1
ウロボロス
Straw&Berry
https://blogs.yahoo.co.jp/suwansong2014/36861550.html
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2
ちゅらと修羅
風琴工房
凄いし、苦しい。
知らなかったことを、つけつけられた。
いや、伝えて貰った。
大事に、感想を書きたいと思った。
まだ、心臓が痛く、苦しい。
あの森や、あの海や、あの場所で生きてる、生きていた人たちの事を。
ニュースで基地の問題をみたことはあった、戦争時の地上戦が行われたことも学校で習った。
でも、何も知らないに等しい。
知ろうとしないのは自分で、知る必要が無いと思ってた。
だって、私には関係ないことだと。
遠い場所の話だと。
でも、この作品を観た、今。
あの2時間10分の中に沢山の「情報」「想い」「悲しみ」「希望」「未来」。
「事実」としての「情報」には、女の私にはとても、耳を塞ぎたくなる事柄。
そして、「国」としての「日本」は余りにも「沖縄」にとって不誠実だ。
「日本」はどれだけ「沖縄」に対して「ゆくし」を重ねるのか。
セジ(沖縄の方言で霊力)が語る。
様々なドアを開けるのは、偶然なのか、必然なのか。
私は開ける事になったら、それを受け止めらるのか。
分からない。
劇中何度か涙、こぼれた。
私が女だからなのかもしれない。
戦時中、基地がある事によって起こった犯罪、その事が「女」に向けられた事実。
「なぜ?沖縄ばかり・・・」という思いが沸き起こる。
芝居の最後に、人々が叫ぶ。
その叫びにまた、涙する。
そして、これをみてこれを観ている私の街も、このまま、「国」の行う事に無関心なままでいると、同じようなことが怒るかもしれないと。
遠い国の話ではない。
同じ「日本」で起こってる「事実」なのだと。
劇中の音楽も良かった。
凄いホンだった。
凄い俳優陣だった。
「では、観たあなたは何が受け取って、出来る?」と問われると、何が出来るのだろうか。
抗議運動が出来るのか?
沖縄の為に・・。
難しい。でも、心に留めておくことは出来る。
ならば、出来る事を。
「わたしが」出来る事をしよう。クラウドファンディング、私はこれに微力だけど参加しようと思う。
この芝居を観た数日後。
ウーマンラッシュアワーさんの漫才のネタが話題となる。
ある種、エンターテインメントの世界ではタブー視されるような題材。
内容も、至極、最も。
例えばそれを文章や
講演会などで大衆に伝える事も可能だ。
ただ、「普通のやり方」では駄目なのだと、あの漫才を観て思った。
あのやり方を選んだ訳があるのだと。
ただ、奇をてらった訳では無い。
あえての、あの媒体を使ったのだと思う。
この「ちゅらと修羅」とも通じる「無恥による暴力」と
最後、ネタの終わりに「おまえたちのことだ」と色んなターゲットに向けての言葉と取れる台詞であの漫才は終わった。
あれが、ある種、言いたかった事だと思った。
そう、「私、私たちの事なのだ」。
偶然かもしれないが、芝居の後、すぐのタイミングであの漫才。
かなり、強力だった。
3
penalty killing
風琴工房
7/19マチネ観劇
スポーツはまったく興味が無い。
応援する団体も無い。
でも、この芝居はそんな人もきっと、最後は月光アイスブレーカーズを応援したくなる。
2時間15分の中に熱い彼らの気持ちがずどんと胸に残る。
再演と言う事だが、前回を観ていないため
実際どうだろうか?
