monzansiの観てきた!クチコミ一覧

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日本演劇連盟

阿佐ヶ谷アートスペース・プロット(東京都)

2014/02/15 (土) ~ 2014/02/16 (日)公演終了

これが「屋上遊園で思索」の『リアル』だ!



劇団名が 堅物「日本演劇連盟」だから、「小劇場界のホープを集めた役者・製作陣」と身構えてしまう。


しかし、実体は、20代、30代の新進役者を中心とする「若手劇団」だ。


アンケート用紙に「劇場に足を運んだ理由は?」項目があったのも、この「日本演劇連盟」というネーミングに惹かれる客を見込んでの措置か。


思わぬ集客攻勢だった。






「作・演の木下伸哉さん(=理事)は 百貨店屋上遊園のベンチで思索する(笑)

三人連れがアトラクションの行列に待機。お祖父ちゃん、お婆ちゃん、両手に挟まれているのが5歳くらいの お坊ちゃん。

家族団欒の横で大人男性が“独り思索中”とはね…」(舞台通M氏)


『ひとりディズニー』なら ともかく、それが百貨店屋上遊園であれば、確かに“ヤバイ奴”だろう。


この現実は木下氏も自覚済み。


登場人物のキャラクターに反映させる。


常連美女ー上島・東ヶ崎 恵美(舞夢プロ)



毎日来園し、自ら『ロミオ』と名付けたパンダ・アトラクションにまたがる習性の持ち主だ。




「“闘牛並”の場面転換力でしたね。叙述的な台詞とオペラショーが観客を圧倒させた。
“乱れ髪”すら気にしないヒロイン精神です。


そうそう。彼女といえば、60秒間の休憩を宣言する役割も。
わずか90分の舞台で休憩時間があるのは珍しいですが、カウントダウンが開始すると同時に、観客は一斉に立ち上がりましたよ」


小劇場の座席は 『満員エレベーター』とも称されるから当然か。他劇団でも導入すれば この“立ち上がり現象”は風物詩となる。




「こんな百貨店社会は存在しない。登場人物は基本 ぶっ飛んでます。
でも、演劇ならではの『質素な夢の国』だと思えた時、木下さんの妄想世界と共鳴できたようで、すごく有意義でした」



百貨店屋上でビールを飲み干す時代は終わった。


爆笑の渦に包まれた90分…。






FLY ME TO THE DREAM 〜夢の欠片の向こう側〜

FLY ME TO THE DREAM 〜夢の欠片の向こう側〜

Succeed Project

六行会ホール(東京都)

2014/01/24 (金) ~ 2014/01/26 (日)公演終了

観客熱狂で呼び出される『マンマミーア!』の「リピート回数」




千秋楽の回、既にカーテンコールは4度目であった。


熱気に沸き立つ観客。


どこで入手したらやペンライトを握り、前方は総スタンディングオベーション。

「せ〜の……ありがとうございました!」と、頭を下げていたのが主演・渡辺 瞳だ。



舞台通M氏は苦言を呈す。

「前列に座るリピーター客が求めているのは一種のトーク。
ミュージカル養成所が母体だから、友人、保護者が大挙して集まったはず。笑顔をみせ、手を振って、幕が降りたら“はい、おしまい”だと、日頃から支えてる分、不満が残るでしょう」


老舗『ミュージカル座』が定期的に公演場所に選ぶ「六行会ホール」。


「Succeed Project」の本公演『FLY ME TO THE DREAM ~夢の欠片の向こう側~ 』 は、まるで同座を含む先達ミュージカル劇団へのリスペクトだった。



使用したミュージカル楽曲は『ミュージカル赤毛のアン』『レ・ミゼラブル』『マンマミーア!』などなど。


全寮制ミュージカル専門学校生徒に扮したキャスト陣が、忠実に唄って踊る。


「物語は ありきたり。男性インストラクターとの恋模様は、20代に向かって投げた球かな」



赤ふんどしを締めたイケメンの生尻を、渡辺 瞳がビシビシ叩く衝撃場面も。



「女子高校生は美術教師(役)の尻を叩かないでしょ。
笑い声が少なかったのが気になる。
女性客は引いちゃった」



「劇団スタッフにも疑問を持ってるんです。遅れた客へ『視界の妨げにならないよう頭を低くしてください』と要求するのはいい。ただし、なかには“四つん這い”で這っていく若い客も。
『そこまでしろ!』とは言ってないけど、真面目な人は結構いますからね」



挿入歌を聴けば、あの頃のミュージカル映画が思い浮かぶ。


カップルで鑑賞していた観客も、一人で録画再生した観客も。


むしろ、「偉大なミュージカル」を 紹介するダイジェスト版のようだが、残念ながらオリジナル・ミュージカルは記憶に残らなかった。


嗚呼素晴らしきサラリー人生

嗚呼素晴らしきサラリー人生

東京サムライガンズ

劇場MOMO(東京都)

2014/02/13 (木) ~ 2014/02/16 (日)公演終了

本番を一時中断させた180cm超「榊原仁」の「B級ミス」






―こんなこと、前代未聞―


遭遇した男性客(後方座席)は「これも演技なんじゃ…」と絶句。



そのミスは開演直前に起こった。


主演・船原孝路がかかるべき“ドッキリ”のトラップを、暗転中に共演・榊原仁が踏んでしまったのだ。


「初日だからね…もう一回やろう!もう一回」



作・演出を務めた主宰の加藤隼平は、何もなかったかのように始まった本番を中断せざるをえなかった。




舞台通M氏が語る。


「そのまま無視することもできたハプニング。本番を中断してまで“笑い”を取りにいく攻撃性ですよ」


失踪した広告代理店社長のバカ息子(アメリカ在住)が、ある日突然、社長に就任しなければならなくなった設定。


「前半は『社会人養成講座』だった。“通勤の方法”“名刺の渡し方”をバカ息子に解説する手法だが、観客も教えられているようで恥ずかしい」


加藤隼平にはサラリーマン経験がない。


通常、未経験の社会人はサラリーマンに対し漠然とした「コンプレックス」を抱えている。



前半の『社会人養成講座』も、加藤の“サラリーマン・コンプレックス”が響いた結果なのだろうか。



「後半になるにつれ、ボルテージは上がってきた。全体として話の筋もいい。映像・音楽の演出がエンタメ性を高めた」と、評価したいポイントも。




終演後「大変、申し訳ありませんでした」と謝った榊原仁。


これも『社会人養成講座』で習得した技らしい。




『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

TOKYO NOVYI・ART

シアターX(東京都)

