ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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きみがみむねに

きみがみむねに

風雷紡

d-倉庫(東京都)

2015/08/13 (木) ~ 2015/08/18 (火)公演終了

満足度★★★★★

気に入った
 
 日本人が未だ廉恥という感情を持ち恥の意味する所を知っていた頃、歴史の流れに翻弄されつつ、当に十字架を背負って生きた清朝皇族、粛親王善耆の娘、男装の麗人とも東洋のマタハリとも呼ばれた貴人、川島 芳子。その哀れと知られざる真実に向き合おうとした作家、加賀美(表現する者)の業、それら人の魂を政治的に利用する下司共をリアルに描いて見応えのある舞台になっている。
 その模様は、義父であった川島 浪速に養子として迎えられたことになっているものの、その実、彼の玩具として与えられた人身御供であり、劇中、彼女が最も明かしたくなかった自慢の黒髪を切った原因として、浪速からレイプされたことが示唆されていることからも分かる。彼女はまだ15歳だった。養女として日本に来たのが8歳であるから、7年後のことである。日本人とは何という下司揃いであることか!
 ところで、芳子が蒙古族のカンンジュルジャップと一旦結婚していることは、今作では描かれなかったが、3年後に離婚した遠因或いは原因は、浪速にあるかもしれない。そうみるのは勘ぐりすぎだろうか? だが下司ならば、正式に結婚した女性だとて、分け隔てなどすまい。倫理的一線を越えるか超えないかは、本人のプライドに掛かっているからである。プライドの無い奴はどんな汚いことでも平気でする。
 芳子の写真を見ると、美人というより、可愛らしい女性という印象を受ける。既に亡くなったが、優れたノンフィクション作家であった自分の友人の印象にも重なる。恐らくデリケートで心優しい傷つき易い女性だったのではなかろうか?
 自分の印象が正鵠を射ているとは言わないが、自分自身で川島 芳子即ち愛新覚羅顯㺭のことは、調べてみたい。そう思わせるだけの内容であった。

MonkeyMagic

MonkeyMagic

TEAM空想笑年

中目黒キンケロ・シアター(東京都)

2015/08/20 (木) ~ 2015/08/23 (日)公演終了

満足度★★★★

初日を観劇


 西遊記を基本に釈迦は悟空に四つの物語を纏め上げることを命ずる。無論、西遊記の基本的約束事である三蔵法師に天竺迄お供し、大事な経典を持ち帰るミッションはそのままであるから、金角、銀角や牛魔王、その妻・羅刹女、息子・紅孩児は登場するし、彼らとのバトルも楽しめる。だが、釈迦に他にも三つの物語を組み入れて全部を纏めるよう命令されているので、悟空は四つの話にかかわり続けることになる。

ネタバレBOX

 難点は、悟空自身が、四つの物語統合の企画・制作に携わるシーンが一つも出てこない点にあるが、細かいことを責めるのは野暮というものだろう。汗びっしょりになりながらこの暑さの中、殆ど出ずっぱりで脱水症状を起こすのではないかとこちらが心配するほど、動き回っているのだから。それに高い身体能力の役者陣を揃え、動きの良さで飽きさせず、ドライなタッチで話を進めている点でも楽しめたのだから。兎に角、素直にエンジョイできる作品である。
第三毒奏

第三毒奏

劇団開花雑誌

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2015/08/14 (金) ~ 2015/08/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

