実演鑑賞
満足度★★★★
B班を拝見、華4つ☆
ネタバレBOX
舞台美術はかなり手の込んだもので、通常の出捌けだけで6か所、様々な場所に高低差のある踊り場が設けられ劇の展開をサポートしている。物語自体は若い男女の純愛物といえようがヒロイン、波依音(はいね)の故郷にある“青い池”に纏わる伝説と彼女の出生の秘密、彼女の恋する爽雨(そう)への恋と波衣音に矢張り恋する爽雨故に時空を超え青い池に幾度となく舞い戻って…
オープニングから中盤迄は、作家が若いのだろう、爽雨に恋する波衣音以外の乙女たちの恋心を現代日本のちゃらついた口語表現で台詞化している為、自分のような爺世代にはやはり空疎な表現にしか聞こえなかったが、まあ、若い人たちの未来を妄信したがる(と言うより現代日本の現実を直視したら耐えられないから回避している)表現と言った方が正しかろう。
爽雨に起こった事態は、最初今作の説明を読んだ時にはニーチェの「永劫回帰」に似た体験かと思ったがそれとは異なっていた。然し最初に回帰し、少なくとも2度目まではその違いにも原理的に気付けないからその余りに深い絶望にもっと落ち込むのが当然と思われるが脚本にそこまでは描き込まれていないことも確かである。但し冒頭部分で述べたように、だからこそ宿命としての純愛に迄密度を上げたともとれる。中盤から終盤、ラストへの展開はその純度の高さで観客を引っ張ってゆくだけの力を持っている。
物理的には特殊相対性理論即ちE=mc²で主張されたことをベースに考えればエネルギーと物質の関係は理解でき、以て今作の特殊な構造についても一定理論的解を得ることができるから興味のある方はこの等式にもチャレンジしてみたまえ。
ところで、ラストシーンに繋がる場面でも良い演出がある。お楽しみに。
実演鑑賞
白と黒の天板付き骨組み箱馬2体を縦に組み合わせ連結した道具を出演者1人が1個ずつ持つがオープニングで並べられているのは2体のみ。天板の色は一体の上が白ならば、隣のもう一体の方は黒、一体の上下は上が白なら下は黒。2体並べられた時は隣の一体は上が黒、下が白。こんな所にもオシャレなセンスが息づいているのは舞台の醍醐味だ。出捌けは上手奥の袖と下手ホリゾントに設えられた幕開口部の2カ所。基本的に素舞台。この条件から、内容は、役者陣の演技、演出の良さ、会話劇の仕上がりの良さに依存していることが分かる。華4つ☆
ネタバレBOX
物語は2パートに分かたれ、柔らか目な表現で進行してゆくが設定は可成り特殊である。神戸に在る遊園地の大型遊具・フリーフォールの類で事故が起こった。利用客は既に4時間地上50mでストップしてしまった遊具の支持機構に支えられた状態である。
一組の男女カップルが何か話している。無論、脚本の展開はおしゃべりしている場面から始まる。男の方は前向きであるが、女の方はやや別の何かに気を取られているような感じを受ける。暫くすると肩口に取り付けられた何等かの器具が意味する所がハッキリして来、上に述べた状況であることが観客に伝わる。実はこのカップル、瀬戸内に面する地域に住む男の実家へ行く途中なのである。ところが本来結婚に繋がるハズの男の実家初訪問は、真逆の結果に終わる。この経緯が暴かれる過程が、新たに登場する他の登場人物(同じフリーフォールに乗っていた客と遊園地従業員)との対話によって明らかになる。そこにはシリアスな破綻を揶揄するかの如き効果を発揮する笑いの種もふんだんに仕込まれているが、どこで笑うかは観客の知的位置や想像力の質に拠るのは無論のことだ。何れにせよタイトルに直接通じるのはカップルの結婚話が無に帰した3年後、振られた男の地元で起きて居た状況を描くシーンに継承されてゆく。この顛末がどうなったかについては上演中のことなので明らかにしないが、蟲師とは古来陰陽師などとも共同し蟲を用いた呪術等を担っていた。そして使われる蟲たちは、元人間だったと考えることができるような内容でもある。蟲にされる前に獲物とされた人間はダウンサイジングが施されるのだ。子供なら本当に怖がる恐怖を実際に感じられる。
実演鑑賞
満足度★★★★
楽日、チーム「葉」を拝見。キャロルの原作には、極めて多様なギャグが散りばめられその狂気を強烈に印象付けるが全く異なる文化を持ち、伝統を持つ日本では原作を読み想像力を自由にはためかすほど煌めいた印象は矢張り持てなかった。とはいえ台詞だけでは表し切れない部分を要を得たダンスでカヴァーし見事に内容を感得させる演出もあり、これはこれで見応えのある作りになっていた。(華4つ☆)
ネタバレBOX
マッドパーティーシーンが繰り返し出てくるのは、原作でも頗る有名なシーンであり、また“時間”こそが、今作の隠れたテーマであるからだろう。因みに時間と帽子屋の仲が、こじれたのは彼が別のティ-パーティーで調子っぱずれに歌を歌ったことが原因だった。英語の原文では調子っぱずれに歌うことを“murder the time”と言うから、これを聞いた時間が怒ってしまった訳だ。
原作でマッドパーティーに参加しているのは帽子屋、三月ウサギ、眠りネズミ(ヤマネ)の3者だが、帽子屋がこのパーティーに参加しているのは、往時帽子の素材・フェルトの加工に水銀を用いた為、水銀中毒症を起こした者が多かったのが人口に膾炙していた為。3月ウサギは、春先の交尾期を迎えた♂のウサギが狂ったようになる為、眠りネズミは夜行性だから、この時間帯は未だ寝ている。(この節のあれこれと上段の一部は、桑原茂夫著の「アリスのティーパーティー」という河出文庫の記述をベースにしている、面白い本だから、こちらもお勧め。但し絶版になっていた時、文庫本だが1万円以上していた)因みに英国のティーパーティーの開催時刻は18時頃(この時間帯だと眠りネズミの体内時計も微妙な気がするが)で基本的には家族が集まっての食事会だが、時に友人・知人が参加してのパーティーとなることもある。何れにせよ、時間とうまくいっていない帽子屋たちが主催しているパーティー、時間という極め付けの謎の1つを滑り込ませるにはうってつけのシチュエイションであると同時に、生きとし生けるもの総てにとって関わり、現在もその正体がハッキリせぬ謎を、生と死双方について思いを馳せるヒトという生き物である我々が納得できる解の1つとして今作はキチンと提示してみせた。この点は見事である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
