満足度★★★★★
深く自然に分け行った者の世界
大正時代、未だ日本では登山技術も殆ど知られておらず、特にロッククライミングの技術等は、大学山岳部のボンボンだけが習得できるような時代の在野のサラリーマン登山家2人の話だ。
ネタバレBOX
在野NO1と目される登山家と彼に憧れて山に見入られ、どんどん難しい条件の山にのめり込み、チャレンジして基本的には単独で登っていた二人は、終にパーティーを組む。無論、それは互いの実力を認めあってのことであったが、互いの遠慮や見栄が、正確な判断を狂わせ帰らぬ者の仲間に加わる迄の過程を描く。
何故、山に登るのか? この問いは、彼ら自身の切実な問いでもある。そしてそれは、生きていることを確認する為、また、神々の住まう荘厳な世界を垣間見るためだったように思われれる。もとより、筆者自身、山も海も好きで良く出掛けた。然し、自分の山の技術も装備も沢や縦走が基本でロッククライミングなどは、初心者の域を出ない。まして、冬山へのチャレンジなどおこがましくて語れたレベルではないが、それでも、夏、オーバーハングしているような岩を登ってゆく時、目前に生えた苔の緑の鮮烈な印象は、忘れることができないし、それこそ、生きている色だと深く魂に沁み入る思いはした。
海に関しては、プロになる為の学校を出ている関係で航海経験がある。北の海で嵐の中を航行し、船体が木の葉のように突き上げられては、十数メートルも落下し、その度ベッドに叩きつけられたこと。鼠が残っていたので船は沈まないと安心はしたものの、ビルジキールがギシギシと音を立てて歪み、船体がバラバラになる前兆のように思われたことなど、自然の前で人間の力などいかほどでもないという事実を嫌と言うほど知らされた。だが、南方に向かって航海している時、普段、三角波の立っている太平洋が、ベヨネーズ礁に入った途端、油を流したようなべた凪になり、釣れる魚種も変わって不気味さを増した。この辺りは明神礁も近く海底火山帯がいくつもあるので周囲より深度が浅い。深さは3000メートル強程か。ベヨネーズを越え、小笠原を目指して航行している時、新月の晩があった。その夜、自分はワッチ(ウオッチの方が、正確な発音に近いが現場の発音はワッチである)をしていたが、余りに美しい星空に見入られてデッキの先端に立った。海と空の境界が曖昧である。空の領域には、満天の星海には無数の夜光虫、この時自分の感じたものは、宇宙の只中を唯一人航行している自分であった。
こんなことを思い出させてくれる作品。
満足度★★★★
初見
普段ギャラリーに使われているらしい小屋での公演だ。開演前、下手壁面には、恐らく無声映画時代の作品が映し出されている。開演後もこのスクリーンには、適宜、現代映画の場面などが映し出される仕組みだ。
ネタバレBOX
テーマはファシズムで、一番プリミティブな形である一つの価値への収斂と其処に属さない者を巡る物語である。具体的には、同一遺伝子から派生した総ての地底人から逃れ、地上に逃げて来た何百万人に一人の確立で生まれる突然変異体との確執に、地上人が巻き込まれ、結局は地底に拉致されて、何とか助かろうと足掻く物語だ。
シンプルな分、作品構造はしっかりしている。或る種の乾いた感性を感じるが、もう少し複雑にしても良いように思う。
満足度★★★★★
船戸さん追悼に相応しい質
初日を拝見。いきなり、この世界に引き込む序盤。この世界を知る者にはリアリティーを感じさせ、知らない人々にも興味を湧かせるであろう、虚々実々の世界を生身で生きる哀しさを描いた秀作。
ネタバレBOX
普段は、役者のことについて余り書かない自分だが、今回は船戸 与一さんの原作でもあるし、脚本で何処をどれだけ変えているかについては観てもらうことにしておきたい。ピープルシアター創立35周年記念公演の第一弾と銘打って催された今作、実は、客演が多い。その代わり、と言っては何だが、劇団を代表する役者、ミロママ役の二宮 聡さん、あばた面のガキと駆け落ちした熟年美女、勝代役の伊東 知香さんは不動にしても、いつも、役者魂を見せ、内容の伴った演技をして来てくれたサーシャ役の西丸 亮くんが今回も華のある演技を見せてくれた。彼の顔立ちが、オカマ役をやらせてこんなに美しい、とは思わなかった。普段、とても礼儀正しい、どちらかというと精悍な顔立ちの好青年なのだが、ホントにキチンと役を作ってくる良い役者である。客演陣も芸達者が揃って、下世話な雰囲気を盛りたてる。
私ごとで恐縮だが、銀座、赤坂も好きな街ではあるが、最近では妙に大衆化したと思っている。それに引き換え、新宿、池袋は自分の若い頃から現役のごった煮である。其処が良い。ガキの頃は原宿・六本木、外人しか来ない店だけが粋だった頃の恵比寿等でも遊びはしたが、自分には、新宿、袋が合う。丁度、パリのピガール界隈という雰囲気なのだ。粋な店もあれば、下世話な店もある。おまけに人情があるのだ。この点では、宿、袋、ピガールは共通している。そこで必死に生きるおかまたちの孤独を描いて見事である。
