満足度★★★★
タイトルはマザーグースの歌から採ったそうである。手元にあるマザーグースの歌の中には無かったものの、そういうことらしい。まあ、マザーグースの歌はかなりの数があるということだから手元にある200ほどでは埋め尽くせないということでもあろう。
ネタバレBOX
作品の中には邯鄲の枕の話が出てくるし、夢と現の曖昧模糊とした辺りは、複合意識の底に蠢き台風の目のように明澄でありながら、目の前に在るのに触れられない不可解なギャップや思いがけない跳躍、訳も無い焦燥感などを睡眠障害として訴える顧客たちの言動や、添い寝屋のナオが出遭った少女との邂逅を懐かしく而もどこか白々しく感じていたことに集約されよう。実は少女が夢と現の橋渡しをする存在であり、彼女の能力は夢と現の等価交換にあり、それが実施された暁には、ナオの現実から、何かが失われてゆくのであった。挙句、ナオは少女と対決するに至る。その勝敗は五分と五分。1年後、大学も止め消えたナオを追って部屋を訪ねて来たかつての客に、ナオの唯一の大学時代の友人は、彼の消息は杳として分からぬことを告げるが、顧客は、そういう訳だのに、電気も水道などのインフラも、部屋の様子も当時と一切変わらずに維持されていることを告げる。残ったものは、何とも言えぬ不如意な感覚である。そしてそれは我々の体温に似ている。
満足度★★★★
柳井 祥緒氏、森本 薫氏の作品である。柳井氏の脚本に関しては、流石と言うしかない。柳井氏の作品は花5つ☆、森本氏の作品は3つ☆全体では☆4つとした。2作品の間に休憩が10分入る。柳井氏の作品は絶対見るべし!(追記2017.6.4 02:30)
ネタバレBOX
どんなに才能のある作家にも出来不出来というものがあるものだが、柳井氏のシナリオに限っては、今まで拝見した総ての作品に出来の悪い、という作品が一作も無い。その中でも今作は「艶やかな骨」と共に出色の出来栄えである。こういう作品に出演する役者は幸せである。何故なら、作品が、役者を活かすからである。演じることが生きることに繋がるシナリオなのである。或る程度、シナリオが良ければ、良い役者は、シナリオを生きることができる。だが、このシナリオは、演じることが、生きることに重なる。そのような稀有なシナリオなのである。
柳井氏のシナリオが生のシナリオであるなら、森本氏のシナリオは死のシナリオであると言えよう。書かれた時代の背景もあるのかも知れぬ。何と言っても治安維持法下の作品である。それ故に森本が敢えて死の作品を書いたのだとしたら、その才能は驚嘆すべきものであるが、シナリオ自体の出来で比較すると、柳井氏のシナリオを百点とすれば、森本氏の作品は、50点ほどか。
では、柳井作品のどこがどのように生に繋がるのか? それは、今作の主人公、伊坂なみ女の芸術家としての生き方が、人が人としてあるべき尊厳を湛え、而もそのことが、芸術の目指すべき真の姿に重なると同時に、その精神の根底を支えるものが、徹底的に率直であろうとする姿勢であり、そのような生き様であることに起因している。アーティストは、そのような生を実践することによってのみ、プライドを維持する。そして、このプライドが、治安維持法下での戦争協力をさせなかったものの正体である。
それに引き替え、彼女の師であった蒼穹は、表面的には戦争に加担しないというアリバイ作りをしながら、その実、特攻基地に密かに潜り込んで時流におもね、死に行く若者たちに句を書いていたのである。彼女は、それを食堂の賄婦として働きながら観ていた。
その辺りの事情をなみ女の妹弟子、凪子との句合戦で明かしつつ、天才の持つ力の源泉と其処から生み出される、言の葉の息吹として、劇化し演じてみせるのである。じっと、物事を見つめ、深く本質を見抜いて、その本質に生命で触れ、理解し葛藤し昇華する。これら総てが舞台上で表現されるのである。深く打たれぬなどということが在り得ようか!?
