満足度★★★★
いつもとはちょっと作風を変えた作品。(華4つ☆)にゃ~、二郎の表記がまちがってたにゃ~。べんかん!!
ネタバレBOX
敢えてドラマツルギーを壊して全き日常性から、表現する者として立ち上がり、土が土を捏ねて何らかの表現に到達しようと、己の実生活を見つめ、表現のできれば普遍レベルへチャレンジしようとする物語。ラストの一見漫画チックだが、そして途中に脂ギッタギタのラーメンの話が出てくるのに妙に爽やかなのは、言葉にするのは恥ずかしいが、純な表現への欲求が描かれているからだろう。以下には、今作に描かれる二郎系ラーメンの本家本元の話を書いておく。何となれば、自分は、本家本元のラーメン二郎の常連の一人であったから。
では、参る にゃ! ラーメン二郎は、田町・三田から近い慶応大学の正門或いは重要文化財指定されている図書館側の門から近い位置にあった小さなラーメン屋。当時、未だラーメン戦争は無かった時代で、無論、地元では口コミで有名になっていた店ではあったが、基本オヤジが1人でやっていて3角カウンターに12、3人座れば満杯。旨いとか不味いとかの評価より、食えるか食えないかが、先ず本質的問題だったのではないかと自分や仲間は思っていた。食えれば絶対病みつきになるラーメンだったのだ。因みに当時、日本で営業しているラーメン屋は、醤油ベースで鳴門や法蓮草などもトッピングされたあっさり系が未だ結構あって、油が層を為し、臭いも九州ラーメン的臭みを発するようなものは余り無かった。そういう意味では革命的ラーメンでもあったと思う。安くて、ボリュームが凄くて、オーダーに独自のスタイルがあって一元さんはちょっと入り難い感もあった店であり、トウシローがオーダーの仕方も分からずに、今の内装にする前のエンコの神谷バーに来ていたホワイトカラーのように場馴れないオーダーをしたり、愚図愚図しているとホントに冷たく白い視線が居並ぶ常連から浴びせられる。そんな店であった。だが、一度、食えた者にとっては、何としても乗り越えねばならぬ壁、直ぐにノウハウをマスターして常連の仲間入りを果たした。
紡いでゆくことの果てには、このような日常を自らのものとしてゆく為の努力と知り合った人々との人間関係の形成、そして仲間になることや、仲間になって何か一緒に作ってゆけるほどの濃い付き合いに至る過程と、その上で意識的に創造的な関係を築いてゆこうとする実存的選択がある。この辺りの事情が、小劇場劇団の作・演出家VS役者のキャスティングや役作りを巡る作品解釈、矢張り自分があわよくば自分の解釈通りに作品を作り上げたいとの自然な欲求との争闘として若干コミカルに描かれている点もグー。
満足度★★★★★
舞台は下手から上手迄ほぼ全面をカバーする平台の中央辺りに出臍を取り付け、観客席は舞台に対して片仮名のコの字の形に設えられている。会場入り口は、客入れ後締め切られ、黒の緞帳が掛かって出捌け口として用いられる。もう1か所の出捌け口は、平台上手奥だ。
ネタバレBOX
平台の中央上には、新郎新婦席が設けられ、ケーキカット時には、台とケーキが持ち込まれる。式次第は、通常の婚礼通り、ちょっと変わっているのが、人前結婚式であるということだ。神前婚や、仏前婚ではなく、列席の人々に承認されるタイプの比較的新しい結婚の形だ。従って仲人などという前近代的な仲介者は居ない。新郎・新婦入場後、司会者が式の流れを取り仕切り、2人のなれ初めなどを紹介、スタッフは典礼に基づいて粛々と式を進めるハズであった。
ところが、指輪交歓、婚姻届署名と進む中、新婦の様子がぎこちない。交際3年でのゴールインなのだが、不自然なぎこちなさなのである。ケーキ入刀で、新婦は終に控室に逃げ込んで内鍵を掛け内部にあったソファーから何から破壊している模様である。会場は、次の披露宴の予定が入って居る為、スタッフは気が気でない。
新郎は身の置き所が無いのだが、何れにしても何故、新婦がこんな状態に陥っているのか理由が分からない。そこで控室に乗り込んで訳を訊ねるのだが新婦は答えない。然し、新郎以外の恋人は居ないのだと言う。今も新郎以外に愛する男性は無い、と。然し何故結婚式を台無しにしているかについては全く答えないのだ。スタッフらのトリナシもあり、式場に戻った2人だが、会場には、新郎の元カノが来ていて、1週間前に「彼に捨てられた」と言い出して会場内は大騒ぎ。新郎は別れたのは3年半前だと反論するのだが、このような状況下では、女性の主張が支持されやすい。追い詰められた新郎に偶然が味方する。新婦友人として挨拶した女性が落とし物をしたのだが、其処に書かれた名前と出席者名簿の名前が違っていた。矛盾の説明を求められた女性は、自分は、派遣されたエキストラだと白状、新郎の元カノもエキストラであった。偶々、来たら新郎が元カレあったというだけで別れた理由も彼の仕事が忙しくて中々一緒の時を過ごせない寂しさから以前付き合っていた男と再び逢瀬を重ね、偽りを重ねていたのが原因であり、別れたのも彼の言う通り3年半前であったことが明らかになる。
