満足度★★★
正攻法
堅実な舞台だった。
ネタバレBOX
役に入り込むことが演技の最良の方法なのかはわからないけれど、
ラストの辻井彰太さんの役への入り込み方は凄かった。
満足度★★★
豪華な出演者たち
金守珍を中心とする新宿梁山泊の演技の質と
状況劇場の大久保鷹、唐組の稲荷卓央、藤井由紀という唐十郎一派の中での微妙なそれぞれの演技の差を考えながら見るのも面白かった。
しかも寺山修司の戯曲をというのが尚更おもしろい。
そして、そこに天井棧敷の若松武史が参入という凄い取り合わせ。
ズレと融合ぐあいが絶妙だった。
特に稲荷卓央氏が寺山修司の言葉でさえも、唐十郎の言葉のように演じていて、その点がとても興味深かった。
全体としては、脚本自体の問題か、演出の問題か、テーマが今の時代状況とはズレすぎていて、どうもピンとこなかった。
満足度★★★★
伝説の舞台
『トロイアの女』はあまりピンとこなかった。
『かたらち日記由来』の方が面白かった。
内藤千恵子さんがよかった。
☆は『トロイアの女』が3つ。『からたち日記由来』が4つ。
満足度★★★★★
現代社会の写し絵
現代社会で一番問題となっていることを描いている。
漁村の話だが、どんな地方でも、いや都会でも同じような力学で世界は回っている。
人は自分の見たいように世界を見、そのためにあらゆる情報、手段、他者を利用する。それはどんな立場の者でも同様だ。右であれ、左であれ、上であれ、下であれ。この作品はそんな社会に蠢いている力学のことを描いている。
私は再演を観ているが、再再演の今回では見え方が変わった。
役者や演出、そして小屋が変わったこともあると思うが、
社会状況が変わったことも大きな要因だと思う。
その状況状況で、様々な捉えられ方のできる素晴らしい作品だと思う。
ネタバレBOX
今回改めて観て一番感激したのは、作家:柳井 祥緒氏の姿勢。
一般的に社会意識の高い作家は、単純な体制批判に陥りがちだ。
だが、社会はそんな単純な二項対立では成り立っていない。
体制批判の力学は一歩間違えば第三者への暴力にもなりかねない。
また根拠のない陰謀論をまくし立てるだけでは、批判をしているという話者のストレス解消にはなっても、本当の意味での問題解決には何ら近づけない。
そのことは震災を契機として社会の前景となり、それらの暴力を様々な場面で私は見てきた。
本当の批評性とは、そこで発動している力学を注視すること。
そこからしか問題の解決に至る端緒は見いだせない。
柳井 祥緒氏はそういう意味で極めて理知的で批評性を持った作家だと思う。
その点にとにかく感服した。
<再再演を観て>
私は再演を観ていたこともあってか、再演の時ほど作品内のスペクタクルにのめり込めなかった。というのは、第一に物語を知っていたから。第二に小屋が大きかったから。どちらの要素が私にとってより大きかったのかは判別がつかない。どちらかというと後者のような気がしているが、「大きい舞台でも充分よかった」という評も多いので、前者が理由かもしれない。
これは批判ではなく、向き不向きという話だが、柳井作品を充分に活かすにはやはり密室的空間で観客の集中力を最大限に高めるという方が良いような気がする。広い空間は、観客の意識も拡散してしまう。すると、どうしても柳井氏の知的な台詞の意味を充分には理解できずに、次のシーンに移ってしまうという場面が多かった。(私の頭が悪いだけかもしれないが。)
ただ、これだけ力があり素晴らしい劇団は、もっともっと評価され、多くの人に観られてしかるべきだと思うので、座・高円寺のような大きなところ、更にもっと大きいところでもやって欲しいとも思っているので複雑だが。
(私が問題にしているのは、「観客の意識」の問題であって、空間演出のことではない。空間演出については素晴らしかった。難しいテキストを聞き、理解する観客の集中力が劇場空間の大きさにも左右されてしまうと言っているだけだ。勿論、影響を受けない観客もいるだろうが。)
また、役者さんが素晴らしかった。
皆、素晴らしかったけれど、なんと言っても須田日出子役の関根信一さんが凄い存在感だった。『獣のための倫理学』での演技も凄いと思ったが、パワーアップしている感があって、見入ってしまった。