ところで、以上の内容が劇的に設えられる前提がある。それは冒頭で、なみ女が、句を止め、句集を寺に奉納するとして、彼女の親友、ヨネが、住職に話をし、住職がもう来ることになっているシーンから始まるからであり、なみ女がそのような決断をしたのは、蒼穹に葉書を出してから10日経っても返事がなければ、句界を去ると決めていたからである。凪子が師の「句会へ戻ってくれ」との伝言と共にやって来たのは11日目であり、ヨネとなみ女の関係は、或いは凪子同様なみ女を愛していたからかも知れぬというサッフォー的な意味合いも含めての女同士の三角関係であり、師の偽善となみ女とのアーティスト魂との戦いであると同時に、彼女がミューズから愛されているか否かを賭けた戦いでもあったからである。この前提の中にも生命の激しい燃焼が炎を煌めかせているのが見える。
満足度★★★★
短編4本からなるコメディーと銘打った公演だが、劇小劇場閉鎖へのレクイエムとも取れる切なさ籠る作品群だ。(花四つ☆)
ネタバレBOX
1本目は設定が中学3年生ということもあり、若干、力の入り過ぎた役者も居たが4本とも脚本が良く、そのほかの作品では演技・演出も落ち着いて役者陣もいい味を出している。作品相互の関係は緩やかに繋がるものと独立したものがあるが、齟齬は感じなかった。一本目以外はシチュエイションも大人のものとなるので、人生の味・深み、苦さ等が良く出ているせいもあるだろう。一方、1本目のダメ三銃士たちは、もっと恥ずかしげに、ナイーブさを出しても良いかも知れない。その方が如何にも気弱でダメな男の子らしいように思う。要は思春期の男の子の持つはにかみを、ある程度ストレートに出しても良いのではないか? と考えるのだ。大人の話になる3本は、笑いの中に、何れも身につまされるシーンが鏤められており、頗る楽しんだ。
満足度★★★★
今作、2度目の観劇である。前回(3月末)と大きく変わった点は、
(気まぐれ追記2017.5.31)
ネタバレBOX
舞台美術。駅の椅子などにも変化があったが、最も大きく変わったのは、客席天井も含めてラップが垂れ下がっていたり、メインの登場人物2人の体のかなりの部分にラップが巻きつけてあることである。このラップの意味をどう捉えるかという点と、ちょっと分別が難しいのだが、場面が駅ホームなのか、公園なのかである。公園の時、できれば街灯の一つも立てておいて、電燈のオンオフでどちらの場面なのかをハッキリさせ、対比を明確にするなどの演出があった方が、演劇がより立体化するように思う。また、度々衣装を変えて登場する女性と、自殺志願者2人の社会的関係がどうなっているのかについても、より明確なビジョンがあった方が良かろう。つまり、自殺願望を持っているが故に社会の「埒外」で暮らす2人と自殺を望むという陥穽に陥っては居ない精神的に健康な人との対比として女性を位置づけるなどである。
一方、自殺願望を持つ2人の揺らぎは、対自関係を喪失するレベルの、つまり即自存在に陥るか否かの瀬戸際であろうから、互いの位置が入れ替わるというのは、実存の不如意を表現しているようでこのままで良いように思う。2人の男性の内の1人は呆けることを恐れ、自分の人生を自分で判断することができなくなることを恐れて自殺を考えているのだが、それには彼の祖父、父も呆け、本能をむき出しそれ以前には考えられなかった痴態を演じた事実が横たわっていた。人間の尊厳と本能とが鬩ぎ合う、長生きの時代には避けて通れない問題が提起されていることも見ておきたい。同時に1年の長丁場、様々な実験をしつつ表現の可能性を探って欲しい。
満足度★★★★
Aキャストを拝見。花四つ☆
ネタバレBOX