さて、新婦がぎこちなかった理由であるが、新郎の上司の提案で為された新婦当てゲームを通してその理由が明らかになる。ちょっと脱線するとヌーベルバーグをパクってニューシネマと称しアメリカ映画界は映画思想史に生き残ったが、その後のハリウッドの堕落は凄まじく陳腐としか言いようのないプロパガンダ作品を量産し続けている。が、今作はそんな下司用作品では無い。来週、もう1回公演があるので、それがどんな問題であったかは、観てのお楽しみだが、ヒントだけ書いておく。その言葉は聞いたことがあっても、当事者でない者には、その深刻な苦悩が如何なるものか想像しようともしない。そんな問題を抱えていたのが、新婦であった。新婦が何をどう悩んでいたかについては作中最終部分で明らかになるが、このような立場にあるマイノリティーの悩みを我々マジョリティーにも分かるように具体的表現として本質的な提起をした点で高い評価をしたい。
但し、本当に小劇場で尺も短い1時間強の作品だから本質論で済むが、尺を通常の2時間にし、小劇場でもキャパが100を超える劇場で上演する場合には、新婦と新郎の上司の苗字の問題や、今作では一切触れないで済ませているサイドストーリーとしての親戚がどう対応するかという門題はキチンと書き込まなければならないことは、これだけ良い脚本を書ける作家には無論分かっているであろうから、更に大きな劇場にも進出して自分の才能を世間にアピールして貰いたい。
スタッフの対応、音曲の選択、キャスティングの妙、適度に笑いを挟んだ演出、役者陣の演技もグー。
満足度★★★★★
谷崎の原作を望月 六郎流に仕立てた作品。(追記1回目2019.2.18:0:20)(追記2回目2月20日16時43分)
ネタバレBOX
いつものように歴史的知見や社会時評が、単語や何気なく書き込まれたかのような1行に込められており、多少知識のある人間ならばいくらでも深読みができる作品だ。更に言えば、深読みの先に見える景色は、日本ではタブー視されがちな庶民と弱者の見た事実、歴史の表舞台からは、為政者の都合で消されてきた事実の齎す鉛色の重い真実である。
物語りの表層には、谷崎家に雇われた5人の若いお手伝いさんたちの生活が描かれるのだが、深層で描かれるのは、1950年代初頭の熱海の連続火事に纏わる裏話だ。1回目も大きな火事であったが、2回目は、消失物件数が2ケタ多い大惨事。その原因も公式発表は怪しい。シャブが合法的に薬局で買え、特攻隊の生き残りやシベリア帰り、南洋戦線の生き残りが街を跋扈していた時代である。
さて、今夜は深読みできる単語の1つを上げて解説しておこう。今作に出てきた済州島(チェジュド)出身者ということについてである。現在は韓国の一部である済州島は、日本の沖縄同様、かつて国としての体制を整えていた。そこで何故、韓国軍、米軍に朝鮮戦争直前に襲われ死亡者数さえハッキリさせることが出来ない程の大虐殺が起こったかについては作品中で触れられているからここでは述べない。然しこの虐殺で亡くなった方は4万人以上と謂われ、海は真っ赤に染まった。少年がリンチを受けて我を忘れる程の錯乱に陥り放火するのは、深層意識に刻まれたこの凄まじい血の呼び覚ます言葉では表せない悲痛そのものの表現なのではないか? 年端もいかない子供が経験するには余りに酷いこのような歴史的体験は心どころか魂の深奥に深く決して消えることの無い底の無い穴をあける。因みに現在は、名称さえ消されてしまった日本最大の在日朝鮮族の在地“猪飼野”には、多くのチェジュド出身者とその末裔が暮らす。何故か、4.3事件(チェジュドを韓国軍・米軍が襲い虐殺を起こした事件)で命からがら、チェジュドからの直行船便に乗って大阪へ辿り着いた人々の出身地が、当にチェジュドだからである。現在チェジュドが置かれている状況が沖縄と極めて似ていることも含めて、アメリカと日韓の関係を抜きには語れない現代の我々の問題なのである。
ところで、今回は、1回お休みを頂いていた、侑希さんが戻ってきた。ちゃんとケジメの挨拶もしたにょだぞ! おきゃえり~~~~~。明日香さんがヒロインを演じたし、微妙な人間関係を座長の丸山 正吾氏が、電信柱や海にもなったりしてフォローしており、璃娃さんが谷崎家出入りの中国人占い師役を演ずる。