全体として、筋の展開、舞台美術・装置関連の手際など演出のバランスもとても良い。
満足度★★★★
レクイエム
この作品の作家のご友人が、この事件で亡くなっていると聞いた。自分の中学時代の親友も、時代のうねりの中で自殺を遂げた。大切な友を失った人間の一人として、喪心からお悔やみを申し上げる。
ネタバレBOX
御巣高山の日航機事故は1985年8月12日に起こったことになっている。然し、この事件には、実は多くの謎がある。日本の空域の多くで最優先の管制を敷いているのは、日本ではない。在日米軍だ。こんなことは、植民地である日本の常識だから、知らない日本人は、少し自分の来し方行く末を見直してみる必要がある。今作の中でも出てくるが、この事故機は32分もの間、ダッチロールを繰り返していたと言う。その間、彼らの機が飛んでいた空域で横田との交信が何度も行われていた。因みに横田ラプコンは、嘉手納ラプコンと並び称される、在日米軍の管制支配空域。事故機は、事故を起こす前、この空域を飛んでいたと思われる。因みにこの空域は、米軍機の飛行を最優先として設定されているので、日常的に日本の飛行機は、無駄なエネルギーを使うことを余儀なくされるばかりではない。自由になる空域が異常に狭い為、ニアミスや急旋回、急上昇などが原因で、航空機機体・乗客・乗員に多大の不要なストレスを余儀なくされているのである。而も、この問題を調べている間中、ブラウザが、内容を表示できないとか、内容のあるべき場所に調べたい内容とは無関係の広告がたくさん張り巡らされて目的の情報に辿りつけないとう状態が続いた。だから、自分は他の方法で情報の一部に辿りついたのだが、無論、まだまだ納得のゆくものではない。但し、取り敢えず、その責任は、邪魔をしている誰か、人々の苦しみを創り、それらを暴こうとする者を滑稽なピエロに仕立てあげたり、大衆の敵と思わせることによって自己保身を図り、自らの延命を図る下司共にある。(その下司共の一味に安倍 晋三も属しているだろうし、日本会議に所属する多くの議員も属しているだろう)
ところで、この事件(政府は事故だと言い張るだろうが)に関しては、様々な疑惑が語られている。戦闘機によって撃墜されたとか、自衛隊特殊部隊の隠れ基地がこのエリアにあったとか、自衛隊機が随伴して飛んでいたとか、これらの秘密を隠す為に、事件はボイスレコーダーのデータを含めて改竄された等々。調べる過程で以上の情報が細切れに入手できた。
満足度★★★★★
日本が良く描けている
シナリオは良く計算され、導入部のアットホームな雰囲気から雨漏り事件を経て、中盤、終盤のクライマックスへ登り詰め、潮が引くように収束部に向かって収斂するという構造。
明日14日が6月の楽日なので本日はこれまで。追記後送にゃ~~~~~~~っち。
ネタバレBOX
舞台は鳥料理屋二階の座敷である。階段を上がった奥が舞台空間、手前が客席。本物の日本家屋の間取りになっているのが、如何にも自然な感じを齎し効果的に使われている。もとより屋敷内は女性の活躍して来た場所であるから、女ばかり四人の出演陣も自然なキャスティングだ。
設定を明かすと、実は、母の七回忌を明日に控え、姉妹四人が久しぶりに集まったのである。この集まり方も上手に計算されている。三十四歳の長女は、飛行機で北海道から飛んで来た。彼女は20時過ぎに到着。11歳9カ月で初潮を迎えた娘と男の子が居る二児の母である。迎えたのは現在、父と一緒に暮らしている三十一歳の二女。勤めをしているが、結婚はしていない。暫くすると三女がやってくる。アーティストなのでフォーマルな服装は用意していない。色は黒なのだが、腰には金属製で金色のベルトを巻いている。二十八歳で抽象画を描く美術教師と結婚している。夫は、油絵画家であり、紫に拘っている。服装は、七回忌だし、長女、二女はフォーマルだし、三女はアーティストだから、いっか、という話になった。22時間近になって漸く四女が帰宅。残業が多いのは、無能な上司の所為だ、と嘯く二十四歳。彼女は冬から家出中なのだが、ベッド以外は殆ど荷物を残したままなので、年中戻って来ては必要な物だけ持ってゆく、というちゃっかり娘の甘えん坊だ。四人が揃う間に、こんな具合に其々の性格や職業、現在の暮らし向きや幸せ感などが伝わる自然なシナリオが優れているばかりではなく、各々の個性を活かした演技、演出も勘所を弁えた上でさりげなく振る舞い頗る良い感じである。長女の化粧道具を末娘を除く皆が使ってああだこうだというシーンが入るのも、如何にも女性の暮らし向きが出ていて良い。ひとまず、全員のプロフィールが観客に知れ渡ると、事件が起こる。ところで、今回は梅雨バージョンなので活けてある花は、無論、紫陽花。切り花にするには、どうするかもちゃんと教えてくれるし、紫陽花は、多くの花言葉を持つ花でもあるので調べて愉しむのも面白かろう。因みに部分的に毒も持つ。
満足度★★★