2013/03/22 (金) ~ 2014/06/07 (土)公演終了

役者を涙させる菅沢 晃





『東京ノーヴイ・レパートリーシアター』は、ドストエフスキー、ブレヒトといった偉人作品を、翻訳劇に囚われず提供してくれる、稀有の劇団である。


その上演時間3時間30分は 削ぎ落とす無駄がない。



一般的な演劇だと、ゲネプロ(公開練習)から千秋楽へ向かって「進化していく」順路だろう。


帝国劇場ミュージカルは通常、本公演前に レビューを設ける。このチケット料金はS席につき約2000円安価である。



一方、ヨーロッパ・オペラ劇場に多い、日替わり上演を行うのが「レパートリーシアター」。



『レパートリーシアターKAZE』等の劇団は名が知られているが、日本においては圧倒的に導入された例のないシステムだ。



今回『白痴』を観劇し痛感したことは、「役者に新鮮さ」が与えられるプラスであった。



セリフを聞けば、『東京ノーヴイ・レパートリーシアター』の『白痴』『白墨の輪』シリーズは、メインキャスト以外 稽古量は十分ではない 可能性を伺わせる。



しかし、菅沢 が 魔術師である事実は変わりない。



ムイシュキンが スイス療養中に出逢った娘の回想をすれば、隣にいた役者は号泣してしまう。



照明は菅原ピン。



涙する場面ではない。


ところが、回想シーン後も、鼻水が止まらなかったのが麻田(アレクサンドラ)であった。


「冷たい女」の役柄を否定。



彼は人の心に礼儀正しく侵入し、それを癒すパワーを発揮した。もはや宗教だ。




舞台進行に支障が生じるギリギリの線である。




こうした事態は、「役者に新鮮さ」が与えられるレパートリーシアターでなければ 再現しえない。





Girls, be a mother【アンケート即日公開】

Girls, be a mother【アンケート即日公開】

劇団バッコスの祭

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2014/02/05 (水) ~ 2014/02/11 (火)公演終了

いつも隣に与謝野晶子





与謝野晶子は大阪府堺市出身だ。


歴史教科書に掲載される写真の女性が話し出すと、案外「大阪の おばちゃん」だったのかもしれない。


そう思わせる辻明佳の演技だった。



開演15分前に来場した客には「与謝野晶子クイズ」のシートを渡す。


出身地に関する項目があり、舞台の幕開けとともに「回答」してしまったのが本人・与謝野晶子(辻明佳)だった。ところが、2.3問の解は明らかにせず、「与謝野鉄幹と設立に関わった日本初の男女共立大学は何か」を考察していた観客も多い。もちろん、集中しなければ分からない。

『劇団バッコスの祭』が提案する、もう一つの「舞台の楽しみ方」であった。



NHK経営委員の長谷川三千子埼玉大学名誉教授が男女共同参画に反対する論説を産経新聞紙上で発表していた。
今、改めて「ウーマンリブ」に社会的関心が集まる状況だ。



政府が中心となり、「ライフ・ワークバランス」を推進する動きはあるが、若い世代の女性からすれば「女性が働きやすい環境をつくってほしい」「託児所を増やしてほしい」という要望も聞こえる。


一方、「専業主婦回帰派」の女性は見過ごされていた現実がある。


首都圏在住・20代の女性(大学生)は、「男の人って大変。それに比べれば女性は結婚して仕事を辞めることもできる」と話す。



世界をみると、主要国のトップを女性政治家が務めることは「普通」になった。


ドイツ・メルケル首相、韓国・朴大統領、タイ・インラック首相…。


日本に女性首相は育つのか。


ここで疑問が浮かぶのは、日本の国政選挙における投票者を分類すると、総投票者、総得票率ともに女性が男性を上回るデータである。


公益財団法人「明るい選挙推進協会」が2012年12月16日衆院総選挙から全国188選挙区を抽出し調べた統計資料。

全国30歳〜34歳の世代男女別投票率は、男性45.69%に対し、女性48.51%だった。(約3%の開き)
実に55歳〜59歳までの年代は、「女性優勢」である。



日本の衆院・女性議員比は7.9%だが、公職選挙法に男女差別はなく、女性有権者の方が より参政権を行使しているなかの“マイノリティ”を、私たちは どう考えればよいのだろうか。


※続く(次は舞台)















東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)アンコール公演エピソード1&2

東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)アンコール公演エピソード1&2

キューブ

CBGKシブゲキ!!(東京都)

2014/01/31 (金) ~ 2014/02/11 (火)公演終了

ワールドクラスの文化交流、TPD

日本の心「祭り」を第二部「ダンスサミット」に取り入れた。

ディズニー映画『アラジン』。
宮廷内の踊り子も着用するだろう、煌びやかな衣装のTPDが そこにいた。
舞台ステージ上に散らばったボックスを叩く。そうすると、センサーが反応し、赤、青、緑などのカラーが点滅するのだ。


TPDメンバーは両手に「バチ」を抱え、全力で歌いながら、曲のリズムに合わせ連打しなければならない。


一度、他メンバーのリズムに遅れてしまえば、「ボックス・カラー」が何色かにより、そのミスが浮き彫りになる。出演者泣かせのパフォーマンスだ。


終演後、ダンスサミットを楽屋モニターで観ていたという板倉チヒロは、若干の涙を目に浮かべた。


「彼女達も公演中、悩んだり、泣いたり、といった姿がある。でも、ライブは それを覆す出来で、感動してしまった」


TPDは公演日程が進むにつれ、第一部「エピソード2」のアドリブにも幅を効かせ始めた。



2013年9月、アルゼンチンで開催されたIOC総会。フリーキャスターの滝川クリステルさんが演説した そのセリフに着目した。



※ネタバレ箇所


ステージから透ける彼女たちの試行錯誤だった。



再公演は第二部「ダンスサミット」を拡張。


1時間40分のうち、半分は いわばTPDワンマン・ステージである。



ペンライトが発光しない空間。
アンコール曲なのに、決して立ち上がろうとしない観客もいる。


しかし、この演技+映像+ダンスがもたらす「感動」の最終幕は、板倉のいうとおり、「本物」であった。



ネタバレBOX


脇あかりが板倉へ謝る場面。発したのは「す・い・ま・せ・ん すいません」。あの“ポーズ”を交え、流行語に乗った見事なアドリブを披露したのである。


前日夜、脇は浜崎香帆に「何をやろうか」を相談していた。
浜崎が そのことを明らかに。
脇も振り返る。
HOME SWEETS HOME 【ご来場ありがとうございました】

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青春事情

ザ・ポケット(東京都)

2014/02/05 (水) ~ 2014/02/11 (火)公演終了

近くの友より遠くの親戚?