また朝鮮半島(今作には登場しないが、台湾)が植民地とされ人々が日本国籍を持っていたことが触れられている等々、大日本帝国時代の日本の実情にそれとなく触れながら、谷崎作品を変態的としてコミカルに表現している点、明るいアイロニーが秀逸である。以下、朝鮮族が大日本帝国下でどのような歴史を辿らされたかについて若干の補足をしておく。(ここから下の文章は、最近自分が参加している「討論塾」の話し合いを自分が纏めたものに若干手を加えて記してある)
植民地化される以前、日本に居た朝鮮人は2000人程で、1910年の朝鮮併合・植民地化以降朝鮮族も日本人にされてしまった。そして大日本帝国は、朝鮮総督府の土地調査事業と称して彼らの土地を奪い、米増産と称して日本向けの米を作らせ収奪していった。また大日本帝国内で若者が戦争に取られた為、労働人口が減少したことに対する補充などが行われた。その結果、収入と働く場所を奪われて隷属化され経済格差をつけられることになった人々が、ニューカマーと言われる人達が近年経済格差の故に出稼ぎで日本に来たように、宗主国へ働きに出た。急激に在日の人々が増えた訳だ。この結果約200万の朝鮮族が、終戦時日本に居ることになった。この中には、強制的に連れて来られた人々もあったし、上記のような収奪の結果出稼ぎを余儀なくされた人々も居た。敗戦日本の戦後処理の中で独立した朝鮮半島出身者のうち帰れる人々は帰還したが、既に日本に生活基盤を持ち、家族も居るという人々も居た。つまり日本に根付いた人々、帰ってもツテが無い人々などと、1950年に朝鮮戦争が勃発したことも影響して難民状態になり、帰るに帰れない人々が60万人ほど残った。帰れた人々は財産の持ち出し制限が課されても帰り、先に挙げた理由から帰国できない人々があったということだ。
日本国籍云々に関しては以下を参照。
1947年「外国人登録令」(日本国憲法発布前日に出された勅令。1952年に外国人登録法と改称。“朝鮮族、台湾人は、日本の植民地政策によって日本国籍を有しているが当分の間これを外国人と看做す”という内容)が出され公布内容の殆どが即日施行された。
つまり、新憲法が発布されれば、天皇・裕仁が政治に携わることができなくなり国会での議決が必要になるので、その前日に勅令として発布してしまおうというものだった。対象は大日本帝国旧植民地出身者で、戦中動員された朝鮮(・台湾)人。軍艦島、九州、北海道の炭鉱などで過酷な労働に就かされていた人々である。而も登録令にも記されている通り1952年サンフランシスコ条約締結に伴い日本国籍を強制剥奪されるまで、彼らは日本国籍を有していた。(同じ敗戦国でも旧独では、旧植民地の人々に国籍を選ぶ権利が与えられたが日本ではこれも無かった。要するに日本の植民的発想そのものは変わらなかったのだ。)
外国人と看做されることの内実は、潜在的犯罪者・治安事犯者と看做されることだったから、外国人登録証常時携帯、警官からの提示命令に対してこれを提示するなどが強制された。違反すれば懲役、禁固、罰金、退去強制などが科された。以下、この件に関する吉田 茂の反応を見ておく。
1949年吉田茂は、マッカーサーに対して“総ての朝鮮人が彼らの故郷である半島に戻ることを期待する”として願書を提出、その理由として“何故なら彼らは犯罪を犯しかねない危険を孕んでいるからだ”と主張した。敗戦までは彼らの土地を奪い、収奪して出稼ぎを余儀なくし日本に流入せざるを得ないようにしたうえで、強制徴用し安い労働力として酷使しながら、景気が悪くなると犯罪者扱いして追い出す。現在では経済格差を利用した上で戦前から続いて来たこの日本のやり方を欧米を除く外国人に対して繰り返している。
この所、オリンピック・パラリンピック開催で政府は、肝心な原発問題や米軍基地問題を含む地位協定問題、秘密保護法、共謀罪や集団的自衛権等々の悪法、都合の悪い門題を誤魔化す為に小手先で入管法改正などを繰り返しても来たが、内実は相変わらず差別的だ。殊に対アメリカに対しては、宗主国待遇がそのまま出ている点も興味深い。
現代世界を繙く為に以下のイベント、展覧会もグー。
パレスチナ・ガザの画家3人展(アーティスト・ブリッジ2019巡回展)
ガザのアーティスト達3名が難題を乗り越え来日、群馬県前橋にある広瀬川美術館を経由して横浜関内のGALLEY SHIMIZUに戻ってきた。昨19日に1回、23日にもう1回3名の画家によるトークと展覧会がある。アーティストトーク参加には500円必要だが、通訳がつき、質疑応答が可能。
http://www.frame-shimizu.jp/index.html