専門用語とか出ても、ルールも分からないし、
そもそも、スポーツ興味ないし・・。
劇中の様々な登場人物の対比が面白い。
特に新人3名とベテランの描き方が良かった。
鼓舞する彼らの根底にある「自分の為」に、「チームの為」に、そして、実際のモデルになってるチームの背景にある「チームを応援する多くのサポーターの人たち」の為に。
応援する人たちとのエピソードを語る場面で、泣きそうになった。
ただ、熱いだけではなく、アイスホッケーというスポーツを通じての人との物語だった。
ロビーから未来チックな通路で客席にむかい、劇場内に入った時、一瞬、足が止まった。
「あれ?劇場じゃない・・・、アイスリンク?かっっこいい」
上からみる光景は特にそう感じる。
良い舞台は、第一印象が良いのだ。
劇中の音楽や、照明、特に電飾の効果は本物のリンクに居る様な錯覚に陥る。
激しい試合の描写は、ダンサブルに表現されていてリズムを足で取りたくなる。
小島 悠平役のクロムモリブデンの森下 亮さん。
クールな感じかと思いきや、熱い、そして、ヒーローの様な人にも
プロの世界での厳しさを体験している。
穏やかに微笑んでるけど、視線が鋭く、ぴしっと空気を変える。
瀬川英一役の岡野康弘さん。劇中で唄を歌われるシーンがあって、「おおお」となる。
この方も、色んな役柄を演じる方だが、今作は黙っていれば優勝チーム
から、移籍してきた経歴で、他からみたら、「なんで?」となるのだが、このチームだからこその充実感を感じさせる演技だった。
劇中、スティックを手に取り、踊るとある場面でスティックにキスをしたような仕草があった気がした。ミーハーな発言だとは思うのだが、きゅんとなってしまった。
織田 寅雄役の犬と串の板倉武志さん。何回か、犬と串で観劇しているが今回は板倉さんらしいというか、物凄くアテガキのような役柄と板倉さんがしっくりきていたように感じた。
大きな体と反比例したメンタルという、設定。そこからのどう成長していくのか、劇中母のような気持ちで見つめてしまった。
ファルコンズのメンバーも、ベンチにいる時(舞台上からはけているとき)
でも、かなり、細かい芝居をしていた。
(上手だったので、よく見えた)
そして、ダンスの場面は流石です。
本当に、一緒にリズムを刻んで乗りたかった。
ただ、五十嵐 結也さんが目の前にいらっしゃると、つい褌姿がオーバーラップしてしまうというトラップが・・・。
今作は、「スポーツ」=「根性」という鉄の法則を
0%にも100%にもしない。
「熱い」想いは受け取るんだが、「暑苦しい」とはならず、
押し付けがましい「すぽこん物」では無い。
なんという形容が一番適してるのだろうか。
スポーツやアイスホッケーに興味ある・なし、
知識ある・なし、
俳優を知っている・知らない
そんなのは関係なく観るとワクワクして、ドキドキして、楽しくて
ほろりとして・・・。
人と人の繋がりや、頑張りっていいなと思うような舞台だった。
あとは、色んな葛藤を皆が抱えて、そこは年齢の層で色々ちがうんだなっていう演出も面白かった。
4
15 Minutes Made Anniversary
Mrs.fictions
https://blogs.yahoo.co.jp/suwansong2014/36838681.html
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5
『青いポスト』/『崩れる』
アマヤドリ
始まりと、終わりにヤヨイが語りかける。没入するタイミングをある種、持たせない独特の入り方はアマヤドリらしいのか。私の住んでる街と違わない(ハズ)のもう一つの(カワッタ)街の物語を、今日、観た。それが「青いポスト」。その街では、国民投票で年一回、悪いヒトが決まる。「選ぶ」側と「選ばれる」側。民主的だ。多数決で「消える」人を選ぶのだから。民主的?本当に??その国のルールだから、OKなの?うまれた時からだとそこに疑問を持たない。ヒトはその集団の中で、点と点同士の関わり合いで異なる集団では違った「自分」がいる事が観て感じた。「家族」の中で、「友人」の中で、「仕事」の中で、どう立ち振る舞う事が正解か答えは様々な気もするが、自分はどうだろうかと思う双子の逃げちゃったお母さん(実際は出てこない)、双子の叔母(一川幸恵さん)が自分的に凄く気持ちが寄る役どころだった。お母さんの言葉が、今の日本の母親たちに凄くかせられてるというか、そういった「目」で見られてるし、その圧に耐えられない人もいるって、物凄く分かる。だからといって、お母さんの行動を肯定する訳では無いけど、あの「国」だったら逃げたくなるのかな。叔母は逃げず、二人を育てたというある種対極なんだけど、でも、彼女の本当の気持ち叔母の気持ちはどーなんだろうかな?と思った。縮図ぽいといったら確かにそうかもしれないけど、意識してないけど、やっぱり、自分も良く思われたいから、そうふるまってしまうし、そうでないヒトを排除しようと思うのかもしれないな。
「悪い」ってそもそも、何だろう?
