満足度★★★
てんこ盛り
一人で演ずるには、てんこ盛りに過ぎたか。パフォーマーの動きは中々洗練されていたし、コラボもかなり上手く行っていたが、宇宙船の規模や形までを視野に入れて一人で演ずるのは、やはり少ししんどいように思う。
元来、一人芝居は、その内容に於いても一人でしかやれないような背景があった方が、より説得力が増すものだろう。例をあげれば、故あって人殺しをしたが、親族、倦族などのこともあって、迷宮入りになったのを幸い誰にも話さずにきたが、かつての自分と同じような青年に会い、彼も自分を殺そうとする、その彼に、罪というものを抱え込むことが何を意味するかを伝える為に、という設定にするなどだ。今作には、一人芝居でやらなければならない必然性は無いと思う。それなりに楽しめたのではあるが。
満足度★★★★
案外深読み可能な笑い
超人類をテーマにしたショート、ショートのオムニバス。深く読もうと思えば、核時代の命の問題だって読めるぞ。
ネタバレBOX
折々、「こんな所に目が! バイン バイン バイン!!」と意味不明な合いの手を入れることをフォーマット化して、シュールな印象を刻み乍らプロットを展開して行く。各ショートショートは、緩やかな関連を持ちつつ独立した短編としても楽しめる構成になっており、梃子になっている。「こんな所に云々」を所々に挟み込むことで、日常に潜む深淵や不条理を垣間見せたり、ストーリー展開の中での箍外しをやったりし乍ら、面白おかしく突拍子もなく笑いのテンションを維持して行く。メンバーはホントは7人なのだが、今回はスピンオフ公演で4人が出演。其々の個性を活かし乍ら巧みなコラボレーションを形作るチームワークは微妙で程良い緊張感があり飽きさせない。兎に角、上手に脱臼させる。暗い世相を笑い飛ばすに足る内容であった。
だが、年忘れに来年へのメッセージを伝えておくならば、何故、今、今作のタイトルが超人類なのか? 問うて見るのも良かろう。答えは読者諸賢のご賢察通り、放射性核種による突然変異と読むことが可能である。牛が人語を話すことができるようになったのも、その牛が、3歳で売られ肉として食用にされる予定だったのも茶化されてはいるが、現実と同じようにできなかったのである。そのように深読みするならば、被災県で飼われていた一頭数百万円と言われる牛がモデルでないとは言い切れまい。(此処まで読み込ませるつもりで書いているとすれば、当然、隠れ評価は星5つである。
満足度★★★★★
色々示唆に富む舞台
彼が自室に寄った時、甲斐甲斐しく食事の用意をしたり飲み物の準備をしたりするシーンが出てくるが「来る時、お腹がすいてるなら来る前に連絡してって言ってるでしょ」から「お風呂入る」など何気なく見える科白など、女性が伴侶或いはその候補に見せる日常的な世話と愛情の形を見せて巧みである。
一方、男には一言も科白が与えられていないシナリオと演出が頗る興味深い。また、妹と彼の浮気に気付いた姉が、彼を追い出すシーンで出て行く男が去り際、チラっと振り返って部屋を覘き込むシーンなども普段の観察力が見て取れる演出である。(追記2013.12.31)
ネタバレBOX
自由奔放な妹のキャラクターを表現するに際して、他者から見られた妹のイマージュに従って可能な限り別の女優が演じているのも良い。この辺り、あおきりみかんの鹿目 由紀の発想に近いか。或いは、鹿目 由紀の影響を受けているのかも知れない。異なっているのは、鹿目 由紀の分身或いは分裂は、個々人の意識の多様性を表しているのに対して、今作では、見られたキャラを表していることである。また、観客に妹が同一人物であることを示す為に、妹を演じる時には、必ずレイを首に巻いて出てくるのも初心者向けのサービスではある。
更に自由奔放な女と家庭的な女の差を、単に現在我らの暮らす社会のタイプの違いとして見るのではなく新約聖書のベタニアのマリアと姉のマルタの話を引き合いに出し、実際の生活実務活動と観想(遊び、哲学など精神的活動)を提起することで、社会的生活を営む、蟻や蜂迄含めた労働と遊び、即ち生産と非生産、或いは生きる為の労働と精神的働きという普遍的差異を呈示してもいる。
更に面白いのは劇中「なんでわたしばっかり」という科白を妹(遊び)、姉(労働)の両者が共に発している点である。おまけにこの科白は、どちらにも当てはまるのである。但し、妹のどうして云々は、周囲の同性からの非難がどうして自分にばかり向かうのか? の意であり、姉の場合は、どうして自分ばかりが地味で苦しみの多い労働に携わらなければならないか、という内容の差があることに注意しておきたい。
ここで男には科白がないことの意味を考えてみよう。それは、現在、この地で女性が置かれている状況を形作っている社会システムであり、それが彼女らを縛っていると女性達が感じているからかも知れないのではないか。つまり、多くの女性が、この状態を肯んじたいとは思っていないのだ。では、彼女達が望むようなパラダイムシフトは可能だろうか? それが可能だとして、それはどのように為され得るか? 為される場合、両性協力してか? その場合、どちらが、どのようにしてヘゲモニーを握るのか? 両性が協力できないとすれば原因は何か? 協力できず単性で為す場合、♂が有利か♀が有利か? セクシャルマイノリティーが存在するが、問題化するのかしないのか? そもそも問題化できるのか? 単性生殖やクローン技術をも射程に入れた疑問はいくらでも湧いてくる。頗る興味深い舞台である。