更に2月28日16時頃から(時刻は凡そ)は東京大学東洋文化研究所1階ギャラリーでトークあり。因みに東文研は本郷校舎、懐徳門を入って10m強直進、右手の獅子像のある建物。
よかったら、自分のブログにもどうぞ。
https://handara.hatenablog.com/
満足度★★★★
とある喫茶店。大和最後の出撃で生き残った老人と海自自衛官らとの語らいを中軸に戦中から1970年代中頃に生起し、現在に迄繋がる国防を巡るよしなしごとと大切な人々との邂逅を訴える作品。
終演後、何と琵琶の演奏が聴けた。(追記後送)
ネタバレBOX
自分の記憶では、掛かっている曲は1973年以降、即ち沖縄闘争敗北以降の新左翼崩壊以降の時代だ。大和玉砕、沖縄戦から以降、戦中の指導層が岸を始めとした自民党有力者、正力らCIAエージェント、旧軍部を中心にアメリカの日本指導部として植民地支配の中核を担って来たのは、秘密解除指定された米国文書からも明らかだ。そういう意味では、現状に繋がる認識が脚本レベルで甘い。
だが、このレベルで日本の大衆が踊らされていることも事実である。そこにアイロニーを見るという視点で一応☆4つとした。
満足度★★★★★
途中20分の休憩を挟んだ公演。
ネタバレBOX
1場では階段の中央に切れ目があるが、2幕ではそれが無い。場転の際、入れ替わりが見事。また役者陣の地力が高いことも流石である。声が通る点、役作りなどは無論だが、基本がしっかりしているので体術などの必要な殺陣でも、良い動きを見せる。女性が側バクをやったのは驚きであった。
脚本は、小田島 雄志さんの翻訳をベースにした上演台本が用いられている。予言をする魔女たちの独特の雰囲気も上手に描かれるのは、その衣装や着こなし、身のこなしもさることながら、舞台奥に広がる雲のようなオブジェに照明や音響を効果的に用いて様々な印象を齎す極めて高い技術が齎す効果による。この点でも唸らせるものがある。
満足度★★★★★
能の「鉄輪」という作品を戯曲化した作。
ネタバレBOX
時代設定は平安、場所は京の貴船、鞍馬辺り。現在でも鞍馬山は山岳宗教のメッカの一つだし、由緒のある鞍馬寺もある。義経が天狗から様々な兵法を学んだ場所との伝えも有名だ。叡電で隣の駅が貴船で、ここには立派な神社がある。未だに京都市内とは隔世の感のあるこの辺り、今作には実に相応しい舞台設定である。
女性達の纏う衣装の衣擦れも良いし、立ち居振る舞いもグー。すり足や内股で歩く和服の着こなしもキチンとしている。今和服を着こなせる女性は殆ど居ないから、猶更、感心した。
物語りの荊姫は、今回婚礼を上げる姫・沓子の母親世代の姫君だった女性が、夫に捨てられ鬼と化すところを安倍 晴明に邪魔立てされ、鬼にも人にも成れぬ哀れな怨霊と化した嫉妬の権化だが、婚儀を挙げることとなった沓子を唆し、臣下なのだが彼女の幼い頃からの憧れの君・幸治と添い遂げようとしないのか!? 幸治は、沓子の親友・楓と生涯を伴にすることを誓い合っているというのに、と更に焚きつける。元々、荊姫の思い人は、源 博雅。沓子の属す五土家は安倍家や博雅と縁が深い。
荊姫の悲劇は、彼女の恋が純愛であったことだ。源氏物語にも、源氏に狂った六条の宮が怨霊になって恋敵を苦しめる話が出てくるが、実に恋は罪なもの、業の深いものである。閑話休題、純愛故の嫉妬と凄まじい業が経糸だとすれば、この嫉妬を転化させる対象として沓子が選ばれ家の犠牲として見たことも無い物部 保人に縁ずけられる己が身の、矢張り断ち切りたくはない初恋と親友・楓との因縁に二律背反を背負いつつ、流されかける緊張感が中盤の流れを引き締める。晴明一党の助力のなかで保人に出会い、彼が及ばぬながら物の怪と化した荊姫から沓子を守ろうとした伏線を経て、彼女が徐々に心を開いてゆく様に就かず離れず関わる晴明一派の明察などが龍脈を見極める風水のように作用しつつ、保人・沓子を自然に新たなカップルとして育んでゆくが、荊姫の怨念が消えた訳ではない。一旦この場は引くものの、ラスト荊姫が再び登場し、若夫婦の今後に緊張を残す作りがグー。
満足度★★★★★
東新宿というのが新開発地域なのかどうかは知らないが・やけにモダンなセンスと尖がったお洒落を感じる建築群が並び、(華5つ☆)
ネタバレBOX