訴えるものが弱い
折角、江戸時代の被差別民を描くのだから、もう少し現代の被差別と絡めてシナリオを書いて欲しい。エンタメ即ち無毒では、余りに寂しい。まして、現在の日本政治は、アメリカ人ジャーナリストをして、キチガイ沙汰と言わしめるレベルのものである。庶民の視点を映すハズのエンタメに毒が無くて良い訳はない。(追記後送)
満足度★★★
舞台とは何か
元女優の冴子は離婚後、娘のみちると共に再度女優を目指してそれ迄住んでいた町を離れ上京した。
ネタバレBOX
元々、実兄が、脚本家であり、親友は、兄の妻になっている。それで早速オーディションを受けるがバツ! 兄の家で大きな劇場のプロデューサーをしている五月と会ったが、彼はみちるをキャストに加えたいと言い出した。
出演作は、南北戦争当時のニューイングランドで暮らす牧師一家の物語『小さな貴婦人たち』。父は、従軍牧師として奴隷解放を唱える北軍に出征。銃後を与る妻と4人の娘達の物語を約1カ月後に迫った公演迄に完成させる過程が今作の主眼である。従って、舞台の稽古が描かれる。当然、演出家対役者、映画対舞台と映画俳優と舞台俳優との意識の差、タイトな日程で本番に臨めるのかという役者心理、アクシデントと対応、上演中止危機も含めた鬩ぎ合い、舞台芸術とは何かに対する考え方の差、そこから来る方法論の差等々が俎上に上がり、解答が見付けられてゆく。この過程が実に興味深い。芝居の初心者は、どんな具合に舞台が作られてゆくのかを体感できるだろう。
満足度★★★★
タイトルに惹かれて拝見した
が、「L’Empire des signes」がいきなり出て来たのには正直ちょっと驚いた。
ネタバレBOX
自分が若い頃に読んだ本だったからでもあり、まさか、今の若者がバルトを知っているなど、夢にも思わなかったからである。今作では、この本の指摘する中で最もインパクトが強いと思われる部分を冒頭に挙げる。即ち“中心の空虚”である。東京の中心に位置する皇居は空虚であると指摘しているのだ。バルトは、日本の特徴をこの空虚に観、また可能性を見出している点もあるようだが、空虚であることが、一般性を持つのであれば、それは、如何様に解することも可能なハズである。
今作が、自分が懸念するニヒリズムの肯定に結び付くのであれば、これは、哀しいことだと言わねばなるまい。日々、安倍のようなポチが、アメリカの指示通りに日本を作り変えてゆく中で、凡人16号が、唯一度、トドとキャップとの競争に負けたからと言って、その後、自己変革の努力もせず唯唯諾諾と彼らの侮りを肯んじ、指示に従うだけ、というのは、余りにスタティックで変化という大切な要素を見落としたまま、世界を測ったつもりになっているように思うからである。作者及び演者は若い世代に属するようだが、自分達の非力のエクスキューズとして今作を提示しているならば、寂しい限りである。
一方、以上の指摘が、残念なことに正鵠を射ているならば、そうでない生き方を提示して貰いたい。その期待値を込めて★は4つ。
満足度★★★★
ポテンシャル
元々はパート1だけの作品だったのだが、この辺りの経緯はご存じの方も多かろうから略す。パート2、3を加えて序破急の構成を為した。元来、ボス村松氏は、知的な内容が書ける人であるにも拘わらず、内的な照れなどから、書いてこなかった部分がパート2に集約的に現れて、展開を膨らみのあるものにしている。終盤は、無論、結末に向かって収束してゆくので安定感のあるものになり、作品としても纏まった。ポテンシャルの高さを見せつけてくれる作品としてマークしておきたい。今後の作品への期待度もアップする作品である。(追記後送)
満足度★★★★★
流石
この劇団の質の高さは並大抵のものではない。主演女優を務め、演出も手掛ける秋葉舞滝子さんの能力の高さは無論のこと、今更言う迄もあるまいが、横田雄紀さんのシナリオの素晴らしさと相俟って存在感と技量のある役者陣の活躍で観る者を唸らせる。(追記今回は早くも再々演のお願い)
ネタバレBOX
早くももう一度観ておきたい舞台なのだが、残念乍らライフワークの集まりで伺えない。東京再々演を早くも望む次第である。
満足度★★★★
20回公演おめでとうございます
日本社会を特徴づけるのは、principleの無さであろう。(追記No.1 2015.6.24
) 劇団“光希”は、最も信頼している劇団の一つ。だから、社会の鏡として拝見している部分があり、その鏡が日本を表すならば、ということで今回このようなレビューを書かせて頂いている。その追記1である。2迄で完結するかどうか分からないが、2は近い内に発表する)
ネタバレBOX
中国、イスラム諸国、インドや欧米とは決定的に異なり、行動を規定する原理原則が欠如しているのが、この「国」の特徴である。即ち、ここに欠如しているのは、決定的孤独でもある。自らの存在の下に広がる無限の空洞或いは無を意識した上で、我は何処から来て何処へ行くのか、という根本的問いを対自的実存レベルで問うことのできない不完全な人間が圧倒的に多い、ということをそれは意味する。
