My Journey to the West
一徳会/鎌ヶ谷アルトギルド
アトリエ春風舎(東京都)
2013/10/15 (火) ~ 2013/10/21 (月)公演終了
満足度★★★★
認識とアイデンティティ
東洋人でありながら西洋近代を移入し、恰も既に東洋人では無いかのような錯覚をする者も多いと思われる、この国に住む我々のアイデンティティを如何にアウフヘーベンするのか? 否、し得るのか? そも、その必要があるのか、という問いを東西の自我追求に求めた、と解釈した作品と捉えて良かろう。
ネタバレBOX
具体的には中島 敦の抱えていた“狭間に居る我ら”の何故? から 私とは何か? へに繋がる問いと言い換えても、また、認識する主体を何処に置くのか? という問いと捉えることも、これらの総ての問いに対する答えを求めたと考えても良いかも知れぬ。何れにせよ、悟浄の哲学探究は、洋の東西のスコラ的なものから、迷い悩む己を通して実存的なものに進み、終には実践的なものに至ったと捉えることができよう。
タイトルからも当然、イプセンは俎上に上る。但し“人形の家”を演じるという形ではなく、遥かにデフォルメされ、問題は、転位され、植民地へ出向いた宗主国夫婦と現地の人々との相克や争闘としても描かれ、イプセン自身を投影したと思われる人物は、宗主国の行いを内心非難しつつ、具体的行動を起こせない人物として描かれている。ここからも伺えるように、イプセン自身は、実践哲学を体現するレベル迄は行っていない。その代わりと言っては何だが、ノラというキャラクターを作り上げたとは言えるかも知れぬ。
何れにせよ、イプセンはイプセンでその実際の体験に於いて、洋の東西を知って悩み、中島 敦は敦で上記のような精神的彷徨を通して実践哲学の地平へは、その思考を進めていたと観ることができよう。
作品内では悟浄が、三蔵一行に随行し、実践することで、自己を許容し得る迄に納得し得たことを描き、これを描いたことによって夭折した中島の到達点をも描いたと言えるのではないだろうか。
あんかけフラミンゴ11【ご来場ありがとうございました】
あんかけフラミンゴ
王子小劇場(東京都)
2013/10/11 (金) ~ 2013/10/15 (火)公演終了
満足度★★★★
無理解
何とも辛い作品だが、実りの無い純愛の一つの形であろう。DNA変異の可能性など、産む性として生まれた形態を持ちながら、アイデンティティーが、本能や社会的常識とは相反する条件・優生保護法が当たり前とされる生活圏に暮らす人々と反対に産む性としての機能は完全乍ら、恋人が、特殊な傾向を持ち、通常の交わりができない関係の地獄を描いているからである。(追記2013.10.29)
ネタバレBOX
妹の難産がもとで母は死亡。重い障害を負った妹は、兄に言わせれば「生まれて来なければ良かった、肉の塊」である。妹の所為で母が亡くなったと思い込んでいる兄は、優生保護法的発想に縛られ、笑うことができない。おまけに極度のロリータコンプレックスを持つ為、小さな女の子を見ると襲い掛かって悪戯をしたりする。妹に対しても性的悪戯をしている節がある。
一方「恋人、あかり」は、愛の証として彼の子を欲しセックスをしたがるのだが、彼の方では子を望まない。子供が女の子だったら、彼は娘を追い回して悪戯しかねないとの強迫観念からである。2人の関係は、互いに強く惹かれ合い乍ら性を仲立ちにできないことで崩壊する。あかりは寂しさから、仕事先のヌードカメラマンと付き合うようになるが、カメラマンはレスビアンである。カメラマンの仕事場に不妊で悩む女達のグループにライン参加している女がモデルとして入って来たり、あかりがラインに参加したりということが描かれるので産めない女達の問題も提起される。偶々、グループメンバーから人工授精の話を聞いたあかりは、久しぶりに逢った彼から採取したスペルマを用いて妊娠することに成功。然し、「堕ろせ」と言われて中絶、女の子だったが、この事件を契機に精神に失調をきたす。壊れた精神が妹の障害と交響し挙句妹はあかりの首を絞め、妹の首を兄が締め、終に殺してしまったようだ。然し、事実そうだったのかどうかは定かでない。というのも、これは兄に対して問診をしている精神科医との話の中で語られることだからである。あかりが、実際に子を産んだのか堕胎したのかについても、兄の錯乱を描くことが主眼ということになれば、判然としない作りになっている。兄の不幸は、出産事故を妹の悪胤問題にすり替えてしまうコンプレックスと幾重にも屈折して入れ子構造化してしまった狭く深く苦い、彼の精神世界の手応えの無さに対する底なしの不安。これらが、彼の精神世界を四六時中脅かす要素である。為に彼は笑えない。「好きな人に暴力を振るわれると、口角が吊りあがって笑っているように見えるが泣いているんです」とくどい程繰り返されるフレーズが、その精神の危機を表す。と共に、くどさは、粘着質を表してもいよう。だが、この笑いに関する描き方はロートレアモンを彷彿とさせる。更に、この物語全体から立ち上るアトモスフィアは、「ドグラマグラ」をも想起させた。
何れにせよ妹を殺害したと見える場面で、堕胎させたあかりと共に在る彼が笑っているように見えるのを「泣いているの?」と問われ「馬鹿、笑っているんだよ!」と答える科白にこの作品の地獄が、客体化された瞬間が表現されていると見て良かろう。
トキグルマ
ThreeQuarter
ウエストエンドスタジオ(東京都)
2013/10/12 (土) ~ 2013/10/14 (月)公演終了
満足度★★★★
生き様
取り壊しが決まった藤田演芸場、最終公演は、この劇場に嘗て出演していた芸人を呼んでのお笑いライブ・“お笑いリレー”。5年ぶりに一堂に会した面々だったが、オープニングを担当した後、メインのお笑いコンビ「みぶるい」の相方が突然消えてしまった。楽屋、裏回り、倉庫等々八方手を尽くして探したが見つからない。