ポンギや麻布10番、狸穴辺りの変にバタ臭い「洒落た」街とは異なる雰囲気が良い。ちょっと、ミュンヘン空港の合理的な建築のお洒落に宇宙的なアモルフをプラスしたような建築も見える。自分は、無論、野性的な大自然も大好きではあるが、このようなコスモポタニックな街も好きである。会場は、このような街に、人間の体の一部を基準に建物の大きさを測るイマージュを持たせることで、巨大建築への違和感を相殺する建築様式として知られるレンガ造りを敢えてイメージした外装の新宿文化センター。1階正面にある彫刻も傑作、左手の絵も、近海日本画をイメージさせる非常に質の高い作品である。会場の3Fの作品も良い。唯、用いられたホールは演劇専用ホールでは無く観客席が完全フラットな為、椅子は半身ずらしで並べられて配慮は見えるものの、矢張り板下部の見切れは、後列に座る観客には避けられない。ちゃんと半身ずらしにしている所から考えても予算が許せば、観客席に段差を設けることは考えたであろうが、この良心的料金設定ではそれも難しかろう。
ところで、お待ちかねか否か定かではないが、本題に入ろう。ベケットのWaiting for Godotも今作も設定されるテーゼは空虚と言って差し支えあるまい。牽強付会と謂われるのは仕方ないにしても。
であれば、演者、演出家が、この脚本をどう解釈し、どう意味付けるも勝手である。従って観客がどう解釈するかも勝手なのだ。自分は、原作が持つというか提起した“空虚”と恰も4次元列車“銀河鉄道”であるかのようなこの列車に注目した。銀河鉄道は、死と生を同時に載せることのできる不可思議な鉄道であった。ということは、死と死も、生と生もまた同時に載せ得る鉄道ということだろう。今作では、死に近い生を載せていると解釈した。即ち生きながらの死である。インスタグラファーを目指す女とユキチにしても、恐らくは3.11を契機としたF1人災を、その津波被害の中で生き延び、自らを仲間を殺した殺人者として認識したカラシマと8年前に被災地から引っ越したものの、そして一応名門とされる大学には受かったものの看板学部の看板学科ではなく司法試験合格者数でも大したことは無い学科に受かり、故郷を喪失したままの、それでも明示的には未来が自分にはあると信じている若者の根拠の無い自信が崩れ去りつつあるキヨハシらの必然的邂逅を、恰も不条理という形で描くことしかできない、現在我々が暮らすこの地域のバカバカしさ茶番を論ってみせた、というべきか。面白い!
満足度★★★★
分かり易く而も本質的。噛む役者が多かったので華4つ☆だが、そうでなければ5つ☆の作品である。(追記第1回 2月9日17時33分)
ネタバレBOX
開演前にはずっとヒトラーの演説が流れており、大衆を鼓舞する彼の演説の調子、上手さが理解できる。板上はほぼフラット。中央かなり客席寄りに箱馬が1つ置かれているだけだ。出捌けは下手手前とほぼ対角線に上手奥の2カ所。但し上手は、観客から少し目隠しになるよう袖が設けられてはいる。
第1次大戦後、戦後賠償によるトンデモナイ、ハイパーインフレが、ナチスを生み出し、成長させた大きな要素の一つであったことは、誰しも気付く所であるが、歴史的な動きをベースにしながらも今作はフィクションである。
但し、今作の作家若いが中々、本質的にものを見ていて、それは科白の端々に現れているので、観劇の上楽しんで貰いたい。
満足度★★★★
若いころに悩むべき正当な問題にキッチリ向き合い、チャンと正解を選んでいる(追記第1回2月9日17時16分)
ネタバレBOX
賢い作家の作品だが、未だ、演劇界での経験が浅い。その為演劇的な見せ方にイマイチ経験不足を感じた。然し乍ら、この若さでこの本質的解に至りつく頭脳は評価できる。
舞台美術がちょっと変わっている。恰も鵺のような身体と精神を外側から支えでもするかのように、床から天井まで届く檻がまるで骨ででもあるかのように、出演者総てを閉じ込め周囲に張り巡らされている。客席はこの檻を挟むように設えられ、檻の格子を通して見える向こうの席がこちらの姿を映す鏡のよういな錯覚を起こさせるから面白い。檻の中には60㎝ほどの高さで1辺2間ほどのほぼ正方形の平台の上に学校で用いられる安っぽい机と椅子が4つずつ置かれている。平台下手と上手に椅子が各々数脚置かれており、片側の檻と壁の間にシンセサイザーと音響担当が居てマイクを通して発語される科白と競うような音響が流れ出てくる。序盤は殆ど自動律の反復が延々と繰り返されるが、時折“我々は何処から来て何処へ行くのか”といった本質的問いが為され、この問いが自動律を抜ける外壁、そう言って悪ければ、遠い反照のような構図を示してくれる。
満足度★★★★
原作はフランス語で書かれた作品と見える。(気懸りを少しばかり追記)
ネタバレBOX
恐らく表現にも様々な引っ掛けや罠が仕掛けられた本なのだと思う。フランスの作品らしいエスプリの効いた洒落たものなのではあるまいか。原題を見てそう思う。いつか原作を入手したらゆっくり読んでみたい。当パンには朗読劇となっているのだが、結構動きや出捌けもあり動的な作品に仕上がっている。唯残念なのは、テキストを持って演じているのに噛むシーンが何か所もあったことである。このような点については改善を求めたい。舞台美術も中々お洒落で、音響は弦楽器の生演奏というのも良い。ストーリーは観てのお楽しみだ。と言うのも、推理物だからにゃ。
