ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

1801-1820件 / 3248件中
MAD非正規雇用X

MAD非正規雇用X

岡本塾・ペーチカトライブ

Route Theater/ルートシアター(東京都)

2015/10/17 (土) ~ 2015/10/18 (日)公演終了

満足度★★★★

楽しめる
 面白いのは、日本を代表する企業のブラックサバスグループのCEOが、弱肉強食の論理が即ち真の平等だと捉えている点である。

ネタバレBOX

実際、この主張には一定のリアリティーがある、と思う者も居るだろう。戦後日本社会では、飛び抜けた能力を持っていても飛び級ができなかったり、会社では能力主義ではなく年功序列だったりと非効率的な制度が常態化していた。能力が極端に異なるのに皆と一緒にレベルの低い授業を受ける苦痛に対する配慮や、非合理的な判断しか下せない上司の下でも、一応は先輩を立てなければならないというのは時間と労力の無駄であることははっきりしているし、能力の高い者がインセンティブを失う契機にもなろう。
 CEOの認識はこのようなものであり、一定のリーダーシップを発揮するために論拠とするにあたって、CEOの社会への向き合い方が言葉通りなら、説得力を持つだろう。無論、背景には進化論の単純解釈や優性保護思想があるにしてもだ。今作でのCEOは、かなりその発する言葉通りのキャラクターとして描かれている。つまり強権を持ち、君主のように君臨していても下司ではない、ということだ。
 さて、にも関わらず、問題は起こるべくして起こる。何故か? 社会的格差が予め生じる余地を払拭していないからである。この件についてシャイン(shineと社員のWミーニング・もう一つの極は非正規雇用労働者。シャインが合言葉を述べる際、ナチ式の敬礼をするのは、無論おちょくり)の猪狩は、両極化した社会の是正を進言するが、幹部会で査問され、この世の果てと呼ばれるエリア、西浪のコンビニに左遷された。無論、彼の提言はCEOの所まで上がっていない。
 さて、猪狩は、このエリアで早速暴行の洗礼を受けるが、もともと、非正規雇用者の待遇改善を要求するような変り種であったし、IT技術を用いることもでき、シャインでもある所から非正規雇用労働者サイドにとっても利用価値がある為、命は救われる。彼らはある計画を立てていた。ある日、総ての非正規雇用者が、仕事をボイコットして休む計画であった。この計画実現後の待遇改善の為、彼らは猪狩と手を組んで本社へ乗り込む。
 現実の格差社会を経験している若い世代が多いグループであるから、力が入っていて観ていて気持ちが良い。
 もう一つ面白いのは“交渉は戦いと共に、戦いは交渉と共に在る”という発想である。このテーゼが今作を最近のデモや異議申し立てによくあるスタティックな姿勢にせず、ダイナミックでヴァイタルなものが湧き出ることを自然に導き出す。また、交渉術に関してのCEOや非正規雇用サイドの認識が、共通している為、格闘シーンが活性化することにも役立っている。エンターテインメントであることを意識した作りだから、こういう仕掛けは大切である。一方、同じエンタメ指向にしても皆がやっているからという理由で矢鱈にダンスを入れるのは如何なものか? シナリオと緊密な関係があって、ダンスに必然性があるように作ってほしいものだ。また、ブラックサバスの警備が軍隊並ということでマシンガンなどが登場するが、連射されてこれを棒っ切れ2本で防げる訳がない。まあ、ご愛嬌と言えばご愛嬌だが、折角正鵠を突いた良いシナリオで役者陣の演技も中々楽しませてもくれるのだから、この辺り、もう少しリアリティーなり何らかの技が欲しい。
 役者では、柔にして剛、剛にして柔の主役、猪狩を演じた町田 椋氏が特に気に入った。
 ラストで、彼がCEOとして、この世の涯のような西浪で起業するというオチも理想とのギャップは兎も角、納得のできる終わり方であった。
ワーニャ伯父さん

ワーニャ伯父さん

演劇研究会(慶應義塾大学公認学生団体)

慶應義塾大学日吉キャンパス塾生会館(神奈川県)

2015/10/17 (土) ~ 2015/10/20 (火)公演終了

満足度★★★★

熱演、力演 チェーホフにかぶせた植民地・日本
 既に戦争は始まった、と述べる言論人も存在する、昨今の昏い植民地だが、その時代を敏感に反映してか、チェーホフのワーニャ叔父さんである。
(花四つ星。)

ネタバレBOX

 有名な作品だから、筋などは一切省略するが、主役のワーニャを演じた内野 聡夢くんが素晴らしい。アーストロフ役稲岡 良純くんもグー。
 今作では、所謂既存の劇団によって演じられるワーニャ叔父さんより、ワーニャはエキセントリックで傷つき易い、そして至極全うであるが故に変人たらざるを得ない人物として描かれている点で、確かな演出が為されていると感じる。
 即ち、こういう形で当時のロシアの実情を浮かび上がらせているであろうと考えられるからだ。無論、医師のアーストロフは、ワーニャの謂わば影・精神的双生児という側面もあるだろう。一方、大学教授をやっていたアレクサンドルは、文学だ、芸術だ、論文だと言いつつ実際には何も分かっていない愚物だ、と言う指摘は、痛烈なアイロニーでもある。翻って我が「国」を思うとき、一体どれだけまともなエライサンが存在しているかとなれば、お寒い限りである。
 少しだけ実例を挙げておこうか。安倍が第二次政権でやった主だったことの総てはアメリカの指示通りだったことは、既に述べた。今回は、連合が武器輸出三原則撤廃に動いていたことを付け加えておこう。国民の命など何とも思わぬ下司共が共闘して我らの命を奪いに来ている。最も近くに居る我ら民衆の敵とは、即ちブルジョワジーであり、それにぶら下がって甘い汁を吸う官僚、政治屋という下司共である。これら下司共の悪行を暴かないメディアも敵、裁かない裁判官も敵、蜥蜴のしっぽ切りをやっている連中も敵である。
 ところで、東芝の不正経理の一番の根っこは、原発ではないのか? 世界が再生可能エネルギーに舵を切った頃になってウェスチングハウスを買い、大赤字を出したが、国策が絡んで居る為にそれをキチンと会計処理することができなかった結果ではないのか? ということだ。
 アホ極まる安倍はロナルド・レーガンに乗艦するし、レベルの低い漫画しか読めない麻生、国会答弁ではしどろもどろ、メディア発言では、答弁と矛盾することを平気で言って知らんぷりの中谷も一緒であった。軽挙妄動の極みである。政治家の風上にも置けないこういう下司共が、でかい面をしてふんぞり返っているのは、当にアレクサンドルの姿ではないのか? 我ら民衆は、先ず、ワーニャになって、キチンと下司共に異議申し立てをすべきなのである。
愛子のいえ

愛子のいえ

cineman

ワーサルシアター(東京都)