Stay ver.を拝見。短編作品のオムニバス。もう一つのヴァージョン、Rest ver.を含めHotel MiracleのTheater Miracleでの最終公演となる。拝見したStay ver.の演目は以下の通り。途中5分の休憩が入る。
「噛痕と飛べ」「THE WORLD IS YONCHAN’s」「スーパーアニマル」「愛(がない)と平和」「最後の奇蹟」(追記2023.6.17)
ネタバレBOX
何れの作品も脚本作家が異なり結構大人のお色気や手練れと初心、年配と若者(思春期を含む)等の取り合わせの妙もあって面白いが、自分は「最後の奇蹟」が最も気に入った。
登場人物は2人、中年の花火師とJKである。物語が展開するのはラブホで他の4作と変わらない。ところでこれだけ世の中が狂ってくると、まともな神経をしている人たちはもうとっくの昔に世の中に完全に嫌気がさし現在世の中を動かしている権力者や金持ちなど、所謂力のある者たちの施政や経済運営にはうんざりすることにすらすでにうんざりして、とっくに匙を投げてしまったように思われる。そしてそのように匙を投げる他なかった自分たちの無力と現実的効果は持たなかった幾つかの提案にも絶望し本当に魂の深い所では、人間の創り出してしまった地球環境の破壊に善処し得なかったのみならず、今作に描かれた結果を招いたヒトという地球上の食物連鎖最上位者の一員最後の務めとしてせめてその害を齎した我々自身と共に総てを無に帰することを希っていることまでは誤魔化すまいと脱出船搭乗を拒み為政者たちが更地にするこの地球に他の生きとし生けるものたちへの歪んだ愛情と自らの非力を罰する為に居残った。そんな2人が交わす最後の会話は、ヒトが死ぬ前に走馬灯のように見るという全人生のパノラマにも似て、今作で描かれた他の総ての作品の中で2人が各作品各々の登場人物として出会ってきた思い出として展開するが、それはこの劇場シアターミラクルが今月限りで閉館することと重なっているのは無論偶然ではあるまい。様々な念や人生の一齣、一齣を形にして届けてくれたこの劇場への劇場方、観客方双方の様々な想いも交錯している。願わくはこんなに素敵なシアターミラクルを創り長きに亘って運営してきた総てのスタッフが更に大きな箱に移って、また観客である我々に新たな観劇の機会を与えて下さることを願っている。長い間、素敵な時間を本当にありがとうございました。
実演鑑賞
満足度★★★★★
月組を拝見。梅雨の真っ最中に雨に纏わる話の上演だが、今作には他にも洒落が幾つか入っている。それは今作の物語が展開する屋敷の主の苗字であるが、他にもこの家主の家系とは反対の役割を演じていた旧家の苗字にも言えることで、ネタバレで少し苗字についても述べることにする。が、反対の役割を果たしていた旧家の苗字に関しては予想して楽しんでも貰いたい。(追記6.18、楽日だから自分の解釈を述べた)
ネタバレBOX
オープニングでは、激しい風雨と雷の中を女が一人。傘は風に煽られおちょこになったり吹き飛ばされそうになったり。遂には差すことを諦めざるを得ない。と、山中に一軒の家を発見。女は助けを求める。激しい風雨と雷鳴もあって家主は中々現れないが、この間、嵐に揉まれる避難者の様子や、傘の幾重にも亘る変形、激しい雷雨と強風の有様を板上に描かれた文様と照明、音響で見事に表現している。無論、シーンが変わればこの板上の文様は室内のカーペットとして機能し、そのどちらにも極めて自然に溶け込んでそのように見える文様を用いている点にも演出の優れた美意識が見て取れる。
本筋に入っての展開は異常気象の影響なども少々挟みつつ、幸子としおりの対話を中心に展開するが、その話の中で、こんな嵐の中女独りで出掛けたしおりの事情を幸子が推理、幸子の推理は鋭くしおりの抱えている問題も明らかになり、今作の主題・雨に纏わる幸子と姉、福子の宿命が描かれてゆく。(ここにも姉妹の名で洒落が入っている)先に述べておいた幸子・福子姉妹の苗字を挙げておこう。エビフライ(表記は不明)である。某地方の旧家であるが農耕が産業の中心であった頃、日照りの際に雨乞いをして雨を降らせる家系の末裔なのである。反対に長雨などの際、好天を齎す家もありその家と共に両家は村人から尊ばれ“ひじり”と称されていたが漢字表記は“聖”ではなく“日知”と記す。何れにせよ村の旧家でそれぞれ大きな屋敷を構えていた。その家系に生まれた姉妹は巫女的なDNAを持っているということなのか、二人揃って所謂“雨女”である。殊にハレとケに関してはハレの時に限って雨を降らせやすい。子供の時からそんな宿命を背負った姉妹は皆が楽しみにしている運動会や祭り、ハイキングや修学旅行等々に必ず雨を降らせてしまう。そんなこともあり鬱陶しがられるようになる。然も姉は子供の頃から教師志望、実際に小学校教諭となり担任も任されるようになっていたが、修学旅行のある上級生は受け持たず、運動会などイベントの際は休暇を取って子供たちの楽しみに水を差さないように配慮してきた。然し担当を外されてしまった。子供好きの姉にとっては大変なショックでその後も示唆されているが、幸子は幸子で幼馴染四人組の男の子、健一郎に憧れていて、思春期に矢張り四人組内の親友・カミーユに彼を取られてしまった。カミーユは、幸子に健一郎が好きだということを既に知らせてはいたので「裏切り」には当たるまいが幸子は落ち込み、直接健一郎に念を打ち明ける、然し結果は“雨女だからダメ”という拒否であった。この姉妹の雨女という宿命に対する態度は形としては可成り異なる。姉は気丈に明るく振舞おうと努力し続け一見アグレッシブで明るい優等生と映るが、一旦ことが起こると挫折しポキンと折れてしまうことを自覚しており、実際そのように行動する。が、妹の方は悔しさや宿命のどうしようもなさは面白くないもののその宿命と何とか折り合いを付けつつ一見ディフェンシブであるようにもパッシブであるようにも見える。その生き方が現実の齎す有難くはない宿命を現象学者のように観察し、どこか距離を置くことで生き延びるような靭さを秘めていると感じさせる。この姉妹の性格の差が、姉の背負った宿命が齎したと察せられる結末と妹のそれとを分け、その余韻が残っている状態でラストに繋がるのだが、しおりがホリゾントに掛かった黒幕を若干開けると、鈍色の外界が見える。このセンスの良さ! は格別である。