中学時代からの仲良し3人組が、ユニットを組んでバンドをやっている。然しイマイチ売れずに高校卒業から7年が経過した。結婚も、恋も、バンドもしたいが、どうも座りが悪い。おまけに割り振られていたチケットノルマ代金として払った金も掠り取られてしまった。リーダーのはるかを愛することえは、ユニットを続ける為に売り迄やっている。おまけにななは右手を挟んでもう楽器が弾けないかも知れない怪我をしてしまった。そんな彼女たちのどん詰まり、誰も居ないハズの隣室から、自分達の曲が流れ、自分達がもう一人ずつ居て、自分達と同じように女子だけの音楽ユニットを結成しているのだけれど、あちらは、時に千人ものファンを動員する。
だが、隣部屋の自分たちも決して順風満帆ではなかった。公演を打つ為に、向こうの琴絵もプロデューサーと寝ていたし、楽器を離れてエアーでパフォーマンスだけやっていることに遥と奈々の衝突の原因があった。一方、こちらのはるかは、原則通り、ギターと自分達の作ったオリジナルの曲・歌詞で勝負するという道を選択した。それが間違っていようと、正解だろうと自分が選んだことに責任を持って生きてゆこうという姿勢に辿り着く。隣同士のはるかと遥の対話の中でこの経緯が紡がれてゆくのだが、このシーンこそ、実存主義の最も本質的な部分と言って良い。
若い女性の柔らかい感性と結婚適齢期の彼女たちの悩みがこの心象の揺らぎを作り出しているのであろうが、この揺らぎを通じて実存の本質に迫ったシナリオの良さと、演じる者達の実年齢と役の年齢が近いことからくる演技の自然な感じも良い。立ち止まらす、最後まで走り続けて欲しいものである。
満足度★★★★
女性4世代の賑やかでぶつかり合いの多い生活は、大婆ちゃん、小婆ちゃん、お母さん、孫までが同居。
ネタバレBOX
東京の住宅街にあるマンションでの生活なのだが、流石に4世代も揃うと、それぞれの抱えてきた歴史も異なれば、社会参加の仕方も異なる。一方、血は水より濃いのか、互いに一途で負けず嫌いな性格には共通項もある。そんな女性4人が、それぞれの抱えた条件の中で如何様に生き、傷つき、記憶し、戦い、のたうち、魂の底に何かを沈めてきたのか? そしてそれらの結果の今を如何様に生きているのか? が描かれた作品といえよう。通底しているのは、今現実に我々が生きている日本に着実に忍び寄る戦争の足音、核汚染の恐怖と政府のプロパガンダに載せられ、或いは其の地から逃れられない事情から留まり「復興」への足掛かりを作ろうともがく人々への共感と連帯を求めて、一人は皆の為に、皆は一人の為にというかつて流行ったスローガンの健全な発露のようにふるまう大婆ちゃんの姿である。何故、彼女はそのような生き方に拘るのか? 何故80を過ぎて迄、辺野古に座り込みに行くのか? その答えは彼女の歴史の中にあった。彼女は信州から入植した満州開拓団の家族であった。父は教師、哈爾濱に入った。齢2歳である。然し敗戦の8月ソ連はソ満国境を越え攻めてきた。関東軍はとっくに逃亡していた。逃げ惑う民衆は或いは殺され、女はレイプされた。無論、女たちは坊主頭にし貌は黑く汚していたが、そんなことは何にも役に立たなかった。機関銃を抱えたロシア兵たちは、胸に手を突っ込んで女とみれば犯したからである。母も姉も父と大婆ちゃんの見ている前で犯された。父はまだ幼かった大婆ちゃんの目を手で塞いでやることしかできなかった。その後、満州から落ち延びる際、再度ロシア兵に襲われたことがあった。隠れていた大婆ちゃんも見付かって危うい所を姉・母が身代わりになって助けてくれたが、姉はその後、河に身を投げた。15歳であった。大婆ちゃんは復讐を誓った。ロシアとロシアの横暴を許して自分達だけは先に逃げた日本軍に対してである。
