流れる雲よ2013 ~海~
演劇集団アトリエッジ
笹塚ファクトリー(東京都)
2013/04/19 (金) ~ 2013/04/28 (日)公演終了
満足度★★★★
戦争をどう見るか~風を拝見~
靖国で会おう、という言葉・表現は、戦記物でよく見掛ける。然し、第二次世界大戦で大敗した日本の総括を殆ど誰もやっていないのではないか? というより、総括しようとする動きすら少ないように思う。それこそ、この国が負けた根本的原因ではないか? 戦争は、無論、愚かなことだ。誰しもそれは言うだろう。平時であれば。然し、戦時にそれを言うとこの国ではパージに遭う。多様性や自由、それを言う権利が最初に死刑になるからだ。恰も、情に流され、共感した振りを上手にこなし、涙を垂れていればそれで、肝心なことは総て素通りしてくれるとでも言うように、いつも誰か任せの、鵺のようなこの国の正体。
無論、近現代戦争のような社会的、経済的、技術的、組織的、且つ、人心操作的な事象を演劇化するのは並大抵のことでは無い。それをしようとすれば、今回のように、理不尽な死を強制された若者と恋に収斂させて、戦争全体ではなく限定的な死生を描くか、全体を描くのであれば、象徴乃至はアレゴリーを用いて作劇するか、或いは、ワジディー・ムアワッドのような方法を採るしか無かろう。
全体を見ようとしていない今回の作劇法は、矢張り、メンタリティーに竿を刺すという限界を含んでいるのも事実である。だが、近・現代の戦争はメンタリティーなどでは動かない。システムによって動いているのである。多くの現代戦記を舞台化しているグループのようだ。是非、自分の挙げたような方法でも舞台化を試みて欲しい。
ウェルカム・ホーム
天才劇団バカバッカ
テアトルBONBON(東京都)
2013/04/18 (木) ~ 2013/04/29 (月)公演終了
満足度★★★★
アメリカナイズされてはいるがおもろい
藤田家は大家族、子供10人、父、母、祖母を加えて13人家族なのだ。13年前、この一家は、TV番組の取材を受けた。ディレクターは、敏腕な松村。(追記4.24)シナリオもしっかりしており、力のある劇団と見た。
ネタバレBOX
だが、彼が、この番組を受け継いだ頃には、やらせが定着しており、而も、藤田家の母親は、自らやらせを頼んでもきていた。松村の前任者は視聴率を下げており、松村は視聴率アップの為、嘱望されての配属であったから、視聴率回復の為にはエッジの立つようなシャープな構成と画面にするしかなかった。それもあって、松村は母の提案に乗ったのである。視聴率は上がり、番組は活気を取り戻したが、やらせ疑惑で頓挫。松村はしょぼいグルメ番組に左遷され仕事をやる気も無くしていた。ところでこの番組には、矢張り、誤解からスキャンダル騒ぎになって左遷されて来た市川と、市川にホノ字の郁美が部下としてついている。
一方、藤田家では、その後、やらせ疑惑の件が出演した家族に重くのしかかっていた。学校で苛めに遭う。馬鹿にされる等々で、学校に行けなくなる子すら出る始末であった。而も、父は早く亡くなって金銭的にも追い詰められていた。番組放送から13年が経って、TV局、藤田家双方にとって、新たにその後の藤田家を撮ってみよう、出演しようとの機運が高まる。そこで、今回は、フェイクドキュメンタリーというコンセプトで撮影する運びとなった。フェイクだから、本当で無くとも言い訳が立つ。松村も藤田家の大黒柱、二男の充も各々、内々の計画を練っている。アットホームなバラエティー番組仕立てで出発したはずの番組だったが、そこは、フェイクドキュメンタリーという逃げがうってある。つまり、何をやっても許される、という次第だ。充は、このコンセプトを利用して、初回の撮影で受けた傷への意趣返しを狙ったのである。各々が、自分の言いたいことを言う。が、充のコンセプトだ。このコンセプトに沿って、家族一人一人が全員、自分の言いたいことを述べる。結果、本音から見えて来たことは、この国に住む我々観客にも無縁で無いどころか、抱え込んでいる問題そのものを提起してくる。
而も、この撮影時に充を訪ねて刑事がやってくる。参考人として事情を訊きたい、と任意出頭を求めてきたのである。容疑は偽装倒産と背任横領であった。充は、刑事に従うが、容疑の件については、黙秘していた。彼は、完全に白だったにも拘わらず。その理由とは、こうだ。充は、藤田家の在り様が嫌で、独立した。いわば独立して、会社を持つことは、彼にとって新たな家族を作ることであった。自分が白であることは、彼自身よく分かっていたのだが、新しくできた家族でもある。それを悪しざまに言ったり、告発することを潔しとしなかったのである。
La Vie en Rose エディット・ピアフと八人の男の話