観劇後、街のケーキ屋さんに行く日が増えそうな舞台である。(女性なら特に)


なぜか、店のドアを開けた客に一般人がおらず、「関係図」が唐突に成り立ってゆく展開は違和感を抱かせるが、よく出来たハッピーヒューマンドラマだ。

ネタバレBOX


主人公・南方優一郎(大野ユウジ)には500万円の借金が あった。その重荷を背負いきれず、実家のケーキ屋へ逃げ込む。

通常なら、「借金取り」と「借り手」の関係性からいえば、店内の空気が凍りついてしまうようなスリリングな演技が要求されるはずである。
仮に その他の客、店員に「誤魔化す仕草」がコメディだとしても、二人きりになれば そうした空気だろう。

ところが、彼らはハッピーヒューマンドラマどおり、「微妙な友情関係」を、付箋として置いのだ。


その試みが、後に、「借金取り」が娘(離婚してから10年以上会っていない)に面会するシーンへ関与している。男を「弁護士」に演出する茶番劇であった。男はメールか、電話で、「弁護士やってるよ」という誤った事実を娘へ伝えており、街のケーキ屋が「協力」した結果だ。


観客が よく把握しなければならない演技は、ケーキ屋店員にして優一郎の姉・秋津楓(中村貴子)だろう。彼女は積極的に前へ動き、多くの台詞を話す役割を担っていない。

それどころか、“「借金問題」を知らない第三者だ”という指摘も可能だろう。


だが、注意深く彼女の眼差しを観察してほしい。


彼女は、「借金取り」である男の正体を悟り、それを どこか見守っている顔を出す。会計のシーンである。


設定自体、概して保守的だった。
「受験より家族」「仕事と結婚相手」を悩む姿は、まるで田舎の茶屋で起こったストーリーのようである。


常識的に捉えれば「受験」だろうし、都会女性なら、「駆け落ち」のプランを提示してもよいはず。


街のケーキ屋という設定ながら、なぜ田舎よりも伝統主義なのか、私は疑問である。

東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)アンコール公演エピソード1&2

東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)アンコール公演エピソード1&2

キューブ

CBGKシブゲキ!!(東京都)

2014/01/31 (金) ~ 2014/02/11 (火)公演終了

進化し続ける、TPD
「昨年の夏公演は、周りと衝突してしまう姿。でも、アンコール公演では“弱さ”を出せたらいいなと思って演技している」


平均年齢15歳の東京パフォーマンスドール(TPD)小林は終演後、次のような感想を語った。


最新映像技術を駆使した舞台×映像。
白を基調とする無機質な空間。


そこに、『シブゲキ!』前身の映画館時代、映写機も流していただろう映像を、“セットというスクリーン”へ映し出す。TPDが共演者だ。

TPDのパフォーマンスは、巷に形容される“アイドル像”を否定する洗練した動きが特徴であり、ユニット名にふさわしい都会的雰囲気。


「千秋楽まで成長できたらいいなと思ってる」


プロローグは毎回、同じ内容だ。


確かに、昨年の公演だと、「渋谷の地下に落ちた」その状況を、TPDメンバー自身も戸惑っているように思えた。観客はゲーム感覚で、バーチャルに、彼女たちの困り顔を観察していたのかもしれない。


だが、アンコール公演のTPDは、名作小説に触れてきた年季世代すら、メンバー同士の「試練」「友情」へ向き合わせ、新たな価値観を吸収させてあげることができる。そんな舞台だった。



客層は95%以上が大人の男性だ。もし、女性やシニア世代、子どもが その演技とパフォーマンスを目の当たりにすれば、スタイリッシュな世界に圧倒されるだろう。



『ダンスサミット』も、前半「バーチャル・ミステリー」と同じく、進化をし続ける。(一部と二部の落差は縮まった)


グレープフルーツはフレッシュだ。
そして、TPDは木の枝に ぶらさがった、生育中のグレープフルーツである。


モダン衣装、身体的なキレを重視した振付け、一点を見つめた笑顔が、劇場を明るく照らす。


※ネタバレ箇所



舞台×映像の融合は、観客にとっても、TPDに とっても、高速で進んでいた。

ネタバレBOX

「高所恐怖症じゃないけど、怖いんですよ」


スクリーンが映し出す「上空の映像」が理由だろうか。
我らがジョーク

我らがジョーク

多摩美術大学 映像演劇学科 FT 3年生Aコース

多摩美術大学 上野毛キャンパス 演劇スタジオ(東京都)

2014/01/31 (金) ~ 2014/02/03 (月)公演終了

どこか傍観者を装う演技

まず、25分遅れて観劇したため、彼らの『我らがジョーク』の本質的完結に触れることができたかといえば、大いに疑問である。

この舞台は大学演劇学科の稽古場と、キャンパスからの脱獄を図る二部構成だ。多摩美大が2時間の長編作品を上演すること自体、珍しい機会であるが、今回はストリートプレイを やや試みたのだろう。
通常、年配男性に「理解できないな」とコメントされる彼らの作品は、幾何学的な台詞やダンスを多用する傾向がある。そうした過去公演と比べれば、『我らがジョーク』は演劇スタジオというリアリズムに則った空間設定、稽古中であるという話の筋はしっかりしているかもしれない。

ただし、私は彼らが「ストリートプレイ」を追求せず、「多摩美らしさ」を隠せなかったことに対し、安堵している。


25mほどの長い舞台空間に、数人の役者同士が「群」をなす。
それは、演技中だろうと、休憩中だろうと、関係ない。
“非常に自然な、現代の若者における内輪”のリアリズムを表現した「コミュニケーション」が、その片方の群れAで交わされる。当然ながら、もう一方の群Bでも交わされるわけだが、この「コミュニケーション」が互いに影響し合い、新たな展開を作り出すことはない。

つまり、演劇スタジオなる確固たる空間設定がなされておきながらも、右と左では“異なる舞台が同時並行に、全く同一の目的を持ち進む”構成である。

ネタバレBOX


私は群れの人数について「数人」と記したが、孤立し、ホワイトボードに稽古成果を落書きする者もカウントされる。あるいは、時折、客席から顔を出す演出家も、その「数人」に含まれる可能性もある。


こうしたコミュニケーションの断片化は、観客を混乱させ、ストーリーとしての道筋すら否定してしまう。


それに比べれば、第二部の「脱獄コメディ」は、よりストーリープレイの要素があり、大衆に支持される演劇の基礎を有していた。
劇団員が「アメリカのセックス・シンボル」マリリン・モンローへ変装する際、彼らはカーテンを開け、大鏡を出現させてしまった。
そこで化粧を塗りたくる、「女優」と、中央の観客席が一つの
板の上に「共演」している「画」は、前代未聞だろう。

