満足度★★★★
放射能(正確には放射性核種だが人口に膾炙した表現を用いている)による被害というものは、我々人間の持つ五感では一切感じることができない。例えそれが死に至る被ばくであってもだ! 五感で感じることができない事象を表現するといこと自体に難しさがあるのは無論のことで、ポーランドでは既に40公演をうっているという今作だが、海外公演は今回が初だ。構成・演出を担当しているポピオレク氏は29歳という若手である。元になった書物はノーベル文学賞を受賞したアレクシェーヴィッチさんの「チェルノブイリの祈り」。(追記後送委)
満足度★★★★★
もっと早くから観るんだった!(華5つ☆)必見作品であった!!
ネタバレBOX
ヒトと同じ姿だが、幻術を用いることのできる蛍達は謂わば忍びの社会に於ける下忍のように、闇に乗じて依頼された殺人、暗殺などに携わっていた。無論、忍びの里が隠れ里に在ったように彼らの住処も人里離れた場所にあった。彼らが通常用いる武器はクナイである。刀を用いる者が無い訳ではないが、少数派だ。
物語りは、ヒトと蛍の、そして蛍の心臓とヒトの死体を基にヒトに創られた人造人間と蛍との、或いは蛍相互の恋を軸に描かれる。ただ主要な登場人物や蛍の面々が抱える宿痾のような宿命からは誰一人逃れることが出来ず、その宿命に、命と念が引き裂かれ、鬩ぎ合い、縺れ、悲痛な哀切の奔流となって観客の胸を抉る。途中10分の休憩を挟んで約3時間の大作だが、一瞬たりとも緩みが無い。脚本は本質的で深く、而もドラマツルギーに満ち、象徴的に用いられる色彩のイマージュや個々の物(桜の古木、桃色、心臓と血、死と生と恋、永遠と瞬間、生の温かみと暖色、更に少し異色だが極めて気懸りな憧れへの強く直向きな傾斜等。これらの形象の相互連関とこれらのイマージュ総体が表す全体としての共通イマージュへの誘い等も見事である)同時に作家は、これらのイマージュと物語の過不足のない連携も成就させている。
役者陣の演技、殺陣、演出、照明、音響効果も良い。殺陣の多い舞台なので、舞台美術はシンプルだが、出捌け口も多く而も平台を重ねた正面奥が障子になっているので、ヒロイン・彩の哀しい宿命としての座敷牢的空間を際立たせたり、二幕ではどんな願いも叶えてはくれるが、大きな犠牲も要求する桜の古木をあしらうなど物語内容と美術効果が実に上手くマッチしている。このマッチングの良さは音響・照明にも各効果相互の的確な連携にも見事な照応をみせた。見事である。
満足度★★★★
協奏曲でなく協想曲である所が味噌。(華4つ星、力のある劇団故、敢えて少し厳しい評価をした、然し芝居はホントに役者さんだにゃ)ベシ観る!
ネタバレBOX
ヨロタミらしく温かい内容だが、矢張りE.マクロン大統領と奥さんみたいな所もある作品。マクロン夫人のブリジットさんは、元教師、エマニュエルは教え子であった。面白いのは、エマニュエルが高校時代に彼女にプロポーズしていたのだが、彼女は既婚で子供もあった。だが…。という大恋愛の末の結婚だ。ブリジットさん自身も非常に優秀な人で、夫が大統領になった直後、夫人がなった方が相応しいのではないか? と揶揄する向きもあった程。まあ、仏大統領として史上最も若い大統領の誕生であったからヤッカミもあったであろう。閑話休題。
自分としては、脚本に少し難があると申し上げたい。特に前半部分、早とちりを利用して物語がドンドンずれてあらぬ方向へ展開するのだが、これを面白いとか、イルイルと観ることができなかったのだ。というのも実に味のある良い演技をした父・幸一役の勝又さんのキャラ設定に若干矛盾を感じたからだ。というのは、可也頭の良い人でフレキシビリティーを持ち実際の子育てでは娘の麻里子の羞恥心{(これもホントは日本の女の子特有のポーズだろうが)参観日にねじり鉢巻き姿で出席など)}に応えられなかったなど、はあっても本質的に母親を早く亡くしてしまった子供達(孝雄・麻里子)に対し深い愛情を注ぎ殆ど理想的な親として振る舞ってきたことで、子供達がぐれなかったことをみても、孝雄が早千子の年上としてまた大人の女性としてそして真に孝雄を想う愛故に一度は断ろうとした孝雄からのプロポーズに対し、孝雄が最後の選択をする際に、矢張り父として大人として深い愛に基づいた助言をするのを観ても。(こんな早とちりをするミムメモ(間抜け、と読む)でないことは明らか)このシーンを拝見しながら、自分は“ゴルディアスの結び目”の話を思い出していた。この話は、結び目をほどいた者がアジアの王になると予言された結び目で多くの者がチャレンジしたが誰もほどくことができなかった。これを“解決”したのがアレクサンドロス大王であったという話で、彼は結び目を断ち切った。この話を思い出しながら今作のハイライトを観たのだ。孝雄を演じた中澤さんの苦悶の表情もすばらしかったし、麻里子の亭主、伊佐男を演じた坂本さん、麻里子役、南井さん、LGBT役を演じたお2人、仁村役、大橋さん、山田役、河嶋さん、ラッシーを演じた大矢さんの軽さ、松岡社長を演じた、寺林さん、早千子を演じた家塚さんら大切な役柄を演じる役者陣の演技が良い。
満足度★★★★★
脚本でヒロインの年齢設定が絶妙。
ネタバレBOX