川崎インキュベーター
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2013/04/19 (金) ~ 2013/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
ピアフの実存
ピアフの生きざまに感激。だが、内容的にはピアフにおんぶにだっこであった。(追記4.22)星4つはあくまでピアフへの評価があってのこと。
ネタバレBOX
ピアフに助けられた親子の話が出てくるが、赤子を捨てようとした母親は、ピアフから貰った100万フランで生活を立て直し、まっとうな人生を歩んだようだ。その娘は、名をエディットという。無論、母が、ピアフの名をつけたのだ。それで、娘が、ピアフと関係の深かった8人の男にピアフの人物像を尋ねる、という設定になっている。
素人とはいえ、社会的に成功している人達ばかりが、出演しているので、若干、かむシーンのあった人が居るとはいえ、無難にこなしている。だが、芸術をなめてはいけない。アーティストは、別に良い子ではないのだ。誰一人、己を曝け出していなかったではないか! そんなレベルでピアフを演ろうなど、彼女に失礼である。
特に、最後に歌われた曲は、Non je ne regrette rien.だろう。日本のシャンソン事情は知らないが、自分の指摘が正しければ、あんな訳にはならないのではないか。何も後悔しない、という凄まじく強い歌なのだから。この点でも、ピアフのみならず、フランス文化移入に問題があるように思う。
ただ、救いと言えば、ピアフの凄さが、伝わってきたことであった。
マリー・ボドニック
ロデオ★座★ヘヴン
劇場MOMO(東京都)
2013/04/18 (木) ~ 2013/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
魔都上海
時は1937年。上海の日本租界の一角。イエュイは、武勇の誉れ高い貴族の愛娘、男子に恵まれなかったこの家の長女である。年頃になったが顔にコンプレックスがあって何時もベールをつけている。彼女の身の回りを世話するのは下僕、ラン・ティエン。目は悪いが、忠実な下僕で彼女の為なら命も投げ出すほどである。
そんな彼女は、父の葬儀で出会った日本人外交官、甲斐に一目惚れしてしまうが、甲斐は、彼女のベールを剥いだ途端、悲鳴を上げて逃げ出してしまった。彼女は深く傷つき、その時以来、武器取引、暗殺などを生業とし黒世界で暗躍するウーの下で働くようになる。(ネタに追加4.22)
ネタバレBOX
暗殺もするスパイとして。そんな折も折、甲斐は、毛沢東率いる共産軍や蒋介石率いる国民党軍部との戦いに備え、もう一つの顔、軍特務機関員として武器の調達を画策する。
当然、国民党特務機関は甲斐の命をつけ狙い、殺害を目論むが、ウーから甲斐殺害を申し渡されていたイエュイは、ターゲットが、甲斐であることに気付き彼を殺しに行った先で国民党特務機関の手先と思われる者からの襲撃を撃退し、逆に助けてしまう。因みに、武器調達を図った甲斐の取引相手とは、ウーの右腕である。
当時、魔都と呼ばれた上海を舞台に、日中スパイ合戦とイエュイのひたむきな愛、二つのテーマを描いているのだが、ラストへ持ってゆく際、アウフヘーベンの手際が良くない。作家の傾向なのかも知れないが、演劇的効果の面から考えれば、イエュイの恋を前面に描くのではなく、逆だろう。翻弄されて亡くなることを強調すべきである。本当に恋を純粋に描きたいのであれば。他人を散々殺めてきただけでも大変な罪なのだから、それをしも浄化する程の恋を観客に理解させるには、今回の終わり方では甘い。
魔法使いとストレイシープ~Apology~
劇団ヒラガナ( )
アドリブ小劇場(東京都)
2013/04/19 (金) ~ 2013/04/21 (日)公演終了
満足度★★★
役者
舞台に上がったら、一番大切なことは演技だ。これは、言うまでもあるまい。この点で、残念ながら力不足が、目立った。歌にしても、音感レベルからきちんとしないといけない。絶対音感が無いなら、完全な音痴に徹すべきである。歌のうまさは、聴衆を沈黙させるが、極端な音痴は、大笑いさせる。舞台に上がる以上どちらかであろう。
シナリオも哲学的な浅さが、難点だ。観客にとって伝わらない言語を用いるなら、それが、作品の中で、何らかの痛烈なメッセージを持つべきである。一つだけ例をあげておく。「夕鶴」の与ひょうとつうの会話で、欲に目の眩んだ与ひょうの言葉に対し「分からない。あんたのいうことがなんいにもわからない。云々」という、つうの科白の何と言う痛烈。こういう言葉を目指すべきだろう。
おい、小島!