満足度★★★★
詩的なのと物語してるのと
ケセランバサランのイマジネイションが詩的である。父(なる者)を求めて旅をするケセランバサランは、母からの手紙に従って南へ北へ東へ西へと移動する。現在でこそ、磁石は北が基準だが、磁石が方位計として人類史上初めて用いられた時の基準は南であった。現在でも指南という単語に歴史の名残りが見られる。(追記2013.12.31)
ネタバレBOX
これは指南車に乗った者が南を目指した為と言われている。NとS、1本の指針に過ぎない物が、洋の東西・歴史の中で相反するベクトルを基準にしたことが面白いではないか。
ところで、父なる者即ち神と解するならば、今作は一挙に宗教的深みを増すが、実際にはどんな宗教も本気には信じていない圧倒的人数の日本人には、この発想自体あるまい。まあ、宗教的解釈などしなくても大きな旅行鞄に包まるようにして移動するケセランバサランの一人ぼっちの述懐「夜は真っ暗、何処迄行っても真っ暗な夜、月がずっとついてくる。目を閉じると青、紫や赤が目の裏に浮かぶ」から死の観念に至る瞑想の後、蛍が一匹虚空に飛跡を残すと、それを追うかのように無数に舞う蛍の群れを映し出した後、またもや1匹が最後に舞って宇宙の闇に消えてゆく儚さ・深さは、何とも形容のしようが無い。我らはこういう状態を寂謬と名付けた。
これら詩的イマージュとデリカシーを弁えた用い方、観客を巻き込み聖化する呪力、顔にギザギザの傷口を描いた化粧の向こうに在る何という優しさ。同時にまど みちおの“やぎさんゆうびん”を織り込むことによって、最後の場所に着いた時に、既に手紙は食べられてしまった後で、山羊さんは、読んでもいないから内容も伝えようがない。だが、ここで山羊は慌てず騒がずこう述べる。「もう手紙が無くたって君には行く所が分かると思う」
と。
ケセランバサランのあとは、to R Mansionだ。男2人、女2人のグループだが、今回は、女優というコンセプトを中心にショートストーリーを連ねた。ケセランバサランの演目が詩的に構築されているのに対して、to R mansionは、物語というわけだ。言う迄もなくマイム系のグループが演ずるのに向くのは、詩的作品だから、物語という語り、或いは語りのリズムと神話的世界に開かれた世界観を中心とする所迄のオーダーで切り取られてしまうと、現実の意識層も侵入してきてどうしても弱くなる。代わりと言っては何だがアカデミー賞がその代替物として用いられているものの、世界中に在る創世神話や火の発見・利用、男と女、ヒトと自然などを含む壮大な世界には、到底及ばないし、言語過多でもある。そのことが、マイムの無言による飛翔を妨げて仕舞ったと言えないだろうか?
満足度★★★★
男女の艶
原作は十景から成ると言う。娼婦と兵士、兵士と女中、女中と若様、若様と人妻、妻と夫、夫と若い娘、若い娘と劇作家、劇作家と女優、女優と伯爵、伯爵と娼婦という具合に各シーンはペアを変えながらリレーして行く構成になっている。
ネタバレBOX
大きな舞台であれば、当然、各キャラクターに其々、異なった俳優を宛てるであろうが、今回は、スタジオ公演なので、女優、男優各1人である。従って、見所は、各々のキャラクターを役者がどう演じ分けるかという点に掛かって来よう。
約100年前に発表された時、この作品は余りにもスキャンダラスだと感じられ、舞台に掛けることができなかったと言われているが、現在では、大人の寓話として一般に充分受け入れられる作品である。寧ろ、余り下卑ず同時に無味乾燥でないどころか艶のある作品に仕上がっていると言えよう。
男女ともピエロの赤鼻をつけてコケティッシュな雰囲気を出したり、帽子やベール、着衣で社会階層や親疎を表したり、グレイドの異なる艶や色気が出ていて楽しめる舞台であった。
満足度★★★★★
命の輝き
離島の山奥に不時着したUFOには、臨月の宇宙人が乗っていた。
ネタバレBOX
彼女は、偶々異変に気付いて近付いた老人に子供を頼み息絶えた。老人は1人暮らしであったから、生まれたばかりの子を連れ、育てることにした。だが、この子は、銀色の皮膚をし、足が11本もある子だった為、村の子達のからかいや苛めの対象になり、一人泣く姿がよく見受けられた。そんな中、村で最も可愛いと評判のハナ子だけは、彼にも優しく声を掛け友達にもなってくれた。そんな彼女の父は、体を壊し寝付くことが多かった。そんな父の快復を願い、彼女は四葉のクローバーを探していたのである。オサムと名付けられた遺児は、彼女と一緒になって四葉のクローバーを探すが、この時には見付けられなかった。そんな山間での学生時代を終える頃、ハナ子は、先輩でサッカー部の主将、皆の憧れの的である池畑と付き合い始めた。オサムは、ガールフレンドとして付き合って欲しい、と思っていたが、あっさり夢は断たれてしまった。