実演鑑賞
満足度★★★
タイトルに惹かれて観に行ったのだが
ネタバレBOX
三十歳が節目として意識されることは当然としても、これだけ寿命の延びた現代日本で三十台半ばで初老を意識するというのは実際の爺になった自分からみると奇妙な感じがする。それよりハイティーンから二十歳そこそこの若者が自らを老人と感じる感覚の方が遥かに自然である。というのも既に高卒以上が当たり前になった日本で、若者とは=老人であるのは必然だからである。独自体験や己自身の力で獲得した形質など無いに等しく唯DNAとありきたりの教育とで育成された「個々人」に真の意味で新たな、若者などの言葉が当て嵌まる訳がないからだ。恐らく今作の作家は思春期にこのような発想を持った経験も無いと思われる。
というのも、脚本は様々な要素を持つものの、芯になって他の要素をぐいぐい引っ張り観客を惹きつけて止まない力強さが無い為、締りがないからである。原因は、真に深い悩み方をしたことが無いからではないか? どこか、教科書的で毒も危険な雰囲気も無い。劇団名から推し量れるように妖怪が好きな作家なのであろう。実際に今作でも妖怪が登場するが、障害のある妖怪である。それで生まれてこの方、自己肯定することさえ難しかった。この話だけで一作書けるほど深刻な問題なのだが掘り下げが浅い。妖怪といえば水木しげる、というほど現在の日本に妖怪ブームを巻き起こした水木氏は第2次大戦中、生死の境を彷徨いご存じの通り、腕の一部を失くした。その彼が発表した「墓場の鬼太郎」の初期バージョンは、極めておどろおどろしい作品であった。本来妖怪が登場する世界とは、夜になればおどろおどろしい闇に覆われ足元すらおぼつかないような生活の中で、夜行の際、人々は風の音や、梟の鳴き声、獣の吐息や遠吠え等々に怯えつつ夜道を行き交う(できれば夜道は避けた、日の暮れぬうちに宿や家に帰りつくよう生活していた)他なかった。そしてその怯えこそが妖怪や幽霊を生む心理的要素だったわけだ。然し今作では照明がそのような使われ方をしていなかった点でも、不気味の齎す緊張感が低かった。この辺り、演出をキチンと考えるべきであろう。
また物語は、とある居酒屋に対立するやくざ同士が常連として来ているというシチュエイションになっているが、そんなことは普通あり得ない。そのシチュエイションで作るならもっと喜劇的に作劇する必要があろう。とはいえ、良い台詞も幾つかあった。赤組二代目組長の台詞に「やくざというのは、どこにも行き場の無い者たちの最後の居場所なんだ」という意味のことを言った台詞と同じ赤組三代目が「誰一人欠けちゃいけない」と言った台詞だ。
劇作家には、思いを劇化するにあたり、どんなタイプの劇にするのか(ex.悲劇、喜劇など)作品の展開する場所を良く考え、その場所ならば必然的に展開が自然に見えるような状況設定を心掛けて脚本化すると同時にメインストリームとサブストリームの適・不適、諸構成を更に磨いて貰いたい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
舞台セットはコの字を左に90度回転させ空き部分を広げたビニールシートで蔽いその上にピクニックで用いる飲料、食材、それにレコードプレーヤー迄が置かれた空間を囲むようにホリゾント側に道が、コの字の上下(カミシモ)に階段が設えられ、これらの手前客席側が板の端になった構造で、無論回転させたコの字の空洞部分は横長で長方形を為しており、今作の内容と極めて調和的な、よく考えられた舞台セットである。作品は2部構成になっており、パート1と、パート2の内容が可成り異質ということもあって、尚更この舞台美術の意味する所が実に効果的に作られていることに感心させられる。パート1と2の合間に10分の休憩を挟みトータル105分程と尺も申し分ない。台風の中、土砂降り、ずぶ濡れになって出掛けた甲斐があった。
ネタバレBOX
別役作品は、作品を観れば作者がすぐ分るほどその作品の特徴が顕著であるが、この特徴は作家が学生時代に権力と対峙していた経験から来ているように思われる。権力というものは、無論抽象的には機能しない。必ずその末端には実力を以て権力を行使する暴力装置が存在し、これらの暴力装置は例えば法という形を採った抽象を具体的な犯罪なり、罪なり、刑なりを構築し、その実態と化してゆく為に働く。(言っておくが、被験者は政治犯のみを意味している訳ではない。広義に解釈すれば、あらゆる犯罪は、反権力的である)即ち軍や警察機構がこの任に当たる訳だ。必然的にその対象は、国家権力等の公権力に抗った者たちということになり、この罪等を構築する主体はあくまで軍・警察など公権力の末端側である。当然、対象とされる者たちとの間には、構成要件やその根拠を為すモノ・コト等を巡る丁々発止の遣り取りが存在する。そして、このような背景が示唆するもの・ことは極めて気味の悪い、時にグロテスクでさえある、人間存在そのものに対する侵害、暴虐、圧制、支配のオンパレードだ。確かに体制によって完全に馴致されるに至った者たちにとっては普段一切感じることもないグロテスクではあろう。然しながら本質に於いての反逆者たちにとっては日常茶飯の感覚なのであり、それがベースとなって作品化されていることによって日本を代表する不条理演劇の作家という評価が別役氏に与えられ作品に冠せられることになったのではないか? 筆者はそのように思っている。
ところで、この「国」の政治及び上位裁判所裁判官らの多くが日常的に犯す犯罪的詭弁は、今作で終始曖昧で主体を誤魔化す話法によって自己正当化を図る倫理的退廃者たちのディスクールそっくりである。この事実の意味することこそ、今作のタイトルに凝縮された“壊れた風景”即ち壊れた健常な精神そのものだ。そう感じるのは筆者のみでないことを祈る。
実演鑑賞
満足度★★★★
タイトルにイタリア語がつかわれていることから察しがつくように、プッチーニ等の曲が使われる等選曲のセンスがグー。時代設定はバブル崩壊後、“リーマンショック”を経て日本に淀んだ空気と、何の未来も感じることができなくなった閉塞期に高校2年になった少年、少女たちの話である。若者たちが育った時代は、自殺者毎年3万人超え、中でもポスドクの自殺率は異常に高く確か当時平均の十数倍に上った。タイトルと物語のギャップに注目して観るべきだろう。追記後送