劇中に殺人以外・・・みたいな台詞もあったが、「悪い」ってそれぞれ個人の捉え方で「善意」が「悪意」ってオセロみたいにひっくり返るものかなと。姉の「善意」は妹にとって「悪意」、「悪」と「善」は紙一重。あっという間に色すら変わる
毎回思うのだが、本当にアマヤドリの衣装、素敵なのです。色のバランス感覚って本当に重要だと。あと、やはり、陰影の美しさ。壁に映る客席からは見えない影での表情みたいなものも感じる。そして、群舞からの頬に受ける、風。好き。
「崩れる」中盤から胃がキリキリというか、自分に過去に湧き上がった「怒り」の感覚が浮かんできて、苦しくなる。「許す」ってなんだろうかとも、思いながら、俯瞰でみるとしたら「許せる」事も同じラインに立った時点で「許せない」ものかと。
昨日観た「青いポスト」、そして本日の「崩れる」広田さんの新作はある種「アマヤドリ」が苦手だと思ってる方も一回是非、観て貰いたいと思った。特に針谷役石本政晶さんが、私が今まで拝見した中でダントツに良かった。そして、あの役、しんどいけど、石本さんがやる事によっての怖さというか、ぞくぞくするなんというか、刺さってくる感情の伝わり方が凄かった。江田役の倉田大輔さんが劇中の台詞をお借りするならば「人格が凄い(ある意味)」。物凄く、倉田さんならではの江田という役があの場所に存在する不快感や、でも、そういった人は現実には必ず存在して、あんな生き方で上手く生きていけるんだろうなと。園田役の宮崎雄真さんが発する台詞にキリキリした私の胃が緩和される。あの宿に集うヒトはもしかするもしかすると、意図しないけど、引き寄せられて糸にくるまれ、逃げ場所としてあそこに来てしまうのかもしれない。雨が降る。吐き出した怒りと、罠と、どうにもできない感情と。最後、雨の中。雨の中・・・。
6
非常の階段
アマヤドリ
初演も観たのだが、なんというか、物凄く「まっさらな器で新しい料理を盛りつけられた」というのが、第一印象。私の流した涙は初演とは違った場面だった。
『8mmとか、昔のアルバムの写真を見つめるような、ある種のノスタルジーを私は感じた。ふたつの流れが混じり合う所にナイトは位置していたのかなと。一つの流れは、穏やかな家族の流れ。一つの流れは激しく冷たい家族(個人)の流れ。』初演時の私のカンジタコト。
大庭乙音(相葉りこさん)と、大庭千鶴(笠井里美さん)
今回、この役柄が自分的にぐっと台詞がココロに入り込んできた。
何故だろう。男たちの主軸と見える今作だが、再演は物凄く女たちが気になってしょうがなかった。
ふと、男たちの裏側に薄く見える弱さのようなものを、他の登場する女たちが支えてるというか、包んでいるような気もしてきた。
そして初演の親子の確執が、再演は何か大きく受ける印象が変わっていた。
まるっと、新しい空気感というか、切れそうで切れない「血」の繋がりだったものが少し、太くなっているような気がした。
あの「家族」の流れに身をゆだねる事は選択肢として無かったのだろうか。
もしも・・・。もしも、分岐点で緩やかにその流れに身を投じていたら大庭ナイト(渡邉圭介さん)は命を絶つことはなかったのだろうか。
たられば 話は不毛だと思うが。
アマヤドリの舞台は
いつも、単純に、「綺麗」と思ってしまう事がある。
それは、視覚的な事も一個あるのだが、
衣装の基本的に使用する色の統一感(大体3色の組み合わせ)以前
自分の母から歌舞伎の衣装も3色の組み合わせでコーディネート(若しくは柄の組み合わせ)されていると聞いたことがあって、古来からの美しく見える組み合わせの様だ。