鶴町憲さんも地味によかったな。
いや、皆さん本当によかったんですけど、特に。
柳井作品、次回作も楽しみです。
満足度★★★★★
引き裂かれた夢
まさに夢のように中心の物語から逸脱し様々に広がっていくイメージが面白かった。
私は古くからの桟敷童子のファンではないので、昔の作風は知らないが、近年の作風からすると少しテイストが違う。
平たく言えば、幻想奇譚というか、シュールレアリスム的世界。
そのチャレンジ精神が素晴らしいと思う反面、強度としてはいつもより弱い印象。
と言っても、このどのようにでも解釈できる世界を、そして多義的に張り巡らされたコードを、観劇後に色々と思い出し、考え直したら、観劇中にはわからなかった発見もたくさんあった。まるで夢解釈のような作業。
解釈に頭を悩ませるという二次的体験も含めて、珍しい体験ができた。
何より、今まで採用してきた方法と違う試みをするという姿勢が素晴らしいと思う。そして実際に新たな表現が見出されていたと思う。
※12/15:ネタバレの最後に追記しました。
ネタバレBOX
極めて多義的な作品なので、物語として一義的解釈しようとすることを作品自体が拒む。また、それを無理やり行うことは世界を矮小化することにしかならない。
と言っても、それでは語りようもないので、敢えてその愚を犯し、ある一面から物語化し、私が考えたことを書く。
世界に謎の疫病が流行し、終末の刻が近づく。
その疫病は人間からあらゆる欲望を奪い、人を無気力にし、知性や感情すらも奪ってしまう。つまり抜け殻にしてしまうのだ。(と言っても、微かな感情は残っているようでもあるのだが。)
それを食い止めるべく体夢がすべての疫病を呑み込むことで、世界はまた平静を取り戻すという未来が待っている。だが、元に戻ると再度人間は奪われていた欲望や利己心、悪意の限りを尽くすようになる。そんな世界を見るのに耐えられなくなった体夢は、再度疫病を野に放ってしまう。すると、またその疫病が大流行し、それは体夢が愛する妻にも襲いかかる。体夢はなんとか妻を救おうと試みるが、その時にはもはや疫病を抑える能力は失われている。そして妻を救うことはできないことに絶望し、記憶を失い狂人と化していく。
自分(体夢)が疫病を呑み込んで世界が平静を取り戻した段階で自分(体夢)を殺せば、妻は疫病にかからなくてすむと思った体夢は、過去の自分を殺そうとする。それは自分の命、自分と妻との出会いも失われるが、それでも妻を生かしたいと体夢は望む。
(その未来の体夢は「青二才」、記憶を無くし狂ってしまった体夢は「狂人」と呼ばれ、劇中に3人の体夢が存在するのだが。そこには、タイム、つまり「時間」という意味も付与されている。)
これは物語の一部を取り出したものだが、この作品に描かれた「疫病」とは何なのか。
作品内では、必ずしも悪いものというだけではないように描かれている。勿論、悪いものにも見えるが。それは、その核にある人間の「欲望」そのものが、「気力」という良い側面と、「我欲に満ちたもの」という側面の両方を有しているのと同様である。「無気力」である反面、「ある純粋性を有している」と。
この構造の複雑さは、この二つの対立概念自体が、社会状況などと重ねて解釈しようとした場合にも、オセロのように二転三転してしまうことだ。
国民は総白痴化しているということか?批評性も主体性もなくし、ただただ従順に振る舞う。もはやこの社会は疫病にかかっている?だが、純粋であることは悪いことなのか?むしろこの世界を支配している欲望が世界を滅ぼすのであり、疫病にかかっている者こそがむしろ世界を救うのではないか?いやいや、純粋無垢こそ我欲に溺れた者の慣れの果ての姿だろう、、、というように。
(私が観たのは衆議院選挙前日、そういう意味でもとても感慨深い。)
東憲司作品の本質はそのアンビバレントにあると前々から思っていたが、
この作品ほどその対極にあるものが引き裂かれたまま提示されているものもないのではないか。そういう点でも、とても興味深かった。
唖(に周りの人には見える)の体夢がしゃべろうとすればするほど、誤解しかされないというのも、現代の社会状況を象徴している。また、痛みを負った少年二人の間では、その言葉が通じ合えるというのも。