楽屋の女優と、本番中の観客が触れ合うことは、演出家が思いもよらなかった盲点だからである。


このマリリン・モンローたちは、皆が ホワイトのスカートを着用し、時には観客の男性を挑発する。
現代の日本の女子高校生も、マンホールから吹き上げる風圧を受けた時、「マリリン・モンローだ…ふあ」とおどける。この女性の知名度を示す逸話だ。


しかし、多摩美大出身劇団である『宗教劇団ピャー!!!』に比べると、消極的演出だろう。
一人の女性のみが、自らの腕とスカートを「釣り糸」方式により連動し、「マリリン・モンローのパロディ」を画策していた。ところが、彼女でさえ、ヒラヒラのパンツを履いていたのである。
思い切りの良さが足りない。



『我らがジョーク』を発表した彼らは、多摩美大の学長を名指しで批判し、「人間のごみくず」とまで罵った。床暖房の欠如、トイレの故障、機材を含めた施設の老朽化を、彼らはパンフレット紙面で嘆いている。


しかし、最後の演説とも捉えることができる、「多摩美大批判」は、観客を不安と興奮の渦の当事者にした。
60年代安保闘争以来の、“騒ぎ立てるレベルではないが、確かな、まっすぐの反発”だろう。


米・ミシガン大学のロバート・アラン・ヘイバーは、1960年代「民主的社会を求める学生たち」( SDS)を結成した。
『ミシガン・デイリー』の編集責任者を務め、彼の仲間と全世界に訴えたのが1968年「世代のための行動計画」=ポートヒューロン声明である。
もちろん、人種差別撤廃を要求した“反抗者”だ。


同時代、ジュリアン・ベックという演出家が、新しい演劇様式「リビングシアター」を生み出し、世界中を回った。
「リビング」だからチケット要らず。終演後、観客が発する声は「戦争やめろ!」である。



彼らはストーリープレイを志向していない。多摩美大学長には一刻も早く辞めてほしい。

なら、問おう。


「あなたがたは、若き演出家ジュリアンなのか?」
と。
幸せを運ぶ男たち【たくさんのご来場ありがとうございました!】

幸せを運ぶ男たち【たくさんのご来場ありがとうございました!】

アナログスイッチ

高田馬場ラビネスト(東京都)

2014/01/31 (金) ~ 2014/02/02 (日)公演終了

4時間だって耐久できるトーク
ボロボロ アパート一室の会話である。しかし、まるでトーク番組出演者のような一体感、笑いの方法だった。

単なる内輪の会話ではなく、5人それぞれに「役割」が用意されており、舞台の大部分を占めるだけの「面白さ」がある。


ここ最近、若い作家の書いた脚本は、若い世代しかない感性へ訴えかける傾向をもつ。それが、昔流の表現でいえば「ナウい」わけだ。中年世代からすると違和感かもしれない。


本作はシチュエーションコメディという枠組みながら、若い世代限定「ナウい」を連発した。そこに、一種のトーク番組が登場してしまうことは、決して無関係ではないはずだ。



上演中、主人公・唐沢(山下 征志)が、幾度となく液晶テレビを視聴する。その顔を座敷童たち が「幸せそうだ」といいながら、実は退屈な、非生産的に沈む表情を意図して浮き彫りにする。
彼は、観客と同じ立場だろう。
「観る」ことには変わりない。
ところが、その虚しい日常を、「見えない客観性」である座敷童たちに意見させたところが、メディアをえぐる演出効果を感じる。

劇場空間で「観る」「笑う」特権性を観客側へ問う、卓越した窓だろう。

ネタバレBOX

和式トイレに入り、水が流れない元同僚の女性・松島(関戸 梓)に水道水が入った2lペットボトルを差し出す唐沢…。
ドアの開けすぎが、「キャー、見ないで!」という叫び声を生んだ。
今度は、唐沢が和式トイレに入り、なんとトイレットペーパーが切れていたため、松島が ドアを開ける。

この場面で暗転だ。


私は暗転中、唐沢か坂下の「キャー」を聴きたかったのだが。
REizeNT~霊前って...~

REizeNT~霊前って...~

junkiesista×junkiebros.

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2014/01/29 (水) ~ 2014/02/02 (日)公演終了

この葬式ショーに参列していることが嬉しい
「お葬式をミュージカルにしちゃえ!」というコンセプトであれば、最近、近親者を亡くした観客は「不謹慎にも程があるぞ!」だろう。
だが、一人ひとりのキャラクター性が造られた新喜劇だったため、そうした苦情すら生じないはずである。


帝国劇場『レ・ミゼラブル』のような、目を閉じ、聴きいってしまう歌声ではない。まるで、映画『ロッキーホラーショー』のミュージカル挿入部のごとく、大した意味のないソングは、我々の眼前に「アップ」で迫ってくる。


「もしかしたら、そうなのではないか…」
葬式の真相を、私自身は早く把握しまった結果、ラストまで待つ間のコメディすら疎ましく感じた。
ただ、 この劇団の良い点をあげれば、バナナの叩き売り だ。
つまり、完全なる新喜劇ミステリーを追求せず、観客が考察中だろう「真相」を早出しする器量である。早い段階から知った観客も、この値切りスピードの早さ(コメディは中盤、炸裂が止まったか)なら参加できる。


少なくとも、コメディ・ファンであったり、ミュージカル映画を盛んに鑑賞する人間であれば、足を運び損することはなさそうだ。平日昼のシアターグリーンを満席にさせた事実、(ダンス学校関係者こそ多くみられたものの)それは極めてホットな現象である。

ネタバレBOX

一方、「◯◯レベルか!」といったツッコミは、若い作家の書いた脚本だろうと感じた。この笑いに関して付け加えれば、早口の棒読み であり、ただ台詞を放っているスピードだ。
せっかく、よい脚本なのだから、「◯◯レベルか!」を強調してほしい。
「Reverse Historica」 リバース・ヒストリカ

「Reverse Historica」 リバース・ヒストリカ

BIG MOUTH CHICKEN

サンモールスタジオ(東京都)

2014/01/30 (木) ~ 2014/02/04 (火)公演終了

「ゆとり世代」へ対する偏見とコンプレックス






こう記すと、誤解してしまう方もいるが、「演劇のパッケージ」を提供されたように感じた。


戦国時代の織田信長や明智光秀といった武将が憑依という形で現代にタイムスリップする話である。現代人の口からは、「浜田幸一」や「三宅久之」といった故人、果ては「田原総一郎」さえ出てくる。

この舞台は何度も上演され続けた脚本を元に造られているが、特に演出家の意図として、「現代の日本政治」への捨てきれない意欲が見え隠れし、観客も それを期待した。しかし、なぜか政治評論家や政治討論番組のワードが飛び交うだけであり、そこに意味が存在したのか疑問である。