大人なんかを信じちゃいけニャイ! ニャロメ! にゃ~~~~~~~tti

多大の戦費と孤児の大量発生に伴い、国家は、戦後スラムに孤児たちを強制隔離した。

ネタバレBOX

その後施設を作って孤児達を収容、非スラム居住者の為の食糧生産に従事させていた。無論、孤児達に教育の機会は与えられていない。それどころか、一切の人権を奪われ奴隷としてこき使われた上、20歳になれば、男女の別なく処分される運命が待っていた。大人達が始めた戦争によって孤児にされた最も弱い存在は、浮き上がる術も奪われていたわけだ。そんな状態でも施設を管理する大人達は、子供達に夢を見るよう勧める。無論、子供達もそんなミエミエの欺瞞にのる筈も無い。施設からの脱出を試みる者も多く、見付かっては、ミンチにされているようだった。何れにせよ、正確なことは分からない迄も殺されることだけは確実であった。だって、彼らは社会のお荷物でしかないのだから。だが、スラム出身者で施設に居る者の誰ひとりとして殺人だけは犯していなかった。
 然し、法律が変わった。殺人を犯した者も施設に入所できるようになったのだった。そして、この施設のリーダーであるタケが未だスラムで暮らしていた頃の兄貴分、桐也が入所して来たのだ。桐也は、音楽一家の長男で高等教育を受け、音楽や語学の素養も大変なものだったのだが、実家の父は狂死、母は有名な音楽家であった。然し母は、厳格で融通性が無く、天才ミュージッシャンである妹が、兄を慕う感性にも耐えられずに家を飛び出し、スラムに潜り込んで暮らしていたのだった。タケは、桐也から勉強を教えて貰い、舎弟となった訳だが、法改正後、施設に入所してきたのは「最後にしよう」と留守のハズの金持ちの家に盗みを計画した2人が、人が居るかも知れないと躊躇した時、クラシック音楽が掛かっていた為に狂気の発作に陥ったようになった桐也が人を2人殺した。而も、彼が殺人を犯した家は、方月家。娘の晴子と凛は、体の弱い母の薬を買いに行っていて留守だったもののその家に残っていた父母を惨殺したのである。姉妹が帰って見ると、父母は惨殺され、彼女らは孤児となってスラムに流れた。姉の晴子は、現在タケの彼女である。もう直ぐ20歳になる彼らは、仲間と共に一か八か、脱走を計画していた。処分迄1カ月しかない。
 晴子達は、父母の敵を見付け復讐する迄は死んでも死にきれない。そんな想いを抱えている。其処へ降って湧いたような法改正と共に桐也が舞い戻った訳だ。同時に殺人犯を施設で預かりケアし、自分達の出世のネタにしようとの目論見から、心理学者、施設長、施設長代理、刑事らがある計画を立てる。1年に一度、20歳になった孤児達を処分する権利を持つ一等監視管、東郷を除く大人達である。計画の内容は東郷を除き、現在休みを取っている施設長を含めこの施設に係る総ての大人が立てた計画であった。
 計画を成功させる為に、共謀した大人達は、タケを逮捕する。逮捕すれば刑が確定する迄は、20歳になっても殺処分されることはない。而も、世間の耳目をそばだたせる訳だから、現在行われている20歳で孤児を殺処分する制度を変えるきっかけにできる、と踏んだのである。彼らは当然、善人面ができ、その後の彼らの人生は更に輝かしいものになるとの計算からである。刑事は、タケは殺人に係っていなかったものの、桐也の共犯であることが分かっていることを証し、押し入ったのが現在のタケの彼女の父母の家であったことを知らせる。20歳で殺処分になることを廃止できるかも知れない、とタケは、自らが犠牲になることを覚悟する。
 一方、施設に残っていた晴子は、タケの舎弟格で15歳のデンに愛を打ち明けられる。タケも居ない中、近い内に間違いなく処分される心細い状況で過ごすうち、デンの侠気に少しずつ心を開いて行く。いくら気が強く男勝りに見えようと彼女も独りで重荷を背負うのはきつかったのである。デンは命を的に、彼女に結婚を迫った。彼女は受け入れる。
 だが、タケは取り敢えず生きたまま一旦、皆の下に戻ってきた。
 と恋の行方でも一波乱を含ませながら、物語は大団円に突き進む。関係する大人達は、20歳での孤児処分を良く無い、と声を挙げる為に、タケを逮捕して、犠牲になることの意味をタケに悟らせた上で、実際に人殺しをしていない彼を桐也の共犯としてクローズアップすると同時に、東郷に20歳になった孤児達を処分させることを通じて、この制度を改革することを目論んでいたのである。無論、殺処分当事者の東郷だけはこの計画を知らされていなかった。
 観客の中にも、殺処分反対とノタマウ彼らを観て善意の大人達と見る向きもあろうが、自分は、そのような解釈は拒む。これも無論、彼らの被った仮面に過ぎない。そして、この仮面を剥いで見れば分かることだが、その下には、また仮面があるだけである。更にもう一度剥いでも同じことだ。何と言っても既に彼らは仮面しか持たないのである。其処にあるのは利害だけで、真実などかけらほども無い。そのように取った方が、この作品の本質を、即ち、若者が大人達に向けた刃を受け取ることになろう。
 蛇足だが、本物のキャベツを何故使っているのか観劇中疑問に思っていたが、ラストに近いシーンで納得した。東郷に切り落とされた生首なのである。だから、作中でも踏み潰されたりする訳だ。東郷という名も無論、A級戦犯の東郷に係るであろう。尤も、東條と掛けて居るかも知れぬし、朝鮮から渡ってきた陶工の末裔の住むエリア出身であるから、その複雑な人生の一端を投影されているかも知れぬが。色々、考えることのできる作品であった。
気がつけば五・七・五

気がつけば五・七・五

試験管ベビー

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2015/08/15 (土) ~ 2015/08/15 (土)公演終了

満足度★★★★★

DARC
DARCという名を聞いたことはあるだろうか? Drug Addiction Rehabilita-
tion Centerの略である。

ネタバレBOX

要は薬中リハビリセンターである。世間はそう見るだろう。この言い方には差別が含まれる。そのことを言う側は、それだけの迷惑を掛けているのだから当然とするかも知れない。然し乍ら、そういう認識は果たして正しいか? 
実際、この施設でリハビリに励む人々を描いた今作では、収容される本人が、依存症とは病である、という認識を持っていない。即ち己の病に対し、差別する側と同様、無知なのである。その為、必要なケアではなく、何とかしなければ、自分の我慢が足りないからだ、堪え性が無いからだ、と無益な努力をした結果、その努力の苦しさや社会的疎外感など様々な要因からなる誘因に惹かれて再犯という形になってしまう。非情にデリケートで難しい問題であり、中毒者本人だけではどうにもならないのが現実なのである。
そこでDARCではグループセラピーを行っている。皆で病に係ることによって、自分の悩みが自分だけのものではないことに、収容者達は気付き、自分自身の位置をそれまでより客観化できるのである。無論、この変化は本質的である。何故なら、この事実に気付くことによって初めて、各収容者は自分が、皆の中でちゃんと生きているという認識を持つからであり、ヒトが社会的存在であるということの根本を知るからである。実存哲学的に言えば、キルケゴールが規定したように不安・絶望・孤独により自己認識が失われた状態からサルトルの言う対他存在への移行というコンセプトで説明できそうである。天才哲学者達が必死に考えて漸く発見したことである。そんなに簡単に分かることではない。だから、施設に入っても個人差はあるが、これが分かる迄に皆長い時間を要する。その間にまた薬物に手を出してしまえば零に戻るどころかマイナスである。だから、施設では「今日だけは、我慢しようね」と日々を1日ずつ乗り越えてゆくことを実践している。これが生涯続くと考えて貰えば、如何に困難な事か分かって頂けよう。その困難に真正面から取り組み、極めて深い認識と理解、そして丁寧で良く練られたシナリオ、演出、演技によって舞台化した実に良心的な作品である。
 