2015/10/15 (木) ~ 2015/10/18 (日)公演終了

満足度★★★

キャラクター作りの苦労
 何だか作家の視点が定まらない作品という印象を受けた。もう一度推敲を重ねなければ、少なくともキャラクターが存在感レベルで立ってこないように思われるのだ。ここに出てくるキャラクターはいずれも同工異曲、謂わば作家の「愚痴」的存在のような気がする。書くレベルで自分の納得のゆくまで各キャラクターの存在感を生み出す葛藤をしていない。

従軍中のウィトゲンシュタインが(略)

従軍中のウィトゲンシュタインが(略)

Théâtre des Annales

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/10/15 (木) ~ 2015/10/27 (火)公演終了

満足度★★★★

デュアリズム? シナリオ・演出浅いんでねえの?
 余りにも有名でカッコイイ「論理哲学論考」の一節“およそ語り得るものについては明晰に語られ得る。しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない”についての作品である(追記2015.10.20)

ネタバレBOX

 彼は第一次大戦中、オーストリア軍兵士として最前線に志願兵として赴いた。敵弾の舞う哨戒塔上で彼はその理系の知識を生かした。然し、戦争には、負けた。
 このフレーズは、そのような戦場で生まれたという。前線兵士達の感じていた緊張感、恐怖、寄る辺なさや、底知れぬ慄きを観客に体感させる為に、戦況分析の後の長い暗転の中で演じられる表現は今作の演劇的ハイライトだろう。
 唯、物理・数学・工学にも詳しかった彼が、その哲学に於いて、今作ではデュアリズムに陥っているように見えたのは自分だけだろうか? 自分が言いたいのはディメンションを余り扱わなかったということである。無論、絵画論に触れた所で、三点透視法について言及している訳だから、三次元を二次元に移す方法として絵画を考えていたのだろう。実際、彼自身彫刻や絵画にも手を染めている。オーストリアを代表するブルジョアのぼんぼんとして、その程度は当然のことではあろうが。当然のことながらそれは、彼が言語によって世界を定めようとしたからだろう。そしてその方法こそ、彼の生前に彼自身認めた著作が「論理哲学論考」のみであるという事実をも裏書きしているのではないか? 
 ところで、と自分は言いたい。この有名なテーゼでウィトゲンシュタイン自身は、爪を引っ掻き乍ら存在をずり落ちて行くレヴェルで己を問うていたのか? についてを! この問題こそ、ナチに加担したとして批判に晒されたハイデガーの原点であろう。即ち、ザインではなくてダーザインの問題である。だが、実存は、政治レベルの問題ではなく、存在そのものへの疑義の問題である。世の馬鹿共の抜かす浅い問題ではないのだ。
 世の中には混同が多い。否、混同が齎した誤った判断が、多数決というコンセンサスを得て敷衍するケースが余りに多く、その可也の部分が間違っている。おまけとして愚衆が増える訳だ! これら愚衆に反してそれなりにキチンとした思考をし得るインテリ及び知恵のある者がどれほど深い絶望を抱えているかは、そうでない大多数には及びもつくまい。幸か不幸かウィトゲンシュタインは、このマイノリティーに属している。だが、ロマンティストという時代の限界をも抱えているであろう。その彼のテーゼを有難がること自体が危険である。哲学は、常にここから始まる。我々の為すべき唯一のことは、裸の自分と向き合うことである。
かみさまのメガホン

かみさまのメガホン

夢幻舞台

中野スタジオあくとれ(東京都)

2015/10/16 (金) ~ 2015/10/18 (日)公演終了

満足度★★★★★

表現する者から表現する者へのエール

  シナリオを書いている作家の視座がいい。最近、若い人たちで構成される劇団で多用されるダンスは、今作でも用いられているが、オープニング早々踊られるダンスにも、現在の若者像を象徴する側面があり、決して浮ついたものではなかった。それも当然のことだということが、ラストではっきり分かるのだが、しょっぱなのダンスを見ただけでそれを感じさせる組み立ても良い。無論、若い人たちの劇団だから、荒いと言える側面もある。ステンドグラスが観客席正面のど真ん中に描かれているので、経済的ゆとりさえあれば、出捌け口を変えたり、或いは、場面にそぐわない場合は、目隠しをするなどのことはできようが、そこまで部費で賄うのはしんどかろう。だから、自分はそういうことは、問わない。問題にするのは本質である。今作を序として破急も三部作として、或いは起承転結の四部作でも描ける連続性を持つ内容である。但し、作家は、物凄く格闘しなければならないが。どうやら、公演のパンフレットを持ち帰ることすら忘れるほど、夢中になってしまったらしい。本質に於いて、それだけ素晴らしい舞台だったということだ。自分は、若い人の作品は、期待できそうな延びシロを+して評価するよう努めているが、このオリジナル作品の作者は、己の最も深い所を忘れさえしなければ、今後、その才能で食ってゆけるであろう。そう思うのでこのタイトルにした。(追記後送)

リボーン・チャンス

リボーン・チャンス

カムヰヤッセン

ワテラスコモンホール(東京都)

2015/10/14 (水) ~ 2015/10/18 (日)公演終了

満足度★★★★

花四つ星
 良い舞台というのは、無論、脚本、演出、演技を中心に舞台美術、空間処理、音響、照明、スタッフの誘導体制、対応など総ての要素を含むが、自分は、脚本から照明迄を特に重要視する。

ネタバレBOX


劇団関係のスタッフ関係は、概ね良い。(但し、官公庁がでしゃばる公演は最低レベルの者が多い。受付時の要領の悪さ・対応のまずさなどが代表であるが、何を勘違いしているのか、猛省を望む。)今公演は、地域コミュニティーのコア施設にあるホールでの開催。スタッフ対応も自然であった。
 本題に戻ろう。良い舞台についてである。シナリオ段階で、不用意に内容を明かさない。明かすこと自体を制御することで、ドラマツルギーのポテンシャルを上げてゆくのだ。どの時点でどの程度伏線を入れるかが作家・演出家の腕の見せ所である。今作も、その点では、かなりいい線を行っている。役者の演技も合格点、殊に弁護士千代田役、コロ、川邊洋服店経理小宮役、ししど ともこ、川邊家長女すず音役、永井 久喜の役作りが気に入った。
 惜しむらくは、描かれる対象の枠が、やはりこじんまりし過ぎていることだ。更に広く、深く世界と己を見つめてほしい。星は花四つ星。






わたしたち、ちょっと、こじらせちゃったの…

わたしたち、ちょっと、こじらせちゃったの…

黒ヰ乙姫団

名曲喫茶ヴィオロン(東京都)