戦国時代の争いから、現代政治の混迷を描くアプローチも有りだっ
たはずだが、それでも今回の まとまった演劇を観ると不必要だったかもしれない。殺陣シーンも、不安なく見届けることができた。
晴天の日の観覧車である。


那珂村たかこが「泣く子も黙る」織田信長を雄々しく演じた姿は本当の憑依だった。日本・インドネシア共同合作映画『キラーズ』(2014年)主演を務めた北村一輝氏は、「野村(主人公の元外資系ビジネスマン)になりきっていた」と述べたが、演じるとは何であるか 洞察させる威厳だった。
沖田桃果の萌え機関車、大門与作のお笑い休憩空間、今若孝浩の肉体スライムは 『リバース・ヒストリカ』の歴史を塗り替える。


私たちは、「昔の人」を特殊なレンズを通してしか観察していない。もし、「自分の祖先」を思い浮かべれば、その人物像も変化する。
横田庄一さんはブラウン管を観て名言を残しただろうか。「あれ、中に人がいるぞ!」と。
織田信長も、きっと、一日経過すればスマートフォンを使いこなし、減税の訴えをYouTubeに投稿。
そして二日後には、政治を諦め、名古屋市内のアイススケート場を滑っていることだろう。










母乳とブランデー

母乳とブランデー

トローチ

赤坂RED/THEATER(東京都)

2014/01/26 (日) ~ 2014/02/02 (日)公演終了

辻親八に酔いしれた
『トローチ』は、一回一錠までと決まった用法のもと舐めなければならない。その名称を語るだけあり、何度もリピート観劇をし「増幅する味」ではなく、一度目の「感動」を噛み締めたい趣向であった。


アメリカ・ハワイ州は、ワイキキの白浜ビーチと青空が数多くの写真にフォーカスされてきた世界屈指のリゾート地である。他のマーシャル諸島と同様、日系移民が暮らす太平洋の島だ。「フラダンス」「アロハ・シャツ」「ロコモコ」「ブルーハワイ」等を日本に広め、文化的な繋がりも深い。


ハワイという海外を舞台としたのにもかかわらず、現地人を「日系」としたため、圧倒するリアリティを確保している。このことは、今まで脚本家、演出家が見落とす対象であった「日系社会」を改めて浮き彫りにし、私たちのアイデンティティを再考させるコンセプトだろう。



文句を告げる観客すらいないのだと思われるが、藤尾一郎役・辻親八氏がトノサマガエルのごとく豪快な演技で存在感を示していた。他の「日系人」がアメリカ・ドラマに出演する俳優のような口調をすれば当然、劇場は笑いに包まれることだろう。翻訳劇だと、吹き替え声優を担当することはあるが、この『母乳とブランデー』は、むしろ英語も交え、70年代ホーム・コメディの当事者であった。
ところが、辻親八氏は ひとりの日本人として、こうした演技に並ぶ。
脚本・太田善也氏は、カナダ映画『人生ブラボー!』を鑑賞され、構想を得た可能性がある。



第一回公演ということは、すなわち旗揚げ公演だ。この冠すら不必要なほど、コメディの見せ方は洗練されており、私は一定数の評価を獲得したと思う。
ソチ五輪を欧州各国がボイコットするかもしれないテーマを、(観客は笑ったが)真剣に扱ったことは、特筆に値する。

ネタバレBOX

ヒデオ・フジオ(郷 志郎)が どういった経緯で更生したのか、心理描写は欲しかった。また、なぜ、他の「日系兄弟」が父親に相当する村井亮太郎へ特別な感情を抱くことなく、ファーム(農園)の従業員でいられるかも理解できない。
その家族観はアメリカだろうが関係ないはずだ。
四時の籾(しじのしいな)

四時の籾(しじのしいな)

劇団HumanDustUnion

d-倉庫(東京都)

2014/01/23 (木) ~ 2014/01/26 (日)公演終了

「聖人」吉田松陰が慕われる理由とは



吉田松陰の出身地・山口県旧松本村を訪れると、絶対に発してはならない呼び方が あるという。
もし、部外者が「吉田松陰」と呼び捨てにすれば、地元民は「松陰先生と言いなさい!」と顔を赤面させ、その後の人間関係にさえ支障が生じるらしい。


そんな吉田松陰“先生”を舞台化するのだから、著書や歴史書を読み解き、旧松本村の方々にとっても無礼ではない人物像だったと思う。逆にいえば、「聖人」を描くばかり、亡くなった時は29歳であった、その「若さ」を感じることが できなかったのである。ペリー提督の黒船に潜み、アメリカ行きを試みた冒険心を映すべきだった。


「明治維新」「尊王攘夷」を打ち立てた独立思想の持ち主なのだから当然、「朝鮮征伐」もセットだった。舞台では、「万民一君」の理念が塾生の間を巡るが、身分の違いを乗り越えた思想を説く「聖人」の面しか表さない。
「富国強兵」の善し悪しは議論されるべきだろう。しかし、山県有朋等の国権主義者を輩出した松下村塾の、その攻撃性は描けておらず、やはり「新政府軍」「薩長同盟」側からみた吉田松陰なのである。

私は今、短い文章のなか、七つも四文字熟語を提示した。国政選挙のフレーズを思い出せば、私たちが熱狂した文字数は四文字ないし、五文字の熟語が圧倒的だった。
「政治とは言葉である」という例えもあるが、時代が動き出す際、「キッチリした造語が溢れる」のは世の常である。


日本には人種問題が存在しない。だが、21世紀の今日ですら、山口県人と会津若松市民が腹を割って語り合う状況ではないことを考えると、「戊辰戦争」の遺した影は人種問題に匹敵する。1964年〜1973年のベトナム戦争時、韓国・朴正煕大統領はアメリカの要請に応じ、同盟国最大規模の計32万人を 派兵した。
この部隊は「猛虎」という名を広め、戦闘中を問わない残虐行為ぶりから韓国に対する同国民の感情は極めて複雑である。


NHK大河ドラマ『龍馬伝』にみられるように、「明治維新」という権力闘争を、志の持った脱藩武士達のドラマへ置き換えがちだが、その一方、『八重の桜』の物語も忘れてはならない。
無形文化遺産『隠岐相撲』は、第一戦を闘い、どちらかが白星を取れば、第二戦では白星力士が負けなければならない掟が存在する。これが、離島を生きた島民による「敗者を労る精神」だ。
少なくとも、旧幕府側の武士、民間人を犠牲にさせた思想のバックボーンなのだから、吉田松陰が完全なる「聖人」は あり得ないだろう。そこは、その人物の持つ「人間らしさ」を掴みたかった印象である。