ネタバレBOX
丁度、その頃、京都。時は慶応二年。新撰組の山南 敬助は、局長、土方らと意見が合わず、隊を抜けたことを咎められ切腹。彼には想う女、明里があったが、彼女を残して逝った。明里は、かつて新撰組が壬生組と呼ばれていた頃から馴染みの旅籠、里屋に、新撰組の斉藤 一の計らいで匿われる。そこへ降って湧いたようにみぶるいの失踪した相方、毛利が出現した。毛利は切腹した山南と瓜二つ。明里や、土方すら見間違えるほどであった。
一方幕府は、欧米の力を見せつけられ、それまでの方針を転換してゆく。だが、薩長を中心とする攘夷派は、なおもこれに抵抗。国論は真っ二つに割れ、新撰組内にも分裂の危機が訪れる。この中で、参謀格の伊藤が尊王攘夷本来の思想に殉ずべきことを解いて、隊内に同士を募ったことから、土方らに暗殺される。この後も隊内の急進派に対する襲撃は続き、隊内は幕府に就く者だけが残るようになっていった。
ところで、江戸時代末期に来てしまった毛利は、里屋の番頭をしていた七三郎と共に新撰組に参加することとなるが、幕府の大政奉還で鎌倉以来続いて来た武士の世が公式には終わりを遂げたことで、それ迄幕府を支えてきた中心藩の一つであった会津藩は朝敵とされ、官軍となった薩長軍に逆賊として攻められることになった。会津城は落ちる。その後、戦の場所を函館、五稜郭に移し土方、七三郎、斉藤、毛利らは次々に討ち死に。毛利からは、藤田演芸場にいる彼女、明実へ死を覚悟したメールが届く。
以上のように歴史が動く中で、藤田演芸場の最終公演、「お笑いリレー」がパラレルに進行している。この進行に小道具として使われているのが、糸車。単に糸を紡ぐという機能のみならず、時を紡ぎ以て空間を紡いで、時空の自在な転移を頗る自然な形でイメージさせており、効果抜群。見事な使い方の一例であろう。無論、実際に物語の中で、布を紡ぎ出す為の諸道具の象徴としても用いられており、具体・抽象の転移にも不足は無い。何より、この小道具の使い方が、舞台に安定感を齎していることに注意すべきであろう。
「お笑いリレー」では“みぶるい”の穴埋めの為“さつまご飯”が持ちネタを総て出し切って演じたが、売れ始めてTV出演も果たしたとはいえ、未だ経験は浅い。自分達だけで、総てのコマを埋め尽くせるわけではない。そこで、制作やプロデューサー、アシスタントら総出で穴埋めしてゆくことになる。(因みに時間の推移は、現代の1分が江戸時代の何ヶ月にも当たるので、歴史的事象の展開と現在、観客の目の前で行われているタイムトラベルの物語が、観客にとって不自然とは感じられない仕組みになっている。また、これを読む諸子は、“みぶるい”は新撰組結成当時の名、壬生組を表しており、“さつまご飯”は敵対し勝者となった薩長を意味している洒落であることは、当然気付いているだろう。)
これら2つの時代、2つの場所を繋ぐもう1つのアイテムが、モバイル通信機器である。まあ、本当に通信可能か? などと野暮なことは、問わないで欲しい。兎に角、スマホが時空を超えて機能することで、互いの時代の雰囲気が共有される。
シリアスな幕末の酷い歴史の中で必死に生き死んでゆく者たちのドラマとアタフタと最終公演に取り組む面々の相似(毛利と山南、明実と明里、緒方と土方など)と史的状況の異相(血に塗れた激動の時代と平和呆けの時代)が糸車の助けを借りて自在に想像力の翼を広げさせるとすれば、スマホは、ドライで表層的で平和で非人間的な世界へ、血塗られ、人間的で宿命的な生き様を伝えて不思議な融合を果たしている。
普段、社会人をしている人たちの劇団のようだが、生き様に共鳴する力があるのだろう。リーフレットの上演履歴では、つか こうへい作品が多い。なるほど、と思う。演ずるという行為より、寧ろ生き様を叩きつけるように舞台上で表現したのが、つか演劇の本質であり、特徴だと思うからである。その意味で、どの役を演じたどの役者もその生き方、生き様をぶつけているようで、とても好感した。
『マイムジーカ』
山田とうしパントマイムシアター
杉並区立産業商工会館(東京都)
2013/10/14 (月) ~ 2013/10/14 (月)公演終了
満足度★★★
切れが欲しい
マイムと音楽のコラボ。ピアノ、アコーデオン、叩かれる木片の下に瓢箪のような物が、様々なサイズに切られ大きいのから小さいのへ順繰りに連なっている木琴のような楽器、タンバリン等々。マイムについては、結構、鍛えた体の人が演じたのだが、体の使い方に余りエッジの効いた表現を感じなかった。
奇妙なコドク
立体親切
ART THEATER 上野小劇場(東京都)
2013/10/11 (金) ~ 2013/10/13 (日)公演終了
満足度★★★★
奇妙丸
戦国時代と現代との対比、関連付けが面白い。始まり方も奇妙というか、ちょっと変わっている。前説から、いきなり口上に移り、今作の特殊性を説明するのだ。描いている世界は、信長の時代と現代である。それも信長と現代を描くのではない。信忠とその幼名、奇妙丸を含めた生涯と、歴史小説で流行作家となった父を持つ、引き籠りのニートの話として描くのだ。口上を述べる者が態々「現代劇です。ござるなどの表現も無ければ、殺陣もございません」と説明する。これはユニーク。自分は、この斬新な始まり方で、面白く観始めた。
ネタバレBOX
作家は、当然のことながら、信忠が、二条城での戦いから逃げられた可能性についても言及しているし、実際、それは可能であっただろう。信長ほど、信忠は、他人を信じなかったわけでもないようだし、それが、無能とは結びつかないことは、歴史が証明している。そこで、何故、一歩引かなかったかが、論争の争点に成り得るのだ。作家は、この点を見逃さない。そして、以下のように解釈するのである。即ち、敷かれていたレールが、いきなり外され、自らの自由の下に、それから先の判断を下す方法を持っていなかったのだと。余りに偉大な父を持った息子のエディプスコンプレックスというわけである。