また、人が良く、損しかしてないゲノリ一等兵が、ひょんなことから権力を持ち、ヨギ議長に「お前は権力を持っただけで、偉くなった訳ではない」という主旨の台詞を言われ、さらにその権力からも引きずり降ろされ、手足をもぎ取られ、最終的には殺されるなども印象的だった。
共に東憲司氏の声なき者、弱き者への視線を示していると同時に、それも必ずしも一義的ではないというのも素晴らしいと思った。
蛇足だが、デビッド・ボウイやクラウス・ノミなど、ありものの曲を使うというのも妙に新鮮だった。(私も中学生の頃、よくそういう音楽を聴いていたので(今でも好きだけれど)、妙に青年期の感覚を刺激された部分もある。)
ボウイの「タイム」がテーマ曲のように使われているが、
どちらかというと、同性愛者であり、エイズにより39歳の若さでこの世を去ったクラウス・ノミの「The Cold Song」の方がこの作品の真のテーマ曲なのかと思う。
体夢も基本的には同性愛者という設定であり、唯一愛した異性が妻だったということなので。この性に対しても引き裂かれている点も興味深い。
また、その流れで言うと、
集団強姦によって母の体に宿ったのが体夢であり、そして母は殺された。その母の恨みを晴らすことが体夢の生きる目的だった。恨みを晴らす敵が自分の父でもある。しかし、その父は疫病を畏れて自殺してしまう。体夢は幼少にして生きる目的を奪われてしまう。このような引き裂かれ方も凄いものがある。
夢を思い出すように、色々と芋づるで出てきてしまうので、この辺で、、、。
いずれにしても、とても面白い演劇体験だった。
<追記:12.15>
この疫病について、ふと最近の「さとり世代」に代表される現象と重なっているようにも思った。欲望(性欲、出世欲、物欲、、、)を失っている若い世代の現象と。古い考え方の者からは、批判されることも多いこの「さとり世代」(草食系なども近い概念)。だが、果たして本当に悪いことばかりなのか、、、。勿論、全肯定できる訳でもない。この微妙な感覚、まさにこの劇の中の疫病とそっくりである。
満足度★★★★
熱演!
役者さんの熱演が凄かった。
ネタバレBOX
役者さんのド真面目な熱演をぶった切って中断していく脚本・演出の手法が、
それこそが面白いとも思う反面、もったいないとも思った。
作・演出の戸田武臣氏の意図がどこにあるのかはわからないが。
過剰なバスター・キートンとでも言おうか、
極めてシリアスな場面をドシリアスに演じていて、その様こそが極めて滑稽にも見えて面白かった。
その際、携帯に電話がかかってくるなどの「中断」の手法が絶妙に機能している。
笑いを目的とした作・演出だとしたら、大成功だと思う。
ただ、そこに物語を相対化するための「中断」手法という意味もあるのだとしたら、少しもったいとも思った。
それぞれの登場人物たちが抱える「正しさ」のようなものが瓦解していくという物語は、この作品自体の物語が「中断」され続ける手法と呼応している。
そして最終的には誰が言っていることが正しいのかがぐちゃぐちゃになって終わるのだが、
中断による笑いの面白さにひっぱられて、観終わった後の私の中には、
物語で語られていた内容があまり残らずに劇場を後にした。
物語の帰結というカタルシスがないにも関わらず、意外とモヤモヤが残らなかったのは、笑いがある種の浄化作用として機能してしまったということだろうか。
役者さんたちが非常に演技力のある方たちばかりで、その演技に圧倒され、もっとその演技を見ていたいと思ったが、その観客の欲望も中断されてしまう。
戦略的な中断だから良いとも言えるのだけれど、それならその中断が笑いに行くのではなく、ある種のモヤモヤに行ってほしかった。
中断するにはあまりにもったいない熱演だっただけに、、、と思ってしまうのは、私の趣味嗜好の問題だけだろうか。
ただ、コメディとしては充分面白かった。
満足度★★★★
感動モノ
劇団チョコレートケーキの西尾友樹さん目当てで観に行きました。
外部出演でも、素晴らしかった。
派手な演技より、地味な部分が特によかった。
若手三人の演技がよかった。
私は感動モノが苦手なのですが、それでも感動してしまいました。
感動モノが好きな人には文句なくお薦めできます。
満足度★★★★★
共作の理想的な在り方!