十五歳、確かに女の子は充分妊娠可能、而も彼女を妊娠させた彼は、男子たちのゲームに負けて罰ゲームとして彼女と懇ろになったという。残酷だが、チューボーには、在りそうな設定。そうだよな早い連中は十二・三歳で初体験は済ませてしまうから、ホントに間違って出来ちまえば野郎は真っ青! 女の子だって現実に、殺す訳だから、そりゃ傷つく。その辺りの凄まじい傷の深さを、嫌が上にも見せつけてくるのは、作家が女性だからということもあろう。演技も良い。そういう過去を背負ったヒロインが婚期を逃し、いくら昨今婚期が遅くなったとはいえ、口の悪い男の中には25歳過ぎれば女性は薹が立って云々などと口さがないのも居るのが世の中。嫁ぎ先がある最後のチャンスというのが一般的だろう。
自分の周りはキャリア・ウーマンや研究者の女性も多かったから、仕事や研究を取るか、それとも…と悩む女性が多かったのが実際である。子供を産むのも高齢出産はリスクが高くなるし。女性の実存の最も本質的な問題を、その自然な人間関係の中でかなりリアルに描き成功しているのは、演出も今作の作家が手掛けているからであろう。何れにせよ、最後に救いが在るのは、観ていて嬉しい。そんな共感を抱かせる作品に仕上がっている。
満足度★★★
若い人達ばかりのグループなので、未だ経験も浅く後程追記するが、様々な難はある。但し他人の意見をちゃんと聞く姿勢が良い。伸びシロに期待(追記後送)
ネタバレBOX
舞台美術が面白い。丁度、板の中央に通じるように客席のど真ん中を通って通路が通っており、板に近づくとスロープになって最初の平台に繋がっている(因みに平台は更に奥に一つあって一段たかくなっている)。丁度、橋掛かりのような按配だ。能の橋掛かりは下手から上手へ向かって延びるが、夢幻能では、異界と現世との通路という意味もあるのかと手元にある辞書を調べてみたが、キチンとした辞書でないせいか、そのような意味を載せていなかった。自分なら、今作のようなシチュエイションであれば、この橋掛かりをそのように意味づける。だって当然ではないか? 舞台は基本的に編集できないからそこに在る物には意味を付与した方が厚みが出る。脚本内容、効果音や、美術、照明、演技とこれら総てを有機的に関連付ける演出によって様々な意味やイリュージョンを作り、観客の想像力に訴えてその総合をキチンと統合し強烈なイマージュとして魂を燃え上がらせることが出来た時、演劇は、演劇として独自の作品世界を立ち上げるのである。それは、観客の身体総てを震わせ、戦かせ、時に凍りつかせて身じろぎひとつできなくさせもする。自分は今迄2011年から2500舞台ほど拝見しているが、凍りついた舞台が1本、身体総てを戦かせた舞台が2本、感動に震えた舞台が数本ある。これらの舞台だけが矢張り本物という感じだ。
満足度★★★★★
小学生の頃からの女友達7人の変遷を描く。(追記後送)
ネタバレBOX
まあ、恋バナも無論出てくるし、ベシャリやお泊りごっこ等如何にも女子たちらしい身近な世話物ということになろうが、其処に実に見事に日本という地域と其処に住む日本人の厭らしさ、その厭らしさが齎す地獄が描かれて見事である。無論、ジェンダーや虐待、苛めや無視、無責任に親疎がまとわりつきながら、鵺のような日本の厭らしさが描かれる。
満足度★★★★★
いくつも大事な視座が構造的に組み込まれている。(追記後送 華5つ☆)
ネタバレBOX
平家の落人を自認する人々(タイラ一族)の住む集落、山奥の洞窟から出土した縄文時代の出土品(土器、鏃、人骨等)更に奥にある蔓で編まれた吊り橋とタイラ一族に伝わる魔物伝説と入山タブー。少し実証精神を発揮するなら、蔓の吊り橋の状態から、その奥に知的生物(即ちヒト)が現存しているか否かは直ぐ推察できる等。この時空設定自体が、今作の構造性を実に立体的に示しているのだ。(それは、今作が問う、人間とは何か? という本質的な問いに対して、過去、現在、未来の時空総てを示唆しているのであるから)
ファーストシーンは、龍巳少尉が腕にシャブを打つシーンからというのが良い。実際、確か昭和25年迄、つまり1950年までシャブ(薬品名:ヒロポン)は薬局で買うことができた。今作で少尉が打っているように、軍は、特攻隊の兵士たちに死の恐怖を逃れさせる為にシャブを用いていたのだ。当たり前だろう。誰だって死ぬのは怖い。まして大学から引っこ抜かれた連中は、世代や知的環境・個々人のタイプにもよるが、かなり多くの人間が戦争の行く末を知っていたと思われる。少なくとも事実を見極めることができ、自分の頭で考える力を持つ者は、当然のことながらホントの事に気付いていた。(ただ、多くの者が死地へ黙ったまま赴いたのは、家族や大切な人々が、寄らば大樹の陰と権力者に迎合することしかできない日本人の奴隷体質を恐れたからに過ぎない)
ハッキリ描かれている訳では無いが、少尉は少国民世代、兄の大尉はひょっとすると辛うじて少国民世代の前かも知れぬ。何れにせよ、少尉は、所謂優等生ではあるものの、兄程己を確立した者で無いことは確かだ。学校で出来が良いだけの奴は別に頭が良いという訳ではあるまい。唯、大人から見て、扱い易い従順で良い子であるに過ぎない。弟はそういうタイプである。だから天皇教などという馬鹿げたフィクションにかぶれたのだ。それは彼の弱さをも同時に表していよう。妹・月子殺しは序盤、直ぐにそれと分かる。彼が空に飛ぼうとするのも、単に逃避に過ぎない。タイラ一族の男を銃殺するのも、丸腰でホントのことを軍人である彼にキッパリ言ってのけたからである。男としての格の違いを見せつけられたから殺したのだ。これは彼の性格が臆病者であることを表している。シャブを打って迄犬死したがるのは己の卑怯から逃げようが為だ。無論、バカでは無い。それは彼の論理構築の一貫性からも見て取れる。然しホントに頭が良いと言える訳でも無いのは例えば物理学の示す絶対的事実のみから演繹・帰納する思考を根底に置いていないことからも明らかであろう。思考は、この点だけ守っていれば後はかなりフレキシブルに論理展開をしてもさほど大きな過ちは犯さずに済む。この程度のことがこの年(二十歳を過ぎていよう)で分かっていなければホントに賢いとは言い難い。