2015/10/10 (土) ~ 2015/10/11 (日)公演終了

満足度★★★★

見きれ残念にゃ~~~~~~~~
 お姉たま達の何とも可愛らしい決起集会である

ネタバレBOX

。踊っているのは、浮気性のあゆこや「赤毛のアン」に因んで互いにアン、ダイアナと呼び合う金持ちの子女二人組、アンはハードニート、ダイアナは同じハードニートでも多少自立性ありなのだ。
 舞台は、これらの人々が出入りする喫茶店、復帰したベテランウェイトレスの重田さんが、重石役。スリーパートに別れた話だが、重田さんの落ち着いた物言いと控えめな態度で提起されるこの店のマナー(即ち禁止事項)が、全き日常を女として生きる登場人物それぞれにハードルを課し、そのハードルを各々が乗り越えようとするところに、劇的なものが生まれてくる。とても上手なシナリオである。
 同時に演出も、出吐けのタイミングや役柄転換の妙味を意図した洒落たもの。同じ役者が異なる登場人物になって現れているのに、一瞬、その事実に気付かないほど、化ける女優達の演技力及び素早く巧みなキャラクター転換には正直恐れ入った。
 シナリオは、基本的に普通の女性が過ごす生活を描いているのでそんなに大きな波風が立つ訳ではない。浮気症のあゆこにした所で浮気程度のことは、70%程度の主婦がしていることだというから、大したことではない。それどころか日常の一コマだろう。ただ、演劇的に大切なことは、日常はそれだけでは演劇になれない、ということだ。
 その点で、家庭ではなく、話が進む場所が喫茶店という、日常の中にあって家庭とはずれがある空間であること、更に、重田さんが、禁止事項を持ち出すことによって超えるべきハードルが設定されること、そのハードルを越えようとして、登場するキャラクター達が各々自分の存在を押し広げようとすること。当然、この両者の関係には軋轢が生まれそのことがドラマツルギーを構成することなど、実に理路整然としたつくりである。
 惜しむらくは、本当の喫茶店での公演である為、座る場所によって見切れが多々出ることで、雰囲気のあるいい喫茶店だし、自分の入った時にはアベマリアが流れていて、選曲の良さも感じさせる。(讃美歌の中でこの曲が自分は最も好みである。無神論者であるから、讃美歌総てを聴いた訳ではないが)以上、お姉たま方ありがとうございましにゃん!
 ところで、このタイトルの付け方も、平安時代から続く日本の女性文学の伝統というかDNAを感じる。
少年オイル

少年オイル

創像工房 in front of.

慶應義塾大学日吉キャンパス塾生会館(神奈川県)

2015/10/09 (金) ~ 2015/10/12 (月)公演終了

満足度★★★

美術、制作が頑張っている
近未来、戦争が始まり検閲が般化された時代の話である。

ネタバレBOX

が、ちょっと発想が安易。舞台美術はいい線迄行っているし、制作も頑張っていると思うのだが、テトラポッドを擬したオブジェは必要ない。だってとても綺麗な海のイメージを語るのにテトラポッドがあることは不自然だ。それがアイロニーとして用いられている訳でもなければ、劇中で用いられる訳でもないのだから、上手、下手に置く必然性もないのである。
 シナリオも身体性を意識したシナリオとは思えない。演劇は極めて古い媒体である。従って頭が体の一部であることを深く正確に理解していないと、とても大きな間違いをしでかす。実際、優れた文学者、戯曲作家などの中には、医術の知識のある者や、自分の体が弱くて苦労した者が多いことはだれの目にも明らかだろう。チェーホフは医者だったし、F.ラブレーも医術をモンペリエで学んでいる。安部公房は理科Ⅲ類で学んだ。夏目漱石は、胃弱と神経衰弱、芥川も精神を病んだ。斉藤茂吉、森鴎外も医者、ジャンルは異なるが手塚 治も阪大医学部出である。
まあ、こんな時代で、受験戦争に勝ち抜いてきたのであろうから、医学部と言えば偏差値でしか見ないのかもしれないが、自分の言っているのはそういうことでは、無論ない。役者は、身体を使って表現する。頭でっかちになってはいけない、と言いたいだけである。同時に板の上で演技をしている身体であっても矢張り、現実の日常のリアリティーを用いて鑢をかける必要はあろうということだ。ぶっ飛ぶ為には、ボンクラの抱える程度の不満や鬱屈ではなく、少なくとも一人になれるだけのパワーと独創性は必要である。(つまり、狂気に陥るか自死するかという所迄自分を追い込むのは当たり前だろう。表現する者を選び取るとはそのようなことである。)エリートのつもりなら、最低、この程度の覚悟はしてもらいたい。即ち感情の切なさや安っぽいセンチメンタリズムは大衆に任せた上で、其の因ってくる所を描かなければ恵まれている自分達は世間に顔向けできまい。せめて、この程度のことは考えてほしいのである。申し訳ないが、しょっぱな余りにも陳腐だったので序破急の破の部分居眠りをしてしまった。
ざくろのような

ざくろのような

JACROW

サンモールスタジオ(東京都)

2015/10/08 (木) ~ 2015/10/13 (火)公演終了

満足度★★★★★

ざくろは人肉の味?
 今作に描かれたような状況の本質を敷衍してみた。すると”ざくろのよう”なのは、ここに描かれた一企業の事例にとどまらず、我らの国民性一般に関わる問題に見えてきた。(追記後送)