未だに沖縄の人々の辛酸に共感し、80を超えた今も沖縄に座り込みに行くのは、沖縄では未だ戦争が終わっていないことを知っているからである。現在司法を含めて沖縄の人々の心と魂を砕こうと躍起になっている政府に理のあろうハズもなく、理を主張できるのは沖縄であることを充分に知っているからである。沖縄戦では、島民の25%が亡くなったと言われている。現在も続く占領下で喘ぐ沖縄の姿が、明日のヤマトの姿であることを大婆ちゃんは見抜いている。
ところで、現在、皆の生活を支えているのは小婆ちゃん、近所の評判なども気になり、大婆ちゃんの正論をすんなり受け入れられない。おまけに大婆ちゃんに対して間違った記憶が原因になって対立していた。(上演中故ネタバレは此処まで)
満足度★★
若干の奇術の後、オープニング早々ダンスが始まるのだが、演出家は稽古の際何をやっていたんだろう。
ネタバレBOX
ダンサーで無いメンバーが多いので歩き方がなっていない。これでは唯幻滅するばかりである。ダンサーだけに絞って躍らせるべきであろう。醜悪だ。観客層は若い男女から壮年迄の幅があったが、観客の目をなめた演出としか思えない。
いくつか演目があるのだが、ダンサーがソロでタップをやっても、本当に難易度の高い芸は見せていない。否そこまでの実力はないのである。芸としてまともに思えたのはマジックとギターの弾き語りだ。但し弾き語りで歌われている老人はボージャンである。人々からそう呼び習わされている老人はダンサーであるが、年をとっても高いジャンプ力を誇り、誰からも好かれる芸人だ。人々はそんな彼に尊称としてbeau Jeanと呼んでいるか或いはbeau gensと呼んでいるのであろう。元歌が何処の国の歌か訊ねなかったのでハッキリしたことは分からないがシャンソンであるなら、自分の解釈が成り立つハズである。因みに歌った人は、固有名詞、ボージャンと捉え「変な名前ですね」と言っていたが、これは演出ではあるまい。単に知的怠惰であると判断した。一応、2部構成になっていて第2部はミュージカルという触れ込みであったが、これも出だしで引っかかる。ミュージカル仕立てにし、作品の概要を説明しなければならないなら、せめてシャイクスピアの「夏の夜の夢」に登場するパックのようなキャラを作って劇中でそれを告げる形にした演出位はして欲しいものである。ミュージカルと言いながら、いきなり録音を流すような酷い手抜きは、作る側の感性を疑われるだけである。
満足度★★
何を言いたいのか、当パンを読んでみても観劇後にもよく分からない作品である。描かれているのは、表向きの反応と内面に齟齬があり胸襟を開けない親子、男女、夫婦、内縁関係等々の関係を持つ人々のぎこちない距離感と鞘当、互いに居場所が見付からない者同士の苛立ちの応酬等々。
ネタバレBOX
そこに未だ還暦迄2~3年のこの複雑な家族構成を作った父親の認知症発症や、別れた妻の死後ふいに現れた娘とその夫(だが正式に離婚しているのか否かも曖昧)と関係総てが曖昧模糊とした中で展開してゆくので観ている者には不快感しか齎さない。といってディスコミュニケーションを積極的に描いている訳でもなく、曖昧模糊をそれ自体として問題化しているようにも見えない。総てが三人称的視点を欠落させているのだ。
役者陣の健闘はあるものの、本が徹底性を欠いていて、自分には評価できない。本の評価は1、役者の演技は4、演出は2、そしてスタッフの配慮が2。総合評価2とした。
満足度★★★★★
1982年の浅草の寂れた小屋を舞台に、東京アンコンの面々が、今回も笑わせてくれる。
ネタバレBOX
無論、笑わせるだけではない。人情の機微を随所に織り込みながら、ほろりとさせる場面も忘れない。この辺り、流石に下平 ヒロシさんの脚本・演出である。無論、アドリブセンス抜群のイジリーさんと下平さんの掛け合いは健在である。