満足度★★★★
ヴェーダ聖典の神々を拝見。
ネタバレBOX
インドについては完全な門外漢なのでヴェーダについても初めて知った。劇の語り部によるとインドのヒンドゥー教というのは教祖の存在しない宗教だそうでこのヴェーダについても十万通りの神話が存在する由。その分、今日拝見した所では、案外自然科学的な発想だと感じた。自然現象の脅威や驚異を素直に物語化しているように感じられるのだ。それはあくまで自然の中で自然と共に歩んできた人類の自然と向き合う姿である。流石に零を発見した国(地域の人々)だという気がする。それだからこそ、性もこのように歪められない本能の発露として描かれているのであろう。性が抑圧されると非常に歪んだ形で現れる(インクブスやスクブスを見よ!)。
大きな帝国が成立して広大な地域の部族を支配下に置いた時、それぞれの地域の諸部族の間に伝えられて来た神話を、なるべく矛盾なく而もできるだけ公平に統括する為に元の神話を残しながら併存させてゆくという総べ方をしたものと考えられる。そういう意味でも非西洋的なのは興味深い。言葉はかなり近い筈だが。(インドヨーロピアン語属と言われる位なのだから)何れにせよ、原作の翻訳を読んでみたいと思えた公演であった。
満足度★★★★★
根深い対立を見事に形象化。日本人作家では此処まで書けまい。原作者はウクライナ系ということであった。(追記2019.9.25 02;41)
ネタバレBOX
北米のインディアン居留地に住むリタは、車で2日ほど掛かる所にある街へ出た。父は酋長で沈着冷静な判断とその穏やかな性格で白人と門題を起こすことも無く過ごしてきたが、無論街へ出れば白人の天下。陰湿な差別と差別を根底に作られ機能する白人優位社会の構造的暴力によってネイティブ的価値、文化は否定され個々のインディオたちは己の名すら呼ばれることがない。無論差別している側は自分達が差別しているということの根底を意識できないから、例えば就学時にネイティブの文化に根差した価値判断や文化的事象に絡む質問を児童たちから受けても、その質問の意味する所を捉えることができないのみならず、自分達が習慣化してきた宗教や文化を唯、押し付け、それが拒まれるや無能で野蛮だから理解できないのだ、と結論付けて問題視するのみである。本来、先住民の「もの」であった土地を奪い、個々の白人個人の私有地として分捕って自分達の作った法によってその所有を正当化し、其処から多大な利益を上げ、更にネイティブに対する支配力と収奪力を強化している。ネイティブ達の伝統的社会に金や金融に関するシステムが在ったか否か、(恐らく100%ない。あったのは、恐らく交換価値に対するイマジナリーマネーのようなものである)また土地の私有制に関して明確に描かれていないが、ネイティブアメリカンには、土地を私有するなどという愚かな観念は無かった。言って置くが今作では描かれて居ない資本主義体制そのものの矛盾が、また近代国家の問題点がホントは提起されていると見ることさえできるのだ。描かれているレベルへ戻ろう。
街へ出れば無論其処は金融が支配する世界である。と同時にネイティブとは異なる価値観、世界観に裏打ちされた法体系、更には植民の尖兵として機能してきた宗教勢力による道徳律の改変が押し付けられている。様々な相への徹底した階層化は無論、収奪をより功利的にまた誤魔化しやすくする為に機能しているに過ぎない。現在を生きる我々に引き付けて言えば、ネイティブの位置は物理的暴力装置、即ち軍や警察、国民に向けられる戦車、装甲車、催涙弾、銃器、警棒、不当逮捕と拷問、拷問後の獄死、更にはアメリカが後ろ盾となって中南米諸国で行ってきた、飛行機からの落下傘無しでの突き落とし等々の虐殺行為という力に、その高い精神的文化によって勝てなかったことのみである。
而もこのような社会分析や構造分析、自分達の立ち位置と白人社会との正確な関係評価をする力、それを為さしめる高度な教育を殆どのネイティブは受けておらず、このことが、彼らに無効な反抗のみを促すという悲喜劇を、そして徹底的な社会の分断構造を描き出している。それは、ネイティブが、これだけ不利な状況にも拘わらず支配層と決定的に対立する姿勢として描かれている。このレベルが日本の作家には描けないと言っているのだ。日本人よ、括目して世界を見よ、その上で己の進むべき道を選べ。こんな基本的なことすらできなければ、我々日本人に未来は確実に無い。
満足度★★★★★
タイトルで一目瞭然、原爆の話である。被爆の内実は既知のことであったが。その苦しみの深さ、辛さには、言葉も無い。(少し追記2019.9.25 03.33)
ネタバレBOX
多くの人にとって原爆被害はその被害が甚大に過ぎて想像力が追いつかない。無論、自分もである。そのことの怖さをこそ、先ず知るべきなのだ。