一方、現代の話が、信忠の話にオーバーラップするのも、当にエディプス・コンプレックスに於いてなのである。父(五光)を有名作家として持つ七光(にじ)は、父の敷いた通りの道を歩いて来た。作家に成る為の道である。したいことを諦め、良く勉強して国立大学の仏文科に入学、良い成績をおさめていた。父に対する反発はあるものの、そして、父のつけた道しるべ通りに歩むことは、それなりに努力を必要とするものの、兎に角、謂われた通りにやっていれば済んだ。然し、父が倒れた後では、自分が、何をどうするかを決定しなければならなくなった。だが、どうしていいのか分からない。
七光の父は、単なる流行作家。信長と比べるのは役不足とはいえ、子にとって絶大な父とその後継者と目される嫡男という位置は等しい。二人とも、著名な父を持ち、而も、後継者であることから、周囲からは、ちやほやされ、父の敷いたレールの上を一所懸命に走り、率なくこなしてきたのではあったが、自らの完全自由に於いて選んだ結果ではないことから、自分に従う者達との間には、矢張り、距離がある。即ち、従者たちとの関係に於いて、真の闘争もなければ、真の融和もないのである。その為、信忠も七光も、従う者達に物理的には囲まれ乍ら、常に孤独たらざるを得ない。
この点に気付いた時、七光は、二条城に籠り、自刃するに至った信忠の真情を理解したと合点するのだ。即ち、多勢に無勢で戦う中で、信忠は初めて己の意思と命を懸けて共存の感覚を得たのだと。そして、それこそが、彼が、命の果に松姫に捧げた純情であったのだと。
今作では、この物語の流れを構成する登場人物として編集者が登場するのだが、彼女の日常が描かれるシーンが、七光・鈴(七光の孤独が作り出した幻影)と信忠・松姫との対比が作り出すドラマから浮いている。この問題を異化効果を用いて処理することができれば、今作は傑作になろう。同化するのであれば、佳作となろう。
ユニークな口上の使い方といい、一見、異質な登場人物を結び付ける着眼点といい、現在に引き寄せた視点から作劇している点といい、この業界で生き残れそうな要素を持つ存在だろう。たゆまぬ努力に期待し、チャンスに恵まれることを祈る。
レオンゴンゲキレンメズの万博
日本演劇連盟
アトリエファンファーレ東池袋(東京都)
2013/10/12 (土) ~ 2013/10/13 (日)公演終了
満足度★★★★
表層芸
ヒーロー特撮系、サラリーマン系、ホームドラマ系、瞬間芸系など、コントテイストの作品群と米映画のパロディーなどからなる笑劇集。
ネタバレBOX
KY的人間関係、体制派VS孤立派、常識VS非常識などの間に生まれる表層的なおかしさをドライな感覚と中々イケテル芸で処理して見せる。唯、扱っている映画は、米映画ばかりで在る点が気に掛かる。まあ、興行的に何処でも誰でも観ている作品が多いこと、被植民地で宗主国の「文化」が喧伝されるのは、宗主国の経済を潤わせる為にも、被植民地の大衆を文化面からコントロールする為にも使われる陳腐で有効な手段ではあるが、ホントにエッジの効いたシャープな笑いを獲りたいと思うなら、更に深く、アイロニカルな視点を持ち得るだけの鍛錬をすべきである。
「茜色に燃ゆる時」
劇団グスタフ
シアターグスタフ(東京都)
2013/10/10 (木) ~ 2013/10/13 (日)公演終了
満足度★★★
他の劇団の舞台も研究した方が良い
額田 王は、近江で生まれ皇極天皇に仕えるが、その才と美貌、先進的な思想、聡明によってこの女帝にも頗る気に入られる。その最大の原因は、“大化の改新”で愛人、蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足らに謀殺された皇極の、傷心を慰める彼女の歌の才や立ち居振る舞いに他人を安心させる何かがあった為だろう。(追記後送)
短編集 幻獣の書
楼蘭
新宿眼科画廊(東京都)
2013/10/11 (金) ~ 2013/10/16 (水)公演終了
満足度★★★★
アンタッチャブル
ダリットの視点から、世界を観てみようとの念が伝わってくる作品だ。ダリットとは、インドの最下層民、不可触賤民と訳される人々である。未だに上位カーストの者から、性の玩具にされても抗う術を持たない。実際、抗議した者の家に火が掛けられ、焼き殺された者もあると聞く。
虐げられた者たちの悲しい生き方として、親が子を態々不具にして、物乞いをさせるなどということもある。インドで、アウトカーストの彼らに人権を認めようとする運動が盛り上がった時、最も、抵抗した者らの中にこの階層出身者が多かったことも事実だと、インドに嵌っている友人から聞いたことがある。
ところで、何故、楼蘭が、彼らの視座に拘るか、というと、どんなに煌びやかな衣装をまとい、スポットライトを浴びることがあろうと、芸能者の原点には、河原乞食という原点があるから、その視点を忘れたくない、ということなのだろう。その謙虚な姿勢に好感を覚えると同時に、芸事という道の険しさ、厳しさを改めて見せられた。
と同時に、芸能の源流には、もう一つのことがあるように思う。それは、所謂ハレの儀式でヒトが神々と交流する為に酒を汲み、舞など舞って非日常の時空を過ごす風習である。
ハレの対概念としてケがある。その両者が相俟って芸能の原型が出来たのだとしたら、芸能は、その初源に於いて既に演劇的であったと言わねばならない。原点を見失って、只表層をエパーブよろしく漂うだけの、商業的出し物も多くみられるように思う昨今、原点に戻って、じっくり本質を考えようとする熱意と誠意、出演陣の熱演を評価する。
Clash Point
劇団スクランブル
シアター711(東京都)
2013/10/09 (水) ~ 2013/10/13 (日)公演終了
満足度★★★
知的は痴的?