おっと、これはもう少し調べなければならないのだろうが、原作者は、今作で本当は何について書いているのだろうか? グローバリゼーションだの、治安と言えば何でもアリの極めて危険な国家の在り様をこそ、問題にしているのなら極めて刺激的なのだが。
満足度★★★★★
板上、レイアウトがちょっと変わっている。舞台側壁と奥の壁の内側三方を通路幅をとった上でパネルで塞ぎ、数カ所にドアを取り付けて、場面変換をするのだ。ドアも用いられる箱馬も下部に波打ち際で崩れる波のような文様が描かれているのは、無論、海、故郷、母へのオマージュであると共に、生んでくれてありがとうだろう。(華5つ☆)
ネタバレBOX
身に積まされる作品である。自分には、2歳の時の痛烈な記憶がある。主人公のような国籍の深刻な門題を抱えていた訳ではない。然し親に置き去りにされた子供という点では同じである。何故、一緒に死んでくれなかったのか? と良く自問したことも覚えている。最初は「嘘つきは泥棒の始まり」といつも口にしていた父の、行為の矛盾に対する反発から。後現在のように言語化し得るまでに思い返し思い返ししているうち、何らかの理由が親にあったとしてという事に気付いてからではあったが。何れにせよ、人間を信じないことの最初に親への不信があった。
置き去りにされた年齢差では主人公、勝の方が自分より年上だが、入管法が小手先で「改善」されたとはいえ、旧植民地出身者に対する日本人の差別意識が変わった訳でもなければ、政治屋、官僚、官憲の意識も全く変わっていないことは、在特が減り、強制収容が激増していることだけから見ても明らかである。無論、今作は、更に深い所から作品を創っているし政治的な作品でもない。だが、日本人は、在日外国人、殊にアメリカ人に対するあからさまな諂いと欧州人に対する寛容に比し、アジア、アフリカ、中南米の人々に対する日本国の制度的差別については意識的であるべきである。何故なら、国の判断、政策に現れるのは、我々個々人のエートスであると考えられるからであり、我々個々人が、己のレゾンデートルや矜持、過去から引きずって来た諸々への忖度の無い評価、事実に向き合う姿勢を自ら問い続ける姿勢無しに自らの納得し得るに足る人生など築き得ないし、他者とのフェアな付き合いもできないからである。
話が逸れた。今作は、基本的に愛の物語である。それも母の強く深い愛についての物語だ。実際、愛し方を知らなかったり、愛されたことが無い、と人生は狂ってしまう。例え貧しくても信じられる愛があれば、餓死に至るような貧しさの中にあっても、人は、人として死ぬことが可能であろう。然しながら、どんなに強大な権力を持ち、豊かな富に恵まれても、信じることのできぬ「愛」しか持てなければ、その人の内実が果たして人のそれであることは極めて難しい。
自分は、極めて気の強い性格なので、本当に怒ると自制が効かない。命など構っていられないから、極端なことをしてしまう。だからヨナンの行為も自分に重ねながら見ることができた。彼女の勤めていたスナックのママの科白に「明るく振る舞って、皆に気付かれないように昭人さんを殺す決意が揺るがないように研ぎ澄ましていた」というようなものがあった。この科白は胸を撃つ。だからと言って殺人を正当化することは出来ない。それは無論だが、勝が指摘する通り、母は愛しすぎたのだ! この強い愛があったればこそ、勝は、人として真っ当な道を歩いているとは言えないだろうか。これが、今作が、単なる悲劇ではなく、観る者をカタルシスに導いてくれる所以である。
満足度★★★★★
地力あり。
ネタバレBOX
シェイクスピアの「リチャード三世」を1時間強の作品として脚色した作品だが、シェイクスピアの特質をキチンと活かし本質を捉えた良い脚本に仕上げている小真瀬 結さんと同時に、何とこの作品を1人芝居として演じた若い役者の加藤 広祐くんの地力を感じさせる演技が良い。今作、シェイクスピア作品の中でも自分が最も好きな作品の一つだったということもあり、それなりに様々な舞台を拝見しているのだが、ゲル貧のままで、良く今作の本質を顕わし内容の濃い作品に仕上げていることに感心すると同時に、スタッフ・制作さんらの丁寧な対応にも好感を持った。しっかりと自分と世界を見つめ、世界と向き合って、考え、更に成長して欲しい。
満足度★★★★
アメリカの植民地であることを止めるだけで、日本人はずっとリッチになるんだけどにゃ~。ふあ~にゃ!!