1945年8月6日午前8時15分頃、広島に原爆が投下された事実は、而も生き残った被曝者をABCCがモルモット扱いをした事実は決して許してはならないことだ。而も日本ではその後継組織として放射線影響研究所などが、現在も活動を続けている。今作で気になった点が、今作で描かれる実験を行うラボが矢張りABCCの後継組織という設定になっていることである。
冷戦時代に核による確証破壊理論が出てくる時かそれ以前、アメリカは、敵とした国、エリアの何処にどれだけの規模の原水爆を落とせば、敵戦力を無効化し得るかの基礎データに広島の学校で被爆した子供達のデータを基礎資料として用いていた。
書かなければならないことが余りに多いので、もう少し自分に時間が取れるまで待って頂きたい。一応、ヒントだけ出しておく。現在の我々に直接関係することも上げておく。チェルノブイリでも福島でも暗躍したエートス・プロジェクトというものがある。福島医科大副学長に就任した山下 俊一は、ABCCから後継組織にも関わり、ニコニコしている云々でも有名なトンデモ専門家。因みに2011、福島原発「人災」事故では、山下の関わる医科大関係者にはキチンとヨウ素剤を配布したが、肝心の近隣住民には配布せず、安全神話を振り撒いていた。ウランを用いた広島原爆に直接関わりの無いことを上げているのは、原発と原水爆がまるっきり異なると勘違いしているらしい日本人が多いという具合に考えている多くの人々が実際に存在するからである。無論、濃縮率が異なるだけで原理が同じなのは、物理学を理解できれば中学生でも理解できる。経産省、文科省、時に外務省絡みで日本の下司官僚共が垂れ流す戯言批判でもある。(自分も日本及び海外の官僚とのコンタクトはそれなりにしてきた。その上で日本の官僚は殆ど下司だと判断している。)
満足度★★★★
後輩、エノケンに越され、(追記2019.9.22 03:13 華4つ☆)
ネタバレBOX
そのプライドと一流の実力やダンディズムから酒に呑まれ48歳で世を去った二村定一の晩年と戦中、官憲に目を付けられ、散々興業を邪魔された挙句1945年3月10日の大空襲で小屋を焼かれ千葉で細々興業を続ける北川の小屋へ女芸人一座の公演が入っていたが、売りはかつてエノケンと組み一世を風靡した二村との共演。
然し、大きな問題があった。二村は既に死んだ、との風評や酒に溺れて、もう芸どころではないとの風の便りである。
以下、今劇団ばかりではなく、拝見して来た数々の新劇上演劇団への印象。(文学座有志は流石にレベルが高いと感じているが)
伝統のあると評価されている日本 の劇団の公演を拝見したくとも値段が高過ぎて自分のような貧乏人は中々観るチャンスが無いのが実情だからホントに印象でしかないが、どうも様々なコンセプトというフィルターを掛け過ぎて、肝心な所がぼやけるケースが多いように思う。劇作家のオリジナリティーに欠けるケースが多い事、主張の根幹が、作品の根本的な主張と完全なマッチングをしていないこと、その根本に己と世界を人間的な視座で見極めようとする姿勢が無い事、在るとしても極めて弱く下らない下馬評におもねる余り、根幹を見失っていることが在る。恥ずかしいと思わないのだろうか? 表現するつもりになってはいないか? 今作でも自分の大好きな作家・井上 ひさしさん、味のある俳優渥美 清さんらしき人物を登場させることで茶を濁している印象がぬぐえない。二村役の声の質は良いし、歌も上手いが自分が拝見した回で座付き作家となった井上ひさしさんらしい(このらしいという劇団説明文も様々な事情はあるのだろうが逃げであることに変わりは無い)人のたっての頼みに応えて二村がスローで歌う“君恋し”には魂が無かった。こんなものは歌でも何でもない。最初から最後迄音楽的に良かったのはアコーデオン弾きチェリー役のアコーデオン演奏。東京大空襲で幼くして家族を失ったショックで言葉を発することのできなくなった少女に寄り添う心に沁みる音作りであった。
満足度★★★★★
様々な問題を抱える4人の男女が、何とか自分の抱える問題を解決しようと申し込んだのは(1回目追記2019.9.22 01:17)
ネタバレBOX
所謂自己啓発センター。三日間泊まり込みで専門のトレーナーのカウンセリングや自己啓発プログラムを受けることで、自己変革を遂げようというものだった。
トレーナーは大手でも剛腕として知られた著名人。1年前娘を鉄道事故(遺書があった為自殺とされたが、父は疑いを持った)で失くし、自ら疑念を晴らす為に事故現場に立ち、事故を見た人を探し続けた。
トレーナーは大手でも剛腕として知られた著名人。1年前娘を鉄道事故(遺書があった為自殺とされたが、父は疑いを持った)で失くし、自ら疑念を晴らす為に事故現場に立ち、事故を見た人を探し続けた。
漸く事故現場を見たという人に巡り合い証言を得た父は、事情を告げて現場を写していた防犯カメラの映像を見せて貰い、娘が救ったという人物を特定した。