男も女も本能には逆らえない、ということか? どんなに気取ってみた所で、所詮、動物。唯、一夫一婦制というのは、生き物の中で決して多くはあるまい。
一夫多妻にしても、それらを制度化するのは、矢張り人間だけだろう。何れにせよ、こういう制度が成立してしまって以降、制度に反すること、倫理に反することは、恐らく心理的快感をプラスするスパイスとして働いているのだろう。
だから、嫉妬という感情が野暮だとして排斥されるのだ。それが、この遊びを損なう、恐らく唯一の本質的事象であるから。
基本的に、浮気の話なので、当然、嫉妬の問題は避けている。その代わりと言っては何だが、ペーソスやアイロニー、コミカルな部分は健在だ。
蝦夷地別件
ピープルシアター
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2013/10/10 (木) ~ 2013/10/16 (水)公演終了
満足度★★★★★
手に汗握る切れと迫力
単行本で上下二段組み、1150ページ余の大作である、船戸 与一の傑作「蝦夷地別件」を約2時間半の上演に纏めた演出の手際、力量は、流石に作家本人から全作品舞台化可能のお墨付きを得ているだけの内容である。シーン、シーンを細分化して、切れを良くし、スピード感、迫力、関係性、各シーン同士の鬩ぎ合いによるエッジの立ち方迄、その本質を見つつ調整されている。無論、評価すべきは演出のみに非ず。原作の良さ、役者陣のレベルの高さ、無駄を削ぎ、空間を活かした舞台美術、音響、鋭角的な照明など、総てがマッチした結果の迫力である。(追記2013.10.16)
ネタバレBOX
内容については原作に当たって欲しいが、長大な原作を舞台化する為に、切った部分、否、切らざるを得なかった部分がある。だが、作品の本質をそれで失ってしまうようでは本末転倒である。演出の森井氏が巧みな点は、作品の本質を深く抉り、見事にそれを舞台表現に昇華させる点である。無論、その為に、役者、舞台美術、音響効果、鋭角的な照明などにも工夫が凝らされ、飽きさせない。だが、更に長時間の上演が可能な条件が整えば、入れたかったシーンは無論在る。その代表的なものを一つ挙げておこう。その人物とは、ポーランド貴族出身の武器商人、マホウスキである。蜂起を目指したウタリ達に届くハズだった銃300丁は、彼の死によって頓挫したのだ。その彼の作品内での重要性を示す為もあって、音楽は西洋音楽を用いている。役者陣の演技の質も当然高い。二宮氏の厚みと柔軟性のある演技は、無論のこと、ピープルシアター重鎮の演技は健在である。コトウロレナは、部分的に自己表出を任される迄に成長。デビュー当時からの研究熱心と感の良さで、しなやかな感性に磨きが掛かった。若手では、籠嶋君が後ろ姿でも表現ができるようになったし、西丸君の演技も籠嶋君に負けない頑張りを見せる。但し、少し遊びを持っても良いかも知れぬ。
また今作で、自分は、いしだ壱成が初めて良く観えた。長い修練の期間を経て、漸く再開花する兆しであって欲しい。何れにせよ、彼のこれ以降の舞台生活にとって大事な舞台になったことは確かだろう。
演出、プロデュースの森井 睦氏が、常日頃から心がけていることも効を奏していると考えて良かろう。劇団の責任者として当然と言えばそれまでだが、実際にしっかりした後継者を育ててゆくことは並大抵のことではない。
これに応えてベテラン陣も更に高度な俳優術を熱心、謙虚に研究しているし、中堅にして、後ろ姿で演じ、華のある若手も貪欲な迄に己を磨いている。裏を支えるスタッフもしっかりしており、今後も目の離せない劇団である。当然のことながら、この劇団のチャレンジングな性格も評価しておくべきだろう。
青いユートピア
ビニヰルテアタア
ギャラリーLE DECO(東京都)
2013/10/09 (水) ~ 2013/10/12 (土)公演終了
満足度★★★
fragments
ファンタジーやファンタージェン、旧約聖書的な世界観に、男と女を一旦解体した上でfragments集成として再提示するという手法は、無論、詩のテクニックの一つとして想像力を図式的に掻き立てることのできる方法である。
ネタバレBOX
詩と演劇やファンタジーの類似性を今更あげつらう必要はないが、今作で提示されていることは、世界の表層の反映であり、作品は一種の鏡であるにしても、水鏡位にはしてほしい。何が言いたいかというと、深みが欲しいと言っているのだ。今作が示唆しているのは、胎内回帰願望という退嬰的願望だろう。即ち、思考の退化である。現在程、危機的な状況は無いのに、それを真正面から見ることを拒み、退行して行く自分の心象を甘やかす為に、持ち合わせている知識でアリバイを作っているのだ。もう少し、自分の位置を深く掘り下げてみて欲しい。世界がブルーなのは、退行しているからだ。
おはようございミンミンミン!