素晴らしい日韓共作の在り方。その良さが作品の質にも現れている。
またソン・ギウン、多田淳之介両氏の個の共作という意味でも絶妙の作品だった。
コラボレーションとか、〇〇合作、〇〇共作という作品は多々あれど、その試みの意義がこれほどまでに有効に機能している作品を私は他に見たことがない。
素晴らしかった。
ネタバレBOX
日本の背景をもった多田淳之介氏と東京デスロックの俳優陣。
韓国の背景をもったソン・ギウン氏と第12言語演劇スタジオの俳優陣。
それぞれの歴史が見事に舞台上で交錯する。
舞台は1930年代日本占領下の朝鮮。
そこで繰り広げられる人間模様をチェーホフの『かもめ』と重ねて描いている。
ソン・ギウン氏の完璧に構成された脚本を、多田淳之介氏が絶妙に異化していく。脚本が完璧なだけに、そのズレが極めて効果的に作用している。一歩間違えたら陳腐になりかねない演出なのだが、舞台を支配する緊張感がそれを絶妙の間に変えていた。
そして何より出色なのは、日本語と韓国語が入り乱れる構造。実際の当時の朝鮮の状況を舞台上で再構築させたものでもあるのだが、それが皇民化政策の結果でもあるため妙な現実感がありつつ、同時に舞台特有の異質感もあり、異様な時空間を作り出していた。そしてそれが現代への強い批評にもなっている。
基本的には韓国人役は韓国人が演じ、日本人役は日本人が演じている。ただし、一人だけ日本人女性が朝鮮人の少年を演じていて、この微妙なズラしも非常に効果的にその意味(問い)を開かれたものとしていた。
ラストシーンで、時代は現在までの経過を辿る。
そう、この問題は現在にまで続いているのだ。
日韓関係が悪くなっている昨今、このような共同制作の作品ができる意義は大きい。それも、やったことに意味があるというレベルではなく、作品の強度として共作の意義が十二分にある作品となっているということが本当に素晴らしい。
追記:
〇音楽が部分的に過剰に鳴り響く感じ(音割れギリギリの感じ)が妙に舞台の不穏さを強調していて良かった。
〇役者さんたちは皆個性的で演技力もあって素晴らしかった。中心の人たちが素晴らしいのは言うまでもないのだが、地味な役:イ・エギョン(オ・ミンジョンさん)といさ子(佐山和泉さん)の存在が妙に気になった。この2人の存在が、物語内の役割としても演技としても、作品に深みを与えていたような気がする。
満足度★★★★
うつろう身体、影
私が観た席が後ろだったことも影響しているのかもしれないが、
スポットライトなどを使った光とそこにうつろう影がとても印象的だった。
身体の動き以上にその背後にある空間というものを強く感じた。
空間をうつろう身体、それ共ににうつろいゆく影。
不思議な観劇体験だった。うまく言葉にできない。
満足度★★★
特異な演出
ビデオカメラを使った特異な演出がとても興味深かった。
満足度★★★
現代アート
ミャンマーの歴史を一身に背負い、異国日本において独りで対峙している様がよかった。
ネタバレBOX
表現としては面白いとは思わなかったが、
モ・サ氏が独りで対峙している姿勢はよかった。
満足度★★★
興味深い演出
とても興味深い演出だった。
ネタバレBOX
野外でやっていた際に、役者の影がにしすがも創造舎(旧学校)の建物に映っていたのがとても良かった。独特の踊りのような動きも、その影を通してが最も魅了された。
劇場内に入り、役者が猛烈に動き回ることで、役者自身の疲労感が舞台からダイレクトに伝わってくるのが、とても印象的だった。
舞台上にしきつめた木の葉の中を動き回ることで、そこで舞うほこりから嗅覚を刺激されたのも興味深かった。
満足度★★★★★
名もなきいち女性の人生の提示
名もなきいち女性の人生の提示。
それが本当に素晴らしいかった。
ネタバレBOX
ドキュメンタリー的取材や対話に基づく作品創りや、そこで味わった役者自身の変化を舞台にのせるという方法、また素人をそのまま舞台に上げる手法自体は真新しい方法ではないが、その視点にきちんとした核心があって、素晴らしかった。
それは、単に素人を舞台に載せるという意味ではなく、大きな歴史に記述されないいち女性の人生、その生活の細部の提示。それを、大きな激動の韓国の近現代史と現在を視野にいれながら展開する。と言っても、軸はこの女性イ・エスンさん個人にある。
彼女の存在の提示は、掴みどころのない政治的事象や歴史的事象を凌駕する説得力を持つ。
もはやこれは演劇ではない。視点なのだ。歴史を見る視点の提示。
そして、そこから個の人生と、歴史について考える。
この演劇を、芝居として面白くないなどと言うことは、観方によっては可能かもしれないが、それはあまりにも小さな個人の人生をないがしろにした観方であるだろう。
もし批判をするとすれば、この名もなき女性の存在を提示することで、この人の人生を批判できないように、作品も同様に批判のしようがない点を「ずるいよ~」というだけだろう。
アフタートークで、構成・演出のイ・キョンソン氏は、この作品を作る過程で気付いたのは「女性の労働」の意味だと言っていた。この芝居でも、彼女が部屋・舞台を掃除する時間がかなり長く提示される。この時間の豊かさ。重み。このシーンの間、私は様々なことを考えた。奇しくも私の母もイ・エスンさんと同じ年。彼女の女性としての、オモニ(母)としての生き様に心を打たれた。
また、若い役者の演技も良かった。
満足度★★★★★
面白い!