舞台美術もシンプルではあるが、今回初演とは小屋サイズが大きく変わり(東京公演は)陰影の出方もより、密になった気がした。
板にうつる、影が文字の様にも、みえる妙。
気のせいか、劇中出てくる飲み物も御茶と、コーヒー。ちゃんと、入れてる様な。
御茶も湯気が立つという所が当たり前だが、ちゃんとしてたのがさすがとおもってしまった
劇中にキーワードで「あか」が出てくる
赤い紫陽花、赤い血、赤い夕陽。
ふと、この関連性があるのかどうか、気になったり。
7
『熱狂』『あの記憶の記録』
劇団チョコレートケーキ
再演というこの戯曲、お名前はよくみていたが、初・劇団チョコレートケーキ。
有名な独裁者の彼を中心に周辺の人々が描かれる。
私は、狂信的に誰かに服従するといった経験が無いが、あの渦の中に取り込まれた人間が実際に大勢居た事実。
タイトルのまさに「熱狂」という単語が言い当てていて、怖いし、一歩間違えると自分だってそういった国や、団体や、人間と接触することがあるかもしれない。
ただ、傍観している自分は、ストーリーテラーのリシャルト・ビルクナー(浅井 伸治さん)の最後の演説を見つめる切ないような、辛そうな、寂しそうな表情が印象的だった。
「壊れていく」「間違ってる」と感じている人がいる一方で、「熱狂」して、止める事が出来ない進み方をしてしまったヒトラー。
そして、その周りの人々。
遠い歴史の話かもしれないが、そうとは言えない話。
ヒトラーと同じ方法をする、情報を操作したり、難しい事は大衆には伝わらないが分かり易く伝えると支持を得る。
これは、物凄く、リアルである。
例え、その人が間違った思想だとしても、人々は熱狂すると思う。
ヒトラーを取り巻く人間が自分の感情を表だって見せない騙し合いのような中、人間臭い、血が通ってる感が良かったのが大原研二さん演じたエルンスト・レーム。
ヒトラーの古くからの同志。
彼は、粗野な感じだが、一番、温かさを感じた。
ハーケンクロイツを使った舞台美術が縄のような、和紙のようなタペストリーのようになっていた。
下手でエルンスト・レームが壇上で話す時、そのシルエットが映し出されて、物凄く、照明も綺麗だった。
今年最後の観劇がこの作品だった。善き観劇納めとなった。
8
エフェメラル・エレメンツ
ティーファクトリー
https://blogs.yahoo.co.jp/suwansong2014/36881272.html
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9
ぽこフェス2017
ぽこぽこクラブ
ぽこぽこクラブ「ぽこフェス2017〜越えろこの山、チョモランマ〜」シーズン3
『空白の二人2017』
暴力の負の連鎖は断ち切りたいと思っても、切る事が出来ず。受け入れたいと思っても、うまくいかない。「自分」の立ち位置が「空白」である男と、「心」が「空白」の男。
そんな二人の奇妙な関係性。従順な男の姿が、従順であればあるほど、辛く映る。
DVを繰り返す男「ようじ」役(三上陽永さん)記憶を失ったのか、社会的に存在を否定されたのか自分が「誰」であるか不確かな男「クロ」(杉浦一輝さん)。
自分の父親のDVの負の連鎖から自身も恋人に暴力をふるってしまう。
経緯は不明だが「クロ」を「飼っている」ようじ。
「戸籍」のワードから考えると、年齢的に、状況的に「クロ」は「身元不明者」の無戸籍者のようだ。