ただ、舞台は、吉田松陰役・大和鳴海の静かな語り調が安らぎを与えていた。他の血気盛んな若者がコメディ要素を出すごとに、その「聖人」が浮き彫りになる構図だろう。
身体観に重厚さが欠けていたのは残念であったが、「幕末の恋愛」には女性客も泣いた。










ネタバレBOX

私が注目する役者は品川 弥次郎役・ いづみんだ。
当初、背が低い女性が体型ゆえ、少年役に抜擢された事情を考えたが、なんと12歳らしい。
高杉晋作役・中島羽飛が「何歳?」と問い、その質問に対し「16歳です」と返答したものの、なお「実際は?」と続く。彼女は4月より中学一年生になる小学生であった。
戸惑いが笑いを生む。演技だとしたら、もっと困惑した方がよい。

小劇場に出演する子役は、ミュージカル劇子役に負けない魅力を有することもある。迫真というか、「子供らしい子供」ではなく、現実の姿だ。
いづみん(芸名?)を見て思った。
それは、当初、背の低い、浅黒の、比較的 若い女性かなと観察していたからこそ再認識できたのである。
異邦人

異邦人

東京演劇集団風

レパートリーシアターKAZE(東京都)

2014/01/20 (月) ~ 2014/01/27 (月)公演終了

青年ムルソーがもつ「知性」と太陽の灼熱
レパートリーシアターKAZE『異邦人』は、青年ムルソーに燈る「知性」を、陪審院という言論空間を通し、大衆社会へ溶け込めえない異質なものとして扱っていた点が印象的であった。元のテーマ性通りである。
第二幕ライトの点滅が、光と影のクロス・パズルを 床空間に現す。それは、2秒間ほどで入れ替わるが、工場の歯車が半回転するように、役者も変わるのだ。

ネタバレBOX

さっきまで青年ムルソーの弁護人を務めていた女性が証言台に立ったり、さっきまで陥れていた男が弁護人を務めたりする。
これは、決して群像劇的アプローチではなく、“座る席によって造られる立場”を象徴した演出なのだろう。
一定の時が経過すると、その歯車は動きだし、次の陪審院のシーンである。


だが、私は多くの観客が注目しないだろう青年ムルソーの境遇を記す。
この『異邦人』は、「母親(ママンサ)の葬儀で涙を流さなかった非情息子」を陪審員へアピールされてしまう状況下、こうした言論空間と離れ、逆に客観視する孤高=「青年の知性」を扱ったのも確かだろう。
しかしながら、彼は「思い出があれば退屈することはない」というものの、“パノプティコン”監視システムを受け続け、1年間のうち衰弱していったはずである。そのような時間経過は、「独白」という形をとり観客へ伝えられたが、『異邦人』のメッセージを読む上でも重要な場面だったと思う。


2013年12月17日、ロバート・キャンベル東京大学教授が「終わりから始まる物語 日本文学」と題したトーク・セッションを井深大国際ホールにて行った。
正岡子規が死期迫るなか「日本新聞」に連載した コラム『病床六尺』の紹介があったので、そのまま引用したい。


連載100回目「〜一日に一つとすれば百日過ぎたわけで(中略)この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人には わからんことであろう。」

この連載について、キャンベル氏は 次のようなコメントを残した。
「残された時間が他ならぬ自分である。煮詰まった自己意識が叩き上げられるように出てくる」


『異邦人』の青年ムルソーは、ラストの場面になると、感情の揺れとともに より「独白」における生死への哲学観が増幅していったわけだが、正岡子規と同じく、「煮詰まった自己意識が叩きあげられたように出てくる」瞬間であったのではないか。


EU映画に聞き覚えのあるミュージックが、その瞬間をカウントする役割を担っていた。つまり、場面ごとに「終わり」が設定され、単調なリズムのもと繰り広げれるドラマが、どうしても青年ムルソーの内面=「知性」へフォーカスするようし向けていたのだ。
南フランスの照りつける太陽と、うごめく衆人、静かに佇む「知性」。
アルベート・カミュは 観客にとっての「ママンサ」である。
『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

TOKYO NOVYI・ART

シアターX(東京都)

2013/03/22 (金) ~ 2014/06/07 (土)公演終了

スタニスラフスキーで東西融合
ロシアの演出家•レオニード•アニシモフ氏を迎えてのドストエフスキー代表作『コーカサスの白墨の輪』。
スタニスラフスキーシステムは、自然の法則に基づいた演劇理論として、世界中最も権威がある。
彼の出身地・ロシア共和国連邦といえば、東はヨーロッパ大陸に通じ、西はアジアへ通じる地球儀半周分の長さ だ。北米大陸アラスカはアメリカ合衆国の州であるが、帝政ロシアが財政難のため自国領土を売却したことに起因する。


『コーカサスの白墨の輪』を観劇し気づいたことは、三味線を弾き、音響・語り手を担当する講談師。そして、グルジア語の代わりに東北弁の「うん、だべ」で 話すグルジア人であった。しかも、コーカサスの山脈だと、関西弁の「そや、せやろ」も登場する。
『ト音』という日本劇作家協会新人戯曲賞候補作が、標準語と津軽弁を入れ替えた工夫により革新的モチーフとして迎えられた経緯からすれば、改めてスタニスラフスキーシステム、すなわち この理論を応用した演出・アニシモフ氏の先見性を思う。


グルジア共和国は現在、「西側ヨーロッパ社会」の一員を目指す。最終目標はEU加盟であり、NATO参加である。ただ、この国の背にそびえたつコーカサス山脈は、アジア系民族が定着する土地でもある。中央アジアのウズベキスタン・カザフスタン等の国々に地政学的にも近く、トルメクスタン人などの東洋、グルジア人などの西洋が混在する民族空間でもあった。そういえば、『コーカサスの白墨の輪』は、西に位置したオスマン帝国との争いを書く。この国も「東西の架け橋」だった。現在のトルコの首都イスタンブールは、シルクロードで賑わった巨大商業都市である。


せっかくロシアから著名な方が来日し、ヨーロッパ式レパートリー・システムを導入するのだから、講談師や東北弁や関西弁は聴きなくなった観客もいたはずである。その抱く脳裏には、

「コーカサスの文化を緻密に観せてほしい。これこそスタニスラフスキーシステムだろう」


という、反発が渦巻く。


しかし、中盤まで観劇したところで、私も抱いていた この懸念は払拭された。
つまり、金髪カツラを被らず、黒いマジックで顔を修正することは、東洋人=民族混在空間を現す。
あえて東北弁や関西弁などの方言を使うのは、山脈で言語性が変化する、そのニュアンスを伝えたかったからだろう。

