,芝居が崩壊していくなら,その組み合わせを決めた自分に責任はあるのだ。
北村語録から。飽きっぽい自分には,毎日作るものがちがう芝居の制作があっていた。何かあって,何かを失うことになっても,人生というものは不思議なもので,思わぬ別の価値を獲得するものである。始まったものが終わる,必ず舞台の幕は下がる。あとは,頭の中にしか,なにか残らない。それだって次第に色褪せていくだろう。それが芝居の良さ。
参考:だから演劇は面白い(小学館)
エンコード
A´company
TACCS1179(東京都)
2014/06/04 (水) ~ 2014/06/10 (火)公演終了
満足度★★★
『エンコード』は,「竹馬の友」の物語だった。
下落合で,『エンコード』を観た。これは,「竹馬の友」の物語だった。小学校時代,縄跳びをしたり,トランプあそびをしたり,おしくらまんじゅう,缶けりをした仲間のお話だった。一緒に,キャッチ・ボールをしながら,お互いに幼稚な夢を語るのだ。しかし,子ども時代にも,その仲間に上手にはいっていけないお友達も必ずいる。それまで,人気者であったはずの子どもが,父親の転勤で,遠い街に離れていき,ずっと後になって,同窓会でお互いの変わりように驚くような展開に進む。よくあることですね。
『エンコード』は,ダンスもあったから,ミュージカルだともいえる。しかし,骨格は,ストレート・プレーだった。パンフレットにあった若者たちの,男たちの少年時代と,成人してからの懐かしい再会,それと,知られなかった真実の姿。かつて、劇団四季で見た『赤毛のアン』は良作品であったが,やはり,子どもたちをすべて大人が演じているのは,違和感もあった。しかし,今回は,子ども役は,本当に子どもたちが熱演していた。これは,これで,「竹馬の友」になっていくのかもしれない。
海辺のカフカ
ホリプロ
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(埼玉県)
2014/06/01 (日) ~ 2014/06/07 (土)公演終了
満足度★★★★
人間の一生は,どこから来てどこに消えるのか?
彩の国さいたま芸術劇場で,『海辺のカフカ』を観た。当日,新宿からは,埼京線で快速に乗った。与那本町で,なんと休憩20分は別に,3時間45分の大作を観劇し,高田馬場に戻って,西武新宿線で下落合に向かい,そこで,ばりばりの演劇『エンコード』を観た。結構長い時間を演劇で消費したが,おもしろい場面が多くて時間を忘れた。
村上春樹『海辺のカフカ』は,文庫本で,カラス少年との冒頭会話を読んだあとに,観劇に突入した。すぐに,タフな15歳にならなければならない,というセリフが出て来た。ホリプロ作品で,演出は蜷川氏のものだから,かなり魅力的なシーンが続く。少しして,戦争中に独ガスかなんかの後遺症で障害者になったナカタが猫としゃべり出していた。
カフカというのは,プルーストが,記憶とか時,そういうもので有名になり,ジョイスが文学形式を超えた作品を残したのに比較して,一番何を書いているか,よくわからない『審判』『城』『アメリカ』などを書いたドイツの作家だ。この三作に共通する特徴は,人間の一生は,どこから来てどこに消えるのか,そういうことを暗示している。
カフカ少年は,何を思い,どこに向かおうとしているのだろうか。だれにでもある少年時代は,カフカ少年には不遇だった。不思議な一致だが,続けて観た『エンコード』も,少年の日に,心の傷を追った若者たちの作品だった。カフカ少年のもう一つの影は,なにかの理由で,60歳で孤独に生きるナカタサトルだったのかもしれない。
非常におもしろい,興味深い,演劇のはしごだった。ちなみに,『海辺のカフカ』は,大ホールで,後方の補助席だったが,全体をしっかりと観察でき,出演者の表情もわかったから,問題はなかった。もう一つの『エンコード』は,子供時代は,実際の子どもが演じているという趣向で,一番前で小劇場を堪能できた。楽しい一日だった。
棟梁ソルネス
イプセンを上演する会
中板橋 新生館スタジオ(東京都)
2014/05/23 (金) ~ 2014/05/25 (日)公演終了
満足度★★★★★
イプセンスタジオで,『棟梁ソルネス』を観た。