さて、今回このセミナーに参加した4人は以下の通り。自分のことを話す段になると緊張のあまり、呼吸困難に陥る男、自らの意志を持たぬかの如く他人の求めに応じてしまい乍ら、実は自らの体験した実父による小学校以来のレイプのトラウマと覚せい剤を局部に擦り込まれて自ら求めるようになったことを恥じる己、為に魂の奥底に秘密として隠したことが嘘を吐き続ける己という核を構成して肥大し続けるキャラクターを悩み抜くうら若い乙女。アルコール依存というよりハッキリアル中で妻子に逃げられたのみならず、そのような体験から逃れるにもアルコールに溺れる他、術を持たぬ男。セックス依存症ではないかと悩む女、である。物語りの中核に据わるのは、無論最も過酷な体験を持つ二人、即ちトレーナーと長距離トラック運転手だった実父にレイプされ続けた女である。この二人の接点こそ、自殺とされた娘の鉄道事故であった。父が疑った通り、娘の死は自殺ではなかった。娘は、陰湿な苛めを受けていたが空を飛びたいという夢の通り、天使として顕現し亡くなったのだ。自らの魂を食い破り肥大してゆく嘘つきというイマージュに食い荒らされ、線路上で身動きできなくなった乙女を「生きて!」と叫んで猛進してくる列車から救った娘を彼女は「天使が現れた」と表現している。この科白の持つ重さを受け取るべきであろう。ただ、身代わりになって亡くなったトレーナーの娘に対する申し訳なさから、彼女は姓名を変え、職も変えて今ではビルの清掃婦として働いているのであった。これが、作品に描かれている「内実」である。だが、自己啓発セミナーに参加したとて問題が解決するハズは無い。問題が本質的であるということは即ち己自身の問題だということだから、他人の事例は参考にはできても本質的な解決にならないのは理の当然である。人間実存の根底にある距離と溝の深さはそんなに生易しいモノでないのは自明のことだ。一方、人間は極めて弱い。そして弱さを極めなければ、常にアモルフである。
満足度★★★★★
若手漫才コンビシーチキンは、ツッコミのリョウとボケの榊の2人組。コンビ名は貧乏暮らしでシーチキン缶詰ばかりを食べていたからだ。(追記2019.9.22 01:43)
ネタバレBOX
物語りは一時コンビで売れたものの、ピンで人気者になったリョウと今は大人の玩具屋で天狗のタンカ売をやっている落ちぶれた榊、2人の命運を秤に掛けながら展開する。榊はリョウも愛した美奈代を妻として8年。結婚は、コンビを組んだ頃のことだ。無論、下積みはあったもののコンビでもブレークし一時はTVでも持て囃された。然し現在TVで引っ張りだこなのはリョウだけだ。そのリョウがコンビがデビューした小屋を借り切って昔の仲間と共にシーチキンの漫才公演をうとうというのである。漫才界のスターとして多くのファンを魅了しているリョウは、無論、多くの女性ファンを持つ。“男の浮気は芸の肥し”とされてきた業界だからその手の話にも事欠かない。然し今回、リョウが相手にしている愛は、3か月持も続いていて初めてのことだ。遊びは、通常最後迄行ったらそれで終わりが当たり前のハズなのに。然し、この所リョウの様子がおかしい。まるで人間が変わってしまったかのような言動は常軌を逸しており、仲間内でも問題になるほどだ。但し飛ぶ鳥を落とす勢いのリョウに真っ向意見できる者などいる訳も無い。浮き沈みの激しい業界で売れている芸人には芸能プロダクションのヤリ手社長と雖もおんぶにだっこ、これが実情だからだ。それにしてもおかしい、と本気で信じている者がたった1人確実に居る。それが愛というリョウの彼女だ。ぶきっちょな程清楚な彼女だけは、どんなに否定されても彼を信じている。リョウのつれない、余りにもアザトイ愛への仕打ちにかつて苦労を共にした者達でさえ、その多くが愛想を尽かし、或いは尽かし掛けている。(この溜めの部分は照れ屋さんは恥ずかしくなる程執拗だ)
今作には終盤、とても示唆的な科白がある。「榊の時代が来る」というリョウの発する科白である。将来はTV局社長を嘱望される女子有望社員・プロデューサーの西方に榊を頼む時に吐く科白だが、実に示唆的だ。リョウの生き方と論理が平成の時代状況にマッチし圧倒的な支持を、恐らくは特にリーマンショック以降の日本の多くの人々に支持されたのであれば、その波の消長を自ら渦中の中心で受け答えして来たリョウの科白としてこれ程相応しいものはない。彼には見えたのだ。フランツ・カフカが描いた被差別者の群れが蠢く社会が。この国に確実にやって来、それが人々を押し潰す時、リョウの榊に比べれば分かりやすい+方向の命掛けと榊の実践して来、実際、時々刻々自死への衝動に駆られながら幸か不幸か命を繋ぎとめている大多数の被差別者、被収奪者達の抱え込まざるを得ない暗澹たる人生が願う唯一のこと。傍に分かってくれる人が居て欲しいという念に唯一応えることのできるメッセージの発信者としての榊の表現の人間的意味を。
自分がT1プロジェクトを高く評価し続けている理由もここに在る。人間は良いとこも取り返しのつかない大失敗も繰り返す愚かな存在だ。それを知った上で、我らは自問しなければなるまい。ヒトという存在として地球上に在ることについて。それぞれの自分の生きる意味と責任と地球の支配者としての我々の振る舞いが、他の総ての命に与える影響について。こんな大風呂敷を広げることは滑稽だろうか? だが、我らヒトが刻々絶滅させている生き物がどれだけ多いかを見てみると良い。慄然たるレベルなのだ。それを知って尚且つ反省できなければ、間もなく我らは確実に滅びるであろう。それは100年後かも知れないし、それより早いかも知れない。遅いかも知れないが、生命誕生以来の歴史の時間軸の中で約40億年(この時代に誕生したものは、学問的には無生物とも規定できる)の尺度を24時間に縮めれば無論、1秒に満たない。
満足度★★★★★
魂が顫えるような歌声を聴きたくないか?