話は漫才ブームにすっかり客足の遠のいた大衆劇場、福の屋の小屋主の借金塗れの窮状を何とか救おうと1か月の公演を打つ人気劇団、松沢一座の面々と福の屋に地縛霊として住み着いている幽霊達の人情噺が基本となって、旅芸人たちと小屋主、そして幽霊の姻戚関係までが明かされてゆく中で親子の情が見事に昇華されている。
1980年代初頭の浅草の雰囲気を、変に論理的に説明口調で喋るイジリーさんの科白が、地の雰囲気の中に鋭角的に刺さってゆく辺り、浅草のどこかキッチュで懐かしい場の雰囲気との対比がそれぞれを更に際立たせて印象ずける辺り、下平さんの筆の冴えを見るべきであろう。
無論、劇中劇として演じられる松沢一座の芝居も、如何にも旅回りの役者の演じる芝居という雰囲気を実に良く出していて感心する。演目設定もそれらしい、問われた名を名のることができない渡世人となった息子と母、助けられた妹の話で、涙を誘う定番である。客からの御捻りも万札で拵えたレイなど実に旅回りの役者稼業の定番をキチンと押さえているのは、地元を大切にしているだるま座の、地場との深いかかわりと相互理解を示していよう。
上演中のこと故、更なる感動を呼び起こすであろう場面のことは敢えて記さないが、これは観てのお楽しみ。兎に角、楽しめる。そしてジンとくる。
満足度★★★★★
シニア劇団櫂人の第3回公演だが、休憩を挟んで2時間55分の大作だ。描かれているのは1911年から1923年迄、平塚 らいてうらの雑誌「青鞜」や大杉栄 荒畑 寒村らによって発刊されていた「近代思想」と「平民新聞」、島村 抱月・松井 須磨子らが旗揚げをした芸術座など、新たな社会思潮が台頭した時代である。シナリオは宮本 研、演出は篠本 賢一である。
(追記2017.5.26) 必見 花5つ☆
ネタバレBOX
驚かされるのは、当に現代日本の鏡という点である。全然古びていないどころか、今、この国に起こっている事象を歴史的視点から俯瞰してみせてくれるような作品なのである。長尺の作品であり、役者が基本的にシニアということもあって稽古は9か月に及んでいるが、作品の選定は演出家の篠本氏による。慧眼というべきだろう。
舞台は、時代を画した標記三グループの相互交流を通して、これら自由で斬新而も快々な思想・実践を容認できぬ旧弊な勢力・官憲らの弾圧の底に何が横たわっているのかを示唆する。それをラストで甘粕に対して述べる野枝の科白に観てとることができる。要はやっかみ、そしてコンプレックス(複合意識)である。この場面、無論、酷い拷問等によって殺された二人の死の史実とは異なる。そうまでして宮本 研が書きたかったことが科白として書かれているのである。そして、これは本質的なことだ。我らの暮らす現代日本に於いても、この科白が示した人間性に立脚した普遍的価値観を追求する姿勢に対する、日本の権力者、そして御上に逆らうことのできぬ民の発想は変わらない。このことが、現在に於いて尚、今作が聊かも古びない原因である。
満足度★★
今作の作者は、虚構というものを描きたかったというのであるが、残念乍ら、演劇というものへの方法と理解がまだまだという感じが否めない。
ネタバレBOX
というのも導入部で完全暗転でもなく板に着き、観客の日常の時空から演劇的時空への飛翔を阻害しているからである。これなら開演前から板に着くなり、場見テープを貼って位置に着くなり、ちょっと費用が掛かっても良ければ緞帳を吊るすなりいくらでも方法はあるだろうに。