イプセンスタジオで,『棟梁ソルネス』を観た。『ヘッダー・ガブラー』から二年した,1892年の作品である。今回は,毛利三弥氏の解説に目を通していった。『棟梁ソルネス』の演劇は,非常にわかり易かった。人物関係もすぐに把握できた。毛利氏は,主人公ソルネスの成功は,妻や,子供の犠牲の上にある。そして,終盤では,不思議な娘ヒルデと一体になろうとしている,と指摘する。イプセンは,全作品を有機的に構成した。彼の一生のテーマは,人間の自由であり,キーワードは,「親子関係」ということになる。
『棟梁ソルネス』は,師匠であった老ブローヴィクを蹴落とし,彼の息子ラグナールに,自らの地位を脅かされている。作品中,心の中のトロル(妖魔)に,ソルネスは翻弄される。象徴的な事物や,イメージが多く出て来る。とても魅力的な大作である。
さて,ざっと,お話の内容を説明すると,
ソルネスの前に,ヒルデは10年の時を経て突然現れた。あなたは,10年たったら私の王国を作ってくれるっていったから・・・。そういえば,あの日,高所恐怖症の私はなぜか塔に登ることができたのだ。下からの,美しい少女の熱いまなざしが忘れられない。私は,才能もあったかもしれないが,周囲に対し,計算ばかりして,出世して来たのだ。
私の一番の問題点は,後継者を育てようとしなかったことだ。むしろ,いいように利用し,気が付けば,最後は後継者の「独り立ち」をじゃましているのだ。妻には,双子がいたが,ある日火事になったが,ショックで乳が出なくなって後,栄養不良で死んでしまった。妻は,それから,子供を育てる楽しみを失い限りなく暗い。
私は,後日,火事場に思い切って斬新な住居を立て続けたものだから,一躍建築界の寵児になっていく。何が幸いするかわからない。親ばかになって,仕事に打ち込むことはなかった同僚たちは,私のライバルではあり得なかったのだ。私は,なんらかの意図をもって近づいて来た女性もぶしつけに敬遠することはなく,上手に懐柔した。
ヒルデは,あの日の光輝くヒーローに戻ってほしいと,ソルネスを説得する。後継者にはしかるべき地位を与え,引退をすすめる。私は,ヒルデが理解する以上にまちがいをしたのかもしれない。栄光をひとり占めし過ぎたともいえよう。私はけちな臆病者で,あの日以来高い場所には登ったことはないのだから。
でも,もう一度あの日にかえって塔にのぼってみようかしら。そこで一体何が見えるのか知りたい気もする。私の人生は,才能を十分開花させたから生じたことで,そこに非難すべきものがあるとは思わない。少し,ひとりよがりで,女たらしだったくらいだ。私を追うものたちの憎悪は,不当で怖いものとなっている。
棟梁ソルネスは,何かをみたくて,塔にのぼりはじめる。みなは,どう転んでも登ることなんかできるわけがないと嘲笑する。妻は,青ざめる。だれか止めて。いや,ソルネスは,決然として高見に向かっていく。あ!落ちた。棟梁は落ちた。誰か見て来てちょうだい。棟梁は,大きな石に激突して,頭が砕けてしまっていたのだ。
テンペスト
新国立劇場
新国立劇場 中劇場(東京都)
2014/05/15 (木) ~ 2014/06/01 (日)公演終了
満足度★★★★
新国立劇場で,『テンペスト』を観た。
新国立劇場で,『テンペスト』を観た。今回は,事前に,白水社ブックスの説明をひとおとり読んでいった。この作品は,シェークスピアにとっては,最後の戯曲となる。1611年ころに書かれたと思われる。シェークスピアは,本作品後,さらに共作で『ヘンリー八世』。1609年には,バミューダ島付近で座礁して,乗員が島に全員上陸したという事件が。
人間の作った社会的制約を廃止して,すべてを大自然に委ねることは可能か。進み過ぎた文明によって地球は汚れていく。だから,未開の人たちの生き方にも良いものはある。人間たちの裏切りによって,はからずも暮らしているプロスペローにとっては,島は心安らぐ場所でもあった。やがて,空気の妖精エアリエルと決別し島を去っていく。
精霊と人間が混じりあう,独特の美しい世界は,『真夏の夜の夢』と似ている。変化に富んだ演劇であるが,初めて見るとなじめない面もある。上演史的には,嵐の場面は何度も改作されていく。1673年には,オペラ化される。見た目の美しさを優先し,原作の一部がカットされることも。丸太一本と海草だけの演出もあった。
1963年の,ピーター・ブルックなどの議論もあった。プロスペローが地面からせりあがる。真っ赤な太陽が変化していく。精霊が原始的な仮面をつける。などの演出があった。で,最後には,疲れ果てて,プロスペローは,ミラノに戻っていく。