失意のオサムにおじいは東京へ一緒に行かないか? と誘う。おじいは読者モデルなどをするつもりなのである。始め、島の仲間達とまだ過ごすつもりだったオサムは、飛来したUFOが自分の生まれた星からのものだと思い、生まれ故郷へ帰ると友達に告げ、ハナ子から四葉のクローバーを送られ、皆に挨拶を済ませてUFOに乗り込もうとするが、全然、別の星から来たUFOで相手にされず、じいと一緒に東京へ出る。一方、ハナ子も池畑と共に東京へ出てきていた。彼女は看護師になったと言う。池畑は商社マンで随分忙しく働いている由。
オサムの手足は8本になっていた。それは、かつてじいが大怪我をした時じいを救い、高熱を出して寝込んだ時に、腕がもげてしまったからであった。以来、じいはその力を使わないよう命じていた。(追記2013.12.31)
然し、オサムは知ってしまう。ハナ子が決して幸せではないことを、それどころか、池畑はすっかり駄目になっており、仕事もせずにハナ子に春を鬻がせ、自分の子ではないかも知れないなどと悪態を吐いてはDVに走る。ハナ子は終に堪忍袋の緒を切らし、彼を殺害してしまった。その罪を救ったのは、オサムであった。じいに禁じられた不思議な能力を用いて池畑を助けたのである。無論、オサム自身は体調を崩し、現在は世界のトッププレイヤーとして活躍する彼は休場。その後10日間も寝込んでしまうが、漸く何とか昏睡から目覚めた彼の前には、子供が泣くのを、隣室から何度も咎められ、赤ん坊の口を枕で覆って死なせてしまったハナ子の窮状があった。彼は、今回も彼女を助ける。その結果、総ての腕を失い、2本の足だけになったが、漸くキーパーをさせられずに済むようになった彼は、フォワードとして復帰、終にシュートで得点を上げた。
宮澤賢治の描く「夜鷹の星」などのような純粋な自己犠牲と命の輝きを、切り捨てられた沖縄基地問題や未亡人製造機と揶揄されるオスプレイ強行配備などの対局に置いて痛罵しながら、軽々と高く舞うポップンマップチキンの清々しさよ!! 爪の垢を安倍に飲ませてやりたいものである。
満足度★★★★
オムニバス
一篇50分の作品3作によるオムニバス式の公演。3作それぞれが、全く異なるテイストで楽しめる。各作品の合間に10分の休憩が入る。第一話「アイスランドの森」第二話「エレファントタイム」第三話「砂の歌が聞こえる」(追記2013.12.31)
ネタバレBOX
第一話:若い作家と同棲する彼女の名はしずく。「どうして」と質問する彼女は妖精と話すことも見ることもできるが、病が重く暫く作家と暮らした後、亡くなってしまう。彼らの暮らしたロッジは、アイスランドの木材で総てが造られている。かつて、アイスランドはその面積の三分の一を森が占めていたが、暖をとる為、或いは建材として人々が伐採した為、現在では森と言える程のものは消滅。国土の0.3%程度に樹木が残るのみである。
そんな事情で森の妖精が、木材と一緒にやってきたらしい。妖精を見ることのできるしずくは、それ、アイスを発見。大好物のクッキーで釣り、妖精との同居を楽しみつつ過去・現在・未来を通じて森に纏わる物語を紡いで行こうとする。然し、彼女は急逝してしまった。その意志を継ごうとでもするかのようにしずくにそっくりなアイスが、現れ作家と同居することになった。妖精がアイスランドへ帰るまでの日々。
第二話:世の中に無くならないものが三つある。一つは戦争、一つは愛情、そしてもう一つは銀行強盗だ、という発想に四人がチームを組んだ。一人はオタク、一人は某施設副代表、一人は象の研究者、一人は食わせ者。さて四人はオタクの集めた情報を基に銀行強盗を決行、首尾よく金を盗みだすが、中味を確認すると札束は木の葉に変わっていた。だが、その後、三人とも、己の希みを実現した。実は裏があったのだ。食わせ者は、他の三人と其々個別に話し、裏切りを奨めていたのである。三人とも見事に策に乗って各々が日梅雨なだけの金を盗み残りは後になって返しておいたのである。結果、各々は、その望みを叶えゲームとしても楽しんだ上、殺人も犯さずWinWinの結末を迎えたのであるが、この策士こそ悪徳銀行オーナーの息子、怪しい金だと分かっていながら預かる自行不正義を内側から切り崩そうとの義挙であった。
第三話:天文学者、キリトの友人に境界領域専門のカメラマンが居た。彼は、シャーマンのような境界領域の人々を発見する能力に長け自らもクリスチャンでありながら、原罪を進化論の何処に位置づけるかで悩んでおり、尾崎緑の「第七感」の熱心な読者でもあったが、宗教的ストイシズムは彼の精神を追い詰めていった。そんな時、彼は出掛けた奄美諸島の神官の娘、釈迦堂 智美と出会う。彼女は、空に書かれた文字を読む能力の他、多くの外国語を操る能力を持つが、島に伝わる伝承を話して聞かせた。彼はその伝承に自らを浸し第七感を体得して失踪した。だが失踪の直前、彼女にキリトの連絡先を教え、訪ねるよう勧めていたのである。智美はそんな経緯でキリトの下へやってきたのだが、彼女がものごころついて以来見る夢はキリトの夢や既視感と繋がっており、二人は宿命的に結び付けられていたことが判明する。そして二人は、この宿命に身を任せることを選び、その結果になだれ込んで行く。その過程で、写真家がこの位相に入り込んでいることが判明するが、二人の運命は変えられない。位相で砂に変じる智美を救う為に、キリトは己が砂になる。