グローバル・ベイビー・ファクトリー2

グローバル・ベイビー・ファクトリー2

劇団印象-indian elephant-

調布市せんがわ劇場(東京都)

2015/08/08 (土) ~ 2015/08/13 (木)公演終了

満足度★★★★

アイロニカルに観ると面白い
 24歳で時価50億の株を相続した御曹司が、ミトコンドリアアダムならぬY染色体アダムを目指して奮闘する物語。

ネタバレBOX

全生命危機を招いたヒトに生まれて、尚且つ更に子を産もうなどと考える子供好きを自分は信じないが、そういうお目出度い未来信じることのできる輩のハナシ。
 自分は、そんなものを信じることが出来ないので、子供を作らずにきた。大の子供好きである。だが、際限もなく増え続ける食物連鎖最上位の生き物の末路が如何様なものであるかは今更言う迄もない。ダウンサイジングをしてこの問題を遥かな未来へ追いやるか、或いは、我らヒトの開発した核と共に、地球上に存在するありとあらゆる生命と共に滅びるか、或いは核核種の悪影響を無害化するなり、少なくともコントロールし得る技術を開発することによって、生存の可能性を広げるかしない限り、いつ何時我らの開発したものによって我らのみならず、地急上のありとあらゆる存在が駄目になるかの瀬戸際なのだ。このことの喫緊性に比べれば、大した問題とは思えない。とはいえ、面白く拝見はした。シリアスものとしてよりはアイロニカルな喜劇として。
イツモノコト

イツモノコト

演人の夜

笹塚ファクトリー(東京都)

2015/08/12 (水) ~ 2015/08/16 (日)公演終了

満足度★★

このタイトルに象徴されている。
そう感じさせる内容である。

ネタバレBOX

実際に起こった事件をベースに書かれたシナリオだというが、だとしたら事件の読み込みが浅いのではないか? 自分も若い頃、地域の住民運動に関ったり不良少年、少女の取材をしたりした上で記事を書いたり、本を作ったりしていた関係で殺人を犯した少年についてもマスコミ等には決して載らない事情を知っても居る。そういうアンテナにコミットして来ないのだ。また、自分自身、問題児でもあった。だから総てのケースを自分の問題として捉えうる、というようなお目出度い学者論理を捏ねるつもりも毛頭ない。が、矢張りコミットしてこないという印象が強い。真面目に取り組もうという“つもり”は信じたいだけに残念である。
 今作で頗る重要な意味を持つ主人公東雲役の黒い絵についても認識が浅すぎる。真っ黒な絵は、アド・ラインハルトの中心的なテーマの一つであり、世界の抽象絵画画壇に賛否両論の一大旋風を巻き起こしてもいる。
 まあ、知らないことは仕方が無い。然し、不良と呼ばれる程の子の感受性は、凡俗の想像の及ぶ所ではない。遥かに尖鋭的であり、痛みに満ちた鋭さを持つものである。その辺りの事情に疎いことが全編を通して伝わってくる。
またこの作家は、犯罪者或いは予備軍として、予めレッテル貼りをした上で登場人物達を創造しているように思う。親を殺すという行為は、無論、犯罪としては重大犯である。然し、殺されなければならないような親が存在することもまた事実なのである。自分が、実際見て来た問題では、子に問題が在る場合、その親にも同様の問題があり、更に祖父母にも問題があった。その確率は非情に高い。親殺しが実現してしまう為には、何らかのきっかけが必要である。今作で描かれたきっかけは、本当に近いのではないか? とは思うが、ここが光ったくらいだ。大抵は、親殺しという形では顕現しない。にも拘わらず、問題の根は同じなのである。その辺りの深い思索が感じられないし、共感も感じられない。問題に関らなければという空虚な“正義”のようなものが中心を為しているように思われるのだ。そんな表面だけなぞっても救わなければならない人々は決して近寄って来ないだろう。嘘がミエミエだからだ。もう少し、想像力の何たるかを学び直して欲しい。

糸、あと、音。

糸、あと、音。

時々、かたつむり

小劇場 楽園(東京都)

2015/08/13 (木) ~ 2015/08/16 (日)公演終了

満足度★★

突っ込み所満載
 時々、かたつむり。ということは普段ナメクジ? なのだろうか? ということはナメクジも一種のやどかり、ということになりそうだ。まあ、軟体動物であることは共通していそうだが、通常のヤドカリは甲殻類? だが、借りる家の元の住人は軟体動物。面白い関係だにゃ。

ネタバレBOX


 閑話休題。ところで作家のスタンスは、余り論理的な地平ではなくイマージュをベースにしているようだ。それで隋所に非論理的な箇所や、全体としてのリアリティーの欠如が感じられるのだ。まあ、作家のタイプだから、仕方ないとして、演劇としては、矢張り中途半端な作品にしかならないと思われる。何故なら、演劇がドラマチックである為には、鬩ぎ合いがなければならないのだが、イマージュは、曖昧化を本質とするのでドラマチックには決してならないからである。
 一応、それでも資本主義の喧伝するレベルでの夢心地や何やかやを語ってはいるが、本質的なものではない。無論、ハルカの指し示しているレベルも「2001年宇宙の旅」に於けるHALの位置にすら達していない。無論、ユイスマンスの「さかしま」のような痙攣が在る訳でも無い。シナリオの甘さが目立つ作品ではあった。
幻想時代劇 『阿弖流為-ATERUI-』

幻想時代劇 『阿弖流為-ATERUI-』

東方守護-EAST GUARDIAN-

新宿村LIVE(東京都)

2015/08/06 (木) ~ 2015/08/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

阿弖流為

 一般的に自分は英雄が嫌いである。Baudelaireではないが、英雄とは、自らの精神を大衆的次元に引き下げた者に過ぎないという彼の定義に賛同するからである。
 だが、何事にも例外はあるというではないか? 