タッタタ探検組合
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2013/04/17 (水) ~ 2013/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★★
タッタタ探検組合流ミステリー
いつも質の高い喜劇作品を演じ続けてきたタッタタ探検組合が、今回挑むのは、ミステリー。無論、いつもの笑いは健在だ。而も泣かせ所、鋭い風刺、謎解き等々盛りだくさんの内容だ。
発端は3年前、ヤクザと黒い噂のあった町長が、鉄パイプで殴り殺された事件だった。容疑者として手配されたのは、小島という名の組員である。一度、警察は彼を追い詰めたことがあったが、すんでの所で逃げられてしまった。ところが、その小島が出頭してきた。3年間、何処に、どのように潜んでいたのか。若い署員が尋問するが、小島は、話をはぐらかして一向に答えない。退官間際の鬼刑事に尋問者が変わると、刑事の物語り意識に感応したかのように、小島は事件後の顛末について語りだす。その内容は、極めて特異なものだった。
(追記4.23)
ネタバレBOX
事件後、間もなく小島は、月光荘という名の、築40年、敷金、礼金無し、家賃は半年10万円、風呂なし、角部屋、陽当たり良しで、不動産屋も通さない安アパートを100万前払いして、借りたのである。今では、他の部屋の住人もおらず、大家の話では、幽霊が出る、と噂の立っているこのアパートは、追われている彼にとって都合が良かった。
ところが、住み始めると直ぐ、夜中に飲めや歌えの大騒ぎが聞こえる。寝惚け眼をこすって電気をつけると誰の姿も無い。そんな事を数回繰り返すが、矢張り、騒々しさは消えない。そうこうしているうちに電気をつけても彼らは消えなくなった。当然、互いに誰なのか、人定質問を始める。分かったことは、彼ら8人が、このアパートの先住者だったこと。約3年前、小島が越してくるちょっと前に、一酸化炭素中毒で全員が亡くなっていたことだった。だが、何故、彼らは成仏できずにいたのか。その理由は、もう一人の正体不明者によって、明かされる。幽霊たちから見てさえ異界の者である、この存在は、悪魔とも死神とも解すことはできる。然し、解は最後まで謎である。衣装は白、但し、矢印形の尻尾が生えている。人の言葉を話すが、話し方は異様である。だが、謎の存在は、失踪した小島が、元属していた組織、竜泉会の若頭と幹部に住処を突き止められ、窮地に陥った時に、小島を8人の幽霊と共に救う大活躍を見せる。さて、この時、小島事件の詳細も、何故、彼が竜泉会から狙われるのかも明らかになる。小島は、町長殺しの真犯人ではなかった。殺ったのは、若頭である。小島は、薬中だったが、組長に拾われてヤクザになっていた。その小島には、聾唖者の娘が一人いた。小島は、大層娘を可愛がり、自分でも手話を覚えて話していたが、何かと言えば、タイガーマスクが出てくるので、娘が父の言う前に、手話でタイガーマスクを表現する有り様であった。そんな娘思いの小島は、木偶の坊で粗暴な若頭の身代わりに服役することを潔しとせず、組の金4000万を奪って逃げたのである。だが、組も黙ってはいなかった。交通事故に見せかけて娘を轢き殺したのである。犯人は幹部、藤堂である。小島は復讐を誓って潜伏していたというわけだ。幽霊達の助けを借りて、銃を小島が手にした時、娘がそれを望んでいるか、と助けてくれた者から言われた小島は、手を下さずにいたが、仲間割れの同志撃ちでやくざ二人はこと切れる。
と、不思議な存在は、幽霊達に束縛から逃れる術を示唆し、呪縛から救って次のステップ、未知なる世界へ旅立つ手助けをするのであった。一人、また一人と幽霊達は、部屋の結界を破って新しい世界へ出てゆく。こんな経過を辿って小島は出頭してきたのであった。
鬼刑事の尋問終了時、取材の入っているこの事件で、「記者達の所へ小島を連れて来るように」との課長からの電話に答えた若い刑事が、「想定外の云々」という科白を吐くが、無論、3.11.3.12以降、原発推進派、及び地震・津波に関して非常識な論戦を張っていた御用学者達、官僚、議員、裁判官ら、人災について罪を負うべき連中が口を揃えて言っていた“想定外”への痛烈なアイロニーであることは言うをまたない。
ところで、大家が、小島の越してきた時にも、鬼刑事が大家を訪ねるシーンでも、約半年後に月光荘は取り壊しになる、と話していることも、単純に考えると矛盾と捉えそうだが、事件の3年後に自首して来た小島が、話し終わると忽然と消え、而も、近隣の山中で白骨化した、死後2年以上とみられる死体から見付かった免許証が小島の物であったことを梃子に考え、更に小島が現れた頃、施設に3900万円入りのバックが置かれており、プレゼンターの名がタイガーマスクとなっていたことも考えるならば、大家の話の時間的齟齬も別の様相を見せるのである。この謎を含めてのミステリーではないだろうか?