ネタバレBOX
魂を顫わせる歌声というものが在る。その歌声を聴くだけで心の奥が疼き得も言われぬような癒しの感覚と共に頬を伝うものがある。そのような歌声を聴いたことが無い方は、是非この作品を観ると良い。
今作では、一切マイクを用いていない。序盤楽屋に演者達が戻ってくるシーンでは、それを装着しているシーンがあるが、イミテーションである。実際には演者自身が生の声で歌っている。箱が小さいとはいえ、歌の上手い演者を揃えたしっかりした公演だからミュージカルファンにも充分気に入って貰える作品だろう。無論、ストーリー展開も極めて味のある作品に仕上がっている。作品の内実と歌唱がマッチし融合して感動を齎すということである。中でもヒロインを演じる春野 未来役の秋野紗良さんの歌声は、当に天性のもの。是非、生で彼女の歌声を聴いて欲しい!
劇中、エディット・ピアフの「愛の賛歌」が歌われるシーンがあるのだが、その歌詞は、通常日本で歌われるそれではなく、フランス語の元歌の内容をキチンと翻訳したものであることも気持ちが良い。というのも“おふらんす”だの“おしゃんそん”だの訳の分からないプレシオジテで飾り立て気取ったつもりになっている「似非文化人」が余りに鼻につくからである。T1プロジェクトの作品が優れていると自分が判断するのは、表現する者が最も大切にしなければならない基本をキチンと守り、キチンと表現しているからであり、常にそれに向けてチャレンジし続けているからである。
今作の中心を為す恋は、無論ヒロイン・春野と三上との清らかな魂の、実に微妙な、それこそシュレディンガーの猫が呈示する重なり合いのような深く淡く而も普遍的な余韻に満ちたものであるが、直接演じられてはいないものの、今作でメタ構造を為さしめている舞台での(実際に物語が展開するのは楽屋なので)女王役(設定は大女優)のドラ息子と彼に弄ばれ妊娠した女優・かおり役との、こちらは現実の恋愛事情のドロドロを舞台化した愛の形により対比されている他、生活の為に、本当に追いかけていた表現者の道を見失い、離婚の危機を迎えている夫妻、作品のオリジナリティーや表現の独自性・創造性を重視する作・演出家と採算を気にせざるを得ないプロデューサー、ずっとスターとして生きてきて、観客のイメージを壊せないと考えている大スターとその威光に頼ることのえげつなさに薄々気づきながらも甘え、利用しようとし、実践もしてきたドラ息子等々との対比等、人間ドラマも満載である。而も、友澤氏の作品のもう一つの隠し味は、全く別の所にある。それは、主筋が展開している舞台の端で必ず、その流れを第三者的に対象化しているキャラクターを配していることだ。この第三者が居ることで舞台が常にある緊張を保っている。
満足度★★★★★
華5つ☆ ベシミル!!
ネタバレBOX
T1プロジェクトの新作だ。24ヶ月プロジェクトを修了したばかり、初舞台というメンバーが3分の2程居るが役者間の呼吸が合っているのはずっと一緒に芝居の道を学んできたという事とアテガキの科白も結構あるということなので自然体に近い所で演じることができているようである。作・演の友澤氏は多くのTV番組を手掛けてきたばかりではなく劇作も60作程になるか。人間を描かせると科白に深みのある良い作品を書く人だが、今回の舞台は経営難の動物園の話だから、生命の生き死にの本質について書き込める設定だ。動物園の動物たちの生き死にと人間の生死を生き物の生死という同列の形で扱っている視点も、エネルギーの無駄遣いと生き物たちの生息環境破壊によって凄まじいスピードで人間以外の殆どの生き物を絶滅の危機に追い込んでいる現在の我々にとって、命を等し並みに観る視点は極めて重要な意味を持ち得る。このまま他の生き物の生息域を奪い続けるような環境破壊を続ければヒトの時代の終焉は近い将来であることは間違いあるまい。が、この辺りは軽く示唆し、今作では園長が末期胃癌で余命3か月という情況を描く。而も彼は尊厳死を望んでいる。この問題を法的に認めている国もあり、日本のように認めていない国もあるが、実に微妙で難しいことを扱うことで作品に締まりが出、緊張感が持続する。脚本は、設定が成功すれば半分出来上がったも同然と言われるほど設定が大切なことは言うまでも無いが、この辺りの上手さは流石である。新人が多い分、ベテランが引っ張っていい演技を見せている。特に園長・慎太郎役、妻で副園長・凛役の演技は気に入った。ちょっと生命に対する科学的見地、判断が必要になってくる内容だが、この点でも獣医・多々良と通常のヒトを診る医師・吉崎の二通りの医師が登場するし、他に廃園危機にあるこの動物園の経営・経済を巡る問題も連帯保証人になっている先代園長の息子で現在IT企業社長の轟が己の会社の株式上場と絡んで、人の命を金で計る態度などが描かれている点が興味深い。更に面白いのは新入りの飼育員・安田だ。彼女の父は彼女と母を置いて自殺してしまった。その直後母は彼女を置き去りにしたまま出帆してしまった。彼女の言行には奇矯なものがある。然しながら、これは若く感受性の強い彼女流の甘え方なのであろう。奇矯な言動を繰り返すことで叱って欲しいというような。それぞれのキャラの個性が強く、為にぶつかり合い、時には火花を散らす展開も自然に出てくるのは登場人物の行動原理が作家の頭の中でキチンと流れを作っているからだろう。人生中々思う通りに行かないものだとの述懐は誰しも思う所であろうが、思うように行かない人生の中で大切な人を持ち、その人を大切に思い続けながら生きることの出来る人生は、矢張り充実し幸せな人生と言えるだろう。そんな人生の宝物を今作はじっくりと見せてくれる。小道具の使い方も上手い。互いに心底愛し合いながら、経済的不如意等で偕老同穴の契りを結んだハズの夫婦にも離婚の危機は訪れる。その何とも言えぬ微妙な関係を結婚指輪で示して見せる辺りも手練れの技を感じさせる。