実演鑑賞
満足度★★★★★
前回のモテギモテオは下北上演ということもあって、どこかサーフィンのような軽やかさを感じさせる若者向けの笑いが本当に世の中を席巻してゆくような爆発的な面白さが連続の舞台であったが、今回大人の街、赤坂となると笑いも擽りも当然仕込まれてはいるものの、もっと大人っぽい。丁度映画「トータルリコール」が味わわせてくれたような恐ろしさ、と哲学的な思考にも繋がるような深さを見せてくれた。間に10分の休憩を挟み、2時間半を若干超える長編。無論、片時も目は離せない。様々な仕掛けもあるので、ここから先は観てのお楽しみ。追記は楽頃。
実演鑑賞
満足度★★★★
日本、この狂いに狂った社会の齎した破綻は、日々益々我らを苛むがその有様はことほど左様に単純ではない。
ネタバレBOX
いつもそうであるように、それらはやんわりと而も極めて陰険に真綿で首を絞めるような圧力や村八分的排除、執拗で陰険極まる虐め等々及び、他者性を自己認識の必須な根拠とし生存本能そのものに対する人間的批評性を取り入れることでアイデンティファイした自己の判断を前提とし人間の本質として人権を基礎に据えることを当たり前とする正常な民主主義社会を蝕んだ。結果、社会的責任も全うすべきであるとの理念をベースに思考されねばならない、社会的存在としての個人を内部崩壊させた。日本人を観察してみると、残念なことに本来自己省察が行われて当然の自己内に於ける他者性の不在乃至は無視・無効化が既に回復不可能な地点を通り越し自己増殖を始めて久しい、と主張してでもいるような馬鹿げた行為の横行の示唆するもの・ことは、枚挙に暇がないことに気付く。当たり前過ぎて指摘することすら恥ずかしさを覚えるような行為を為し而もSNSで自慢げに拡散する人間が、己の何たるかを知る為には本質的に他者を自らのアイデンティティー創成の直中に取り込み且つヴィヴィッドにその他者性と己の本能が命ずる自己保存性即ち自己肯定との間を行き来し格闘することが必須である。然しながら事大主義者が圧倒的多数を占める日本人社会に於いて現用最多の「民主的手法」として日々人々が採用する多数決という方法が、主流を占め続けている。多数決が常に正解を得る訳ではないことは、少し考えれば誰にでも分る話だ。にも拘らず事大主義者は不正解が明らかな場合に於いてさえマジョリティーの側に流れ易い。原因は、先に述べてきたようなことが原因で己の頭の中でキチンと思考するというだけのことが最早機能していないからである。結果マジョリティー側に依拠することになる。自己保存本能を肥大させ過ぎず、正常な社会参加が行えるように社会的動物としての理性を働かすことができるような条件を作り出す己の内なる他者を無視・排除してしまった必然的結果である。個々人のこのような傾向が、事大主義者の集団に根拠を与えているかの如く錯覚させ、人間という社会的存在から烏合の衆へと自ら進んで逸脱してしまう。今やそれを再び正常化する術も失った。その結果現在のような人倫の基盤そのものの崩壊を招いていると考えられる。
おまけに極めて能力が低く、そのコンプレックスからか、矢鱈「道徳」などと宣い、己の頭脳を用いて考え行動するということのできなかった元首相は、民衆から自主性を奪い、発想の自由を簒奪し教育を改悪し続け現在の崩壊日本を創出するに功あった。A元首相である。罪は彼だけにあるのではない。彼を支えたJ党、人事権を握られていたとはいえ、唯々諾々と国民を裏切り続けた(続けている)公僕の群れ(殊にキャリア官僚)の罪は重い。当然、御用学者も同様の罪を負う。Aノミクス推進のH・K氏は散々トリクルダウンの効用を説いたが、百歩引いてあの時点での日本産業構造を概観してみればトリクルダウンを起こすことができるような、産業構造そのものを変革し先端技術を更に伸ばし発展し得る企業が日本の何処にあったのか? を観てみれば明らかであった。(在ったにしてもその可能性を潰すような施策ばかりを実行して結果的に潰した)それが起こせるような優秀な人材の多くが当の昔に日本を見限って海外で活躍する道を開いていたからという事情もある。頭のネジがどうにかしているのではないか? との疑義を抱かざるを得ぬ御仁が唱道したのがAべのみくすであった訳だが多くの日本人はこの馬鹿げた路線を信じた(少なくともその振りをした)。失敗して当然である。
こんな具合に本来なら社会の中核を担わねばならぬ「日本型エリート」集団そのものが完全に瓦解に手を貸し見本となって世の中をミスリードしてきたのみならず、その責任は一切負わず、相変わらず偉そうにふんぞり返り、真摯に考え訴えて認められなかった無辜の庶民の真摯な意見は無視するのが当たり前。選挙の時だけ、恰も何事かを真剣に考えているかの如き茶番を繰り返す。現首相が首相になる前の選挙ポスターには本人の大きな顔写真にキャッチコピーが書かれていたが、その文言は何と“決断と実行”であった。アメリカに地位協定で植民地化されているのみならず、秋に出される要望書(日米規制改革および競争政策イニシアティブ)に隷従するのが基本という国政に、決断などという大それた決意が在ろう筈も無い。国民を舐めるにもほどがあると思っていたが、案の定である。アリバイ作りしかできないことが日々益々あからさまになっていることに内心忸怩たる思いの方々も存在する筈だ。が、日々の生活に追われ、疲れ切った多くの日本人は自分が今作を拝見して分析するようなこともすまい否疲れ切ってできまい。
今作が描いているのは、このような日本の現実によって絶望に追い込まれ、居直ることしかできなくなった庶民のアカラサマな姿であろう。役者陣の熱演は評価するが、登場人物の内、1人か2人は、小生の指摘したような健全な人間の形成される条件そのものが破壊されているという地平から、ここで描かれているような表層の社会現象を見、内部で葛藤していることが滲み出るような演技をしてくれていたら、とは思った。
実演鑑賞
満足度★★★★★
大人向けエンタメの秀作! 面白い。べし観る。
ネタバレBOX