一筆入魂~締切追う者、追われるもの~
劇団熱血天使
ワーサルシアター(東京都)
2013/04/17 (水) ~ 2013/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
創造する者と享受する者
創作に纏わる者の遭遇する諸問題を挙げ、それに関わる人間達の関係や在り様、理想等を織り交ぜているので主張がハッキリしている。それもそのはず。「新思潮」に集った芥川、菊池、久米、松岡らを中心として描いた作品だからだ。劇中、創作者と普通の人々との関係をザックリ描いている点も良い。また、創作の源泉が、大方日常の中に在ることも、作品は創作者を本質に於いて越えるものだという基本認識も正しい。
ネタバレBOX
三角関係を織り込んだりすることで、漱石のいくつかの作品と通底させると同時に、自意識と嫉妬、自死などを含めて自我の問題を提起してもいる。構成としては四部構成と言ってよかろう。実際、創作している者や編集者として関わっている者にとっては、内心ほくそ笑むよいな部分や苦笑いする部分も多い作品で楽しめる。
しだれ桜
パンチドランカー
ウッディシアター中目黒(東京都)
2013/04/18 (木) ~ 2013/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
矜恃と時流
パッチワークのような構成で、龍馬暗殺の辺り(1867年頃)から第二次大戦後(1945~47年頃)までの約80年間を、京都の山奥にある饂飩屋一家の消長とその庭に立つ枝垂れ桜を梃子にして描いた作品。
ネタバレBOX
龍馬暗殺の下手人は、壬生組の女剣士という設定になっているが、無論、歴史とは関わりが無い。龍馬暗殺に関しては、自分の調べた範囲では定説と言えるものは未だ無い。また、清水一家の大政が、饂飩屋の主になっていたりと歴史とは関わりなく自由に創作している反面、不平士族の反乱で担がれた西郷隆盛の話が出ると、勝海舟の名をちらりと出して、静岡の茶摘みのシーンを入れたりしているので、作家は、日本史にはかなり通暁しているかも知れぬ。勝もまた、不平士族を路頭に迷わせず、彼らの反乱を抑える為に、最も、忠義心に厚い士族に江戸から離れた清水の地で暫く茶を作らせることで、彼らに生活の手段を与え同時に反乱の気を収めることを考えたからである。無論、劇中では、この史実は表立った形では出て来ない。パロディーとして、また、西郷的生き方へのアンチテーゼとして提起されているばかりだ。
まあ、日本史に詳しく無くとも、落とし所は結構作ってあるし、泣けるシーンもかなり用意されている。人として持ち続けなければならぬ矜恃と時流とのヤジロべエを支える支点として機能しているのが、枝垂れ桜ということで良いのではないだろうか。
マリア
Straw&Berry
王子小劇場(東京都)
2013/04/17 (水) ~ 2013/04/23 (火)公演終了
満足度★★★★
遅刻
4分ほど遅刻し入場したのは開始時刻から9分か10分後だったので、最初の演出でどんな工夫をしていたのか、残念乍ら観ていない。科白の聴き取りにくい所が、時折あったものの、総じて演技は、中々高いレベルであった。
ネタバレBOX
シゲルの幼い精神に対して、三角関係になる女たちのプラグマティズムは、タフである。観ながら、太宰治の「人間失格」を思い出した。青年の甘ったれた感傷、傷と挫折だ。ところで、シゲルの世界に逃れられない通奏低音の如きものがあるとすれば、それはどのようなものなのだろうか? 彼は薬を飲んでいるが、躁鬱症の薬なのだろうか?
TheStoneAgeヘンドリックス「おおきないし」たくさんのご来場ありがとうございました!
The Stone Age ヘンドリックス
サンモールスタジオ(東京都)
2013/04/09 (火) ~ 2013/04/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
流石評価の高い劇団だ
TheStoneAgeのツープラトン公演のうち、ヘンドリックスの作品だ。流石に評価の高い劇団である。シナリオ、演技、演出、抑えが効き、勘所をついた照明と音響、適確な間の取り方で効果的な舞台を作りながら、大阪らしいギャグのセンスで笑わせる、更に自然でたゆたうような筋運びで、実に深いことをさらりと表現する。登場人物の名前にも、細かな配慮が見られるのは、無論偶然では無い。
天狗役の緒方 晋(The Stone Age)、渚役の大西 千保、滴役の一瀬 尚代(baghdad café)、神田役の本木 香吏(仏壇観音開き)らの演技が特に気に入った。
ネタバレBOX
近畿地方の海岸近くにある大きな石、この石には、天狗が座って海を眺めているのを目撃したという言い伝えがあり、UMA(雪男、ネッシー、ツチノコのような未確認生物)ライターの渚と編集者の神田 温子が取材にやってきた。この石から直ぐの所に彼女達の予約した民宿、春日屋がある。この宿の主、清隆は、町議会議員の大塚こだまと街おこしの為に天狗伝説を利用しようと、あの手この手の作を練り実践している。因みに、大塚は、天狗の面を被って急に現れたりするので、時には、他人を驚かす。実際、清隆と共に宿を切り盛りしている滴は、腰を抜かさぬばかりに驚いた。こんな細工を弄したりしているので、無論、彼らは天狗が本当に居るなどと信じてはいない。編集者の神田も然りである。