私事を申し上げて恐縮だが、自分の母方の祖父・祖母は顔を合わせれば口論をしているようなジジババであったが、一人が少しでも席を立って見えないと「何処へ行った、何処へ行った!?」と互いに大騒ぎをするので、小さな子供であった自分達から見ても可愛らしくて仕方のないジジハバであった。祖父が亡くなってから祖母は何年も生きたが、臨終の時の言葉は、「八郎が迎えに来た、わしゃ逝く」であった。決して豊かな生活では無かったが最後は次男の家で大往生を遂げた祖母は幸せだったと言えよう。そんなことを思い出させた味と深みのある作品である。
満足度★★
う~む。
ネタバレBOX
演技というレベルになっていない。残念! 脚本も終盤ちょっとぐっとくるところはあるが、浅い。
満足度★★★★
イプセンの作品だが、シェイクスピアと並ぶほど上演される作家と言われるイプセン作品の中では極めて上演回数が少ない作品である。英、米で何回か上演記録があるそうだが、日本では初。原作をそのまま演ずると3時間以上の長大な作品であり、登場人物も極めて多い(民衆がたくさん登場する為)ので、今作は原作の本質を損なわぬよう注意深く努めつつ約半分の長さに上演台本を仕上げている。(追記後送華4つ☆)
満足度★★★★
リストカットを繰り返し、後3回切ったら
ネタバレBOX
ちぎれると医者に宣告されたむむちゃんの日常を淡々と描く。
演劇は人間の発明した伝達手段のうち最も手の掛かる方法だと自分は思っている。書き手が作品の想を練って書き上げ、それが上演されるまでにどれだけの人々がどれほど多くの時間と作業と経費を用いるか一瞥しただけでそれは明らかであるし、ここは演劇サイトだから今更何を!? という声が上がるのは当然だ。然しながら今作では通常の序破急や明確な対立、所謂ドラマツルギーが無い。欠如しているのだ。無論、心の中の動きを主人公・“むむ”を通して観客は想像することができるしその心理的綾を想像できないということではない。ただその心理的綾が描き出すのはあくまで彼女の心理的傾向と自同律である。即ち永劫回帰に陥ったような心的構造である。ここから抜け出す方法は一つしかない。自同律を振り捨て、現実社会と向き合うことである。それができない若者達の傾向を重々承知の上で作家が今作を上梓しているのなら、それは極めて鋭い社会批評たりえただろうが、其処まで明確に意識した作品なのか否かは現時点では決め難い。というのも自分にはこの作家についてのデータや作品傾向がこうだと判断するほど作品を拝見していないからである。何れにせよ上に挙げたような意図が無いとすると、極めて表層的な作品であると思われる。仮にそうであった場合、このような心理状態で今、日本の多くの若者が暮らしているのだとすれば、これだけ手間暇の掛かる演劇という形式で表層をしか創造できない彼らが、これから構築してゆく社会を想像して暗澹たる気持ちになるのである。
満足度★★★★★
丁寧に綴られた脚本に、入念な演出、演技力の高さ何れも素晴らしい。(華5つ☆)
ネタバレBOX
舞台は現在次女・美佐が家督を継いでいる広島の山間部にある民家の離れ。手前には沓脱石が据えられ、9畳の板の間の奥には6畳分の茣蓙が奥に敷かれている。名家などという訳ではないが、地元には地元の仕来りがあり、美佐はそれを背負って生きている。然しながらその彼女は亭主・亮治が優しいこともあって、現在東京で働き中間管理職となった成績優秀だった長女・枝実、矢張り成績優秀で現在県下の大学の研究者として活躍する三女・希梨と異なりお喋りはするが、本当に人情の機微を危うくするようなことは基本的に何も語らない、極めて繊細で優しい美佐の、一見、ナマケモノにも、まただらしなさや常識外れにも見える生活態度、人間関係作りを象徴するシーンで始まる。これが凄まじく上手い。というのは、亭主が一所懸命、東京に居る姉、市内に居る妹ら、家族や親戚が盆で集まるので、築百年を超え、人が住まなくなって荒れた為、近々取り壊し予定の隠居身分になった爺婆さまが住んだこの離れが物置として使われていたのを片付けようと一所懸命に働いているのに、捨てる物、残す物の選別役の美佐はアルバムを眺め入ってはごろごろ、挙句亭主の作業の邪魔をするような言動を吐き散らしては亭主を付き合わせている。更には大の字になって寝入ってしまう。これがオープニングシーンだ。細部まで丁寧に描かれた脚本はこのオープニングで三姉妹の性格や伏線、美佐と結婚する為に勤めていた会社を辞め、1年近く前に移住してきた夫と妻の関係と亮治の性格、親戚との関係などを見事に俎上に載せこの後のストーリー展開を見事に準備しており、役者陣の演技もそれぞれの微妙な人間関係の綾を見事に際立たせるレベルの高いものである。小道具として終盤大切な意味を持つ浴衣の使い方も見事だ。(無論、これはオープニングシーンでの伏線が効いている。長女は誰に似ており、次女は誰に似ているという亮治と美佐の会話部分)。ホームドラマを眺めるように唯ボンヤリ眺めていることもできるかも知れない。が、普通の感性を持っていれば、美佐の持つ幾つかのトラウマが(このトラウマが中々明かされないことも作品に引き付け続けるテクニックとして極めて巧みだ)、表面上それこそサザエさん的幸せに満ちた地方の家庭生活と見えるのかも知れない日常を、極めてドラマチックな針の蓆に転換してくれる。最初、非常識でナマケモノ、在ってはならないだらしない存在と見えた美佐が徐々に可愛い女性に見えてくる。