ネタバレBOX

 サンヨー電気が画期的な電池を作っていたのは、多くの人が覚えているだろう。だが、松下に吸収合併された。今作は、あの件を題材にして創作された作品である。実際、バブル崩壊以降の日本は、アメリカの禿鷹ファンドの恰好の餌食となり、国民の側を見ずにアメリカの顔色ばかり伺っているが故に無能な官僚や政治屋、それに輪をかけて無能な、というより覇気も見識も正義感も職業倫理もない最高裁と警察、内調等のせいでいいように毟り取られ、国民生活は逼迫の度を増した。無論、公僕や我ら主権者の代理人に過ぎない政治屋共にこれだけでかい面をされるのは、国民がしっかりしていないからである。
 だから、利潤しか追求しない企業に尽くしたりするのだ。社畜と言われてもいいらしい。余りにも当たり前で言うのも恥ずかしいほどだが、我らは、サラリーマンである前に人間である。そして、ヒトは他の生き物と地球上の環境を分かち合って生きなければならない。一方資本主義社会にあって、企業は利潤しか追求しないのは当たり前、そして社員と企業とは、契約を結んでいるだけである。従って、他の誰もできないようなことができたり、その能力を持つ者が、特に研究などの場合、自由に振る舞うことができれば、まして待遇が今までより良ければ、そちらへ移るのは当たり前すぎるほど当たり前のことなのだが、社畜に甘んじている社員にはそうではないらしい。寧ろ彼らは事務レベルで優秀な研究者の上席に立つことができれば、普段から溜め込んでいる劣等感の意趣返しができると耽々と狙い澄ましているのである。いわばコンプレックスの捌け口を求めているだけだ。こんなことばかりやっていたから、F1人災が起きてしまったのではないのか? 実際のサンヨーがどうであったかは知らない。が、今作でチームリーダーは研究者としては、世界トップレベルの人物として描かれている。実際、自分も大学時代寮生活をしていたので、様々な学部の学生や院生と付き合っていたものだが、研究科目によっては、ノーベル賞も取っている先輩を排出している大学の、工学部の連中の持っていた雰囲気を、野間を演じた役者さんはよく出していた。実際、どこか、のほほんとしているというか飄々とした所がある連中が確かにいるのである。数学や理論物理の連中にもいるのだが。
 By the way,日本の組織というのは、窮屈な所が多くて、自由闊達な意見を潰すことが多いので、面白いことをやる連中が出る研究室も限られてくるようだ。単に会社組織と個人という対比や、組織内の天才的才能とサラリーマンという名の社畜の生き残り策の違いということでは片付かない儒教的な目上崇拝や、それをベースにした滅私奉公の論理が、この植民地の活路を塞いでいる。かつて天皇のみが主権者であった時代、裕仁は現人神とされ、国民は総て天皇の赤子とされていたのだが、現在はアメリカが裕仁の居た位置に鎮座しているという訳だ。公僕である官僚共は、何を勘違いしたのか、現在は主君、アメリカに尻尾を振り滅私奉公に必死、国民は眼中にないのは、観ての通りだ。政治屋もそうである。川内原発が再稼働するまで約2年の間、燃料棒は冷却されており、原発即時廃止にもってこいの状況だったのだが、核物理の基礎も理解できないほど能力の低い安倍とその郎党の政治屋や推進派首長、地方議員などは、今後更なる核の塵を出し、放射性核種で取り返しのつかない環境破壊を起こすことにどう責任が取れるというのだろうか? 
円盤屋ジョニー

円盤屋ジョニー

BLUE HIPS

上野ストアハウス(東京都)

2015/10/07 (水) ~ 2015/10/11 (日)公演終了

満足度★★★★

花四つ星 自分の好みでメンゴ
 「ブロックサイン」「アブラモビッチさん紹介」「円盤屋ジョニー」「ヴィンテージ・オブ・1995」「思い出の品」「万国旗はためく下に」の中短編6本を3本ずつ、間に10分の休憩を挟んでの上演である。前半の3篇と後半の3篇の作者が異なるのではないかと思わせるほどテイストが異なる。

ネタバレBOX

前半3篇は、極めてドライなタッチ。後半3篇は、当に日常生活をそのまま舞台に上げたような違和感のなさが際立つ作品である。テイストが異なると書いたことの前段に書かれていることから分かるように作家は同じである。それだけにこの堤 泰之という作家の度量の広さ、ポジショニングに敬意を表したい。創造する者の持つべき相対性への帰依をキチンと果たした上で書いていると思われるからである。総ての創造者は、この相対性の上から書くのだから。絶対を目指すと標榜した者が自らの絶対を掴んだと思い込める時、その者は休息を得ることができる。然し、相対性でしかないということを骨の髄まで認識した者は、休むことができない。休んだら最後、ずり落ちるしかないからである。命果てるまで、決して休むことのできない生き方を選んだのである。狂気に陥れば、と考える部外者は居るであろう。然し、狂気とはマジョリティーからの完全な逸脱であって間違いとは限らない。マジョリティーが間違いを犯すことは多々あるからである。今更天動説を挙げるまでもあるまいし、核推進派の愚説を挙げるまでもない。創造する者達は唯、何物によっても代えがたい存在・存在感をその作品によって提示するのみである。
今作では演出も作家がやっているのだが、前半の演出に関しては極めて自分好み。後半は、自分の好むテイストとは異なったものの、レベルの高い点では、高評価するべき演出であった。役者陣の演技も良い。以下に一例を挙げておく。表題作についてである。
 例えば、この作品群の中で、円盤屋ジョニーのハイライトシーンは、狙いを定めて銃を構えたら迷わず撃つ。これである。
 大分前のことになるが、新宿に中国マフィアが進出してきた当時、ちょっとした事件があった。確か喫茶店だったと思うが、中国マフィアが日本のやくざを真昼間に撃ち殺したのである。多くのやくざがこれでお手上げになった。大方の日本人もそうであろう。だが、銃の使い方としては、これが正しい。コンマ0何秒の差が生き死にを分けるのだ。躊躇している暇などない。やくざ世界に於いてさえ、こうである。このリアリティーを見事に表現している。
蛇足になるが、以下興味のある方はどうぞ。
 安保法制によって武器使用が緩和され、今後実質的にアメリカの指示の下に動くと想定せざるを得ない自衛隊員たちは、誤射によって民衆・一般市民を殺戮することもあり得るだろう。敵だという情報が入っていれば、動く物・者は、総て標的である。殺してしまった後、それが敵ではなかったと気付いた兵士(現時点では自衛隊員)は、どのような苦しみに苛まれるか。想像してみるがいい。安倍のように残酷なまでに想像力の欠如した馬鹿には、及びもつかないことだろうが、主権者たる我々は、このようなレベルにも想像力を用いるべきではないのか? 因みに、優れた表現は、時代と切り結ぶ。
瑠璃の頌歌(るりのオード)

瑠璃の頌歌(るりのオード)

DANCETERIA-ANNEX

横浜市泉区民文化センター テアトルフォンテ(神奈川県)

2015/09/26 (土) ~ 2015/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★

天正遣欧使節帰国後
 謂わずと知れた1582年(天正10年)に大友 宗麟(ドン・フランシスコ)、大村 純忠(ドン・バルトロメウ)、有馬晴信(ドン・プロタジオ)ら戦国のキリシタン大名の名代としてローマへ派遣された4名(千々岩(石)ミゲル、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルティノ)とこの話の前史としての龍造寺氏に攻められ劣勢(兵力に於いても武器に於いても)に悩んでいた有馬氏を軍事的に援助したヴァリヤーノ(今作ではロドリゲス)、有馬を付け狙い殺害しようと襲撃したが取り押さえられ、セミナリオ預かりの身となった龍造寺氏残党藤八郎(アントニオ)らが、キリスト教布教が、実は西欧列強による植民地支配の前触れであることを見破った豊臣 秀吉の発した禁教令の浸透及び施行よって弾圧されてゆく。そのキリシタンの歴史は悲惨である。無論、この悲惨にもかかわらず、信仰を曲げなかったキリシタンが多かったことと、彼らのキリスト教が、カソリックの中でも最も厳格なジェズィットの流れを汲むストイックなものであったことも影響したであろう。時代に翻弄される彼らの宿命を描くと共に、グーテンベルグ印刷機を初めて日本に持ち込み、活版印刷でキリシタン版と呼ばれる聖書を射札するなど西欧の進んだ文明・技術を輸入したことなどにも触れることで、権力や軍事力に抗う、抗おうとした意思をも表現しようとした。
 音楽劇という形を取っているので多くの曲が挿入されているが、Goh Iris WATANABE氏のオリジナルがたくさん入っており、ストイックな姿勢で表現に向き合う、彼の美声が聞けるのも魅力である。なお、11月14日(土)14時からブラフ18番館サロンコンサートに彼が出場する。先着順で無料。興味のある方はどうぞ。