満足度★★★★★
本質を捉えながら独自の解釈
賢治の世界を4次元というコンセプトで括り、この解釈に従って独自の世界を表現している点が創作者の主体的関与を表して小気味よい。余りにも当たり前のことで、殆ど誰も指摘しないが大切なことを言っておくと、作品が発表されたら、厳密な意味では、それは既に作者の意図を越えたものになっている。従ってそこから先、作品に起こることは受け手の解釈なのである。作品はそのものとして自立しており、受け手は己の想像力やロジックを最大限にして解釈する。今作では、ファーストシーンで、解釈宣言が行われ、その解釈に従って作品は、諸要素毎に咀嚼され、再構成されている。無論、原作の意図が、捻じ曲げられることはない。何故なら、原作の意図した所と向き合う為に、深く考え、作品と向き合って創られたことは、今作の隋所に現れているからである。(追記2014.1.1)
ネタバレBOX
以下、小生の解釈である。
ザネリを中心に「お父さんがラッコの上着を云々」とジョバンニをからかうシーンが出てくる。その後のシーンで、ジョバンニの父らしき人物が、銀河鉄道の停車場に降り立ったジョバンニに語り掛けるシーンがある。将来、ジョバンニが、父を理解するであろうことが、その期待と共に語られるシーンには、無論、ジョバンニの父は獄に繋がれていることが含意されており、その嫌疑は、盗みや暴行、傷害などでは無い。思想犯としてである。所謂、社会主義者やアナーキスト、リベラリストとしてより、恐らくは凡人には理解できない何者かとしてである。型にはまらない人間を権力は煩がるのだ。それは官僚にとって面倒なことであるから。自分達が、箍を嵌めた軌道上を走らない者には、何故そうなのかを問わなければならないし、答え如何によっては、官僚自身のアイデンティティーを崩すからである。彼らは、裸形に向き合うことを恐れているのだ。無論、彼らが裸形に向き合った時点で彼らの構築してきたつもりの論理一切は崩れ去る。故に、彼らは自分の頭で考え、其処から演繹された結論に従って判断し行動を起こす者を恐れるのである。
仮に百歩譲って普通の思想犯としてみようか。現在、この「国」で起こっている未曾有の事態は無論、この「国」だけで収まる問題ではない。安倍という阿保なボンボンだけの話ではないのである。石破や菅、竹中 平蔵等を取り込んでも話にならない。日本を植民地化しているアメリカに対してキチンとい物を言わなければならないのだ。自民党中枢は、そのお粗末な頭脳でアメリカを利用しているつもりかも知れないが、アメリカは、彼らよりしたたかである。そして自民党の影に隠れて暗躍しているのが、外務省、通商産業省、、防衛省の官僚達の多くであり、警視庁の公安部・警察庁所轄署警備課、道府県警察本部警備部などは組織の生き残りを賭けて情報隠蔽に血道を挙げていると見られている。その結果がどうなったか、火を見るより明らかであろう。無辜の民が拘束され、時に凄まじい拷問の為に命を落とし、或いは体を壊して例え釈放された後でも後遺症の為多くは短命でその生を終えた。無論、村八分などの社会的制裁を恐れて人々は見ざる聞かざる言わざるをその生活信条として自らを守ったのである。どれもこれも茶番だと知りながら。そのような排除社会で、命の根底から助け合いの必要を説き実践した者は、為政者の目にどう映ったであろうか? そして、民衆は、これら民衆の英雄をどう裏切ったのか? そういったことまで考えさせる深い内容である。
最初に隠されるであろう情報の一つに福島第一原発人災の消息がある。隠して被害を更に取り返しのつかない物にする危険性が大だ。結果、地球上に生きる総ての動植物、細菌やウィルスに至る迄が、変異を受ける可能性がある。それも、数十万年に亘ってだ。僅か百年前の日本語ですら満足に読めない日本人がたくさんいるのに、こんな長い間、仮に放射性廃棄物の管理が出来た後、その危険性を過不足なく後世に伝える技術が確立されているとでも思っているのだろうか? 本気でそう考える連中が居るとすれば、愚か極まりない。大体、そんな厄介な廃棄物を管理する主体は国家だろう? だが、国家としてそんなに長く存在した国が歴史上一つもないのはどうしたことだ? 管理者も無し、伝え得る素材や技術も無しで何をしているのか? そういう問題に対しても、一つしか無い命にどう向き合うかを示すことで今作は向き合っているのである。
蠍の話やタイタニック号沈没の話、鳥に含まれる水銀の話等々、何れも賢治作品に繰り返される普遍的テーマを含んでいる。蠍は、多くの小さな命を奪って自らの命を永らえてきたにも拘わらず、自分が追われて食べられそうになった時に一目散に逃げ、井戸に落ちて溺れ死んだことを悔やんで、黙って食べられてやれば良かったと考える。これは、「よだかの星」に共通する、皆の本当の幸せの為には自己犠牲も厭わない姿を、一つきりの命の弱さと靭さを示して深い。タイタニック沈没に関しては、死を前にした人倫の問題、身の処し方等本質的な問題が決して声高でもまた強制的でもない形で表現されており、受け手のイマジネーションに委ねられていることも重要な点である。本当に大切なことは、其々が、気付くべきことであって強制されるべきではないのだ!