芹沢鴨の描き方は、通常の新撰組ものでは碌でもない人物として描かれることが多いが、今作では往時(1863)の世界情勢、殊に欧米諸列強の政策の本質を弁え行動する政治的知性と剣術に長けた人物として描かれている点が興味深い。また、今作の設定が竜馬と土方が兄弟であったという、非歴史的解釈が不自然に映らぬよう人間の行動原理の本質的一部を為すトラウマを竜馬の行動原理として描いている点で戯曲家の眼目の鋭さが窺える。
背景にあった世界情勢判断と日本の近代化を巡る動乱の世をどの方向にどのように導くか? を巡って壬生浪士組の2人の局長、芹沢鴨、近藤勇が浪士組勢力を二分していたが、格上であったのは同じ浪人であっても水戸藩出身の鴨。一方の近藤は元々農民出身ということもあってか、宴席で披露したとされる彼の芸(げんこつを口に入れる)を繰り返す、腕は立つが“みむめも” (間の抜けた)存在として描き出している。だが現実は鴨が捉えていた通り、勤王か佐幕かで割れる勢力の隙を突かれては唯でさえ列強に後れをとる日本は植民地にされる他なかった。その日本の近代化を巡って長州と薩摩が、物語の3年後の1866年に竜馬を仲立ちに薩長同盟が結んだことは、日本近代史の常識。今作の面白さは、その3年前に壬生浪士組が新撰組と名を改めるに至った背景にあった謀略を練ったのは桂と推察されることを示唆しつつ、桂が送り込んだと思われる長州側密偵と鴨の繋がり、鴨と竜馬、竜馬と新撰組との関係を上手に絡ませながら恰も運命の糸が竜馬の負ったトラウマの恨みを弟の土方歳三に負わせ解消するように働く筋書きに巧みにすり替え、熱い熱を伴った人間物語に仕上げた点にある。役者陣の演技・演出も良い。大人向けエンターテインメントの秀作である。
実演鑑賞
満足度★★★
ヒロイン・ソラは、
ネタバレBOX
宇宙の涯へ行ってみたいという漠然とした想念を抱えている女子高生だが、それを具体化する為に何か宇宙に関する情報を得るとか、宇宙の生成や構造、そこで働く様々な力、そしてそれらを理解し具体化してきた研究の基礎となっている物理的諸理論等は一切知らないという設定になっており、ソラ同様宇宙の涯へ行くことを夢見る転校生で優秀なあかりも、卒なく諸疑問に応答するも一切具体的な科学的理論は開陳しないという書き方をすることによって、ひとまず演劇的破綻を回避すると共に、作品としての具体的リアリティーを成立させることができない。一見したたかな戯曲作成法だが、勉強不足が明らかである。
面白いのは発想で、惑星をゲットしその惑星に住んで宇宙航行をしようという、重力も航行に必要なエネルギーや航法も無視した子供っぽい着想である。同時にその惑星ゲットは缶コーヒーに付いている応募券を集めて応募し当選すれば惑星が貰えるという奇天烈なモノ。とは言え学校生活に於ける締め付けや有象無象の反駁を恐れる余り押し付けられる諸規制の耐え難さから逃れたいという強烈な欲求が見て取れ、その辺りの耐え難さや理不尽、バカバカしさを日々経験させられている我々日本人には納得のいく背景がある。自分の高校時代のように激動がスパークに結びつき大切な友人が自殺するようなことが多発し、自分たち自身も数々の運動に関わって傷ついたり大怪我を負ったりしつつも何か生きているヴィヴィッドな実感とニヒリズムや、自ら抱え込んでいた二律背反と格闘する時代ではなく、時代の革新的な変革とそれが社会や人間そのもの、環境に与えるものを情報の捉え方や節理を考えもしない人々は正確に捉えにくくなり、己の主体自体が雲散霧消してゆくかの如き時代にあって、厳密で正確な認識を目指すこと自体が困難なのであろうことは容易に想像できる。そういった世相感覚は可成り反映しているとは観た。一方、惑星に乗って宇宙の涯を目指す住人たちは、世代を重ねて航行してゆくのだが、男性は殆ど居ない。当然遺伝的な問題が出来する筈なのだが。まあ、IPS細胞を用いてコピーを作るなど観客の知識に頼って丸投げしていることは予想されるものの作品としての自立性は弱い。演劇という表現手法が、登場人物に代表される多くの人々を代替するのは常識であることは承知しているが、今作の設定では代替されるべき諸個人と実際に登場している人物たちが必然的に繋がる要素が一切ないから以下のようなことも書きたくなる。一般に絶滅を危惧される生物が遺伝的悪影響を被ることなく後代に生き残る為に最低必要とされる個体数は80であるから、こういった点の問題性に一切触れていない点も余りに非科学的でリアリティーに欠け観客に納得感を持たせることが出来ない原因となっている。
実演鑑賞
満足度★★★★★
原作はつかこうへい、今作の脚本・演出は劇団四分ノ三の清水みき枝さん。部長刑事役に鈴木克彦氏、婦人警官役に谷菜々恵さん、速水刑事役に山城直人氏そして容疑者・大山役に斉名高志氏の4名。ご存知の方もいらっしゃるであろうが社会人劇団ThreeQuarterは2024年12月を以て解散が決まっている。今回の公演はカウントダウン公演の4。
ネタバレBOX
スリクオの後継組織となるのは四分乃参企画、本拠地は長野県の小諸に移るが演劇活動は続ける。
げに儚きは、何ら命の痕跡すら残さず移ろい流れ、常住するものなど何一つ無く変わり果てその痕跡すら残さず流れ去る、我ら生きとし生けるもの総てがこの条理から逃れること能わぬ。何より其の理を知りその意味する所を問わざるを得ぬ、ヒトという我らの存在と思惟。唯受け身でいる限りその耐え難い重圧に圧し潰されそうになる我らヒトに許された数少ない救いが芸術である。
言うまでも無くつかこうへいの作品は舞台化することはできるが、成功させることは極めて難しい作品群である。つか存命中に残されたフィルム等を観ると、台詞は機関銃の弾のような勢いで発出され、全体に漲るテンションの高さとエネルギーの発する熱量は半端なものではないのだ。当時、リアルタイムでつか作品を観ていた観客たちが熱狂したのも頷ける。
今回、清水さんの台本では、劇団員の加齢やCovid-19に対する政治の理科学的音痴というよりハッキリ無定見・無能が余すところなく失策に繋がり、矛盾だらけの政策に反映してパンデミックそのものの脅威をより増幅させ、人々を精神的・社会的に疲弊させたこともありつか作品の本質である被差別者の生きる状況そのものへの言及・表現と登場する4名個々の人物の持つ、被差別者が差別される自分を抱えながら人間として生きることを選んだ時のダンディズムが見事に対峙されることで作品に強い訴求力と深みを齎した。前半は、平凡な作りに見えるが、この陳腐に近いような定型表現が中・後半に際立って生きてくる。観客の生活者としての凡庸さに襲い掛かった、パンデミックと社会的不合理が負わせた深い不条理感に見事に呼応するような形を成したと言えよう。社会人劇団であるからこそ、解決不能な不条理に対する防波堤としての芸術の姿を描いてみせたと言えるのではないか。