ヴィトカッツイの『母』

ヴィトカッツイの『母』

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2015/10/01 (木) ~ 2015/10/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

前衛
 一応、母と子の話ではある。但し、母は実際には出てこない。

ネタバレBOX

母はフィギュアで、出演俳優たちによって舞台上で上演開始早々に作られる紙のオブジェである。このオブジェを恰も文楽の人形のように背後に立った役者が動かすのである。従って、今作は、母の名を借りた創造と想像、創造する者の立ち位置と普通の生活者の立ち位置の位相からくる根本的ギャップや矛盾、衝突を通して創造する者が如何様に創造するのかについて、或いは、何をどのように観ているかについての断章を3部に分けて表現した作品である。いわば、序破急を為していると捉えることができよう。
 序:創造する者は、徹底的に率直に見なければならない。然しながら徹底的に率直に見るということは、ことほど左様に簡単なことではない。何故ならバイアスを排そうにも、厳密な思考レベルでこの問題を扱おうとするなら、我らの内には既に偏差が存在せざるを得ないからである。見るという行為に対して、見たもの・ことを表現する際には言葉なり、絵画なり、写真なり、映像なり、舞台表現なり、音の組み合わせなりが必要となる訳であるが、見たもの・ことを、この時点で厳密に再現できる訳のものではない。時空・関係などが近い場合は無論再現できるというより同じことを見、体験したと誤解することはできる。例えば誤差を極小と看做すことができるような場合である。オーロラを隣り合った位置で同時に見る場合などがこれに当たる。然し、視力も違えば、光彩も異なる別箇の人間が、厳密な意味で同じものを同じに見たということができないのは無論ことだし、個々の感じ方も異なるのが当然なのであるから、ここには既に違いがある。このような違いを生む原因として考えられる習慣、文化、文明、歴史、民俗、社会的階層など育った環境や条件が異なればこの差異自体が、別の個人にとっては、既にバイアスである。
 破:これは、無論、母子の場合も同様である。更に今作の場合、母と子は母と息子であるので性差も加わる。男性と女性ではジェンダーの差異も大きい。社会参加の仕方も変わる。ここでも、このようなレベルでの個と世界の関わり方の差異から来る創造する者とそうではない者との感じ方や落差がアイロニーや諧謔、息子の婚約者と母の関係などなどから、位相が現実の中で如何様な展開を示すのかについての具体的な事例をヴィトカッツィーのコカインなどの体験をベースにした逸話なども盛り込んで展開する。実存の裸形に対する世界と関係は見えて頗る面白い。
 急:破の部分で創造者は、己の裸形を世界に対峙して見せた訳だが、その方法は、アイロニー、諧謔、嘲笑、批判、おちょくりなど遊びに見せかけた複雑で、一般的な「常識」に縛られた人々には、分かり難いもの・ことではあろう。然し、創造するということは、世界の内側に在る己をそのままの位置で外側から同時に観察するという離れ業に他ならない。この事情を説明しているのが、急の部分なのである。今作は母の死に始まって、母の死に終わるが、これは単にサンドイッチ形式でまとめている訳ではない。ヴィトカッツィーがポーランドの前衛三羽烏の一人であるのは、そんな生易しいことではない。ラストシーンが象徴するのは、冒頭の母の死とラストのそれを作品化し得た時点で、息子が赤子に戻って母に抱かれるが、この関係こそ、作品創造と創作者の関係なのである。
私もカトリーヌ・ドヌーヴ

私もカトリーヌ・ドヌーヴ

『私もカトリーヌ・ドヌーヴ』を上演する会

上野ストアハウス(東京都)

2015/09/16 (水) ~ 2015/09/20 (日)公演終了

満足度★★★★

意欲作
 初演は、2005年フランスである。モリエール賞他数々の賞を受賞した作品であるがヨーロッパの親子関係と日本のそれとは大きな違いがあるので、その辺りを理解していないと分かり難い点が出てくるとは思う。

ネタバレBOX

因みにヨーロッパの一般家庭では子供は飼育すべきものと考えられている。謂わば人間的でないソバージュな状態に在る存在と考えられているので教育が必要なのである。然し、日本では、子供は天使とか王様である。基本的に愛らしく庇護の対象と考えられており、ユマニテを仕込むべきソバージュではない。
 またヨーロッパに於いては、子供と雖も独立した存在としての個であり主体であるが、日本の親子関係は、寧ろ主体の本来持つべき壁がないばかりか極めて曖昧な綯い交ぜ状態を為していることが多く、親は子離れができず、子は親離れができないような関係が多いから、そのような状態では、今作を、創られた同一地平で解釈することはできないとまでは言わないが困難を伴うとは考える。
 今作、フランス語で読むととんでもなく面白い。が、そのドライで辛辣でイロニーとエスプリに満ちた言語を翻訳することは不可能である。単語それぞれの内包が異なりセンテンスともなればその表す背景は、文化的・歴史的・状況的に大きく異なる。まして現代の作品であるから、古典のように背景が既に滅び、謂わばエッセンスだけが継承されてきたような作品とも異なる。この辺りが、いくら大きな賞を取っている作品とはいえ、翻訳劇の難しい所だろう。だが、一方、流石に大きな賞を取っている作品だけあって本質的に深い部分を持つためその部分で大きな勘違いをされることはない。何れにせよ、現代フランス語演劇の中でもかなり翻訳の難しい作品を、日本で掛けたという点でとても冒険的意欲的な試みである点を高く評価したい。
瀧夜叉傅

瀧夜叉傅

Will-o'-the-Wisp

シアター風姿花伝(東京都)

2015/10/01 (木) ~ 2015/10/04 (日)公演終了

満足度★★★★

ガイアのパトリオット、瀧夜叉
 関東の雄、平 将門亡き後、坂東の地には、摂政、安倍 小茶麿の息の掛かった国司、高 百尚の悪政が蔓延り、民はその重税と理不尽に苦しめられていた。