おぼんろ
いちカフェ(東京都)
2013/10/04 (金) ~ 2013/10/11 (金)公演終了
満足度★★★★
大人の童心も擽る
子供向けに作ったという姿勢が、警戒感を解き、拓馬の持っている素の形が素直に現れて効を奏した。実際、会場内には、1歳2カ月の子が居て、時々挙げる声や、様々な反応は上々のものであったし、空間的な狭さが、濃密な時空間への遷移を容易にしたのも事実だろう。警戒感を解いたことから、物語の本質的展開に沿って作品を書くという行為が満遍なく可能になっていたことも見逃せない。結果、その展開は、観客の予想を上手に裏切りながら、話を膨らませ、物語の本質をキチンと顕在化させていた。
百花繚乱 花街仇討絵巻
Love♪Panic
高田馬場ラビネスト(東京都)
2013/10/08 (火) ~ 2013/10/12 (土)公演終了
満足度★★★
演出は、もっと勉強すべし
宵組を拝見。シナリオは原作が因縁めいたものなのだと想像される。それなりに面白い内容だ。然し、演者が、役作りをその内面から行っているとは思えない。役者の年齢・経験に応じて、無論、力は、異なるのだが、若手は、踊りも役作りもまだまだ未熟の域を出ない。
踊りについては、動作を切るべき所でキチンと止めていなかったり、スピンした後ぐらついたり、踊り以前に基礎体力をもう少しつける必要のある者も居た。腰から下を安定させ、大地を足の裏で掴むくらいの心構えで踊る必要があるのではないか? 上半身や、手を使うことが多いように見える日本舞踊でも、腰から下が安定しなければ、踊りにならない。まして、リーフレットには、廓の踊り上手という設定になっているのだから、基本はきちんと押さえておくべきである。廓と雖も、其処で上位を占める者たちは、三味や踊り、政治や経済についても一通り以上のことを知った上で、色里の住人として生きていたのである。こういう世界に対する認識ももっと深めるべきだろう。
演出は、以上のことも考えながら、演出をつけて欲しい。その為の演出である。
サラ金へおいでよ
劇団チキンハート
新宿シアターモリエール(東京都)
2013/10/03 (木) ~ 2013/10/09 (水)公演終了
満足度★★★
たたき台
シナリオのストーリー展開に意外性がなく、恐らく演出家は、形にしようと努めているレベルだ。然し、演劇の一つの極北は、役者が、演ずるキャラクターに憑依されることだろう。つか こうへいの作品は、恐らくそれを目指していた。実際、現在、残るつかの口立てによる演出を受けた作品群を観るとそれが、感じられるのである。
以上のような意味で今作出演者を観ると、誰一人、役に憑依されてはいなかった。おまけに、ストーリー展開をどんどん先読みできてしまうので作品を長く感じたのも事実。作品のコアについて、演技のコアについて、そして演劇とは何かについて根本的に考え直してみる時期に差し掛かっているのではないか? 今迄には無かったタイプの作品を演じた初回であるという。更に研鑽を積んで、新たな地平に立って作品に取り組んで貰いたい。
伯爵のおるすばん
Mrs.fictions
サンモールスタジオ(東京都)
2013/10/07 (月) ~ 2013/10/14 (月)公演終了
満足度★★★★
爽やかの中に懐かしさ
何故、こんなにも懐かしいような感じがするのだろう? 確かに爽やかな中にも心に沁みる作品ではある。然し、それだけでこれ程、懐旧の情を催すだろうか? 無論、そのようなことは無い。
ネタバレBOX
伯爵と綽名された主人公は、物語では56億年を既に生きている。その中で、18世紀のフランス革命前夜からが、彼に恋の遍歴を刻む。都合、4人の女、1人の男と恋仲になる。尤も、最初の2人の女は、1人は主人を持つマダム、1人は、女子高生で自分の学校の生徒であった。2人目の女は体が弱く、漸く20歳を超えた頃に他界してしまった。その体の弱い彼女が、高校時代、伯爵に好意の在ることを告白し、卒業証書を貰った日、伯爵の答えを訊きに来たのだ。そして、迎えに来てほしいと頼む。待っているから、と。体が、弱いから、なるべく早く、と。この高校生、ひよ子との恋が、ハイライトだろうか。演じている女優の清潔感と感性の良さが伝わってくる。相楽樹という女優だ。
因みに、ブルボン家の奥方やひよ子と伯爵との関係はプラトニックである。3人目に何故、ヘテロの彼が男の恋人を持ったか、ということであるが、ひよ子に、「自分以外の人は好きにならないで」と言われ「そうする」と約束をしていたから、女性との恋を自らに禁じていたのである。その後、更に2人の女性と恋に落ち、最後の女性は健在である。56億年に5人の人と恋に落ちた、とは言っても地球誕生45億年頃からであるから、実質、11億年。2億2千万年に一度、本気の恋をしている計算になる。まあ、野暮な計算だが。
伯爵を演じた岡野 康弘もいい。劇の進行につれて、段々、良い顔に見えてくるのだ。
今作については余り理屈をこねる気がしない。観て感じて欲しい舞台である。
ところで、伯爵は、とても普通の人である。長生きであることの他は。だから、あなたの横に何食わぬ顔で居るかも知れない! ほら、そこ、直ぐ隣に!!
Hanger Boy
おぼんろ
レンタルスペース+カフェ 兎亭(東京都)
2013/09/16 (月) ~ 2013/10/08 (火)公演終了
満足度★★★
コクーンを目指すなら
衣装やメイクのセンスが素晴らしい。音響、照明も効果的だ。話の内容としては、やや単調に過ぎた。リリックではあったが。こういう作品なら稲垣 足穂流のテイストを出すのも面白いかも知れない。口上の言い方、論理の展開も上手い。パフォーマンスも上手だ。然し、イマイチ、インパクトが弱い。
言葉に比重を掛けるより、身体そのもの、存在そのものを叩きつけるような荒々しさがあっても良い。それから、コクーンを目指すなら、ただ、倍々云々ではなく、チケットが入手しにくい飢餓感を、観客が持つような発売方式も考えるべきだろう。そういうテクニックも必要である。コクーンを目指す、ということで今回の評価は少し厳しい。頑張れ!!