自分が「誰」なのか分からない中で、「誰」かの為に行動しようとした「クロ」が切なかった。
他者の為に、他者が喜んでくれるだろうと、その感情が人間の印のようにも感じる。
ラストは少し、救われる気がした。
劇中の「痛みが生きてる証拠」。頭では分かるのだが、理づくではクリアにならないのが人の感情なんだなと。
ある種、人間のどろりとした感情が足元に絡みつくホンだったのかと。
「クロ」は杉浦一輝さんの得意な表現が強く出る役柄。
人によってはあざとい感じが出てしまうので。
「マグロ」
シーズン1でも上演したが、演出が変わった箇所があり、少し、間のもたつきを以前感じたところがすっきりした感じを受けた。
風俗の女(森田ひかりさん)と、寿司屋の女大将(都倉有加さん)の心象というか、双方の抱えているバックボーンがより、出てきたように感じた。
一見、たわいのない酒を呑みながらの話が徐々に自身の「自分は正論」という
盾に守られた話がその場の空気を変えていった。
女は自分の男が「人間」としてのプライドを無くし「マグロ」として
存在する事にある種「意味」や「意義」を歪んだ感情で「正論」と思ってる。
「洗脳」なのか、「軟禁」なのか、色々ごちゃまぜて考えると
狂っている。
ただ、本当の「狂気」は表だって見えないモノ。
ただ、特別なモノでは無くて自分の身近にあるモノなのかもしれない。
あの不条理な「マグロ」男のような立場の人が近くにいるのかも。
回遊する「マグロ」の末路はどうなったのか。機会があれば、観てみたい気がする。
このホンはシーズン1よりも3の演出の方が大将(都倉有加さん)も、風俗の女(森田ひかりさん)も好きだった。
大将の後半の目がキテイて、静かに狂っていて良かった。
新作「現世永劫莫殺地獄」
この世も同じようなものだと、ふと、観ながら思う。
この世と、地獄の間には鏡があって、そこに映し出される人間の姿は、滑稽にもみえるし、必死にも見える。
この世ではジャッジ出来ないことを「地獄」でジャッジしてるんだろうな。
地獄での刑をみると、シンプルだ。
「悪い事をしたら罰を受ける」
シンプルな事が、現世はそれが出来ない。
地獄の刑はループする。
莫殺地獄。
「殺さない」地獄。
「莫」の意味が
1 否定を表す語。ない。
2 むなしい。
死んでいるけど、永遠に死なない。ずっと、ずっと、ずっと、続く地獄。
終わりが無い地獄程、辛いモノは無い気がする。
一見、ニギヤカしいホンだったが、かなり、色んな事をなぞってる気がするので、伏線というか、反芻すると、また違った印象にもなる気がした。
今作、様々な閻魔様のジャッジの場面
「死」の捉え方が多方向からみるとしたら気がつかない「罪」をそこで言われて初めて気がつく。
ここでも自分にとっての「真理」や「信念」は一歩ずれたら
「狂気」となる危険性がある事を感じた。
「意味のある死」とは?
世界で起こっているその人にとっての、その団体にとっての「意味のある死」
そこから、気がつかない悲しみの落としどころが見つからない人が沢山、沢山
生まれてしまう悲しさ、怒り。
興味深いホン。
理不尽な死によって鬼になった「書鬼」。
今作の書鬼の杉浦君が良かった。
全シーズンを観劇出来たのも、ある種タイミングが良かったからで、中々全てというのは難しい人も多かった公演だと思う。公演を打つ側も相当量の大変さを踏まえて「やりたい事をやる」を具現化した彼ら、スタッフの方々へ今公演が次なるステップになる事を小さく祈りつつ、善き時間を共有出来た事、感謝します。