ネタバレBOX


その例外のうち、阿弖流為は自分の最も好きなアイヌの英雄であるが、その武勇の誉れ、知略に富んだ闘いぶり、語り伝えられた謀殺による最後など、何をとっても悲劇の英雄の名に相応しい。その悲劇の英雄をピュアな形で頗る美しく舞台化して見せた東方守護の手並みに拍手を送りたい。
劇中何度も神子(みこ)という呼称が出てくるが、そう呼ばれるに値する高潔、優しさ、知、強さ、純粋性を持ったキャラクターである。と同時に唐から渡って来て坂上 田村麻呂に取り立てられることで不遇から脱した陰陽師のエボシのスパイという役目、即ち仕事として果たすべき役割と人として持つべき心に、魂を引き裂かれる有り様が哀れである。
By theway,振り返ってみれば、ネイティブアメリカンの自然観とアイヌの自然観は実に良く似ている。共に自然を友とし、自然の懐深く入り込んで生活していた彼らの人生観は、現代のエコロジーを遥か昔に先取りしていた。風や星、森や川の性質を良く知り、地の利にも長けた彼らは、シャモや命を救ってやった白人に母なる大地を奪われ、殺され、凌辱されて来た。居留地のネイティブアメリカンの悲惨な生活は、良いインディアンとは、死んだインディアンだと嘯く下司白人共、パレスチナ人をそう呼ぶ、イスラエルのシオニストの論理にそっくりなのも、我らシャモの末裔は意識しておくべきことだろう。
残念乍ら既に純粋なアイヌは滅びたが、それでも何度も多くの心あるシャモの末裔によってこの英雄が描かれ、語り継がれるのは、アメリカの阿保なWASPや、F1人災のようなケアレス重大事故を起こしてさえ、唯、湯を沸かす為に、地球上の全生命を危機に晒すという言語道断の決定を下す唾棄すべき下司共が今も為政者として、この植民地に君臨するからである。
従って阿弖流為とは、今後もシャモが汚さ、狡さ、差別者という非人間性を発揮するなら、その事実を映す鏡として、生まれ変わっては羽ばたいて欲しい不死鳥の如き英雄である。自分が阿弖流為好きで下司なシャモ嫌いなのは、以上の理由によるのかも知れない。無論、アイヌに対する差別意識は、沖縄に対する差別意識と同根であり、裕仁はこの差別に則って沖縄を見捨てていたのだという事実を重く受け止めねばならない。こういった事実を受け入れることが出来ないとすれば、其の時こそ、我らはシャモの末裔の一人として心底己を恥じる必要があるのである。
今作で阿弖流為の最後は、寄ってたかって襲い掛かるシャモに血祭りに挙げられる訳だが、彼の死に臨んで天井から羽毛が舞い落ちるのは、無論、偶然ではない。シャモは寄ってたかって崇高な神を殺したのである。
人が流されていく川

人が流されていく川

The Stone Age ブライアント

サンモールスタジオ(東京都)

2015/08/11 (火) ~ 2015/08/16 (日)公演終了

満足度★★★★

演出、演技論に徹底的に拘ってみれば大化けの可能性あり
舞台は終始川の土手で展開する。

ネタバレBOX

舞台奥が高く手前が低いちょっと変わったレイアウトで川の土手を表し、上手には、途中で寸断された木製の構造物が設えられている。これは、対岸へ向かって延びていた橋の残滓である。対岸は、無論、客席側になるので舞台上で描かれているのは此岸のみだが、対岸には缶詰工場がある。
 物語は、此岸にある施設に係る人々の話である。施設とは、生きていたく無い人を安楽死させる為の施設で福祉課の管轄であり、調剤指示を与える為の医師もいれば、ケアスタッフも居る。要するに体の良い姥捨て山の未来版であり、別にお年寄りのみならず、自殺志願者は総て対象になる。但し、一旦、安楽死を望んで施設に入った後、逃げ出して普通の生活に戻ろうとする者に対する世間の風は、犯罪者に対するより厳しく、住む所も仕事も見付からないというのが実情である。また、施設で働くスタッフ達も出来れば殺人に携わりたくない、と考えているというのが実情だ。
 然し、そんなことにはお構いなく、死を選択する者は後を絶たず、逃げ出す者も後を絶たない。今作が極めて特異な点は、ヒトは他人を見捨てて良いのか? という極めて素朴な問題を根底から観客に突きつけてくる点である。このラディカリズムが、通常の芝居によって演じられている所に、ありきたりな表現を見て仕舞うことも事実である。タデウシュ・カントルのように演じない「芝居」を演出した方が、より世界的な評価は受け易かろう。但し、日本の演劇界では毀誉褒貶甚だしかろうが、それだけの演出をしても耐えるだけの優れた問い掛けを内包したシナリオである。
Green(C)OPERA -グリーン・コッペラ-

Green(C)OPERA -グリーン・コッペラ-

劇団コスモル

OFF OFFシアター(東京都)