とても面白かった。
踊りを通して、様々な規範や制度について感じられた。
ソ・ヒョンソク氏といい韓国の多元芸術は凄い!
ネタバレBOX
見たことがないタイプの踊りだった。
と言っても、基は韓国伝統舞踊とヨーロッパのコンテンポラリーダンスのバックグラウンドがあり、そこから絶妙に逸脱していく。イム・ジエ自身がそうであり、そこにクラシックからコンテンポラリーを続けてきたルーマニア人セルジウ・マティスと、日本で舞踏をやってきた捩子びじんの歴史とそこからの逸脱も加わる。それは基本のダンスの型とそこからの逸脱というだけではなく、人間の行動様式全般に見られる慣習的動きとそこからの逸脱という広がりも持つ。さらに、あらゆる社会制度・規範というものの網の目をも舞台上に想起させる。
そのようなことが読みとれる記号として提示されている訳ではない。
あくまで私が見ながら感じていたことを言葉に落とし込んだら、そのような意味になっただけなのだ。
すると、上演後のトークで、イム・ジエはまさにそのような意図だったと言っていた。非言語の表現でも、ここまで明確にその問いが伝達されるのだなということに驚いた。やはり核心のある表現は違う。
ある制度からの解放を考える際に、野放図な自由ではなく、ある型・ある規範が示されることで、そこからの逸脱が明確に見えてくるということがある。まさにここでイム・ジエが行ったパフォーマンスはそういうものだ。
彼女の解説を付け加えるなら、身体とは歴史の集積であり、自分が培った技術は「1分の中に10年」が蓄積されているものであるということ。それは、ダンスの技術だけではなく、文化を含み、様々な行動・所作にも表れる。
そこから逸脱する動きを示すだけで、様々な制度について考えさせられるなんて。
だがその逸脱も、見続ける中で、またひとつの型として見えてきてしまう。脱構築もすぐに制度に回収されてしまうということだろう。その様さえも感じられたので、更に驚いた。
また、これは書こうか迷ったことだが、誤解を恐れずに書く。
一般的にダンサーはガリガリの者が多く、体の線が細い場合が多いが、イム・ジエは痩せてはいるがお尻が大きいのだ。
これによって、妙に生々しいの現実感が舞台に漂った。
私が男性だからかもしれないが、官能的だとさえ思った。
もちろん、強烈にということではない、ほんの少しのニュアンスとしてだ。だが、その小さなニュアンスが決定的に舞台の印象を変えていると思った。勿論、良い意味で。
官能的であるかどうかは別としても、それによってある現実感が漂っていたのは確かであるし、「身体」というものの在り方を問われていると感じた。「ダンサーは痩せているもの」という固定概念についてや、ダンサー以外も含めた人間の身体の規範とは何かということまで。
そこまで明確に意味として理解していたというより、そんなようなことを感じながら観ていて、後々、言葉にしたらそういうことだったような気がするというだけなのだが。
いずれにしても、素晴らしい舞台だった。
<追記>
上記の感想は、今作の3部構成の1~2部についての感想で、休憩を挟んでの3部の感想ではない。
上演後のトークでのイム・ジエ氏の説明によると、1~2部は「教育を受けてきたものからの逸脱」3部は「これまで持っていたものを振り返る」というような意図があったようだ。正直に言えば、3部も面白い部分はあったが、1~2部ほどには惹きつけられなかった。なぜかをうまく言葉にできない。
満足度★★★★
完成された世界なれど
「何もない空間」のピーター・ブルックだけあって、簡素な空間を観客の想像力によって充たす演出は、さすがと思う部分があった。
観客を巻き込み、舞台全体、劇場全体を演出する力もさすがと思った。
全体的に、何の落ち度もなく完成度の高い世界なのだが、
その完成された世界というものに私はあまり興味が持てなかった。