然し、渚は、子供の頃、体が弱く、本ばかり読んでいて、他の子供達と同じように遊び回ることが出来ずにいた。その彼女が嵌ったのが、小学校4年の時に読んだUMA特集雑誌であった。以来、彼女のバイブルは、この時読んだ雑誌であり、今、彼女が、UMAライターになっているのは、その結果である。そんな彼女は、子供のように純真な心を持ち続けている。その彼女の前に、天狗が現れた。だが、天狗の顔色は赤くないばかりか、羽も無い。然し、彼女以外に天狗を見ることのできる人間はいないのであった。彼女は、天狗に多くの質問をし、記事を書く為にメモを取るが、神田は、写真が必要だと言う。そこで、天狗を写そうとするが、どうしても写らない。仕方なく、民宿へ温泉風呂を浴びに来る画家の生田 澪に天狗の特徴を伝えて絵を描いて貰う。そうこうしているうち、天狗に詳しいと定評のある漁師にも取材をという話があり、取材を申し込むが、この漁師、松尾は漁の為に、天狗の羽を持っており、この羽の霊力のお陰で漁も豊漁が期待できるばかりではなく、天狗の気配を察知することもできるのであった。その松尾が、渚と天狗が話していると、時折やって来て、天狗狩りをし出すのだが、投網を正確に天狗の居る方へ打つので、観客には、とてもおかしく、罪の無い笑いを齎す。
ところで、この海岸は、2年前に北の方で起こった大地震の余波で津波が押し寄せ、大きな被害を出しており、滴の弟はまだ行方不明のままである。天狗石の位置も何度となく位置が変わっている。といった情報や天狗の「人間には見えない白い雪が降る」という科白を入れることで観客の想像力をやんわりと3.11.3.12へ誘うのだ。
渚は、滴にも遠慮勝ちに取材を申し込む。明るく振る舞っている滴にも、辛い記憶があるかもしれないからだ。案の定、彼女は風邪をひいた弟を「治る迄」と引き留めた為殺してしまった、と罪の意識に苛まれていた。それで、津波の来る前に、この辺り一帯に生えていたシロツメクサの種を撒いていたのだ。弟が、四葉のクローバーを見付ける名人であった思い出を織り込みながら。その彼女のどうしようもない悲しみに渚は寄り添おうとするが、矢張り被災者と取材する者との間に在る越えようの無い傷の深淵を、越えられない。然し、この作品の凄さは、越えられないことを見据えたまま、個々の力を前に向けて歩み出そうとする姿勢を示す所にある。渚は、黙って独り天狗岩を押す。一所懸命、唯、明日に向かって押す。横には、滴がいる。滴は渚を見ている。渚は岩を押し続ける。たった独り、終に、滴が手を貸す、幕。
余談だが、滴は、荒れ狂う海に弟を奪われる一滴の水、渚は、その海と陸との境界、どちらも水の精、龍と深い関係を持つが、渚が滴の集合であると同時に、滴が集まらなければ渚は存在し得ない。更に踏み込めば、天狗信仰は役 小角と深い関係にある、と同時に小角は、別格の天狗という側面を持ち、他の天狗同様、水の精、龍を抑える神通力を持つ。物語の中に登場する天狗は、天狗岩に登って、海を眺めるのが、好きである。太陽の方へ飛んで行った仲間を偲んでいるのである。そうしながら、渚との話でとても大切な哲学を教え、渚が、ひいては滴が、明日へ踏み出す力を、自らを自らの力で制御する力を与えたのである。
渚の苗字は伊勢、滴の苗字は春日である。どちらも神道と関わりのある苗字だ。天狗と神道の関わりは今更言う迄もあるまい。
#2「for girl」
劇団フェスティナレンテ
参宮橋TRANCE MISSION(東京都)
2013/04/12 (金) ~ 2013/04/14 (日)公演終了
満足度★★★
女子
まあ、普段、電車の中で聞こえてくる女の子の会話は、恋に纏わるものが圧倒的なのは事実だが、そして、この作品でもその話はかなりの割合を占めるのだが、持って行き方が稚拙である。
また、小道具のTV受像器は、一度も使われないのに、結構、目立つ所に置いてあり、それは雰囲気を出す為だと言う。だが、使う意味もなく置いておくようなセンス自体が問題である。余計な物を平気で舞台上に置くということ自体、この作品のセンスを象徴している。詰めが甘いのである。2回目の公演という点で、未だ、日常と舞台の差が分かっていないのだろうが、注意が必要だ。
ネタバレBOX
シナリオで、4人の姉妹(義理も含め)の彼は同一人物であるという、常識では考えられない話になっているが、これをドラマに仕立てるのであれば、砂糖をたくさん使う事で伏線をはるだけではなく、各々のキャラクターや人生をもっと深く掘り下げ、そうならざるを得ないシチュエイションを作らなければ効果的とはいえない。(オイディプスを見よ)
また、女子ばかり4人が、浮気性の彼(姉妹に四つまたを掛けている)を持ち、そのうち3人が、実の姉妹だというのに、妊娠についての話が出てこないことも、実際にはあり得ない。余りにも、世界の見方が単純である。役者は、無論、遊び心も必要だが、遊び心を持った好奇心とそれを作品化できるだけの観察力を持たねばなるまい。