余りにもモラトリアムにどっぷり浸かっていて、非現実と現実の決定的な差異を認識していないのではないか? そう感じたのは他でもない。冒頭にポリフォニックに演じられるさざなみ降る云々の科白群に対するリアルが何処にも提示されていないのだ。これでは、描きたかった虚構性は霞むだけだろう。そもそも演技をこととする演劇自体が虚構であることは明々白々なのであれば、虚構を演劇的に虚構化する為には、敢えてリアルを対置させる工夫が必要なことは自明である。だが、作者のアイデンティティーが、想像の域を出ていない為に、作者が現実だと思い込んでいる事は、実際には仮想現実であるにすぎず、結果、イマジネールな情報に対して、別箇の情報を対置することしかできていないのである。作者にお勧めしたいことは、そのモラトリアムを内側から破り捨てることである。
満足度★★★★
前半、演技過剰で演出にダメ出しをしたいと感じたほどだが、脚本は悪くない。役者陣も後半佳境に入ってからは脚本の身の丈に合った演技をしてくれたので、原因は初日の緊張にあったのかも知れない。年1公演というペースだというから緊張するのは分からない訳ではないが、役者陣は自らを歌舞いて欲しいものである。
ネタバレBOX
シナリオには、いくつか因縁話が絡み、基本はコメディーでありながら、涙腺を潤ませる人情喜劇に分類されようか。ヒロイン役の印象が、しょっぱなの反発から、良い感じに変わってゆく点、演じる者と観る者との相関関係を通じて、我らの日常の中での他者評価、互いに演じ合って生きている我らの生活を振り返らせて面白い。
満足度★★★★
役者たちが、熊本弁で喋り実に自然に、日常的だが極めて個性的なキャラクターを造形してゆく。花四つ☆
ネタバレBOX
スリリングに見えるのは、間の取り方が実に巧みで、脚本が人間関係というものの本質を捉えて提示しているからだろう。元々、九州の劇団ということもあり、舞台美術は箱馬と幅の狭い平台を用いただけのシンプルなものであるが、却ってこれが効果的である。本の良さと役者陣の演技、そして演出と効果という芝居の芯の部分に集中させる役割をも果たしているからだ。状況設定も良い。味のある、癖になりそうな舞台である。
満足度★★★
基本ファンタジーなので子供っぽい部分もあるが、一方童話が本来持つ残酷なリアリティーを取り込むことによって、苦い現実との邂逅をも呼び込んでいる点がグーだ。
ネタバレBOX
この辺り迄踏み込んでの作品作りなので、人生の諸相で我々が出遭うことになるもの・ことの本質を織り込むことができる。当然、シナリオの骨格はしっかりしており、役者達のアドリブセンスの良さも手伝って、軽めながらバランスの取れた作品に仕上がっている。
満足度★★★★★
花5つ☆
舞台は板が青、そこにやや右肩上がりに丁度卓球のラケットのように小豆色の平台を置いて二重舞台にしてあり、奥には黒いアコーデオン式の衝立に、赤い紐が抽象的な図形を為している。
ネタバレBOX
凡そ正方形の平台の上には、これも平台に対して斜めにテーブルと椅子が置かれている。登場人物は3名。3人が3人とも実に上手い。演技に唸ってしまった。シナリオも抜群である。2006年初演ということだが、時代の流れに合わせてホンの少しいじっただけで、他は手を加えていない。これだけ完成度の高い脚本ならそれも納得。而も舞台美術から小道具に至る迄一切無駄が無い。平台やテーブルが、客席に対してやや斜めになっているのもシャープであると同時に観易い。演出も緊密なシナリオ、芸達者な役者陣の能力を引き出し終始緊張の途絶えぬ良い舞台に仕上げている。内容的にはミステリーなので種明かしはしないが、お勧めの舞台である。無論、照明・音響共にそつの無い上質のものであった。
お勧めである。
満足度★★★★★
この劇団を拝見するのは今回で3回目。今、自分が若手劇団の中で最も注目している劇団である。兎に角、切り口が毎回新鮮で斬新。