ネタバレBOX
昨今の歪な資本主義の形を反映したかのような大金持ちと貧乏人を対比したような作品であるが、ちょっとした金持ちなら、庭にプールくらいあって当たり前、大金持ちであれば自家用ジェットも当たり前は世界の常識だ。だからここで描かれているのは、あくまで日本の金持ちである。その証拠にお手伝いさんが登場しない。ロマネコンティーは出てきてもデカンタージュしない。ドンペリも登場しなかった。但し金持ちの話も入っているから、彼らの深刻な願い「ワクワクしたい」とか子の出来ないことの悩みの深さ等はキチンと表されていたが、このクラスの金持ちであれば、もっと反社会的な遊びも無論やっているのが世の中である。何故なら、資本主義社会で金を持っていることは即ち力を持っていることと同義であるから、有り余る金を持ってしまった者の生活実感は退屈でしかあり得ないからである。だから彼らは賭けるのだ。無論、究極の賭けは己の命を賭けることだが、それに近い刺激を求めざるを得ないのが彼らの宿命である。その辺り迄描く視座を持った上でのおチャラケであったら、更に辛辣な面白さが創れたであろう。
満足度★★★★★
フラメンコと言えば日本人が最初に想像するのはヒターノであろう。迸る情熱と哀愁を帯びたメロディー、緩急を基調に凄まじい迄のタップに激しくかき鳴らされるギター。踊りが演じられるのは場末の安酒場とくれば、もう映画そのものという感じがする。(ブラボー!)
ネタバレBOX
然しながら今回演じられたのは、フラメンコはフラメンコでも、童話作家・小川 未明の作「牛女」とのコラボだ。用いられている楽器は、ピアノ、チェロ、尺八、ギター、パルマ。ピアノ奏者は歌も歌えば作曲もする。フラメンコ自体非情にレベルの高いものだが、朗読、楽器演奏や歌唱とのコラボを含め全体のアンサンブルが素晴らしい。ダンサーたちの身体訓練もキチンとしていることは明らかだ。お年を召したダンサーもいらっしゃるが、踊りの要である足腰の鍛錬によって可能な限り姿勢も制御している。ヒターノの狂熱的なダンスではないが、身体の基本を良く知り、極めて合理的に制御している技術とそれらを可能にしている基礎鍛錬が素晴らしいと同時に衣装にも気配りが効いてダンスを盛り上げている。無論、基本はタップなのであるが、物語りの内容に応じて緩急のみならず、強弱から無音に至る総ての階梯を実に納得のゆく演技で表現している。
牛女が亡くなる辺りから、息子を思って何としても亡き後も見守ってやりたいとの切なる念の表現も母の有難さをひしひしと感じさせる。キュートでありながら、深く包み込んでくれるような温かな愛の表現である。牛女役でソロを演じる鍵田 真由美さんのお顔が菩薩顔ということもあって理想の母像としても拝見した。
母を亡くした後、南に行って成功し、故郷に錦を飾った息子は広い土地を買い林檎園を経営し始めるが、大地に感謝するシーンがあって、農民の本質を良く理解していることもうかがえる。
最前列桟敷席で拝見したので、腰の悪い自分は腰の痛みに耐えられるかも不安だったのだが、終演後、スタンディングオペレーションをする人が何人もいたが、それも充分頷ける内容であった。
満足度★★★★
哲学的には未だ未完成というかトバ口に立ったという所だが、一所懸命創っていること、この時代のからくりを未だ充分に見切れないまま悩む多くの人々の視座に寄り添うように自らも格闘している点、裏方スタッフも一丸となって感じの良い空間を作り上げている点など好感を持った。旗揚げ公演ということだが、今後も頑張って欲しい。(後記追送)
満足度★★★
う~~む。発想は面白いのだが。
ネタバレBOX
世界を破滅させるに至る動機に弟へのコンプレックスがある訳だが、弟が如何に勝っているかについて具体的な記述が脚本レベルで為されていないのが、決定的な弱さだ。素数やリーマン予想といった数学の大問題を絡めて話が展開するのだが、この難問を解いた暁には世界の初源が解けると解釈しその裏つまり消滅も操れるとしてその研究に没頭するキャラクターを中心に描かれる作品なので興味深くはあるのだが、この研究に没頭する動機づけにリアリティーが欠ける点で、総てが口先だけの悪い意味で軽い作品になってしまった。
残念である。
満足度★★★★
多くの謎を孕む本能寺の変。面白い解釈だ。(追記後送)
ネタバレBOX