では、principleの欠如する社会ではどのようなことが起きるか? 原理原則を打ち立てることが出来ないから、哲学とリンクした数学も論理学も生まれない。結果、原理原則は年を追うごとに成立する条件から遠ざかる。そして、明確な判断基準を持たぬまま、社会維持の方法として優しさを演ずることや他人の心情を慮る技術ばかりが発達する。それの出来ぬ者は、沈黙に身を浸す他は無くなる。この為に、人々は、個人を持たず、謂わば鵺の集団として現れることになる。今作は、20回公演を迎えた劇団光希が、この集団、日本とそこに暮らす個々の鵺的人々の気持ちの慮りに焦点を当てた作品である。
物語は、時田組という工務店を中心に展開する。当然飯場 の仕事が多いが、河川の増水時には、補修等も行う。町場職人の親方の家の話である。修は男の子には珍しく大のお父ちゃん子、この家の長男で末っ子である。而もちょっと知恵遅れだ。
ところで、今作、オープニングがちょっと変わっている。通常、オープニングで舞台が明転すると、役者が板についているものだが、今作では、ピンスポの当たったエアメールの封筒が照らし出されるだけで、後は、音声が流れてくる。そして、薄暗がりの中では、増水した河川の氾濫を防ぐための土嚢を積む作業が行われている。ゴリラのような体躯をした親方は、土嚢が30体ばかり足りない、と補充指示を出した。
再度明転すると3年後。時田組事務所である。現場が中止になった為、古くからの職人コウさんと二女で社長の直ネエが朝からビールを飲み始めた。中止の指示をキチンと聞いていなかったマイが若手のアキオとやってくる。(以下追記No1にゃ~~~)他の組から手伝いに来てくれているタケさん、長女で建設重機のオペを担当しているマリねえ、他に出戻りで事務を担当する三女、ミコねえ、更に3年ぶりに借金を精算して戻って来たケイゴ。OL時代会社の行き帰りに見掛けるナオの仕事ぶりに憧れて転職した変わり種のマミも入社した。現在では飯場での請負仕事を務めるこの工務店で働いている。劇中にも喧嘩になりそうなシーンやイザコザが描かれているが、実際、喧嘩は日常茶飯事であった。今でこそ、ペナルティーがきつくなって現場での喧嘩は随分少なくなったが、筆者が職人をしていた頃は、組織に入っている者も多かった為、刺青を入れた連中と年中喧嘩になったものである。互いに獲物は持っているから、ヘタを討てば命を獲ることにもなりかねない。実際、二十数針縫うような大怪我をした奴も居た。こんな喧嘩が年中起こっていたのも、一つには、絶対的なルールが無い為にアナーキーな状態が日常的だったことも影響しているかも知れない。何れにせよ原理・原則が自らの精神の内側から己を監視するような世界観を、日本人の殆どは持っていないのではないだろうか? その代わりと言っては何だが、日本人の内側にあるのは、他人の目である。相互監視は、江戸時代の武家諸法度を始め、禁中並公家諸法度、寺院諸法度等での統制の他、民衆支配には五人組が用いられ、相互監視と連帯責任とで民衆を縛りつけ、自由と自由を求める発想・行動を著しく制限した。因みに現在も続けられている回覧板による相互監視制度へ繋がる制度であり、戦中は隣組として機能していた。日本人が、敗戦後自らの主体的責任を自ら問うことが出来なかった理由は、自らの判断と責任に於いて何事も為してこなかったという「事実」にあるのかも知れない。そして、この思考に於ける主体の喪失こそ「表徴の帝国」でロラン・バルトが指摘した意味の喪失、即ち空虚という名の中心だったのではないか? 無論、仏教の第八識を持ち出して、それを中心に据えようとする発想はあり得る。然し、日本の仏教の多くは既に形骸化し、そのように深い主体・抽象的な主体を護持し得るものとは既に言えまい。従って、日本人の大多数を占める大衆は、この空虚を中心に据えることによって一種の自由を得ると共に無責任な体系を甘受したのである。
一方、このような条件下で、もう一つ働く力が人情である。そして、今作の描く中心、即ちもう一つの柱が、この人情なのである。然し日本社会の持つ、自らが絶対と対峙した実存として判断し結果責任を負うということができないこの特殊構造性が、またしても中心に空白を産むことになる。それは、修に父の死を隠し続けてきた事実であった。今作では、実は修は気付いていたのだが、姉達への気兼ねからそのことを言い出せなかったことになっていて物語としては一種の救いに繋がってゆくのであるが。
以上の事を更に突き詰めてゆくなら、責任の曖昧化は誰でも気付くことができよう。原理的に主体が確立できないのであるから、責任主体も生まれるハズが無い。人間という発想も生まれない。そもそも、我々の認識は、比較によって生まれる。人間に対するものは、神の概念であったり、絶対の概念である。それに対して、人間は、ヒトという対置概念を設定することができるのだ。このように設定すれば、相対VS絶対、それらの相関関係を通して関係の概念を打ち立てることができ、そこから、様々な原理原則を打ち立てることができる。無論、この根本の中には、其々の要素を相互作用させる運動やエネルギーという要素を組み込むこともできよう。