オープニングで明転すると、椅子やテーブルが段ボール製であることが即座に分かる。テーブルに至っては足の部分がミシュランのタイヤマンのように輪切りの円筒を積み重ねてあるのだが、重心をしっかり取った上で最大限相互がずれているのである。従って視覚的には非常に不安定でありながら、物理的には安定しており、その物理法則と視覚とのギャップが既に舞台上の緊張を先取りする形で提示されている訳である。(追記2017.5.15) 断固観るべし!! 花5つ☆
ネタバレBOX
ここに主婦友グループ、少女時代からの親友グループが交差邂逅するという劇の劇たる成立事情がさりげなく織り込まれている。実に本質的である。
だが、一方で描き方にも捻りが加えられている。時系列を敢えて混乱させているのである。当然、関係は、不確かになる。即ち存在の裸形、儚さが強調されるという訳だ。その儚さこそが、生命の営みの本質であるなら出会いは即ち切なさそのものである。その切なさを面倒くさい、と遠ざけていた間、山口(アロエ)は存在感を保っていられたのだが、面倒を避ける為に合理的であった彼女は、松田(もんしろちょう)の嘘をきっかけに桜田(マロニー)の嘘も含めて人間の負の部分にも気付かされ、抽象的世界観から具体的世界観への窓を開かれる。すると、儚さそのものであったもんしろちょうとの関係が逆転する。ここには、蝶が卵・幼虫・蛹・成虫へと変身してゆくイマージュがある。同時にマロニーが商っている麻薬と鱗粉、麻薬の齎す幻覚などのイマージュが微妙に交差しつつ、ジャンクフードを食べる階層とドラッグの関係も透けて見えるのだ。更にサッカー選手を夫に持つ森(運動嫌いちゃん)は、華やかに見えるスポーツ界・芸能・マスコミ界等の虚妄性を示唆してもいよう。みー、けいの女友達同士もかなり擦れ違い要素を持つ。儚い命を懸命に守ろうとする者が絶望の果てに総てが嘘だ! と断定したくなるような、世界の只中に唯一登場する男性、ともくんは、主婦友と同級生との蝶番。で何を訴えているかというと、今回は、切なさを描いて秀逸! そう自分は捉えた。
満足度★★★★
幾重にも跳ね返される展開の底に潜む病の深刻さが、物語の本質、恋を純化してゆく点に今作のシナリオの良さがある。
ネタバレBOX
恋とは微妙な成り行きだ。釦の掛け違え一つで、それは命に或いは命より大切だと思える何かを破壊し去ってしまう。そんな状況を病と生命そのものの炎の鬩ぎ合い、時として魂の崩壊を齎す事例として提示した。
満足度★★★
舞台美術とそこで演じられる内容との齟齬を感じた舞台。
ネタバレBOX
色々な意味でアンバランスである。舞台美術と役者数がマッチしていない。話の進行する場は職員室なのであるが、使われない道具類が多すぎる。(コピー機、上手壁際に置かれた段ボール箱、体育教師の机横の塵、上手奥のロッカー等々)。また、職員室が中心で話が進むなら先生方の席はそれぞれ決まって居るハズ。ところが、殆どの教師が、誰の席か分からない所に腰かけたり、登場する教師数と机の数が食い違ったりして、虚構の成立する場としての舞台空間に安定性が無いのである。このことを含めて“絶句するコンテクスト”なのだとしたら、この設定は失敗と謂わざるを得ない。絶句するほどのコンテクストを表現する為の舞台設定には絶対的バランスが必要だからである。それさえあればシナリオが活きてくるだろう。その為には、舞台はもっと抽象的であっても良かったかも知れぬ。そして職員室でなくても良かったかも知れぬ。例えば、体育館。それも災害があって皆が其処に避難しているという情況設定にして、仮に作られたプライバシー保護空間での出来事、などとするのである。
満足度★★★★★
ほどなる。タイトルにも捻りがあった。祝20年!