空気のように軽やかなエアリエル,汚い魔女の子キャリバンの存在が印象的だった。理性で考えるとありえない世界。しかしながら,詩的想像力を働かせると,美しくしあがっていく。さまざまな対比の登場人物の調和もあって,ロマンチックな戯曲だと,コールリッジは絶賛した。人生にも戯作にも飽きたシェークスピアの姿がそこにあったのだろうか。
ルーシアの妹
ライオン・パーマ
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2014/05/15 (木) ~ 2014/05/18 (日)公演終了
満足度★★★★
池袋シアターグリーンで,『ルーシアの妹』を観た。
池袋シアターグリーンで,『ルーシアの妹』を観た。会場には少し早目にいったが,すでに結構な人がいた。最終的には,満席だった。ライオン・パーマは,今回pt.21となる。前回作品がDVDで販売されていた。あれから,ちょうど一年ということになる。池袋シアターグリーンは思い出がいっぱいある場所だ。何が始まるのか楽しみだ。
すでに開演の時間は過ぎている。しかし,駅から会場に向かっているひとたちをもうしばらく待ってあげてください。その間に,会場で禁止モードの携帯音が鳴ってしまった場合のコントをやりますから,我慢してください!出演者,「え!聞いてないよ」。とにかく,なんかやれよ!ドタバタして,そのショートコントが,そのまま開演になっていた。
前回作品では,宝塚を明らかにパクった部分があって覚えている。今回は,劇団四季『ライオンキング』を少しパロディとして取り込んでいて,おもしろかった。挿入歌はなかなかいい感じだったと思う。前回作品は,話のつながりがわかりにくい部分があって,テンポが速すぎだと思ったが,今回はなんとかついていけた。
ルーシアとエミリーは,姉妹なのだが,妹は姉の雪辱を果たそうとして,冒険の旅に出る。そこでは,かなり不思議ななぞときがくりかえされる。どうやら,これは,ある種の『不思議の国のアリス』であろう。ナンセンス演劇であるようだが,心を打つ場面も多い。また,出演者は個性的で魅力的だった。セリフをかむことはまったくなかった。
『十二夜』
日本の30代
駅前劇場(東京都)
2014/04/18 (金) ~ 2014/04/28 (月)公演終了
満足度★★★★
オープニングは,たのしげな管弦楽だった。
下北沢は,本田劇場の歴史もあって,たくさんの劇場がある。一か所にこれだけ多くの劇場がある例も珍しい。今回は,駅前劇場を初体験した。南口から正面の建物3Fに足を運んだ。小劇場とは呼べず,一番後ろの席からではやや遠景となってしまったが,オープニングは,たのしげな管弦楽だった。今回は,ここで,日本の30代による『十二夜』を観た。クリスマスから数えて,12日目の夜に何が起こるのか?
兄と妹は事情があって,生き別れになって相手の生存も確認できていない。このことが双子の運命を翻弄する。シェークスピアには,このような男装をした女の子の話はよくある。今回もそのような物語で幾分つまらないかと思ったが,これが結構よくできていたのには驚いた。たぶん,シザリオ(ヴィオラ)が素晴らしかったからだろう。この主役の熱演が光った。オスカー・ワイルドの小説に出て来る女性の話を少し思い出しながら,シェークスピアをどのような気持ちで演じているものだろうか・・・などと想像した。岩波文庫の解説についてはひととおり読んでいった。
この時代戯曲はすぐ舞台化されるが,出版にはずいぶん時間がかかった。そのために改作も多くて,内容もかなりちがったようだ。シェークスピアには37本の有名な作品が残っている。四折判(Quarto)と二折判(Folio)と区分でき,本作品は,最初の全集=First Folioに収録されている。時代背景としては,作家に対して圧力が下った頃であり,シェークスピアも神についての表現をおさえざるを得なかったという。なににしても,ヘンリー8世がローマ教会と決裂して以来,「火薬陰謀事件」などテロ未遂も身近であって,シェークスピアもピリピリしていた。
オスカー・ワイルドの小説というのは,『ドリアングレイの肖像』のことだ。この小説は魅力的なストーリーであるが,主人公が場末の劇場でシェークスピア女優の演技に夢中になる。彼は,その少女が生活のためにだけ演技をしていたことを知り落胆するが,ささいないきちがいから,彼女は捨てられたと思い遠いところに旅立ってしまう。駅前劇場で演じられたシェークスピアは,イメージ的にこの小説とかなり近い印象を得た。もしかして,あの日恋をした青年がシザリオ(ヴィオラ)の名演をあとかたもなく奪う・・・のだろうか。