初日ということもあってか序盤ちょっとチグハグな点が多々あった。また信長の側室が、内股で歩いていない演技も気になった。蝮と言われた道三の娘とはいえ、大名の姫ともあろう者があんな歩き方をする訳が無い。演出はもっとキチンとダメ出しをすべきである。
さて、「敵は本能寺にあり」を作家がどう解釈して見せたかについては、あかさない方がよろしかろう。観てのお楽しみだ。ヒントを出しておけば、戦国史上最もインテリだったと言われる光秀が、果たしてあのような非合理を選んだのか? であろうか。
満足度★★★
10周年おめでとうございます。
ネタバレBOX
この小屋の通常の使い方である。即ち下手の花道に当たる場所を別の小空間として用いる。場面は主として2カ所、なかまがり署及び山奥に1軒だけ残っている因縁の家。この場転が短時間で行われるが手腕が見事である。
一応、事件もの即ち推理も入るので余り詳細なことには立ち入らないが、10周年ということで力が入り過ぎたかお茶らけのキャラが立ち過ぎた感を持った。
満足度★★★★
身体表現と我らが生きることの関係なんちって。(華4つ☆)
ネタバレBOX
役者陣が相当の鍛錬を積んで身体表現に挑んでいる姿勢がグー。このような努力があるから、たのは、殺陣に単なる流麗や巧を超えた意味が付与されているのだ。その意味とは、天帝、天一によって創られた命の持つ“業”である。ここに登場する総ての命が、己が生きる為に飲み食いをしなければならない。それは他の命を喰らう所業だ。我々が日常生活の中で「頂きます」と言って食べるのは他の命なのである。そのことの内実を今作は、身体表現という形に昇華して表現しているのだ。
無論、我々の持つ業は、他にも在る。それ故にこそ、吉原が出てくるのであろう。同時に法の裁きの網目からは抜け落ちるものの、更に性質の悪い悪を懲らしめる者として鬼が汚れ仕事を引き受けている。
これらのカルマを描く以上、余りにベタベタし過ぎないように全体を纏めていると見た。出捌けを主に、観客席中央通路と、中央を奈落状にし奈落の周囲を奥の壁と奈落を構成するように段差状に組んだ構築物の上手側にしたのは、この奈落部分にエレキバンドが入って物語の進展に沿って実に効果的なオリジナルサウンドを響かせる為だ。同時に観客席側の出捌けによって劇空間をより観客に近づける意味合いもある。
ところで、天帝達と被造物たる鬼や人間との関係はギリシャ神話に登場する神々程多くなく、神と被造物との関係に喜劇的要素が少ない点に観客の心を捉える仕掛けが弱いように思う。例えば神がもう1人居て、神同士の浮気問題が発生したりしていると、彼らが世界を創造しては失敗していることの必然性が物語の必然性として納得し易いとは思うわけだ。こうすれば、天帝がゲームだと言い張ろうが実際に創ったものを滅ぼすことも可能であろうが、演劇的には更に面白く、不条理だが、失敗そのものが必然となるような我々の現実の生の在り様の面白さにも通じて来よう。
満足度★★★★★
Castは3-A,3-Bがあるが、前者を拝見。(追記後送 必見)
ネタバレBOX
状況設定が実に上手い。舞台は、板上に60㎝程の高さのほぼ正方形の大きな平台を設え、その上に真ん中に若干距離をとってパイプ椅子を十数脚づつ、背凭れを観客側に向けて置いただけで、奥には黒板も何も無い。在ると言えばあると言えそうな文様らしきものの入った壁が正面奥にデンと広がっている。この無機的な感覚が堪らない。無論、観客側には、役者達の後ろ姿が見え、シーンを演じている役者だけが、正面を見せたり側面・背面を見せて動き、喋る訳だ。通常の見せ方とは真逆の方法が採られているのが、先ず興味を惹きつける仕掛けになっている。観客は椅子の向きを見ただけで、演出家の力量を評価できる仕掛けである。シーンの転換は授業チャイムで知らされる。チームを分ける時も如何にも現実の高校のクラス名のような3-A、3-B。サブタイトルの中で“東京の演劇ガ、アル。”と宣言して見せる所等も興味深い。何れにせよナマジッカでは無いセンスの良さと自負を感じるのだが、それが決して嫌味に映らないのは、ステレオタイプに矮小化することで最も重大なことを恰も何でもないことにしようと躍起になっている日本を代表するアホ為政者やその取り巻きの偽善者、悪辣極まる公僕犯罪者たる高級官僚共の嘘と隠蔽及びプロパガンダを揶揄しているからであろうか。