然るに、我々の暮らす日本では、自分の頭で考えられたこれらの基礎が無い。そのことを人々は感じているが、その原因の究明については力不足であり、もとよりそのような事を追求する覚悟もしない者が殆どである。通常、主体が無いのに、そんな覚悟ができるハズが無いのである。だってそんなことをすれば、狂うか自死するか或いは長い不毛の旅をその精神の領野に過ごした後に息絶えるか、途中で耐えきれなくなって犯罪者にでもなるか、長い苦しみに耐え終に発見者となるかしか、道は残されていないからである。そして、発見者になる確率は、実に低い。
ところで、憲法審査会参考人三人が全員安保関連法案を違憲と断じたことに対し、自民党副総裁の高村 正彦が「最高裁が示した法理に従い、自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者でなく政治家だ」と反論し、合憲を主張。憲法の番人は、最高裁判所であって、憲法学者ではない、と言明したことを“異様”だと感じた向きは多いのではなかろうか? 無論、異様だ。何故なら、高村の言っている法理の一方は、安保法の体系であり、他方は、憲法体系の法だからである。敢えて混同しているのであれば、その拙劣な欺瞞は、政治家の名を汚すものであるし、意図的でないとすれば、政権与党の副総裁ともあろう者が、この程度の認識も持てないとは恐れ入って二の句が継げない。
では、その法理とは何かを明らかにする前に、審理された事件は何であったかを今一度キチンと整理しておきたい。この事件は、米軍立川基地の飛行場拡張の為の測量に反対して1957年7月8日に立ち入り禁止の基地内に数メートル入ったとして労働者、学生7名を安保法体系に属す刑事特別法第二条違反(1年以下の懲役または2000円以下の罰金もしくは科料)と検察が主張したことだった。ところで立ち入り禁止区域に入ったことは、憲法体系の法ではどのように訴追するのだろうか? この場合は、軽犯罪第1条32号“入ることを禁じた場所に正当な理由がなくて入った者”(拘留または科料)に該当する。為された行為は同じでありながら、日本国内で異なる法理が適用され、米軍基地に入った場合には、より重い刑が科されること自体、日本国民の法益より米国の法益を重視するという主客転倒した法処理である。このような矛盾を解消し安保法体系より憲法体系を優先する至極真っ当な判断を下したのが、東京地裁の伊達判決であった。この判決は、検察官主張の刑事特別法より、憲法31条の“どんな人でも適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないことを保証する”ことに準拠、憲法を基準として安保法体系を違憲無効とし2つの法体系併存を否定しようとした判決であった。当然、その根底には、米軍駐留は、憲法9条違反という判断がある。(最後の段落については記述に「検証・法治国家崩壊」創元社刊を参考にさせて頂いた。)
満足度★★★★
はこ
オープニングの科白、間の取り方に難あり。間の抜けた物言いに、興味が一気に白けてしまった。 特に”的な”などの一連のこの劇団独自の大切なハズの科白に、役者のヴィジョンが感じられなかったのは、問題。
ネタバレBOX
ある朝、クルイドダイナミクス社の社員食堂には、手足の無い遺体が置かれていた。一人だけ集合時刻に遅刻してくる派遣労働者がいる。名をオウスマコトと言う。派遣会社の連絡ミスが原因だが、彼が到着するまでに、殺人犯は彼だとの疑いが掛けられる。何故なら、彼と被害者は、何度も喧嘩している姿を同僚から見られていたからであり、つい最近も「殺してやる」というマコトの発言を聞いた者があったからである。SNSによって情報は瞬く間に拡散され、偶々、別件で取材に入っていたメディアのスクープとしても報じられることになって、結果、彼は、真犯人として追われる羽目になった。彼は、職場内で付き合いのある彼女の「逃げましょう」の言に従い彼女の手を取って工場の食堂から逃げ出す。然し、ニュースの流れる中でも、肝心な所になると、意識障害でもおきたように雑音や乱れ、頭痛などが起こって情報は伝わらない。ニュースの流れる度に、このようなことが起こる。二人は何とか逃避行を続け、途中でヒッチハイカーを装って夫婦者と彼らの車を支配下に置くことに成功、夫妻と共に隣国へ忍び込むことに成功するが、そこで明かされるクルイドダイナミクスの秘密は、其処で作られているのが、何かであり、誰が何の目的でそんな物を作り、人々に供与しているのかについてであった。最後の最後に、マコトの真の姿と彼の為してきたことが明らかにされる。