ネタバレBOX
随分先の未来の話。鉱山の地下で掘削用に作られたX2号は、長年の就労でポンコツ化。スクラップに出されるが、すんでの所で主人に買い取られる。だが、ローラーで片足を潰されかけた為、片足は不自由だ。主人は画家で大邸宅に住んでいるが、X2号の仕事は、主人の脱ぎ散らかした衣類を自らがハンガーになって管理することである。
製造されて初めて地上に出た時には、色のある世界や太陽の眩しさ、月の冷たく銀色に光る美しさに感動したX2だったが、主人が出掛けている間も退屈はしない。たくさんの絵を見たり、主人との会話を思い出したりして時を過ごすからだ。主人との約束は、クローゼットを開けないことだ。暫くは、平穏な時が続き、徐々に、この生活にも馴染んできたX2だったが、或る時、ドーンと物凄い音がして、邸が身震いした。主人は、これは、月の寿命が尽きて、向こうの山の裏側へ落ちる音だと説明してくれた。同時に、窓のカーテンは締め切ろうとも。X2はおとなしく主人の言う通りにした。主人の描いた絵には、山の向こうの景色もあった。大きな丸いものの傍に馬が居た。X2はこの絵が好きで、丸い物は何なのかを訊ねた。それは、死んだ月なのだということだった。
ある時、主人は、山の向こうへ出掛けなければならないと告げた。餞別に赤い衣を呉れた。ロボットに寒暖は余り関係ないのだが。
ところで、月は何故落ちてくるのか? ずっと始めのうちは静かだったのに。そんなことを考えていたX2号はある時、机に突っ伏して泣いている主人を見た。月が落ちた。それで彼には、主人が泣くことが、月が落ちる原因だと納得されたわけである。
主人が出掛けて長い時が経った。月は、益々、良く落ちるようになっていた。そして、終に月は邸を直撃した。邸の壁、天井は崩れ落ち、X2も下敷きになったが、大した故障もなく抜け出すことが出来た。だが、邸は崩れて殆ど瓦礫と化していた。その中に、クローゼットが見えた。X2はクローゼットを覘いて見た。其処に在ったのは、ハンガーに掛けられた主人の服だった。
目を外側に転じると、其処は、大きな鉄の残骸が散乱する荒野で、所々、炎をその赤い舌を延ばしており、主人が出掛けた時と同じ服を着た人間が、赤いオイルを流しながら倒れていた。時折、ダダダダダッというような音も聞こえる。彼は、不思議な事に寒さを感じるようになっていたが、主人を探しに山の向こうへ出掛けることにした。主人が寒がっていたら、貰った衣を主人に着せてやろう、と。「ああ、面倒臭え!」
小豆洗い-泥を喰らう-
鬼の居ぬ間に
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2013/10/03 (木) ~ 2013/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
新たな才能発見
シナリオ、演出、舞台美術、演技、キャスティング、音響、照明、どれをとっても素晴らしい出来。見事。
ネタバレBOX
安住屋は、村で老舗の大福屋。その大福の味は好評を得て既に四代目。家族的な経営で、従業員にも家族同然の態度で接する為、従業員にとっても働き易い職場である。四代目を継いだのは啓一郎、妹の涼は、控え目の楚々とした美人で、兄よりしっかり者だが、最近、隣村の醤油屋、越路 鉱幸との見合い話が持ち上がっている。安住家の両親は既に他界しているので、啓一郎が親代わりであもある。鉱幸は、一代で財を為した遣り手の実業家で、啓一郎の話では理知的で繊細さも併せ持ち、妹を幸せにできそうだという話である。涼は一度会ってみて嫌なら断る、ということで話がまとまる。
結局、二人は結婚することとなったが、一緒になってみると、鉱幸は、外面は非常によいものの、居丈高で粗暴、妻にも暴力を振るうような男であった。而も、涼と結婚した目的は他にあった。それは、村社会という狭く排他的で姑息な社会で経済人としてのし上がって行く為の確実ではあるが、下司な方法であった。即ち、目をつけた先の娘を女房として迎え、彼女の実家の家業を乗っ取るのである。そしてその方法とは、女房を監禁して、筆記具など連絡手段を総て取り上げ、実家との連絡を断った上で、実家からの連絡も閉ざし、妻の実家には、自らのスパイを送り込んで、情報収集と役立ちそうな資料を盗ませる。手強いとなれば、スパイに潜り込ませた先の誰彼と寝ることを強制して目的を達した。折を見計らって役人を賄賂や贈答品、色仕掛けで誑かして妻の実家にあらぬ不評を立てさせ、売上を落としておいて、共同経営の話を持ち掛けた上で、最後には、スパイに店の潰れるような失態を仕組ませ、これを役人に公式の事件として立件するように仕組む。狭い村落共同体でこんなことをやられたら、潰れるしかない。こんなことを仕組んで、一代で財を築いたのだが、それが、2店舗目を出した時の話、涼の場合は3店目である。因みに最初の妻は自殺に追い込まれている。
然し、涼は、最初の妻ほどひ弱ではなかった。而も利用するだけの存在であったはずの涼に鉱幸は惚れていたのだ。彼女の美貌のせいだろうか? 或いは、物腰のせいだろうか? それとも隠している頭の良さのせいであるか? 何れにせよ、2店舗目を乗っ取ったのと基本的には同じ遣り方で安住屋乗っ取りを図ったのだが、そしてそれはまんまと成功したのだが。涼は、妊娠していた。而も、鉱幸は立たないのである。腹の子の親が誰か、鉱幸は涼に迫るが、彼女は口を決して割らない。鉱幸の暴力が激しくなり終には、涼を絞め殺してしまう。鉱幸の負けである。涼は、最後まで、論理で通した。論理に勝つのは論理のみである。だが、鉱幸は暴力を振るい而も彼女を殺して永久に勝つチャンスを失ったのである。それが、彼女の復讐であった。実際、誰の子であるのかは分からない。然し、候補は何人か居る。1人は、啓一郎、1人は利之助、鉱幸の悪辣さを思えば、役人の重松の線も考えられる。男性として機能しない彼は、歪んだ形でしか、その愛を表現できなかったからでもある。そして、恐らく、彼の子供っぽい人間性は己の地獄を何とかする為には、愛する者や周りの者総てを自分と同じ地獄に引きずり込むこと。それだけが、慰めだったのであろう。この意味でも、涼は、鉱幸に完全勝利しているのである。彼女は、最後まで、人間的に生き、そして亡くなったのであるから。そして、鉱幸は、狂った!