ネタバレBOX


 首塚や神田明神の例を引くまでもなく、将門と言えば反権威・反権力の代名詞である。この反権力・反権威の申し子という位置づけで登場するのが、今作の主人公、瀧夜叉実は将門の娘、皐月姫である。
史実では不明な部分も多く、実際には何がどうなっているのかについても様々な解釈が為されている為、逆に創造や想像の羽を伸ばし易い。そのような事情もある為か、歌舞伎や現代の創作演劇でも結構取り上げられる瀧夜叉ではあるが、上演されるタイミングに共通性があるようにも思われる。その共通性とは、民衆が、この政治はオカシイのではないか? と感じる時代である。即ち悪政の時には、瀧夜叉が立ち上がるのだ。今作でも、摂政の安倍は、某国植民地首相と同じ苗字だし、自分にとって風向きが悪くなると胃痛を訴え、マザコン(岸 信介の娘、洋子コンプレックス)だったり、母方祖父のことを崇拝している点でも、また姑息でチンケで、セイガク時代は強者の、現在は完全にアメリカのパシリでしかない有様も、下司そのものの内閣総理大臣をおちょくるキャラになっている。
 一方瀧夜叉の居ない我らの現在の実情を問えば、植民地首相、安倍は、宗主国、アメリカの命ずるままに原子力を推進、国力の落ちた宗主国の代替を務めるべく軍備増強で宗主国を補完、更に自らの同胞の血と肉と骨、知恵までも捧げようと躍起である。はっきり言ってこういうのを国賊と言う。
さて本題に戻ろう。坂東武者の雄たる将門亡き後、瀧夜叉以外には殆ど、戦力足り得る力の無い反権力サイドではあるが、山人や蝦夷の民、そして坂東の民衆の支持が支えとなっている。因みに瀧夜叉は一人ではない。瀧夜叉の名の下に活動する者は二人。皐月姫と彼女の友、杣である。杣は、薬草に対する知識が豊富で医療の任にも当たる山人の娘で皐月姫の友でもある。皐月姫には異母弟の良門があり、彼が将門の長男である。武芸は得手でないが、知恵は中々のもの。度量もあるが、惜しむらくは余りに若い。未だ若干十二歳である。
 一方、朝廷方で手強いのは、俵藤太としても知られる藤原 秀郷、武勇に優れていることは余りにも有名だが、知恵も人望もあり懐の深い所が、最も恐ろしい。父、将門の仇でもある。だが、彼も実は一人ではない。俵 藤太の名の下に四名が属す。秀郷、秀郷の叔父・元康、功を為して藤原姓を与えられた元山人、秀忠、そして弓の名手で山人の蜘蛛丸。まあ、この四人の統括を秀郷がしている訳だ。
 これらのキャラクターに加え、秀郷に水脈の危機を救われたと恩にきて彼に力を貸す竜王の娘、みずち姫が大切な役割を果たしている。
更に朝廷の政治に関わって、将門を討った将門の従弟、平 貞盛が、中々の策士であり、政治的人士として宮中の貴族である安倍を立てつつ暗躍する。この貞盛の政治的狡猾さと秀郷の深謀遠慮と武力を相手に、瀧夜叉(将門と彼に助けられた雌狐の化身で自然の守護神である朧姫の間に生まれた)は、立ち上がった訳である。その出自からも明らかなように、彼女は、現代で言えばガイアの地域版とでも言うべき存在である。
 一方貞盛の手腕は侮れない。現代政治にも通じる英雄と民心の離反を図る策謀や、権威を利用して己を権威機構の一員としつつ、実権を握る為に軍事的頂点に立ち自らを正当化する姿勢は王道である。一方、将門を射止めた栄誉に輝く俵 藤太を牛耳る秀郷は、更にしたたかであると同時に、人間の傲慢を象徴してもいる。彼は言うのだ。ヒトは前に進んでゆく、と。自然を開拓・管理する存在なのだ、と。それは、恰も西洋の論理そのものである。彼はこの論理を遂行するために良門を誑し込み、協力させることに成功する。坂東を制圧する為に利用しようとしたのだ。その為に、一旦は、良門を頂点とする為政を成功裏に立ち上げ、直後に彼を殺して瀧夜叉に罪を被せてその大衆的人気を奪い、以て自らの野望に資する計画だったのである。だが、それは正当なことだろうか? もう一度言っておく。瀧夜叉とは、ガイアのパトリオットである。因みに地球に届く太陽エネルギーの0.2%で、波風が起こっている。我々が暮らす銀河の辺境上ですら自然のエネルギーはかくも大きなものである。パスカルのように、謙虚な認識であるなら、自然もそれを憐れんで認めてもくれよう。然し、自然を人間如きが管理しようなど或いは管理できるなど思い上がりも甚だしい。
 実際、我々は、恒星のエネルギーを生み出す原理を発見し、自身それを極めて小規模なレベルで実用化はした。E=mc2で余りにも有名な相対性理論から、それは演繹された。だが、その結果我々ヒトが手にした核によるエネルギーが生み出す様々な問題群の何一つとして我々は解決できていない。而も、その未解決の問題が、我らヒトのみならず、この地球が数十億年に亘って築き上げてきた生命の歴史そのものを閉じかねないのだ。想像力が残酷なまでに欠如した人々の為、そして自民党や公明党の分からず屋他、核の脅威を知ってか知らずか、核推進に賛成する人々に、少し補足説明をしておこう。
 現在迄に、環境の激変で地球上の生命全体が危機に見舞われたことは何度もある。その度に新たな環境に適応し得る生命が生き延びてきた。だが、我らヒトの生み出した核技術は、生命体の傍で機能するには余りに大きなエネルギーである。生命を維持するのは、アモルフではない。何らかの構造である。それは、アモルフがカオスに対応するように生命という有機的構造に照応するのである。死とは、この有機的連関の瓦解であり、アモルフへの移行である。簡単に観察できる例を挙げよう。例えば長葱である。半分に切っても加熱などせず、そのまま放っておけば緑色の部分が伸び、更に放っておけば外皮やそれに近い部分から変色したり、乾燥したり、傷んだり、或いは溶けたりしてゆく。これが、死への過程である。レタスなどはもっと分かり易かろう。緑だった葉が変色して茶色になり、最後はドロドロに溶けてしまうのである。このドロドロに溶けてしまう状態こそ、アモルフである。どうしてこのようなことが起こるのかについては、興味のある向きには、実際に調べてもらうことにしておこう。
 問題を少し戻す。核が生命を滅ぼす原理についての話である。2011年3月12日に起こったF1人災についてだけからも明らかなように、この人災で放出された放射性核種は200種以上に及ぶことは、核物理専門家でなくとも最早常識。これらの放射性核種の各々が、放出するエネルギーは、生命が、その形態を為す為(即ちアモルフならざる構造を持つために)に使う連携のエネルギーを遥かに凌駕する。生命体を構成する分子結合のエネルギーレベルは、数電子ボルトだが、放射線の持つエネルギーレベルは、数十万から数千万電子ボルトに達する。このエネルギー差が、生命の連携を断ち切ることが、核が生命に重大な影響を与えることの原義である。各放射性核種の半減期にはとんでもなく大きな差があるが、生命体にとって完全に脅威でなくなるためには、一般に半減期の10倍の年月がかかると考えられている。よく挙げられる放射性核種で半減期を例示すれば、セシウム137で30年、セシウム134で2年、ヨウ素131で8日、プルトニウム239で2万4千年、ウラン238(天然)で45億年。但し原子炉内では中性子1個を捕獲してウラン239(半減期23.45分)になりβ崩壊を起こしたU239はネプツニウム239(半減期2.3565日)になるがこれがβ崩壊するとプルトニウム239になる。ウラン鉱山で採掘される鉱石中に0.7%の割合で含まれるウラン235(天然。広島に落とされた原爆材料はこのウランを濃縮)で7億年、ストロンチウム90で29年などだ。内部被ばくを認めないIAEAやアメリカ、イギリス、アメリカの植民地、日本などではDU被害を劣化ウラン弾に使われているウラン238が出すα線と認めていないが、劣化ウラン弾が使用された総ての地域で、癌、白血病、著しい身体欠損や奇形、遺伝子異常などが観測されるのは、偶然ではあるまい。仮にウラン238の出すα線が原因でないとしても、ウランの重金属毒性による可能性もある。第三者機関によるキチンとした検証が待たれる所以である。
 結論を述べておこう。瀧夜叉の敵とは、ヒトのみならず、地球上の全生命を根絶やしにしかねない人間の傲慢や嘘なのである。そして、エネルギーの無駄遣いを平気でしている我々なのだ!
ジャンク