因みにここで言及されていることは、フィクションであるが、似たことは、現実にアメリカのペンタゴンとウォールマートが組んで本当に実現しようとしていたプロジェクトに現れている。そのプロジェクトとは、人体にマイクロチップを埋め込み、其処から発信されるデータに基づいて埋め込まれた人間の位置、移動等のメタデータを衛星を用いて得ることであった。此処まで、小型化はされなかったものの、性犯罪を犯したことのある人間の体に鍵付き発信機を取り付けて監視していたことがアメリカで問題になったことはある。無論、この時にもメタデータが収集されていた。
今作で描かれている世界で人体に埋め込まれているのは、LC即ちliquid computerである。目的は、埋め込まれた人々の操作である。無論、情報操作、感情操作等を含む、為政者に逆らわせない為の操作総てである。これは、他人事ではない。日々、この植民地でアメリカとその手先によってTV、出版物などのメディアを用いて行われていることである。その点を喚起することこそ、今作の意味だと解釈した。
但し、演劇的には、今回、スターシステムに乗っかって初演の時のような緊迫感も無く、役者も主人公の演技レベルが低い。良かったのは、彼女役の方である。マイクを装着しているにも拘わらず、高円寺1のキャパを充分に計算しているとは言い難い演出で、科白が聞き取り難いシーンが多すぎる。演出家はイギリスに行っていたようだが、シェイクスピア俳優の演技力と日本の役者の演技力の差をキチンと計算しているとは思えない。猛省すべきだろう。折角のシナリオが泣く。
満足度★★★★★
今作の特徴
朧の現在迄の最高傑作との評価が高い今作だが、メンバー5人の個性表出、身体表現上の特徴・特性の活かし方に於いても出色の出来であることは間違いない。思えば、今作の初演が朧の名を一躍有名にしたのである。廃工場を会場にした公演は、日本では驚くべき効果を齎した。自分は初演を観た時、フランスの映画監督、脚本家のレオス・カラックスのテイストを思い出した程である。(追記後送)
ネタバレBOX
実際、今作のテキストは、良かれと思って為したこと、選んだこと自身、非難されるべきではない人間的行為・選択が、否応も無く取り返しようのない結果を産んでしまうことをテーマとしている。その悲劇の本となった人間的行為は、愛であり、取り返しのつかない結果は宿命と言っても運命と名付けても構わぬ。だが、気付かないだろうか? このような劇的構造こそ、ギリシャ悲劇の傑作を特徴づけるものであることに。
前半部のファンタスティックで幼児的とでも評したくなるような、甘いテイストは、中・後半へのプレリュードを為し、その終盤部で明らかになるように対比を為している。即ち、序盤の甘さと中盤から終盤迄の苦さは、シナリオ自体が対比構造を為すことによって相互に反芻し合い深め合う相乗効果を観客に齎す仕組みになっているのだ。この点も傑作を特徴づける大切な要素である。
満足度★★★★★
standing ovation
バッハ、ベートーベンと並び称されるドイツの名作曲家ブラームス。シューマンに認められ、一日にしてスターダムにのし上がった彼は、その美貌と才で著名なシューマンの妻、クララに強く心を惹かれる。ところで、偉大な作曲家として知られるブラームスのファーストネームは、ヨハネス。彼には弟が一人居た。(追記後送)
ネタバレBOX
弟のファーストネームは、フリッツ。この物語の主人公である。兄弟共に、音楽家を目指していたが、弟はハンブルグで漸くコントラバス奏者の地位を得た三流音楽家の父の血を強く受け継いだためか、作曲の才能は、まるでなかった。一種の欠落傾向を持っていたのである。その傾向とは、それと知らずに盗作してしまうことにあった。一方、ヨハネスの才は、ロマン派的傾向を多分に持ちながら、古典派的に規則内での自由を求める傾向にあった。無論、それでも彼の才は図抜けていたし、それを最初に認めたのが、シューマンだった訳だ。然し、そのヨハネスにも矢張り欠落があった。人情の機微に極端に疎かったのである。その為、友達もおらず音楽しか無かった。逆にフリッツは、この面では非情に優れ、誰からも好かれ、友達も多かった。彼を慕うナターシャも居る。
兄弟は互いの欠落を埋め会うように、故郷を離れて、同じ町で暮らしていた。舞台が設定されているのは、彼らが毎日通うバールのような店である。この舞台空間の奥にオーケストラが控え、下手にグランドピアノと弾き手が居る。舞台上では、通常の演技と共に、オーケストラ・ピアノの生演奏を背景に声楽家が歌い、バレエダンサーが踊る。何れも非常にレベルの高い面々。これらの要素が見事に演技とコラボレートして観客を楽しませてくれる。因みに東京イボンヌは、演劇とオペラやクラシックコンサートを融合させた新ジャンルを上演する為に、主宰の福島 真也氏が立ち上げた劇団であり、今回が9回目の上演である。
満足度★★★★★
ヤマトンチュー分かってるのか?