現段階では、まだまだ未熟。精進が必要だ。
幕末ノ丘
神田時来組
俳優座劇場(東京都)
2013/04/10 (水) ~ 2013/04/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
アイロニー
岡田以蔵、鉄蔵兄弟は、武士階級の間でも差別の酷かった土佐足軽出身の兄弟だ。以蔵は剣の達人。所謂人切り以蔵であり、弟は、算術などに長ける。仲の良い貧しい兄弟である。一方、原田左之助も武士を目指し、新撰組に入隊。土方を凌ぐほど強いと考えられているが、人を斬るのが嫌いである。ともあれ、三人ともいっぱしの武士を目指していた。
ネタバレBOX
この三人の出会いは、琴が、会津藩主、松平 容保に見合・腰入れするのを嫌がって逃げて来た時、縁あって知り合い、以来、琴を含めた四人は身分の違いを越え、立場を越えた親密な情で繋がれてゆく。
神田時来組は5年来喜劇的な作品を扱ってきたようであるが、今回は作劇の基本的なスタンスを下級士族・農民(新撰組メンバーが、ほぼ農民出身であったことを思うべきである)に置き、時代の奔流に立ち向かおうとする岡田兄弟、原田の友情を中心に据え、新撰組と土佐勤王党対立の歴史を描いたことで、彼らの知的レベルの限界とその悲しむべき末路を活写して哀れを誘う、一見シリアスな作に挑んだように見せている。だが、”ええじゃないか”の騒ぎを取り込むことで、時代の閉塞感に対する庶民の、これまた無効なムーブメントを伝えて、喜劇を演じて来た者の批評精神を垣間見せる。土方が、函館でなく京都で殺されてしまうのはどうかとも思うが、まあ、良かろう。
肝心なことは、同じ下級武士出身者でも、坂本 龍馬を頭は切れるがプラグマティックな悪党として描いていることだろう。また土方 歳三も豪農出身の悪党として描かれている。成り上がる者は、相当な切れ者でもノブリス オブリージュの発想すら無いという点で、矢張り育ちをからかわれる余地があり、この点に喜劇性が在るのだ。言う迄もないが、アイロニーもまた、おちょくりであり、世の中を笑い飛ばす方法である。逆に、このような点を垣間見せることによってこの作品は、虚構を用いて、現代にも通用する本質を抉り出している。
他にも喜劇的な要素はいくつもある。左ノ助と琴の逢瀬のシーンに”ええじゃないか”の邪魔が入るシーンなども、箍を外す基本である。また、殺陣や所作、和服の着こなしなど、役者が演じる部分はきちんとしているのに、階段部分を敢えて工事現場の足場で組んでみたり、後半、踊りのシーンで女優達が、上半身振袖なのに網タイツを履いて踊ったりするのも、現代にも通底する日本という国の前近代性をからかっているのだろう。
左ノ助臨終の際の科白にこんなのがあった。「右腕に鉛の玉が入って、抑えていないと傷口が直ぐ開く云々」これは、日本の近世が、欧米近代文明に破れる様を端的に凝縮した表現だろう。まして、右腕は、大抵の人にとって利き腕だ。失われた20年、原発問題、普天間、オスプレイ配備、TPPの顛末を見る迄もなく、現代日本の政治、司法、マスコミ、官僚、御用学者の馬鹿らしさ、やられっぱなしの無能を見ても、この作品の描いたアイロニーは、日本を穿っていると見て良い。今こそ、我々は、アメリカの犬、「エリート」を排除し、新しい価値感に基づく、自由で斬新なシステムを作り上げねばなるまい。
星屑の町
劇団だるま座
アトリエだるま座(東京都)
2013/04/12 (金) ~ 2013/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★★
歌謡の背後
歌謡ショーと演劇を用い、論理を基本とする演劇的な表現方法で抜け落ちがちなメンタリティーを掬い上げてみせた。こう書いてしまうと単純なことのように見えるかもしれないが、これは大変なことである。二つのまるでタイプの違う表現を掛け合わせて、今迄と異なる表現を提示するということは、目新しくは無いかも知れないが、それをこのように具体的に完成度の高い作品として提示することは別なことだと言って良い。頭だけでこれを言うことは誰でも出来よう。然し、頭と身体を用い更にそれを皆が体験している人生に落とし込んで、演劇という行為で提示しているのだ。これができる為には、日ごろのたゆまぬ訓練と何者をも拒まず見て行こうとする好奇心、それを作品化する程にキチンと見る観察力が要求される。而も、それが、変に衒学的であったり、わざとらしかったりすれば、質の良い観客はすぐそっぽを向いてしまうだろう。このように高いハードルを幾つ越えたのだろうか? 見事なできである。
過大な評価癖
多少婦人
OFF OFFシアター(東京都)
2013/04/10 (水) ~ 2013/04/14 (日)公演終了
満足度★★★★
別れ
別れも中々曲者。さっぱりすっきりとは中々行かないものらしい。同棲していた二人。別れることになったが、互いに誤解していたり、わり切れなかったり、別れがたかったりという部分も、未だ持ち続けながら。
男は、窮地に立つとたいてい女性を頼る。頼って甘える。では頼られた女性はどうするのか?