2015/08/05 (水) ~ 2015/08/09 (日)公演終了

満足度★★

う^む
今作のシナリオライターの主張は正論である。

ネタバレBOX

 環境に活かされていることに気付けない人間など、地球の塵、厄介者、デストロイヤーでしか無いということである。その通り。別にヒトなど存在しなくても地球上の生命はその命脈を保ってゆくであろう。逆にヒトこそが、地球上に存在しているありとあらゆる生命の敵でしかないのだから。殊に核を開発して以降のヒトは、最早後戻りも出来ない。放射性核種を無害化する技術を入手し、地球上に存在する総ての、ヒトの作り出した放射性物質を無害化することが出来ないうちは勝手に滅ぶことも許されない。最早、呪われた存在である。
 だが、此処まで考えを推し進めている訳ではない人々を相手に公演を打つのであるから、この「国」の90%以上を占めるであろう食べ物を大切にという発想を持った人々にも理解できるような論理を作中で描いておくことも必要である。例えば、リッツを頬張って吐き出すなどは、エクスキューズが必要になると考える。
 自分なら、ここで食べ物を粗末にしている訳ではない。そうではなくて、我々が普段活かされている環境で生きる他の生き物、野鼠であれ、リスであれ、その他、川の小さな魚であれ、この噛み砕かれた食べ物を食べる物があり、その小動物を捕食して生き延びる顛であれ、鼬であれ、梟であれ、森や川、湖や海に生きる生き物総てに連なる命の輪への供物である、位のことは書いておくべきだろう。ギリシャ・ローマに纏わる知識の蘊蓄など大した意味は持たない云々とアンケートに書いたのは、作品の主張と我らの生活が何らかの軋轢や葛藤を観客に起こせない時、知識には、大した意味などないということである。
 益々、世界の深みに分け入り表現の枠を広げると共に人々の心に深く分け入ることが出来るだけのノウハウを身につけて欲しい。
-奇譚-地獄たられば

-奇譚-地獄たられば

グワィニャオン

上野ストアハウス(東京都)

2015/08/06 (木) ~ 2015/08/09 (日)公演終了

満足度★★★★


 間の取り方がとても上手い為、作品に幅、深み、味が滲み出て上質なエンターテインメントになっている。音響の使い方、照明の用い方も内容にあった優れたセンスを感じさせるものであった。
エンタメであるから、無論社会を根底から覆すようなラディカリズムは潜むはずもないが、因果律が支配するその価値観は兎も角として、安心して楽しめるし、ユーモア、擽り、人情などがセンチになり過ぎない形で鏤められている点、全体の構成がしっかりしている点、2劇団のコラボ公演なのにバランスの良い点も光った。殊に、若いメンバーの多い“えのぐ”の役者達の柔らかな感性が、中年メンバーの多いグワィニャオンの中で強調される効果があったように思う。

ナチュラル灰色パラダイス~デルタウロスの再会~

ナチュラル灰色パラダイス~デルタウロスの再会~

かけっこ角砂糖δ

要町アトリエ第七秘密基地(東京都)

2015/08/07 (金) ~ 2015/08/09 (日)公演終了

満足度★★★

りアルの欠如した世界、日本
 リアルな現実は愚かリアルな感覚にさえ出会うことを失った世界は、メタレヴェルを如何に措定し得るか? 

ネタバレBOX

と悲痛な声が聞こえてくるような作品である。それはそうだろう。彼らの育ってきた環境で彼らの実存に親和的なものといったら、TVであり、ステレオや様々な機器から流れてくる合成された「音楽」であり、ゲームや資本そのものを喧伝するテーマパークとやらせばかりの真っ白に無菌化された嘘社会そのものだから。そこに深みも陰影もあるはずもなく、命の影さえ無い。即ち、予め死の排除された世界なのである。従って本物の生もない。
 都会でも数十年前迄、例えば東急東横線で多摩川の鉄橋を渡る時、かなりの人は窓外の景色を眺めていた。天気の良い日には富士も見えるし、丹沢の山々も良く見える。ここ数年は鮎すら戻って来たくらいで、川鵜や白鷺、季節によって鴨も多く見掛ける。温かい時期には、亀が甲羅干しに上がってくる。こんな姿が車窓から見えるのである。だが、現在、窓外を見るのはいつも自分だけである。殆どの乗客は、携帯を覘き込み、己の狭い世界に纏わる情報を飽きもせずにループし続けている。これが、現在アメリカの実質的植民地、日本の偽らざる姿である。実際、現在日本で進行中のプロパガンダは、G.オーウェルの「1984年」を更に進化させたものだろう。1984年で描かれている世界は、著者からも主人公からも嫌悪の念を以て迎えられているが、現在、日本の愚衆は、喜んでそれを迎えているのみならず、チンケで閉鎖的で閉塞的な自らの存在基盤を「補強」する為のコンヴェルサシオンの道具とすら考えているのである。愚か極まりない!!
 今作は、この現状に対する若者達からのクレッションマークだと考える。
 だが、先に書いたような状況に育まれた彼らが、どんな羅針盤も持たずにこの難局を切り開いてゆくことは、困難だろう。少し、ヒントになるかもしれない表現者、或いはグループの名を挙げておくとしよう。ポーランドのヴィトカッツィー(前衛三羽烏の一人)と彼の後継者、タウデシュ・カントル、そしてイタリアの映画監督であったパゾリーニ。日本では京都の創作集団で20年程前に「S/N」を作ったダムタイプなどは創作の参考になるかも知れぬ。
 

核の信託

核の信託

ぷろじぇくと☆ぷらねっと

新宿村LIVE(東京都)