米軍上陸後の沖縄戦で何が起こったのかを戦争を知らない世代が資料と想像力を用いて描いた映画を作ろうとしている。これが設定である。
ネタバレBOX
日本は、ポツダム宣言を受諾してから、占領軍が、進駐してくるまでの間2週間程のタイムラグが在った為、軍、官、企業等で戦争を推進していった連中に不利になるような物は、未だ機能していた軍、官僚機構や役所の通達によってその99.9%が焼かれた。その規模は、どれほどのものだったか? 日本全国津々裏々で空が黒くなるほどの量の書類が焼かれたのである。従って安倍等が証拠が無いから~が無かったというようなことは、何の意味も無い。彼らこそ、それらを焼いた連中の直系の末裔であり、未だに彼の祖父岸 信介がCIA資金を受けていたと同じくアメリカから情報、サジェスチョン、活動の便宜、敵対者への脅迫や実効支配の為に為される様々な事象で援護を受けているとみられる。(犯人の決して上がらない事務所放火や家族・親族への脅迫など)が行われているという話はジャーナリストの間では公然の秘密である。そして、それは、簡単に行えるのが実情だ。アメリカは軍務とさえ言えば、日本への出入国はノーチェックで可能だからである。従ってスパイであろうが、殺人・特殊任務を旨とするアメリカのテロリストであろうが、出入り自由、日本側は地位協定の定めにより一切関与できない。験に、外務省に現在、日本に海兵隊が何人いるのか実数を訊ねてみるがよい。彼らは正確な数(実数)など答えられない。アメリカの言っている数を繰り返すのみである。これが、独立国だとでも言うのか? 臍が茶を沸かす。
先ごろ、ニュースでも報じられたが、総務省が、選挙公約を削除していた話である。これらの情報を阿保としか言いようの無い官僚共は、自分達の物として勝手に処分してきたのであるが、彼らの給与も、これらの情報を作る為の資料等も総て国民の税によって賄われたものである以上、国民の財産だ。これらを勝手に処分するなど、無論、犯罪である。先ず、国民の財産を盗んでいる訳だし、それを勝手に廃棄してきたのだから、証拠隠滅やその他の罪に問うこともできよう。ことほど左様に、この国の官僚共は間が抜けている。国民もこんな阿保な官僚を奉ってはいけない。そも、東大のランクなんか世界のトップ10にも入れないどころか20位にすら入っていないのだから。せめてMIT、スタンフォード、ケンブリッジと肩を並べるようでなければ話にならない。
今作から話が逸れたが、大切な点は、沖縄が日本で唯一地上戦が闘われた地であり、作家は、現在も戦争は続いていると認識している点である。小学生の女子生徒が米兵に集団レイプされても、アメリカ国内の法で裁かれるより遥かに軽い刑で済まされ、米兵軍属の悪戯で沖縄の人々が怪我を負ったり、亡くなり掛けるような事件も起きる。僅かに返還された土地についても、米軍は一切除染をしない。銃剣とブルドーザーで県民の土地を奪い、勝手に基地を作っておきながら、返還に際して自分達が汚した大地、地下水などの除染すらしない。どういうことだ? 無論、レイプも多い。ただ、強姦罪は申告罪である為、殆どの犠牲者が泣き寝入りをしてしまう。レイプされた上に、その「恥」を晒すことになるからだ。また、ベトナム戦争や湾岸・イラク戦争、アフガニスタン攻撃などでも沖縄から、多くの米兵が出撃している。日本の0.6%の面積しかない沖縄に米軍基地の74%が集中している異常。沖縄国際大学に墜落したヘリの事故処理は、米兵が日本人をシャットアウトして関与させず、ストロンチウム90が飛散しているのも知りながら、現場を封鎖、事故機体及びストロンチウム90が飛び散って汚染された周辺の土壌などを持ちさり証拠隠滅を図った。この事故の際も、報道陣を暴力で追い払い、取材の邪魔をした。民主国家を標榜するアメリカとは、実に偉大な国家である!! 世界中に基地を置き、現地女性をレイプしては基地に逃げ込んで本国に帰って知らぬ顔をする。レイプばかりではない。殺人も然りである。これらは、異常ではないのか? 狂犬国家ならいざ知らず、民主主義の模範を標榜しつつ、このようなことを日常的に繰り返して、キチンと罰せられないことは異常ではないのか?
現在、横田にオスプレイが飛来することでヤマトンチューが騒いでいるが、米軍は、どこでも飛行できるし、何処でも基地にできるのが、地位協定なのである。日本人の敵はアメリカであることを先ず認識する必要があろう。
沖縄は裕仁によって棄てられた。そして施政権を持てない体制を余儀なくされた。その間に島民の多くが捉えられ、彼らの土地が勝手に基地にされたり、銃剣とブルドーザーで基地にされたのである。これは歴史的事実である。
何かというと“平和ぼけ”と逃げを打つヤマトンチューの卑劣さが顔を出す植民地で、この異常を異常として認識できているヤマトンチューがどれくらい居るのか、と問われれば甚だ心もとない限り、と答えるしかなさそうである。但し、翁長知事の頑張りもあって、辺野古基金の7割は、大和から送金されているというから、少しは、気付いてきているのかも知れないが。辺野古同様、大変な闘いを強いられている高江のことが語られないのは何故だ? というような疑問も含めて破綻のある演出を敢えてしているように観た。作品としての纏まりや展開を敢えて損ない、観客を単に観劇して愉しむ主体から内部に不如意を抱え、不愉快を内面から味わう主体へ転ずる。この技法によって現在、ウチナンチューやシマンチューが、アメリカによる植民化とヤマトによる植民化という二重の植民化の下で喘ぐ不如意やデペイズマンを追体験させられるのである。