去年、『ザ・スーツ 』という作品も観たが、まったく同じ印象。
土取利行さんの音楽が良かった。
満足度★★★
意義深い作品
パレスチナ人俳優が芥川の「羅生門」「藪の中」、黒澤版、をベースに演じた作品。とても意義深い公演だと思った。
ネタバレBOX
真実がどこから見るかによって変わる、何が真実なのかわからなくなるという芥川の世界を、パレスチナ・イスラエルの問題と重ねて提示しているということなのだろうが、私には重なっているようには見えなかった。
とても観念的な作品に見えた。
フサーム・アル=アッザさんの演技は印象的だった。
満足度★★★★★
ここ数年で最も刺激的な観劇体験(11.10追記)
ここ数年で最も実り豊かな観劇体験。
演劇の新たな可能性というものをとても感じられた。
いち観客としてもかなり面白かったが、
それ以上に作り手として非常に刺激を受けた。
ネタバレBOX
役者と観客が一対一で巡るツアー演劇。
Port B やリミニ・プロトコル、長島確らの試みに通じ、
ポストドラマ演劇の中の「劇場から社会へ、虚構から現実へ」という流れの中から生まれてきた作品のひとつだろう。
そういう意味では、殊更度胆を抜かされるコンセプトではない。
だが、同じようにツアーパフォーマンスを行い、土地の記憶の問題などをテーマにするPort B とソ・ヒョンソク演出『From The Sea』では、微妙な違いがある。
<私は、Port B の作品を初めて体験した時(『東京/オリンピック』(2007))も、強烈な印象を持ったので、どちらが良い悪いということではない>
その違いが非常に刺激的だった。
Port B は徹底して世界に直接的には介入しない。まるで「人は世界に介入などできないのだ」と問いかけられているかのように。観客と世界との間には、常に一枚のガラスのような仕切りが存在し、観客は世界を対象化しながら、その世界と自分との距離について考える。
それに対して、『From The Sea』では、役者が観客の手をとる。また、そこで会話も生じる。そのことによって、私と世界との間に直接的な関わりができる。ここから生まれる可能性に圧倒されたのだ。
と言っても、過剰に介入することはなく、むしろ観客はその直接性をひとつの契機としつつ、再度自身の中で内省することで作品を完成させる。そういう意味では、最終的には似た作風とも言えるのだが。このちょっとした違いが、劇体験を決定的に違うものにしている。
私は、この作品内部で語られていたテキストも、詩的イメージを喚起されて素晴らしいと思ったし、思想的広がりをもった素晴らしい内容だと思った。忘却について。喪失について。
だが、そのような素晴らしいテキストも、直接体験から受けるものに比べれば、それほどの影響力を持っていない。直接体験は、言語的意味など軽々と超える印象を与える。(逆を言えば、だからこそ、直接体験に安易に引っ張られないように、Port Bは直接性を避けているのだろう。それはそれで筋が通っている。どちらが良いという話ではない。)
共にツアーを回る相手との肌の接触。私の相手は女性だったため、尚更、ある種の疑似恋愛的な体験ともなったが、これは相手が男性であってもまた別の広がりをもった人間同士の交流の意味あいが付加されただろう。
また、私個人に向かって役者から問いかけられる言葉に対して、自分がとっさに答えた言葉の意味。その意味を、何度もツアー中に反芻していた。演出家が用意したテキストにこれらの体験が肉付けされるのではなく、観劇体験そのものに演出家のテキストが彩りを与える。演出家の言葉よりも、私自身の体験の方が主体なのだ。
例えば、 役者「子供の頃におもちゃなどを失った記憶はありますか?」
私 「・・・」
役者「あまり遊具では遊ばなかった感じですか?