ネタバレBOX
押入れに逃げる。この作品ばかりではなく、劇団三重丸の作品でも、押入れはキーになっていたことが、何度もあるし、他の女性作家の作品にも押入れが、隠れ家というか、夢を繕う場所や避難所として機能しているものがあったように思う。今作の作家は男性だが、女性劇作家の作品のキーに押入れが登場しやすいのは、男から甘えられ、頼りにされる女性という性の逃げ道は、その母の子宮ではないか、と思うのである。その象徴或いはメタファーこそ、押入れなのかも知れぬ。
新訳 群盗
雷ストレンジャーズ
テアトルBONBON(東京都)
2013/04/10 (水) ~ 2013/04/14 (日)公演終了
演出に難あり
言わずと知れたシラーの作品だ。古典ともいえる作品なので、筋についてくだくだ書かない。図書館ででも読んで貰えばすむ話だ。演出でアロマセラピストが香りをつけているのだが、自分の座っていた席には余りその効果が無かったようだ。ところで、新訳と銘打ち、かなり気合の入った舞台であるべきが、キャスティングや場面転換が頗る安易で、折角の原作が色褪せてしまった。キャスティングミスを言葉で言い繕っているのだが、この時点で既に演劇を嘗めて掛かっている。別に女性が男性役をやることに問題は無い。然し、身長でも、押し出しでも、また匂い立つような若武者振りでも、無茶をやって許される天性の資質でも、何一つギャップが埋まらないキャスティングは失敗と言うしかない。
更に、場面転換でもボヘミアの森から故郷フランケンに近い森に戻った時、恰もパソコンの画面転換でもするように場面を切り替えてしまう。余りにも安易だ。役者の身体性に対する演出の気遣いが足りないことが歴然としている。映画と勘違いしている点もあるのかも知れないが、言葉面だけ捉えて分かった気になっているのではないか、と勘繰りたくもなるのだ。更に、当時のヨーロッパに対する歴史認識も浅い。オーストリアの名がちらっと出てくるのだが、当時のオーストリアは、今とは比べ物にならぬ位力を持っていた、何故、シラーがここでその名を出しているかについて、もう少し勉強しておくべきだろう。
演出の力が全然足りない。これでは役者が可哀そうだ。
「そんな奇跡は起きなかった」たくさんのご来場ありがとうございました!!
The Stone Age ブライアント
サンモールスタジオ(東京都)
2013/04/09 (火) ~ 2013/04/14 (日)公演終了
満足度★★★
救いは無いよ
角の無い鬼と魂を抜かれた抜け殻の物語。
ネタバレBOX
抜け殻は、生きている時に諦めた連中である。既に三途の川を渡っているのに、死に切れないほど好い加減な連中でもある。そんな彼らは完全に死ぬこともできなければ、生き返ることもできない。唯、鬼の言葉を信じて生き返る為には、魂の籠っている石を分別し、その数を鬼が「良し」と言う迄数え続けることができれば元の世界に戻して貰えると、永劫の時をその作業に費やしている。本当に死ぬ気になったら、三途の川の石を砕いて零になれば、死に切ることができると、こちらも不可能な言質を与えられている。
一方、鬼達の食べ物は人の魂であり、毎夏、船頭が、人界へ出向いて魂狩りをし、自分達の食糧を集めてくるのであるが、角の無い鬼達のグループに船頭は一人しかおらず、而も、角のある鬼達のように人を釜茹でにして魂を抜いたりすることは控えられているので、角無し鬼の食糧はかなり乏しいのだ。それもそのはず、彼らは、川原の石の数を不可思議迄既に数えた元抜け殻のなれの果てだったのである。角ある鬼には、二流の扱いを受け、而も、元は同じ境遇でありながら、人を弄び、収奪することによってしか自ら食を得ることも叶わない。永劫に呪われた存在であることが明らかになる。
シナリオ自体にやや無理な展開や矛盾が在りながら、出したかったのは、この点だろうと解釈した。
知恵と希望と極悪キノコ
LIVES(ライヴズ)
シアタートラム(東京都)
2013/04/04 (木) ~ 2013/04/07 (日)公演終了
満足度★★★
悲哀
端役を主人公にした作品。訴えるのは、他の人々と同じように一所懸命生きているのに、十把一絡げにしか扱われないばかりか、利用されるだけされて、後はポイと捨てられるだけの彼らの悔しさ、虚しさ、悲哀。それだからこそ、逆に、役を貰えた彼らは科白に命を吹き込み、役に掛ける意気込みも高い。だが、初めてプロのステージに立つ者、初めて映画に出る者等々、寄せ集めであることも事実。このチグハグが、この作品成立の要件だ。
泣き方を忘れた老人は博物館でミルとフィーユの夢をみる(爆撃の音を聞きながら)
おぼんろ
東京芸術劇場アトリエイースト(東京都)
2013/04/06 (土) ~ 2013/04/07 (日)公演終了
満足度★★★★★
魔法
“おぼんろ”の身軽さ、軽みについて考えながら観た。我らの時代、我らの国で、夢を語ることは、それが真剣であればあるほど、阿保らしいことだ。だが、物語という形式でこの嘘を詩的に、一所懸命に構築することによって、この行為は歌舞くという我らの伝統に繋がり、人々の心の奥底に眠っている大切なものを目覚めさせる。
身体能力の高さ、選曲のセンス、塵から生まれたダンディな装いの美も見事。更に、間の取り方、当意即妙のアドリブ、観察力とそれをベースにした意表を衝く返答のセンスと軽みは、路上演劇で鍛えた靭さを持つ。組織の力も、温室の穏やかさも借りず、ここ迄やってきた力は本物である。更なる飛躍を期待できる。
ネタバレBOX