ところで、何故、今、この作品を掛けたのだろう? 自分は、或る意味、日米関係を考えながら観ていた。今の日本に涼と比べられるような政治家は、無論、存在しないが、TPPといい、原発偽装といい、日米安保強化といい、秘密保護法といい、アメリカの完全植民地化へ向けて益々、歯止めを効かなくさせている売国奴、安倍、石破等の下司は、アメリカをこの物語の鉱幸とするならば、ミニ鉱幸として機能している売国奴そのものである。亡国を知らざれば、これ即ち亡国、と嘗て田中正造が喝破したが、人間的な誇りを最後迄捨てなかった涼が、日本の伝統に則った妖怪なり、幽霊なりと同じようにその無辜性と論理によって力ある者を打ち負かしたように、今、我々の為すべきは、この売国奴どもを、我らの理性と正気によって狂気に沈め、二度と浮かび上がらせないことである。
「幕末千本桜」
劇団アニマル王子
ブディストホール(東京都)
2013/10/02 (水) ~ 2013/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★
幕末顧みて武士の世
桜田門外の変(1860)から7年後の慶応3年尊王攘夷、勤王佐幕両派は、蛤御門の変(1864)を経て薩摩藩出身の策士、大久保 利通は、土佐出身の浪人、中岡 慎太郎と共に京を離れ、江戸へ出向いていた。一方、中岡の盟友である龍馬も江戸へ出、身分を隠して、民衆を如何に扇動・先導するかについての考えを巡らしていた。
ネタバレBOX
そんな折も折、両国の暴れん坊鬼若 獅童が、単身、大勢のヤクザと立ち回りを演じ大怪我をして動けなくなっている所を通りかかった御典医、桂川 周の娘、一縷は獅童を救うことになった。彼女は、蛤御門の変で、幕府方の患者しか診ようとしない母に反発、敵味方の区別なく治療を施すような娘で身分制度にまだまだがんじがらめになっていて時代にあって突出した娘であった。こんな経緯から母は、彼女を勘当したのだった。彼女は、獅童達の溜まる万屋の仲間になる。ここには、新たな仲間も加わることになった。蛤御門の変以降、荒れ果てた京都では、ゴロツキと化した元武士が、町民を襲い、犯し、略奪し、街を荒廃させていたのである。妹の身を案じた兄は、兄妹で江戸に逃れることを決意、流れてきたのであった。
万屋の中心に居る若者達は、才谷という偽名を使って潜伏している龍馬から、何だかんだと薫陶を受けている。その結果、当時、最先端の思想、民主主義の萌芽を彼らも理解していた。戦乱に筧を乱されるのは、何も敗軍ばかりではない。最も大きな被害を受け続けているのが、民衆なのである。彼らは、実際、戦乱の世にも、戦費を調達する為の増税にもウンザリしていたのだ。それで、仲間を集めて、15代将軍、慶喜に訴えようとする。具体的には、一種のデモである、ええじゃないかを組織する。
そして、その決行の日、大久保の陰謀によって、英国の武器商人、グラバーと銃五百丁の取引をしたとされた、ええじゃないか一行は、幕府側ではあっても民衆からも人望の厚かった幕府組頭、滝川 信明配下の将軍護衛警護が銃を構える中に突入して行き、先頭に立って檄を飛ばしていた獅童が撃たれる。彼は、一縷を置いて死んでしまう。一縷の深い嘆きが、彼女を過去に連れ去った。その過去とは、武家政権が成り立つ揺籃期である。
二幕、場面変わって、時は遡り、千百年代、源 頼朝が鎌倉幕府を創設するに至った時代へ飛んだ一縷は、五条の橋の上で弁慶と対峙、彼を下して、生涯の友とも、一の家来とも為すが、弁慶即ち、獅童。幕末、一縷は獅童を愛していた。相思相愛の恋仲である。為に一縷は時代を遡り、武家政権成立の時代へ飛んだのだ。そして、五条の橋の上で千振り目の刀を奪おうとした弁慶に出会うのだ。義経と化した一縷と最も関係の深いのは無論、弁慶である。彼は、義経を守る為に己を鬼神とも化した人物。その気持ちは、獅童そのものである。時代を隔てながらも、義経・一縷と弁慶・獅童は、互いの時代を超えた関係を理解し合っている。他にも、敵味方に分かれたとは言え、主要なキャラクターは、皆、過去に飛来してきている。例えば、才谷こと龍馬は、平家方和平派に成っている。動乱の幕末の歴史勝海舟と共に担おうとした役割自体は変わらず、時代が変わっただけというような設定になっている。無論、それが、一種の輪廻転生になっているのではあろうが。シナリオはそれなりに、面白く展開する。二幕は、それなりに役者のエンジンも掛かって来て楽しめた。
それでも、演出、役者の演技は、幼い。残念である。演出レベルでは、一幕のオープニングで、観客に驚きを仕掛けていない。漫然と役者が入ってくるだけである。これが、今作の舞台では演じられなかった、その後の戦乱そのもののシーン(例えば蛤御門の変など)に繋がるならまだしも、そのような展開もなく、只、漫然と始まる舞台など、自分には、信じられない。観客は日常の生活空間の中から劇場に足を運ぶのだ。いきなり舞台に引き込む工夫をしないでどうするのだ?