実演鑑賞
満足度★★★
一所懸命に演じていることには好感を持ったが、華3つ☆
ネタバレBOX
「サザエさん」「ドラえもん」と並ぶTV界の長寿番組“原色★歌謡曲図鑑”は、独自のリサーチで歌手ランキングを発表、多くのスターを輩出してきたことで知られる。ベスト10入りした新人歌手は必ず局のサイン帳に自分の名前、記帳の日付、ランキング曲名を記すことが義務付けられ基本的にはスタジオで、無理な場合はスタッフが歌手の下に出向き生放送をするスタイルで放映されてきた。
今作で主人公となるのは、坂口シン。元浅草の寿司職人である。偶々、この寿司屋に入った作曲家・筒井太平(後、シンの恩師となる)は、シンの呼び込みの声を聴き、その声音に歌手としての才能を見出し「歌ってみないか」と声を掛けた。これがきっかけとなり、シンは作曲家・筒井のやっている音楽レーベルに所属し歌のレッスンに励んだ。結果“原色★歌謡曲図鑑”のトップ10にランキングされることとなった。初ランキングの日、シンは師と共にスタジオ入り、生放送が開始されたが、直後大地震に襲われた。大混乱の中、数々のスターがスタジオ入りする際に通って来たミラーゲートを逆走した。1987年のことであった。するとシンは時空を飛ぶことに。時空の狭間でシンは“原色★歌謡曲図鑑”を差配するロボットに出会った。ロボットの説明するところによると、シンが時空を彷徨うことになった原因は、地震の被害を避ける為、シンが咄嗟にミラーゲートを逆走したことが原因だという。というのも数々のスターがデビュー以来ランキングされる度に通って来たこのゲートは不思議な力を持ち、その力によって時空を歪めタイムスリップが起こったのだという。彼がロボットと出会った時空は何処へ行くか未だ定まらない時空の狭間である。丁度ギリシャ神話の中で冥界が生界と死界の狭間に想定されているようにこの発想は自然発生的で安定感を齎す想定である。同時に真のアーティスト達が目指すべき表現では独自性が求められるのであれば、その意味で今作は最初から本質的エンタメであることを免れない。タイムパラドクスの扱いも突っ込み所満載であるが、まあ許すとしよう。
さて、シンが飛んだ時空は36年後、場所は所属していた筒井の事務所であった。恩師は3年前に他界、現社長は恩師の娘・ルナ。世の中は完全に様変わりしていた。1987年当時には思いもよらなかったパーソナルコンピューターが世界を席巻したばかりではない。一般人にとってはSFの中にしか登場しなかったTV電話は、掌に収まるサイズになり誰もが持ち歩き日常の具と化しているばかりではなく、ITと称される技術の進歩によりメディア状況そのものが大きく変化していたのだ。このような状況の大変革は、業界の経営戦略にも大きな相違を齎していた。一方、父亡きあと新社長となったルナは、歌手は個々に時間と金を掛けて育ててゆくもの、との信念を持ち、大学で同期だった而も大手業界企業に内定が決まっていたのを蹴って筒井事務所に就職し販売促進部長を務める染谷の、数値が総てとの経営戦略とはことあるごとに対立していた。パンデミックの影響もあり、中小企業の倒産は掃いて捨てる程もある。社の存続の危機の中、対立ばかりで進展のなかったこの音楽レーベルの未来や如何に?
ところで、シンがロボットと別れた後、ロボットが無くなったと大騒ぎしていた物は一体何で、どんなことが起こると予想してロボットが慌てていたか? が観劇の楽しみとなろう。また、趣味で作曲しているコウのその後は? 太平が、社に関わる個々のスタッフに訓示していたことと、激変する状況との関わりは? などに注目して観ると良い。
実演鑑賞
満足度★★★★★
初日を拝見。旗揚げにしてこの完成度。観るべし! さて、今公演も14日マチネで楽であるから、物語のキーワードを1つだけ挙げておく。以下追記
三月桜亡きあと、新入りが1人入った。新入りは他の11人とは異なり、無戸籍ではない。
あと1つとても大切な点があるが、それが何であるかは観てのお楽しみ。観て何であるかをご自分で考えてみて欲しい。自分は14日、研究会があるので研究会終了後の14日夜遅くかその翌日頃種明かしをするつもりである。
ネタバレBOX
岸田 理生作1984年初演の今作、時代設定は1939年、所は、表(昼)は「女工哀史」に代表される製糸工場の世界、裏(夜)は吉原などに代表される娼婦の世界に変貌する糸屋。この2つの世界を綯交ぜた世界が失った記憶を徐々に取り戻すヒロイン・繭を通して描かれる。岸田理生の描く世界は今流に言えばジェンダーギャップということになるかも知れぬ。今作はその中でも殊に男社会で生きる女の被差別状況を、最も彼女らしい言葉の魔術と土俗的で猥雑で暴力的とすら言える言の葉と演劇という表現形態で象徴的に示した作品ということができよう。劇団の旗揚げに相応しい極めて内容の濃い、文学として最も本質的な問題提起という使命を果たし続けている作品と言える。台詞は原作に忠実である。演出・舞台美術を篠本 賢一氏、演出助手に渡会 りえさん。登場する役者は18名。舞台美術のセンスが抜群である。観た瞬間、自分は江戸時代の歌舞伎小屋がベースになっているのではないか? と感じた。というのも篠本氏は能を長くやってきた人物であり、歌舞伎にも詳しいことを知っているからでもある。全体の構造が、能の橋掛かりや歌舞伎の花道のような印象を与える大きな掘り炬燵の四囲を囲むかのように設えられた構造に囲まれているばかりではなく、その手前観客席側には明らかに桟敷席を思わせる構造が拵えてあったからである。大きな掘り炬燵のような一段低いエリアは、女工や娼婦たちの抱える地獄を象徴し一段高い地獄を囲む周囲は、地獄を世間と永久に隔てる壁を象徴しているのは無論であろう。而も世間とこの地獄を繋ぐのは、四囲を囲む構造の随所に天井から下げられた紅い糸と風、個的レベルでは繭の持つ瘤だらけの結縄。