自然の中で遊ぶみたいな?」
私 「そうなんですよね、、、
自然が遊び道具みたいな。
あっ、でも、失うって意味では、父親を失いました。」
役者「・・・」
別の場面、役者「忘れたいことはありますか?」
私 「誰かを自分の言動で傷つけてしまった記憶ですね」
役者「・・・」
別の場面、役者「人を失って、喪失感をあじわったことはありますか?」
私 「恩師が亡くなったことです。」
役者「もう少し教えてくれませんが?」
私 「自殺だったんです。同じ仕事をしている人でした。」
役者「・・・」
私 「恋人のこととか話した方がよかったですかね(笑)」
役者「いえいえ、そんなこと、、、、」
ここで私が答えたことの意味を、ずっとツアーを回りながら考えていた。
また、言葉にしようとして、言葉にしなかったことも含めて。
大切な人について聞かれた時、恋人のいない私は、結局、家族の顔や数名の友人の顔を思い浮かべた。私にとって大切な人なんて、ほんとそんなものなんだな、、、、。熱烈に愛してやまない相手はいない。それもひとつの喪失感かもしれない。でも、たとえ恋人がいても、同じなんじゃないかなとも思う、、、。
作者の問いかけは、冒頭に「災害とその記憶の忘却」ということが語られていたこともあり、3.11や歴史的な問題の忘却と、個人の記憶の忘却の問題などを重ねているのだと思う。
だが、そのような大きなものよりも、やはり私個人の微細な記憶にすべての神経は向かう。すると、月並みだが、大切な他者という問題が起ちあがる。
と、同時に、目隠しをされ、足を踏み出すのにさえ躊躇していた私の歩行を助けてくれた隣にいる人(役者)の存在に気付く。最初はおっかなびっくり歩いていたが、最後の方には、何の恐怖心もなく普通の速度で歩けるようになっていた。それは隣にいる相手への信頼からくるもの。手は固く握られている。相手の体温を感じる。私の場合、相手が女性だったため、ある恋愛感情にも似たようなものも生じたが、おそらく男性であっても、同じように感じたのだと思う。つまり、性の問題ではなく、ある人と人との触れ合いのことが問題なのだ。
そう考えると、翻って、震災のこと、歴史のこと、土地の記憶(公演の行われた立会川は、一説によると「鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、その親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった」(ウィキペディアより)という。また、この地域は海を埋めてできた土地。土地が海を失ってしまったのか、海を失って土地になったのか。)などの作者の問いかけとこの私個人の小さな旅とが繋がっているということに気付く。
結局は、私自身の旅の途中でこの作品の作者と出会い、共に歩き、また自分の人生を続けていくということなのだろう。
そんなことを意識化させられるなんて、凄い作品だと思う。
<追記1>
ラストシーンで目の覆いを外されて見えてきた海、そこに走るモノレール。ここまでは作者が仕込んだことだと思うが、そこに偶然、魚が跳ねた。しかも何度も、直線を描きながら。そんな偶然も、ある奇跡的な瞬間に立ち会っているかのような想いにさせられた。
それはラストシーンに限らず、街で見かける景色や、そこを行き交う人々。ガラスに映った街の景色など。あらゆる現実の要素が、ゴーグルによってフレーミングされ、時に闇に覆われ、時に光を得るという演出によって、新鮮に起ち現れる。今まで当たり前に思っていた日常の時間が、実は極めて得難い瞬間の連続であると知る。そういえば、「10分を何年にも感じる方法は、細部の瞬間への感覚を研ぎ澄ますこと」というような主旨のテキストも語られていた。あらためて、日々の日常の細部について考えさせられた。
<追記2(11.10)>
「人を失って、喪失感をあじわったことはありますか?」という俳優の質問に、私は「恩師」と答えたと最初の感想で書いたが、実はそれを答えるまでにはかなりの時間を要した。
正直に言えば、絞り出して答えたというに尽きる。
恩師の死は同業者(作家・表現者)としての喪失感であって、彼個人の死を悼んでの喪失感ではない。
私は家族を失った時でも、友人を失った時でも、恋人と別れた時でも、自分の実存が損なわれる程の喪失感を味わったことはない。
私は葬式などが嫌いなのだが、葬式に行くと「心から悲しい訳でもないのに、皆が悲しいフリをして湿っぽさを演じている」と思ってしまうのだ。
どうせ家に帰れば、すぐにテレビを付けて、バラエティ番組を見て爆笑するのだろうと。そういう人を軽蔑している訳ではなく、私自身がそういう人間だからそう思うのだ。他人の痛みなど真には我がこととして考えることはできない。
