これは指南車に乗った者が南を目指した為と言われている。NとS、1本の指針に過ぎない物が、洋の東西・歴史の中で相反するベクトルを基準にしたことが面白いではないか。 ところで、父なる者即ち神と解するならば、今作は一挙に宗教的深みを増すが、実際にはどんな宗教も本気には信じていない圧倒的人数の日本人には、この発想自体あるまい。まあ、宗教的解釈などしなくても大きな旅行鞄に包まるようにして移動するケセランバサランの一人ぼっちの述懐「夜は真っ暗、何処迄行っても真っ暗な夜、月がずっとついてくる。目を閉じると青、紫や赤が目の裏に浮かぶ」から死の観念に至る瞑想の後、蛍が一匹虚空に飛跡を残すと、それを追うかのように無数に舞う蛍の群れを映し出した後、またもや1匹が最後に舞って宇宙の闇に消えてゆく儚さ・深さは、何とも形容のしようが無い。我らはこういう状態を寂謬と名付けた。 これら詩的イマージュとデリカシーを弁えた用い方、観客を巻き込み聖化する呪力、顔にギザギザの傷口を描いた化粧の向こうに在る何という優しさ。同時にまど みちおの“やぎさんゆうびん”を織り込むことによって、最後の場所に着いた時に、既に手紙は食べられてしまった後で、山羊さんは、読んでもいないから内容も伝えようがない。だが、ここで山羊は慌てず騒がずこう述べる。「もう手紙が無くたって君には行く所が分かると思う」 と。 ケセランバサランのあとは、to R Mansionだ。男2人、女2人のグループだが、今回は、女優というコンセプトを中心にショートストーリーを連ねた。ケセランバサランの演目が詩的に構築されているのに対して、to R mansionは、物語というわけだ。言う迄もなくマイム系のグループが演ずるのに向くのは、詩的作品だから、物語という語り、或いは語りのリズムと神話的世界に開かれた世界観を中心とする所迄のオーダーで切り取られてしまうと、現実の意識層も侵入してきてどうしても弱くなる。代わりと言っては何だがアカデミー賞がその代替物として用いられているものの、世界中に在る創世神話や火の発見・利用、男と女、ヒトと自然などを含む壮大な世界には、到底及ばないし、言語過多でもある。そのことが、マイムの無言による飛翔を妨げて仕舞ったと言えないだろうか?