結果、文化的本質が 体現されているならば、これを、自然法則に基づいたスタニスラフスキーシステムと呼ぶ。
方言の応用を誰かがアニシモフ氏へ助言したはずだが、標準語を使う兵士に「均一性」「国家」等の概念を与える演出意図があったと感じるのは私だけか。

ネタバレBOX

酔っ払い裁判官を演じたのは、『白痴』で魔性を発揮する菅沢 晃氏である。「貧乏人に人情を与え、金持ちからは賄賂を貰う」…。このような姿をみると、「地位が人をつくる」ことわざ すら、実は間違った言説ではないかと思えてくる。この由来は孔子の『論語』であるが、いかに儒教が欠陥だらけの思想ハンドブックかを教えてくれる。
やはり、権力に溺れず、民衆のために それを行使する人間は、コンクリートの中から光り輝く鉱石を発見するのと同じくらい希少だろう。日本の政治家(地方議会)は典型である。


『白墨の輪』が問うのは、「本当の母親なら我が子の手を引っ張ることはできない」という、弱者の視点。かわいい我が子の親権を得たい「2人の母親」側にたてば、その小さな手を確保したい「願望」がある。だが、目の前にいる我が子を痛めつけたくない「本能」もある。育ての母親は 後者が上回った。
菅沢 晃氏の「イケス」な演技も あの「魔性」と並ぶ。


ちなみに、この舞台で旧知の仕事仲間に再会した。
このページを読んでいれば連絡してほしいものだ。
世の中には、スタニスラフスキーシステムでは説明つかない出逢い=再会が待っている。
櫻ふぶき日本の心中

櫻ふぶき日本の心中

椿組

ザ・スズナリ(東京都)

2014/01/15 (水) ~ 2014/01/19 (日)公演終了

日本の心を巧みに挑発する快作だ


『座頭市』は、世界的映画監督・黒澤明の代表作として多くの人が知っている。昨年10月、シネーマート六本木にて『座頭市血笑旅』を鑑賞したが、時代劇という映画作品ながら、コマ割の削れるところを削っていく大衆性を感じざるをえなかった。
この東京国際映画祭2013関連企画上映会『時代劇へようこそ~先ず、粋にいきましょう』は、国立近代フィルムセンター等が中心となり現在進められている「フィルムプリント復元事業」の成果を社会一般へアピールする企画として、文化庁が昨年から主催するイベントだ。


『椿組』は、国際社会のバッシングの対象となっている「ハラキリ文化」「恋色沙汰心中」「輪廻転生」(インド・バラモン教へ通じ、カースト制を生む原因)の三点を、驚くべき編成、人物描写により劇場空間を席巻してしまった。
四方のステージ。通路を老人が歩き出し、「盲で ございまーす。盲でございまーす」(差別語であることは承知しておりますが、江戸時代を描く史実関係も大切だと思い、台詞をそのまま掲載させて頂いています)を お知らせする。
黒澤明も撮影した その『座頭市』を現在進行形の形に添えた上、終戦後50年代〜60年代の「色沙汰心中」で交差させる、スリリングな構成であった。


開場中、ずっと音響スピーカが流していたBGMこそ「50年代ニュース映画」である。1951年4月16日7時25分マッカーサーの離日実況中継は、当時の「民主化の父」へ対する崇拝の世論を映し出すようで興味深い。
戦後復興期を迎え、「金」が絶対権利を持つ資本主義社会と、個人の悲壮感「挑み、そして散る者」に哲学価値を定義する舞台は多い。漫画家・手塚治虫も1980年代以降、こうしたテーマを強く意識した作品制作を行っている。
だが、『椿組』が全く異なったアプローチであるのは、「色沙汰心中」を、かなり思い切って肯定してみせたことだろう。


「都会にはレモンがいる」等の台詞が、シェイクスピア調の格式高い香り。あまりの難解なセリフは笑いすら起こった。





















うん

うん

泥棒対策ライト

サラヴァ東京(東京都)

2014/01/09 (木) ~ 2014/01/10 (金)公演終了

レタスは楽器かもしれない





パフォーミング公演は、「○」か「×」か判断し易いタイプだろう。
『泥棒対策ライト』は所見だったが、おそらく実力でいえば、「○」の部類に属する。しなやかな身体と、モダニズムに裏付けされた世界観は、渋谷の地下空間を酔わせたラム酒であった。もし、こうしたパフォーミング路線を貫いていれば、観客も酔った可能性がある。

ネタバレBOX


「これっくらいの、お弁当箱に…」で著名な歌をモチーフに、世界大会前の女性を演出家が指導するコメディは不必要だった。(爆笑)他にも、路上に出逢った男と女を求愛形態の違いから笑わせるコメディも あった。これは中途半端だった。


なぜ、時折みせるモダニズム的世界観ではなく、不必要だったり、中途半端なコメディを連発したのか。まるで「教育テレビ」だ。

この劇団、集まった観客のうち、出演者の子供も何人かいた。つまり、高水準パフォーミングを期待したい観客からすれば、どうしても裏切られてしまう。モダニズム的世界観に基づいた「男と女」の求愛を形容する短編だと、「教育テレビ」の表現幅には限界がある。
幻夜

幻夜

観覧舎

OFF OFFシアター(東京都)

2014/01/10 (金) ~ 2014/01/13 (月)公演終了

活かせなかった中野あき


群像劇のような形式をとりながら、あるプレイボーイを軸に、恋仲の女性を描く夢想世界だった。
そして、三股をかけていった人々すべてが同じく〈ふみ〉という名前を持つ。


なぜ、この舞台は、手で触ることのできない空気感なのだろうか。
時代設定も、いつの年代であるか、様々な可能性を醸し出す。
例えば、BGMに流れたのは、ピンクレディー、松田聖子といった70年代の元祖アイドルだ。ご本人は未だ歌手活動を続けられ、ミニスカートを履く若さなので、それが「古い時代」とは言えない。
ただし、時代考証的資料を読むと、70年代発表の曲であり、聴いていた世代からすれば「昔の時代」だろう。懐かしい。

ネタバレBOX



主人公・武はカラフルな色彩のジャージを着る。この姿は、70年代の風俗を表す。
「ふみ」との会話でも、「東京ドームシティ 行ったこと あったのよ。二人で後楽園遊園地 行ったじゃない。その頃は18歳とかだったわね」といった趣旨の思い出話が咲く。東京ドームシティが開園したのは1988年。つまり、青春に二人で後楽園遊園地を訪れたとすれば、2人の幼少は70年代に思われる。