この効果を予め狙っているとしたら、実に鋭い見事な演出と言わねばならぬ。
満足度★★★★★
今後もシミタノ
青春物が多いアナログスイッチだが、意外と懐が深い。
ネタバレBOX
というのも作家は26歳の誕生日を迎えたばかりだし、ギャグも笑いの本質に根ざした箍を外すという原点から作られている為わざとらしさが無く、品を欠くことが無い。今作が、東京と地方に纏わることは、敏感な観客には、直ぐそれと知れよう。タイトルに含まれるI,U,J其々が、Iターン、Uターン、Jターンを表すであろうことは、容易に推測できるからである。無論、タイトルには他の意味も含まれている。愛に纏わる話題でもあるし、嫉妬に纏わる話でもあれば、友人・友情に纏わる話でもある。これらの問題が都会と地方、殊に過疎に悩まされる現代日本の喫緊の問題であるこの「国」の国家戦略、未来への展望、戦略・戦術と相俟って、現実に若者を食い物にすることで辛うじて成り立っているような情けない現実を背景に、失われてゆく大切なものと自分達の存立そのものの基盤、自己実現と社会との齟齬、それを内的矛盾として抱え込まざるを得ない若き日本人の日常を、過疎地にあるバンガローに集まった二十代中盤の若者の葛藤を通して描いた作品。
今後も楽しみな劇団である。
満足度★★★★★
熱く楽しい舞台
玉梓の怨霊に祟られたか、レビューを書こうとするとフリーズしたり調べ物ができなくなったりして、ここ数日を過ごしている。どうなっているのか原因は定かでない。何れにせよ、かなり厄介ではある。
ネタバレBOX
本論に入ろう。何時まで愚図愚図していても始まらぬ。今作は無論、滝沢 馬琴の「南総里美八犬伝」を下敷きにした作品だが、原作は、初出から28年がかりで刊行されたという長編物語である。江戸時代後期に発表された作品だが、現在では、古典と呼ばれても良かろう。ところで、古典と呼ばれるに至るような作品は、残らなかった作品と何がどのように異なるのか? それは、古典では人間が描かれているという点だろう。残らない作品には、古典ほど深く広い人間への省察が無いのである。余りにも当たり前なことを何故今更、と思う向きもあろうが、演劇のコンペに応募してくるような作品の中にもこの点を忘れている作品が散見されるからである。
その点、快賊船による今作は、南総里美八犬伝が、何故古典として生き残ってこれたのかが、実に良く分かる形で舞台化されている。例えば、八犬士の中でも最強の信乃が、玉梓にその精神を乗っ取られようとして葛藤する場面や当の玉梓自身が、怨念を持ちこたえる為に自ら必死に怨み辛みを鼓舞する辺り、更には化け猫退治に出掛けた後の父は、最早実の父ではないと感づいて居ながら、親の形をし、その役割を演じている化け猫との間に悶着は起こしたくないと悶々と悩む大角の姿など、イデオロギーや時代、国を越えた人間の姿が描かれているのである。最近では殊に酷くなったアメリカの、何でも“愛”にすり替えて自らの実際の姿を隠蔽するアメリカ映画、アカデミー賞の欺瞞などとは雲泥の差である。(ミュージカルでも「ミスサイゴン」ではトンキン湾事件や、枯れ葉剤散布によるダイオキシン汚染、カーチス・ル・メイの命令によるジェノサイド、米軍によるベトナム人への拷問、虐殺等々、アメリカの犯した戦争犯罪については一切触れられず、単なる恋愛問題に収束させる精神のオゾマシサを露呈している他、Wajdi MOUAWAD原作の“L’incendies”がアカデミー賞を受賞しなかったのは、扱われている問題が、パレスチナでありシオニズムの本質を抉っているからだろう。)優れた文化というものは、時代にも為政者にも大衆にも阿ったりしない。ただ、無私の精神を通してヒトの本質とその可能性について優れたヴィジョンを提示するのである。
今作でも、怨霊と化した玉梓に伏姫が、闘いの無い世を諭す。それは、逆説的に玉梓も述べていたことなのである。唯、玉梓の場合、それは、激しい怨念の為せる技であった。だが、物語全体の謂わば重石として機能しているのは、玉梓のこの怨念である。其処ら辺りが、凡百の駄作とは異なる点であろう。この肝心要の役、犬塚 信乃と玉梓は一人二役で金村 美波さんが好演している。ゝ大法師(金碗 大輔)役の清水 勝生さんの貫録もグー。
殺陣の多い舞台で動きもあり、休憩を挟みはするものの3時間をちっとも長く感じさせない。
満足度★★★★
チャレンジ
日常的にいくらでも転がっている事象に思い掛けない切り込みを仕掛けてくるフルタ丸だが、今作は劇団員6名のみで作られた物語。(追記後送)
ネタバレBOX
タイトルから誰でも察しがつくかも知れないが、どういうシチュエーションで、何処を舞台にするかで正否が決まってくるような難易度の高いテーマである。而も、6人で実質人数の足りない所をやりくりして、如何にも小劇団ならではの笑いも誘う。
満足度★★★★★
ゲネを拝見。
実にラディカルなシナリオを緩急程良く按配して劇的効果を高め、バランスの良い作品に仕上げている。ゲネを拝見した段階で噛むことも殆どなく良い仕上がり。また、両劇団共に、舞台の作り込みもしっかりしていると伺ったが、事前に相当互いに意見をぶつけ合ったのだろう。若干シンプルだが、本質を衝いた優れた舞台美術にも感心した。
満足度★★★★★
ゲネを拝見。
シナリオはラディカルで緊密感があり、弱者の弱みを逆用して力にする当たり、キリスト教の本質に近い。即ち、弱いが故に「正義」を持ち得るのである。この辺りの政治的判断が実に巧みに、実感を伴って表現されている点にこの作家の優れた資質が現れている。