と言っても、さすがに、私も祖父の死に際しては涙を流したが、それは喪失感ということではなかった。
本当の喪失感には、むしろ感情や涙は伴わないのではないか。
なんとなく空虚であるとい感じなのでは。
そういう意味なら、自覚もなく様々な喪失感を日々味わっているような気がする。
だが、それに明確な「言葉」「意味」が与えられた瞬間に、
それは喪失感ではなく、ある種の「感傷」にすり替わってしまう。
喪失感は他者のものだが、感傷は自己のものだ。
他者を失ったということさえも、自己の所有物にはしたくない。
それが喪失についてこの公演を通して、改めて考えたこと。
満足度★★★
・・・
・・・
ネタバレBOX
私にダンスに対する感受性がないだけかもしれないけれど、
公演にはあまり惹きつけられなかった。
むしろ、その後のトークで、
踊り手の佐東利穂子さんがマイクを握って話をしていた様にこそ、
ある種の「身体性」のようなものを感じた。
そういう興味から考えても、
私は「詩人なき詩」よりも「詩なき詩人」に興味があるのだと思う。
あくまで嗜好の問題だと思いますが。
満足度★★★
メッセージ性の強い作品
現代社会への強い問いかけ。
過去から繋がり現在にまで至っている地方(農村)の問題を、うまく描き出している。
ネタバレBOX
多様な含みもあるが、広い意味では一義的メッセージに帰していく作品だと思った。(それが原作によるものか、今回の演出的解釈によるものかは私には判断できない。)
メッセージが強いと言っても、
1984年の初演時のように、原発はイケイケで、反原発が向かい風だった時の上演と、今のように反原発が一般レベルでは追い風の状況ではその意味は大きく違うと思う。
(政治レベルでは、いまだに原発推進ではあるが)
私はここで語られている話の内容には強く共感するものの、
メッセージ性の強い作品が好きではないし、
それも追い風の中でそのメッセージが発せられる場合は、
尚更興味を惹かれない。
むしろ、血の繋がりのない親子の関係の方が面白かった。
満足度★★★★★
空洞の魅力
寺山修司の演出と多田淳之介の演出の共通点と相違点が面白かった。
寺山修司は作品の半分は観客が作るものだと言った。半世界という言い方もした。多田淳之介の演出もその点が似ている。だが、その在り方が対称的なのだ。
寺山修司の演出と多田淳之介の演出の共通点と相違点が面白かった。
寺山修司は作品の半分は観客が作るものだと言った。半世界という言い方もした。多田淳之介の演出もその点が似ている。だが、その在り方が対称的なのだ。
寺山修司を足し算的、多田淳之介を引き算的ということもできるだろう。寺山はイメージをぶつけ合わせ、観客の意識を攪乱する。多義的でイメージ豊かな幻想の中で、観客はイメージに振り回され、その混乱の中で自分自身の問題と向き合うこととなる。それに対して、多田の演出は空白的だ。イメージの装飾を剥ぎ取った簡素なものの中にぽっかり浮かんだ空洞。その空洞に観客は自身が日々抱える日常的問題を投影しながら舞台を観ることとなる。この点において観客が演劇に介入する在り方が決定的に違う。
だが、共に、劇は作家が提示する問いに対して、観客が回答することで成り立つという点では同じであり、見る者の数だけ、その劇世界が創出される。
その為、ここから先は、その観客数分の1の私自身の体験を記述する。そういう記述方法でしかこの作品を批評することができないからだ。
ネタバレBOX
ぽっかり浮かんだ空洞。退屈と紙一重の処で成り立っている世界。ヌーベルバーグのようなまどろみ。その隣には、私自身の手垢にまみれた日常が顔を覗かせている。それが劇世界の中に流れ込んでゆく。日々抱えている些事。とるに足らない欲望。「あれをやらなければならない」「これがほしい」「それをしたい」。だが、それらのことは、私自身のすべきこと、欲望でありながら、本当に自分が望んでいるのかわからない。『奴婢訓』のテーマである「主人の不在」。私は私自身の主人なのだろうか。私は私の主人ではなく、誰かに何かに、動かされているのではないか。では私を動かしているのは誰なのか。その顔は見えない。では、この社会を動かしているのは誰なのか。その顔も見えない。
不在の主人で満たされた空間で、私は私の主人を探しながら旅をする。「幸福とは幸福を探すことである」(ジュール・ルナアル)ならば、主人を見つけることが目的なのではなく、主人を探すことの中にその本質があるのかもしれない。
ラストシーンで浮かび上がる寺山修司の言葉。
「世界は、たった一人の主人の不在によって充たされているのである」。