ジャンク

サンハロンシアター

ザ・ポケット(東京都)

2015/09/30 (水) ~ 2015/10/04 (日)公演終了

満足度★★★★

序盤難はあるが
 米軍基地を間近に持つ福生。ここに住むちょっと変わった男・田野の塵屋敷が強制執行の対象となることになった。

ネタバレBOX

執行は午前8時からであるが6時半になると男は室外にラジオを持ち出しラジオ体操を始めた。その傍らには1組の男女。1人はTV局のAD、もう1人はカメラマンである。近隣住民から強制執行の話を聞き取材に訪れたのであった。暫くすると執行の際、塵を収集し運び出すために雇われた何でも屋兄妹・新庄 崇、亜美もやってくる。更にTV局クルーにメモを渡して何処かへ去る若者・井上 賢。メモには電話番号らしきものが記されていた。クルーらは、情報提供者だろうと当たりを付け、取材の下準備に入る。役所からも係りの者が来、強制執行を強行する為警察官も2人やって来るのだが。
 田野はかなり強行に反対する。おまけに自分が取材されることをハレの儀式のように考えている節もあって、強制執行断固阻止の意気が高い。何れにせよ、執行予定時刻が来るまでは、執行側も手出しができないので、現場は宙ぶらりんの状態である。
 だが、事件が起きた。メモを渡した井上が、ビルの屋上に現れたのである。ひょっとすると飛び降りかも知れないと下では大騒ぎ。TVクルーも当初の取材予定はそっちのけで飛び降りる瞬間を取り損ねてはならない、とカメラを屋上に向けて固定、こちらの撮影がメインになる。
 一方、警察官らは、レスキューやネゴシエイターにも連絡を取り、現場へ急行するよう手配していたが、取り敢えず、巡査部長は高所恐怖症なので下の事態に対応し、巡査は屋上に対応して時間稼ぎをしようと手分けしてことに当たっていた。だが、レスキューに出動要請は出したものの、肝心の落下ショック緩衝用の器材に穴が開いて修理が長引いたり、漸く直って空気を入れたら今度は畳めなくなって、持ってくることができないという。到着していたネゴシエイターが妙案を提示し、警察官らはそれに協力することになるが、井上は自殺する意思があるのか否かその辺りもはっきりしなかった。だが、屋上と会話をする為に用意したトランジスタメガホンを彼は、一旦降りてきて奪い演説を始めたのだった。派遣で一生を過ごさざるを得ず、ただ普通に結婚して子供を持ち家庭を築きたいという、ごく当たり前の夢さえ実現できない、と訴える彼の叫びは悲痛である。おまけにその悲痛な叫びも米軍機の低高度飛翔の爆音によってかき消されるシーンが何度も入ることによって、日米地位協定によって植民地化されている日本の姿を分かる者には分からせる作りになっている。これ以外にも現在最終段階を迎えているTPP交渉の件も頭を過る者は多かろう。何れにせよ、トリクルダウンなどの大嘘や、政府の財政支出による経済の底上げというまやかし、大企業優先で中間層を消滅させること請け合いの経済政策等々、安倍のように低能ないかさま師の戦略が下々を苦しめている実態が暴露される。
 ところで、このどさくさに紛れて崇が屋上へ近づいていた。然し井上は、屋上へ出る扉を鎖でロッしたので屋上へは出ることができない。何とかドアを開けさせようとするのだが、井上は頑としてこれを拒むので仕方なく壁をよじ登って屋上へ到達し、彼と話をする。この対話の中で2人のつらい過去や井上のことを携帯の番号から調べたネゴシエーターが言っていたように8時15分に飛び降りる必然性が明らかになると共に、崇が伊達や酔狂で命を懸け屋上に上がってきたわけではないこと、彼の一所懸命に生きている姿の意味する所が観客に明らかにされる。また、ネゴシエーターの仕組んだ塵屋敷解決案と同時に井上救出作戦の同時進行が演じられる。
 ラストが衝撃である。崇が何とか井上を確保し下へ下ろした後、ネゴシエーターは、挨拶をして皆と別れたのだが、屋上から飛び降りてしまう。彼女が最後に姿を現すのは、塵を集めたトラックの塵の山の中からである。即ち、彼女の真の姿は輪廻転生の主体、即ち仏法でいう第八識、西洋流にいえば集合無意識の実態化である。ということは、この作品のメッセージとは、民衆の夢の実現ではないか? 問題の所在は随所で示されている通り、アメリカによる植民地支配である。そして、この認識は正しかろう。人々よ、立ち上がれ、敵は、在日米軍基地にあり!
落語でショー改め「座布団劇場七枚目ッ」

落語でショー改め「座布団劇場七枚目ッ」

占子の兎

阿佐ヶ谷アートスペース・プロット(東京都)

2015/10/01 (木) ~ 2015/10/05 (月)公演終了

満足度★★★

表現する者とエンターテインメント Cを拝見
 今作は、落語のネタをもとに各々を造形化して見せた作品であるが、落語と演劇の衝突を賭して、そこに生じる矛盾や爆裂を唯一の表現と看做すようなラディカルな作品ではない。6話を総じて括るとすれば、人情話が選ばれていると言えよう。

