従軍中のウィトゲンシュタインが(略) 公演情報 Théâtre des Annales「従軍中のウィトゲンシュタインが(略)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    デュアリズム? シナリオ・演出浅いんでねえの?
     余りにも有名でカッコイイ「論理哲学論考」の一節“およそ語り得るものについては明晰に語られ得る。しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない”についての作品である(追記2015.10.20)

    ネタバレBOX

     彼は第一次大戦中、オーストリア軍兵士として最前線に志願兵として赴いた。敵弾の舞う哨戒塔上で彼はその理系の知識を生かした。然し、戦争には、負けた。
     このフレーズは、そのような戦場で生まれたという。前線兵士達の感じていた緊張感、恐怖、寄る辺なさや、底知れぬ慄きを観客に体感させる為に、戦況分析の後の長い暗転の中で演じられる表現は今作の演劇的ハイライトだろう。
     唯、物理・数学・工学にも詳しかった彼が、その哲学に於いて、今作ではデュアリズムに陥っているように見えたのは自分だけだろうか? 自分が言いたいのはディメンションを余り扱わなかったということである。無論、絵画論に触れた所で、三点透視法について言及している訳だから、三次元を二次元に移す方法として絵画を考えていたのだろう。実際、彼自身彫刻や絵画にも手を染めている。オーストリアを代表するブルジョアのぼんぼんとして、その程度は当然のことではあろうが。当然のことながらそれは、彼が言語によって世界を定めようとしたからだろう。そしてその方法こそ、彼の生前に彼自身認めた著作が「論理哲学論考」のみであるという事実をも裏書きしているのではないか? 
     ところで、と自分は言いたい。この有名なテーゼでウィトゲンシュタイン自身は、爪を引っ掻き乍ら存在をずり落ちて行くレヴェルで己を問うていたのか? についてを! この問題こそ、ナチに加担したとして批判に晒されたハイデガーの原点であろう。即ち、ザインではなくてダーザインの問題である。だが、実存は、政治レベルの問題ではなく、存在そのものへの疑義の問題である。世の馬鹿共の抜かす浅い問題ではないのだ。
     世の中には混同が多い。否、混同が齎した誤った判断が、多数決というコンセンサスを得て敷衍するケースが余りに多く、その可也の部分が間違っている。おまけとして愚衆が増える訳だ! これら愚衆に反してそれなりにキチンとした思考をし得るインテリ及び知恵のある者がどれほど深い絶望を抱えているかは、そうでない大多数には及びもつくまい。幸か不幸かウィトゲンシュタインは、このマイノリティーに属している。だが、ロマンティストという時代の限界をも抱えているであろう。その彼のテーゼを有難がること自体が危険である。哲学は、常にここから始まる。我々の為すべき唯一のことは、裸の自分と向き合うことである。

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    2015/10/18 14:51

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  • タイトル通りの疑義あり
             ハンダラ

    2015/10/20 04:01

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