2015/09/04 (金) ~ 2015/09/06 (日)公演終了

満足度★★★★

朗読バージョンを拝見
 本公演に先立って行われた朗読バージョンを拝見。本公演は、一般的な芝居形式で上演する。(念のため)
 アインシュタインらの訴えによって、アメリカは、原爆製造に手を染めた。所謂マンハッタン計画である。この計画は、大統領やごく一部の側近、情報組織、高級軍人を除いて秘密に行われた。集められた核物理学者達も、FBIから日常的に監視され、当局に反旗を翻せば最前線に送られた。
 だが、原爆製造に関わった物理学者の中にも、技術者として持つべき当然の倫理観を持つフェルミらのグループが居た。今作は、彼らが、その当然の倫理を果たす為に大統領に宛てた建白書を巡る物語である。(追記第一弾2015.8.8)

ネタバレBOX


 原爆のとてつもない破壊力とその悪影響は開発者には当然のことながら理解できた。無差別大量破壊兵器として機能すれば、それは、開発者の汚点にも、アメリカに対する信頼失墜にも繋がる。対日本戦にしても対独戦にしても、アメリカは、正義を標榜することができた。アンチファシズムで武装し、一種の救世主としてヨーロッパ戦線に参戦した訳だし、真珠湾攻撃に於いても3日前には暗号解読によって奇襲を把握しながら、空母を退避させて戦略の要を温存しつつ、先制奇襲攻撃を仕掛けたのは日本だという印象をアメリカ国民に持たせて戦意高揚に大成功を収めた。無論、それ以前、日本が日米戦争に突入するよう様々な封鎖政策を採っていたのである。いくら日本が愚かで、太平洋戦争開戦時の国家経済の規模が、アメリカの僅か4%に過ぎなかったとしても。
By the way,そんなことはどうでもよい。問題は、マンハッタン計画で開発された原爆をどのように用いるかなのである。今作に登場する財閥グループの執事、サンギエの属する財閥とは、無論、作者の創造になるものではあるが、ベースになっている財閥は、ロチルド即ちロスチャイルド家である。それも、本家、ヨーロッパの各ロスチャイルド家、そして米ロスチャイルドを総合し、更に他の財閥系を加味していると考えられるが、根本をロスチャイルドとしたのは、科白の中に、ナポレオン戦争で儲けた、と出てくる点とアメリカの情報組織を凌ぐ情報収集力を持つことを臭わす科白から判断できる。そして、彼らの判断基準とは、資本主義の持つ冷徹で差別的でプラグマティックでデモーニッシュな論理と大衆蔑視である。要は儲ければ良いのだ。この論理は、現在のTPPにも無論通じるし、AIIBへの不参加にも通じるデュアリズムを根底とする論理である。本家、英ロスチャイルド家が、歴史的にシオニズムに加担したのも、結局はユダヤ教を政治的に利用する立場を鮮明にしたからだろう。本来、ユダヤ教は弁証法的である。弁証法を用いなければ世の中の次元は上がらない。何故なら、二元論では常に論理は、是非のみを明らかにし地場を離れる事ができないからである。結果、デュアリズム同士のイデオロギー闘争は、力に拠る他、「解決」の方法を持たない。サンギエの論理が、どこか悪い意味でニヒリスティックな色調を帯びているのも、弁証法をネグレクトした精神的退廃を内在化しているからである。即ち、デュアリズムの問題点とは、未来を閉ざすことに他ならないのである。
今作に戻ろう。大統領、ルーズベルトは、戦争の惨禍に心を痛めている。アインシュタインと共に、原爆開発を進言したシラード、フェルミ、ルーズベルトの心の友で画家のヘレンを妻に娶ったジョン、そして3人と少々スタンスは異なるものの核の未来について大きな懸念を抱えるエドワードらは、FBIの監視下、大統領への直訴を悉く邪魔されてきた。軍部は、奇襲による原爆投下を主張する。だが、桁違いの破壊力を持つ原爆が、何の警告もなしに民衆の頭上で爆発することになれば、平和を本当は望んでいる一般民衆や女性、子供、老人迄が悉く大惨事に見舞われることは、彼ら核物理学者には、容易に予想できた。無論、死の灰の問題もある。一旦、原爆が炸裂すれば、その熱線、爆風のみならず、200種類以上の放射性核種が、生命の基礎に悪影響を与えることは、必然である。その結末は未知であったが、技術者の持つべき当然の倫理として、被害、それも甚大な被害が予想されるにも拘わらず、その悪影響をコントロールできる技術の開発も出来ていない段階で破壊兵器だけを作ること自体、技術者倫理に悖ることなど常識を持つ技術者なら誰でも考えることである。然し戦争という事態が、常識的で冷静な判断を困難にしていたという状況を考慮するならば、原爆を開発してしまったことは、喫緊の政治判断の結果だったにせよ、原爆を予告もなしに民衆の頭上に落とすことに関しては別問題であった。
水の記憶

水の記憶

THEATRE ATMAN

シアターシャイン(東京都)

2015/08/06 (木) ~ 2015/08/09 (日)公演終了

満足度★★★★

THEATRE ATMANを拝見
 日韓交流公演のうち日本バージョンを拝見。是非観比べたいのだが。

 シナリオがとても微妙な世界を描いている為、役者にとっては難度の高い作品である。どういうことかというと、“面影”が要求される作品なのだ。因みに面影とは、広辞苑によれば“目先にないものが、いかにもあるように見える、そういう顔や姿や物のありさま。”と定義されている。つまり役者は、同時に見えているものと見えていないものを表現できなければならないからである。(追記後送)

伝奇浪漫「芳一(ほういち)」

伝奇浪漫「芳一(ほういち)」

劇団め組

吉祥寺シアター(東京都)