マイノリティー
2002年4月イスラエル軍は、ベツレヘムにも侵攻、聖誕教会へも銃撃が続いた。またイスラエル兵の投げた手榴弾による出火も伝えられた。この後、イスラエルは、クリスマスミサをも妨害、人々の祈りを踏みにじり続けた。現在も続くシオニストによる占領、封鎖、無辜の市民・子供殺害、差別、人道に対する重大な罪、バンツースタン(イスラエルは否定するが、実質バンツースタンであるとの認識は、内実を知る者には明らかである)侵略の為の入植地建設等々に、アメリカの援助等も大きな影響力を持っていることは衆知の事実である。おまけに、イスラエルの持つ核兵器の数はイギリスをも凌ぐとの研究者がいる位だから、実数は中々見定めることができないものの、中東の不安定要因で最大のものがジャボティンスキーの流れを汲むシオニスト「国家」イスラエルであることは明らかだろう。
ところで、今回、自分が、LGBTIの作品を観に行ったのは、メンバーがマイノリティーだからであった。残念乍ら、演劇というより、セラピーという方が理解しやすい構成と内容であった。もっと、マイノリティーとして生きて行かねばならない、マジョリティーとの関係に正面から対峙して自分達の哲学を深め、関係を見切って欲しい。先ずは、そこからである。演劇としては評価できない。
満足度★★★★
サンドイッチ
ループVS始まりと終わりのあるもののコラボ。その真ん中に日常のルーティンワークがある。スズキ拓朗君の形態模写と動きが清々しい。(追記2014.1.2)
ネタバレBOX
まど みちおさんの“やぎさんゆうびん”白やぎさんからお手紙ついた。黒やぎさんたら読まずにたべた。という例の歌である。これは、無限ループの世界だ。それに対して郵便屋さんが配達をするのは、ルーティンワークであっても、毎日、少しずつ何かが違う。お手紙を落とした、とか。こちらは、大枠は決まっているものの、ループはしない世界だ。
そして、もう一つ。始まりがあって、終わりがある。物語の世界がある。
例えば名前(宛名)の無い荷・郵便物は3カ月保管するが、その後は、焼却される、と枕を振っておいて、エジプトで史上初めて沖の船から漁獲高を知らせる為に数千年も前に伝書鳩が用いられた話や千Km以上離れた所からでも正確に目的地に到着する能力を持つ故に数千年も用いられてきた伝書鳩が、近年、レースで一羽も目的地に辿り着けないケースが増加しており、その原因に携帯などに用いられる電磁波の影響が疑われている等の情報が入ることによって、人為的な技術が、家畜・野生動物に与える負の影響を喚起すると共に、その後の悲劇を仕込む為の前提要件を紡いでいる。
飛べなくなった伝書鳩は、名前の無い荷物に手紙を出す。手紙には飛べない現状と荷物の保管されている場所の傍らで飛び立つ訓練を繰り返していること、再び飛べるようになったら、海を見せてあげたい、海に沈む夕日を見せたいとの内容だ。朝日でないことが、荷物の消滅と鳩の死を立ち上げる。つまりここでは名前の無い荷物との淡い恋物語が、ものの哀れを誘ってアンカーのような物語として打ち込まれる。
今作ではその後郵便物達の配送や、途中で起き得る宛先不明などによる配送不能、郵便物の辿る旅等がパフォーマンスで示された後、床面が引き上げられる。と客席側に向かって床に置かれていた巨大な封筒が立ち現れ、舞台奥から当てられた照明に浮かび上がるのは狐などの影絵。巨大封筒と客の間では黒山羊さんと白山羊さんの間を郵便屋さんが行き交いその度に手紙が届けられる。無論、その度毎に山羊さんたちは、読まずに食べる。
ンメ~~~、ンメ~~~~というループ構造が明らかにされて幕。
満足度★★★★★
切れのある身体遊戯
玄武館武術専門学校、功夫の専門学校である。生徒達は師博の指導の下、功夫の修行を積む。気風はかなりおおらかで、男女差による区別・差別も、先輩・後輩間での序列も基本的には無い。そうは言っても、新体操を目指していたミシェルは、新体操に代わって一所懸命に打ち込めるものを探して、ここへ来たのだし、シオリはダンサーを目指していた。また、サトルはアクションスターを目指していた。功夫に共通する部分を多く持つジャンルからの移行組に対し、才能はからっきしだが、功夫が大好きでやる気だけは満々のケンジ等、個性豊かな面々が繰り広げる、身体パフォーマンスの華麗でシャープな動き、ザックリ分かり易い内容の物語は、無論、その身体性を強調する為の演出である。音響効果も巧みで舞台を盛り上げているし、照明も自然に見える。(追記2014.1.2)
ネタバレBOX
何より鍛え上げられた身体が空間を切り裂くような鋭い動きや赤いリボンを用いた新体操演技、剣を用いた殺陣など見所豊かである。
ストーリーテリングな部分としては、この学校の出方がメインストリームを為す。出るには2つの方法がある。1つは下山すること。もう1つは最強と言われる男と戦って勝ち、達人として見事卒業すること。然し、今迄誰一人、この男に勝って山を降りた者はいないことも語られる。このような状況で18回も落第したサトルは、厳しい修行をしても今時功夫が何の役に立つのか? と疑問を持ち、意を決して下山することを宣言するが、師博は彼の心を見透かして、最強の男と戦って勝ったら師博になるよう勧める。