「現実」とやらを重んじている振りをする世間の価値観からすれば取るに足りぬ象徴に過ぎない。然し、これら総てが男社会の中で生きる女性たちの苦悩を、差別の何たるかを伝え、男社会を前提とし延々と続くこの国の社会体制の中の母と娘の系譜をも炙り出してゆくとしたら? この象徴の意味する所は極めて大きく本質的だと言わねばなるまい。何となれば、生物学的に性差を持つ生き物の生物としてのプロトタイプは♀だからであり、つい最近発見された京大等も関わった国際的研究でジェンダーギャップの大きい社会程大脳皮質の厚みが女性で薄くなるという結果が出ている。興味深いのは、ジェンダーギャップの無い社会では女性の方が大脳皮質の厚みが大きくなるという報告も出ていることだ。自分個人の想像では、脳の個体差では女性の脳の方が男の脳より優秀であることに気付いた男達が、力では女性に勝る男の特性を用いて女性を支配する社会体制を築き、維持してきたのではないか? ということである。Covid-19に対する矛盾だらけの施策もこの国の政治が科学的・合理的な判断に従うことのできない愚か者が社会を仕切っていることの証左だということができよう。
ところで板上の小道具でとりわけ大きな意味を為すのが糸車であることは容易に納得できよう。ホリゾントやや上手の壁には満月型や四角に場面によって変わる赤い布が見え、四囲の壁を構成する一段高い構造は、繭の通る様々な意味を持つ(記憶を辿る、糸屋へ通じる、或いは系譜を辿るなど)道にもなる。また照明の加減で赤と闇が殆ど見分けのつかない状態になるシーンもある。これなどは所謂忍び(忍者)が新月の晩に用いた忍び装束が赤であったこととも符合する。(白・黒・グレイは明暗の度合いであるから新月の晩のように暗い夜は、明度の差で見分けがつき、隠れることが困難になる。それを避ける為、闇に溶け込む赤装束が用いられたのである)
役者陣の演技も旗揚げとしては上出来。スタニスラフスキー演劇が目指す最高レベルの演技、役者の身体から滲み出すようなレベル(そんなレベルの役者は、日本全体で手の指の数程も居ないのではないか)には、まだまだ時間と鍛錬も掛かるにせよ、褒めて良いレベルに達しているのは、日本の劇団の稽古日数としては極めて長い5か月に渡って稽古してきた結果であるのは明らかだ。今後も楽しみな劇団である。
実演鑑賞
満足度★★★★
作品は観て頂くとして、当時を生きていた者の1人としてネタバレでは時代背景を主に書いておいた。作品中、自分の最も気に入ったキャラは生物学大好き少女。
ネタバレBOX
時代設定は1969年、場所は日本、米軍基地が近くにある安アパート“福ちゃん荘”。住人、マリに吸い寄せられるように出入りする諸々おじさん、新管理人となった地方出身大学生、一応、マッポにマークされている医学部の学生活動家、近所のおばさんたち、在日米軍軍医中佐、警官等々が登場する、色々な意味で沸騰していた時代を描いた作品。
日本の大学生の多くが海外を流離い、どんどん世界から日本を見るようになっていた時代でもあり、ヒッピーやアングラ、ベトナム反戦運動、公害問題や学生運動の盛り上がりもあり東大の入試が行われなかった年でもあった。新宿にはフォークゲリラや休日ヒッピー等が至る所に見受けられLSDやマリファナ、サイケデリックな紋様を体中に化粧した若者も多く見られた。大江健三郎の「見るまえに跳べ」初版本出版から11年後、小田実「何でも見てやろう」初版から8年だった。フランスヌーベルバーグの影響を受けたATG作品の傑作も多々上映されていたし、天井桟敷の寺山修司、赤テントの唐十郎、黒テントの佐藤信らアングラ演劇も大変な人気を博していた。文化的にも新たな地平へ旅立つ気風が横溢していた時代であった。
今作では、ドクターと呼ばれる学生運動の活動家がチャラいキャラとして描かれているし、社会経験を積んでいない若者が既成の価値観と対峙するに当たってその体験不足を補完する為に理論に走るのは必然ではある。この若者の必然的な事情には頓着せず、実際に今作で描かれる形は、軽薄なプロパガンダの域を出ていない連中が居たにせよ、こんなにレベルの低い連中ばかりだった訳では無論ない。貧困を抱える地域や被差別民にキチンと寄り添い活動していた活動家も居たし、公害被害者の側に立って地道な支援を継続していた者たちも居た。また公安の行動・言動を予め予測しシナリオに書き上げた上でシナリオに書かれた行動を態と目につく形で実践、公安の出方が元々書かれたシナリオ通りだったことを発表して揶揄し頭脳戦で戦った者も居た。
中佐が米兵たちの抱えていたアンビヴァレンツを吐露するシーンは、確かに説得力がある。然しベトナム戦争で最終的に米兵の死者数は戦死・その他の死を含め58220名。それに対してベトナム人死者数は正確な数が分からない程国土も荒らされ民衆も虐殺されて実数は確定できていないが約300万人。ソンミ村虐殺事件も表に出た有名な事件というだけの話で他にも多くあったと想像されるというのが、当時多くの人々が感じていたことでもあろう。70年代初頭に明らかにされたトンキン湾事件の真相をみればアメリカが如何に汚い手を使ってベトナム戦争拡大を図ったかは明白である。また、今作でも言及されているダイオキシン汚染は、未だに悪影響が続いている。
付言しておくなら、公安は、スパイを大学に送り込んだり、未成年活動家に何人もの監視を付けて追い回したりを散々やっていたし、少なくとも米べったりの日本保守勢力が当時統一教会、国際勝共連合と歩調を合わせ組織的に左翼弾圧に走ることには目を瞑っていたことも疑われる。
実演鑑賞
満足度★★★★
「a・la・ALA・Live」は今年16周年。芝居・マジック・生演奏・腹話術等様々なジャンルのパフォーマンスが一堂に会し演じられるアラカルト寄席。華4つ☆
ネタバレBOX
板上はフラット。出演者は、独り芝居を荒山 昌子さん、笑太夢さん&キラリンさんがコンビを組む笑太夢マジックのパフォーマンスとマジック、吟遊詩人たちに用いられたという三日月の両端から音を増幅する為の管状部分と板部分の間に弦を張り底部に接地部を付けた小型の中世ハープを用いた生演奏を村上 栄子さん、“ゴローちゃん”と名付けられた人形を用いたしろたに まもるさんの腹話術。因みに“ゴローちゃん”の年齢設定は小学校1年生である。