2015/07/30 (木) ~ 2015/08/02 (日)公演終了

満足度★★★★

総合力の高さが評価できる舞台
入る早々舞台美術に目を奪われた。吉祥寺シアターは、天井タッパも高く出演者の人数や作品内容との兼ね合いでキチンと計算しないと隙ができる。それを美的にも空間的にも内容的にも見事にマッチさせて更にセンスを感じさせる空間処理、絵柄、大道具のレイアウト等に感心したのである。照明、音響、演出も良い。

ネタバレBOX

 
 古語の用い方なども、かなり練習を積んでいるのが見え、流石に幼児の頃から修練を積む古典芸能の役者には敵わないものの、良い印象を持った。中心になる崇徳院役の新宮 乙矢、土御門家傍系で陰陽師の倉橋役、藤原 習作、芳一役、秋本 一樹そして不具の体にコンプレックスを持ち乍ら、健気に生きる和宮を演じた辻谷 奈緒の演技は殊に気に入った。
 物語は、平安末期に起きた保元の乱(1156年)に敗れ、讃岐に島流しにされた崇徳院の写経が、都に受け入れられなかったことにより、院が朝廷を呪い憤死したこと、彼が大魔縁となって皇室を転覆させようと呪ったことに端を発する。然し、崇徳院は天皇になった段階でも不遇であった。というのも、父、鳥羽天皇の第一皇子とされながら、実は曾祖父、白河法皇と璋子の密通の結果の子とされ、父からは疎まれ続けたからである。史実として正しいか否かは兎も角、本作では、この説がベースになっている。
 また、平安時代末期は、北面の武士が登場した時期でもあり、保元・平治の乱以降伸長した平家の短い栄華の後、頼朝によって1192年には鎌倉幕府が成立、以降1868年迄、武士の世が続く先駆けとなった時期でもある。
さて、時代は下って孝明天皇の慶應2年(1866年)、黒船来航以来、天下は上を下への大騒ぎ。朝廷とて時代の流れと無縁ではなかった。実権の無い公家は、尊王攘夷を掲げる薩長と組む方が得策と判断する者、公武合体などを通して幕府とこれまで通りの付き合いをしながら貴族の言い分を聞いて貰おうとする者に二分されていた。公武合体に際し、人身御供とされたのが、孝明天皇の妹、和宮である。彼女は、生まれつき片足が不自由でびっこな上、片方の手首から先が欠損したハンデキャップであった。血の濃い親族結婚を繰り返して来た皇室には、結構、ハンデキャップを持った皇族が多かった証でもあろう。だが、幕府は安政の大獄を実行した井伊直弼らが中心となって和宮降嫁による幕府の権威失墜回復、朝幕の関係改善アピール、そして尊王攘夷派に対するエクスキューズを同時に目指したのであった。
然し、和宮自身は、乗り気でなかった。何故なら和宮はハンデキャップ、朝廷にあればこそ、天皇の権威を慮る慣習によって侮られずにすむものの、幕府へ下れば其の保証はないこと、また、一度も遭ったことは無いながら幼児の時から定められた書道の家としての婚約者、有栖川の宮の書を手本として、書に親しみ、其の文字に宿る人柄に恋してきたからである。この女心の純情がいじらしい。
さはさりながら、歴史の無常は、総ての人物を押し流してゆく。天皇家に対し「皇をとって民となし、民を皇となさん」と呪った崇徳院の蘇りは、一途な愛故の和宮の命懸けの祈念であった。彼女は、自らの叶わぬ恋を崇徳院の歌(瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ)に託したのだった。霊魂を蘇らせる力のある場所、一条戻り橋上で。
蘇った崇徳院の魂は、歴史に関与し始める。和宮の命を守り、乱世の到来を防ぐべく立ちあがった二人、陰陽師、倉橋と崇徳院・源平の兵どもの荒ぶる魂を安んずべく七百年の時を越えて旅する芳一が、崇徳院の荒ぶる魂と対峙する。
床の味

床の味

ビッケの一派

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2015/07/31 (金) ~ 2015/08/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

植民地の生
 前提として相変わらず、ずれた発表をしている植民地政府・官僚共であるが、ウィキリークスに頼らなければ、自らがハッキングされていることにも気付けない間抜けばかりの政治屋や、官僚、職員、社員が、本当にエリートと呼べるのか? ということがあり
 今、この生きずらい植民地に暮らす若い女の子たちの悪夢は悪夢のままに、けだるさはけだるさのままに、距離は距離のままに、極めて自然にリアルに丁寧に掬い取って作劇したシナリオが素晴らしい。

ネタバレBOX

初の本公演というが、助走期間は長かったようで、その間に遭った有象無象を見事に結実させている。描かれた人物像もキャラが立ち、其々の個性の陰影の描き方も正確である。殆ど素舞台なので演技力が試される舞台だが、役者の演技力も高い。科白量が多いので、少し早口になる部分が時に聞き取り難いこともあったが、そういう点は追々直して貰うとしてポテンシャルの高さを買う。今後を大いに期待したい一派。
君原毬子の消息

君原毬子の消息

劇26.25団

駅前劇場(東京都)

2015/07/30 (木) ~ 2015/08/03 (月)公演終了

満足度★★★★

演ずるということ
 虚々実々の世界。

ネタバレBOX

 亡くなった歌う大女優、君原 夢子がフラッシュバックの手法で何度も登場し、物語に仕掛けられた謎が徐々に明らかになってゆく構造の作品なのだが、観客は、知りたい答えが、何度も核心に届かず、核心の周縁をぐるぐるまわらされるような想いから、益々、正解を求めて引き込まれてゆくのが、今作の展開の妙だ。答えは、最後の方に出てくるから心配することはない。シナリオレベルで欲を言えば、日本の社会構造の特色として、中心の空虚を批評的に捉え、この家族の在り様をこの構造との関係で日本社会構造の問題として構成し直すと益々シャープな作品になるように思う。とても面白いのは、演じている人間の主体に対して、夢子が発する、自分とは誰か? との執拗な問いである。
グレイな世代 黒とシロ&IN廣島 紐育に原爆を落とす日