なぜ、「幼少」を取り入れたのかといえば、始まりは男の子武と女の子「ふみ」だったからである。そのカップルは寝室で結婚を約束し合った。
しかし、理解が及ばない。少なくとも、舞台の時代設定として、現代2014年は定まっている。
これは、70年代に幼くして亡くなった「ふみ」が、「富士山」という名の展開から見下ろす構造だろうか。


武が記憶喪失に陥っている疑いも濃い。単なる群像劇の形式ではなく、内面的断片性だ。これなら、時代設定が 腑に落ちないのも、その一言で説明できる。70年代を引きずり、誰が「ふみ」か解らなくなった悲しきプレイボーイ。



私は、今まで示してきたが、時代設定は70年代に統一すべきだったと思う。映画『横路世之介』(2013年 公開)が後の現代をリアリスティックに、クールに設定するとおり、夢想世界を描く一方、それとは違う2014年であってもよかった。


富士山の 裾野を、「ふみ」のスカートへ「同化しちゃった」構造は、解読すべきテーマである。武らは 富士山裾野で過ごすのだが、その森さえも、仮に「ふみ」による支配された「執念の空間」だとしたら…。
女の夢想は世界遺産に登録したくない。
人狼 ザ・ライブプレイングシアター #10:WITCH 星降る庭と13人の魔女

人狼 ザ・ライブプレイングシアター #10:WITCH 星降る庭と13人の魔女

セブンスキャッスル

上野ストアハウス(東京都)

2014/01/05 (日) ~ 2014/01/13 (月)公演終了

「分断プレー」で耐久戦に持ち込む



「人狼ゲーム中毒者」、とうとう、天高く登る。


なぜ、ここまで、人狼ザ・ライブプレイングシアターは、私たちの(心)を喰うのだろう。同じパーティーゲームの一種である「人生ゲーム」を舞台化した時、そこに、「議論の占有」「裏切り」「仲間集め」「不敵な笑み」は絶対、現れない。


真夜中、大自然の森で、狼に噛みつかれた元•人間、現•人狼達は、やがて、魔法世界まで侵食するに至った。これが…魔女狩る(マジョカル)裁判である。



この舞台、ネタバレOKだから、開演中であっても、スマートフォンから「人狼ゲーム中毒者」に その模様を実況中継することが可能。劇場を越え、ネット住人まで、人狼の(獣臭い)唾液が飛ぶ。
結論から示せば、激戦の末、「人狼チーム勝利」であった。残る、その獣臭い唾液を辿った先には、可愛げな服装に身を包んだデイジーが いた。この…「赤ずきんちゃん」を見抜いた観客は、一人もいなかった。
つまり、パーフェクトは おろか、人狼三匹を見抜いた観客すら、0人。
通常だと、人狼正解者は10人前後いることを考えれば、その数字は「人狼中毒者」の顔を真っ青に変える力があった。
人狼だったのは、No.4デイジー、No.6エスター、No.8キャシーの三匹だ。同チームの狂人はNo.11パンジー。


このゲームは、〈誰が本物の「予言者」「霊媒師」か?〉をみつけることが、〈誰が「人狼」「狂人」か?」を判断するー適切なー材料である。ところが、霊媒師No.12ジンジャーが「私は処刑されてもいいわ」などと不可解な言動を繰り返し、「狂人」のようなインパクトを与えてしまった。これは、人間も含めた、魔女たちの総意である。「あなたを信じてるわ」と、人狼エスターへ向かい放ったのが他ならない霊媒師ジンジャーだった。


そして、 中毒効果を上げるポイントが、「人狼は狂人を知らない」「狂人は人狼を知らない」憶測効果。
人狼エスターは予言者を名乗り、本来は狂人であるパンジーを「人狼だった!」と断罪した。果たして彼女はパンジーが狂人であることを知ったうえで告げたのかは不明だが、チームが「人狼+狂人」であり、予言者に名乗りでたことを考慮すると、人狼エスターとパンジーは敵かもしれない可能性が高まる。

観客は、処刑されたジンジャーが本物の霊媒師だというプレミアム資料、すなわち残るパンジーは人狼か狂人である情報を与えられた。この時点で、「エスター×ジンジャー ライン」が連結しつつあったから、ジンジャーが本物だとすれば、彼女エスターも本物だという認識になる。
当然ながら、彼女の 言った「パンジーは人狼だった!」も正当性をもつ。


このミス論理が、多くの観客をはめた結果、「パンジーを人狼」とする回答が占めた。その後、パンジーは処刑されている。
もう一度 付け足す。
エスターは人狼、パンジーは狂人である。
分断プレーだった。


さらに、その壁建設は続く。



予言者である立場ゆえ求められたのは、「人狼疑惑の魔女を診ろ」だった。同じチームの人狼キャシーを総意として指名されたたのもかかわらず、あえて「人間だった」とは発表しなかった。
逆に、No.3モーラを「人間だった」と本当の発表をした。
2人の自称予言者が「人間判定」したため、モーラは唯一、「人間」として振る舞うことができた。ちなみに彼女は能力者であり、狩人だった。
しかし、分割された形の人狼キャシーは、「多数決の空気を占有する力」に傾き、(前日に処刑された)「私はエスターを信じるわ!」と語ったことで連携を疑われ、処刑された。人狼エスターが処刑されたのは、あえて分断プレーを強行し、「なぜ占わなかったか?」の疑惑が響いたからだった。
夜、人狼から喰われないことも一因だった。


私が「狩人」に選んだのは、人狼デイジーである。傍観的であり、決して当事者にならない。人間から「あなたは人間的だ!」と押されている。
これは「逆クリスパターン」だろう。議論を指揮して「多数派獲得」に動くのではなく、控え目に待つ戦法だ。残り5人の段階になると、彼女はNo.9ナタリー(人間)へ ピッタリくっつき、追随するアプローチに出た。


ただ、7名の段階から、二匹連続で人狼を処刑したことは、人間チームの快挙だろう。このような議論を進めたのがNo.10ドリス(人間)であった。
仮に その当日、人間を処刑していたら、人狼チームの勝利は決まっている。
三票という団体票を集め、残り1名の人間を惑わすと、それが可能だった。しかし、人狼エスターが予言者ではない事実は ほぼ明らかになっていたので、分断プレーを試みたのだろう。一匹は「私は信じるわ」を言い、一匹は人間チーム側に。
この枝分かれこそ、分断プレーである。


マジョカル裁判は衣装も煌びやか。
一方、女装魔女が 早々、処刑されるのは どうしてなのだろう。議論の中身より、「やりにくいわ!」という感情が そうさせたのか。


天に登りつめた人狼と魔女が、キュートな顔して魔法をかけてくれる。「人狼ゲーム」という魔法を。





























































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