独り芝居は、日本語の乱れについてゆけない中年を過ぎた独り暮らしのキャラクターを登場させることで各短編に繋がりを付け、現代日本の社会情勢を中年から初老を迎えた様々な女性たちの日常をジェンダーの視座から描くことでコミカルでありつつ、批評性のある作品に仕上げた。台詞の下敷きになっているのがシェイクスピア諸作品へのしっかりした理解と実践であることが分る作品群である。
笑太夢マジックはハンカチから鳩を出す、カードマジックなどの定番から大型のボックスの中にキラリンさんが入り其処に鋸状の金属板を差し込む手の込んだマジック。各々4つのフープを操り乍ら様々な形を作り動作を演じる大道芸を思わせる離れ業等を披露。何といっても様々な形を構成するに当たって各フープの接点の摩擦力を用いて形を維持、操る技術が凄い。
村上さんの中世ハープ演奏は、現代ハープに比べると随分素朴な音色の中世ハープではあるものの、もっと様々な技法が試せるのではないかとの印象を持った。まあ、音楽に関しては自分も若い頃からたくさんの一流・超一流の音楽家の生演奏を聴いてきたのでちょっと厳しすぎるかも知れないが。
しろたに まもるさんの腹話術は、適度なジョークと小国民世代等が殊に被害を被った戦前日本の露骨極まるプロパガンダや標語に表された社会に対する戯評が込められ、昔を知る世代の現代日本への懸念が現れたコント作品群として評価する。
実演鑑賞
満足度★★★★★
今作は劇団創立50周年記念公演の第二弾であり、寺山没後40年公演でもある。寺山20代後半の作品だが、彼の後”虚人”と評されることもあった独特の歪みやその底の無い虚を何とか人間の持つ能力で描こうと苦闘する様も見えてグー。
ネタバレBOX
今作は1962年に文学座アトリエで初演。戯曲は寺山修司が書いた。従って寺山27歳頃の作ということになる。演出は、演奏・美術も手掛ける浅井星太郎さん。舞台設定は北の地にある旅館の一室。正面中ほどにドア、その下手壁にはエゴン・シーレ風の絵画が飾られ上手壁には海の見える窓。旅館から海を渡ると人気のある島へ行くことができる。やって来たのは1人の若い男。既に5年、100か所以上の旅館を回って旅を続けている。目的は女性を探すことだ。然し目的を達するどころか、手掛かりさえ未だ見付けることができずにいた。
男がお上に案内されて入室し勧められるままにテーブルに着くと、テーブルには埃が溜まっている。余り使われていないのか? その理由は何なのかと疑問を持つもののお上は明確には答えずメイドを直ぐ呼び掃除をさせますと言いおいて部屋を出てしまった。入って来たメイドは、脚が悪い。おまけに客を揶揄うような所のある一風変わった女。客は、探している女の名を告げ、その特徴もお上にもメイドにも告げて宿帳にその名が無かったか、そのような特徴の女が来なかったかを訊ねたが手掛かりは掴めなかった。メイドも出て行った後、女たちの手が空かないからと男からの電話に応じ部屋へ用向きを尋ねに来たのは宿の主人であった。
ところで、男が電話を掛けたのは、メイドが掃除の合間に客の遺失物があることを教え、それらを取り出して見せた物の中に探している女の持ち物が入っていたからである。この手掛かりをもとに件の女を見付けることができるのではないかと考えた訳だ。主人と男は、あれやこれやの話をするが、男の語る話に深い事情を察した主人は、酒を持って来て肝胆を照らしつつ相手をする。宿の主人とお上、男と探している女の事情の位相差に今作の深刻なテーマが在る。その内実については観てのお楽しみだが、オープニングでお上が男を部屋に案内してきた時のファーストインプレッションは、カミユの「誤解」(原題Le Malentendu)をイメージした。旅館の主人とお上の関係は、般若心経の唱える所に近かろうが、男と探されている女の関係は、絶え間なく生成流転し変容してゆく宇宙の余りの巨きさの前で成す術もなく凍り付いている、我ら人間の誤魔化しようのない無意味だと言ったら言い過ぎだろうか?
実演鑑賞
満足度★★★★
舞チームを拝見。場転・換気休憩5分を挟み100分で4本を演じる。各作品趣もテーマも異なるが中々良い脚本である。華4つ☆追記後送
実演鑑賞
満足度★★★★
おおよその流れや今作の結末を予想する為のヒントはネタバレで書いたが、結論まで明かしてしまっては観る楽しみが失われよう。実際に観た場合、イマジネーションで結末迄の大筋は正確に予測でしるし楽しめる。
気になったのは、時間を短縮する為とコミカルな味を出す為ではあろうが、飲み物を飲む時の仕草や乾杯のシーンでキチンと間をおかず、ぞんざいな演技に見えるシーンがあることだ。華4つ☆
ネタバレBOX
物語冒頭は、ホリゾント2階部分に設けられた踊り場を小部屋に見立て、母が幼い子に御伽噺を聴かせるシーンから始める。内容はこうだ。太陽と月は昼も夜も交代で地球を照らし悪を監視している。彼らのお陰で悪者たちは普段地下に潜み悪さをすることは基本的にできない。太陽は一所懸命に働いていて問題は無いが、体の弱い月は身が細り遂には休む日も出てくる。そうなると悪者たちの出番だ。闇夜を利用して地上に表れ盛んに悪事を行う。
これに対抗する為、人間は悪を狩る殺し屋集団・ナンバーを創設した。組織は孤児たちの中から才能のある者を選び徹底的に鍛錬、殺し屋のノウハウを教え込んだ。そして月の無い夜多くの悪人を狩ってきたのである。組織の名はナンバー。構成員は個々独自のナンバーを持ちナンバーで呼ばれる。
ところで、物語は御伽噺から、実際ミッションを帯びたナンバーのメンバーの仕事に移って展開してゆく。この辺りの繋ぎ方が上手い。
主人公は、453。現ナンバー中、組織ナンバー1の実力を持つ。453に憧れる後輩803はナイフの使い方、戦略・戦術の立て方等が453に劣るものの、453が承けた新たなミッションは、敵陣に千日潜り込む中で実行され、任務遂行中は持ち場を離れることが許されない為、この約3年の間に453に代わる組織ナンバー1に成ることを目指す。
453の潜入先は、地方のドライブイン・播磨谷。そば、ラーメン、油揚げで地域起こしに成功しこれらのメニューの味が余りに素晴らしいことから今では遠方からの客も多い。そして453のミッションとはこの播磨谷のボスを始末すること、そして先に既に送り込まれ現在音信不通になっている2人のナンバーの捜索、可能であれば奪還であったが。