ネタバレBOX

従って、創作サイドの狙いは、観客を癒すことだと思われる。無論、激しく政治が右傾化している第二次安倍政権下での戦争状態を、この植民地の民が狂わず受け入れる方法は、こういうやり方なのかも知れない。然し、と自分は言うのである。ここで狂うことを恐れていては、本質を捉えることも逃すのではないか? 時代がこのように酷く虚偽と瞞着と裏切りと、破廉恥に塗れているというのに、我らの根にある昏く深い我ら自身の倨傲や欺瞞に竿ささずに何をどうすることができると考えているのだろうか? 
 それとも、何の力も情報もなく知恵もない所から諦めが先に立って、情けない侘しい自分たちのせめてもの慰めにという所存なのだろうか? 改めて、表現する者に何ができるのか? という問いが立てられねばなるまい。何故なら、仮に表現に意味があるとするならば、それは、自らの根差す人間と人間性総体を場とする時代と切り結ぶことによって生じている坩堝のような生活・存在の総体の一部に入り込んで、定かならぬカオスに何らかの秩序を与えることに他ならないからである。
その「秩序」が、アメリカの都合による押し付けと目論見によって為されているのが、現在、安倍政権のやっていることであるならhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015092202000210.htmlこの背景にあるのは、アメリカの弱体化による日本への軍事代替である。具体的には、日本全土の沖縄化が考えられるであろう。実際、数々の反対に関わらず米原子力空母、ロナルド・レーガンは横須賀に10月1日に入港した。即ち推定120万KW(2基で)の出力を誇る原子炉を首都圏に置いている訳であるが、出力が推計でしかないことからも明らかなように、事故時に推定しなければならない被害規模の基礎データさえ、日本は持っていない。これが国家と言えるのか? という程度の危機意識は最低限持ったうえで生活したいものである。核事故で、最も惨めな死の危険に晒されるのは、他ならぬ我々自身である。そしてその我々は、選挙年齢に達していれば、基本的に主権者であるのだから。
4時44分、せつなに青く。【ご来場ありがとうございました!】

4時44分、せつなに青く。【ご来場ありがとうございました!】

劇団えのぐ

上野ストアハウス(東京都)

2015/10/01 (木) ~ 2015/10/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

必見の舞台
 いやあ、ほんとに凄い。序盤、特徴のある舞台美術からはちょっとイメージの異なるキャピキャピ感覚で始まった今作だったが、学校の七不思議という断片を辿り続けることで主人公の佐奈が甦らせてゆく記憶は、戦慄そのもの。初日を終えたばかりなので余りネタバレになることは、書かないでおくが、この作品、自分が今年観た年間ベスト5には必ず入れる。因みに今作は今年281作品目の観劇作品で、現時点で今年の自己ベスト3に入る。(追記後送)

硝子の途

硝子の途

劇団ヨロタミ

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2015/09/25 (金) ~ 2015/09/28 (月)公演終了

満足度★★★

筋違い
 被害者の親が、卓弥、康にメディアが報じた内容を抗議するのは、完全な筋違い。こんな愚かなことがまかり通るのが日本だとしたら、救いようがないほど非論理的な国であり、国として体をなさないのも当然である。ほかにも
やはり被害者の親の筋違いや八つ当たりがあるのだが、その行為に対して自らの権利を守る視点からの反撃がないことが問題である。取材をしてこのような事実が浮かび上がったのであれば、その点を問題視するような作品が書けたであろうに。世間の価値観を追認するのは、表現する者の目指すべき視点ではないという気がする。

手のひらを 透かしてみれば

手のひらを 透かしてみれば

企画室磁場

Route Theater/ルートシアター(東京都)

2015/09/30 (水) ~ 2015/10/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

アザデガンとアフガン戦争の本当の意味
 このタイトルでピンとこないようでは、いかにも日本の政治音痴ではある。だが演劇は無論政治ばかりではない。先ず、舞台美術のセンスの良さに驚かされた。椅子が天井から斜めに吊り下げられている。その間にフィラメントが透ける電球がほぼ等間隔にたっぱ位置をずらしつつ規則性を持って吊り下げられている。板上には、矢張りバランスを考え抜いて何気に置かれた椅子など。

ネタバレBOX


 商社勤めの恩田は、シャッター商店街化した地域の活性プロジェクトに関わり、抜群の距離感と庶民性を装う巧みな力で関係する企業からの信頼も得ていた。彼の会社で唯一気の許せる同僚は、金栗である。金栗は、良く彼の住まいも訪ね、彼女との関係についてもよく知る。信じられないことだが、社会人としてできた稀有な友人である。恩田の彼女は、普通の子。彼との結婚を望んでいる。恩田も、本気で考えている。
 一方、恩田の上司である海野は、安倍商事のエネルギーを担当するエリート部署の次長で、恩田に目を掛けている。だが、彼が中心になって進めるイラクのプロジェクトでは、安倍商事の出資金が英国に本社を置くTTKシステムズの関連企業、ICH社という軍需産業を中心に発展してきた企業に流れているという噂があった。金栗は、真実を確かめ為、資料を集め、疑義を直接海野に糺す。海野は一応淀みない答えを返すが、事態は悪化する一方だ。(初日が終わったばかりなので、ネタバレはここまで。以下蛇足)
 当然のことながら、現政権下の不甲斐ない我々の異議申し立てと、某アメリカのパシリでしかない安倍の暴挙を批判的に作品化しているのだが、アザデガンにしろ、アフガン戦争の本当の理由にしろ、某アメリカはバカな国であるから、力だけで押して、結果的に世界をテロの横行する、中国に漁夫の利を与えるなど、アホなアメ公にとって、自らの地獄に近い世界に変えることによって安心を得るという非常に歪な形にしてしまった。当然のことながら、現在、ヨーロッパなどに押し寄せている難民の85~90%は某アメリカが引き受けるのが筋である。だって、某アメリカこそ、彼ら難民を生み出す原動力なのだから。因果応報は当然のことなのである。彼らが例えどんなに独りよがりに神に選ばれた国の国民だなどと抜かそうが関係ない。神とは、彼らが信じたがっているように総てを創った造物主などではなくて、人間によって作られたイマージュに過ぎないのだから。彼らの論理の根拠そのものが嘘なのである。
 
回転木馬は歓びの夢をみる  ~未解決事件の終幕~

回転木馬は歓びの夢をみる ~未解決事件の終幕~

削除

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2015/09/25 (金) ~ 2015/09/29 (火)公演終了

満足度★★★★

純粋芸術と殺人
 表現は着地点を考慮するにしても、一度極端に振ってみなければ面白みや斬新な観点は出てこない。今作は、指揮者の話である。コンサートマスターだ。彼に求められる最低限の素質は絶対音感は無論のこと、その聞き分け、瞬時の総合的なバランス判断、曲想への深く的確でセンシブルな解釈と運用、完全性を目指すことを前提とした到達点への鬩ぎ合い等々、広く深く繊細かつ大胆な表現力である。その頂点を目前に控えた指揮者の大切な演奏会会場で起きる、未解決殺人事件の結末。(追記後送)

このページのQRコードです。

拡大