無論、枝実が勝気で何をやらせても人一倍の働きと能力の高さを見せ、而も率が無い女性であるからこそ、東京に出て、女性でありながら、中間管理職を任され仕事に充実感を感じてはいるものの、所詮、男性優位のジェンダー社会の中で本来は自分の責任に拠る訳でも無い責任を取らされる厳しい場所に居て疲れ切り、ストレスを抱え込みながら孤立無援という辛い立場の中、必死に何とか人間らしく在りたいと悩みに悩んでいるのみならず、早くに親を亡くした妹たちの為にしっかりせねばとの責任感と優しさからキツイ言葉もでてしまう事情も自然な形で描き込まれている。(オープニングで美佐が眺めている古いアルバムの写真で母に似ている枝実の話が伏線となっている点、浴衣は祖母が母に縫ってくれたもので、母の棺に入れたこと。盆祭りに三姉妹浴衣で出掛けようと話をしており、枝実の浴衣は母の棺に納めたものと柄が瓜二つであることを利用して、母生き写しの姉が、盆帰りした母に変わり、美佐のトラウマの一つ、風邪を引いた自分を医者に見せる為に運転をしていた父母が交通事故で亡くなり自分だけが後部座席に座っていて助かったことを、美佐が生き残ってくれて大変喜んでいること、また枝実がしっかりして貰おうとしてキツイ物言いをしてしまう事情なども説明し、いつも子供達を見守っているとの科白を吐く)一方、希梨は矢張り優秀な研究者である同僚と市内で同居しているのだが、相手は男性では無い。即ち彼女はLGBTの内のレスビアンである。このことが意味することは地方ではスキャンダルというレベルでの問題であり、下手をすればこの悩みの果てに自殺者が出かねないレベルの問題である。勤める大学内でも噂が立ち始めていることが原因で、希梨は大学を辞めるつもりで今回実家に戻ってきている。何度も掛かってくる電話を無視し続けていた理由は、同居人が遂に希梨を訪ねてくることで明らかになり、これはこれで二人の今後を決して否定的なものとして描かず希望の灯をともす内容に仕立ててある。このように三姉妹それぞれが、事情の異なる極めて現代的で本質的な問題を抱え、それが日常の中に丁度、海水の中に浮かぶブイのように浮きつ沈みつ不気味な貌を晒している所に、今作の凄さを見ることができよう。脇を固める農家を経営する親戚の鉄人さんの味のある演技や幼馴染で法要を営んでくれる坊さん役の一樹も良い。三都市を回る価値は充分にあるしっかりした心に残る作品である。
唯一、矛盾しかねないのが、母の浴衣を棺に入れたこととをハッキリ科白化して際立たせて仕舞った点(何か一工夫欲しい)、柄が瓜二つの浴衣を三人で行こうと祭りに誘った時点で枝実は着なかったものの、ちょっと気に掛かりはした。
満足度★★★★★
取り敢えず評価だけ。追記2019.9.17
ネタバレBOX
若手小説家同士が同棲している。同棲し始めたのは、ある小説の好みが同じだった為だ。男は新人賞を獲った後パッとせず、担当編集者からも彼女の方が期待されている。それでも彼女の方から何とかもう少し見てやってくれとのたっての頼みもあり、彼、未だ見捨てられてはいない。今作にはシュレディンガーの猫が挿入されて実にお洒落な使われ方をしているが、作中に出てくるシュレディンガーの猫の話は既に人口に膾炙しているとはいえ、未だこの量子力学に於ける論争が市民権を得ているかというと微妙かも知れないので少し説明をしておこう。実はこのことを小説中に取り込んだ作品こそ、彼らをこのような関係に導いたのであるし。
元々量子力学の話だからミクロレベルで原子の構成要素や分子構造が問題になるから原子物理学や素粒子に関わりのある話である。要はミクロの量子の状態の変化とマクロ世界からの観測を如何に考えるか? の問題で実験としては密閉した空間に生きた猫を入れ、原子核崩壊の際にα線を出す物質を同時に入れておき、α線が出ると密閉空間に設置してある毒ガス噴射装置が機能するようにしておく。実験開始に当たっては容器の蓋を閉じて内部が見えない状態である。原子核崩壊が何時起るかは確率的問題と考えられ観測者は内部に閉じ込められた猫の生死を確率的にしか評価できない。一方、蓋を開けてみれば、猫は毒ガスを浴びて死んでいるか、浴びずに生きているかのどちらかになるだろう。だが、蓋を締め切った状態の時、猫は生きているのか死んでいるのか? それが、問いだ。
因みに照明装置や照明の色に関してもかなり敏感な作品である。意識したか否かは兎も角、原発等の臨界で観測できるチェレンコフ光(チェレンコフ光とは、荷電した電子が例えば水の中を光より早く動く場合に発する青い光のこと)のようなブルー、彼女の好きな緑の光を用いた室内ライト、更にはタイトルにも入っているちょっと特殊な色目、紫も無論用いられる。ここで少し色というものの性質についても説明しておく。ある物質が色を示すということは、物質に白色光を当てた時、物質はその中から特定のスペクトルを吸収、離さなくなる。すると我々の視覚に色として認識されるのは、物質に吸収されなかった補色関係にあるスペクトルである。紫の補色は波長560nm~580nmの黄緑。この黄緑が 物質に吸収される結果我々の目に映ずるのが補色の紫という訳だ。
そろそろ、作品解説に移ろう。男女の微妙な関係それを構成する空気を上手に描き乍らシュレディンガーの猫の生と死の重なり合いと大切な者を失ったが故の非在の現存というパラドクスに重ねた物語だ。このパラドクスに解が未だ見当たらないことの恐ろしさを含め“恐怖”というコンセプトを上手く織り込んで面白い作品に仕上げている。ファーストシーンとラストシーンの効果的な交感も中々洒落た内容である。