役者陣の演技も、溜めが無い。若いとは言っても演じるのは、少なくとも16歳では元服する時代の人物達だろう。(元服する年代は時代によって異なるが)現代の明らかに子供じみたレベルで演ずるのは間違いである。演出も、この程度のことは常識の範囲なのだから、きちんとダメダシをすべきである。シナリオが時代劇である以上、当然だろう。
10周年は一区切り、益々の精進を期待すると共に、自由なイマジネーションの翼を広げる戦いは継続して欲しい。若い人々の活躍を祈念して、星は4つをつけておく。
素面 【全日完売御礼!!!】
劇団イノコリ
RAFT(東京都)
2013/10/01 (火) ~ 2013/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★
家族
敗戦で父権は完全に失墜した。いわば、それまで続いてきた、この国の家族制度の権威部分が完全に堕ちたのである。このことは、人々の人間関係にも変化を齎した。(追記2013.10.7)
ネタバレBOX
それ迄、優勢であった父権に対して、母権が台頭したのが、結局は、戦後という時代であったのだろう。少なくとも家族の中心として母的なものを考えている点に、戦後68年を経た、この「被植民国家」の在り様が透けて見える。更に、父の家に、現在居るのは、同居人のあゆ。母ではなく占い師である。つまり、戦後、父権の失墜の後、長く続いた母権も今や怪しい。家族の要を失った登場人物達は、謂わばエパーヴとして漂っているだけだ。苦いスープのような世界の中を。
物語は、兄、里の借りているワンルームでDVDを見ながら料理番をしている妊婦、桃子のシーンから始まる。桃子は、里の彼女、梨恵の友人である。梨恵は、店長をしているので、客からのクレームがあると休日でも謝りに行かなければならないことがある。休日に里の部屋へ来て手料理を作っていたのだが、クレームをつけて来た客が「店長を呼べ」と食い下がるので店へ行った訳だ。
だが、これは嘘である。梨恵に桃子の作るようなおいしい手料理は作れないのだが、彼女は梨恵の彼をとった、として梨恵から脅迫され、こんなことをしているのである。梨恵は、兎に角、完璧な彼女を演じたいのだ。
ところで、里の所へは、人が集まる。友人の幸助は、毎日採れたての野菜を持ってくるし、桃子も梨恵の嘘がバレナイように頻繁に彼の部屋、おいしい野菜を求めて幸助の畑を訪れる。
おまけに妹の亜美迄、家出をして来た。彼女の手下格の同居人、雄二とエキセントリックで革命的な事に憧れ、ハネているが、少し足りない千陽も一緒である。地方の大学へは、彼らの車で往復しているのだ。亜美の家出には、無論、訳がある。彼女は浮気相手の娘なのだが、成長するにつれて母に似てくる自分自身の肉体から自分自身を追い出したいような地獄に捉えられており、兄が実家を出てからは、ショックアブソーバーを失った父とどのように向き合ったらよいか分からないのである。
亜美が兄の部屋へ移って来てから、ベッドの下に寝そべっている所へ梨恵と桃子が入って来て彼らの秘密を話している。亜美は、総てを知ることになったが、梨恵が近いうちに、里と同棲を始めたがっていること。結婚も視野に入れていることも知って、梨恵を脅迫。策を弄して父や、最近、同居している占い師、あゆらと一堂に会し食事会を設定させた。無論、梨恵の手料理である。里にとっても、彼女を父とその同居人に紹介するチャンス。おまけに関係者全員揃うとなれば、渡りに船だ。
だが、この席で、亜美は桃子の作った料理にお茶を混ぜ、味を変えて梨恵に皆の前で作り直しを迫り、彼女の嘘を暴いてゆく。
シリアスな会食となったこの会で里の性格が空虚に過ぎない、などとシビアな事までが出てくるが。何も空虚なのは里ばかりではない。我ら総てが空虚なのだ、とのメッセージも聞こえてきそうだ。無論、主体性を奪われているからである。
風 -ふう-
劇団ZAPPA
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2013/09/28 (土) ~ 2013/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★
バランスよし
嵐版を拝見。新撰組の中で最も人気の高い沖田 総司。未だにその墓前には若い女性の手向ける花が絶えないことでも有名だが、その沖田をサヴァン症候群のクランケとして描いた特徴ある新撰組物語である。因みにサヴァン症候群とは、特定の分野で頗る優れた才能を示す人物が、他の知的分野で障害を負っている場合を指す。映画「レインマン」のモデルもそうであったし、今作では、沖田とよもぎがそうである。
ネタバレBOX
ZAPPAの劇団としての優しさが、この登場人物達の描き方に現れているように思う。メインプロットで唯一の障害者である沖田を一人にしておかない配慮である。即ち、沖田の相方としてサブプロットで同じ症状を持つよもぎが登場することによって、沖田もよもぎも共に独り孤立しないで済むように配慮されていると見た。而も、年の近い若い男女として描かれている点に、この劇団の温かさを感じたのだ。
総じて、幕末当時の関東の田舎者という新撰組中枢部の純朴と意地を、歴史的評価は兎も角、落ち目とはいえ未だ、権力・権威の象徴的総体では在り得た幕府の旧主派の差別意識に対抗する健全な精神として夢見ている点は、特徴的である。近藤 勇役の北崎 秀和の容貌も何処となく近藤本人に似たイメージのキャスティングだ。近藤は、宴会芸で拳をあんぐり開けた口の中に入れることができたと言われる。
隋所に、近藤、土方、山南、沖田他、新撰組各隊隊長たちの微笑ましい人間関係を描き、派閥の異なる芹沢派を隊内の異論派・敵と見立て、勤王派を外部の敵として粛清するが、これに同郷出身のあさぎ、あかね、よもぎ姉妹を絡めて世話物的な広がりを持たせている辺りエンターテインメントとしてのバランスも良い。基本的に温かいシナリオだけに、歴史の歯車が否応なく回り、弱者を踏み潰して行く様が哀れである。(追記2013.10.7)