グレイな世代 黒とシロ&IN廣島 紐育に原爆を落とす日

獏天

Geki地下Liberty(東京都)

2015/07/28 (火) ~ 2015/09/14 (月)公演終了

満足度★★★★★


 日本で戦中核開発に携わっていた人物としては仁科博士が良く知られているが、今作の主人公は同じく物理学者の彦坂博士である。未だ、アインシュタインやオッペンハイマー、ボーアも原子核の正確な構造を見抜けなかった時代に彼は、その構造を見抜き、原子爆弾を作ることが出来ることを見抜いていた。早く出過ぎた大天才であった。

ネタバレBOX



 近い所で言えば、南部さんレベルかそれ以上の頭脳の持ち主であったと考えられる。彼は、欧米の熱狂するウランではなく、トリウムの研究をしていたと言う。何故なら、膨大なエネルギーを生み出す原爆を作ってもそれを制御できる技術が確立出来た後でなければ、そんな物を作ることが人類の未来に禍根を残すと考えていたからである。軍部の度々の核爆弾開発強制にも断固として首を縦に振らなかった彼の親族もまた、戦争の中で殺されてゆく。優秀な愛弟子も、婚約者を原爆で殺され、少ないウラン燃料を用いてどのように起爆させるかに気付き、陸海それぞれの最も優秀な飛行機乗り達にその方策を示し、奪われたテニアン上空での原爆爆裂を画策するが。
 彦坂博士は、己の研究者としての倫理を賭けて、軍への非協力を貫いた。何故なら、日本が核で応戦したら、負の連鎖が起こり、世界は終末への加速度を益々早めるからである。
 非常に重いテーマに真正面から取り組んだ快作。戦争の酷さを描きながら、技術はどうあるべきか? を深く問い掛け考えさせる、現在の核政策の問題点をキチンと炙りだした作品。彦坂博士役、和興の熱演が特に気に入った。
龍馬を殺した女たち

龍馬を殺した女たち

Unit Blueju

座・高円寺2(東京都)

2015/07/30 (木) ~ 2015/08/01 (土)公演終了

満足度★★★

公開ゲネAチームを拝見
 作家にジェンダー意識が薄い為、女性が受け身のまま描かれている。

ネタバレBOX

男性社会の愛玩物として、条理のオーダーを捉えている為に新味が無いのだ。生得的なレベルでの女性の愛の形は狭くて深い。今作では龍馬に関わった女として妻を含めて8人の女が登場するが、その内の誰ひとりとして、この頸木を越える者が居ないのは、芸事は媚びを売ることと勘違いした結果なのか、或いは本当にこの手の事を信じているのかではあるまいか? 何れにせよ、女一匹だらしねー。かなりのレベルで女性が優遇される時代になって尚、この程度ではね~~~。
 ところで、今作で描かれている龍馬の姿が史実であるならば、素敵な男であったのだろう。
星の王子さま

星の王子さま

ハグハグ共和国

萬劇場(東京都)

2015/07/29 (水) ~ 2015/08/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

弱者の視座
 オープニングの映像の可愛らしさや機転の利いたアニメーションもとても良い感じで始まった舞台は劇団ハグハグ共和国15周年記念公演だが、それだけの内容と質であった。音楽劇という形式で、ダンス・タップダンス・アクロバティックダンス等が適確に配され、物語とも噛み合って実に良い舞台を形作っている。舞台美術も見事な出来だ。

ネタバレBOX

 
 脚色も良い。原作を近未来のどこかにサンドイッチしているのだ。人々は何かというと戦争を繰り返した結果、既に自然も人間を含む総ての生物も殆ど絶滅しかかっている状況だ。こんな世界で傷つき、死のうとした若者を助けた医者が、この若者に自分の若い頃、未だ自然も残っていたが、戦火の絶えなかったファシズム吹き荒れる世界で、それでも何とか人間らしく生きようとしていた少数者達が仲間を作り逃げ回っていた時に、飛行機乗りの大人が教えてくれた物語を聴かせる、という設定で始まるのだ。
我が「国」をかえり見れば、度量の小ささでは戦後総理大臣で一番の、安倍のような阿保が、戦争に向かって人々を奈落へ突き落しかけている現在、アメリカの植民地、日本で弱者の視座を決して失わずに人間的に、また、原作の肝要な点も落とさずにキチンと構成された脚本も見事である。
Le petit princeの思い出を語るのは、びっこの医師。相方は妻、あいが自分そっくりに残してくれたアドロイドだ。肝心の妻は既にこの世の者ではない。爆発に巻き込まれて亡くなったのだ。今作は、総てが悲劇の色調に覆われる戦争にあって、傷つき亡くなっていった者達へのレクイエムであると同時に、生き残ってしまった者達が、明日を生きる精神の糧として構築されている点で秀逸である。
役者達の演技レベルの高さ、ダンス、バレエ、中でも幅広の布2枚を用いたアクロバティックなダンスは、注目に値する。
其々に高いレベルの表現が、戦時下の困難にあって尚、弱者の視座を忘れず、人間の大切にすべきものは何かについて、原作を見事に取り込みながら表現している作品である。

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