一旦、山を下りてアルバイトに入ったサトルだが、試合は彼の出勤日、午前0時と定められた。場所は、武術学校内である。午前0時の鐘が鳴り始めた。だが、サトルは現れない。相手は師博に撃って掛かるが、刹那、1時間の休憩を取ったサトルが現れる。早速、2人の戦いが始まった。前半、押され気味だったサトルはノックダウンを食らい、もう駄目かと思われたが立ち上がり酔拳を用いて逆襲、終に勝利をものにする。達人の称号を得てめでたく卒業し職場へ戻る。
舞台は飛んで1年後である。皆がサトルがコンビニの店長を辞めたらしいと噂をしている。師博が出欠を取る。新任の師博を紹介すると挨拶をすると、現れたのはサトルである。早速、先代の師博に代わって教鞭を取るが、教科書を使った授業は余り上手くないことが直ぐバレてしまう。実技指導に移るが、生徒達の要請に負け、一緒になって体技を演ずる所で幕。
満足度★★★★
良く練られたシナリオ
ヒトはマトリョウシュカのように入れ子構造になっている。そんな哲学を持つ怪盗キースは、神田川専任警部が追う謎だ。(追記2014.1.2)
ネタバレBOX
必ず犯行予告を出すのだが、狙う物が何なのか、皆目見当がつかない。被害者にとって一番大切な物を盗むという特徴があり、決して殺しなどの手荒な真似はしない。いささかダンディーな怪盗である。被害者も大人とは限らない。女の子のキャンディーをごっそり盗んだこともある。ところで、今回狙われたのは、資産家の石倉 金蔵。彼の持つ高価な宝石がターゲットと一応考えられるのだが、確実にそうだとは言い切れない。何せ犯行予告をして来たのはキースなのである。
一方、編集者の御手洗は校正に追われて徹夜態勢だが疲れて居眠りをしている。が終電を逃したという同じ社の山田に起こされる。彼女はタクシーで帰宅するつもりだったのだが、経費で落ちない、と言われ社に泊まることにする。徒然に御手洗と尻取をしたり、去年御手洗が嵌っていた怪盗キースに思いを致したりして夜を明かすが、舞台そのものが、この編集部の演じられる場面を外側としその内側に犯罪現場が設定してある。それも単に、犯罪エリアを示す床に画かれた境界線によって。2次元で示されたこの境界は、役者陣の演技によって見事に演じ分けられ3次元として機能するのだが、この辺り、実に上手い。というのも物語自体、入れ子細工になっているからである。
犯罪現場に登場する人物は4人。石倉 金蔵と息子の琢己、宝石のガードをしている黒澤、そして神田川警部である。警部はキースは必ず来ると確信しており、既に4人のうちの誰かに化けて忍び込んでいると考えた為、4人全員が現場で夜を明かすことを提案するが、手洗いなどのこともあり、2人ずつが必ず現場に残るという形でシフトは息子が組んだ。
だが、犯罪は実行された。大切な物は盗まれたのである。それも、各々が仮面をつけて生活を送りながらも密かに、人によっては自分がそうと気付きもせずに大切にしていたものが盗まれていた。更に、最後のドンデンでは、盗品は、犯罪場面を描いていた舞台にではなく、編集部に置かれている。入れ子構造そのままに。
満足度★★★★
100年後
100年後、とある家族に起こった不思議な告別式。永久保存が可能になったと原理的には考えられる体組織と最先端技術を組み合わせて、新たな亜世界をヒトは構築した。(追記2014.1.3)注:終わり方は自分の拝見した他に2通りあるそうだから、都合3通りの終わり方があるということになる。
ネタバレBOX
すずと健が話している。所は、戯想博物館。すずは健の娘だが、父の事を何でも知りたいと話をせがんでいるのだ。母とのなれそめや学生時代のことなどを。実は、ここで告別式が行われているのである。死後18時間以内の脳を取り出して、電子機器と繋ぎ、電荷を掛けて脳の見た夢や記憶を再生したり新たな記憶を書き込んだりできる装置の試作機が、この博物館にはあるからだ。技術的には、以上述べたようなことが理論的に可能なのだが、倫理的には様々な問題があるとして研究は封印され試作機だけが、この博物館に引き取られていたのである。最近、この博物館には幽霊が出るという話もあった。幽霊の件については、健の勤める会社の社長が、周りには隠していたものの病に掛かり自分の寿命を覚悟していたのだろう。亡くなる前に、この機械を使って亡くなった御主人に会いたい、と御主人の保存された脳を持ち込み機械を操作してバーチャル逢瀬を実行していた為であった。今、それを館長がやっている。誰の為に? 健の為だ。健と彼の大切な人々の為だ。健は昨日、不慮の事故にあって亡くなっていた。そのままでは、親しい誰にも会えずに彼は亡くなる他なかった。そこで、館長は健の勤めていた会社の社長がやったのと同じ方法を用いて、健の脳に機器を繋ぎ、彼の家族や大切な人々に最後の別れを告げさせたのであった。悲しい話ではあるが、人々の思い遣りや、何気ない日常の大切さがしんみり埋め込まれて心に残る作品になっている。
満足度★★★★
ジタン
シナリオ、歌、踊り、振付、曲、編曲など何れも高いレベルで、キャスティング、演出、演技も良いのだが、ジプシーの踊りに関してだけは、やはり、これだけ、高いレベルのグループでも踊り切れないのか、と改めて感じる。命を燃やす、野性的で危険な印象が無いのが、最大の理由で、品が良すぎるのである。この点は、被差別民であるロマ族の真似はできない、と言われても致し方ないか。(追記2014.1.2)