時は東西内戦も終結した後ではあるが、未だ小競り合いが続くのか、爆撃の音が聞こえる。そこへ地雷を何度も踏み、空爆も受けた老人がやってくる。そんな目に遭いながら、老人は、自分が生きていることをいぶかしむ。然し、彼は自分が誰なのか記憶を失くしている。彼は、おぼんろのファンで自分は生の舞台を観ていないという思いに駆られ、交霊術を用いておぼんろのメンバーを呼び出し、かつての作品を上演して貰う。作品に登場するキャラクターは、ホログラムである。フィーユは、夢を見ている。夢の中で彼は、何か大切なものを失くしてしまった。だが、それが何か分からずに泣いており、当初は、泣いているのが自分だとも気付かない状態であった。一方、ミルはフィーユが大切にしていた人形だが、何百万回かの夢の中に再び現れてフィーユと邂逅し、涙を齎す夢から脱出する為に新たな夢を探しに出掛ける。その過程で彼らは、交霊術を頼んだ、老人と出会うが、彼はサイボーグ化されている為に、百数十年を生き延びて来たのだった。そして、彼がおぼんろに惹きつけられるのは、彼自身がそのメンバーであったことが、分かる。
無論、これで終わりではない。が、おぼんろの掛ける魔法には、会場で出会って欲しい。
VS
キリンにhighキック
北池袋 新生館シアター(東京都)
2013/04/05 (金) ~ 2013/04/07 (日)公演終了
満足度★★★★
2劇団対抗戦
青森の劇団VS静岡の劇団の対抗戦である。自分の評価は前者が星三つのお勧め。後者が星5つのお勧めである。だが、2つの劇団で1公演なので、星は4つとした。
ネタバレBOX
「つながらない」
とあるカフェ。この店の常連客、タマエの誕生会の日。どうでも良いことに気を使うウェイターと、これまた非本質的なことに拘る、タマエの元彼、山出。山出の申し入れで新しくタマエの彼になることを渋々という様子で承諾した仕事先の年下の同僚、佐藤。タマエのファンだが、無神経なテツオらの、非本質的なことを無理強いすることで生じる非常識のおかしさと微妙な恋愛感情を表現した作品。
「背徳的ジャスティス」
女詐欺師と彼女を徹底的に愛する男、詐欺師の姉を反面教師にしたような常識人の弟を中心に、金のプラグマティズムと愛の盲目、犯罪と倫理、常識と論理的思考が激突する。
姉は、金銭のプラグマティズムを徹底した詐欺師で、姉にいいように使われている弟は常識人だが、情報収集が得意な男だ。常に姉に恫喝され乍ら仕事を手伝っている。更に、姉に垂らし込まれ、姉の喜ぶことなら何でも引き受ける愛の盲目に生きる男を噛ませ、基本構造のしっかりした構成になっている。
小道具の使い方も鮮やかだ。例えば、立方体の置き方だけで、カフェ、レストラン、バイク等々に変化させ、短時間に、姉がカモを垂らし込む手管、即ちデートの様子、その「恋」の進展などをありありと眼前に浮かばせるのだ。また、姉の論理に殉じようとする悪には、一種の潔ささえ感じられテアトル ピカレスクとしても秀逸だ。
仕掛けはこれだけではない。遣り手の刑事が、疑いの目を向けて来たり、事業を拡大した姉の荒稼ぎを見て地廻りのヤクザがピンはねしようと狙って来たり。兎に角、観客を飽きさせないあの手この手で楽しめる。
ブレヒトとクルト・ヴァイルの歌の夕べ
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2013/04/03 (水) ~ 2013/04/03 (水)公演終了
満足度★★★★
ゲネ評
事情があって拝見したのはゲネである。然しながらドイツ、ミュンスター劇場主任演出家のマルクス・コップフとビュルツブルグ音楽大学オペラ科主任教授の天沼 裕子の指導でブレヒトのテキスト、テキストに伴うクルト・ヴァイルの歌双方を、日本語、ドイツ語を交えて演じた。
本番は観ていないので、ゲネレベルの評価であるが、若干、固かったので、評価は4とした。
ネタバレBOX
無論、日本語は子音+母音で一音節が成立する場合が圧倒的に多いのだが、声の響きという点で捉えれば、子音を強調する発声法の方が響くケースが多いのもまた事実。ドイツ語を含むヨーロッパ言語は日本語に比べて発音上、子音の占める率が高いので、オペラ歌唱では、朗々と響くものにもなるのだろう。無論、インド・ヨーロッパ系と我々亜細亜系では、骨格が異なり、インドヨーロッパ系では前後に長く、アジア系では、左右に扁平なので、その点でも、発声は多くの場合異なるのではあるが。
余りに専門的なことは専門家に任せるとして、ブレヒトと言えば、やはり「三文オペラ」を挙げねばなるまい。今作でも三文オペラの乞食や大盗が登場する。演出レベルで面白いと感じたのは、舞台奥に、小学校などで使うパイプ椅子のように粗末な椅子を用いて、乞食達が、一人来ては坐り、或いは寝そべると、先着の者たちを跨いで、別の者が別の椅子に腰かけるなどのパフォーマンスが展開されるのだ。流石にキチンと基礎のできた人だけをオーディションで選んでいるだけのことはあって、身体の動きはプロのそれである。比較するのも失礼だが、映画やTVに出ているだけの「役者」のパフォーマンスは、身体の隅々に配慮することもなければ、呼吸と身体のコントロールにも意を用いず、要求される関係の中で最良の間を選ぶこともできない、そのような間の抜け方とは大違いなのだ。舞台役者を見慣れている者にとってTV、映画のスターシステムに載っているだけの「役者」など犯罪者にも等しい。皆、そう思っているのだが、言わないだけである。そういったことを改めて感じさせるだけの舞台であった。