ネタバレBOX
。舞台の作り込みにもセンスを感じる。センターに応接セットと利用案内のパンフレット、珈琲マシンなどの接客用備品を配し、ここを中心にシンメトリカルに部屋が各1。上手・下手の壁際が出捌け口になっている。シンメトリックな部屋が良く整頓されているのに上手の椅子が一脚だけ、手前に倒れている。これだけでドラマが成立しているというセンスの良さに先ず感心した。無論シンメトリーは、安定感とホテルとしての品格をそれとなく表現してもいる。
或る程度の数、舞台を拝見していると舞台美術を見ただけで、作品の質が評価できるものだ。良い舞台を作る劇団の作品は基本的に質が高い。今作もこの原則を裏切らなかった。
シナリオが抜群である。オープニング数分間の演技で鈴木 幹子役が少し演技過剰と感じたが、この点を除けば役者の演技、演出の付け方も素晴らしい。初日でちょっと硬くなった点もあるだろうし、笑いを取りに来ている側面もあったので、或いはわざとあざとい演技をさせたのかも知れないが。ヒロイン平沢 夏美役の熱演も素晴らしい。
ところで、シンメトリックに配置されたルームには仕掛けがある。顧客カードで、このホテルの御泊り客が出入りするのである。その模様がどんなものかは想像してのお楽しみ。ヒントは“タイトルにも絡む”。この仕掛けで動く装置が、それらしくてスマートなのも見所の一つ。
さてさて、此処から先は、ネタバレが多いので、先に観劇したい方は、先ず、観劇することをお勧めする。
シナリオの良さには、エンバーミングとその行為への深く適切な知識や新人研修という形で多くの業界用語を知らせ、観客にその特殊性を深め納得させる一方、同時に般化し普遍化している点に齟齬がなく、掛かるが故に人情の機微を上手く溶かし込んで、実にスムースにバランスよく、それでいて物語の山・谷を随所に鏤めながら仕上げていることが評価できる。
照明、音響などのタイミング、効果も上手い。役者の演技レベルも高い。
満足度★★★★
全面黒の板上にやや右肩上がりに組まれた平台や箱馬。観客席側はマンションのベランダ。この窓辺からは、近隣の工場の高い煙突が見え、風下に当たることが多いこのマンションには、臭気が漂ってくると、さくらは言う。
ネタバレBOX
臭いがあるから原発関連ではないが、人間が作り上げた技術の齎す害という意味では共通項がある。而も空焚きというタイトルや締め切った部屋で暮らす「主婦」、さくらの精神的崩壊をも考慮に入れるなら、原発人災の検証として創造的に構築し、且つ想像力的にマッチングさせた方が、更に刺激的且つ風刺の効いた作品に仕上がったであろう。
何れにせよ、結婚詐偽師、さくら(かな)の虚ろな心象に映りこむもの・ことが本当にあるのか否かについて、劇団の傾向もよく分からないまま今作だけで即断することはできないが、原発人災や人間の作り上げた技術の齎した虚ろの抱える退廃だけは確かなものであるように思われる。
オープニングのケンジの独白にリアリティーが無いと感じたが、物語の進行につれて、これはこれで良いのではないかと考えるに至った。何故ならここではケンジの受け身の姿勢を強調する今回の演出で良いと思えるからだ。ところで、随所に挿入されるボレロの使い方もユニークである。通常、ボレロが掛かるシーンでは感情を最大限盛り上げてその高揚と共に音響も高鳴ってゆくのだが、今作では掛かる度にその意味合いが異なる。而も総てに共通しているのは、通常の用い方の箍を外すという方向性である。即ち、空虚に飲み込まれてゆく総ての人間的努力の空しさを補完するような形で用いられているのである。考えさせる作品である。