楽日に体調を崩した方が居られた由。お大事に。
ネタバレBOX
ミュージカルの基本的なレベル、キャスティング、演技、歌、踊り、曲、アレンジ、振りつけのレベルは随分高い。シナリオもストーリー展開に無理、無駄な部分が殆どなく(観客サービスはあるが)終盤の幾重にも重なるドンデンも見事である。
ジプシーの踊りはフランスに住んでいた時に何度か見た。これは凄まじいまでの迫力とリズム感に彩られて、激しさの表現で言えば、「血は立ったまま眠っている云々」と書いた若い寺山 修司の焦燥の激しさに匹敵しようか。ステップを踏む度、生と死を跨いでいるかと錯覚する程の迫力で観る者に迫る。浅黒い肌に黒い瞳、黒く長い髪が独自のリズムとスタッカートで挑むように踊るのだ。だからこそ、かけがえのない、一度見たら忘れられない強烈な印象を伴って迫ってくる。
満足度★★★★
カーニバルの本義
カルネ・ウァレの原初的な形態の持つ始原の人間の持つカオスを舞台化して見せた。その表象の形に衝撃的なシーンを含む、興味深い公演であった。(追記2014.1.1)
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先ずは祭壇のように設えられた舞台に先生と名付けられた者が目隠しをされ後ろ手に縛られた姿で導かれ、その内包を知る由もない女性徒達の前で己の哲学を述べた後、犠牲の羊よろしく寄って集って刺され死ぬ。ここで重要なことは死と哲学が接していることである。また、意味する所が未だ分からないにせよ生徒達は哲学の産まれてくる場所即ち死を臨む場所に居たことだ。彼女達の過ちは、見ていた者総てが殺戮に参加してしまったことだ。この間違いが後の総ての錯誤・錯乱に通じて行く。結果、異相の者を呼び込み終には、安定層に在った己の世界を混沌層に投げ込んでしまうのだ。以降、この混沌層が世界を呑む。その「形」は奇妙で各々は混沌の中に定規を置こうともがく。もがけばもがくほど深みに嵌ってゆく。丁度、蟻地獄に落ちた蟻そのものだ。そして深みに嵌れば嵌る程、彼女らは、定規によって自らをも他者をも縛ろうとするのである。そして自らの欠点より他者のアラの方がよく目につくものだ。状況は混沌そのものであるのに、状況を無視して各自が其々他人のアラを見付けることによって他者を否定してゆく。一方の極にあるのは無限の自己保存本能である。従って理屈は以下のようになる。自己保存本能によって生きようとする自分は正しく、他者には悪いことしか見ない。こうなれば後はもう狩る者だけが存在する。こうして人々は一人一人が他者を血祭りにあげる存在として機能してゆく、一切の状況を顧慮することもなく何故他者を狩るのかも問わず。
興味深いのは、世の中が乱れるとファシズムの温床になり、ファシズムが蔓延すると規制が強くなる。その規制によって人々は、理性の保ってきた安定や平和を自ら壊して、喜々として戦いに赴くという歴史的事実である。カルネ ウァレの原初の形が生まれたのは遥かな昔だが、ヒトに進歩はあったのだろうか? 人類等という総称を簡単に用い得るほど、人々は互いに手を繋いでいるのだろうか? このように問い掛けた時、この作品が持つ黝いユーモアが働きだす。
満足度★★★
劇としてはもう少し完成度を上げて臨んで欲しい
新撰組と尊攘派を歴史という舞台上で廻して見せることによって、現在、我々の暮らす場所、時をも考えさせる。情報の質と判断、政治と志との関係や、若者の恋なども、
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フェートン号事件以降もアジアの制海権を握っていたイギリスは、度々、日本近海を荒らしたため1825年異国船打ち払い令を幕府は出す。然し、彼我の軍事力には圧倒的な差があった為、1846年の黒船襲来以降、幕政内部でも強硬派と厭戦派が意見を戦わせることになった。1854年、元号は嘉永から安政に移り、幕府は、米、露、英と不平等条約を結ぶ。58年には、蘭も他の3国と共に、修好通商条約を結ぶが、国内は、未だ、欧米との武器の差を知らぬ者も多く、幕府の弱腰を批判的に捉え、雄藩であった薩摩、長州は、交戦して散々な目に遭う。幕府、雄藩、諸藩其々が、欧米の世界的な植民地支配に対して試行錯誤していたのである。何れにせよ、幕府だけで対抗できるものでもない。雄藩といえど一つの藩だけで対抗できるわけでもない。幕府、諸藩一体となって戦わなければ、話にもならないのは明らかであった。だが、それまで慣れ親しんで来た体制は捨て難い。そんな人々も居た。強固なリーダーシップをとって民族を統一するようなリーダーも居ない。憂うべきことには、長い鎖国の結果、必要な情報は、ごく限られた人々にしか伝わっておらず、而も、新旧の思想間に於ける自由な討論が為されるような社会では無かった。
そのことが災いしたのだろう。進歩派も旧主派も、高い志を持ちながら、政治イデオロギーの違いだけで殺し合うことになったのだ。それを越え得た人物は、勝海舟と西郷隆盛、吉田 松陰。可能性のあったのが、坂本龍馬ということだろうか。佐久間象山は、ちょっと年上でタイプが異なるが勝、松陰などの門下を抱えた面白い人物ではある。残念なことに、これら傑物も象山は攘夷派に、松陰は安政の大獄で殺されている。こんな時代背景の中で、矢張り、知的レベルに於いては劣る新撰組の面々が、良いように利用され捨てられた(近藤勇の最後を見よ!)今作では、池田屋に残って居た人物の中の大物、宮部 鼎蔵と近藤との切腹、介錯のシーンに知的レベルの差による人生選択の差が表されている。何れにせよ新撰組人気というのは、利用され捨てられた事にあり、庶民はその点に与し、ガス抜きされているのだろう。因みに宮部らの情報の質が高かった点は、宮部、真木 和泉、吉田 稔麿三人が酒を酌み交わすシーンでの襲撃時期の会話に端的に現れている。若い吉田が、即刻の襲撃を主張して認められないとみるや、宮部が真木に具体的な時期を問い糺す。真木もそれに具体的日程で答える。この辺り、革命的行動の成否を決定する最も重要な判断の一つだから、背景に語られる判断の根拠も含めて、持っている情報の正確さと適確な分析に資する理性が必要なのである。
安倍のようなアホウが、国家を私物化するのみならず、仕切っている以上、我ら、民衆は、まやかしのガス抜きや、嘘で固めた「イデオロギー」によって体制に利用され捨てられるのではなく、不服従という不良になって抗おうではないか
満足度★★★
one₋way
作家は老婆の不如意を描きたかったということなのだろうが、人々の多くが老いということの意味する所に気付いていないと感じているらしい。だが、それは、本当だろうか?
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少なくとも今作の作家は、高齢化社会に対応すべく気付いておいて欲しい、ということではあるようだ。であれば、それを効果的に表現する為の形式が演劇でなければならない必然性は、何処にあるのだろうか? 私見を述べるなら、ドラマツルギーに重きを置かない今作のような創りであれば、「演劇」より「は、寧ろ暗黒舞踏のような身体性そのものをその表出手段、表現と為すような形式の方が、ずっと有効だとは思う。
演劇として表現するのであれば、思いやセンチメンタリズムをベースにしたメッセージをではなく、ドラマツルギーをキチンと成立させるべきである。つまり劇の科白としての強度とダイアローグを構成する構造、その為の仕掛けをシナリオ内に持っていなければならない。無論、今、ここでその具体的在り様を指摘することはできるが、若い作家の内面迄、土足で踏み込むのは趣味ではない。若干抽象的ではあるが、これで、今作のレビューとする。
満足度★★★★★
何度も観たい作品
身近な者には秘して話すことが出来なかった体験を、ベンチに座った老女が、語り出す、という設定で、どこにでも居そうな普通のユダヤ人の生涯を一人芝居に仕立てた作品。その体験が、余りにも強烈な歴史的事象と重なる為、敢えて政治色を可能な限り控え、同時に、深刻な余り、身近に暮らす者達には明かすことが出来ないという意味で一人芝居にする必然を伺わせる、実に良く練られた作品
満足度★★★★★
芸術家たちの共同生活
アーティストの持つ揺蕩いを見事に具現化し得ている。
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個性の異なる様々なジャンルのアーティスト達個々人のテイストを、適確なキャスティングと多くのアテ書きで抽き出し、各々の立ち位置を丁寧且つ適切に、諸関係のあるべき場所に定めることによって、アーティストが、一般の人々から、気儘、自由、変わり者と評されるような揺らぎまでを表現し得た稀有な朗読劇。
シナリオの良さに加え、役者達のアーティストとしての質の高さ、これらを過不足なく自然な表現に仕立てた要を得た演出センスが光る。一方、始まりと終わりがあれば、物語は成立する、と信ずるの作家の創作フィールドは、良いことも悪いことも総てひっくるめて取り込ませ、煮詰らせて生きる力に変えて行こうとするたくましさに通じ、今作に、一種の爽快感を漂わせているのも印象的である。
満足度★★★★
我らは何処から来て何処へ行く のか?
命の池と名付けられた小さな池には、河童が棲むとの伝説があり、噂を聞いて、立ち寄る人々もある。
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中には、外国で綺麗で安全な水を供給する為、井戸を掘る作業に従事していて紛争に巻き込まれ息子を失くした母、20年前に、池の底から発見された娘の自殺への心に寄り添ってやることができなかった為に、娘は失踪したまま戻ってこないだけで何処かで生きているという幻影に取り込まれてしまった施設に暮らす母親、この国のタブーを暴いた為に、支配層から睨まれ、村八分にされた元売れっ子作家、女優を目指しこの道に足を踏み入れた頃、河童と遊んだという記憶を持つ女らが、何かを求めてやって来る。河童池だとか河童に因んだ名で呼ばれることの多くなったこの池の古名を“命の池”。
人々は、己の抱える存在の何たるかを訊ねる為に、或いは、意識の謎を明かしてしまわないようにやって来て、幻影に包まれる。
その様を、半分透過するような幕を用いて幻想的に観せると共に、登場人物の役割転移によって現実世界と幻影との歪みを表現した幻想的な舞台。鈴の音や背後に流れる生演奏が興趣を添える。